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「診察、ただし整備」

  *



「最短記録じゃないかしら?」

 鳴海遥が玄関先で言う。つい先ほどから激しく降り始めた雨に濡れそぼった傘をたたんで部屋の通路側窓にある格子に引っ掛ける。公共住宅に傘立てを置く余分なスペースは無い。今日の日付と先日のイタリアンバーでの一件を思い出し、確かに一週間ほどで彼女と顔を合わせるのは大学を卒業してから最短の間隔という事に気が付いた。

「申し訳ない。どうしても他にいい手が思いつかなくて、万事休していたところなんだ」

「四面楚歌ってことね。それにしても雨がひどいわ。廊下じゃ寒いし、早く中へ入れて」

 急かす彼女を玄関の中へ招き入れながら後ろ手に扉を閉め、狭い玄関で彼女を避けて廊下に立つ。清隆の差し出したタオルでトレンチコートの雨露を払うと、事もあろうに手に持っている革製の黒鞄とまとめて押し付けてきた。不機嫌なのだろうかとも思ったが、彼女の表情を見ると不機嫌というよりも戸惑っている様子だ。もちろん機嫌がいいわけではない。ここまで無理をしてきてくれたのだからまんざらでもないのだろうか、と秋津清隆は漠然と考えた。

 涼子の今の状態を電話で伝えたのが先日の夜。今日は仕事帰りに寄ると彼女から半ば強引に押し切られ、かくかくしかじかと涼子に説明をしているうちに一日が過ぎ、鳴海遥がやってくる時間となった。今は午後六時。研究室をかなり早く抜けてきたらしく、その顔には疲労の色が濃い。早出するためにどれだけ無理をしていたのだろうか。申し訳なく思ったが、どちらかといえばあんな場所に毎日こもっているほうに同情して欲しいとの彼女の言葉に何も言えなくなった。それで罪悪感が薄れるわけでもなかったが、彼女の不器用な気遣いに少し気持ちが軽くなる。ただ、もう一人前の女性なのだから体には気を付けてもらいたいのだがそんな事を口にした日にはとりかえしのつかないことになるのが目に見えていたので、何も言わずにコートを脱ぐ彼女を手伝った。

「ありがと。それで、彼女の様子はどう? 昨日から変化はある?」

「特には。いつも通りに過ごしているけど、どこか元気が無いのは変わりない。違和感が残るよ。前はあんなに静かな彼女じゃなかったのに」

「それは重症ね。やっぱり今日来てよかったわ。とにかく、彼女とお話しさせてもらえるかしら。あなたはお茶でも淹れて引っ込んでて」

 言うや否や、廊下をずんずん進んでリヴィングへ続くドアノブを回す。とにかく彼女の言う通りにした方がよさそうだ。鳴海遥は秋津清隆が台所に引っ込むのを見届けてから、ベランダで洗濯物を干している涼子の背中に声をかけた。

「こんにちわ。お邪魔してるわね、涼子」

 機械人形はゆっくりと振り返った。あまり仕草には違和感を感じないものの、鳴海遥を見て浮かべた微笑みのぎこちなさに違和感を覚える。機械人形が仕草で不調を示す時はよほど精神的にまいっている時だ。清隆は沈んだ気分で急須に茶葉を放り込みながら嘆く。いったいどこで歯車が狂ったというのだろう。こんな生活を望んでいたわけじゃないのに。

「ハルカ様、お久しぶりです。お出迎え出来ずに申し訳ありませんでした」

「気にしないで。今日はあなたのために来たのだし、無理をさせちゃ本末転倒でしょ。洗濯物はこのいい年こいたこのヤモメに任せるとして、ちょっとお話しできるかしら」

 涼子が問いかける様に彼を見る。台所で茶の蒸らしにはいった清隆は頷いた。まだ独身という点を突かれて傷付いた内心はおくびにも出さない。

「涼子、話した通り遥は機械心理学者だ。君が本調子に戻るためには彼女と話すのが一番だと思う。これはもう説明したよな」

「清隆、でも、私は――」

「だめだ」

 ぴしゃりと言えば、彼女の顔がくしゃりと歪む。引き裂かれる様な胸の疼きを何とか耐えつつ、そのまま湯呑を出す事を口実に彼女から顔を逸らす。

「洗濯物くらい自分でできるさ。気にすることは無い。人間だって風邪をひくよ、人形が調子が悪くておかしくもない。それに、いい方向へ進むことは目に見えているんだ。断る理由なんてないじゃないか」

 無茶苦茶な理屈にしばし黙考した末、涼子は不承不承に頷いた。既にこの家を訪れたことのある鳴海遥は彼女の手を取って、涼子の分にとってある部屋へと消えていく。その去り際の横顔が少し険しいものに変わっていたことに気づき、秋津清隆は所在ない気分のまま鬱々と三人分の茶が蒸れるのをぼんやりと待った。



