「警察、ただしやさぐれ」
*
電話が鳴る。
古めかしい、黄ばんだプラスティックの昔ながらの電話。情報犯罪課はこうした理系的捜査部門におけるエキスパート集団の筈なのに、それぞれの捜査官が詰めているデスクの上には未だにこんなものが鎮座して、律儀に受話器を取ってもらおうと必死に不細工な歌声を披露している。その涙ぐましい努力に報いたい気分なのだが、徹夜明けでぼんやりとした担当者としてはその気力すらも出ず、欠伸をかみ殺しながら少しだけ受話器を持ち上げ、そのまま落とした。
無論、電話に出ていない。フックが持ち上がり、ようやく相手の声を届けられると安心した電話機がこの暴挙に怒り狂ったのか、もう一度けたたましい呼び出し音が鳴る。出勤してきたばかりで眠そうな捜査官が非難がましい目で睨んできたので、六道は男へ理不尽な一瞥をくれてから受話器をひったくって耳に当てた。
「警視庁情報犯罪課、六道でござんす」
「なんで出ないんだ、六道。切っただろ、お前」
同じく疲れて怒る気もないといった体の田邊明彦は煙草を吸っているのか、少し間を置いてからいった。なんだか申し訳なくなって、六道も人並みには誠意を示して見せる。
「すみません。面倒くさいから切っちまいました」
「その不機嫌な声から察するに、お前も徹夜か。働き過ぎはよくないぞ。健康体あってこその職務だからな」
「こいつを調べろと命令したお人の言葉ですかね、そいつは。田邊さんも徹夜でしょう。くそまじめなのはお互い様ですよ」
「まったくだ」
田邊は自嘲気味な笑いをする。知らず、六道の唇も皮肉気に歪んだ。
「ところで、上からある辞令が降りてな。それをお前に伝えようと、朝一番に内線かけてやったわけだ」
「なんだ、進展があったのかと。まあいいや。それで、俺にこれ以上どんな面倒事を押し付けようと?」
皮肉に鼻で笑いかえしながら、田邊はいった。
「別に変わらん。これはお前の、というより情報犯罪課がいつも通りやっている独自初動調査という扱いだったんだが、本日付で正式なものとする。それだけだ」
六道は驚いたと同時に憤慨した。言われなくても仕事はしているという悪態は何とか飲み下して、受話器に縋りつくように身を乗り出した。
「それって、上の連中が機械人形の自殺を大筋で認めたって事ですか」
現行のロボット法に機械人形の自殺はメーカーによる説明書への添付を強制させる程度には整備されているが、原則としてそのような事態は想定されていない。見逃されるかと思っていたが、どうやら珍しく上の連中が機転を利かせたようである。正規の調査となれば人員も動員できるし、何よりも実行力が強まる。しかし同時に、六道にはこの件を上層部へ報告する義務も生じてしまうのだった。報告書が増えるのは、現状としては足を引っ張る事にしかならない。ただでさえ専門色の強い情報犯罪課の範疇にある案件なのだ、上の連中が専門用語を理解することなど期待はできないだろう。
「ああ。お前が書いた報告書のうちいくつかを抜擢して、上に送ったんだ。そうしたらこの通り。俺が思うに、現行法の範囲を超えた超法規的案件でも社会の健全な運営に害するものである、とかいう一文が相当効いたみたいだぜ」
「あれを、送ったんですか。俺、田邊さんしか読まないと思ったんですけどね。それに、この件は俺があずかる方向でいいと思ってたんですが」
こういう所は昔から田邊明彦が一枚上手だ。変に気を遣う六道清二が素直に報告書を書く様に、田邊は内輪での報告という体裁を取った。彼の目論み通り六道の上層部への少なからず批判の入った報告書は彼を経由して上に届けられ、そのレスポンスが今かえってきた、そんなところだろう。しかし、田邊自身は上にはその報告書を回さないと言った訳でもないので、六道も胸糞の悪さを全て言語に変換する手間は取らなかった。
「そうだったか? まあいい、進捗はどうだ。報告書だけだと表現が堅苦しくてな、実はよくわからんのだ」
溜息をつきながら、六道は現況を説明した。
これまでの所、日本全国、北海道の宗谷岬から沖縄県の与那国島まで、過去に起きた機械人形の発生件数の推移と場所を地道な情報収集作業の末に完成させた。その傾向として近年、急激にそういった事故が相次いでいることが明らかになった以外に目だった進展は無かった。つい先ほどその作業を終え、今日は家に帰って報告書を書こうかと思っていた矢先の電話だった。
