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「事故、ただし自殺」

 ガード下にできている人だかりをかき分けて駆けつけると、規制線のすぐ外で背広のポケットに両手を突っ込んでいる杤原惣介の後ろ姿が見えた。相変わらず姿勢が良いので一目で見分けがつく。

 通常、尾行となれば目立たない服装が選ばれる。それ即ち周囲に溶け込みやすい服装ということになるのだが、新宿周辺はオフィスから溢れ出るサラリーマンや金融マンの割合が非常に高いため、結局いつも通りの背広を着用していた。今も踏切を超えて会社へ向かおうとしていたスーツ姿の男性や女性が携帯端末を片手に、会社へ遅刻の旨を連絡したりしている。その中で余裕をもって現場の成り行きを見守っている男としたら彼しかいなかった。

「おお、意外に早かったな。あと十分は待つかと思っていたんだが……誰だ?」

 すぐ後ろまで迫った清隆に気が付き、杤原は振り向きざまに言った。息を整えている彼の顔から、訝しげに隣に立つ機械人形へと視線を転ずる。同時にその表情は親しげな笑顔に取って代わった。

「なんだ、涼子ちゃんか。元気してたかい?」

「はい、お陰様で。杤原様、清隆がいつもお世話になっております」

 息ひとつ乱した様子もなく丁寧にお辞儀をする彼女を横目で見ながら、なぜ彼女にこんな挨拶をされねばならないのだろうと清隆は眉を潜める。どちらが保護者かといえば間違いなく彼であるのに。

「彼には、こっちのほうが世話になっているよ」

 屈託のない返事をすると、杤原は説明を求める様に清隆を見た。用意していた弁明のために清隆は口を開く。

「現場の状況を見たいと言っていたので。べつに機械人形とその所有者が規制線の外から事故現場を目撃したとしても、法的には何の問題もありませんし、僕が許可しました」

「なるほど、そういうことか。ま、結果オーライだ」

 何がオーライなのだろうか。ひどい胸騒ぎがするが、とにかく喧騒の中で議論をしている暇はない。常備している手帳とボールペンを取り出して問うた。

「ところで、状況はどうなって?」

 今度は杤原が弁明する羽目になった。彼本人はそんなことを微塵も感じさせないほど堂々とした様子だったが。

「リリィの尾行は順調だった。いつもとまったく変わらない仕事だったよ。勘付かれた様子はまったく無かった、これは本当だぞ。四十メートルは距離を置いていたし、直視も避けていた。相手方から気付かれた様子は微塵も無かったし、人混みに紛れれば二g年相手でも勘付かれることは無かっただろう。これ以上ないってくらい順調だったんだ」

 杤原惣介は見栄こそ張れど嘘はつかない。その為人は公明正大に同じくらいの性根の悪さを加えたものである。

 通常、尾行は二五メートルほどの間隔がベストとされる。見失わず、かといって近すぎもしない距離だからだ。遠すぎれば見失い、近すぎれば相手が気付く、その絶妙な線引きが探偵としての実力を示すひとつの指標と言ってもいいかもしれない。また、複数人による交代制の追跡が本来は望ましい。顔や服装が変われば、それだけ尾行だと思われる機会を極限まで減らす事が出来る。どれも単純な事だが当たり前な事を当たり前に実行して見せるほど困難な事は無い。相手が次にどの道を選ぶか、この先の道はどのように別れ、どこへつながっているのか。それらを常に考え、相手が取った選択肢の後の先を取る。そうすることで理想的な尾行が可能になる。

 杤原はひとりで四十メートルは離れていたという。それだけで彼が持っている探偵の才能を伺い知れるというものだろう。そのことがわかっているからこそ、清隆はただ頷くだけで、現場の状況などを詳細にメモにとっていった。

「新大久保からここまで青梅街道や甲州街道を横断してやってきたんだが、彼女の足取りに道に迷う所は見受けられなかった。まったく自然にここまでやってきた。ところがこの踏切に来た途端、何を思ったのかバーを潜って線路内に飛び込み、あの列車に轢かれた。声をかける暇もなく、まるで図ったようなタイミングで彼女は粉々になった」

 彼が示す先には、緑とオレンジ色の直線が引かれた鈍色の列車がある。今は停車している車輪の周囲に、機械の部品らしき何かが散乱しているのが微かに見受けられた。その中に見覚えのある亜麻色の髪が垣間見えた気がして、清隆の頭の先から足の先まで電流が走った。

 健康的な人間の肌色を模倣した右大腿と右腕がごろりと転がり、そこから先はリリィを形作っていた何かが、細かく無数に散らばっている。その光景が衝突時の衝撃が凄まじいものだったことを物語っていた。きっとひとたまりも無かったに違いない。既に原形をとどめていない細かな部品が人型を為すどの部位に収まっていたのかを判別する事すら不可能なほどだ。

 現場は騒然としていた。西新宿警察署からやってきたパトカーが幾台か停車しており、背広を着た刑事らしき姿が二人見える。白い手袋をはめた二人組は人工皮膚を拾い集める鑑識には目もくれず、深刻な表情で相談している様子だ。よく見れば寝不足なのか、両名ともひどい隈を作っている。他は制服警官がうろうろと規制線の周囲を回り、鑑識が念入りに小型高解像度カメラで現場の状況をデータ化していく。あれを使って、三次元的な情報などを全てデータベース上に表現することもできると知人から聞いたことがある。今どきのテレビドラマじみた光景を遠巻きに眺めていると、杤原が鋭い舌打ちを漏らした。

「気に食わんな。何故、ただの機械人形の自殺にここまで人員を動員している。こんなものは本来ならば事故で処理されるはずだ。機械人形の意志にろ偶然にしろ、検証は後、現場処理を最優先がこういった交通事故での鉄則じゃないのか」

「手順が違うと言いたいんですね。順序が逆だと、いや、辻褄が合わないと言いますか。とにかく矛盾がある」

「そういうことだ。いいか、東京という日本で最も人口が集中する水族館の魚みたいに人間が右往左往している街で、電車は世界でも有数の大人数が利用する最も重要な公共交通機関だ。しかも新宿と代々木間、交通の要衝でのこの一撃は民間鉄道会社にとって致命的な一撃だ。まず第一にすべきは現場の復旧。踏切ひとつもまたいでいる。そろそろ後片付けを始めなきゃいかん。それが正しい順序ってやつだ」