  *



 涼子がドアを閉める。秋津清隆には悪いが、鍵を閉めさせてもらうことにした。最初にこの家へとお邪魔した時にも驚愕したが、彼は機械人形に個室を与えて鍵まで備え付けさせている。ベッドまであるところを見るとあちらも重症か。本来は人形ではなく人間に対する治療を優先させるのだが、今回のケースは少し特殊であるため彼自身のことは後回しでいいだろう。それに、顔を見知った誰かがいなくなるのはたとえ機械人形でも寂しいものがある。あらゆる意味で、今は彼女を優先しなければならない状況だった。

 知らず知らずのうちにため息をついてしまう。なんてお荷物を抱え込んでしまったのだろうか。これは貸しだわ、と鳴海遥は胸中で呟く。少し暗くなってきた先行きに挫けそうになるものの、事態の深刻さに見て見ぬふりもできない。彼は鳴海遥の目から見ても、およそ常識では考えられない感情を涼子に抱いている。彼女が廃棄されれば秋津清隆は自殺するかもしれないとも考えると、いてもたってもいられなかった。

「とにかく座ってちょうだい。立ったままじゃ落ち着かないわ」

 まるでこの部屋の主が自分であるかのように振る舞う鳴海遥に抵抗することは無く、涼子はたおやかな仕草で自分のベッドに腰掛けた。なおかつ部屋の中にあるただひとつの丸椅子を差し出してくるあたり、彼女の性格が滲み出ている。黄緑色のロングスカートに白く染め抜かれたシャツしか着用していないはずなのに、膨らんだ乳房、流れるような人工毛髪、そして魅力的なことこの上ない魔的な瞳。地味な服装であるにもかかわらず高潔なその姿が機械人形の特徴なのだと思い出さなければ、鳴海遥といえどいつまでも彼女の姿に見入ってしまったに違いなかった。

 さて。気合を入れて丸椅子へと腰掛けると、鳴海遥は腕を組む。これから慣れないことをしなくてはならない。既に起動している機械人形を相手に診断を下さなければならないのだ。通常は一種のスリープ状態にして機械人形を眠らせた状態で作業を行うのだが、今回ばかりはそうもいかない。何しろここはありふれたマンションの一室だ。そんな、企業が大金を払って揃えるメンテナンス機器はない。常に意識が覚醒している彼女の中身を目を塞がれた状態で手探りのまま突き進まねばならないのだ。ガラスより繊細な精神、手を滑らせただけで粉々に砕け散りうる。細心の注意を払わなければならない。

 肩にかけていた大きな黒いショルダーバッグを床に下ろす。中から薄型のラップトップを取り出すと、起動させてからニューロケーブルを引っ張り出す。研究室で使っているものだが、持ち出しは許可されているから心配ない。自分で買うよりも手早く手に入る大学の備品の中でこの一台が最も高品質だった。精度は高めるに越したことはない、何しろ前代未聞の離れ業をやってのけようとしているのだから。今日は同僚に無理を言って借りてきたこともあり、無駄にはできない。

「それじゃ、いまから診断するから。やり方は定期検診があるからわかってるわよね。今回はあなたが目覚めたままやるけど、なるべく抵抗はしないで、リラックスしていて。そお腹、まくってくれる?」

「はい」

 涼子はスカートのベルトを緩めると、シャツを出して腹を晒した。息を呑むほど美しくくびれた臍が露わになる。

「これでよろしいですか?」

「うん、ありがと。て、やっぱり綺麗ね。思わず見惚れるわ」

「他の機械人形と大差ありません。ですが、ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです」

「どういたしまして。それじゃ、ちょっと失礼して……」

 裾をたくし上げた涼子の腹を探り、恐ろしいほど冷たい人工皮膚の境目に手を突っ込む。確かな感触と共に小さいハッチが開き、十センチ四方の皮膚が正面から見て正方形に割れて中に様々な接続端子が並んで見えた。これが機械人形に備わっている標準的な内部端子群だ。ここから、人形の保持する階層保存された様々な情報や論理集積回路の動向などを波形、もしくは数値として取り出す事ができる。そこにラップトップへと接続されているニューロケーブルを突き刺し、機械人形用の簡易診断ソフト、通称オート・マタニティを起動する。科学者の下衆な遊び心が見え隠れするこのネーミングには見るたびにうんざりさせられるが、この手のアプリケーションの中では最も優れている事は癪だが否定できない。背に腹は代えられぬことから、今回は使い慣れてもいるものを使用することにした。

 オート・マタニティは機械人形を整備、診断する機械心理学者にとって不可欠なステータスをリアルタイムで複数表示する機能を備える。分析以前に抽出表示される情報の中でも特に重要なのは感情曲線と呼ばれるものだ。機械人形の三命題は動機として機能しうる。それは機械人形にとって欲求の根本、本能とも呼べる部分だ。いま表示したグラフは地震計さながらに谷と山を描く滑らかな曲線三つで構成され、これをエリアごとに分けてある。第一条から第三条まで、そのうちのどの動機が涼子の今現在の行動に影響を与えているのかを計測する機械だ。三次元の座標は行列式として計算され、情報は常に流れている。サンプリングレートも適当な位置に合わせて固定。予めアウトプットされるように端子接続されている腹の中のコンピュータ部分に延長接続するだけでデータそのものは二進数で出力されるから、あとはソフトウェアを用いて解析するだけだ。他にも機械人形が有する様々な処理系に繋がる端子からは様々なステータス情報が随時送られてくる。調べようと思えばいくらでも調べられるのだが、念のために情報の抽出量は必要最低限、機械人形自体が正常に動作しているかどうかを確認できるレベルに留め、ラップトップの演算処理機能を感情曲線側に多く振り向ける。これで、より正確で滑らかなデータを抽出することが出来るし、涼子への負担も多少は少なくなるだろう。

