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「会談、ただし非公式」

  *



「あなたにしては妙な熱の入りようだったじゃない、探偵さん?」

 不機嫌な視線を投げつければ、前島冴子は肩を竦めながらも暖かい緑茶の揺蕩うマグカップを杤原惣介に手渡した。素直じゃない好意にぶっきらぼうな礼を言って返すと、妙にしおらしい彼女が自分のデスクに戻ってから感慨深げに唸るのを見ていた。冴子はタイトスカートの中で窮屈そうに細くて長い両足を組み合わせ長い溜息をつく。

 事務所は既に落ち込みかけている陽の色に染まっている。本棚からコンソールまで置いてある物品が、掃除の手を抜いているせいで少し埃っぽい空気に光の筋を刻んでいた。

「お前にしては妙に元気がないな。どうした?」

 先ほど自分の顔面めがけて飛んできた細長いセラミック製の文鎮をいじりながら、杤原は問うた。前島冴子は軽い一瞥を投げると、デスクチェアから前のめりに身を乗り出して手を組み、その上に顎を乗せる。その顔には似合わない憐憫の色が濃く表れていて、ちょうど秋津清隆の空っぽになったデスク越しに窓の外から差し込んできた西日に目を細めた。

「もしかして、秋津君に同情しているんじゃないだろうな。だとしたら筋違いだぞ。彼には情けは無用だ、する必要が無い」

 剣呑な様子で、彼女は杤原を睨んだ。言われるまでもなく深く彼に同情しているが、それをこんな能天気で無神経な男に言われたくは無かった。

「あら、どうしてかしら? 私は若者の運命を憂えているだけなのに、誰の何がいけないっていうの」

「全てが違う、といっているんだ。いいか、秋津君が涼子ちゃんに恋慕の情を抱いているのは前々から感じてはいたことだ。それはいまさらここで君と私が議論するまでも無いことだ。彼自身が気付いていたかどうかについてはこの際問題ではない。彼は自分と彼女、この二つのことについてはさらさら助言を請う気などないだろう。私達が介入すればそれだけ解決も長引く。傷は浅くなるかもしれんがね、いたずらに長引くことほど酷なことは無い」

「なら、それだけでも意味があるじゃない。誰かの苦しみが軽減するならそれをするに越したことはないと思うんだけど」

「短絡的に過ぎる。本人にとって一番傷付かない方法が最も良い解決方法だと決めつけるのは。それに、私は今回の件で彼という人間を心配してはいないよ。秋津君だって一人前の大人だし、そうある前に男だ。一人の女性を支えられる甲斐性はじゅうぶんに備えている。あとは彼女次第だがな、きっと上手い方向に転がるだろう」

 再びマグカップを傾けながら、杤原惣介もビルの谷から降る光のヴェールを眺めた。西新宿に連なる巨大なビル群、その間隙を突くようにして刻一刻と夜の帳に浸蝕されていく空は、壮大だった。息を呑むほどに美しく、人間の作る物にも何気ない風情と美しさが宿るのかとこの景色を眺めるたびに感心させられる。四十年に届こうかという人生の中で、杤原惣介の中で凝り固まっていた世の中へ、そして自分の生き方への諦念が僅かに弛緩していく。

 不思議な事に、世の中とはどれだけ見限ろうとしても決まってその時に思い留まらせるだけの何かが起こるものだ。まだ世の中、捨てたものじゃない。そう思うたびに未練がましく縋りついてくるのに、世界とは普段はどうしてこうも残酷な仕打ちをするのかと、誰もが首を傾げて考えてしまうわけだ。もっとも、そんなことがわかっているのならば誰も苦しみながら人生というものを模索することもないのだろう。

「それ、気休めにもならないわ。涼子ちゃんの気が気でなかったなら、いくら秋津君が頑張ったって無意味じゃない。それに、涼子ちゃんは機械人形なのよ。どうしてそこまで楽観的になれるの」

「楽観的ではない。私は主観的にそう思っているだけだ」

 前島冴子は目を逸らした。つまりそれは、ただ自分がそう信じているからに過ぎないではないか。まるでそうすることが大人の義務であるとでもいうように、杤原惣介はただ純粋に秋津清隆と涼子の間に隔たる巨大な壁が何の問題ともなり得ないのだということを信じ切っているのだ。そんな子供っぽい理屈にも嫌気がさしたが、それ以上に、彼らの無垢な恋愛に見下すような感情移入をしていた自分の方に、より大きな嫌悪感を抱く。やはり同情とは偽善だ。自分からは何も行動を起こさないでも彼ら、彼女らのために何かをした気になっている。これほどむごい仕打ちがあるだろうか。口先では可哀想とか、何とかしてあげたいとか言いつつ、本当に苦しい人々が滅んでいく様を自己憐憫さえ混じった心境で見送っているのだから。

 だが、そこまで彼らの立場を慮っている杤原惣介とは、果たしてこういう男だっただろうか。自分の記憶違いということはあるまい、以前は今にもまして冷淡な男だったことだけ、前島冴子ははっきり覚えている。彼女がこの事務所に面接に来た時は人柄こそ今に近かったものの、相手に対してどこか一定の距離を置いている節があった。まるで、面と向かって常に自分と他人の境界線を引きながら、そこには決して近寄ろうとしない警戒心の表れ。必要以上に他者と関わろうとせずにあくまで身の回りの世界の一部として認識する彼の生き方に、前島冴子はかすかに後ろ髪をひかれる様な、出来の悪い生徒を思いやる教師のように、彼から目を離すことができなかった。

