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「探偵、ただし誇りなし」

  *



 今日の献立は何にしようか。包丁とまな板を並べた所で悩みながら、涼子は冷蔵庫を開いて独り唸っていた。

 既に暦の上では秋になりつつある時分だから、記憶領域にしまってある情報にしたがってそろそろ旬であると判断される秋刀魚を仕入れたはいいものの、生憎なことに皿に添える生姜を切らしていた。ポン酢に大根おろしで十分かと思われるが、秋津清隆は前者を好む。後者も嫌いではない様だが、彼がより喜ぶ選択肢があるのにそれを選ばないことなど、機械人形である涼子にはできようはずが無かった。「生姜で食べたかった」と残念がられるより、他の料理で美味しいと言ってもらえる方が彼女にとっても嬉しい。

 人間の笑顔以上に素晴らしい報酬はないとさえ思う。それは彼女だけでなく、機械人形達が人を想う様に創られた存在であるからだ。しかしそれは彼女の幸福感に赤子がガラスを爪でひっかく以上の傷を残さなかった。いま幸せを感じているのは自分だ。他の誰かが同じ幸せを感じているなら、それはそれで、彼女には感知する必要のない事だ。

「いいや。秋刀魚は明日に回して、今日はオムレツにしましょう。卵はあるし、お野菜も大根以外なら揃っているわ」

 最近では珍しい、長く艶のある人工毛髪をひとゆすりして涼子は包丁を握る。ガラスの瞳で映す視界の情報だけを頼りに腕の人工筋肉を収縮させて、片手で冷蔵庫から取りだしておいた玉葱のへたを切り落とす。真っ二つに割った片方をラップで綺麗にくるめて野菜室へ放り込み、残った半分は細かくみじん切りにする。それらの情報は、彼女の中に備え付けられた人工意識の根源、論理集積回路へと送られ、涼子という作られた人格が認識し、料理をする。その様は人間のそれと変わらず、首に巻き付いた赤いチョーカーと、ただ機械的で正確な手つきを除けば人間としか見えなかった。

 二十一世紀の科学は、意識や魂といった哲学的問題を置き去りにしたまま目覚ましい発展を遂げた。生み出した張本人である人類の理解が及ばない範囲に、気付けば彼ら自身が片足を踏み込んでいるようだった。「意識とはこれこれ、こうなっているものであり、かくかくしかじかなものである」という定義づけもなされぬまま、気付けば人類の手元には幼児ほどではあるが、個性を持った意識を演算素子の中に宿らせる事を可能としていた。これは観測こそされなかったものの、確かに人格を有し、極めて不安定なものだった。機械人形の三命題により、三つの命題から愛情、忠義、自我の三つの感情を確立した手法は、もちろんノーベル賞ももらった素晴らしい理論であり、その結果、涼子をはじめとする機械人形は極めて穏やかで博愛主義者、言い換えれば変質的なまでに人間を愛する自己犠牲精神の塊と化した。

 機械人形は己の安全をも投げ出して人間を守ろうとする。結果として自らが滅んだとしても、人間を救えてよかったと幸せに瞳を閉じる。その在り方には創造主である人間から未だに議論を投げかけられる部分ではあるが、もう作ってしまったものの粗探しをする無粋なことはどこにでもあるものだ。彼女らが人間に近い存在であることは疑いようもないが、同時に機械である以上でも以下でもないその由縁について奇妙な議論を交わす人間たちを、涼子はいつも不思議な人々だと思いながらテレビの画面越しに遠巻きに眺めているだけだった。

 そうした命と機械の境界線をめぐる議論の中、とある人間たちは「プログラムだから当然だ」という。しかし機械心理学者たちは言った。彼女らは命令によって動いているのではない。その愛によって動作しているのだと。無論、こういった機械人形にまつわるお伽話の数々は涼子の耳にも届いている。人間はそういった、同類相手ならば気をつかって言えないようなことも平気で電波に乗せる。コメンテイターや機械心理学者が出演するテレビ番組では、未だに機械人形に対するドキュメンタリーチックなお涙ちょうだいのいい話が高視聴率を得ている。どこそこの機械人形が重病の主人の為に忠義を尽くして、最後には自分の部品を売って治療費にあてて壊れてしまう話なんかは、慈愛の薄い社会の中では特に好まれている。最近はそんな話ばかりで、やはり一方からは少しは彼ら、あるいは彼女らに配慮すべきだ、などという声も挙がっていた。特にネットの普及でいつでもどこでも海外の情報を、多くの言語や表現で取得できるようになった現代社会において、ある何かの影響が不特定多数の人々へ伝播し、十人十色の感想をもたらすことは想像するまでもないことであるのに、未だに飽きない論争を繰り広げている人々がいた。彼らもまた機械心理学者であり、どこかの一般市民であるかもしれなかった。