「しかし警察は現場保存を優先して運航を再開させる姿勢を見せてはいません。確かに矛盾していますが、話を聞く限りリリィは自殺を図ったとしか思えません。その異質な雰囲気を警察が感じ取って、警察がより詳しく調査しようとしているのかもしれませんよ。現に、僕らの例があるわけですから。探偵より能動的に事態の解決に当たらねばならない警察機関なら、既に機械人形の自殺という事態に腰を上げていても不思議ではないと思います」

 清隆の一言に、杤原はひとつ唸ってそのまま考え込んでしまった。周りでは勤務先への迂回路を取る人々が続々と背を向けて歩き出している。物好きが何人か、携帯端末を掲げながらこちらへと歩いてきた。そのカメラが納める範囲から逃れるために、清隆は僅かに身をよじる。その時、軽く誰かの肩と体をぶつけた。

 涼子が立ちすくんでいる。それに気付いた清隆は、いったい何が彼女の目に留まったのかと訝しみ、気付いた。

 目の前で機械人形が自殺した。彼女の同類が自殺した。人間だって、誰かが目の前で死ねば平静でなどいられないのに。

 彼女は傷付いただろうか。自ら死を選ぶ同類を目の当たりにして、何がしかの感想を抱いただろうか。みるみるうちに胸の内で膨れ上がっていく懸念をどうにか押さえつけて、清隆は涼子の肩を掴み、優しく揺さぶった。

「涼子、帰ろう」

 幽鬼のような顔が彼を振り返る。こいつは重傷だ。

「君には辛すぎるよ。よければ、このまま家に帰るかい? 僕は構わない。遠慮せずに言うんだ」

 涼子は迷った。視線をあちらこちらへと向け、やがてこくりと頷くと、清隆はまだ考え込んでいる杤原を振り返った。善は急げだ。たとえ後の祭りになったとしても。

「所長、涼子を家まで送ります。彼女、少し疲れてしまったようなので。今日は半休にしてもらえますか?」

「なんだって? ああ、そうか。気づかずにすまない。涼子ちゃん、今日は秋津君を返してあげるから家に帰ってもう休みなさい。秋津君、冴子には私の方から連絡しておく。そのまま直帰していいぞ」

「すみません、ありがとうございます」

 杤原は手を振って気にするなと一蹴すると、再び現場の有り様へと目を戻し、再び思考の海に埋没していった。

 清隆は、心なしか青ざめた顔をしている涼子の肩を軽く叩く。機械人形の肌の色が変わる事はないのだが、今の彼女の覇気の無さといったら、雨に濡れそぼった捨て犬のそれだ。視線はやや下に俯き、ガラスの瞳には光が無い。その表情も険しく、ひきつった表情は論理集積回路が弾きだした感情の返り値か。ニュースで人間が死んだということを聞くだけで心が痛むと嘆く彼女を、やはり事故現場に連れてくるべきではなかったと、清隆は深い罪悪感を感じた。機械人形である彼女の要望なら、人間である自分が首を縦に振らなければこんなことにはならなかったはずだ。その時、彼女は不満げに眉を潜めるかもしれないが、今のしおれた姿を見るよりは遥かにいい。

 しかし、彼女はきっと彼の贖罪など認めないだろう。自らが人形であるが故に。




 二人は歩き出した。

 どちらから一歩を踏み出したのかは、曖昧になってしまってよく覚えていない。清隆がさあ行こうと言ったのかもしれないし、涼子が一刻も早くその場を離れたい一心だったのかもわからないが、とにかく二人は踏切を後にして甲州街道、巨大な百貨店までなんとか戻ってきた。

 そこで気が付く。慌てて飛び出してしまったために、事務所に財布を忘れてきてしまった。情けない事に持ち合わせでは電車賃が足りない。涼子を振り返ると、彼女も清隆を見つめ返すばかりで、一機と一人ではたと困り果ててしまった。

 結局、杤原は直帰していいと言っていたがそういうわけにもいかず、荷物を取りに事務所へ戻ることになった。歩く分には問題ないと涼子が気丈に言い張り、反対するのも逆効果になりそうだった。二人で前島冴子と顔を合わせて事情を説明した後、そのまま職場を後にする。

「大変なご迷惑をおかけします」

 涼子は深々と頭を下げていた。勿論、前島冴子は気にしていない様子だった。確かに涼子が好奇心からあの現場へ赴き、清隆が職場を離れることになったのは事実であるが、この件に関しての責任は自分にあると清隆は決めつけた。それを口に出し、だから君が気にすることは無いと気遣わしげに背中を叩くと、彼女のみならず、なぜか前島冴子までもが驚いたようだった。その意味も分からないまま彼は涼子を連れて事務所を後にし、線路沿いに駅前まで続く大通りをゆっくりと連れ立って歩いていく。

 先ほどから黙ったままの彼女に、清隆は複雑な思いを抱いていた。言うまでもないことだとは思うが。

 道をゆく人々の顔は完全な無表情だ。体調は伺い知れても感情は見えない。疲れているが、楽しいのかつまらないのかがわからないのだ。恐らく後者だろうと推測を立てて、清隆は顔をしかめた。

 ある一定の発展を遂げた時点で、人々は仕事というものに楽しみを見出せなくなっている。この国のほとんどの人々が就きたくも無い職業に内定を求め、予想だにしなかった業務に従事させられる。そうしなければ社会不適合者の烙印を押され、ある種の社会的な階級カーストの下位へ落とされる。下には下がいるが、上にも上がいる。そんな無限に続くかと思われる社会的価値観の相違によって想起される樹形図は多様だ。時々によって千差万別の姿を持つ。だが上に上がれば踏み台にしている何かが増えるのは当然のことで、転落した時のダメージは計り知れないものとなる。日本人がボランティア活動で後進国のスラム街を訪れた時に受ける衝撃は、正にその類のものだ。自らの社会と現地での生活に見出す落差は、自分達のものより高かろうが低かろうが受ける衝撃は大きい。上にのぼればのぼるほど景色は変わっていくが、人の上に立つことは大きな責任が伴う。できれば御免こうむりたい。誰かを踏みつけてさらには働かせる、それは秋津清隆が最も苦手とすることだった。