 一言で言うなら、切れ者ではあるがそれ故に他者を傷つける事を恐れているニヒルな男だった。だった、という表現が適切である事に前島冴子は自信を持っている。今の杤原惣介は外界からの刺激を歓迎している趣きがある。彼の口から身内とか職員とかいう言葉が新たな語彙に加わったのもごく最近だ。一見、自分に関係のなさそうな事でも、何とか理解して関わろうとする意思がちらほらと見え始めている。少しずつの変化であったがある時にふと振り返ると、ああ、これほどまでに人間とは変われるものなのかと感動を抱くほどに杤原惣介という人間は豊かな感情を持つようになっていた。

 秋津清隆だ。何か形容し難いほど巨大な感謝の念と共に、前島冴子は空っぽのデスクの表面をさすった。自分もそうだが、彼が関わる人間は皆どこかおかしくなる。今まで自分が必死になって保とうとしてきた個人的な価値観をいとも簡単に打ち崩し、自らの内に引き込んでしまう魅力がある。どこからどう見ても普遍的なその出で立ち、佇まい、日々の過ごし方。特別なことなど無い。しかしその中に一貫した優しさがある。他の誰かが持っている心の上に塗り重ねられた優しさではなく、生まれた時から腕や足、髪の毛の様に備えられた安らぎ。それは暴力的なまでに相手を抱擁し、骨抜きにしてしまう。岩肌に染み入る雨水のような清らかさに杤原惣介でさえも耐える事は出来なかったということか。思えば自分も彼に惹かれている部分があったことは否めない。前島冴子は照れ隠しにマグカップで顔を隠す。不本意ながらであるが、あんな男性が相手だったらさぞ女は幸せだろうと思わずにはいられなかった。

「それで、我が事務所長としてはこれからどうするおつもりなのかしら。あの子が来れないとなると、私が動くしかなさそうだけど」

 この言葉に、杤原惣介はいたくプライドを傷つけられたようだ。文鎮を取って振りかぶり、冴子は思わず手で防御する。

「何もしない。それが最善だ」

 杤原は金属板を静かに書類の上に下ろした。まさか本気で投げるつもりは無いだろうと思っていたが、前島冴子は呆れたと言わんばかりに肩を竦める。人の驚いたり狼狽しているところを見たがるのは根性がひねくれ曲がっているとしか言いようがない。

「何よ、もしかして放棄するつもり? ここ二日で勝負を付けるみたいなことを言ってたと思うけど」

「そういう事じゃない。私が思うに、リリィにしろ件の男性型機械人形にしろ、これはもはや無視できない連続自殺事件だ。これ以外にも自殺したらしき機械人形が複数存在しているのはもう調べてある」

 そう言い、文鎮の下に積まれている書類をつついた。いつの間にそんなことを調べていたのかと目を丸くしている会計士に向かって、杤原は不敵な笑みを浮かべて見せる。

「私は探偵だよ、冴子くん。モノを調べるしか能がない、他人の情報を売りとばす汚い情報屋。覗きが俺の仕事なんだ。情報収集なんて臍で茶を沸かすより簡単だね」

 自慢げに茶を啜る杤原惣介の姿を、冴子は今までにない情熱をこめて見つめた後で盛大に鼻で嗤った。

「見直したわ。でも、そんなに早く資料を集めているってことは、堤さんにリリィちゃんのことで怒られてから仕事に取り掛かったって事よね。秋津君には贖罪のためとか言っていたけれど、その贖罪は本当は誰に向けられたものなの?」

「痛い所を突くな、君は。そうだな、そこははっきりさせなければなるまい。私の今回の仕事は秋津君に捧げる所存だ。言ってはいなかったと思うが、私がこの世で尊重すべきだと思っている事は三つ。一つは好奇心。二つは自分。三つは愛だ。今回は全てが該当する。それ以上の理由は無い」

 言い切った。これ以上に明解な答えなど得る事はできないだろう。前島冴子が満足して自らのマグカップを傾けた時、卓上に設置してある電話機が軽快なコール音を奏でた。手を伸ばす彼女を制して杤原自身が手元にある一台から受話器を取る。

「お電話ありがとうございます、杤原探偵事務所です」

「杤原惣介というのは、あなたですか」

 壮年の男の声だった。その瞬間、杤原は自分の読みが的中したことを悟る。勝利の美酒とはかくたる甘味を持つものか。

「はい、私が杤原惣介です。どういったご用件でしょうか」

「依頼したいことがあります。お話しできますでしょうか? できれば、誰にも聞かれないように」

「構いませんよ。そちら様もかなり逼迫しているでしょうし」

「なんだって?」

 明らかに動揺した男の声に愉悦を覚えながら、杤原はくるりとデスクチェアを回して時計を見た。午後四時五十二分。相手方もこれを見越しての時間だろう。日付が変わるまでにここに帰ってこれれば御の字だ。

「いえ、何でもありません。今日中にお話しいたしますか?」

「あ、ああ。問題ない。場所はこちらの指定でもよろしいですか」

「ええ、構いませんとも。ぜひそうしてください。私共はお客様のご都合を第一に考えておりますので」

 相手の男は午後六時に所定の場所でと言い残すと、少し怒っているのかすぐに電話を切った。杤原は立ち上がって背広を羽織り、財布をポケットに突っ込む。手帳など必要なし。彼はそれが必要な人間と必要のない人間がいることを持論としているし、秋津清隆と違って自らが手帳を不要とする人種である事を痛いほど弁えていた。だからといって他の誰かを貶める視点を持つほど卑小でもなかった。