 機械人形は、人間と違い苦しみを顔に出す事は少ない。感情を元にそこから笑顔やしかめっ面を表わす事はあるが、自分が苦しい時は無表情のままだ。何故なら、自分の家にいる家庭用ロボットが苦しみ始めたらどうすればいいのかわからないし、何か命令をするにも気が引けてしまう。そうなれば機械人形の商品価値は一気に下がる。機械である事の最大の利点は人間のように道徳的刺激をもたらさないために気を使わなくていい点だ。命令するのも顔色を窺わなければならないロボットなど非生産的であるし、生産者にとっても所有者にとっても好ましくはない。故に、機械人形からは苦しみの表情をほぼ抜き取ってある。非人道的と言われることもあるが実際に製造しているのは企業であって、そこに利潤追求の思想が入るのは仕方のない事である。止むを得ず感情表現で異変を伝えたり日常レベルの感情表現に限って機械人形は顔をしかめるのだ。

 鳴海遥自身は、機械心理学者としてこうした機械人形の知性をいたずらに貶める様な措置は必要悪であるのかもしれないと考えつつも、心のどこかで憤慨している葛藤を抱えていた。

 それは良心だろうか。彼女には判断がつかない。秋津清隆が涼子を愛しているのは事実だろう。だからこそ、自分は怒るのだろうか。恐らくそうだ。この学問を学ぶと決心した時、良心などとうに置いてきた。もし心が痛むのなら甘んじて受け入れようと思っていたし、そんな痛みを感じることは無いだろうとも感じていた。今こうして彼女をどうにかしようとしているのは、一重に秋津清隆のためにすぎない。結果として、自分は彼のために彼女を直す。そんな納得をしてはいても、恋敵を助けるという愚行に走っているのではないかと内心で首を傾げずにはいられなかったが。

 その時、ふと思う。涼子にはその覚悟があるのだろうか。一人の異性のためにどんな痛みも甘受しようというこの意志が。もし人間だけのものだと思われるこの感情が機械人形にも備わるのなら、それは悲劇としか言いようがないだろう。敵わない恋ほど痛々しいものは無い。だからこそ、人は機械人形に依存することを嫌うのだから。

「あの、ハルカ様。これから何を?」

 おずおずとした涼子の声が彼女を現実に引き戻した。愛想笑いを浮かべながら、安心させるように髪の毛を撫でてやる。女の自分でも嫉妬するくらいの良質な髪だった。整った目鼻立ちに、繊細な肌。ガラスの瞳は無機質というより透き通った氷を想起させる。自分もこんな姿になったら、彼の気を惹くことが出来るだろうか。

「カウンセリングみたいなものよ。無駄かもしれないけど言っておくわね。気を楽にして、苦しくなったら遠慮なく言って。これはあなたが元の精神状態に戻る事を補助するのが目的だから、何か言いたいこと、逆に話して欲しい事があったらすぐに言うこと。いい?」

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

「うん。それじゃ、最初の話からしましょうか」

「あ。すみません、その前に」

 涼子はおもむろに立ち上がるとドアの鍵を開いた。鳴海遥が見つめている前で扉を開くと、廊下で待っていた秋津清隆から湯気の立ち上る湯呑を二つ受け取る。彼は去り際に涼子の右手を取り、一瞬、力を籠めて握りしめると、あとはそそくさとリヴィングへ戻った。仲睦まじいことだ。呆れたのか感心したのか、目を丸くしてベッドへと再び座り込む涼子を見つめる。

「申し訳ありません。仕切り直しましょう」

 涼子は手近なサイドボードに湯呑を置いた。

「そうしましょうか。それじゃ涼子、最初の質問だけど。まず秋津清隆という個人についてどう思っているのかを聞かせてもらえるかしら?」

「清隆は私の所有者であり、同居人です。それ以上でも以下でもありません」

 正に機械といえる模範解答だった。感情曲線は平坦なグラフを描いている。普遍的な解答ゆえに何の特徴も無い。しかし今の行動からその答えが正確であるのかをはかるには、彼女の精神がどれだけのダメージを負っているのかをこれから慎重に計測していく必要がある。今回の診察に臨むにあたって、それなりに深刻な事態であることはじゅうぶんに認識しているつもりだ。秋津清隆の頼みでなければ、本来は蹴っているような頼みである。自分は機械心理学者の修士課程を卒業するかどうかという身分なので、二つの論文を出しそのいずれもが雑誌に掲載された実績を持ってはいても、法律上はかなりグレーゾーンであることは疑いない。機械心理学者は国際法で定められた厳格な手続きと試験を経た上で取得し得る現代最高峰の技術証明だ。