 思えば、杤原惣介もそうであるのかもしれない。一度、彼に事務所の規模は今のままでやっていくのかと問うたことがある。彼は一頻り顔をしかめると、口にするのも嫌だと言いたげに溜息をついた。

「ありきたりな言い方にはなるが、俺は別に金をもらうために仕事をしている訳じゃない。ただモノ探しが好きなだけだ。それを生かす最高の職業が探偵だったってだけ。だからこの事務所のこの椅子に座る限りは好きにやらせてもらうが、他人に自分の道義を押し付ける二流政治家のような真似をするつもりはない。他人とは関わらなくては生きていけないが、それは迷惑をかけていいということではない。どんなに親しい人間との間にも、他人と関わる上で守らなければならない礼儀はある」

 持ちつ持たれつ。この国にはこんな諺がある。誰しもが生きていく上で、相手の何かを負担し、さらに自分の何かを相手が負担しているという考え方である。愛憎然り、善悪然り、デカルトの二元論的な概念の数々は相手がいるからこそ自らの存在を証明している。共存とはまた別の形の共生作用。反対に何かがあるからこそ自分が存在していられる。思うに、自分という意識を持つすべての生き物は、すべからくして相手という概念を認識しなければ自己を保つことはできない。我思う、ゆえに我ありではないのだ。そこにどんな感情が押しはさまれようが、人間は相手がいなくては生きていけない。恐らく、一人で生きていくには意識などあっては邪魔なはずだ。自らの内ですべてを処理するのならば外界を認識する意識は必ずしも必須ではない。虫や鳥だって、人間や機械人形の様に高度な自意識を保持せずに生活を営んでいる。

 だけど意識があるから、人は一人では生きていけない。そして極論ではあるが、相手が人間でなければならないという理由はどこにも無い。

 自分と同じ結論をみんなが出せればいいのに、と清隆は唇を噛み締める。そうすれば、労働組合と反機械人形団体が起こしつつある社会問題や、機械人形が感情を持っているのかどうかとかいう延々と続いている議論は、些末な問題以外の何物でもなくなるのに。そんな事よりももっと議論すべき何かがあるはずなのに、社会は神経質に重箱の隅をつついている。

「昼くらいは買っていこうか」

 清隆が言うと、涼子は頑なに首を振った。そこまで迷惑はかけられない、とでも言うつもりだろう。口を半ば開きかけた彼女に先を言わせない様にして、少し勢いを付けて路地を曲がる。

 この時間帯の新宿は、多すぎる胃袋を満たすためにありとあらゆる食事処が弁当を出す。路上販売、店内販売、そのどちらでも、値段と味の両立を目指して終わる事の無い競争が繰り広げられているものだから、食事に困る事は皆無だ。味も競争効果かなかなかのものが揃うし、適当に買って損をすることは実はあまりない。

「何か、食べたいものはあるかい? 落ち込んでいる時は食べるのが一番だ」

「私はなにもいりません。清隆だけ買ってください」

 相変わらず食事を断ってくることは予想の範囲内だ。

「そりゃ、栄養って面ならそうだろう。けれど食べるって行為自体、君は嫌いじゃないだろ。何か気を紛らわせるに越したことは無い」

 涼子は驚いたようだ。目を丸くし、ぽかんと口を開けている。それが可笑しくて、清隆は軽く微笑みながら適当に牛丼チェーン店の大盛りと並盛をひとつずつ購入する。売り子の視線が涼子へと向き、その視線が赤いチョーカーを捉えた後でなぜ彼女にも買うのだろうと剣呑な表情になったが、清隆が少し表情を曇らせるとすぐに営業スマイルに戻って釣りを渡してくる。電子マネーの普及は、金銭の実感的価値ともいえるものに邪魔され続けている。何もない状態より、盗まれる危険性があっても財布の中に忍ばせておきたいのだ。重みとも言う。懐がカード一枚というのはなんとも寂しい話だ。

 ビニール袋をがさつかせながら通りを歩き出した時、唐突に涼子が問う。

「どうして、私が食べる事を好きだと思ったのですか、清隆」

 高層ビルの影から上った太陽が光を降らせ、二人を淡く照らし出した。路面はからからに乾いており、革靴とパンプスが路面を擦る音が周囲で響き渡る中、清隆は二人分の弁当が収まったビニール袋をぶらぶらと揺らした。すぐ目の前に見えてきた大きな高架を電車が勢いよく走り去っていき、相変わらず騒々しい汚れた空気を人形と歩く。

「そういう確信があったから。涼子は大抵いうことを聞いてくれるけど、嫌な事には顔をしかめるだろ。食事中はいつも無表情だから、少なくとも嫌いではないんだろうなと思っただけだよ」

 それから彼女は何も言うことは無かった。何も言わない方がいいと思ったのかもしれなかった。




 人間であれば体、または精神のどちらかに不調を来した時、貧血や頭痛などの症状を引き起こす要因となりうるが、機械人形ならばそのようなことは無い。ソフトウェアに問題があるならその影響は顕著に行動として現れたり、機械人形自身が報告してきたりする。たとえば、交差点に進入してきたトラックと正面衝突したり、目の前を走る電車の中に飛び込んだりといった具合に。

 思うに、杤原惣介はあの事故で何らかの影響を受けた涼子の反応が見たいのだろう。それは今後の同じ事態におけるモデルケースとなりうるかも知れないし、少なくとも今回のリリィの自殺について、堤家の住人は一刻も早い納得のできる説明を望んでいる事が容易に想像できるからだ。そのための判断材料は、同じ機械人形が件の自殺をどう受け止めるかと比較するほうが効率的に進む。

 彼はあの現場でこれからのことを考えていたのだ。現在のことにかかりきりの秋津清隆と涼子を置いて。

 このような状況になってしまった今となっては、事務所側としては少なからずの責任を負うことになるだろう。念書にも調査権委譲同意書にもそのような条項は記載されてはいないが、リリィが自らの意志で踏切の中へ足を踏み入れたその行為を止める事は出来なかったのか、その一事について尾行をしていた張本人である杤原に対して、民事裁判を起こす事は出来る。それこそこれからの杤原惣介と前島冴子、そして秋津清隆にとって路頭に迷うか迷わないか、これからの杤原探偵事務所の趨勢を決める一大事だ。世間は内情よりも体裁を見る。よほど情状酌量がみとめられる事態ならば話は別だが、今回の一件は全国の探偵事務所から同情の目で見られるに十分なものであるに違いは無い。

