表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/13

「友人、ただし親友」

 この時、清隆がすとんと腹の中に落ち込むような納得を覚えたのは別段、彼も神に対して信心深い信者となり、その魂と体を救済しようなどと考えたからではなく、ただ単に創った側が創った物の責任を負うという、単純で、しかし理路整然とされたこれ以上の要約は無いであろうそのシステムだった。

「あなたの言う事は、私も正しいと思う。人は誰しも何かを創りだすという行為から目を背けられない。どんな些細なものであれ、そこには当人の意志とは関係なく、責任というものが生じる。清隆、あなたが言いたいことがわかった。あなたは人類が機械人形に対して負うべき何かがあると思っているのね」

 バーの中は薄暗い。カウンターから少し離れたテーブルについて食事や酒を楽しんでいる見ず知らずの客らは、会話に花を咲かせている傍ら、時折カウンターに腰掛ける一組のカップルを見やる。何故なら、そのうちの女性がもつ美しさは機械的に過ぎて、思わず人形なのではないかというありそうにない疑問が頭を過ってしまうからだ。その首にはチョーカーなど巻き付いてはいない。しかし人形でないならばあの冷たい美貌はなんなのだろう? 想像を駆り立てる彼女の容姿は洗練され過ぎて、ナイフのように人々の心へと傷を残して去っていくのだ。秋津清隆だけは、そんな痛みにも似た彼女の印象とは関係なく付き合いを重ねているが。

 彼は曖昧に頷き返しながら、鳴海遥の横顔を見つめる。前島冴子と似ていると思えなくもない。薄い唇に小さな顔、握ればすぐに折れてしまうそうな細い指と、首。ジャケットに隠されていても否応なしに目に入る胸と、かたぶちより少し長めに揃えられたセミロングの髪。

 そう、髪だ。彼女の髪は、涼子の髪に似ているのだ。繊細に流れる、シルクを思わせる艶めかしい黒髪。この薄暗いバーの中でも、彼女の髪は確かに光を反射している。

「清隆、ひとつ聞きたいんだけど」

 改まって彼女が言う。呆けていた彼のタイミングをうかがっていたらしく、所在なく手に持っているオレンジジュースのグラスを微かに揺らした。生真面目な彼に合わせて、いつからか彼女も酒を注文しなくなったのだと気が付く。へんに律儀なのはお互い様だったようだ。

「なんだい?」

「あなたは、涼子のことをどう思っているの。人間として見ているのか、機械人形として見ているのか。はたまた、ただあなたが所有する一体のドロイドという存在でしかないのかしら。どうもそこが曖昧な気がするの。彼女のことについてあなたが悩む気持ちは本当によくわかる。機械心理学者としても、ひとりの友人としてもね。言っておくけど、そこらへんの機械主義者と一緒にしないで。私は好奇心から聞いているんじゃない、あなたの力になりたいからこうして問うているのよ」

 鳴海遥は、秋津清隆の弱点を全て知り尽くしているのではないか。彼自身がそう思うほど、彼女は的確で逃れようのない問題点を、いつも指摘してくる。そんな彼女のダメ出しに、今まで幾度となく清隆は救われてきた。それは周囲の他人からは少しきつい性格だからだと思われがちだが、彼には、彼女が相手への純粋な思いやりからそうしているのだと気付いていたし、そこが気に入っている部分でもあった。

 だから、彼は考えてしまう。誰でもない、自分自身と、目の前の親切な友人のために、自らの胸に何度も何度も疑問を投げかけ、ようやく返ってきた答えを拾い集めていく。

「僕は……どうなんだろう。彼女が何者であるかなんてことは、できる限り考えずに接してきたつもりだ。機械人形だろうがなんだろうが、心を持っているのは事実だよ。少なくともそう考えたって支障はないだろ? 機械人形の三命題から産まれた精神は、人間のそれに比べれば研鑽されてはいなくとも、未熟ということを差し引けば非常に知的だし、洗練されている。彼女たちは自分達が生み出された意味を理解している。その一点だけで、人間よりずっと正しい価値判断が出来ると思うんだ。だから、人として見るのは違うと思う」

「どうして? 人と比べていても、機械人形は人型をしているし、あなたが考えているほど人間とかけ離れている精神を持っているわけではないわ。いつの時代でも、コンピュータが世の中に初めて出現した時から、学問の進歩する矛先は人間と同じようなものを作りだす、つまり機械人形という技術を確立するためのものだったと言っても過言じゃない。物理学、哲学、数学、語学、心理学……おおよそこの世に人間が生み出したほとんどの学問の最先端を集めてひとつに集約したものが機械心理学で、それを形と成したのが機械人形であり、それが人の形をとっているのよ」

「確かに機械人形と人間は、体を構成する材質が有機物から無機物になっただけで、精神を持ち、肉体を操り、コミュニケーションを図る人間の生活とほぼ同一のものを送っているということは僕にも納得できる。ただわからないのは、君の言う通り機械心理学が人間と同じものを作り上げるために古今東西の学問から成り立つものであるとした時にだ。このまま機械心理学が進歩し続けた結果として、僕と全く同じの機械人形が目の前に現れた時、いったいどう捉えればいいのかということなんだ」

「つまり?」

「つまり、それは人間であるのか。体の中身も心も誰かの手で、ジグソーパズルをひとつひとつ組み合わせて創造された何かが人間と同じに境地に立った時、果たしてそれを同じ生物と呼ぶことが出来るのか」

 意外な盲点を突かれたのか、鳴海遥は僅かに間を取った後に答えた。

「それは、恐らく人間ではないでしょうね。人は人から生まれるものだけど、人が生み出すものとはまた違うと思うわ。人は繁殖するのならば、それは古来からの生殖に頼るべきよ。今の時代、その能力が劣っている人々も中にはいるけれど、生物としてこれからも歴史の中で存在していきたいのならば科学を用いて増殖するべきではないでしょうね。もちろん、そこには倫理的な問題もあるけれど、根本にあるのは種としての誇りよ。我々は限られたこの手段で、数を増やして繁栄してきたのだという自負。それがなくなるとするならば、命に関するモラルが著しく低下するのは避けられないでしょうね」

 鳴海遥との会話は、人知れず自分の中で進んでいた思考の山を崩し、それらを整理していくのに最適だった。清隆は、涼子を目の前にして半ば凍らせていた彼女へ対する意識を解凍し、徐々に言葉にする事が出来ていたので、これまで考えられなかった部分にまで自分の意識を広げていくことが出来た。

