「家族、ただし人形」
「さて、どういうことか説明してくれよ、六道先生」
帰り道、始終無言のままだった六道清二と署に戻った後、田邊敦彦は問うた。彼はオフィスの隅にある自販機を叩くようにして炭酸の栄養ドリンクを二本買うと、ご丁寧に蓋を開けて六道に手渡してきた。人影のまばらな自販機横はこういった裏話をするのに絶好の場所だ。署内の隅にあるだけに少し肌寒くはあるが、残暑を乗り切ってちょうどいい気温となっている最近ではさして気にならない。あと何週間かしたら、ここで温かい缶コーヒーを片手にぶるぶると震える時期がやってくるのだろう。
「いいですよ。ひとつ講義をしましょうか、要点をまとめて」
「頼む」
六道は一息で缶を乾かし、酷使している脳へ少しでも栄養を補給させる。味に反して、それほど即効性を期待できそうになかった。
「あのファイルに書いてあった内容を簡単にまとめると、三つの部分に省略できます。ひとつ、反機械主義団体である人間主義者とかいう団体と日本の政治家、そして労働組合の癒着。ふたつ、昨今の労働組合が直訴状を政府へ提出する騒ぎは厚生労働省の役人が入れ知恵したという事。みっつ、俺達が追っている事件とは全く別の問題であること」
驚いて、田邊は缶から口を離してむせ返った。
「みっつめ、どういうことだ? 俺達が追っているのと違うだと? だって、連続自殺事件を追っていたらあそこに辿り着いたんだぞ。関係ないなんてそんなわけあるか」
「まあ、何とも言えない微妙なラインです。最初から説明しますと、厚生労働省勤めているお偉いさんが労働組合に不満が溜まりつつあった数年前には既に、機械人形による人間社会での社会問題はもう手に負えないところまで来ていると気付いた。俺たちにとっちゃ機械人形は人間の友ですが、その筋の人にはこれが体に転移していく癌細胞と思えたんでしょう。侵蝕は止められないし、特効薬も無い。そして気が付いた時には手遅れだった」
「的確な比喩だ。機械人形は誕生と共に、人類の代替として用いられてきた。そっくりそのまま、人間の仕事を肩代わりする。細胞が突然変異を起こすのとなんら変わらんな。厚生労働省は仕事という分野を扱うわけだから、そう思ってどうにかしようと思っても不思議ではないわけだ」
「ええ、そういうことです。癌細胞は宿主に害を与えます。人間社会への害といえばもちろん、産業従事者の大量失業でしょう。機械人形は人間の代わりに働きますが、同時に入れ替わって暮らすんです。なら、元々その場所で暮らしていた人間はどこにいけばいいのか? 少なくとも国は保障してくれません。現行法では何ともいえないところですからね。しかし、現実として労働組合にそういった人間が大量に流入している事に目を付けた首謀者は、これを利用しない手はないと思ったのでしょう。機械人形に不満を抱いている人々が一カ所に集まっていた」
「反機械主義団体はどうだ、その人間主義者ってのは。世界的なところだと機械人形排他連合か? 人間主義者という名前は擬装かもしれん。彼らが主導して機械人形の自殺を引き起こしているのかもしれんぞ?」
「わかりません。もうひとつの勢力である反機械主義団体に関しては、自らのことと同様に巧妙な筆捌きでぼかしていましたから。組織の力関係から見て、反機械主義団体が元々労働組合と裏で内通しており、イモヅル方式で首謀者の目の前まで現れた、というのは考え過ぎですかね。海外にある団体がここまで大きな影響力を日本で行使しているのは信憑性がない。それよりも労働組合が雇用主に対して復讐を行っていると考えた方が自然ですよ。あの被害者リストを見る限りはね」
傍を事務係の婦人警官が通った。彼女はたむろしている二人にきつい一瞥を放ってから缶コーヒーを購入すると、そのまま踵を返して自分の仕事に戻っていく。その様子を眺めていた二人はほぼ同時に苦笑いした。
「労働組合は元々、各方面の労働者が集まってできている全国的な組織だ。昔は健全だったが、それ故に活動は控えめに行われていた。穏便な手段こそ正当で最も強力な主張手段だと気付いていたんだな。しかし機械人形の台頭と共に労働者の大量失業が社会問題化すると、一気に過激な反対運動へとつながった。それは現代社会から労働者に対する不遜な挑戦だったんだろう。この裏に、反機械主義団体がこの事件の首謀者より先に接触を図っていたとしても不自然ではない。そこから、敵の敵は味方という理論が成立した。なのに別の事件で済ませるのはなんでだ?」
「それは、田邊さんがいま言ったでしょう。強硬手段に出るってことはリスクが大きい。いくら機械人形へ不満を抱いているからといって、直訴状を提出するという民主的な活動をしている団体がそんな過激なことを裏でしますか? 明るみに出れば機械人形排斥や政府批判の矛先は欠けます。それだけはなんとしても阻止しなければならないでしょう」
「となれば、これまでの捜査で探そうと思っていたのとは全く別のもんを掘り起こしちまったってわけか」
「そういうことです」