 だがそれは涼子も同じことだといえる。清隆は、やはり大事を取って彼女を休ませることにした。機械心理学について人並み以上には知識があるものの、彼女の中でいま起こっている何かについて納得のできる対処法といえばそれくらいしかなかった。とにかく落ち着いてもらうことが先決で、何か問題があればその後で聞きだせばいい。

 弁当だけという軽い食事を済ませた後、清隆の寝室からはリヴィングと短い廊下を挟んだ先にある部屋に彼女を押し込んで休むように命じた後、清隆はリヴィングのソファに深く腰を沈めた。自分で淹れた緑茶が揺蕩う、学生の頃に温泉街で見つけた土産品の湯呑をテーブルに置くと、スーツ姿のまま壁にできた一点の染みを見つめる。

 彼女を現場に連れていくべきではなかった。深い罪悪感は血なまぐさい汚れのようなしつこさで心にへばりついたまま剥がれない。しばらく無心のまま過ごした後、思いついたようにもそもそと着替えを始める。ネクタイを解けば、体の中に溜まっていた何かが肺の底から吐き出された。

 他のどんなことも関係なく、清隆は涼子を見つめて杤原惣介の期待通りに観察しようなどとは思っていなかった。機械人形は、人間よりも固く脆いものであると知っていた筈なのに、あの踏切へ彼女を連れて行ってしまった。結果として、彼女のまだ人間で言えば十歳にも満たない人生の中で、自らと同じモノの異常な死を目の当たりにするという、残酷なまでの仕打ちを受ける羽目になった。誰でもない、彼自身の監督不行き届きである。

 ふと、清隆はそこまで考えてある疑問に思い当たった。ワイシャツのボタンにかけた手が止まる。

 もし仮に、人間ではなく人形が何か悪事を働いた時、機械人形の犯した罪は何が背負うべきなのだろうか。人間が生み出して、人間の勝手で生み出された何かの罪を。

 台所に置かれた二つの空になった牛丼弁当を見やる。涼子は慎ましやかに食事を済ませると、丁寧に片付けまでしてから床に着いた。彼女らしいと言えばらしいが、こんな時くらいは自分に任せてくれてもいいのにと思う。

 涼子はあまり食事をしたがらない。この家に自分がいる時は、彼女だけに食べさせないのは申し訳ないと感じる。二人いるのに一人で食べるのは嫌だ。子供らしささえ感じるほど純粋に彼はそう信じている。しかし弁当屋の前で話した通り、彼女自身が人間の命令とはいえ嫌悪の感情を表に出すこと無く食事はするのだから、それほど嫌いなわけでもないに違いないと思う。清隆は、機械人形は機械人形らしく、機械人形のみで生きていくべきであるという、機械人権とやらを声高に叫ぶほど崇高な使命感と思慮深さを持っている訳ではなかった。

 立ち上がる。そのまま、朝の冷たさを残すフローリングの廊下を歩き、右側に現れたドアを開く。静かに軋んだそれの隙間から中を覗き込むと、言いつけ通りにベッドに横たわっている涼子の姿が見えた。息もせず、仰向けの状態で瞳を閉じている彼女は、まるで死体だ。普通の人間なら感じられる生命の気配が彼女からは微塵も感じられない。その様は神殿に眠る聖遺物の様で、長い人工毛髪は解き放たれ、枕の下から両肩の上に伸びている。不思議な事に薄暗い室内でも美しい人工毛髪は光沢を放っていた。静謐な空気は吐息だけでひび割れてしまいそうだったが、そろりと足を踏み入れた限りでは涼子が起きる気配は無かった。

 静かにベッドの横まで歩き、清隆は立ったまま、眠る涼子の綺麗な顔を見つめる。

 不思議なものだ。こうして人間ではない何かと共に、ひとつ屋根の下で暮らしているのは。肌の色は変わらないから、呼吸で胸が上下していないほかは信じ難いほど緻密で、大胆で斬新な技術の粋として結合した、実に人間の真に迫ったものだった。この自分よりもよほど人としての完成度が高い機械。機械人形はまさにそう形容するに相応しい。計算しつくされた造形美とソフトウェア。これほど完璧な何かを生み出すためにはいくつの失敗を重ねなければならなかったのか、筆舌に尽くしがたい何かがある。恐らく、彼女を手掛けた誰かも人ではあるまい。人間は何かを生み出し、その代りに何かを破壊する生き物だが、その代償について今は考えたくなかった。

 可哀想な涼子。まったくの本心から、清隆は彼女の顔を見つめ続ける。その頬が再び笑みを形作ることを切に願い、踵を返した時に右手に何か冷たいものが触れる。振り返ると、いつの間にか目を開けていた涼子が、細い腕を伸ばしてタオルケットの下から彼の右手をそっと掴んでいた。

「清隆」

「なんだい」

 どぎまぎしながら問い返すと彼女は微かに曇った表情のまま、憂いの漂う息を呑むほどの表情で真っ直ぐに彼を見上げた。

「何故、何も聞かないのですか」

 どこかやつれて、彼女は見えた。

「あなたはあの探偵事務所の人間です。尾行対象をみすみす自殺させてしまったのでは、依頼人からの激しい非難は免れないでしょう。そうなれば、職を失う事にも、つながりかねません」

 少し悩んだ末、嘘をつくのはやめることにした。近くにあったプラスティックのデスクチェアを引き寄せて腰掛け、彼女の冷たい手を両手で包み込む。

「君の心配する事じゃないよ。この家でいつも通り生活していればいい。電気さえあれば、君は動けるんだから。自分の心配は自分でするよ」

「それでは無理でしょう、清隆」

静かに、しかしきっぱりと、涼子は断言した。

「気を悪くしないでほしいのですが、前々から言いたいと思っていたことがあります。よろしいですか?」

「いいよ。言ってごらん」

 それから、涼子は告解の様に語り始めた。寝室はさながら教会の懺悔室。犯しがたい聖域に踏み込んだ気分で、清隆は耳を傾ける。

「あなたたち人間は、理解できない。責めている訳ではないのです。私たち機械人形は、特に自らの行動が生む矛盾、意味を気にします。今の自分は人間の役に立てているか、これから為そうとしている事は誰かの迷惑にならないか、とか。私達はあなたたちのために生まれました。だから、あなた方に尽くす。生まれ持ってそう意味づけられているのです。ならば、それ以外の行動はできない」