「機械人形は人間に近づいていく。それが極限まで推し進められて、ようやく目標を達成した時、そこにいるのは人間ではなく別の何かなんだ。それは自然の法則に左右されながら生まれる人間とは全く別の何かに見えるだろう。現段階でさえ機械人形は人間離れして美しい。最後に生み出される何かが人間と同じ構造を持つのならば、そこに緻密な計算のもとに差し込まれた人間の意志とも相対しなければならないだろう。そういった意味では、それは人間なのかもしれない。だけどそれが本当に人間と同じなのかと問われれば、僕は違うと答える。つまり、僕は機械人形を人間としては見ていないんだ。勘違いしないでほしいのは、なら人間以外の何だと思って涼子と接しているのか、実は僕にもそれがわからないということさ」

 空になったグラスをカウンターテーブルの上に置く。その清隆の肩に、一頻り話しを聞いていた鳴海遥が手を載せた。

 思うに。人は何かと相対する場合、まず相手が何であるのか、どんな意味を持ち、それが生物であるのかどうかなどを判断する機能がある。それが脳のどのあたりで行われる処理なのかは清隆の知るところではないが、少なくとも自分は彼女を自分以下の何かだと感じたことは無い。むしろ、人間よりも素晴らしいものだと思っている。自分よりも幸せになってほしい何かが、人間である必要があるのだろうか。それが自分にとっても納得のいく考えだったのならば、これほど簡単な話も無いのだろう。信じる事と納得することは違うものだと思い知らされる。

「なあ、遥。僕はきっと――」

 何かを伝えかけたその時、彼の携帯端末が無骨な振動音を響かせる。胸ポケットから慣れた手つきで端末を手に取り、彼女へ会釈をしてから席を立った。

「はい、もしもし」

「清隆ですか」

 涼子だ。

「ああ、僕だよ。どうしたんだ、電話なんて。急にかけてくるもんで驚いたよ。それに、今日も休んでおけって言っただろ」

「私はもう十分に休めました。先日のようなことには、もうなりません」

 先日の元気の無さが嘘の様に平静な声で話しかけてくる彼女は、本当にもう大丈夫らしい。少なくとも昨日は声には意思が感じられなかった。ただ話しかけられたから答えるだけとも思える無機質な返答の数々は清隆を大いに不安にさせた。胸を撫で下ろしながら、彼は聞こえないふりをしてオレンジジュースを飲んでいる鳴海遥を横目で見る。聞き耳を立ててはいるが、介入する気はさらさらないようだ。ありがたいのか心許ないのか、実のところ分からない。

「お邪魔でしたか? 今日は、ハルカ様とお酒を飲むと連絡は頂きましたが、お帰りは何時くらいになるのか聞いておこうと思いまして。それと、夜食の有無も。お酒だけをまた召し上がっているのでしたら、寝る前に軽く何かを口になられた方がよろしいですよ」

 どこか不器用に、涼子は鳴海遥の名前を呼ぶ。彼女の中で鳴海遥という女性がどういう認識なのか、気になるところではある。

「邪魔なもんか。今日は、もう少ししたら店を出る。夜食は用意しなくていいよ。適当に何か食べていたところだ。こんな時にまで心配かけてすまない」

「私のことはお気になさらず。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした、清隆。それでは、お帰りをお待ちしていますね」

 返事をする間もなく涼子は電話を切った。憮然とした表情で、彼女は何を怒っているのだろうかと頭をひねりつつ、必至に笑いを堪えている鳴海遥を睨む。さしあたって対処しなければならないのは彼女のほうだ。

「僕は何かおかしいことでも口走ったかな。君にそんなに笑われるなんて」

「いや、なんでもないわ。あなたって本当に鈍いのね。これなら何も心配いらないと思ったけれど、やっぱりちょっと不安が残っちゃった」

「言いたいことははっきり言えよ。そうやって当事者の僕にまでわからない言い方をするのは卑怯だ」

「ごめんごめん。私が何を言いたいのかっていうとね。あなたが悩んでいるのは涼子のことで、それは間違ってなかったんだけど、私は機械心理学者なのよ。他意はないと思って聞いてほしいのだけど、あなたは機械人形に関しては知っているようで知らないことがたくさんある。それこそ、私達が初歩で習う様な事をあなたは学ばないでいたりするわけ」

「それは認める。僕なんて、所詮、その学問をすこしかじったにわかでしかないさ」

「あら、気にする必要は毛の先ほども無いわよ? むしろそのままでいてほしいと思う。姿勢というか、在り方というか。とても貴重だと思うわ」

 微笑みを浮かべたまま話し続ける彼女が知り合って初めて見るくらいに幸せそうだったので、清隆は思わず言葉を失ったまま、彼女がオレンジジュースのグラスを乾かしていくのを見守っていた。

 やがて、薄いルージュも剥がれた唇をナプキンで上品に拭うと、鳴海遥は一転して悩ましげに額を抑える。

「機械人形は突き詰めていけば人間に近づいていく。そこに到達したときに何になるかについては、この際なしにしましょう。機械心理学っていうのは、心理学といいつつ生物学的、工学的な事も取り扱う学問なのはわかるわよね」

 機械心理学は、人類が機械人形を生み出す為にあらゆる学問の粋を集めて築き上げた複合的体系を持つ学術群を指す。例えば機械人形の三命題を動機として組み込むことで精神の土壌とする着想と構想、その後の組み立てなどは心理学の分野で、彼女らの肉体を構成するほとんどの要素は物理学、化学、情報工学だ。他、文化人類学や言語学を元にしたコミュニケーションライブラリ、それらを統括する数学的なコンピュータによる体系化など、あらゆる学問にルーツを持つ機構があるからこそ機械人形は精神の赴くままに行動し、生活している。

 つまりそれは、今までの人類が築き上げてきた膨大な量の学術体系の中から、有用なものを摘み上げては慎重に積み重ねていく作業に他ならない。それ故に、機械心理学者であるということはそれだけで常識からはかけ離れた価値観と才能を求められる。二十歳半ばでその地位に、若輩ながら就いている彼女は、それだけで鬼才と称されるべき逸材なのだ。清隆の知る限り、学界の中でも最年少の部類に彼女が属しているのは疑いようがない。