あの機械人形が自殺したと思われる事故現場へ赴いてから、既に一週間が経過していた。この単純な情報収集と整理作業、ましてや高度情報化社会においてどうしてこれだけの日数がかかったのかといえば、これは日本の警察組織内で未だに放置され続けている各所轄や本庁などの情報共有データベースが構築されていない問題が、その実態をもって彼の捜査を妨害したと表現できる。都道府県ごとに点在する警察組織は卑小とも思える程に縄張り意識が強い。地元愛というやつだろうか、いやそうではない。ただ単に、自分達の管轄なのだから日本全国の中で俺達が一番仕事ができる、という事実と虚妄が入り混じった自信からこの問題は生まれている。どこの組織でも部署や配属先の違いで能力の高低が出る事は避けられないことであるし、事件そのものが今回のように他県へとまたがる場合もあるのだから、より円滑に捜査できる情報網の構築を急ぐべきなのだが、ネットワークを構築しても膨大な事件資料それぞれを整理、登録する作業が追いついていない。そのため、県境を越えての合同捜査などは数える程しかない凶悪犯罪のみに限定されつつあり、さらに悪いことに、警視庁の情報犯罪課などという辺鄙な部署で不貞腐れているいち警部補の単独捜査などとなれば、かろうじてその存在を示している犯罪情報取締共有データベースへとアクセスしても、優先権が低くレスポンスはどんどん割り込まれた末に来月、これこれこういうものですよと送られてくるにすぎない。お役所仕事というやつだ。
そういうわけで方々へ電話する合間、空いている時間を見つけてはあの日の事故現場で機械人形から聴取した目撃証言を睨み付け、無駄と思いつつもどこかに不審な点が無いかどうか根競べをしており、つい一時間ほど前に最後の報告をまとめたところで家に帰ろうとしていた矢先だった。
「各県庁から直に圧力をかけてもらいました。ほら、勤勉な蟻の中でも何パーセントかはサボるって言うでしょう。それは人間にも通じますから、そいつらに無理矢理仕事を押し付けたんです。個人的にも組織的にも、連絡を取るだけなら不自由しない世の中ですからね。まあ上の承認も降りないだろうから、オフレコで全部済ませちまおうと思っていたんですが」
「それでもよかったんだが、お前も言っていただろう。社会の健全な運営に害するものとして認定するにたる根拠を話してくれ」
「いいですよ」
既に冷め切って冷たくなったマグカップのコーヒーを口の中に放り込んで、眠気をどうにか振り払おうと左手で顔を擦った。無精髭が肌に擦れて痛い。
「まず発生件数ですがね。これは三日前、その報告書を提出した時の段階で七十件を超えていました」
「七十だ?」
驚くのも無理はない、と、六道はコーヒーみたいに冷めた心で思った。
「ええ。最終的には二百二十三という数字になりましたけどね。それらの中で自殺案件の疑いがあるものの内、手段としては交通事故、転落、焼死などが主で、他は物理的に自らを破壊するケースがあるようです。お分かりかと思いますが、機械人形の三命題第三条があるので、自らを破壊する行為自体が本来は存在しないはず。動機というものが発生しないような精神構造を持つ機械人形達がかくも死に続けているのはどこかが間違っている」
さすがに、田邊も言葉を失った。全国でそれほど多くの機械人形が自ら命を絶っているとは。まだその疑いがある、という段階とはいえ、彼らは機械としてくしゃみひとつしない体を持っているのだから、何かの拍子に転んでなどということはあり得ない。何かしらの外的要因が絡んでいる筈で、そうなればこれは事故ではなく事件だ。二百もの機械人形が自殺するとなると、被害総額も巨大な数字になる高度な科学を駆使した機械人形は分割払いが主たる支払いとなるほどに高額なものなのだ。
六道はそこで言葉をとめると、おもむろに脇に置いてあったコーヒードリッパーを取り出し、熱い一杯をマグカップに注ぎ足した。その間に、ようやく思考力を取り戻した田邊が受話器の向こうでくぐもったため息をつく。
「それで、これからどうする。今まで通りひとりでやるか。それとも二課の奴を何人かつけるか。お前が決めていい。こっちとしても今のやり方を無理に改めさせる気もさらさら無い。お前のやり方はわかっているつもりだよ」
勿論、決めさせてもらいますとも。鼻で笑うと、六道は安物コーヒーの酸味の効いた苦みに一転して顔をしかめた。
「独りがいいですね。身軽でいいし、整理もしやすい。情報分担なんて非効率的だ。それに田邊さん、俺はそのために情報犯罪課に異動したんです。片っ苦しい同僚たちと肩を並べてぐだぐだと会議なんて嫌気がさす。これからもそうですよ」
田邊は苦笑いした。懐かしそうに昔に思いを馳せる。
「昔っからそうだったよなぁ。あいつは集団行動の意味を理解してないって二課の奴も偶さかに零すよ」
「別にかまいやしませんよ、小学校じゃあるまいし」
「そう言うと思った。確かにチーム単位での捜査はお前みたいな有能な人間からしたら鬱陶しい限りかもしれん。だが、奴らの気持ちもわかってやれ。お前みたいに何でもできる人間ばかりではないんだ」
「わかりました、少し慎みます」
口では言うものの、あの腫物を扱う様な課員の視線を思い出し、六道はしれっとした顔で続けた。
「そろそろ家に帰りたいんですがね。よろしいですか?」
「うむ、時間を取らせてすまなかった。そうだ、今度二人で飲もう。給料以上に何か報いてやりたいんだ」
「お気持ちはありがたいですが、まあ、そうだな……考えときますよ。それじゃ」
受話器を厳かに電話機の上に戻すと、欠伸をかみ殺しながらコンソールを立ち上げている隣のデスクの同僚に声をかけ、淹れたばかりのコーヒーを押し付けると、彼の迷惑そうな顔をしり目に席を立った。