頭の痛い問題に二人が同時に頭を抱え込んだ時、田邊明彦の携帯端末が鳴った。軽く会釈してから自販機を離れ、端末に向かって何事かを話していた彼は、心なしか居住まいを正して六道を見た。電話を左耳に押し付けたまま離す彼の会話の断片を、六道は落ち着かない気分で聞くしかなかった。それらをつなげていくほどに、事態が思わぬ暗礁に乗り上げている事を自覚していく。
「やばい事になった」
やや青ざめた顔で帰ってきた田邊に、心ばかりの栄養ドリンクの空き缶を差し出すと、彼は手で押し返して声を低くした。
「お上から圧力が来たそうだ。今、情報犯罪課と二課にいる二人の捜査官に、今の捜査を即刻中断する様に伝えろ。そういうお達しが来たらしい。今の電話は署長からだ」
思わず、六道は口笛を吹いた。
「へえ。こりゃ意外と、早めにお偉いさんも手を打ってきましたね。いつもそれだけ腰が軽けりゃ検挙率も上がるってもんだ、ちくしょう」
「六道、変な気を起こすなよ。この件は俺とお前だけで進めてきたことだ。どちらかが動けなくなれば、いざという時に本当に何もできなくなる。猿轡を噛まされて声にならない悲鳴を上げさせられる羽目になるかもしれん」
「わかってますよ。それにしても面倒な事だなぁ。ここまで苦労したってのに、強制退場とは」
肩を落とす六道。彼の閉じた瞳が見つめる記憶から、落ち込んだあの有紗という名の少女の顔が無表情のまま彼を見つめ返していた。
*
残暑の気配などとうに過ぎ去り、かわりに木の葉を色づかせる秋がやってきた。
名も知らぬ広葉樹が立ち並ぶ横浜港を歩けば、足下に散ったからからに乾いた枯葉が音を立てて風に巻かれていく。空気は不思議と心地よい朽ちた香りを連れてくる。胸いっぱいに空気を吸い込めば、隣を歩く涼子が物珍しそうにその様子を見つめた後、履いたパンプスで路面に散らばった枯葉を踏み砕いた。鼓膜を揺らす音がまたひとつ増える。
いくつかの路線を乗り継いでやってきた久々の土地に、清隆は感慨深いものを感じる。それも涼子と二人でとなると、その思いは一層深まるばかりだった。
「ここに来るのは、清隆が大学一年生だった時以来ですね。あの時より、私はあなたのお役に立てているでしょうか」
秋津清隆の心境を悟ったのか、自分の人工毛髪に引っかかった黄色い葉を手でつまみながら彼女はつぶやいた。清隆はピーコートのポケットに両手を突っ込んだまま答えた。
横浜の海沿いは風が強い。太平洋から暖かい南風は上空へと吹き上がり、関東平野から降りてきた寒波が今は街を包んでいる。滅茶苦茶に入り乱れる風の奔流の中で、涼子の長髪は乱れに乱れていた。何度も髪を手で押さえてはいるものの、今のところ徒労に終わっている。
「もちろん。男の独り暮らしとは思えないくらい快適に生活できるのは、君のおかげだよ。炊事に洗濯、掃除、他いろいろな事を君に任せっきりだ。涼子がいなかったら、僕は今ごろ死体で発見されていたかもしれないな」
清隆は一度だけ、癇癪を起して家を飛び出したことがあった。二十歳間近になっての、初めての家出だ。とにかくがむしゃらに遠くへ行こうとして、手当たり次第に乗り換えてやってきた先が、この横浜だった。その時はなけなしの金と携帯端末だけを引っ掴んでの逃避行だったので、電車賃はすぐに尽き、やがて迎えにやってきた涼子と連れ立って家まで戻ったのだった。どんなに反抗しても未熟なことしかできない自分の狭量さを悟り、恥ずかしさで真っ赤に顔を染めた自分とさらりとした表情の彼女が歩いていそうな気がして、清隆は周囲を見回す。あの時、自分が腹を立てたことがなんだったのか、彼自身すこし曖昧な記憶の底に閉じ込めたままだった。忘れたがっているのは自覚している。忘れきれない思い出は胸の底に沈んだまま重石となって残っていた。
「ありがとうございます」
微笑み合うと、気恥ずかしくなって清隆は目をそらしてしまう。また歩き出せば、山下公園から右手に広がる横浜港の穏やかな海が彼を迎える。不思議な色を湛えている波間を眺めながら、大桟橋方面へと足を向けた。今日はそのまま歩き続けて、横浜駅あたりまで行ってみるつもりだった。もしかしたら桜木町駅でギブアップかもしれないが。ここ二年間、デスクワークに専念してきた清隆にとって、久々の外出は運動不足の体に堪えた。もちろん、涼子は疲労など微塵も感じさせない顔である。
照れ隠しに咳払いしてから、清隆は話題を転じた。
「それにしても、所長もよくわからないよな。働きすぎて上司に怒られるのなんて初めてだ。そりゃ、確かに頑張りすぎたとは思うけどもさ。普通はそれで喜ぶものじゃないのか、上司って」
涼子は慎ましやかに腰の前で交差した手を解くと、おもむろに清隆の右眼、その下を指で優しくなぞった。冷たい指先が、海風で荒れ始めた肌を滑る。強い横風で、彼女の髪の毛に隠された赤いチョーカーが露わになり、涼子は器用にもう一方の手で髪の毛をなでつけた。
「仕方がありませんよ。私から見ても心配になるくらい、目の下にははっきりと隈が出来ていますし。ここ一週間はほとんど休むことも無かったではないですか。一日くらい休暇を取らせないと、体を壊してどうにもならなくなると杤原様は考えたんですよ。私も、そろそろ有給を取るように言おうかと迷っていた頃でした」