「人情を軽んずべからず。機械心理学の根本にあるものは、心は複雑奇怪で創造するに困難なものだけど、それ故に心は全ての知識の宝庫であるという一縷の希望よ。今の時代、科学は高度な発展を遂げて、人情とか思いやりは軽んじられている風潮がとても強まっている。けれど、科学の中にも良心はあるの」

 それが清隆の知らない、機械心理学の初歩で学ぶ事のひとつであるのは会話の流れから火を見るよりも明らかだ。所詮、他学科の学生相手にあの教授はこんなことも教えてはくれなかったという事だろう。いや、あえて教えなかったとみるべきか。ともかくも、彼の講義が清隆の機械観に多大な影響を及ぼしたのは間違いがないのだから。

「私たち機械心理学者は、心を理解するために、より心を切り離す必要があった。実感を得ているだけでは理解まではたどり着けないのよ。それを切り開き、自分の手で中身に触れて、そうすることで実感は知識へと昇華される。知識を頭の中で消化して、自分なりの解釈と他人の解釈の間にどうにか中立の地点を見つける、そこでようやく理解らしきものができる。でもね、今ここで振り返ってみると、どうにも私は大事なものをどこかに置いてきてしまったみたい。あなたは親友だから話せるけどね、これは人生でもただひとつの不覚」

 まったく、どこに置いてきちゃったのかしらね。寂寥と乾きの翳る彼女の笑み、無造作にカウンターの上に置かれた細い手を清隆は無意識のうちに握りしめていた。鳴海遥は驚き、やがて元の笑みに戻ると、彼の手の上に、さらに自分の手を重ねた。

 もしかしたら、自分には彼女の渇きを満たすことのできる何かがあるのかもしれない。彼はそう自分に言い聞かせてみるが、いつまで考えても答えらしきものは返ってくることが無かった。

「すまない、遥。少し無神経だったな。君がそんなに寂しがっているなんて」

「寂しい、というのは少し違うわね。こんな道を選んだのは自分だし、いまさら後悔のしようもない。こう見えても実は満足しているしね。けれど……そう、あなた達の目から見れば、私はとても寂しい存在に見えるのかもしれない。良心というものを置き去りにして科学が進歩してきたのは事実だから」

 彼女は強い意志の輝きを瞳に灯すと、真っ直ぐに清隆を見つめた。

「けれど、あなたは違う。あなたはきっと、私達の様に機械人形の立場や心について、理解して受け入れようとしているんじゃない。そんな次元じゃなく、あなたはまず受け入れることを前提として生きている。どんなに辛くても悲しくても、あなたはそれを抱え込まずにはいられない。その生き方は、まさに良心そのものよ。そして彼女を傷付けているものは間違いなく、あなたの良心によって。そこにどう折り合いをつけるかで、あなた達が上手くいくかどうかが決まるんじゃないかしら」

 思わず、清隆は皮肉気げな口調で言い返した。

「まるで、僕と涼子が恋人みたいだと言いたげな口ぶりだね」

「違うの?」

 何も言えなくなる清隆を見て痛快な笑い声を上げる彼女の声に驚いた客たちの視線が集まる。カウンターの向こう側にいる店主が少し眉を潜めるが、わざわざそれを気にする彼女ではなかった。

「本当にわかりやすいわね。だから私、あなたが好きなの。一見、思慮深いように見えてすぐ感情に流される。そういう素直さが貴重だと思う。これは本心よ、ま、いつもあなたには本心を話しているつもりだけど。胸を張っていいと思うわ」

「大きなお世話さ。どうせ僕なんか」

「まあまあ、そう拗ねないで」

 言いつつ鳴海遥は伝票を摘み上げると、ひらひらと揺らしながら席を立った。

「おい、今日は僕が払うつもりで来たのに」

「今日は私が持つわよ。誘ったのはこっちだしね。ああ、感謝しなくていいわ。今日は面白い話しも聞けたし、なんだかすっきりしちゃった」

 そこで清隆も店を出る事にし、家に帰ったらどうするかを考えながら会計を済ませた鳴海遥と店を出た。手を挙げて帰りかけた彼女へと、彼はふと浮かんできた疑問を投げかけた。

「待ってくれ、遥。君は科学が良心を置き去りにしているって言ったよな。僕が良心にあふれてるとかいう話は置いておいて、どうしてそのままでいいなんて言ったんだ。科学が良心を置き去りにしているのなら、良心は邪魔なだけで、捨て去るべきじゃないのか。特に涼子や機械人形と接する上で、そんなものは邪魔にしかならないと言っているようなものじゃないか」

 ああ、と女は軽く頷いて見せる。その横顔をただ衛兵の様に立ち尽くしている常夜灯が青白く照らした。

「その話ね。簡単よ。今の科学の行き先は、正直に言って地獄でしかない。命の解明もほんの僅かとはいえ進んでいるし、その先に待っているのは生命の情報化という自らの存在価値と唯一性を地に貶める結果でしかない。命はそれと他を変えられないからこそ絶大なる価値を持っている。けれど技術の進歩はいつの時代でも必要とされるものであり、中断することは人類の壊死すらも意味する。ならば、方向性を変えるしかないの。私は人間の良心がその鍵を握っていると思ってる。特に機械心理学者にはもっと心が必要なのよ。けれど職業倫理的にそれは許されない。創造主には許されないのなら、あるいは――」

 遠くでサイレンが鳴っている。甲高いバックコーラスに彩を沿えるのは低く響く空調機の換気音。清隆は思い切りため息をついた。

「創造物に託すしかない、か。僕が涼子と上手くいくようになったら、何かが変わるんだろうか。僕らだけじゃなく、誰かにとって意味のあることになるんだろうか」

「保証はできないけれど。それは意味や価値を議論するものではないでしょう。そこにあるのは……」

 それから、彼女は少し頬を赤らめ、隠す様に背を向けた。

「遥?」

「これ以上は言う必要はないわね。それじゃ、また今度。次はそっちの奢りだからね」

 今度こそ立ち去っていく彼女の細く、寂しい後姿を見送ってから、諦めて清隆も帰路につく。

 最後に彼女が言わなかった言葉の意味。それが、彼には漠然としてイメージで感じ取る事しかできなかった。

 イタリアンバーのポーチからは、暗い照明が薄らと彼の家路を照らしていた。



  *



 受話器を置いて、涼子は独りの室内に誰もいない事を確認した後、物憂げな長い睫に覆われた瞳を伏せた。

 秋津清隆はまだ帰ってこない。いつもより深くて暗い水底みたいに淀んだ空気の中、窒息しそうな魚の様に何度も受話器に手を伸ばしてはひっこめ、最後には自分の右手を左手で押さえながら、エプロン姿のままソファへと身を沈めた。