「でも、君には機械人形の三命題、その第三条があるだろう。人間のために生きるとはいえ、自分の生活だって営めなくっちゃいけない。機械人形が人間に尽くすのは、僕は素晴らしい事だと思う。ご都合主義なんかじゃない、たとえ機械人形でも、他の何かのために行動するということの尊さは変わらないと思うよ」

「確かに、私のライブラリにもそうあります。私自身もそう思います、心の底から。だから、私はあなたのためになりたいと思っているのです。それが、私が原因で仕事を失うとなると、耐えられません」

 恥ずかしい思いで、彼は涼子を見つめる。機械人形は赤いチョーカーをはめたままの首を微かに振り、何かを噛み締めるかのごとく瞳を閉じた。

 彼女がいま抱いている苦悩について、自分は何を理解していたというのか。彼女が人間を大事にする思いと、人間が機械人形を大事にする思いは、天秤にかけた時に必ずしも釣り合うものなのだろうか。人間は、機械人形がそこまでして尽くすほどの生き物なのだろうか。再び瞳を開く彼女を見つめ、清隆は何も言えないまま次の言葉を待った。

「清隆。何故あなたは私を人間のように扱うのですか」

 率直な問いに、秋津清隆は明確に答えるだけの何かを持ち合わせていなかった。ただ返答に窮し、彼女の手を握りしめる事しかできなかった。

「私はあなたが思っているような存在ではないと思います。私は、たとえ命があるように見えても機械です。人形が魂を持つなんてありそうでありえません。ですから、あなたはあなたの為すべきことをなさってください。今の私を観察すれば、彼女が踏切に飛び込んだことに対する機械人形の反応として、一例を示す事が出来るでしょう。そこから、何がしかの手がかりがつかめるかもしれません」

 真剣に、あるいは憮然とした表情で、清隆は目の前の機械人形を見つめる。

 だというのに、彼の目の前にいる彼女は、人形ではない何かだった。

 少なくとも、機械などではない。何か他の、もっと崇高な何かを目の当たりにしている様な錯覚を抱きながら、彼は一層強く、彼女の手を握る。それに呼応する様に、彼女もまた一瞬だけ握り返してきた。

 遮光カーテンの隙間から零れた光が、涼子の赤いチョーカーを重なるように照らした。



  *



 彼女が初めて家にやってきたのは、よく晴れた冬の日だったことを覚えている。

 秋津清隆は高校二年生。部屋にこもって受験勉強にいそしんでいた自分の名前を呼ぶ父の声がして、重い腰を上げて居間へと向かった。理系らしい物理と数学の参考書が電子情報化されたものをスレート端末から閲覧していたせいで、とても目が乾いていた。目薬を差してから、緩慢な動きでドアを開く。

「お、来たか。見てみろ清隆。機械人形を買ってきたぞ」

 意気揚々とも意気消沈ともつかない平坦な声で父が言う。驚きのあまり口を開けていると、昨夜、もう機械人形を持っていないのはうちくらいだと愚痴をこぼしていた両親の姿が思い起こされた。小林さんの家だともう買っていてすごく便利らしい。何でもいうことを聞いてくれるし、その上、燃料電池の発達で稼働時間も段違いだとか。そんな世間の風潮故か、正に思い立ったが吉日を持論としている父らしいことでもあり、そういう意味では特に驚くことも無いのだと奇妙な納得をして、しかし一声かけて欲しかったものだと眉を潜めた。人形とはいえ人型、いうなればこれから生活を共にする「誰か」ではないか。そんな重要な事を息子にも相談しないとは、いかがなものだろう。

 当時、機械人形は出回ってしばらく経ち、普及率も今の半分以下といったところだったから、社会的にかなり高級志向な家電として認知されていた。清隆自身も、高校で自慢げに自宅にある機械人形の利便性を得々と語る友人の話以上に機械人形のことを理解している訳ではなく、まさに寝耳に水、少なくとも自分が大学に上がるまでは自宅で機械人形にお目にかかる事も無いと思っていた。

「で、父さん。人形はどこだよ」

 好奇心は鎌首をもたげ、見透かした父が薄い笑みを口元に浮かべながらいう。

「そこだ」

 指さした方へ目をやり、リヴィングに燦々と光を入れている窓の前、見慣れぬ人影を見やった。

 第一印象は、実はあまり覚えていない。やけに長くて綺麗な髪の毛だと思ったのは覚えている。涼子の長髪は、人の手で作りうるあらゆる造形物を差し置いて、いつまで見ていても飽きないほどの艶めかしい輝きを放っていた。太陽光を反射して煌めく長髪はそれだけで芸術品。反面、休日の寝癖を付けたままの自分が少し恥ずかしくなって、慌てて右手で髪をなでつける。その様子をにやつきながら見ていた母へ一瞥を投げると、父がまた言った。

「うちに来たばかりだから、まだ慣れていないみたいだ。とにかくうちの人間の自己紹介をしなきゃならんから、お前からやれ」

「なんで僕なんだよ。父さんだろ、買ったの」

「いいから。こういう時は素直に親の言うことを聞くものだぞ」

 不承不承な体で清隆は一歩を踏み出す。父が彼女と自分の反応を見定めようとしているのは明白だった。母も思春期の男児の反応を確かめたくて仕方がないらしい。そもそも、起動した時点で所有者の個人情報を彼女は把握している状態なのだから、自己紹介をする意味も無いじゃないか。そこに自分の情報が無いわけはないのに。そんな事をぶつぶつ呟きながら、清隆は後頭部をぼりぼりと掻いたあと、窓の外をずっと見つめ続けている機械人形に声をかけた。

「あの」

 ゆっくりと、彼女が振り返る。美しい髪の毛がしっとりと揺れ、それよりも遥かに洗練された顔が、目が、唇が、彼の目に飛び込んでくる。こんな綺麗な何かが、この世にあるとは思わなかった。間延びした時間の中で、ガラスの両目が自分を捉えるのを眺める。