機械である証を見せられながら人間らしい思いやりを口にされては、頭がくらくらする。そのせいか悪戯心が鎌首をもたげ、清隆は意地悪い顔で言ってやった。
「へえ。それじゃ、君も杤原所長と同じで、僕のことを心配してくれているんだな」
言われた涼子は、傷付いた顔になってみせた。
「当たり前です。何を言っているのですか、清隆は」
「冗談だよ、冗談。わかってるさ、そんなことくらい」
すっかり拗ねた彼女は、唇をすぼませて肩をぶつけてきた。秋津清隆は心が跳ねる様な気分を味わいながら、そのまま見えてきた大桟橋を指さす。そこには大型の貨客船が一隻停泊しているのが見えた。近くには横浜市港湾局の逆台形をしたシルエットが見え、さらに奥には海上保安庁の基地がある。日本でも有数の港である横浜は、毎日膨大な量の船舶が往来する日本の加工貿易産業を支える屋台骨だ。その管理や入出港手続き、はたまた横浜港周辺の土木事業までを監督しているのが港湾局である。神奈川県民ホールの建て替え工事で沸き起こる騒音を遠巻きに聞きながら、そのまま大桟橋へ続く一本道へ出ると、ひときわ強い風が二人の髪の毛を巻き上げる。
たまらず、どこからともなく取り出したヘアゴムで、涼子は自分の長い髪を一纏めにして左側から垂らした。即興のサイドテールにしては似合いすぎているところが、さすが機械人形というべきか。人間ならこの強風の中、こうもうまく髪をまとめられないだろうし、できたとしても鏡も見ずに髪をセットするなんて考えられない。
ぼんやりと彼女を見つめている清隆へ向けて、涼子はいった。
「清隆。昨日の夕食に何を食べたか、覚えていますか?」
思わず顎を抑えて考えてしまう。唐突な質問に面喰ったせいか献立がぼんやりとしか浮かばず、酷使し続けた脳が痛み始めるのを感じた。なぜ、彼女はそんなことを問うのだろう。
「サバ味噌、だったかな。かぶの糠漬けが添えられていたのは覚えてるよ」
「半々といったところですね。お疲れの様だったので教えて差し上げますが、昨日は鯛の刺身とかぶの糠漬け、そして豆腐と油揚げの味噌汁です。遅いお帰りでしたので、胃に優しいものを選びました。実は感想を聞きたかったのですが、その様子だと聞いてもお答えにはなられないようですね」
恥じ入って、清隆は羞恥心と嬉しさがないまぜになった複雑な気分のまま頭を下げた。涼子はその頭を軽く指でつつくと、今日は何が食べたいのですかと聞いた。
「そうだなぁ。本当はこのまま外食で済ませようかと思っていたんだけど、なんだか家で食べたくなってきた」
「家の料理が食べたくなったという意味ですか」
妙な言い回しをするものだ。清隆は深く追求しないようにした。
「そうだよ。で、今日の献立か。何がいいかな……久々に肉が食べたい気がする」
「それでしたら、買って帰らないといけませんね。フフ」
「何がおかしいんだ」
「いえ。海が目の前にあるのに山の幸がお食べになりたいと仰るのは、清隆らしいと思いまして」
今度は彼の方が頬を膨らませる番だった。不貞腐れて大股に歩幅を取ると、涼子は苦笑いしながら小走りに追いかけてくる。
まっすぐに進んでいくと、大きな木板の貼られた一台建造物が見えてきた。これが大桟橋である。屋上は一般に広く開放されていて、芝生が植え込まれた一部の床板は土が盛られ芝生が植わっているので立ち入りは禁止されている。中央の停泊している船のための出入港エントランスロビーは一面がガラス張りで、その周囲はコンサートホールよろしく段々となった床板が扇状に囲んでいた。さらにそのホールの直上からは海側に数百メートル奥まった所から見える港を一望できる、絶好のデートスポットである。数組のカップルが手に手を取って海を眺めて話に花を咲かせている中、一人と一機はそんなことを気に掛ける様子もなく桟橋の縁まで行くと、金網状の鉄柵に寄りかかるようにして海の景色を満喫した。風は強かったが、そんなことは気にならないくらいの解放感に清隆はしばらく酔いしれ、ふと隣でサイドテールを押さえる涼子を見やった。
「涼子。君、海が好きなのか」
「え? どうしたのですか、突然」
「いや、凄く嬉しそうな顔をしていたからな。安心したよ。ついこの間みたいにはならなくて」
ここまでやってくる事は、実は反対だった。涼子はまだ本調子ではないと思われたし、彼女が大変な時に自分は鳴海遥と盃をぶつけていたのだから。帰宅後、彼は丁寧にそれについて謝罪したが、案の定、涼子は両手を振って恐縮してしまって、会話どころではなかった。結局、それから金輪際このようなことはしないと彼女に約束し、彼女もよくわからないままそれを承諾することで事なきを得た。きっと、内心ひどく寂しい思いをさせていたに違いない彼女に対して、清隆が大きな負い目を抱いているのは変わらなかったが、そんなわだかまりもこの旅で消え失せそうだ。小旅行というほどでもない遠出は日常から解放されて羽を伸ばすには絶好の機会だろう。東京から神奈川までのアクセスは容易だから、彼女にもあまり負担をかけずに済む。