 いったい、自分はどうしたというのだろうか。涼子は不可思議な体験の只中にいる感覚で部屋に視線を泳がせる。機械の体は疲労を感じないが、意識がまいっているのだろうか。その可能性は無きにしも非ず、何しろ先日、あんな現場を目撃してしまったのだから無理も無い。通常の機械人形ならば卒倒しているかもしれないショッキングな光景だったのだ。あの場に清隆がいなければ、今の自分はとうに機能停止していただろう。最悪、廃棄処分にまでなっていたかもしれない。そうなった時の秋津清隆が浮かべる表情を想像すると、どうしようもなく胸が痛んだ。

 機械人形の精神は、機械人形の三命題を除けば未熟な人間の意識とほぼ変わらない。この地上に存在する意識を有しているであろう生物は人間のみであり、少なくとも公式にはどんな地球外知的生命体とも人類は接触したことが無いから、モデルケースとして人間が人間を選んだのは説明さえ面倒とも思えるほど必然的な結論といえる。犬や猫の精神を人間の形に押し込んだところで実用性は皆無であるし、そんなものを作りだした日にはそれがどんな行動に移るのか知れたものではない。

 健全な肉体には健康な精神が宿る。これはまったくもってその通りで、複雑奇怪に入り組んだ精神は死んだ後にそれだけで意識体となると本気で信じている哲学者や幽霊や怨霊の類をしごく真面目な顔で語るコメディアンなども後を絶たないが、精神はそれらとはまた一線を画すものだ。死後に残るのは精神ではなく魂であって、その為人や人格が肉体から独立するわけではない。そして精神という一単位で見られがちなこの概念も肉体ありきのもので、極論から言えば精神から肉体が生まれるのではなく、肉体から精神が生まれるのだ。それ故に人は鏡などを道具として生み出し、自分の姿を見ようとする。自らの精神が宿り木としているこの肉体が確かに存在していることを確認するために。それが期待通りであれば笑みを浮かべて自信をつけ、逆に想像より下であったのならば嘆息と共に諦念を抱く。

 機械人形とて同じで、彼女らもまた自身の姿には関心を持つ。ただ彼女らの場合は自分の顔や体の形を人間など比較にはならないほど正確に情報として保持しているのみならず、それを他の機械人形との比較や認識に用いるレベルにまで発達した高度な認識能力を持っているから、仮にまったく同じ顔を持つ機械人形が目の前に現れた時、深刻な自己同一性の危機に陥った自我は急速に崩壊へと向かうだろう。それは間違いなく死であり、優美ではあるが故に緻密で、計算しつくされた心の情緒に何かしらの不確定要素が入り込めばそれだけで恐慌状態に陥ることは想像に難くない。人間ですら、自分と全く同じ外見の人間というものに言い知れぬ不気味な印象を覚えるものだ。

 自分は昨日の彼女と自分自身を重ねているのだろうかと、涼子は戦慄する思いで考える。恐らくそうだろう。あの踏切に、清隆が着ているいつもの黒いスーツの背中越しに現場を見た彼女は、一目で彼女が抱いていた苦悩を理解してしまったのだから。

「苦しかったでしょう。あなたが死ぬほど悩んでいたのは、痛いほどよくわかります。けれど、私は気づいてあげられなかった。気づいてあげられなくて、ごめんなさい。もっと早くに出会ってあげられたらよかったのに」

 両の掌で顔を覆い、涼子はソファの上で項垂れた。声にならない嗚咽が口から洩れ、流れない涙が瞳を濡らす。

 ごめんなさい、ごめんなさい。そうやって偽善に深ける事しかできなくて、そんな自分が本当に嫌になった。彼女は震える肩を抱きしめる。秋津清隆にはもう大丈夫だと伝えたが、あれは嘘だ。彼の前でなら不思議と苦痛は和らぐ。今思えば、それが目当てで彼に電話したのではなかろうか。

 死んだ後にわかってあげられるのなら、死ぬ前にわかってあげられれば良かったのにという本当の気持ちすらを覆い隠して、ただ自分が嫌で、彼女は泣く。

 清隆は君の責任じゃないといった。だがそんなことはわかっている。わかっていないのは彼の方だ。自分の責任じゃないから、それにほっとしているから自分は泣くのだ。謝罪の言葉を思う事で、少しでもこの気持ちが軽くなればいいと願いながら。

「こんなに辛いのに、こんなに悲しいのに、涙ひとつ流してあげられないなんて」

 そんなものは嘘だ。どこかにいる自分が囁く。

 自分は偽善でしかない。こうして心を痛めているのは事実だけど、涙も流さずに、これでは周りをだまして必死に悲しい振りをしている犯罪者と同じだ。だからきっと、この自分自身も偽物でしかなくて、この心もまったくの無意味。無価値で、どうしようもなく愚かな自分が、それでも死ぬほどに愛おしくて、涼子は胸を締め付けられ、さらに水の中に沈められる様な閉塞感と必死で戦った。

 そうして、ふと、彼女は顔を上げて奥の寝室を見た。

 そこは清隆の寝泊りしている部屋だ。替えのスーツや鞄などは彼女の整理整頓により、家具の数々は整然と並んで室内から見つめ返している。申し訳程度の机と本棚には昼の掃除によって埃ひとつ積もっていなくて、フローリングの床はぴかぴかだ。ベッドだってシーツに皺ひとつついていなくて、今日もちゃんと冷房は弱めに利かせている。いつもこの時間なら、あそこで清隆が本を読んだり、杤原探偵事務所から持ってきた資料をまとめていたりする。そこに彼女がいつもの通り、ゆっくり、じっくりと蒸らして苦味を抑えたコーヒーを、彼のお気に入りのマグカップに注ぎ淹れて持っていくのだ。それに気付いた彼は手元から視線を上げ、ありがとうと微笑みながら受け取り、一口飲む。それから言うのだ。今日も美味しいよ、ありがとう、と。

 自分はいつも、なんと答えていただろう。ありがとうございます、とかなんとか返していた筈だ。そうすると不思議な事に彼もまた笑みを大きくする。機械人形が人のために働くのは当然で、必要なら自分だって、どんな人間のためにでも死ぬことはいとわないだろう。たとえそれがテレビでやっていた機械人形排斥を叫ぶ労働組合の人間だったとしても、自分は一考だにせず誰かの死を自分に着せるだろう。