上の連中が、ねぇ。口の中で呟き、面白くない、まったく面白くないとズボンのポケットに両手を突っ込んで歩き出す。剣呑な態度で彼が廊下を歩けば、道行く誰もが道を譲った。
「言われなくても調べてらぁ。こっちはこれで飯食ってんだ」
たっぷり八時間は眠った後、六道清二は田邊に呼ばれたあの夜の事故で死んだ、または壊れた機械人形の所有者へ話を聞いてみる事にした。
うらびれた住宅街、駅などの昼間人口密集地から外れた昔ながらの家並みが溢れる人々の憩いの場。平日なので閑散としつつある通りを流し見ながら、六道は胸ポケットに警察手帳とボールペン、そしていつでも現行犯逮捕できるように腰のベルトに挿した強化アルミ製の手錠を確認しつつ、コンビニに立ち寄って遅めの昼食を買い付けた。適当に購入した握り飯を店先でぱくついてからペットボトルの緑茶を胃に流し込み、剃った髭とブローしてそれなりの見栄えにはなった髪の毛を手で押さえたり引っ張ったりしながらまた少し歩く。
ポケットに手を突っ込んで道を歩くと、熱心に見回りをしている二人の巡査に声をかけられた。パトカーの脇で警察手帳を見ると、慌てて敬礼を残して走り去っていく。電気自動車を採用した警察車両の甲高いモーター音を響かせながら走り去る二人に手を振る。あれほど熱心な巡査も今時にしては珍しい。大抵は日々の仕事と自分の義務感を秤にかけ、ちょうど釣り合うところまでしか働かない輩が多いというのに、立派な事だ。
精神に栄養剤を注射された思いで歩き続け、やがて二階建ての何の変哲もない住居へと辿り着いた。携帯端末の位置情報サービスで住所を表示し、同時に端末の記憶領域へ放り込んでおいた機械人形自殺案件名簿から名前と住所を示し合せる。
表札には高峰とある。なるほど、名前に似合わず低そうな家だ。六道は自分のことも棚に上げて思った。平凡なサラリーマン家庭だったら、まあ真っ当な住居といえるだろう。日本人の大半が、平凡な家庭といえばこんな家を思い浮かべるであろう平凡な色、形、佇まい、立地。軒先には自転車が二台あり、一台は母親、もう一台は子供のものだろうかと大きさから判断がつく。金の使いどころが実用一辺倒な点に庶民性が溢れているこの家は、どこぞの高級住宅街よりもよほど好感がもてた。
途端に、六道は気が重くなった。この家には子供がいるのだ。子供は素直でまだ何も知らないから、大人と違って機械人形に強い思い入れを抱いている事が多い。姿形が同じなだけに、彼らを人間だと思い込んでしまうのだ。大人の様に、やれ生命の定義はこれこれで機械に魂が宿ったとしても人間では云々などという議論をすっ飛ばし、素直ゆえに子供は信じたいモノを信じる。不思議に思うことは不思議に思ったまま納得するし、嫌なものには遠慮なく嫌悪感をぶちまける。楽しい事は心配になるくらい楽しそうにする。大人になるということは、自分の素直さが見逃していた世の中の仕組みに目を向ける事なのだろうかと、ふと六道は思う。その点で言えば、世の中の仕組みがわかっているのにそれに反する行動を取る自分はロクでもない大人なのだろうと思った。
ポーチとも呼べないくらいに小さな玄関の前に立って、インターホンを押す。ほどなくして、住人の掠れた声が返ってきた。
「はい、高峰です」
「突然すみません、警視庁情報犯罪課の六道というものです。少しお伺いしたいことがあるのですが、お話を聞かせていただけますでしょうか?」
インターホンのカメラの前に、警察手帳を開いてこれでもかと見せつける。魚眼レンズを採用している事が多いこういったカメラできちんと見せようとするには、近づけるしかない。古いものは画質が粗いから近づけるしかない。そうした意味では、この家のシステムは少し時代遅れ。六道が子供の頃に最新式だったものは、今では骨董品と同じ様な扱いを受けている。
「少々お待ちください」
しばらく待っていると、ドアの向こうから足音が聞こえてくる。警察手帳を降ろすタイミングを計り損ねて持ち上げたままの疲れた腕を縮めると、鍵の開く音と共に、誰かがドアから顔を出した。
「おじちゃん、だれ?」
子供だ。まだ六歳くらいだろうか。ヘアゴムでツインテ―ルに束ねた髪の毛を揺らして、顔だけをひょっこりと彼の膝元の高さに出した小さな住人に、六道は腰をかがめて門扉越しに微笑んだ。
「おじちゃんは警察官なんだ。ママ、いるかな? ちょっとお話ししたいことがあってね」
「いま、くるよ。お料理してたから、おくれるって」
「そっか。じゃあこのまま待つよ。どうもありがとう」
などと言っている間に、少女の頭から何個分か上に、よく見れば似た面影を持つ顔がぬっと出てきた。こちらはショートカットの主婦で、少し丸く太った以外、特に特徴という特徴も無い女性だった。
「こら、有紗。中で遊んでなさい」
「はーい。またね、おじちゃん」
「うん、またね」
お互いに手を振り合って、有紗と呼ばれた少女はドアの奥へと消える。入れ替わりに母親が出てきて、エプロン姿のまま門扉の前までやってきた。申し訳なさそうに上目使いで六道を見やる。警察と聞くだけで萎縮するのはどこの国でも同じらしい。