「出かけるの?」

 仕事を取られて手持無沙汰な前島冴子が見送りに立ち上がる。彼は頷きながら背広の皺を伸ばした。

「冴子、すまんが留守を頼む。もちろん退勤はいつも通りでいい。戸締りもよろしくな」

「何よ、水臭い。戻ってくるまでここで待ってるわ。だから今日中になんとか帰ってきなさいよ。晩御飯、どうせ当てなんてないんでしょう?」

 出口のノブに手をかけた彼が驚いて振り返ると、苦虫をかみつぶしたような彼女の顔が見えた。思わず破顔し、逃げる様にドアの向こう側へ身を滑り込ませながらいう。

「わかった。晩飯は適当でいいぞ。楽しみにしているよ、冴子」

 階段を自分の足で降りながら、杤原は扉の隙間から最後に彼女が見せた表情を大事に記憶の奥へ仕舞い込みながら、収まり切れない笑みを浮かべる頬をひっぱたいて気を引き締めた。

 実に愉快だ。同時に、厄介でもある。愛とはそういうものであることを、今ほど肌で実感するときは無かった。



  *



 もうこの場に座ってから十回は腕時計の表示板と、喫茶店の洒落たアンティーク柱時計とを見比べている。わかったことは先ほど四を指していた長い針が五に移っただけだということ。ナメクジが這うよりも遅く感じられる時間の流れにいっそう募る苛立ちを隠そうともせず、腕を組んで暇つぶしに手元にあるメニューを開く。憮然とした彼を色とりどりの料理が写真と説明文付で迎えた。しばらく睨めっこをした後、ここで昼食を取ればいくらになるのかなど意味の無い想像に走り始める。

 店内はそこそこの混み具合だ。あまり好ましい状況ではない。この中で彼を尾行している人間がいるかどうかは三重にチェックし、途中の大型ショッピングモールを何度か出入りもしているが、それでもまいた確信は無い。何しろ顔も名前も知らない相手が備考をしているはずだ。こういったテクニックならばいくらでも鍛えられるが、誰が追跡者なのかを見極めるには鋭い洞察力となけなしの直観に頼るしかない。つまり、てんでわからない。ここは職業柄、身に付いた第六感を信じて席に腰を下ろすしかなかった。

 そうしてメニュー表を読み返すのも三度目かという頃、店の入り口にあるこれまたアンティークのベルが鳴った。さりげなく目をやると、くたびれた背広を身に纏った男が店内を見回しているのを目の端で捉えた。赤いチョーカーを首に巻いたウェイトレスが駆け寄ると、素っ気なく手を振って追い返してしまったその男は、やはり目の端で捉えたのか首をひねって自分をまっすぐに見つめてきた。少し首を傾けて合図を送ると彼は頷き、真っ直ぐに六道清二の座るボックス席へと歩み寄ると斜向かいに腰を下ろした。あらかじめ用意しておいた水を押し出すと彼はそのまま脇に押しやり、何も握ってはいない両手をテーブルの上で組んだ。不愛想だが、特に嫌な男というわけでも無さそうである。あまり友人にしたいタイプではないと思った。

 この男が杤原惣介。新宿西署でもそれなりの名声を得ている真っ当で切れ者の探偵。聞くところによるとここ数年でこなした依頼は百をくだらない。凄まじい業績だったといえるだろう。恐らくは日本全国でも有数のシェアを持つ名探偵、業界の中でも屈指の売り上げを記録していることは想像に難くない。その金の流れやいわくありげな商売から何人もの警察官が粗探しを行ったが、本人は法律という物を極めて深く知り尽くしているらしく、守秘義務や探偵法に違反するような依頼は一切受けていないし、情報漏洩についても同様だった。こうした人間は裏社会に絡む職種においては嫌煙されるものだ。なまじ腕が立つだけに知られたくない秘密まで知られる恐れがある。しかし彼の場合は実力でそれを捻じ伏せ、確実で即効性のある特効薬的な自身の才能を存分に振るって顧客を得ている。

 名探偵。そのニュアンスは前世紀のミステリー小説からはかけ離れた響きを持っており、そんな都市伝説めいたものとは違って確かな職務を肩に背負っている六道は反射的に顔をしかめた。要は他人のプライバシーをコピーアンドペーストして飯を食っているような連中だ。どうしたらいともたやすく個人情報をコピーアンドペーストできるのか、彼にも教えてほしいくらいだった。特に今のように追いつめられている状況では。

「お待たせしました。六道さんで?」

 わかっているくせにぬけぬけと問うてくる。不愛想に頷き返すと、彼は咳払いを一つしてから店内をぐるりと見回し、それからまじめ腐った顔で視線を元に戻す。抜け目がない男だ。あの電話だけでどういうわけかこちらの事情を少しは察しているようである。鋭すぎる洞察力。名探偵という、侮蔑と畏怖の念をこめたこの呼び名はどうやらただの噂ではないらしく、夏のポロシャツのようにこの男によく似合っているものらしかった。そのくたびれた背広も杤原惣介にとって肌と同じ意味があるのではないかと思えるほどよく彼に馴染んでいる。自分にもこんな風に背広が似合えばいいのだがと、口の中に微かな苦みを感じながら六道清二は目を瞬いた。