 であるのになぜ、彼女はこうまでして涼子、ひいては秋津清隆に関わろうとするのか。同僚は早々に二十代、三十代での結婚を諦めているというのに、まだ見ぬ伴侶を病的なまでの羨望をこめて思い描くのはなぜか。まったく、笑わせてくれる。込み上げてくる自嘲的な笑みを口元に閃かせた。普遍的な女性という人生を送ってこなかった自分がここまでしおらしくなるとは。秋津清隆には以前から様々な形で親睦を深め、面倒をみてみられた仲だが、それ以上の関係に発展することは無いと思っていた。

 彼が機械人形に恋をするまでは。

 いま思えば、秋津清隆に対してそういう面における無関心を貫いてこれたのは、一重に彼自身にそのような関係を持つ意思が無かったからに他ならない。慢心だった、と今でも思う。大学時代にもう少し遊んでおけばよかったと少しは思うし、そこに彼がいなければ意味が無かったのだとも思いなおすことある。その彼が機械人形に恋をしていると告白した時、積極的に自分を売り込もうとはせず、周囲の拙い友達筋に頭を下げてまで彼と接してもらうことで疑似セラピーを行ったのは、一重に怖かったからに他ならない。もし自分が名乗り出て彼と交際し、その結果、彼の機械人形への極度な依存症上が改善されていなかったのならばどうする。自分は機械以下だ。その恐怖は、実は尋常なものではなかったのだ。思い出せば身震いと吐き気しか感じない。当時の自分の鈍感さと機転には感謝を捧げると同時に、どうしようもない不甲斐なさに苦渋を舐めずにはいられない。

 その彼の想い人と言っていいのかはわからない彼女を、どうして自分は子供のような純粋さをもって直そうとするのか。皮肉な気分で自嘲しながらも、きっと大学時代から自分は何も進歩していないのだと思い知らされる以上の感慨は湧いてこなかった。つまるところ、秋津清隆の人柄に胡坐をかいているだけだ。そんな自分に、彼と対等な関係を結ぶことなど越権行為も甚だしい。自分の動機にすら向き合えないのなら彼と対等の友人を名乗る資格は無い。

 そんな彼女の思考とは裏腹に口から他人の物のような声が響いた。

「最初に踏み切りに飛び込んだ機械人形、その現場を目撃した時、あなたがどう思ったのかを教えてくれないかしら」

 苦しい質問を口にする。涼子は苦しそうに顔をゆがめた。機械人形の純粋さがそこにある。人間は自分にさえ嘘をつくが、機械人形は可能な限り嘘はつかない。そういう精神構造なのだ。しかし嘘をつきにくいが故に、自分の感情を誤魔化す事ができない。彼女の精神が脆いのも、原因をたどっていけばそこに行きつく。人間の嘘は本心から自意識を守る役割を果たす。機械人形は自分の本心に独りで向き合わざるを得ない。

「ゆっくりでいいわ。しんどかったら言わなくてもいい」

「いえ、言います」

 見上げた根性だ。鳴海遥は心の中で拍手を送った。

「私は清隆の勤める事務所に顔を出していました。月に一度ほど、職場の方々から清隆の様子を尋ねるためです。彼は朝に出勤し、夜に帰宅します。例外はありますが家にいるのはほとんど土日だけです。私は彼の機械人形ですから、体調や精神状態をなるべくケアする義務があります。そのために日常の多くをそこで過ごしている清隆の様子を見ることが必要だと判断しました。しかし、私ごときが邪魔をするわけにもいきませんので、まずは清隆自身に行ってはよいかと確認を取ったところ彼は二つ返事で了承してくださりました。そこから始まり、事務所の会計士の方と所長様とも面識を持ちました」

 事前に清隆から聞き出しておいた一人と一機の生活と頭の中で符合させていきながら、鳴海遥はセットアップを終えて波形を表示しているラップトップから手を離して、ゆっくりと湯呑の茶を啜った。驚くほど熱いが、これは彼からの何かの思いなのだろうか。少なくとも自分は真摯に彼女に向き合っている。ならば飲み下して見せよう。

「清隆の上司とは打ち解けられた?」

「ええ。お二人とも私にはとてもよくしてくださいます」

「それで、あなたは目的を達せられたのかしら」

「はい。職員のお二人は私との会話も楽しんでくださっているようでした。そうした経緯で、あの日は事務所にお邪魔していたのです。その折、一体の女性型機械人形を尾行していた所長様から連絡が入り、その彼女が自殺したらしい旨を清隆から聞きました。私はそこで――」

 辛そうに顔を引きつらせる彼女の手を握ってやると、涼子はひとつ息を吸い込んで、なんとか言葉を絞り出し始めた。目の端で捉えているラップトップの感情曲線は、疑似的なものでしか見たことが無いように暴れ狂っている。激しい動揺を感じているのだ。もしかしたら、凄まじい恐怖も。つい制止しようとしたが、涼子は口早に言葉を紡ぎだした。