「すみません。あの子が何か粗相をしましたか?」
「いや、別に。しっかりした子ですね。おいくつですか?」
「ついこの間で七歳になりました。で、ご用件はなんでしょう。警察の方にお話しすることは無いと思うのですが」
わずかに後ずさる母親を安心させるように、別に大したことじゃないんですとお決まりの台詞でなだめながらながらわざとらしくボールペンを取り出した。ただの聞き込み調査であることを強調するためだ。そのまま話すよりも、こうして道具を使った方が相手の緊張をほぐす事が出来る。
「先日、お宅の機械人形が車に轢かれたことについて、少しお聞きしたいのですが」
「え、キリヲのこと、ですか」
表情を曇らせる。子供にはその様子は無かったが、母親は機械人形を失ったことにいくらかの落胆を覚えているようだ。その記憶を掘り返す事には多少の抵抗感があるが、仕事だ。田邊明彦にはもう一人でやると豪語してしまった。いまさら後には引けない。
「はい。その、キリヲという機械人形は先日、普通乗用車との交通事故に遭われましたね。心中お察ししますが、このところ、彼に不審な点は見受けられなかったでしょうか?」
みるみるうちに主婦の表情が不安なものに変わっていく。反対に、六道は表情を微塵も揺るがさない様に細心の注意を払った。
「その前に、これは何の捜査なんですか? 交通事故なら、調べる必要もないと思うのですけど……」
「いや、ご不安はもっともです。実はですね、ある機械心理学の先生から交通事故に遭った機械人形について調べたいという要請が入りまして、そうなるとサイバネティクスに多少は精通している私共の部署が引き受けることになったんですよ。これはそのための情報収集といいますか、もと所有者の方にお話を聞く必要がありまして」
「あら、そういうことなの。てっきり、あの子は誰かに殺されたのかと」
そういうことではないが、そういうことにしておこう。
「不審な点、不審な……あ、そうだわ。確か、あれは二週間ほど前の事なんですけどね。彼が、首輪を外したいって言いだしたのよ」
メモを取っていた六道は、驚いて顔を上げた。問いかける様に右眉を吊り上がらせると、母親はぺらぺらと喋りだす。解れた緊張の糸は意外にも求めるものに繋がっていたらしい。
「こう、ちくちくするセーターの襟を正すようにしながら、私のこれを外してもらえませんかって。気味が悪かったわ。いつもはいい子なのに、その時ばかりは、なんていうの、機械くさくて」
「それは……」
予想外の話に驚き、言葉をなくす。とにかく情報だけは記しておかなければ。夢中でペンを走らせながら頭の中でその意味を考える。
世界共通で、機械人形は様々な管理手段の根幹をなすものとして、首に個体情報や所有者情報を埋め込んだタグ・チョーカーを首に巻いている。男性型は青、女性型は赤色。これを装着することはロボット法でも厳密に定められている規定で、各国に未だ根強く残る諜報機関による過度のプライバシーの侵害などに人形が用いられることを防ぐと同時に、故障して動かなくなったものや警察捜査で身元の確認などの際に使用される。さらには、人間と瓜二つである機械人形をひと目で判断するためのひとつの指標ともなっている。過度に人工毛髪を長くすると、首にあるタグが見えなくなってしまうため、近頃の機械人形はごく一部のモデルを除いて皆ショートカットかセミロングだ。機械人形にとって首にはめているチョーカーを外す事は、自らに留まらず主人である所有者にとってもただならぬ事になると、当人たちが理解していない筈はない。これは明らかな異常だ。
そして、皮肉なことにこのような異常事態こそが、六道清二の探し求めていた情報だった。
「ええと、つまり。それが二週間前ですから……それから一週間後に事故に遭った、と」
こくりと頷く主婦。六道ははたと考え込みそうになるのを堪えて、手帳を閉じ、ボールペンを胸ポケットに突き刺した。
「どうも、ありがとうございました」
「いえ。あ、お巡りさん。ちょっといいかしら」
立ち去りかけた六道が首だけを捻って彼女を見ると、手招きされる。促されるがまま歩みを戻して耳を寄せると、小声でぼそぼそと主婦が耳打ちし始めた。
「うちの娘、あの子のことを相当気に入ってたから、あの事故以来元気が無くて。そういうサポート、警察のほうで何かやってないかしら。あの子、しっかりしてるだけに顔には出さないけど、けっこうしょぼくれてるみたいなの」
先ほどの少女の姿を思い出す。家族同然なだけに、その喪失感は子供が最も高い傾向にある。
「すいません、警官に対するカウンセリングはあるんですが、機械人形の損失なんかは扱ってないんですよ」
「そうなの? 残念だわ。あの子、ベッドに入るたびに聞いてくるの。キリヲはどこって。機械人形だけど、姿形は人間じゃない? だから、どうにも不憫で。もう一体買おうかっていう話になったんだけど、そんなに安いものでもないじゃない?」
「はあ……なるほどね」
思いもかけない相談に頭を掻いた。自分でもそう思わないことは無かったが、まさかそれを母親に言われるとは。いや、母親だからこそか。