「あまり思い出したくないだろうから、詳しくは言わない。今日は君が普段通りに過ごしていて、とても安心したよ」
「そうですか。御心配をおかけしました、というべきでしょうか?」
「言うべきではないだろうな。気遣いっていうのはそういうものだ。そこはただ一言、ありがとうと言えばいい」
「ありがとうございます、清隆」
「どういたしまして、涼子」
そうしてまた海原へ視線を戻した時、二人の右隣りに一人の車椅子に乗った老人と、それに付き添っている男性型機械人形がやってきた。どうやら老人はここの常連であるらしい。大きな声で機械人形に向かって、大桟橋の歴史をとくとくと説明している。どうやら元港湾局員として横浜港の運営に携わってきた老骨のようだ。詳しい彼の説明に清隆が首を傾けると、人形の彼と目が合い、不器用に苦笑いしながら軽く会釈してきた。機械といえどもご苦労なことだと、清隆は気にしなくていいと軽くジェスチャーを送る。すると彼もうなずき、それからは老人の話に付き合って相槌を打ち始めた。機械人形とはいえ、この役回りは同情に値する。だがどこか微笑ましいその様子に見入ってしまっていた。
「海は好きですが、海のせいではありません」
「え?」
老人から涼子へ視線を転ずると、いつの間にか清隆をまっすぐに見つめていた彼女の視線とぶつかった。
「先ほどの質問です。まだ、お答えしていなかったので。海が好きなのかと仰ったでしょう?」
「ああ、その話か」
「はい、その話です。海を見るのは二度目ですが、前回のことを思いだして、なんだか嬉しくなりました。清隆が家出した時のことです。私は独りで電車を乗り継いで、あなたの携帯端末から送られてきたメールの文面に書いてある大桟橋の先、つまり今まさに立っているここまでやってくると、あなたは曇り空の下、今みたいにポケットに両手を入れて海を眺めておいででしたね」
「そうだったかな。もう昔のことだから、あまり覚えていないよ」
言いつつ、彼女の言葉に当時を鮮明に思い出している。あまり自分の若い頃の話はしてほしくないものだ。そう考える自分は大人になれたのだろうかと訝しみながら、彼女の顔からむりやり視線を引きはがす。
あの日のことは覚えている。鉛色の空。どこまでも続く灰色の雲のゆっくりとした流れを眺めて海風を感じながら、涼子のコーヒーについて考えていた。受験勉強の最中、何も言わずにコーヒーを淹れて置いていった彼女の気遣いに、清隆は腹を立てた。機械人形は人間に命令されたことしかしないのだと思っていた。それが彼女たちの存在意義だったはずが、人間味のある思いやりまで見せられては他人に対して無関心を装う大抵の人間よりもよほど健全で、高潔な生き物ではないのか。そう実感してしまったからだ。いま思えば、自分はなんと危険な自己同一性の危機を背負っていたのだろう。自分が人間であることにすら意味を見出せなくなったのならば、自意識の中で自らを支える何かは他に残るだろうか。
機械人形は人間に近づいていく。鳴海遥とあのイタリアンバーで交わした会話が思い起こされ、思わず清隆は身震いした。もしかすると、機械人形が最終的に行きつく先は人間という器ではないのかもしれない。考えれば考える程、機械人形は人間より洗練された存在だと思う。何しろしっかりとした目的意識を持って過ごしているのだから、ただ目の前の欲に駆られて衝動的な間違いを犯す人間とは根本的に異なる。
だからだろうか、彼女を受け入れる気になったのは。髪を抑える隣の彼女を盗み見ると、涼子は空を飛んでいくつがいの鴎を目で追いながらいった。
「工場で生産されて目が覚めた私の最初の記憶は、部屋です。天井は少し高くて、四方をのっぺりとした白い壁と天井には灰色のパネル、その間に覗いた蛍光灯の光。それらは全く新鮮には感じられませんでした。何故なら、世界とはそういうものなのだと知っていたからです。私には普通の生活を営むため、その中で人間を支えるためのあらゆる機能と知識が詰め込まれていました。それがなければ、きっと赤子の様に泣き叫んでいたでしょう。清隆、そんな私が、今ここまでやって来て感じたことが何かわかりますか? 当ててみてください」
しばし考えた末に、清隆はありそうにない答えを出した。
「驚き、かな」
風に流されて、涼子は少しだけ手摺に身を持たせながら清隆へと寄った。体温の無い彼女だが、少しだけ風が和らぐ。近すぎる気もするが、彼女なりの配慮に頬が緩んだ。
「正解です。私は驚きました。今まではどんな場所にいってもそれは地図にある場所ですし、万が一違ったとしても、それはネットで検索すればすぐに修正できるものです。私達の論理集積回路は自らの保持する情報と生活に齟齬が生じた場合、常に現実を優先するようにできています。驚きというより、情報を修正するただの作業です。ですが、今しがたここに来て、この景色を視界に納めた時、私は驚いた」