 だが、涼子はそれでいいと思っている。人間は機械人形に配慮すべきではない。意識があるとはいえ、機械は機械なのだし、それ以上でもそれ以下でもない。生物として成立する条件を定めるなら間違いなく機械人形はオートマタとして認識され除外されるはずであるし、そこに博愛の精神を以て生物という定義を広げたのならば、それこそ定義自体が意味をなさない物となってしまうであろうから。それに、機械人形は人間が思っているように、何がしかの強迫観念の元に人間に尽くすのではない。自らの意志で人間にかしずくのだ。正に、そうする事こそが生きる意味であるのだから。そこに余分な感情は一切ないし、機械人形であるならばどの個体であっても、自分の立場と意味を見失ってはいない。意味はもちろん、人間の為に何かをするということだ。それは愛情であり、忠義であり、打算や計算ではない。もちろんプログラムの演算処理結果ではない。変数では表せない何かが、確かに機械人形には宿っている。その不確定性こそが、機械心理学者たちが意識であると定義する理由だった。ではその意識や命とはなんなのか、という疑問は涼子が考えるには大それたことであるし、それは彼女の仕事でもないので、人間の哲学者に任せる事にしている。ただ、ひとつだけいうならば、今の時代では哲学者より機械心理学者たちの方がより答えに近い位置にいるのかもしれない。

 人間は大変だ、と涼子はつねづね思う。機械人形は始めから意味を与えられた状態で生まれる。家電製品のようにショーウィンドウで物色し、購入するわけではない。完全受注生産なのだ。その理由については考えるまでもないだろう。売れ残った商品に心を植え付けるなど、正気の沙汰ではない。在庫として過ごす生涯を想像してしまい、涼子は思わず身震いした。

 かえって人間は意味など与えられない。機械人形は人間に尽くす事が生きる意味。人間は何のために生きるのか。それはきっと人それぞれで、目の前に転がっていることもあれば一生歩いても届かない場所にあったりする。その点では恵まれているのだと、涼子は自分に言い聞かせる。だから、大抵の人間と違って彼女を人間のように気遣う清隆に対し、理不尽な苛立ちすらも覚えていた。尽くす事には慣れているが、尽くされることには慣れていない。そういうふうに機械人形はできていないのだ。

 玉ねぎをボウルにうつして、その上から卵を割り入れる。今日はひとり分だ。清隆が家にいる時は二人分作る。というのも、機械人形には疑似飲食機能が付いていて、有機物を特定の人工消化液に放り込むことで電力を得る仕組みになっているのだが、人間と違って空腹感などは感じないために、大半の機械人形は頼まれない限り食事をしようとはしない。電力の供給はコンセントからするし、そのほうがラクチンで、安上がりだ。だというのに、清隆は一緒に食事をしたがる。その点は、自分を頭の悪い人形だと思っている涼子には理解が及ばない範囲のことだったから、とにかく彼がいる時は一緒に食事をとる。そのように動機が仕組まれている。ひとりで台所に立つときは彼の分しか作らない。ただ、そうすると清隆は少し悲しい顔をする。それが、涼子には理解できないにも関わらず、少しだけ苦しさを覚えることが不思議でならなかった。

 そういう意味で、機械人形の三命題は、原則ではなく命題として定義されている。「人間を守らなければならない」のではなく、「人間を守るためにはどうするべきか」を常に問いかける。動機として組み込まれたそれは、命題であって命令ではない。答えを求めて試行錯誤し、自分でその領域に辿り着こうと足掻く哲学者のそれだ。その解釈も個性を持つ機械人形たちの間で枝分かれしているし、結果も異なる。涼子は、なるべく清隆に迷惑をかけないようにする事にしている。たとえ彼が嫌がっても、彼女が彼のためになるという事を実行する。それが彼女にとっての第一条であり、彼を愛する彼女の行動原理だった。

 調味料を放り込んだところで菜箸を手に取り、鮮やかな手さばきで溶いていく。リズミカルな音を止め、屈んでシンクの下にあるフライパンを手に取ろうとしたとき、涼子は顔を上げた。彼女の聴覚センサーが、玄関のドアノブが回される音を感知したためだ。やがて数秒とたたないうちに、暖かいただいまという声が廊下から響く。涼子はエプロンで手を拭きながらぱたぱたと小走りに廊下のドアを開け、青年の帰宅を笑顔で迎えた。