「はい」

 慎ましやかに返答をする彼女の声には、機械独特の電子的な旋律は何処にもなく、人間と同じ肉声は掠れていた。心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、清隆は意を決して口を開いた。

「僕は秋津清隆といいます。この家の長男です。というか、一人息子かな。あなたの名前は?」

「秋津清隆様ですね。私は涼子といいます」

 丁寧なお辞儀をすると、彼女は眩しいくらいの笑顔で言った。

「どうぞ、よろしくお願いいたしますね」



  *



「ちょっとぉ、呑みすぎじゃない?」

 薄らと瞼を持ち上げると、見慣れたようで未だに新鮮な印象を覚える顔がある。

 最低限の化粧だけを施し、イタリアンバーの薄暗いカウンター席に悩ましげな体勢でもたれかかっている彼女は、黒いジャケットにこれまた黒のスラックス、中には白のブラウスだけという、そろそろ終わる残暑にあとは気温の急降下に備えるのみとなった東京では珍しい、比較的ラフな服装をしている。

 彼女は無言のまま、注文していたらしいオレンジジュースを無言で差し出してきた。どうやら気を利かせて頼んでくれていたらしい。軽く礼を言ってから口を付けると、粘ついた口の中に清涼感溢れる柑橘系の酸味が心地よく広がっていく。嘆息さえ漏らす彼の一部始終を見届けると、彼女は自分のぶんのオレンジジュースを傾けながら、バーテンの目の前に空いた皿をどかどかと載せていた。食べに食べたものだ。頭を使うと腹が減るのは誰でも同じことらしい。

「疲れてるんだ。まだワイン三杯なのに、こんなに酔うなんて情けない」

 今日は疲れた。元からあるかどうかもわからない明敏さを取り戻しつつある頭で今日の出来事を振り返りながら、清隆はしょぼつく両目を指圧する。その仕草を、彼女は心配そうに見つめていた。

 堤家への事情説明は、今日の昼ごろに行った。リリィが自殺するまでの経緯を事細かに記した書類は、柄にも無く杤原惣介が抱いた罪悪感の表れだったのだろうか。厚い報告書と合わせて清隆と杤原は堤家を訪れ、その場で事態の報告を行った。当然の成り行きとして、夫妻は青ざめ、そして怒った。二人は甘んじてその叱責を受けた。彼らは依頼を頼んだ側であり、本件の調査に関する責任は探偵が負う。その契約内容に被調査対象を守る、という条文は記載されていなかったものの、文字にはならない責任も星の数ほどあるのだという堤祐介の言葉は、清隆と杤原に響いた。二時間ほどの話し合いの末、相手方は怒りの矛を収め、今回は公表しない旨を打診してきた。金融関係の仕事において重要な役割を演じている彼の体裁がそうさせたのだろう。堤家にもリリィの自殺に対する憤激をどこかにぶつけたかっただけなのかもしれないが、どんなことを言っても思っても、後の祭りにしかならなかった。鬱々とした気分のまま事務所へと戻り、一頻り杤原とリリィの自殺について話し合った後に連絡の来た彼女と呑んでいる、という訳である。タイミングとして良かったのか悪いのかよくわからない。今回の一件は公表こそされないが、探偵業の中で消すことのできない大きな汚点として杤原探偵事務所に刻まれたことは変わらない事実だった。

「無理も無いわね。話を聞く限り、あなた達は悪くないもの。責任転嫁どころか、この責任は自殺した機械人形自身が背負うべきものだし、連帯保証人らしく投げ渡されたものを必死に受け止めようとしているだけに見えるわ。そうよ、条文に無かったんだから、そこでごり押していけばいいじゃないの」

 思わず自嘲的な笑みが漏れる。親切にも相槌を返してくれる彼女に、皮肉な答えしか返せない自分は狭量なのだろうか。

「正気か? 相手は新宿に居を構える金融業者の重役だよ? 下手に反抗して悪い心象を与えたら、そこから同業者に噂が伝わっていく。そうなったら本当におしまいさ。依頼も来なくなり、鳴るのは杤原所長の腕じゃなくて閑古鳥だ。事務所の収入は零になる。そうなれば路頭に迷うだけ。まあ、今もそんな状態になりつつあるけど。今日だけでも電話の数がめっきり減ったよ」

「ふうん、探偵も何かとややこしいのね。私にはあまり向かなさそうだわ。部屋にこもってコンソールいじるだけだもの、おかげでまだ独り身だし、いい男もいないしね。お先真っ暗なのはお互いさまって訳だわ」

 ドライな反応に両者は目を瞬かせ、二人はタイミングを計ったようにグラスを傾けた。妙なところで息が合うものだから、彼女との親交はまだ続いているのかもしれない。

「遥、それは機械心理学者の言う事じゃないな。僕から見れば、君の方が何百倍もややこしい仕事をしているよ。将来は明るいじゃないか、機械心理学者になれば各企業から引っ張りだこだろ」

 彼の皮肉に、今を時めく有望な機械心理学者の卵である彼女――鳴海遥はさっぱりとした笑顔で応えると、清隆の薄くも厚くもない肩を親しげに叩いた。

「そうねぇ。でも、そのややこしい事を一所懸命に勉強していた殿方はどこのどなたかしら? 私に追いつこうと、空の教室で二人っきりで勉強もしたじゃない。ああ、他学科で専攻もしていないあなたは、ほとんど私から教わるだけだったっけ。あんな講義、専攻してる人間からしたらいい単位稼ぎよ。その分他の選択科目に回しておけばよかったって今は思うけど」

「からかうなよ。君が誘ってきたんじゃないか。僕は家に帰って自習しようとしていたのに、教授の研究室にまで付き合わされて、帰りが何時になったと思っているんだ」

 しめっぽく言い終えてから、それが愚痴でしかない事に気が付き、自己嫌悪すらも洗い流そうと再びグラスを煽る。両手で宥めるような仕草をしながら、鳴海遥は呆れたように長い溜息を吐いた。

 大学からとはいえ、二人の付き合いは親密以上に発展していた。それは恋愛に似ていなくもない。ただ、お互いに抱いている感情の中で、恋慕よりも尊敬が大きいだけだった。周囲の同い年の青年淑女たちが色恋に奔走している間、二人は何食わぬ顔でお互いがお互いの気に入る性格であることを確認し合うと、当人たちにとって最も居心地のいい距離で親交を深めてきた。