「――私は、いても立ってもいられない思いでした。機械人形が自殺することは聞いたことがありませんでしたし、もしかしたら所長様が間違いを犯しただけなのではないかと愚考しました。結局はそれは間違いで、私は今のように情緒不安定な状態となってしまいました」

 彼女は愚考というが、にわかには信じられない事態に遭遇した時、それ以外に最もありそうな可能性に思考を差し向けるのは人間心理学の中では多分にあることだ。そうすることで精神を保つことができるが、そもそも、そんな事態に遭遇した時点でガラスの精神を持つ彼女らの末路は決まっているようなものである。それでもいきなりその事実に直面してどうしようもない傷を負うよりも、頭の中で「もしかしたら」という思考を挟むことで衝撃を和らげる作用は決して無駄ではない。そういった人形の精神に対するショックにワンクッション設けることを、そのものずばりエアバッグと呼ぶが、彼女はそのシステムに忠実に従ったまでのことなのだ。しかし自分の罪悪感に転嫁しているとなれば、彼女の個性は極めて消極的であることになる。これは鳴海遥が頭の中で行った涼子のプロファイルに合致するものだった。もちろん芳しい結果とはいえない。

「現場へ行くと清隆が仰るので、私は無理を言って同伴させていただきました。場所は新宿、代々木間の線路が交差する踏切で、多くの警察の方と見物人の人々がいました。喧騒の只中に転がっている彼女を見た時、目と目が合ったのです。瞬間的に、私は悟りました。機械人形である自分も、今まで無縁だと思っていた自殺をすることができるのだと」

「なるほど。それがあなたが精神に失調を来した最初の一撃ね。ショックな事実を目の当たりにして、あなたは気が気でなくなった。今まで自分ができもしない、関係の無いと思っていた脅威が実は自分の身にも降りかかりうるのだということに気付くと、あとは――」

 言葉を飲み込んだ鳴海遥の語を継いで、涼子はほっそりとした人差し指を立てた。

「その通りです。ハルカ様、ひとつお伺いしたいことがあるのですが」

 改まっていう涼子に少し身構えながら、なにかしらと振ってやる。

「機械人形が自殺をする理由。それを、ハルカ様は理解できますか」

 鳴海遥は口を開きかけ、閉じるという動作を二、三度繰り返した。

 実は、機械人形が自殺するケースは機械心理学者の中で防止すべき項目の上位十位には入っている。あくまで商品として取引される機械人形が自らの意志で自身を破壊するのならば、それは製品にはならないからだ。いつも使っている携帯端末が自らを破壊し始めたらクレームが殺到するだろう。そういった商業的見地を取り除いたとしても、自分の家で今まで通り暮らしていた機械人形がある日突然に自ら命を絶ったのなら、どんな人間でもその原因の一端に自分の行いを重ねずにはいられない。人間はそういう生き物だ。なぜあいつは死んだのか。それはあの時ああしたせいだからではないのか。自分の言ったことがあいつを傷つけたのではないか。憶測は止まらない。そして、解答者のいない問いほど精神を病むものはない。それを防止するための機械人形の三命題、第三条である。機械人形の三命題、第三条。第一条、第二条に反しない限り、自己を守り、生活を営まなければならない。これが精神の根本に鎮座している限りは、機械人形は自殺をすることが出来ない。涼子がこの事件を当初信じようとしなかったのはこれが作用していたからに他ならない。しかし、現実として自殺する機械人形はいるという。この矛盾はどう説明すればいいのか。

 さて、そこで機械人形が自殺する原因とはなにか、という議論になる。その答えは簡単だ。それは第三条を無効化し得るのは第一条と第二条だけであって、動機の強さで言えば第三条と第二条は条件付けを除けばほぼ等価であるから、だいたいは第一条のせいだろうと想像できる。この問題究明は古来より伝わる定石として考えてもらっていい。事実として機械人形の三命題自体がその古典に従って考案されたようなものだ。

 人間のために自ら死んだ。これが答えである。所有者たちは何とも言えない悲嘆に暮れるだろうが、それが真実だ。彼女、或いは彼は、第一条に関連する何かの煩悶を抱え、最善の解決策として自殺を選んだ。シンプルだが、実に苦しみに満ちた解答だ。自ら死を決意する直前まで、とてつもなく大きな精神負荷を受けていたに違いない。その原因が何であったにせよ、それだけで機械人形には致命的だ。

 そうして、鳴海遥の視線が波形の上で止まる。

 感情曲線がほとんど振り切っている。慌てて視線を涼子に投げれば彼女は苦しそうに顔をしかめ、唇を一文字に引き結んで人間で言えば心臓のある左胸を右手で抑えている。それが何を意味するのか、鳴海遥には絶望的なまでの哀しみと共に理解できてしまった。