 だが、いつからだろうか。揺るぎないはずのその気持ちが、あの笑顔の暖かさを感じ始めたと気付いたのは、やはりあの踏切で彼女を見た時からだ。

「少し休みましょう。清隆に言われた通りに」

 独り呟いて、涼子はそのままソファの背もたれに体を預けたまま瞳を閉じる。

 今の自分にとって、縋れるのはただ一人なのだと実感せずにはいられないまま、彼女はまどろみの中へ落ち込んでいった。




 何かを感じて目を開くと、そこには誰かの胸板が見えた。薄く開いた視界の中、誰ですか、と問いかけると、自分を抱え上げているであろうスーツ姿の男性は微笑んだ。

 馬鹿だな、決まってるだろうと。

 涼子もまた笑みを返す。そうですね、決まってました。あなた以外にはいませんでしたね。

 そのつぶやきに、彼はとても悲しい顔をした後、ゆっくりと彼女を薄暗い寝室のベッドに横たえ、タオルケットをかけてやった。最後に彼は、涼子の美しい髪の毛に手を伸ばした後、何を思ったのか突然その手をひっこめて、おやすみとだけ残して部屋を出ていった。

 おやすみなさい。それと、お疲れ様でした。届かない声で祈りながら、再び眠りの井戸へ落ちていく。



  *



「ひどい顔だぞ、救急車でも呼んでやろうか」

「いいですよ、呼んでください。ちょうど点滴が欲しいと思ってたところです」

 素っ気ない六道清二の返しに田邊明彦は肩を竦め、そのまま隈の濃い目で彼のコンソールを覗き込んだ。所有している機械人形が自殺らしき死亡事故に巻き込まれた人々のリストが並び、ほとんどの欄が赤色で塗りたくられている。それらを順々に指さしながら、六道は手元の資料と読み合せていった。

「坂本隆一、運送業社長。都内でかなりの受注を得ている優良企業の代表取締役であり、複数の銀行株式も所有している。五年前より男性型機械人形を購入、運用していたが、二ヶ月前に交通事故。栗本幸助、銀座を中心とする多くの高級料亭に材料を卸売りしている業者の代表取締役、築地とも密接な関係を築いている男で、十年前から保有している女性型機械人形を溺愛していたが五ヶ月前に線路内への立ち入りで大規模損壊、廃棄。こいつはびっくりですよ、田邊さん。誰一人の例外も無くどこかしらの企業の重要な役割を担っており、誰もが機械人形を失った後は茫然自失として業務に支障を来しているのは容易に想像でき、またいくつかの証言もあります」

「なるほど。こいつは当たってほしくない勘が当たっちまったかな」

 ぼりぼりと頭を掻きながらぼやく彼に向かって、六道は近くに置いてあったマグカップを手に取り、中身が無い事をを確認すると顔をしかめながら元に戻した。

「あんまり嬉しくなさそうですね」

 田邊は鼻で笑ってから、この後はどうする、とコーヒーの湯気を顎に当てながら聞いてくる。そんなことはこっちから聞きたい所ではあったが、妙に利口な頭を働かせて黙ったまま表示したデータの隅を示した。

「ひとつ、奇妙なものを見つけました。これを見てください。どの機械人形も廃棄先は決まっています」

「なんだと?」

「この住所は東京都内です。場所からして、新木場のほうにある埋立地だ。ここに行って人形の何体かからメモリーをサルベージできれば、何かがわかるかもしれない。他にも手がかりが見つかるかも」

「まったく、機械人形を口寄せすることになるとはな。法的には何の問題も無いのか?」

「グレーゾーンです。何しろ機械人形を対象とした警察の捜査など前代未聞なもので。そんな目で見ないでください、こっちだって真剣なんだから」

「わかったよ。それで、当てはあんのか」

「まったくすべての業者が廃棄に関わっているのは見るからに不自然です。つつけば何かしら出てくると思いますが、どうにも胡散臭い。この業者、ちょこっと調べただけですが国からカネをもらって埋め立て用の無機廃棄物を収集しているようです」

 露骨な田邊明彦の舌打ちが、情報犯罪課の他の捜査官が詰めているオフィスに響く。集中力の途切れた彼らから非難がましい視線が集中するのも構わず、さらにこれ見よがしな溜息までついて見せ、空いていたデスクチェアを引っ張ってくると背もたれを前にしてどっかりを腰を下ろした。行儀悪く顎を組んだ腕の上に乗せる。

「お前も知ってると思うが、こういったお上から民間へ委託された業務ってのは得てして贈賄や不正取引の温床になってるもんだ。二課の主な観察対象でもある。天下りっていうのは大抵、それだけじゃ済まないもんだ。件の業者も御多分に漏れずのことだろう。六道、こいつは俺からの助言だがな。やるなら奴らを刺激しない方がいい。連絡は上の方にいる連中にまですぐに飛んでいく。とんでもない圧力がかかるぞ」

 いつになく真剣な眼差しで見つめてくる彼の不器用な思いやりを、六道は丁重に無視することにした。あるいはそこにこそ、六道清二という人間の愚かさが凝縮されているのかもしれなかったが、ここまで来て自分の意志や矜持を捻じ曲げるほうが彼にとっては困難だった。

「構いやしません。いざとなったら、俺の独断ってことでいいですよ。お上が一枚や二枚、百枚噛んでようが、組織の悪性腫瘍の恐ろしさってやつを教えて差し上げるまでのことです。俺はね、そういった上層部ぐるみの悪巧みっていうのが一番気に食わないんだ。やるなら正々堂々とやれ。それでこそ行為の正しさが証明されるってものだ」

「どれだけ止めても、いくのか」

「くどいですよ」

 一瞬の沈黙の後、田邊は弾ける様に大笑した。突然の事に周囲は驚きの目で彼を見やり、六道も目を丸くして、腹を抱えて笑っている田邊を見やった。

「まったく、変わらんな! それでこそ六道清二だ、恐れ入ったよ」

 そう言うと、田邊はコーヒーをぐいと飲み込んで頬を叩く。椅子を蹴りあげて立ち上がった。

「俺も行くぞ」

 仰天して、六道は椅子から半ば腰を浮かせた。

「遠慮願いますよ。あんたまで来ちまったら、誰がここに残るんですか。今の話を聞く限りだと、田邊さん。更迭は免れませんよ。奥さんと子供はどうするんです。父親が国家の反逆者の烙印を押されては――」