僅かに顔を傾けると、彼女の幸せそうな笑みが目に入る。僅か一メートルも離れていない位置にある顔と髪、それら機械人形たる彼女のどこが人間と違っているのかを考えた時、そんなことはもうどうでもいいと思えるほどの暖かい何かを感じながら彼女の言葉を待った。
「あなたも、この景色を見ていたのですね。私は機械人形として生まれ、人間に尽くす事が意味。ですが、私はあなた方のことを何も理解してはいませんでした。あなた達は喜怒哀楽の全てを持っています。人形である私は笑うことはできても、泣く事はできません。人の真似をして悲しんで見せるだけです」
「だけど、それは君の責任じゃない。自分で言ったじゃないか、自分はそう作られたのだと。泣けないから悪いなんてことは無い。むしろ、君には笑っていてもらいたいと思う」
機械人形の制作者は、飲食機能は装備させても涙は実装しなかった。世界で初めての人形を手掛ける時、人間の近似を目指していたのならばなぜ涙を与えなかったのか、今ならわかる気がした。人間は感情を持っているが、機械人形には表現の術として、喜び、悲しみなどが論理集積回路のひとつの変数として持ってはいるものの、人間の様に大声を上げて泣くことはできない。それは一重に、自分が生み出す新しい何かの形として、涙をこぼす姿を誰も見たくは無かっただけ。だが、同時に彼女の抱いている苦悩も彼にはある程度、理解できてしまうのだった。きっと苦しいのは、本当に胸を痛めているにも関わらず涙が浮かばない自分という存在があまりにも薄弱なものに思えるからで、それが誰の責任であるかということは彼女にとっては二の次なのだ。恐らくは清隆にも恐縮しているに違いない。彼女は機械人形として、あまりにも純度が高すぎる。人の形をしながら、人形である事への固執を捨てきれない何者か。それが涼子の正体であり、彼女の抱える苦悩の原因でもあった。
秋津清隆にしてみれば、そんなことは関係が無い。涼子が機械人形であるかどうかという問題は、涼子が責任の所在をどこに置くかに無関心であるのと同様にどうでもいいことだった。彼にとっての涼子という存在は、秋津家で独り暮らしをしている自分の傍らで生活を営む彼女であり、それが人間であれ人形であれ、はたまたそれ以外の何かであれ、それほど重要な問題ではない。
そう、重要といえばお互いの相手を見る目に違いがある事が最も重要な問題だった。境界線とは何事にも引かれるべきであり、考え方によっては何かと何かを分ける境界こそがそれぞれの存在を保つ外殻であるともいえる。しかし、それは自らの皮膚であり、他人とひしめき合った皮ではない。確かに自分の物であり、他人と感覚を共有する不気味な代物ではない。所有権は自らにのみ存在する。だというのに、境界は得てして他の何かと接していなければ存在できないものでもある。空白であるにしろ他人の皮膚にしろ、人間の場合は他者の存在だ。相手が何者であるか、どんな性格でどんな風貌をしているのか。それらの要素が境界を通して自分に通じてくるのだ。涼子は、境界線の向こう側に拘り、秋津清隆は無関心を貫いている。この違いが、二人の間に目に見えない決定的な溝を刻んでいるといっても的外れな表現にはならない。
そうして清隆が何か言いかけた時、それは起こった。
突然、老人の車椅子を抑えていたあの男性型機械人形が、車輪をロックして歩き出した。青いチョーカーが海の色と重なる。老人は大声で話し疲れていたのか、肩で息を整えながら彼を眺めている。誰しもが何の気なしに彼の一挙手一投足を眺めていた。ただ、気まぐれ以外の何物でもないと思えるほどに自然な足取りで手摺へと近づいていく人形の表情は消え失せていて、先ほどまで老人の相手をしていた余韻などは微塵も感じられない。
しかし彼が清隆と目を合わせた瞬間、不安は確信に変わった。
一気に地面を蹴ると、清隆と涼子が見つめる前で、十メートルはある二階部分から転落防止用の柵を飛び越えようとしていた。人形らしい優雅で俊敏な動きに、なんとか反応した彼は咄嗟に止めようと思ったが、間に合わない。それを悟ってそのまま涼子の頭を胸に抱いた。彼女に見せるべきではないことは、彼にはもう痛いほどわかっていた。
悲鳴が上がる。木板を叩いていた彼の足音が消えるのを耳にしながら、清隆は心なしか震えている涼子の肩を抱き、耳元で大丈夫と囁き続けた。サイドテールを撫でて、ただ彼女が傷付かないで済む様に祈るしかない。
鈍い音が響く。金属製の何かが砕け散る音と共に、あとに残されたのは虚しくも彼女の心に残された傷だけだった。
「偶然にしてはあまりにもできすぎているな。まるで狙いすましたかのようだ」
電話口の向こうで杤原惣介が言う。そんなことは秋津清隆にもわかっているものの、沈痛な面持ちでリヴィングのソファに座り込んでいる涼子の顔を見れば、彼のあまりにも無神経で間延びした言葉は神経を逆撫でした。清隆は、やり場のない剥き出しの感情を電話機越しに杤原へとぶつける。
「ええ、そうですね。きっと運命ってやつでしょう。こんな運命、糞食らえだ」