 そう。理解できるからこその苦しみがある。目の前の人形の様に。

「涼子。あなた、気付いたのね。なぜ自殺をするのか。それを理解できてしまった。知識ではなく、あなたの心が」

 彼女は頷く。シリコンの肌が青ざめて見える。鳴海遥は機械人形に、彼女に初めて触れた気がした。涼子に歩み寄り、その震える肩を力任せに抱きしめる。




 鳴海遥の診察が終わって、秋津清隆はマンションのロビーまで彼女を見送りに出てきた。エレベーターからいくつものポストが壁に嵌め込まれた玄関の前まで両開きの自動ドアを潜ると、きびきびと回れ右をしていう。

「どんな具合かは今すぐにでも話したいんだけど、私自身も少し疑問に思う所があるから、このデータはいちど研究室に持って帰るわ。より正確なものを渡す事が出来ると思うし、可能な限り早く手配する。一週間ほどちょうだいしてもいいかしら?」

「早ければ早いほどいいのか? 僕はいつまでも待つつもりだけど、涼子が今のところ大丈夫なのかだけでも教えてほしい」

「それはそうよね。私が見た限り緊急性はあるけれど、ここ一週間とかいう話じゃない。涼子は苦しむでしょうけど、それはあなたが支えればいい。彼女は何か、足がかりが必要なのよ。人間だってそう。どこかに浮かんだままではいつしか立つことを忘れてしまう。精神的不安定なんて話ではないわ」

 青年は青い顔のまま頷いた。彼にも何か仕事を与えてやらねばならない。そのほうが気が紛れるだろうし、彼女に助けが必要なのは確かだ。鳴海遥は自分の首を絞めているイメージを引きずりながら、ラップトップの入ったを肩に担ぎなおす。

「なんにしてもあなたが気に病むことは無いのよ。責任なんて誰にもない。彼女を失いたくないのなら、彼女よりもまず、自分を心配すること。そんな悪い顔色では逆に心配をかけさせてしまうわ。今日は温かいものでも出前にとって休みなさい」

 存分に悩めばいい。鳴海遥はそう思った。多少の妬みが混入していることは間違いがないが、邪な感情だけでないことも確かだった。

 人と機械の行く末を見てみたい。あの二人ならもしや、そんな機械心理学者としての何かが鎌首をもたげ始め、隠すためにひとつ欠伸をする。かたぶちまでかかる髪の毛を胸の前から手で払い除けると、ひらひらとその手を振りながら歩み去った。その顔に微笑みが浮かんでいることに、清隆が気づくことは無かった。



  *



 鳴海遥から詳細な診断書を作成するのには一週間を要すると聞き、彼女が研究室に戻って作業を始めると同時に、秋津清隆にとっても大きな選択を迫られることとなった。

 不幸中の幸いというべきか涼子の状態は最悪より何歩か手前にあったらしく、彼女が言うには一ヶ月や二ヶ月のスパンで見た時、そこに不穏な事態が生じる可能性があるにはあるものの、今の状態ならばそれほど緊急性は無いらしい。ただ、深刻な心的外傷トラウマを背負っていることには変わらないので、これ以上の刺激となるものは見せない、聞かせないようにし、普段通りの生活を営むことが一番の回復につながるという言葉通り、清隆は事務所に顔を出すかどうかを考えあぐねている所だった。

 悩む理由は二つある。ひとつは言うまでも無く涼子のこと。もうひとつは、彼女が機械人形の自殺する瞬間を見せたのが第三者であり、何者かが杤原探偵事務所の自分を含む職員に対して怨恨を抱いているということだった。前者を取るならば杤原惣介からも了承諾を得ているので自宅に留まる事が最善と思われるが、後者を取るならば今回のように彼女が心傷を増やす結果につながりかねない。第三者がこの段階で満足しているかどうかの判断は残念ながらできはしないし、人の恨みとは得てして満足を知らないものだ。それこそ機械人形でない限り、恨みを持ったとしてもそれを自分の中で穏便に処理することはほぼ不可能といえる。怒りに帰結する感情は激しく深い自己正当化をもたらすために留まる事を知らない。炎は燃え移っていくものなのだ。消えた時、残るのは灰だけ。人は自分の心を燃やして怒る。

 涼子と共にリヴィングの床に座り込んで、取り込んだ洗濯物を畳む。自分のワイシャツや下着などを慣れない手つきで摘み上げ、太陽の光をたっぷりと吸い込んだ布地を丁寧に積み上げていく。殊、家事に関しては普段の生活で完全に涼子へ主導権を明け渡しているため、何枚に一度かは積んだばかりのそれを彼女が畳みなおす光景が展開された後、二人で湯呑を片手に他愛のない会話を交えているうちに昼となった。涼子はありもので済ませると言って簡単な鍋焼きうどんを小さな土鍋に作るらしい。清隆は彼女に二人分作らせた。食事を共にした方が安らぐと思ったからだ。涼子は食費の無駄だと言って少し渋い顔をしたものの、結局は小さな鍋を二つ用意する。第一条だ。麺を茹でている細い背中を見つめながら、清隆はテーブルを濡れ布巾で拭いていく。