「さて、お話とは何でしょうか」

「複雑な依頼です。頼めるかどうかはわからないが、とりあえず説明だけさせてはいただけませんか」

「わかりました。そのために今日は参りましたもので」

 やはりこの男を選ぶべきではなかったかもしれない。どういうわけかこちらがなにがなんでも自分を必要としているのだということも勘付いている。この話を白紙に戻そうかとも思ったがなんとか我慢した。彼以外に頼めそうな探偵がこの街に何人いるのかを考えればおのずと取るべき行動は決まる。そこに何らかの意味があるのだと今は信じるしかない。

 自分の分のコーヒーに口を付けてから仕切りなおした。

「先日の横浜港大桟橋で、一体の男性型機械人形が十メートルの高さからコンクリートの地面めがけて身を投げた。その場に偶然居合わせた人間の職歴を洗っていたら、あなたの事務所に勤務している秋津清隆という若者を見つけた。駆けつけた所轄の巡査から話を聞いた限りでは本人で間違いが無いらしい。そして秋津清隆から、杤原探偵事務所の所長であるあなたまで辿り着いた。そこで、ある依頼をあなたにしたいと考えました」

 簡潔な説明に、杤原惣介は顎に薄らと生えた無精髭をさすった。

「フム。大方予想通りか。よもやここまでわかりやすいとは思わなんだ。まあ、これも商売の内か」

「なに?」

 聞き捨てならない言葉に六道がいきり立つと、杤原は両手で諌めるような仕草をした。

「他意はありませんよ。それで、お話のほうを。私も時間には少々窮しておりまして」

「……わかりました。それでは、事の経緯から」

 六道清二は背広の胸ポケットから警察手帳を取り出して広げた。あくまで慎ましやかに、年頃の女の様に恥じらいをもってバッジを見せると、杤原の視線が定まるかどうかもわからぬうちに元に戻した。彼はこれについても全く動じることなく、軽く相槌を打ちながら六道の話す内容に耳を傾けた。

「事の発端は一ヶ月ほど前。甲州街道を少し下った場所に高速道路とかさなる大きな交差点があります。ここでトラックによる接触事故がありまして、しばらくは高速道路の合流点から東南口のあたりまで大渋滞となりました。近くの交番勤務の巡査から通報があり、その通報内容が少し特異でしたので捜査二課の刑事たちが出動して現場保存、証拠収集に当たりました。私は別の部署に所属してはいますが今の捜査二課課長とは親しい仲でして、事故の内容が私の管轄する部分に重複する個所があったために呼び出されました」

「お話を聞く限りは大しておかしな事故でもないようですが、なぜ捜査二課が? 事故の実況見分などは交通課か、下手をすれば巡査でも務まりそうなものですが」

「たしかに聞く限りはそうです。事実、書類上に記載すれば何とも平凡な内容にしかならない。ですがこの事故の味噌はまた別の所にあります。被害者の男性なんですが、人間ではなかったのです」

「機械人形だったんですね」

 気味が悪いほど冷静に返され、六道清二は苛立ちをなんとか押し隠しながら頷いた。全てを見通す存在に相対しているかのようで落ち着かない。

「そうです。男性型機械人形の一人が、交差点にふらりと入ってトラックに轢かれた。これがこの事故の全容ですが、この異質さもおわかりでしょうね」

「機械人形の三命題ですな。第三条、第一条と第二条に反しない限りは自らを守り、生活を営まなければならない。彼らは動機からして自殺することは不可能なはず。しかしこれは自殺という結論しか下すことはできない。その矛盾が引っかかった、そういうことですね」

 六道は頷き、隣を通ったウェイトレスを呼び止めた。メニューから適当にブルーマウンテンを二杯注文すると、ショートボブの女性型機械人形は快活な笑みを残してその場を後にした。目立たないエプロンとシャツ姿の彼女を見送った杤原は、一旦はテーブルの端に押しのけた冷に口をつける。その間に六道は頭の中で事件の概要の頁をめくった。それほど多くも無い要因の数々がいくつか出てくる。それを順を追って説明していくことにした。

「既に日本社会における普及率だけでも六七パーセント、国連加盟国では四割を超えている。今や機械人形産業は巨大な市場を形成し、輸送網の発達によって海外への輸出と現地組み立てなどの海外戦略的商業は容易なものとなりました。ですがいつの時代でもこうした新しい概念にアレルギー反応を起こす人間は後を絶たない。私は捜査の末、機械人形の自殺は前代未聞の数値を日本全国、とりわけ都内で示している事を突き止めました。実際に機械人形を所有していたご家庭を回って聞き込みましたが、どの家でも機械人形への依存度が高かったという捜査結果も出ています」

「それは、機械心理学者による裏付けを取った結果ですか、それともあなた個人の感覚ですか」

「私個人の感覚です。客観的でない情報は信憑性が無いと仰りたいのかもしれませんがどうか信じていただきたい。特に子供を見ていればわかります。実際に、ある女の子は機械人形の死を受け入れられずに心神喪失気味です。母親は困り果てていました。同時に機械人形への愛着を捨てきれず、母親自身も心に傷を負っているのです」