なぜなのか。心の中で行き場のない憤りを叫ぶ。なぜ彼女が、こんなにも辛い思いを抱え込まなければならないのか。偶然ではないとしたら必然、運命だとでもいうのか。だったら運命など糞食らえだ。傷付く謂れの無い存在を傷つける理不尽な出来事ほど頭に来ることは無い。杤原惣介は珍しく言葉を荒げている秋津清隆に思う所があったのか、それとも年の功がそうさせたのか、ややたしなめるように声のトーンをさげる。
「落ち着け、秋津君。君が怒ってもどうにもならない。それよりも、こいつはかなりきな臭い出来事だぞ。そうは思わないか?」
意外な彼の切り返しに、清隆は一瞬、思考を停止した。ややあって何とか自分を落ち着けるためにひとつ深く息を吐き、空いている右手で頬を擦る。そうだ、まずは落ち着かなければならない。涼子をこれ以上不安にさせるわけにはいかない。この家で彼女と接しているのは自分だけなのだから、その自分が不安定な状態になってしまっては彼女が安定するわけが無いのだ。考え方としてはインコに似ている。自分の行動が相手に如実に影響を与える。汚い言葉ばかり口にしていては、インコは馬事雑言しか口にしなくなる。それと同じで、こちらが安心するようにしてやれば、涼子もいくらか安心するに違いない。的外れな想像ではあるもののとにかく自分を納得させる。また少し間を置いてから、多少は落ち着いた心持でいった。
「どういう意味でしょうか」
「考えてもみろ。涼子ちゃんは、今回で機械人形が死に至る場面を目にしたのは二回目だ。もともと機械人形の自殺行為自体がそれほど数は多くないのに、何故、彼女は二度も目にした? リリィの時は君が事務所へと彼女が連れてきた時。今回も君が彼女と付き添って外出している時だ。本来起こり得ない偶然が起きている。そこに何か手がかりがあるような気がするんだ」
「仰りたいことがよくわかりません。彼女を傷つけてどうなると言うんです。そんな事をして困るのは、彼女自身と、僕くらい――」
言葉を飲み込み、清隆は思わず電話機のケーブルを強く握りしめていた。自分の低い声に我ながら驚く。
「まさか、所長」
「そういうことだ。つまりは、涼子ちゃん自身を標的にした訳ではないだろう。もし仮にだが、自殺する機械人形が外因によってその行為に走ったのだとしたら、こいつは一大事だぞ。何せ、社会には何千万体もの機械人形がすでに普及しているのだからな。これら全てを操り、自殺させる可能性を持つというだけでも、社会機能を麻痺させるに十分すぎる武器を手にしたも同じことだ。特に農業従事者や福祉系の職業なんかは大打撃だろう。いずれ改良された個体が回ってくるにしても、そのためのリコール騒ぎが収まるまではマンパワーの大きな不足に頭を抱えるしかない。人形はいくらでも数を作れるが、人間はそうはいくまい? 求人を出そうにもこのご時世だ、人手など見つからんよ」
強烈な眩暈を覚える。思わず眩んだ目を手で押さえつけながら、清隆は身を引き裂かれる思いで涼子を振り返った。ぼんやりと窓から見える赤い空を眺めている彼女は、横浜に出かけたあの紺色のジャケットとカーキ色のロングスカートという出で立ちのまま、髪の毛も束ねたままで呆けたように景色を見ている。魂の抜けた、という表現は機械人形への形容詞として適切ではないかもしれないが、リリィの自殺を目撃した時と同様、彼女の行動にはなんの気力も感じられなかった。
彼女があそこまで傷付いているのが、他人の害意が働いた結果だとしたら。その恨みが自分に向けられたものだとしたら。その可能性をわずかでも考えただけで、彼の胸を締め付ける様な罪悪感が容赦なく襲った。
探偵は疎まれることが多い。それは承知していた。自分も何かしらの被害を受けても構わないと思っていたし、むしろ当然だと思っていたが、今回の一件は全てが想像の範囲を遥かに超えている。まさか、個人攻撃のために機械人形が間接的な役割を果たすとは思ってもみなかった。極めて効果的で賢い、かつ陰湿でずる賢い手段であると言わざるを得ない。人間を直接攻撃すれば、最悪の場合には逮捕される場合も多い。特に怨恨の類となれば歯止めがきかなくなる傾向があるから大変なことになる。そうなれば警察に電話をかければすべてが収まってしまうが、機械人形を攻撃するとなれば、秋津清隆のような人間にとって何の証拠も残らない完璧な妨害交策となってしまう。
「なら、僕のせいで彼女は――」
秋津清隆が口にしたそれ以上の自己嫌悪を、杤原惣介は許さなかった。
「君が気に病む必要はない。恨みを買っているのは私だよ。それと、今も事務所で計算機を叩いている冴子……痛いぞ! 文鎮を投げるやつがあるか! というわけで、この件で君は怒りこそすれど、自己嫌悪のあまりに彼女の前で俯くなどは以ての外だぞ。怒りの矛先、その向けどころがわからないならとりあえず私に向ける事だ。君の責めなら甘んじて受けるし、それで君自身が再起不能になっては第三者の思う壺だからな」
思わず笑みが漏れる。確かにその通りだ。謝罪と共に指摘をくれる彼の態度は、懺悔にしては殊勝にすぎないだろうか。皮肉な事に、それは的を射すぎていた。言葉に改めて深呼吸する。
さすが杤原惣介だ。切れ者、その言葉が似合う男。こうして自分は、怒りの矛先を見も知らぬ誰かへ向けているのだから、その誘導は上手くいったと見るべきだろう。