しばしの思案の末、胸ポケットにしまったばかりの手帳を引っ張り出す。
「お子さん、なんていいましたっけ。有紗ちゃんでしたか? 寂しくなったらこの番号にかけていいよと伝えてください」
手帳の最後のページに、デスクへ直通の番号を走り書きすると、引きちぎって母親の手に握らせた。
「カウンセラーみたいに確かな効果は保証できませんが、いつでも相談に乗ります。もし必要なら、ご家族からもご相談があれば遠慮なくお電話ください」
「あら、どうもありがとう。ちなみに、あなた階級は?」
「しがない警部補ですよ。それじゃ」
片手でラフな敬礼をしてから、六道清二は肩で風を切って歩き出した。既に事件のことで頭がいっぱいなのだが、ふと気配を感じて二階を見やると、窓の向こう側で手を振っている高峰有紗の姿が見えた。彼は笑顔で手を振り返し、彼女のために力を尽くすことを決めた。
「こいつはどういうことだ」
田邊がマグカップを握りしめたまま素っ頓狂な声を上げる。六道は人差し指で口を塞ぎながら、コンソールの画面に映っている現段階での捜査資料を表計算ソフトで示した。
「静かにしてくださいよ。まだこれについての情報取扱規則は無いんです。俺と田邊さん以外に知られるとまずい。下手をすれば懲戒免職だ。どれだけのお叱りを受けることになるやら」
表示されているデータは、三つほどある。ひとつは機械人形の事故が発生した個所を示すマッピングデータで、全国の中でも東京に事故が集中発生している事がわかる。赤い点が日本地図の上に、まるで飛び散ったインクの様に点々と穿たれているが、東京都だけが発作的な自己犠牲新を発揮したのかその染みを一身に引き受けていた。地図とさらに重なり合うようにタブ表示されているのが、各所轄に電話をかけて地道に調べた、東京都内で発生している事故のうち二十件の機械人形所有者へと足を運んでの聞き込みを行ったデータで、二十のうち全てに、様々な形で機械人形の異常行動が見られていたことが示されている。最後のひとつは、それら聞き込みした各世帯のうちいくつがカウンセリングを希望しているかを示した表で、これは全体の三分の二ほどとなっていた。そのすべてが例外なく子供のいる家庭で、この結果をもとに六道清二は別の報告書を作成している途中だった。進捗は芳しくないが。
「まさか、機械人形の異常行動から事故ということは、つまり、なんだ」
「落ち着いてください。ここからわかることは、件の事件を発端にして浮かび上がった機械人形の自殺と疑われる事故は、実は自殺でも事故でもないかもしれないという事です」
「どういう意味だ」
六道はデスクの上にあるボールペンを指の上で回そうとしたが、失敗して机上へと落とした。大人しくそれをペン立てにさし直す。
「自殺っていうのは、正常な判断の元に自ら死を選ぶこと。事故は、自らの意志とは関係なく外部からの要因によって死亡すること。これは違います。狂った精神を持つ機械人形が狂った行動に出ている、ということです。これで辻褄が合いましたよ。機械人形達の三命題は正常に機能していた。その土台となる精神構造が狂っちまっていたんだ」
できればそうであってはほしくないと思う方向へと事態が進んでいることに気が付き、六道は文字通り頭を抱えた。
情報犯罪課は、理系でも情報学、ネット経由のハッキングや個人情報の漏洩問題に対処する遊撃隊としての意味合いが強い部署である。突如として発生する情報犯罪は、発生してから後が勝負。そのため、知能犯や贈収賄、詐欺や違法薬物の不正取引を取りしまる捜査二課や、殺人、誘拐、凶悪犯罪を取り扱う捜査一課の様にチームを組んでひとつの事件を捜査する事は、基本的には無い。事件規模が大きければ課員が相互に協力して捜査を行う事もあるが、こうした情報犯罪の性質として単独犯が圧倒的多数を占めているのでそのような事態はほとんど起こり得ないし、もしあるとしてもそれは上層部からの命令以外の何物でもない。それぞれの捜査官が適当に割り振られた、または自分が遭遇したり想定していた事件など、突然目の前に降って湧いた仕事を順当にこなしていくのが六道たち情報犯罪課のスタイルで、それ故にちょっとした情報工学的な知識などでは他の人間よりはそうそう劣りはしまいという独立不羈の精神がある。
しかし、今回の案件に関しては六道の両手と、さらに両足まで総動員してなお取りこぼすほど手に余るものとなりつつあった。
たったひとつの交通事故から全国にまたがる、普及率五十パーセントを超える機械人形の根本的不具合ともなれば、世界的規模でのリコール騒動となり、機械人形を労働力として採用している企業や国政は生産者側へ多大な非難の矛先を向けることになる。これほど人間の生活に深く食い込み社会に貢献してきた彼、彼女らは、確かに意思を持つ人形なのであり、それらが列を成して工場へ殺到し、あとから手を加える事の出来ない精神構造を持つが故に廃棄されていく光景を僅かでも想像してしまった時、六道の背中を悪寒というには過小すぎるほどの戦慄が駆け巡った。