「フム」

 六道清二は上層部に機械人形を失った市民に対するカウンセリングの必要性を強く訴える報告書を提出している。これは田邊明彦の助力もあって組織図をさかのぼり、捜査報告書と共にはるか上層部まで渡っているはずだ。有紗という名の少女をはじめとする子供たちにとっては、機械人形は人間でも機械でもなくただの友人であり家族だ。失った時の精神的なダメージははかり知れないものがある。さらに言うなら人格形成の面でも不安が出てくるだろう。六道は無垢な子供にまで悲しい現実を押し付けたくは無かった。そんな醜くて重く、個人ではいかんともしがたい無力感に苛まれるのは大人の役目だと思っている。そのためにこそ大人になった甲斐があるというものだし、この世の中で唯一の有意義な仕事だとも思えたからだ。

 そもそも彼が警察に入ろうと思ったのは正義感からである。ありきたりでそれ以外にあるのかと思われるほど単純な理由だ。彼としては当時の自分の青臭さに恥じ入る思いだが、今でもその動機は間違っていなかったと思う。そもそも実現できるかどうかは別として、その動機が歪んでいてはその後の行動の正当性すらもぼやける。自分自身をも見失った誰かが道をまっすぐに進むことなどできやしない。それを青いと思うのは、まだ自分の精進が足りないが故か。

「六道さん?」

 声をかけられて我に返り、彼はテープを再生する様に途中から話し始めた。

「事故で死んだ機械人形の数は二百に上ります。しかもほとんどが東京都内に集中して廃棄処理される人形が増えていることを考えると、そこには何がしかの因果関係があるように思えてならなかった。そこで私は上司の助言も受けて、被害を被ったであろう人々がどのような仕事に就いているのかを統計的に調べました。読みは当たり、彼らの大半が大手の金融業者や運送業の重役、主権株主、資産家などを商っており、世俗的に考えて業界内での足の引っ張り合いの線が濃くなりました」

 杤原惣介は苦笑した。自分たち探偵が企業間の激しい競争を助長させる一因として、調査活動を名目に金をもらって相手の弱点を調べる汚れ役を引き受けていることを、彼自身はよく弁えていた。現に企業間での外部告発の大半で民事裁判ではほとんどの場合、探偵が収拾したと明言される証拠がいくつか挙げられるし、それを嫌って秘匿する企業ももちろん存在するが、ただでさえ恨まれることの多いこのご時世に自分以外の身代わりの羊の用意は必須戦略と言ってもよかった。だというのに、彼は自分の身ひとつですべてを引き受けることを辞さなかった。その結果が、昨今の機械人形の自殺事件に絡めた秋津清隆所有の機械人形、涼子へ対する揺さぶりであったわけだ。因果応報も往々にしてあるものだと思うと、知らず知らずのうちに笑みがこぼれる。それは自嘲以外の何物も彼にはもたらさなかった。

 まったく、この巨大な現代社会の中で情報だの運命だの、形而下学から形而上学までをこうるさく語っている人間の頭の上から、そうした罰とも取れる何かは突如として降ってくる。それを不幸と呼び、自らの身に降りかかる火の粉の如く払うのは人間の生存本能だ。社会の中でも外でも、人間は自らの傍にある危機を見過ごす事はできない。それが自分に関わるものではないと頭では理解していても、そちらに目を向けずにはいられない。道徳心からじゃなくてそうしないと安心できないのだ。そして安心という感情こそが生存に深く関することでもある。

 いいじゃないか。どこか拗ねた気分で杤原は思う。誰かの悪い行いを自らへの罰で生産するのも悪い気分ではない。そう感じるのは二回だけだろう。秋津清隆と涼子のためがこの一回だ。もう一回は、はて、誰のものだったか。

「そこで、私はそれらの事故で廃棄された機械人形達が、ひとつの埋め立て地区に搬送されている事を調べて足を運んでみると、そこにはプレハブが一軒、廃棄業者の住所にありました。中には相当上の階級に位置する政治家が少なくとも一人と、労働組合連合会、そして反機械主義団体の三位一体で社会から機械人形を排斥しようという企みを記した記録を見つけたのです。この事について物証はありませんが、事の顛末として、信じていただくしかないと思っています」

「なるほどねぇ。大方、その政治家とやらから圧力を受け、これ以上の捜査は監視もつくために続行することは不可能であるとあなたは判断した。それで、私への依頼はその続きですか」

 六道は大きなため息をついた。その仕草だけでも彼がどれほど悩みぬいてここに立っているのか知れた。推測以上に現場でこれらを調べ上げていた六道清二の苦労は大きなものがあったのだ。

「ええ、まあね。お上から頭を抑え込まれちゃ、私達も何もできないんです。あくまで公務員ですからね。市民の意思を代弁しているお偉い先生方から言われちゃどうしようもない」

 ひどく疲れた声で、彼は苦々しげに言った。

「善くも悪くも、日本は民主主義国家です。公僕たる警察官がこの命令に背くことはできません。たとえそれが予算の都合だとか、自分達の黒い懐を探られないからという理由でもね。俺達は法を守ることでしか存在意義を見出せない。それは他者に通ずると同時に、自分自身にも課される咎でもある。今も法を犯しているようなものですが、それ以前に守らなければならない道理があるのも理解している。今は、その両方になるべく背を向けない道を歩くしかない」

 たとえその命令が最大限の理不尽と矛盾に満ちているとしても首肯する以外に選択肢はない。杤原は心の一割ほど、彼に同情した。同時に残りの九割で、自らの職業を探偵としていて幸いだったと思った。