「今から怒りのはけ口になろうとしている人間の言葉じゃないですよ、それ」
「違いないな。だが理解できないわけではあるまい。この自然とも思える不自然の中には、醜い人間の意志が無数に潜んではせめぎ合っているってことは、今まで俺の隣でさんざん見てきただろう。この社会では、誰でも他人の悪意を受け止めずには生きちゃいけないのさ。ただ数が多いか少ないかの比較でしかない。しかし悪意の所在はたしかにある」
「所長。まるで機械人形よりも人間の方が劣っているのだと言わんばかりですね」
杤原惣介は自嘲気味な笑いをしてみせた。
「逆に、君はそうは思わないのか? 私は今回のことで痛感したよ、こんなことをしでかす輩はもちろん人間しかいない。どこかで機械人形の三命題を無視した不登録個体がいるのならば話は別だがね。だが原則として機械人形はそうは作られないもので、後天的に何か手を加えようとしてもハッキングを受け付けないものだし、その可能性は無い。消去法だよ。小学生でも使う三段論法だ。あれでもなくてそれでもない、ならこれしかない、とね」
たとえ機械人形相手でも、下衆のすることは一緒だ。杤原惣介はそう言い放った、他でもない秋津清隆に。人間は機械人形を、果たして機械以上の何かだとみなしたことがあるだろうか。社会全体で機械人形が様々な問題の種となっているのは事実で、その中で人間の彼ら、あるいは彼女らに対する愛憎が入り乱れているのも事実だ。
清隆は、あの夜に鳴海遥と話したことを思いださずにはいられなかった。機械人形の果ては人間に限りなく近い何か。果たしてそこに機械人形が辿り着いた時、あとに残るのは人間と同じ複製であるのか。仮にそうだとしたとき、人はそれを人間と見る事ができるのだろうか。杤原惣介は一人で考え、そこに到達したに違いない。秋津清隆の達したその境地に、彼はたった独りで踏み込んでいる。鳴海遥という同行者がいなければ、恐らくは一人で悶々と疑問を抱き続ける毎日となっていたに違いない。そして彼は受話器の向こう側から問うた。君はそのことについて何か答えを出したのか、と。
もうここまでくれば、涼子に対する自分の中にある感情を誤魔化しておくことはできないだろう。今回は攻撃されたとみるべきだ。ならば、反撃しなければならない。自分への攻撃に利用された彼女への真摯さの証明のためにも。
「君が何を言いたいかはわかっているし、時間があればいつでも話せる。それよりも、事務所にはいつごろ顔をだせそうだ? 少し君と相談したいことがある」
清隆は涼子を見た。彼女は幾分か楽になったようだ。立ち上がって台所へと向かい、茶を淹れている。電話機のあるリヴィングルームの戸口からは、紺色のエプロンがわずかにはためく姿しか見る事は出来ない。
「明日は無理そうです。ここで話すわけにはいきませんか?」
「フム。まあいい、ここで話そう。時間はかなり戻るんだが、西新宿市民消費者金融を覚えているか?」
この名前が記憶の底から掘り返されるまでに、実に数分間を要した。
「いつぞやのインサイダー取引暴露の依頼人が所属していた金融業者でしたか。それがどうかしたんですか」
「どうしたもなにも、堤祐介氏のことだ。彼はこの西新宿市民消費者金融で重役を務めていた。気づくのが私も遅れたよ。もしこの機械人形の自殺が第三者による加害の意図をはらんだものだとすれば、これに対して動機を持つ人間が少なからずいるわけだ」
杤原探偵事務所はその腕を買われて、金就業者や様々な企業の本社が置かれるこの新宿界隈における企業間競争を始め、ごく庶民的な浮気調査や身辺調査までを担当する探偵業の中では、ひときわ大きなシェアを獲得している。杤原惣介自身が宣伝活動などを最低限に抑えているので、依頼人は専らそうした社会の裏側で利益を追求しようとする人間が多い。世間一般以外の場所で誇られる知名度はこういった時に便利だ。他には人探しやモノ探しもあるが、主たる収入源になっているのはそうした人々だ。こうした人種にありがちなことではあるが、怨恨の類とは切っても切れない節がある。通常は事務所がその渦中へ巻き込まれる事態を避けるために、探偵事務所には依頼者の個人情報漏洩を防止する必要があり、杤原探偵事務所とて例外ではないが、今回の状況を見る限りどこかで情報漏洩があったことは確実だろう。
清隆は首を傾げる。これは事務所への恨み辛みというよりも、むしろ堤祐介、ひいては彼の所属する西新宿市民消費者金融という企業を狙って行われた報復だったのではないか。堤祐介の所有する機械人形であるリリィを狙ったのはそうした理由で、秋津清隆や杤原惣介が彼女の尾行を行っていたことから、偶然に知り得たのではないか。
いや、事の経緯はまだ決めつけるべきではない。問題になってくるのはいかにして機械人形を自殺に追い込むのか、という点だ。いくら機械とはいえ人形には意思があるし、ハッキングも原理的に不可能。ともなればどのような手段でリリィやあの男性型機械人形を死に追いやったのか。手段は未だに明確ではないが、とにかく機械人形自体に自殺してしまうメカニズムが存在していることについては、既に疑う余地はないだろう。