 そもそも知り合うきっかけとなったのは、大学入学時のある一件だった。大学側の運用している機械人形の一体に、体育館への案内が十分ではなかったと難癖をつけている新入生がいた。同い年の彼は外見上はいたって温厚な青年に見えたが、精神は外見からは想像もできぬほど幼かったらし。そもそも案内が十分にできなかったのは彼がトイレの場所を詳細に聞いたりして、その機械人形が迂回路を取っていたためで、その個体に非は無かったのだが人形が人間に口答えなどできるはずもなく、ただ申し訳ありませんとツインテ―ルにまとめた茶色い頭を下げることしかできなかった。それが彼の砂上の城より脆い自尊心にいらぬ増徴を加えたのだろう、遂に彼がその機械人形の肩を押しやって怒鳴り散らした時、清隆は見かねて助け舟を出そうと足を踏み出した。

 そこで、数秒ほど清隆に先んじて、坂の上から猛烈な勢いで走り込んできた鳴海遥がその青年の横っ面を、体重を乗せた全力の一撃で張り飛ばしたのだった。

 とんでもない人間がいるものだ。青年を説教してから退散させ、機械人形から遠回しの礼を言われている彼女を、確かな親しみと尊敬をこめた眼で見つめながら、清隆は彼女の肩を叩いたのだった。いま思えばロマンチックからほど遠い出会いだったことは触れないでおこう。

「いいじゃないの。結果として今につながっているんだから無駄じゃないってことでしょ。もし、あの日あの場所で夜まで勉強していなかったら、今よりもっとひどい人生になっていたのかもしれない」

「そんなの意味の無い仮説だ。常識的に考えて、あの時こうすれば今はああなっていたのかもしれないというたらればの話は誰も一考だにしないよ。遥の方こそ酔ってるんじゃないのか、そんなことを言うなんて。婿さんでももらったらどう」

 傷付いた顔で、鳴海遥は清隆を睨んだ。しまったと思ってももう遅い。

「何よ清隆。今日はやけに突っかかるじゃない。私だって人並みに傷付くのよ、機械人形とも同じようにね」

 何も言わず、再び胸の内に湧いてきた自己嫌悪の念もそのままに俯いている彼に向かって、彼女は溜息交じりに言った。

「あなたって昔からそう。何か悩んでいる時はひとりでむくれて、それを周りの友人知人には決して話そうとしない。人知れず悩んでいて、誰かが声をかけてくれるのを待ってでもいるの? 少なくとも言葉にしてくれなきゃ、私に同情のしようがない。黙り込んで不貞腐れているのって、とても卑怯よ」

「それは僕にだってわかってる。けれど、今の自分が何に対して悩んでいるのか、それを言葉にする自信が無いんだ。きっと、君にとって庭ともいえる分野の話なんだけど――」

「なに、機械人形のこと。あ、わかった。涼子のことでしょう、そうでしょう」

 苦虫を噛みつぶし、そしてさらにじっくり咀嚼している最中のような顔で頷く清隆に向かって、彼女は大げさに肩を竦めて見せた。呆れたと言わんばかりに目玉をぐるりと回す。

「この話はもう決着が着いたと思ってたんだけど、あなた、まだあの子についてもどかしい事をしてるのね。そういうのって、あれよ、救いようがないわ。あれほどじっくりと二人で話し合ったじゃない。今更、何があなたをそんなに悩ませるって言うの?」

「そのことならよく覚えてるよ。今は別のことだ。彼女が機械人形だっていうのは理解してる」

 清隆のつぶやきは痛みに満ち満ちており、彼女はそれだけで何も言えなくなってしまう。

 機械人形は美しい。誰もが口を揃えて言うほど、彼女らの造形美は人間の創造物の中でも他を圧倒して勝る所がある。人間の顔に極限まで近づけ、いつしか同じ地点に辿り着き、追い越した。そこで機械心理学者をはじめとする技術者たちは、人形の顔を美形に作る事とした。商品価値的にそれだけ顧客の幅も増えるし、人間の心理として美形であればあるほど相手を気遣ったりする傾向がある。半ば安心するとも取れる心理作用も働くので、人間の補助をして生活している機械人形達はほとんど例外なく美しい顔を持っている。だが、それ故に機械人形を人間視し恋をするという、世間一般に言われるところの機械人形編愛症オートマチック・シンドロームに罹患する機械人形偏愛者が現れた。これらの症状は、人間よりも機械人形を愛するというその名の通り、生物学的見地から見て非常に危険な性的嗜好を持つ人々とみなされ、特に日常生活に病んだ一面を持つ男性に多いと言われる。しかし当然のごとく、女性にもかなりの偏愛者がいるのも事実だ。どちらにしても総じてあまり良い評価ではなく、精神を病んだ末に機械人形に逃避する社会不適合者の代名詞ともなっている。こうした世論に反発する組織として、機械人形にも人に等しい権利を与えるべきだという主張をしている民間団体は、俗に機械主義団体オート・ヒューマニティとも揶揄される。いかな性生活といえども機械人形は愛されるべきで、その形態も個々人によって千差万別なのだから追及することは無粋だという彼らの主張は、世界の至る所で論議の種を捲いている。

 秋津清隆も大学に在学していた一時期、これに囚われたことがあった。考えてみれば、涼子はチョーカーを外せば清純で潔白、器量よしで一途な、男性の目から見ればこれ以上ないと言うくらいの優良物件――これは鳴海遥の私見である――なのだから、大学でほとんど勉強に明け暮れていた清隆の疲れた精神はこの手の精神依存にかかりやすい状態だった。気心の知れた彼女がひとつ屋根の下で生活しているのだから、健全ないち青年としては無理も無い事といえるし、鳴海遥から見ても、涼子は数多の機械人形の中でも特に際立つ美貌を備えていたから、妙に納得してしまう所もあった。問題だったのは、そういった機械人形偏愛者たちが文系などの機械心理学という分野から縁遠い人々に多く見受けられる中で、機械心理学をわずかにでも学んでいた清隆自身がそれにはまり込んでしまったことだった。通常、目の前にいる人型を機械だと頭で理解することによりこの偏愛症状は改善される訳だが、清隆の場合は既にその方法は使えない。唯一ともいえる改善方法が閉ざされてしまった訳である。