 実の所、杤原惣介には六道清二の立たされている境遇が対岸の火事とは言えなかった。若き日の彼にも警察官になろうと奮闘していた時期があったからだ。今でさえこれほど青臭い進路を謳っていた自分の過去を言いふらすような真似はもちろんしていないため、事務所の誰も知らない秘密である。

 彼が夢に瞳を輝かせて進路を選んだのはちょうど秋津清隆と同じころだった。有名大学の法学部を卒業してそのまま国家試験を経て、世に言う出世街道をまっしぐらに突き進むかと思われていた彼は今にも増して新進気鋭、右手には司法の剣を手にし、左手には才能という杖を握っていた彼の成績はあらゆる分野で抜きんでていた。試験はことごとくで平均点より高い数値を叩きだしており、警察学校に入学しても同僚たちに後れを取ることは無かった。むしろ同僚たちが後輩に思えるほどに突出していた。順風満帆を絵にかいたようなエリートである彼の出生は医者の母と弁護士の父という、これまた人が羨む高給家庭で、彼のこの才能も遺伝的に必然のものといえた。そんな彼がてくてく登りつめた自分の二十数年の人生の末に突如として足先を変えて、出世街道からはほどとおい脇道の評価を世間からなされている私立探偵の衣を身に纏ったのは、一重にそんなキャリアを積んだ人間たちの末路を目の当たりにしてほとほと嫌気がさしたからである。

 そんな彼にとって探偵は天職だ。この業界では文字通り実力が全て。依頼の成功率として数字で示される各個人の力量と、何かを探し続けることを業務とする。社会の風潮に反して金の入りもいいし、無理に上司にこびへつらったり自分の意見を捻じ曲げて相手を尊重する必要も無い。ただひとつ、自分が何かを探し出す、その対象を選ぶ権利を放棄するという、彼にとって最も重要だった点を除けば。

「どうかしましたか?」

「いや、なんでもありません」

 思わずほくそ笑む頬を引き締めても、また笑みが漏れた。思えばこの自分にとって秋津清隆は起爆剤のような人間である。探偵となってからずっと感じていた、矛盾した幸福の中に埋もれて鬱屈していた自分を変えたのは、それ以前に事務所に勤務していた前島冴子ではない。今の杤原惣介にとって、彼自身も気付かぬうちに彼女の存在意義は大きくなっている。それを差し置いても秋津清隆は異質な存在として、目に見えぬ大きな影響を杤原に、いや、彼と関わる全ての人間に与えていた。音叉が共鳴する様に、彼の音色に染まっていく。そしてそれを気付かせるきっかけとして探偵の仕事を手伝う彼の姿から、ある疑問を抱かせた。それには思わず首を傾げずにはいられない。大して自分にとって意味のある事とは思えないこの疑問は、恐らくは社会の大半の人間がそうした人間に抱くであろう普遍的なものであったにも関わらず、それが彼の特異な在り方を指し示すひとつの手掛かりとして存在している事に杤原惣介は気づいていたが、今の今までまともに取り合おうとはしなかった。

 何故、彼はあんなにも一生懸命に仕事をするのだろうか。どうしてこんな汚れ仕事に対して、自分より年下の青年が生真面目に取り組んでいるのだろうか。普通は世の中から後ろ指を指される仕事になど若者が就くべきではないが、彼は自ら進んでやってきた。諦念の中から芽生えたひとつの感情。それは極めて小さな芽だが、いずれ巨木へと成長する。種を捲いたのはもちろん秋津清隆。彼自身が自覚しているかどうかはその眼を見れば明らかだろう。気付かせてやるべきだ。杤原惣介は心からそう思った。あの若者に自分が持っている素晴らしい力を教えてやるべきだ。それが今まで彼と接するどんな他人にも与えてきたのかを。そのことについて自分がどう思っているかを、彼には話さなければならない。人間には誰しも、自分が何を為しているかを意識する必要が少なからずある。行動という概念は自分で認識してこそ意味を持つ。乱暴な暴力にせよ慈愛に満ちた善行にせよ。

 自分はそれを理解できているのだろうか。自問しつつ、今回の事件はそのための第一歩なのだと、自分で自分に答える。

 杤原惣介は書類による審査や調査権委譲などの手続きを飛ばして、とにかく自分の意向だけを伝えた。

「結論から言いますと、今回の依頼、お引き受けします。ただ捜査資料などは提供いただけませんな。そちらの守秘義務は、それはもう厳しいものと存じていますよ。これ以上いらない重荷を背負う主義でもありませんし」

「ハハハ、話が早くて助かります。私も一時期はそれに苦労した若かりし頃がありましたなぁ」

 始めて屈託のない笑みを見せた六道清二は、ウェイトレスが運んできたブルーマウンテンを一口飲むと、遠い目をしていった。

「杤原さん、こういってはあれですがね。今の私は守秘義務というものをそう疎ましく思ってはいないのです」

「理由をお聞きしても?」

「もちろんです。大それた自己憐憫かもしれませんが、警察官としてこうした理不尽な状況に置かれてこそ思う事がある。世の中を取り巻く治安を維持するために働く上で、大局の中で自分がどのような位置にいるべきなのかは重々承知していますが、こうしてあなたに依頼すること自体が警察官にあるまじき行為です。もしかしたらあなたは私のことを恥知らずだと思っているかもしれない。警察官であるには、自分が世の中を守るのだという気概がどうしても必要になってくるものです。他の職業でも、あなたのような探偵でもそうだ。社会に関わることは、巨大な共同体の中で塵芥にも等しい存在である自分の存在意義を見出すことと同義だ。私はいまあなたを含めた市民のに働いている。どこかで家族の一員だった機械人形を亡くして泣きじゃくっている少女のために、自分は苦しんでいる。それだけで警察官になった意味がある、希望がある。今になって、私はようやくその意義を見出しました。この歳になって初めて、社会の歯車以外の見地で自分の存在を見定める事ができましたよ」