「なに、あいつらもわかってくれるさ。ここで仕事を押し付けた後輩が馬鹿をしようっていうのに、俺がそれを見捨てたと知ったほうが怒り狂うだろうよ。心配すんな、六道。俺ははなからまともに退職金を受け取るつもりなんざないんだ。何か暗い陰謀のひとつやふたつくらいは潰してやろうと思っていたんでね」

 六道は何度か口を開いては閉じていたものの、最後には何も言わずに頷いた。こうなった時の彼の頑固さは折り紙付きだ。ブルドーザーを持って来て、さらに梃子を使ったって彼の意見を曲げることなどできやしまい。そして、それこそが彼の好ましさでもあり、捜査二課の課長まで上り詰めた男の甲斐性という人間だった。

「ありがとうございます。そんじゃ、早速ですけど行きましょうか」

「そうしようとも。時間を無駄にはできん。向こう側がどんな組織的犯罪を仮作しているのか知らんが、組織というものは得てして連絡を取り合わなければ動けん。頭目の指示がなければ下手に動けんだろう、事が事だからな」

 二人は慌ただしくオフィスを出た。入れ替わりに隣のデスクに出勤しようとしていた情報犯罪課の捜査官が入って来て、怪訝な顔つきで自分の机上に置かれた冷たいマグカップを睨み付けた。




 機械人形に対する、いかなる政治的、個人の意思が及んだな洗脳行為、及び不当なハッキング等による行動制御の意図は、すべからくして処罰の対象とする。これは日本のロボット法でも定められている国際規定で、全ての機械人形生産業に携わる専門家、機械心理学者などの人形に対するハッキングを行うだけの能力と技術を持っている人間は全て関係者データベースに登録されている。そもそも機械人形はその精神構造の複雑さから、システムを解読して防壁を突破することは事実上不可能となっている。論理集積回路がその最大の要因で、アナログとデジタルを高度に組み合わせたこの機械人形の脳ともいえる部分ではシステムとハード、両面における高い技術力が固い防壁を構築している。機械心理学の粋を集めて構築された全てのソフトウェアは、数多に枝分かれした感情の変数を取り、それを抽出、次元の調整などを行う演算処理なども含めれば、外部から何かしらの操作を行う事は不可能である。仮に内蔵されたメール機能でコンピュータウィルスを流し込んだとしても、内部の記憶装置は別の場所で隔離され、そこで機械人形の意志とは関係なしに作動している最高レベルのファイヤウォールが侵入を防ぐ。プログラムが精神となっているのだ。人間の心をハッキングすることが不可能なように、情報工学のみを極めた人間では決して触れる事の出来ない領域が、機械人形の体の中には何ヘクタールも広がっている。それらを改めて解読して仮にハッキングに成功したとしても、それはその個体のみに通用し得るアルゴリズムであり、微妙に異なる論理集積回路を持つ別の個体ともなればまた同じ作業を延々と繰り返さねばならない。

 魂の領域ライフエリア。神の所業であるとさえ称される論理集積回路をそう呼ぶことがある。高度に知能化され、自我を形成する精神の土壌がある不可侵の領域。ここはソフトウェアとハードウェアの境界も曖昧になるほどの技術が惜しみなく投入され、機械心理学はこれを生み出すために拓かれたといっても過言ではなかった。その詳細な情報は一般に公開されてはいない。特許ということで各製造業社が独自の製品を生み出す他、機械人形産業自体が国との密着した複合商業と化していることから、その機密性は高い。これが人間と同じ感情を持ち、その中には機械人形の三命題から生じる動機制御も含まれるわけであるが、それが果たして人間と同じ自意識と呼べるものなのかという議論は未だに止むことがない。世間一般、大方の機械心理学者たちの見解は簡潔で、その構造からもわかるとおり、これは自意識であり、たとえそれが超高度なプログラムによってそう見えるだけであったとしても、そこに違いを求めるのは愚考というものである。

 だが、人形が生命であるのかという議論になれば、機械心理学者たちは態度を翻す。体が鋼でできているものが生命体なわけはない。彼らは電池駆動だ。その心臓は肉ではなく歯車でできているのだ、と。しかし生命体意外に意識を持つ何かが存在し得るのか、という論点から、この手の議論は止まない。

「俺達も欠陥だらけのソフトウェアなのさ。この衰えた身体がハードウェア。そう認識したところで自分が狂いだす訳でもない。違いを求めるのは確かに愚かだ。そんなものは人間が機械人形を自分たち以下に貶めておきたいからにすぎない。足下に何かが這いつくばっていた方が安心するもんさ」

 やけに達観したことを口にするものだと思いながら、六道清二は署から拝借した電気自動車のハンドルを軽く握りなおす。中央道からそのまま湾岸線横浜方面へ入り、そのまま街並みを横目に流しながら海へ向かう。通り過ぎて先にある新木場ジャンクションを降りた。そこからは工業地帯や興業施設の立ち並ぶ雑多な地区に入り、まっすぐに東へハンドルを向ける。程なくして海へ出た。しばらく、そのまま北に向かって海沿いに車を走らせていくと、事前に電話番号でルート検索していたカーナビがさらに海側へ入る小道を示した。

 その手前の二車線道路、路肩に車を停める。そしてお互いに顔を見合わせる羽目になった。

「本当に、ここで合っているのか?」

 二重チェックのために携帯端末の衛星測位システムの表示を確かめながらあたりを見渡す田邊明彦には何も言わないまま、六道はハザードランプを消してサイドブレーキを引き、エンジンを切った。電気自動車の大型電動モーターが発していた甲高い唸りが消え失せ、海岸沿いの埋め立て工事の遠い地響き以外に、聞こえてくる音は何もなくなる。

 いくら埋立地近くとはいえ、景色は荒涼としすぎていた。道の先にはたったひとつの建造物であるプレハブの角ばったシルエットが見える。その姿は大型の資材倉庫と思われる建物の間に、きらめく海原を背景に浮かび上がっていた。工事中の区域はもう少し北東へ進んだ所にあった。周辺に立ち並ぶ倉庫や事務所らしい急増の建物の間にいると、様々な方向から乱反射した音が聞こえる。あまりにも方向感覚を狂わすそれらを聞き続けていると、耳がおかしくなりそうな不快さが背筋を這ってのぼっていく。思わず身震いしながら六道はハンドルから手を離した。