 秋津清隆が彼女に打ち明けたこの事実に、鳴海遥としても大いに気をもむこととなった。

 通常の医療措置としては、精神科医のカウンセリングで徹底的に機械人形を機械であるという確信を持つ勉強をすることであって、そうして初めて、機械人形偏愛者は自分の恋の対象がなんでもない歯車の塊であったことを知り、その心臓は凍ったように冷たいのだと受け入れる事ができる。理解とは前提の知識には頼らないが、その手助けとして知識は大きな影響力を持っている。だが、清隆は情報学を専攻する学徒で大学の講義の中に選択必修科目として機械心理学を取っていた訳だから、これを行う訳にはいかなかった。下手をすればカウンセリングのレベルは通常のものとは桁違いに跳ね上がるし、彼の言では機械心理学を学べば学ぶほどにその気持ちが強まる一方であったから、これは逆効果であると言えた。それを解消するために、鳴海遥は自らの女友達を積極的に彼に紹介し、清隆自身もそれなりの女性経験を経る事で、なんとかその状態から脱する事ができた。言うまでもなく、かなりの荒療治であったが。

「僕だって、今更そんなことでくよくよ悩んだりしないさ」

 新しく注文したジンジャーエールを飲み込んで、清隆は言った。鳴海遥は疑わしげな顔で手を振り、続きを促す。

「昨日、彼女は精神に不調を来した。代々木駅での人身事故、知ってるだろ」

「機械人形が飛び込んだってやつ? ワイドショーで見たわ。あれと何か関係があるの?」

「その現場を、彼女は見てしまったんだ。かなりショックを受けてね、今は家で休ませてるよ。表情には出なかったけど、結構しんどそうだった。彼女が現場を見たいって言ったんだけど、僕がそこで断っていれば彼女がそこまで落ち込むことは無かったのかなと思わずにはいられないんだ。君は偽善だと笑うだろうけどこれは僕の本心。人間としても機械人形としても、彼女があそこまで傷付く姿を見るのは僕の本意じゃない」

「それで、死んだような顔でイタリアンバーのカウンターで酒から切り替えてソフトドリンクを注文しているってわけね。本当に変わらない。あなたって真面目な話をする時は、絶対にお酒は飲まない。それだけ真摯で、礼儀正しいんだと思っていたけど」

「アルコールはもう飲んじゃったけどね、確かに話す時は酒は避けるよ。なんだい、期待外れだった?」

 首を振りながら、鳴海遥はちびちびとグラスを傾ける。薄暗い店内の各所ではサラリーマンや仕事終わりに落ち合っている男女がそこそこあふれている。男性型機械人形のウェイトレスが、たくさんのカクテルをトレーに乗せて歩いていく。

「どちらかといえば、予想以上だった、ということね。あなたは病的なまでに涼子に対して責任や負い目を感じている。いい、清隆。あなたは彼女が傷付くのが本意ではないと言ったわね。なら、彼女が傷付くことであなたが落ち込むのも彼女の本意ではないのだと気が付くべきよ。機械人形はその精神構造から、機械人形の三命題、その第一条より、人間を第一とするように意味づけられている。それは精神構造の中で愛情となって根を張っている。三命題を抱えている彼女にとって、人間に気遣われることそのものが耐え難いことであるはずだわ。好きな相手を心配させたくないと思うでしょう。それとまったく同じ。人間に心配をかけてしまう自分のような機械人形は失敗作だ、くらい思っているのかもしれないわね」

「僕はそのために彼女を気遣っている訳じゃない。そんな言い訳は、もう通用しないんだろうな。僕は機械心理学について、人並み以上には知っているとは思う。君のような機械心理学者みたいに詳しくは無いけれど、簡単な精神構造や意味定義、記憶の重要性などは一通り頭の中に入っている。認めるよ、僕は彼女を傷つけた。他でもない、僕が彼女に抱く愛情で、彼女の心を、彼女自身の優しさで縛り付けてしまったんだ」

 心の取っ掛かりはそこだった。自分自身の中にある罪の所在をはっきりさせると、一種の清々しさが清隆の胸の中を過る。次いで罪悪感が雲のように垂れ込めた。気分は一向に晴れることはない。いつもならこんな鬱屈とした気分を吹き飛ばしてくれるはずの涼子に関わる問題なのだから、家に帰れば一時とはいえ水に流すこともできない。追いつめられた清隆は、醒めはじめた酔いを払しょくするために軽く頭を振った。

「人間は、色々なものを創造する。今の文明社会も人々の暮らしも、誰かの創造の上に成り立っている。携帯端末、コンピュータ、身の回りのボールペンから紙に至るまで、全てが誰かが生み出したものだ。僕はね、遥。人間は人間の創りだしたものに対して、責任を取るべきだと思う。一挙手一投足の全て、創造物が犯した全ての罪に対して。何故なら、その何かを生み出す瞬間、そこに存在するのは人間の意思だけだからだ。創造物には一切の責任が無い。そこから先のことも、考える事が出来る人間が責任を取るべきだ」

 神は全てをお赦しになる。昔、敬虔などこかの宗教に入っていた信者である友人が耳元で囁いたことがあった。かの父は、人間が行った全てをお赦しになる。だから自らその罪を吐きだし、許しを請いたまえ。それが告解であり、懺悔だ。そうすることで人間は救われ、人間の行ったものの善悪は全て神が決めるのだという、全ての絶対的価値観は平等に絶対主たる神が握っている世界の構図。そうすることでしか人間は救われることは無い、簡潔で、しかし誰もを救いうるであろう信心深い、良心に満ちた一言。

 言葉とは不思議なもので、言った側がこめた意味合いとは全く正反対の意味を聞き手に伝えてしまうことがある。それらは言霊とも表現され、古来より世界各地で言葉とは魔的で、時には人の心をすら操る事のできる呪いの一種であるとも言われた。その結果として現代まで続く、ある一定の影響を他人に及ぼし得る言葉を呪文や呪詛と呼ぶこともある。そのあたりまで考えてしまうと宗教学の世界へとのめり込んでいってしまうのだが。

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