 抜け目のない目で、六道清二はカップを傾けている目の前の男へと挑むように問うた。

「あなたはどうですか、杤原惣介さん。探偵という仕事に、大義はありますか。身を賭してでも依頼を成し遂げようとするその動機は何です? この依頼を受ければあなたも無事では済まないことは承知しているはずだ。それでもあなたは依頼をお受けになると仰った。その裏にある打算はなんですか。どんな利益があなたにはあるんです?」

 面白い男だ。しかしそれだけでは世の中を渡っていくことはできない。杤原はコーヒーで喉を湿らせてから、身を乗り出してきた六道に言ってやった。

「あなたはこう言いたいんだ。警察官には使命がある、国民の安全を守るという素晴らしい義務と責任があなたを動かす原動力であり、誇らしいことだと。しかし探偵はどうか、金を貰って他人の私生活を覗き、あまつさえそれを悪意を持っている人間にでも売り渡す下衆な連中だと」

「そうです。匹夫に勝るとも思えぬ外道ですよ」

 その激しい言葉の裏側に、本心は無いだろう。彼はこちらを見極めようとしている。杤原惣介という人間に試練を課しているつもりなのだろうが、さて。今まで試験という試験に対し、最低合格点など気にしたことの無い杤原惣介だった。そんな彼の過去を知らぬのだから無理からぬことでもあるが。しばしの思案の末、そのまま答えることが最善だと判断した。

「確かにあなたの仰る通りだ、探偵は醜い職業です。殊、現代の私達はね。古臭いミステリーにしか登場しなくなって久しいが、探偵といえば華やかで明敏、英雄のような扱いを受けていた時代もありましたが、どうも現代の物より情報を重視する世界においては蔑まれつつある。ましてやあなたが公明正大な警察官ならばそう言われるのも無理からぬことだし、その疑問はあなたがた外部の人間だけでなく我々自身の命題でもある。こんなに汚い仕事をどうして他人から金を貰いつつやるのか? 答えは単純、世に善かれと思っているだけですよ」

 意外な返答だったのか、六道清二は心なしか高い音を立ててカップをソーサラーへ戻した。

「露骨なプライバシーの侵害が、社会に好影響を与えると? そんなことは戯言だ。そんなものは所詮、粗探し以外の何物でもない」

「では逆にお聞きしますが、例えば自分の国にどこかの敵国が攻めてきて戦争になったとして、前線で国を守ろうと戦う兵士を人殺しの集団などと呼ぶことはできますか?」

 返答に窮した六道の表情は険しいが、その両眼は激しい好奇心の光を灯している。この男も同じなのだろう。早すぎる確信を抑えながら、彼が待っているであろう次の言葉を杤原はその口から紡ぎだした。

「できませんよね。そう呼ぶ人間もいますが、それは自分達を陰ながら守る人間たちなど存在せず、この社会において自分は独りで何とでもやっていけるという間違った確信を得た似非自信家が叫んでいるに過ぎない。なぜなら軍隊という存在は実は国民の意志を受けた国の命令でしか戦争ができないからだ。たとえどれだけ軍人が奮闘し、血を流して命を投げ打っても、その行動の根本にある動機が自分たちにあるのだと意識することができなければ、民主共和政治を敷いている意味が半分は薄れるでしょうな。あなたの言うように、それが民主主義を掲げている今の日本人が見落としている部分でね。例外はいつの時代にも存在しますが、どれだけ血気盛んな軍隊であれ民主国家に属している以上は公式に任務に出ることができるのは人民の総意たる政府の命令があってこそだ。北米を見てごらんなさい。少なくとも彼らは自分達の意思を代弁する者を選ぶときにはもう少し注意するし、軍の出動には自分たちの意志が少なからず反映している事も知っている。だからこそ、政府を批判するという権利を獲得するわけだ」

「話が見えませんね。それが私の質問、探偵についてどのような関係が?」

「類似点が多々あるということです。探偵も軍人も、汚れ仕事を他人から命令され、それを非難される。金ももらう。だが六道さん、あなたは探偵から警察、国民への批判など、少なくとも公には耳にしたことが無いのでは?」

「――――」

「私達が探偵をする理由。なるほどこれは重要なものだ。他人の、踏み込んではならない領域までずかずかと土足で踏み込み、踏み荒らしてから出ていく意義。それはただ単に、誰かのために働きたいとか、人の役に立ちたいとかいった、幼稚でしかし尊く高潔な次元で論じている訳ではない。そんな動機ならばそもそも探偵にはならない、あなたのように排斥する側の人間となるでしょう。それでも探偵を志す人間というのは、基本的に探したい何かがあるんです。いわばこれこそが命題といえるのかもしれない。探し続けるにはそれで食っていくしかない。私達は誰かのために探すしているのではない。いつだって、自分のために浮気調査もするし、それを離婚寸前の家庭に報告して家族の団欒を引き裂くのです。誰かの汚れた願いを叶える代わりに自分たちは相手の内側に踏み込んで、自分の目的のために手がかりひとつでも探しだす。そうする事で社会が回るのも事実だ。私達はさしづめ潤滑油といったところです。抑圧された願いを叶える。代わりに、私達は探したいものを探し出す」