そして、その脆弱性を発見して世間に大きすぎる石を投げ込み津波を引き起こすのは、他でもないこの六道清二なのだ。彼は彼自身のお人好しさを嘲笑しつつ、半ば諦念からか、肺の中の空気が空っぽになるまで深い溜息を吐いた。
「まったくお笑いだ。まさかこんなことになるとは」
「落ち着け、六道。まだ厄介事と決まったわけではない」
田邊はそう言い、表計算ソフト上に並んだ機械人形所有者のリストに目を走らせる。怪訝な顔つきで見つめる六道に、いくつかの名前を反転表示して強調して見せた。
「見てみろ。彼らは春日井銀行の重役だ。こいつは多くの企業の投資を行っている新興企業だぞ。他にも何人かいる。こいつは臭いな」
六道は目を細めながら頷いた。突破口を見つけた窮鼠の如く、その瞳に光が灯る。
「所有者の職業ですか。そこは盲点だったな」
「二課やってるとな、けっこういるんだよ。裏の顔を持っている人間が。ま、これは貸しにもならん。どうだ、六道。自殺した機械人形の所有者を洗ってみるってのは。何か面白い事が見つかるかもしれんぞ」
「もうじゅうぶんに面白いですよ。頭が痛くなるくらいにね」
リストの人数と睨みあいながら、何でもない様に彼はつぶやいた。
*
午前八時四十分、出勤。勤怠管理システムに自分の行動を磁気カードで報せながら、清隆は事務所の扉を押さえる。隙間から華奢な体つきをした長髪の女性を招き入れると、遂に忍び寄ってきた冬の気配を感じる空気を遮断するために扉を閉じた。同時に、事務所内に入ってきた彼女の首に巻き付けられたチョーカーを認知して、その素体情報を事務所のコンピューターが取り込む。民間警備会社の認識システムが秋津清隆と涼子の出勤を感知した。もちろん、厳密に言えば涼子は事務所員ではないが、面倒なのでそういうくくりにしている。
「おはよう、秋津君。それと、涼子ちゃん。外は寒かった?」
「おはようございます、冴子様。はい、そろそろ冬ですね。残暑はもう影を潜めました。これからぐんぐん寒くなるでしょう」
丁寧なお辞儀を返す涼子の脇で同じように頭を下げながら、清隆は自分のデスクに黒いショルダーバッグを降ろした。中にはそれほど大したものは入っておらず、少々乱暴に扱う彼の態度に前島冴子は驚きの視線を向ける。
涼子が事務所に出向くのは月に一度くらい。理由は最初の一回目に説明されたのだが、彼の職場をどうしても見ておきたいのだという。市販の機械人形はそこまで気を使うのかと半ば呆れもしたものの、涼子はそれを不安と感じさせないほど器量よしだったから、清隆も困る事はあるまいと承諾したのだった。
彼女と顔を合わせてからかなりの年月が流れたものの、未だに機械人形のことはよくわからないな、とコンソールのサーバーに灯を入れながら席に座る。古びたデスクチェアが軋んで抗議の声を上げるが、清隆はこれでもかと背もたれを傾けて黙らせた。涼子は一度だけ顔を向けたが、そのまま前島冴子に連れ去られ、和気藹々と応接用のソファに座ってしまう。他に女性のいないこの事務所内で、涼子は彼女からしてみたら格好の暇つぶし相手だ。心の中で手を合わせながら、さりげなく今日の前島冴子が身に着けている服装を確認する。
黒いタイトスカートに白いワイシャツ、その上にベージュのカーディガンを羽織った前島冴子は、地味な服装でもいつもの様に見事な着こなしを披露している。鋭利な美貌が程よく中和されているのだろう。一度、彼女がすっぴんで顔を出した時はその眼の鋭さに圧倒されたものだ。対して向かい合って座る涼子は紺色のロングスカートとジャケット、中には淡い水色をしたシャツを着込んでおり、その儚い面差しに絶妙な調和をもたらしていた。楚々とした仕草は流れの遅い清流を思わせる。
清隆ははたと首を傾げた。彼女自身の服装は彼女に任せっきりだが、いったいあんな服をいつの間に買っているのだろう。自分が事務所に出ている間だろうか。似合っているから構わないのだが、どこかの誰かに勧められたように彼女の体に吸い付いている服を見ると、想い人でもできたのかとありもしない疑念が鎌首をもたげる。
精神統一の意味も込めて、聞こえてくる二人の会話に耳を澄ました。
「最近、清隆の調子はどうですか。家に帰られてもお疲れのようで、何か大きな仕事でも入ったのかと思っていたのですが」
「あらぁ、涼子ちゃん鋭いわねー。あなたの清隆はいま出かけているしがないオジサンと二人で、ちょっとだけややこしい案件を抱えているのよー。それに気が付くなんて、流石、一緒に暮らしてるだけあるわね」
「私には清隆の体調を管理する義務があります。私の目が黒いうちは、彼に風邪ひとつひかせるわけにはいきませんから」
「仲睦まじいわね。私も涼子ちゃんみたいに慮ってくれる誰かが欲しいわ。この歳になると一人で家にいるのも人恋しくって仕方ないのよ。涼子ちゃん、うちに来ない? 週に二日でいいから」
「変なことを吹き込まないで下さいよ、冴子さん。涼子は純真なんですから」