「とにかく、確かめるのが俺達の仕事です。降りてみましょう」

「言われずともさ。用心しろよ、六道」

 どちらともなくドアを開いて路面に降り立つと、車輛を避ける様に右側車線を走行してきた大型のガソリントラックが荒々しい運転で目の前の道路へ車線をひとつすっ飛ばして曲がり込んでいった。現職の警官を前にして度胸のある運転だが、相手方からはこちらの素性が知れないのだから仕方がない。重要な点は別にあった。その荷台は幌がかかっていたが、六道はその中から抜け出そうともがくように力なく突き出された細い腕を見逃さなかった。

 間違いなく機械人形だ。動いていないことからして、恐らく機能停止した個体だろう。そうであることを願った。廃棄される人形を満載したトラックの業者名をすかさず手帳に書き込んでから、二人は目で示し合わせ、スーツのポケットに手を突っ込んだまま道に入っていく。

 道の入り口を挟んでいる倉庫を通り過ぎれば、あとは横ばいに同じような建物の基礎部分だけがあり、あとはだだっ広い埋立地が百平米ほど広がっていた。そのほぼ中心にプレハブ小屋がある。外見も必要以上の装飾がはぎ取られているため一見しただけでは見分け辛いが、どうやら二階建てであるようだ。四角い窓と会談だけが継ぎ目のない工法の中、その存在を主張している。遠近感すらも狂わせるこんな建物を新地のど真ん中、しかも海風を遮る壁すらも無い辺鄙な立地条件を選んで建てた理由は、六道には図りかねた。工事のための簡易事務所ならばあんな土地の真ん中に建てるようなことはしない。工事の邪魔になるのは考えるまでも無い。他にあのプレハブ小屋に電線などの配管がつながっている事も無く、この建物はただそこにあるだけなのだ。生活という概念が欠落しているともいえる。ついでにいえば、仕事という概念も。

 気配が無い。漂ってくるのは陰湿な陰謀のにおいとでもいうべきものか。そこは不毛で、世界の果てとはもしかしたらこんな景色なのかもしれないと、六道は頭のどこかで思った。どこかへ向けて歩き続ければ、きっとこんな何もない景色が広がっていて、そこに自分が住めばこんな景色になるのだろうか。どちらにしろ、永住するのならばプレハブなどは言語道断だ。自分だったらがっしりとしたコテージでも建てる。人が生活するもなのだからもう少し何か配慮をするだろうというものがこの小屋にはまったくといっていいほどみとめられなかった。もしかしたら、何かしらの事務所として活用しているのかもしれないが、それにしてもこんな立地に一軒だけ建てるのもおかしい。

 新地の縁までやってきた時、ふと、田邊が足を止めた。それに合わせて六道も立ち止まる。

 先ほどのダンプの姿は既に見えなかった。地面に残った薄い轍を見ると、どうやら左折してそのまま現場へと向かったらしい。海岸沿いは埋立地で遠くまで見渡せるので、海沿いの舗装された運搬路をあのダンプが騒音をまき散らしながら走っているのが見えた。あの機械人形たちは新しい埋立地へと運ばれるのだろう。つまり、六道と田邊の足元には既に数多の機械人形たちが土と共に埋められているのだ。

 君の悪さに六道が思わず身震いした時、田邊が言った。

「こいつは罠かもしれんな。あのプレハブ、どう考えても怪しい。だがその怪しさがわかりやすすぎる。くさいってもんじゃないぞ」

 六道は否定しない。ここまで辿り着いたのならば、あとはこの事が明るみに出て不利益を被るであろう誰かさんへとつながる証拠を見つけ出すだけなのだが、それは向こうにとっても同じことだ。ここまで来た人間は、つまり自分の目論みを破壊するべくやってきた。ならばそれを排除する動機は十分にあることになる。人目のつかない場所に餌を置く事で、こちらはまんまとおびき出されたのかもしれない。だがこのまま後にも引けないことも確かだ。

「相手は、機械人形を操って自殺まで追い込み、相手の意志を挫かせるような人間だ。よほど人間と機械を区別して生きてでもいない限り、人を二人ほど口封じに殺すのなんてためらわないのかもしれない。六道、どうする?」

「どうもこうもありません、こっちには拳銃もあります」

 彼は自分の腰に巻いてある革ベルト、その脇にささった九ミリ口径の自動拳銃を叩いた。これも署から念のために持ってきたものだ。

「ただ、向こうもそれは考慮した上でやってくるでしょうが。その時はまあ、お互いの腕っぷしだけが頼りってことになります」

「おいおい、そいつはやり過ぎじゃないのか。ここでぶっ放す気かよ」

「何言ってるんです。ここで騒ぎを起こせば応援が来る。その時こそ、この事件を明るみに出す好機です。上層部から圧力がかかって捜査権を取り上げられる前に、できる限り事の次第を明らかにしておいたほうがいい。手札は多い方が有利ですから。それと、この推測が正しければ、向こうは手荒な手段には出ないでしょう。機械人形を自殺させているかもしれない、なんて騒がられるだけで厄介なことこの上ないですからね」

「お前の言うことはいちいちもっともだが、それは俺達が生きていたらの話だ。もしかすると、もしかするかもしれんぞ」

 六道は微かに顔をしかめた。田邊も我ながらくどいとは思うが、ここまで言っておかないと六道清二は暴走するだろう。いままで丹念に捜査を進めてきたのも、田邊が上から手綱を握って彼の調子を取っていたからだ。それに彼自身が気付いているのかどうかはわからないが、少なくともここで彼が六道の元から離れればすぐに相手の胸ぐらをつかみにかかり、返り討ちにあうだろう。ひとりの友人としても上司としても、それだけは避けたかった。

 二人はそのままプレハブへ向かって慎重に歩み寄っていく。白昼の太陽が、まだ雑草に覆われてすらいない土の地面に短い影を残す。残暑は既に過ぎ、秋らしい涼しげな風が海風と交りあい、埃と土を巻き上げる。そこにはプレハブ建設に使われたのであろう重機の跡と、足跡が複数見受けられた。その中でもいくつかの足跡が連なり、他のどんな痕跡よりも上側にある最後に残った足跡がプレハブ小屋に向かったものなのか、それとも出ていったものなのかは判断がつかない。強い海風は積もった砂で痕跡を半ば掻き消してしまっている。見てとれるのは誰かが行き来したらしいという痕跡だけだ。