 黙り込んだ六道清二は感銘を受けたのか、それともほとほと呆れ果てたのか。そのどちらでもないだろうと杤原は思った。くたびれた警察官と、世に疲れた探偵。このふたつの人種がなんでもない喫茶店で邂逅したことがどんな意味を持つのか、当然なことではあるが個々人にとって違ってくるだろうし、恐らくはその相違点こそが我々が人間である証なのだと、杤原惣介は思った。

「歪んだ社会奉仕活動だ」

 ようやくそれだけ言うと、六道清二は緊張を解いたのか、長い溜息をついてボックス席の背もたれに体を預けた。

「裁判所から社会奉仕活動を通告された被告にも探偵をやらせたくなってきた」

 答える杤原の言葉にも含み笑いが混じる。

「そう言われるのは慣れています。私達は弁えている。自分たちが卑しい知の欲に溺れた愚者である事をね。あなたはどうですか、六道さん。警察官は確かに大義があり、責任がある立派な職業だ。探偵とは月と鼈。もしかしたら蛙かも。しかし人間とは本来、人間を裁くことはできない。それはなぜか。善行のみで構成される人生などありはしないからだ。誰かしらが罪を背負っているにもかかわらず、あなたがた警察と裁判所、検察は人を捕え、裁く。社会の常識と安全という数の暴力に従って。それが国民の意思であることは確かに間違いがない。だが、だからといって他人を拘束し、あまつさえ死刑にも処する所業が本当に許されるのか。罪を清算するために罪を重ねるのではそこらの殺人鬼とやっていることと坑道的に大差ない」

「だが、そうでもしなければ社会は犯罪者だらけになってしまう。社会の崩壊だ。誰かがやらねばならないことを俺達が肩代わりしているだけです。その点について罰が必要ならば、私は甘んじて受ける覚悟ですよ。事実として、警察や検察、裁判所などから構成される公の治安維持組織が社会の安寧に寄与していることは疑いようのない事実です。そこから考えれば、答えはおのずと明らかなのでは?」

「探偵だってそうです。あなたは他人のプライバシーを侵害すると言いましたがね、そうすることでしか行方のわからない息子を十年近く探し回っている父母や、一生の思い出と指にはめていた婚約指輪をいつの間にか失くしていた女性、何よりもまず子供のためと、家庭内暴力に明け暮れる夫との離婚を勝ち取るために身辺調査を頼んでくる痣を作った母親は救うことができない。彼ら、彼女らが私の引き受ける依頼の一割にすぎないとしても、残りの九割の汚れ仕事を私が引き受けることで助けられるなら、それに意義はあるだろう」

 先ほど運ばれて来てすっかり冷めきったマグカップを持ち上げ、口を付けることなく六道清二はソーサラーにカップを戻した。その瞳には敗北感とも自己憐憫とも違う、確かな信頼の色が浮かんでは消えていく。彼自身が本心からこの議論を吹っ掛けたのではないことを知っているからこそ、杤原惣介は真摯に答えた。お互いにわかりきった真意。しかし表面上、言葉でしか伝えられぬ何かがあるのも、また事実だった。

「お互い様ですか」

 ようやくそれだけ呟くと、六道は微笑んだ。久々に骨のある奴に出会ったと思った。代わりに両手を膝の上に置いて、きちんとお辞儀をする。

「あなたの考えはわかりました。こちらの無礼、お詫びします」

「なに、このくらい。それこそお互い様です」

 笑って答える杤原は、一転して表情を曇らせると意地の悪い笑みを見せた。

「時に、六道さん。先ほど、あなたは機械人形の機能停止を死と表現しましたね。まるで彼らが生き物である様な口ぶりだ。あなた自身、機械人形についてどうお考えなのですか?」

 純粋な好奇心のみの質問に、自分でも意識するほどのお人好しを発揮して、六道は真面目に考え込んでしまう。

「そうですね。機械人形はあくまで機械だ。しかし、これほど人間の生活に深く食い込んだ自律する機械は前例がないでしょう。機械人形をただの機械と認識するのはもう不可能だ。無理なんですよ、どう考えたって。ならどう見ているのかと言われれば、私には答えられません。それは、これから人間が考えていかねばならない事のひとつでしょう。でも、それは機械人形にとっても同じことです。彼らも人間について、自分達との関係についてを深く考え直す必要がある。既にその時期に入っていると思います。何しろこの問題は人間だけには重すぎる。そもそも、ただの人間にはこんなことを議論する権利すらないような気がする。義務はありますが、それとこれとはまた別の問題です。餅は餅屋、それは人間と人形にも通ずる諺だと思いますがね」

 六道の言葉に、杤原は力強く頷く。権利があるとすれば、それは秋津清隆と涼子だろう。彼らの関係は激動の中にある。どんなに安定させようと努めても決して平坦にはならない関係だ。

 ふと思う。もしかしたら、彼と彼女こそが新時代の幕開けを意味しているのかもしれない。機械と人間が、お互いに次の段階へ手を手を取り合って上るための先遣隊。新たな境地を切り開く開拓者。いつだって新たな地へ旅立つのは、男女一緒だと決まっている。

「秋津君、後悔だけはするなよ。彼女を手放すな」

 そう念じずにはいられない。

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