横から清隆が口を挟むと、前島冴子は両頬を栗鼠の様に膨らませた。言外にある意味を察したのだろう。そういう意味では、彼女はとても頭が切れる。涼子は中々断れないのだ。言うまでもなく機械人形の三命題があるからだが、この場合は所有者である清隆の命令が優先される。万が一にも涼子が前島家へと居候することは無いということだ。もっとも、前島冴子の大げさな落胆を見ては週に一度くらいは遊びに行かせてもいいかとは思ってしまう。独り暮らしの寂しさというものは、家に涼子がいる自分には縁遠いものではあったが。
「いいじゃない、いつもつまらない二人を相手にしてるんだから。涼子ちゃんが来るの楽しみに待ってるのよ、私」
「ありがとうございます、冴子様」
椅子からずり落ちそうになる。おいおい涼子、何故そこでお前が礼を言うのか。心の中で突っ込みを入れながら、コンソールのワードプロセッサを開いて一体の機械人形についての情報を整理し始めた。
リリィ。堤家ではそう呼ばれている彼女は三年前に販売が開始された、昨今の技術革新の流れから見て古いとも新しいともいえない標準現行モデルだ。機械人形業界で世界的にも大きなシェアを持っているメーカーのひとつ、日本ハルシオン社製の女性型。特徴として、メーカーお抱えの機械心理学者が分析した精神構造表を参照すると、極めて内向的で温厚な性格の持ち主であることがひと目でわかる。事前にテストされたあらゆる心理傾向分析の数値は数百から数千項目にものぼり、それらを機械心理学者が承認した性格評価が添付されている。これらは堤家から拝借してきた個体情報だ。この性格分析は人間に対するものと互換性が多く、この部分のみは資格さえ取得すれば心理学者などでも分析が可能だ。秋津清隆にはそのような能力は無いので、総論として書かれている分析結果のみを参照した。外観は画像を見ると、亜麻色のショートボブにあつらえた人工毛髪にブラウンの瞳、肌の色は健康的で最も普及的な薄い小麦色。涼子がおしなべて清楚を基調とした人形ならば、リリィは妖精を思わせるたおやかさをバックボーンにしていることがわかる。清隆の同年代にもこんな外見をした女性が多くいたものだ。
改めて、珍しくアナログ写真として手渡された紙切れに目を落とす。四角く切り取られた風景の中から中学生くらいの少女、堤祐介と香苗、その脇に両手を組んでたおやかに佇んで微笑みを浮かべているリリィがこちらを見つめている。その視線は微かに微笑み、口元を僅かに歪ませた表情からは暖かな心境がとめどなく溢れている。
ありふれた幸福の形が、この四角形の中にあった。機械人形と人間で構成される家庭。現代における標準的な幸せの定義。
こんなに幸せそうなのに、なぜリリィは口紅などしたのだろう。清隆は軽く額を擦りながら、深まっていく疑問へと思考をめぐらせた。購入されてからも年数は経っているし、今さら初期不良ということも考えづらい。こうした機械人形の問題を取り除くためにできることはピンからキリまで多岐に渡る。強引な方法としては人形が保持している記憶情報をいじる手法だ。ただ、原理的に機械人形の問題となるスタックを除くことはできるが、それは最終手段にしておきたい。リリィの精神が崩壊しかねないだろう。自分の頭の中を弄られるというのは、人間でも想像を絶する気味の悪さを持っている禁忌だ。記憶が自分の心象と違うものになれば、誰だって深刻な精神外傷を負いかねない。
自然と、目は涼子に移る。どうも、自分はリリィと彼女を重ねて考えている部分がある。相変わらず前島冴子と談笑している涼子は幸せそうで、ともすればこの写真の中の彼女と同じ。過去にリリィが過ごした幸福の時間を、正に今、涼子は過ごしているのだ。
ああ、なるほど。清隆は声に出して、思わず手を叩いた。彼はこの依頼をただ解決したいのではない。リリィに対する堤家の不信感を拭い去り、今まで通り、この幸福な時間を過ごせるようになればいいと心のどこかで願っていたのだ。気付かなかった仕事の動機に気恥ずかしさを覚え、たまらず窓の向こう側に見える曇り空を見上げる。灰色の四角く切り取られた空は何やら不敵な笑みを浮かべて見つめ返してきた。この空を背景にいつも鎮座しているある男の事に思い当たり、清隆は照れ隠しに思考を転じる。
杤原惣介も同じ思いだろうか。なんともえいない。彼の心は複雑に入り組んでいる。その全容を理解することは、恐らく誰にも不可能だろう。
再び、清隆はデスクの正面にいる涼子を見やる。応接用のソファにたおやかな姿勢で腰掛けている彼女は、飽きもせずに前島冴子と歓談を続けている。口元を抑えて明るく笑う彼女を見るのは、そういえば久しぶりだと気が付く。何か罪悪感とも恋慕とも思えぬ、鉛の重みと冷たさを持つ、しかし温かい何かが胃の中でしこりとなって感じられた。
機械人形であろうと生身の人間であろうと、あんなに美しい女性が笑わない、笑えない事ほど悲しいことは無いと思う。いや、人形であればなおさらなのかもしれない。彼女らは人間の手となり足となり、その存在をかけて尽くす。そのために作られたのだから当然の論理的帰結であって、極論をいえば人間ではないのだから、生物に対する情を彼女らに同じように抱くのは極めて危険な行為であり、いうなれば異常である。人は人を愛するのが自然で、機械人形が人を愛するのもまた然り。お互いに抱いた不可逆性をまやかしめいた愛情で取り繕うことは、偽善である。機械心理学者は明確にそう論じている。他に有無も言わせぬ物言いで。