「とにかく、糸口は掴みました。僕はできる限り早く事務所に戻るようにします。それまで、お一人で大丈夫ですか?」
「おいおい、いまさら何を言っているんだ。君が入ってくるまでうちの事務所はおれ一人で切り盛りしていたんだぞ。ま、そういうことでこっちのことは気にしなくていい。落ち着いて戻ってくるころには仕事という仕事が無い状態にしておいてやろう」
驚いた。つまり二日ほどで、今回の事をしでかした相手を突き止めるつもりなのだろうか。目を丸くしていると、全て見通されていたのか杤原惣介の真剣な声が受話器から流れた。
「いいか、秋津君。当たり前のことだが、結果には原因がつきものだ。この広い宇宙の狭い地球の中、さらに小さい日本の中で探し出せない事実などない。どんなに些細な物事でも自らの存在を示すために要因を明かそうとする。少なくとも私はそう思っている。そして、それらを蒐集するのが義務だとも感じている。いわば極めて個人的な理由だ。礼はいらない。それでも気にかけてしまうのなら、これは私からの贖罪だと思ってくれ。それじゃ、くれぐれも無理はしないように。彼女の傍を離れるな」
返事も待たず、杤原惣介は電話を切った。空回りしたままのコール音を奏でている受話器を元の位置に戻す。
リヴィングから涼子が彼を呼んだ。フローリングを靴下でひたりと歩いていくと、二人分の暖かい緑茶をテーブルの上に置いている彼女の姿が見えた。再び驚きながら、丁寧な仕草で盆を胸に抱く涼子にいう。
「驚いた。君が自分からお茶を飲むなんて」
涼子は顔を上げると、自嘲気味に笑った。
「少し、落ち着こうと思いまして。海風は体に障ったでしょうし、清隆も温まれては?」
「うん、お言葉に甘えて。それにしても、自分で茶なんか淹れて大丈夫なのか? 言ってくれれば僕が淹れたのに。もしかしてへんに気を遣ったんじゃないよな」
「心配なさらないでください。私も今は無理をするつもりはありません。ただ、あなたとお茶を飲みたかっただけですから」
ほんの一抹の不安を覚えながらも、清隆もそれ以上は何も言わずに椅子に座った。エプロンを片付けて戻ってきた涼子と示し合わせたように湯呑を取りながら、舌が火傷するほど熱い茶を胃の腑に流し込む。腹の中に落ち着いた熱さを感じると、入れ替わりに背筋が寒気に震えた。同時に口元から嘆息が漏れる。
しばらくは、そうして無言のまま茶を啜っていた。
ベランダへと続きになっている窓からは、遠巻きに聞こえる生活の音がガラスを打っている。ヘリや飛行機の音も重なって、世の中すべてが落ち着きなく騒いでいる様に思えた。これでも電気自動車の普及によって騒音はほとんど解消されたようなものなのだが、人間の行動は化学物質のように周囲に様々な影響を引き起こす。どんなに耳を塞いで目を閉じようとも、日本という狭い土地で暮らしている限りは人間との関係に終止符を打つことはできないのだろう。
そんな中、心から安寧を願っている一人と一機。同じ薄く茜色に染まった空を眺めながら、涼子がおもむろに口を開いた
「今日は驚きました。まさかあんなことになるなんて。清隆、私を庇ってくださりありがとうございました」
「どういたしまして。涼子、辛いのはわかる。けれどそれは僕にはどうしようもない。僕にできる事は、せめて君が少しでも心安らかになれるように配慮するだけだ。何かあったら言ってくれ。杤原所長からは許可らしきものをとってある」
「フフ。らしきもの、ですか」
思わず口元を抑える彼女に、清隆は唇をすぼめて見せた。
「なんだよ。何か変な事を言ったか?」
「清隆、許可らしきものとはなんですか? 私には可笑しくて。どうしても笑ってしまいます」
「多少は無理を言っても聞いてくれるってことだ。融通が利く、といったほうがいいかな。相手が気遣いを惜しまない状態だよ」
「なるほど。つまり、私は今、清隆に許可らしきものを取っているとも言えますね」
今度は清隆が笑った。二人で笑みを浮かべながら、再び湯呑を傾ける。
「ばか、当たり前だろそんなことは。君は家族なんだから」
茜が射す。部屋の中を侵食してきた炎の色は、テーブルを境に清隆だけを照らしだした。
影の中、涼子は儚い笑みを浮かべる。その寂しさを、悲しみを、初めて知ったのはその時。そしてこの感情を、清隆は生涯忘れる事ができなかった。
「私は家族にはなれません。私は秋津家の所有する機械人形です。人間でもありません。私は、この世界では機械でしかないのです、清隆」
陽が二人を別つ。片や血の通った神の息子たる人の子。片や人の創った歯車の申し子。
どうして。そんな言葉すら口にできないまま、どうしようもない何かが二人の間に隔たっていることを清隆は改めて実感した。手の先から力が抜けていく感覚に抗いながら、返す言葉も無く、助けを求めて太陽を見つめるしかない。
そうして彼女のガラスの瞳に視線を戻すと、その儚い笑みがどうしようもないくらいに悲しいものに思えてならなかった。