 何気なく生活していても、涼子の行動は機械人形の三命題に原則として従っているのだといまさらながらに気が付く。意識すればもっとわかることもあるだろう。だが、機械人形は三命題という行動原理を相手方が極力意識しないよう配慮されて設計される。人形は機械であるが、ただの機械ではなく人のふりをする機械でなくてはならないのだ。人間に機械人形を機械らしく見せないことも、彼女らの中に組み込まれた機能のひとつなのである。

 秋津清隆は湯呑を静かにテーブルの上に置く。自分の中に浮かんだひとつの言葉を憎たらしいと思った。

 商業的価値。それは機械人形という大きな社会的存在意義を持つ製品に対するひとつの価値観だが、そもそもなぜ機械人形には自我が与えられたのだろうか? 製品としての有用性を示すのならば人の命令だけを聞く本当の意味での機械で事足りるはず。そのほうが機械心理学者もいらない、コストもかからない、ロボット法なども複雑化しなくて済む。社会が享受する利益は多い。しかし機械人形を最初に生み出した機械心理学者は、人形に命を吹き込んだ。その気持ちはわからぬでもないのだが、自分と同じ価値観の下に機械人形が生み出されたとは考えにくい。そこには必ず、自分のように未成熟な感情ではなく、彼女らの在り方を左右させるに足る断固とした決意が潜んでいなければならない。それを今の人間たちは探ろうともしていない。清隆はふたつの事実に首を振った。そこに機械人形がいて、命令を聞いて働いているだけでじゅうぶんだと思っている。清隆もそう思う。だが彼女らが人形であるかぎり、それではどこかおかしいとも考えている。矛盾だ。考えれば考えるほどにわからない。

「清隆、何か考え事ですか? 先ほどからどこか夢現のようですが」

 台所から手を休めることなく涼子が声をかけてくる。清隆は慌てて手元にあった湯呑を掴んだ。

「いや、なんでもないよ。お茶が美味いと思ってさ」

「おかしなことを言いますね。そのままゆっくりしていてください。もうすぐでき上がりますから」

「楽しみにしてるよ」

 涼子はだいぶリラックスしているようだ。自分が家にいることがその一助になっていると考えるのは思い上がりだとわかってはいるが、それでも彼女のためにこうして家にいるのだと考えることは男の性というもの。

 大桟橋での一件から一日明けた今日、涼子はいつもと変わらない様子だ。当たり前だが、彼女は変わらない。きっと清隆が老いて死ぬ時にも今日と同じ表情で彼を見つめてくるのだろう。その時まで彼女が生きて、いや、動いていればだが。機械人形の耐用年数は今のところ予測という形でしか知る事ができないが、理論上は適切なケアを続ければ五十年は悠に超えるという。継続的なアップデートも可能なので新旧モデルでの性能差も実感できるほどはない。外観的な特徴は変わらないままだが、内部のソフトウェアに関しては大規模な改修を施す限り、かなり長い年月を経ても正常に動作する。

 彼女の寿命があと五十年だとすると、今の自分に五十を足したら七十五歳だ。予想でしかないからもっと大きな年齢的差異が生じるのは避けられないだろう。そうなれば老いて皮ばかりとなった自分と、いつまでも若々しい彼女の組み合わせになるのだろうか。それは悲しい。しかし、どこか自分の夢でもあるのだと、清隆は涼子の美しい後姿を見つめながら思った。

「涼子、僕はいずれ事務所に戻らなくちゃいけない」

 静かな室内で切り出すと、涼子は振り返って真っ直ぐに彼を見つめた。

「杤原所長は気にするなと言ってくれるけど、仕事だからね。だから正直に答えて欲しい。いつ頃まで僕に家にいて欲しい?」

「そんな……私には大それたことです。清隆はすぐ仕事にお戻りください」

 涼子はエプロン姿のまま、二人分の鍋焼きうどんを鍋つかみで器用に持ったままテーブルまでやってきた。あらかじめ出しておいた鍋敷きを並べると、その上に彼女の細い腕が鍋を置いた。

「いいか、僕は君が心配なんだ。そうだな、いい機会だ、正直に言おう。君がいなくなれば僕は泣くぞ。心の底から悲しむ。だから無理はしないで、今だけは我儘を言ってくれ。機械人形の君には、人間に何かを頼むということは辛いことかもしれないけど、我慢して君自身が身を亡ぼすのならば本末転倒だ」

 しばらく強い眼差しと弱った視線が混じり合い、やがって機械の方がテーブルの上に落ちた。小さな声で、涼子は言う。

「では、恐れ多いのですが……」

 もし、彼女に血が通っていたら、耳まで真っ赤になっているのだろうか。シリコンの肌は相変わらず白いままだった。

「五日ほど、お願いしてもよろしいでしょうか?」

「五日でいいのか? なんなら、遥から診断書が届くまででもいいんだぞ。遥が言うには一週間程度らしいけど、もう少し休んだっていいのに」

「いえ、五日でお願いします。そうしなければ、洗濯物を畳むのもままならないので」

 涼子は俯いたまま、清隆は背筋を伸ばして、どちらともなく部屋の隅に積んである彼の衣服に目をやった。これだけの量を畳むのに三十分はかかった。それでいて見栄えも悪い。そうしてお互いに顔を見合わせると、やはり同時に笑みを漏らした。