だが、生憎とここで黙るようにはできていない。それが人情というものだろう。
思えば、彼ら機械心理学者は多くの矛盾を内包した存在だ。機械心理などと、人間と機械の境界が曖昧な学問を専攻している反面、人間と機械人形の区別は偏執的なまでに徹底している。方向性を見失わずに、それでも大きな成果を出し続けている彼らを尊敬すればいいのか訝しんで見ればいいのか判断に困る。
駅前から演説の声が聞こえてきた。お決まりの「人ならざる何かを生み出した人間の業の深さ、これを払うには機械に権利を託すしかない」と主張する内容だ。そこで機械人形をめぐる人間社会の在り方について、さらに深い思考の迷路へと自意識が入り込んでいく。
清隆は、自らが機械人形の人権取得などを叫ぶ民間団体と同じ部類の意見を持っていると自覚している。彼女らをただの機械として扱うべきではない。だが彼としては、はたして機械でなければ人間として扱えばいいのだろうか、仮に人間と同等の権利を彼女らに持たせたところで、機械人形を取り巻く問題は消えはしないのではないかとも思ってしまうのだった。自分はできる限り、何も考えずに涼子に接してきた。一人の友人として、共に暮らす同居人として、相応の気遣いと愛情を持って接してきた。それはおそらく堤家も同様だったろう。どこの家でもそうに違いない。人間ではないとわかり切っている犬の葬式を出す家まであるのだ。それは何故か。家族だからという一言で美談となる。
何にしてもそうなのだ。形だけであれ、共に生活を営む何かに命の定義など通用しない。それらの理論を超越した先に、家族としての絆を持つ。だからこそ、堤家の案件は他人事ではないし、彼らを人形に対する疑心暗鬼から救い出す事で、自らの涼子へ対する接し方のひとつの指標にすることができればそれ以上のことは無い。だが、一方で美談は美談のまま終わらせることが最善だとは、清隆には感じられなかった。
思えば、自分は機械人形に対して意識する認識を持ちえずに暮らしていた。これからはそうも言っていられない時代になるだろう。いや、既になっているのかもしれない。機械人形の普及に際して雇用問題が噴出したことが如実に表わしている。これについて、自分はどう考えているのか。
「清隆、何か御用ですか」
気が付くと涼子がソファの上で首をひねり、何事かと彼を見つめていた。前島冴子までもが後ろを振り向いてこちらを覗き込んでいる。
彼女を眺めているうちに物思いにふけり、心ここにあらずといった状態だったらしい。照れ隠しに咳ばらいをして、目を逸らした。
「いや、すまない。茫然自失としてたみたいだ」
「何かあったのですか? 私が原因でしょうか。清隆が仕事だというのに邪魔ばかりしてしまって――」
「違う、君のせいじゃないよ。ちょっと考え事をしていただけだ。本当だ、別に具合も悪くない」
「なら、いいのですが」
微かに表情を曇らせた後、元の微笑みに戻って、涼子は前島冴子に向き直る。彼女もまた、清隆を見つめていた目を逸らし、背中越しにでもわかるほどの笑顔のまま鼻で笑った。
「なんですか、冴子さん?」
「いやね。素直になったほうが世の中得が多いな、と思っただけよ……と、電話、出てもらえないかしら?」
わかってますよと返しながら、清隆は鳴り始めたデスクの上の電話機から受話器を取り上げて耳に押し当てた。
「はい、杤原探偵事務所です。どのようなご用件で―――」
「あ、秋津君か」
電話の主は、意外なことに杤原惣介だった。どこか踏切の近くにいるのか、電車の走行音と警報音がけたたましい。少し面喰いながら、清隆は椅子を回してデスクに肘をついた。受話器を心なしか耳から遠ざける。
「所長? どうしたんです、今はリリィの尾行中でしょう。調査中に電話をかけてくるなんて、珍しいこともあるもんですね」
「そのことだよ。悪いが呑気に話してる時間も惜しい。どうにも面倒な事になってな、とりあえず君にここまで来てほしいんだが」
清隆は高まる不安を感じた。杤原惣介がどうにもできない事態は、秋津清隆にとって想像することもできないほどややこしい事態に相違なかった。探偵としても職業人としても、彼の能力は清隆を凌駕している。小学生でもわかる三段論法だ。彼にできないから、ぼくもできない。
「わかりました。それで、どこに行けばいいんですか」
心なしか、杤原が安堵のため息をついたように聞こえた。
「代々木駅のすぐ隣りにある踏切だ。ほら、ハンバーガーショップのある。そこに来てほしい」
「わかりました。ですがその前に、何があったかだけでも教えていただけませんか? いくぶん消化不良なもので」
一瞬、杤原がためらった。受話器を握りしめたまま待つ清隆にとって永遠にも思える時間が過ぎたあと、彼は告げた。
「リリィが線路内に飛び込んだ。自殺だよ。とにかくすぐに来てくれ。君の助けを借りたい」