 プレハブの入り口である横開きの扉までやってくると、田邊は一度だけ周囲を見回した。幸いあやしい人影などは無かったが、資材倉庫の中からこちらを監視している人間がいないとも限らなかった。望遠鏡を使えばここを二四時間監視することなど造作も無い。自分ならばそうすると確信を持っているだけに、感じている不安は解消されるどころか増していくばかりだった。

 六道が手袋をはめて軽く会釈して合図した。田邊もポケットから白い手袋を取り出すとそれに応え、ドアがノックされた。

「失礼します。警視庁のものです。少しお伺いしたいことがあるのですが」

 案の定、答えは無かった。六道が取っ手に手をかけると、ドアは何の抵抗も無く開き、二人はそのまま中に入り込んだ。強い海風を遮るために、田邊が少し乱暴に扉を閉める。

 殺風景な部屋だった。室内にあるのは、中央に置かれたステンレス製の簡素なテーブルと、その周囲に並べられた四つのパイプ椅子、南の壁際に置かれた、今の時代どこでも目につくような簡易湯煎ポットと紙コップ、一転して旧時代的なガスコンロと鍋。やかんも見えた。トイレは無く、ベニヤ板の床を歩くたびにごとりと音を立てながら、二人は顔を見合わせて室内を物色し始めた。指紋を残すと後々面倒なことになりそうなので、念には念を重ねて手は触れずにできる限り目視で情報を収集していく。どうしても興味のあるものは手で触り、可能な限り元の位置に戻して次に移っていく。その作業の繰り返しだった。

 が、第一印象の通り一階部分には何もない。時折、誰かがここに来て会合を開くのだろう。給湯設備は少しばかり年季が入っているし、テーブルも所々が傷んでいる以外には何も目ぼしいものは無かった。

 そのまま部屋を後にすると、今度は外付けの階段を上り二階へ向かう。手摺には錆ひとつなく、触り心地のいい表面を撫でながら上がりきり、一階と同じ扉を横に開く。

 二階は一見すれば事務所のようだ。腰くらいの高さがある二段のファイルキャビネットに小さなロッカーが四つ、部屋の隅に置かれている。窓は四方に配置され、どれも同じ規格のものが太陽光をできる限り取り入れている。天上にはどこから電気を引っ張っているのか電灯が並んでいた。どうやら地下からケーブルを引っ張っているらしい。まだ新地だ、それくらいの工事は容易いのだろう。西側の隅には机とデスクチェアがきっちりと並べて置かれ、異質な来訪者へと自らが場違いな存在であることを声高に示してくる。不可解な室内に眉を潜めながら、六道は部屋のど真ん中のテーブルの前に腕を組んで立った。

 自然なように見えて、不自然だ。設備を見る限り、水は引かれていても、洗面所はない。ガスコンロは昔ながらのボンベ使用、かえって電灯は最新のダイオード製。やはりここは人間が暮らす場所ではなく、必要な時に、必要な場所で誰かと秘密裏に会合ができる様に設置された使い捨てのものであるらしい。その証拠に、頻繁に使っていれば目立つはずの汚れや傷がほとんど見受けられない。デスクチェアや机の脚の近くにひっかき傷がいくつか残っている程度だ。床面には海風で吹き込んできた砂が散らばり、革靴で歩けばざりざりと耳の奥をひっかくような音がする。ここまで生活感が無く、新品同様のあの手摺を見るに、このプレハブ小屋自体が少なくともここ一ヶ月以内に建築されたもので間違いないだろう。そうでなければいくら手入れをしていてもこれだけの傷では済まないはずだ。

 そうなると、誰がこれを建設したのかという問題が残るが、それについては後々判明するだろう。六道清二にはその予感があった。直感にしたがって部屋の片隅にあるファイルキャビネットを一瞥する。歩み寄ると、幾枚かの藁半紙が一冊のシンプルな黄緑色のファイルに綴じられ、収められていた。その他には様々な色をした学術参考書が散在している。

「田邊さん、恐らくビンゴです。何か資料らしきものを見つけました」

「でかした。まずはお前が読め。俺は他の部分を見てみる」

「わかりました、お願いします」

 ためしに手頃な分厚いハードカバーのものを手に取る。赤茶色の背表紙に銘打たれた題名は「機械心理学の初歩」。下の段の同じような位置にあったものを引っこ抜くと、今度は「機械の精神」。その後も厚い機械心理学に関する書籍が後を絶たず、最終的には最初に目についていた緑色のファイルだけが残り、その何も書かれていない表紙をめくると、既に目ぼしいものを調べつくした田邊が顔を寄せて中を覗き込んできた。六道が身を捩って睨み付けると、彼は肩を竦めてプレハブに近づく人影が無いかどうかを窓から見に行った。

 最初の頁に書いてある几帳面な筆記文字を、六道は軽く声に出して読んでみる。

「談合、第一日目。こちらの提案を飲んだ組合と反機械主義者の代表と握手を交わす。議題はもちろん、産業機械人形による雇用の損失が社会問題として表面化する事態に対し、いかなる処置を講ずるべきかを問うものであり、政府がとった対応の是非を問うものである。組合はその設立理念を前面に出した批判を展開し、人間主義者側はただ黙って同意の意を示していた……なんだこれは」

「そいつは、議事録じゃなくて日記みたいなもんだな」

 田邊が言うまでもないとばかりにいった。

「ここで行われた談合とやらの記録が主観的な形で載っているんだろう。厚さを見る限り、だいたい十回は越すな。それだけの時間をここに費やしていたのは誰だ? 話している内容からして政治家の誰かか。少なくとも政府関係者でなければ、自らが政府の代名詞とでもいうような大層な書き方はしまい」

「政治家なんてごまんといますよ。それより、これを押収したらまずいと思いますか? できれば持って帰って調べたいところですが」

「まずいと思うね。礼状は無いんだ、これは不法侵入だぞ。押収したら窃盗が付く。ここでリスクは背負わないでおくべきだ。できる限りそのファイルにある内容を把握したら、すぐに出よう。俺は外を見張る。くれぐれも室内に指紋は残すなよ」

「もうゲソ根が残っちまってますがね。まあそれはいくらでも言い訳がたつか。わかりました、五分で読むので周りを見といてください」

 窓際へ寄り、再び外を眺めはじめた田邊の背中から再びファイルの中に目を落とす。一気にページをめくりながら、何か目ぼしい内容があれば器用に片手で取り出した警察手帳に書き込む。それらを一頻り繰り返した後、六道はファイルをキャビネットの中に戻し、田邊を呼んでプレハブを出た。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