「わかった。じゃ、杤原所長に連絡しておくよ。事務所には冴子さんもいるだろうし、近況報告も兼ねて」

 電話機に手をかけ、ダイヤルを回す。程なくして前島冴子が電話に出た。そっちの様子はどうですかと尋ねれば、少ししおれた返事が返ってきた。杤原惣介は先日の夜から見ていないらしい。一度は事務所に戻ってきて夕食を食べたらしいが、それから寝る間も惜しんで調査しているのだろうと前島冴子は言い、涼子を大事にしろと付け加えた。

「こっちのことは心配しないでいいのよ。別に変な意味じゃなくて、あなたがいないだけでどうにかなる事務所じゃないから。もし涼子ちゃんが苦しそうなら、五日とは言わず一週間でもお休みしなさいね」

「ありがとうございます。けど、こんなに休んでしまっていいのかな。給料をもらっている身ですし、少し気が引けますが」

「構わないわよ。あなた、就職してから数回しか有給使ってないでしょう? あれの処理ってこっちでもいろいろ面倒くさいのよねー。去年の分の持ち越しってことで決済しておくわ。休める時に休んじゃいなさい。無理はしないこと、いい?」

「わかりました、ありがとうございます。この御礼はいつか」

「はいはーい、じゃねー」

 受話器を置きながら首を傾げる。思えば、前島冴子が独りで事務所にいるのは久方ぶりのことではないだろうか。彼女本人は特定の友人や同僚、つまり秋津清隆や杤原惣介、他数名の親しい友人以外には日常生活で顔も合わせたくないと感じているほど孤独信者であるらしいので、独りでいる事務所は気持ちがいいのだろうか。それにしても杤原惣介を話題に出したときだけ声が沈んでいたように思えた。そんな彼女が杤原を居酒屋に誘ったり誘われたりしてほとんど例外なく付き合っているものだから、もしかして恋慕の情でもあるのかと勘繰ってしまう。あの二人に限ってそんなことは無いのかもしれないが、世の中、間違いはあるものだ。

 そして意外にも、そんな疑問を吹き飛ばしたのは涼子の一言だった。何気なく二人の関係について話した所、彼女はうどんを啜っていた手を止めてしれっとした顔で言った。

「冴子様は、杤原様のことを慕っていらっしゃいますよ」

 飲み込みかけた緑茶が逆流し、清隆はむせ返った。涼子は破顔しながら彼を見つめている。どこからともなくハンカチを取り出すと、開いたままの清隆の口を拭った。

「どうして、なぜ、なんで知ってるんだ」

「文法が大きく乱れていますね、清隆。激しい動揺を感じます」

「そりゃそうだ。生物界には異種生物同士の共生関係が成立してるとはいうけど」

 彼女の手からハンカチを受け取って口の周りを拭う。まだ収まりきらない驚きの余波を感じながら、清隆は腕を組んで唸った。

「想像もつかない。あの二人が恋仲になるなんて」

「別に、冴子様も隠しているわけではなかったと思いますが。私にお話しされたのは二ヶ月と二日前ですが、その時には杤原所長はおらず、私と清隆、そして冴子様しかおりませんでしたが」

「そんなこと聞いてことも……いや、ちょっと待てよ。ということは杤原所長も男で、冴子さんも女だったんだな。おっと、今のは他言しないでくれよ。命が二つ、いや、三つは必要な事になりかねないから」

「かしこまりました」

 まだ愉快そうに笑みを浮かべながら、彼女は律儀にお辞儀する。おどけているのだろうか。努めて慇懃な態度のまま、清隆は咳払いをして彼女に向き直った。

「でも、なんで冴子さんがそんなことを君に話したんだ?」

「なんとなく聞いてみたんです。冴子様は杤原様のことをどう思っていらっしゃるのですか、と」

「君が聞いたのか。でもどうして? 女の勘ってやつか」

「私に女の勘なる機能は実装されていません。冴子様が杤原様の席をじっと見つめておいででしたので、ふと思いついたというか。その後も、どうして気付かないのかと嘆いていることが一度ならずございましたので」

 文鎮を投げつけてくる相手に自分への好意があるなど、どう贔屓目に見ても歪んだ愛情にしか映らないではないか。そんな突っ込みはなんとか飲み下しつつ、清隆はようやく落ち着いてうどんを一本、口の中に押し込んだ。

「そうなのか。でも、その場にはいつも僕がいるだろ。どうしてわからなかったんだろう」

「清隆はいつも一生懸命に仕事をなさっておいででしたから、ただ単に聞こえていなかったのではありませんか? 大方、何か話しているのはわかっているもののその内容にまでは意識が回らなかったとか」

 図星。この機械人形が怖くなってきた清隆だった。正に鉄の女。

「フン、まあいいさ。今度、時間がある時にでもゆっくりと聞いてみる事にしよう。涼子、お茶おかわり」

「はい、ただいま」

 幸せそうに、人形は律儀に急須を取りに台所へ立った。


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