「おかえりなさい、清隆」

「ただいま、涼子」

 秋津清隆は、極めて平均的な青年だった。中肉中背の体つきにやや短く切りそろえられた髪の毛は涼子のそれより黒く、その瞳もまた同じ色で世界を映し込んでいた。小顔で、悪意というものを感じさせない温厚な顔つきは、彼女を見た途端に自然と笑みを形作る。その瞬間が何よりも好きで、涼子も気付かぬうちに微笑んでいた。

 スーツの上着を脱いで手渡してくる清隆の腕と微かに指を擦れ合わせながら、彼女は手で奥の居間を示す。

「夕飯の支度をしているので、座ってお待ちになって。それとも、先にお酒にしますか?」

「いや、いいよ。子供じゃないんだ、それくらいは待てるさ。それよりも今日の献立は?」

「オムレツです」

 茶化す様に口笛を吹く清隆。涼子は軽く彼を小突き、彼を先頭にして短い廊下を進む。居間に入ると、清隆は着替えのため隣の寝室へと消えた。涼子は上着を丁寧に畳んでハンガーにかけると、オムレツの制作を再開する。

「あれ、ズボンはどこにあったっけ」

 扉の向こうから声が響く。涼子は肩ごしに、クローゼットの下だと伝える。その後でゆったりしたスウェットと半袖シャツに着替えた清隆が姿を現す。まだ本格的な秋からは遠い。夜になっても残暑が人を蒸す中、居間に入ってきた彼はいったん冷蔵庫から麦茶のポットを取り出すと、グラスを片手にテーブルへと歩いていった。彼が気付かないまま開きっぱなしになっていた扉を彼女が静かに閉める。

 台所に置いてある小さなアナログ時計に目をやると、時刻は午後七時半ちょうど。彼女の内部ライブラリに転送された清隆の携帯端末より送信されたメッセージの受信履歴の時刻は一時間前。定時から少し残業をしたのだろうか。それにしても疲れている。何か大きな仕事でも入ったのだろうか。気にしながらも切り出す事が出来ずに、涼子は温めたフライパンにバターをひき、プラスティックのボウルから溶いた卵を放り込んだ。箸で器に残った卵黄を菜箸でひっかくように集め、既に火の通り始めた卵をかきまわす。白と黄色の渦を見つめながら、肩ごしに物言わぬままぼうっとテレビを眺めている彼を見やる。

 秋津清隆が悩み、元気ない時、涼子もまた不安で仕方がなくなる。そのまま体調を崩したりしないだろうか。どこか心を病んでしまわないだろうか。いてもたってもおられず、小鉢を取り出して冷蔵庫の中にしまっておいたホウレン草を取り出すと、鍋に水を入れ火にかける。オムレツの乗っている電熱コンロの出力を最低にして、ふつふつと泡の立ち始めた湯を横目で見ながらホウレン草の根を取り、適当な量を切り分ける。小さな器も手に取って、生卵をもう一つ取り出したところで湯が沸いた。根から濃い緑色の食草を鍋に入れ、その間に出来上がったオムレツを皿に移す。ここから先は目をつむっていてもできる。鮮やかな緑色に茹で上がったホウレン草を菜箸で引き揚げ、そのまま器に盛り付けると、生卵を上に落としてラップをかけ、レンジにかける。程なくしてレンジが作業の終了を報せた。これでココットの出来上がりだ。他、買っておいた漬物なども添えてキッチンからテーブルへと、大きなトレーに乗せて運んでいく。

「どうしたんだ、涼子。僕をベジタリアンだと勘違いでもしたのか」

 清隆が目を白黒させながら言う。彼の目の前に湯気を立てて並んでいる品々の中で、菜食主義から外れたものはオムレツだけだ。目を丸くしている彼に微笑みながら、涼子は手拭き用の布巾を仕上げに置いた。

「疲れている時は野菜がいちばんです。今日は大変忙しかったようなので」

 目を瞬き、清隆はしてやられたと言いたげな笑みを浮かべる。

「いただきます。ちなみに涼子、疲れてるのは徹夜したからさ。もう忘れるなんて、君も案外おっちょこちょいなところもあるんだな」

 照れ隠しにめしあがれと返事を返して、涼子は向かい側の席に座った。彼女のぶんの食事は無かった。



  *



 夏の終わりに蝉が死に、そして、人形も死んだ。

 杤原惣介が情緒的で儚い言葉を紡ぎだすのを、清隆は憂鬱な思いで聞いている。

 日本で最初に高層化が施された新宿駅周辺は、それまでに存在していたあらゆる都市整理計画を放棄させ、過密化の進む人口密集地の代名詞となっている道路交通網における慢性的混雑の緩和と、上向き始めた経済状況から予想される移動企業を誘致するためにこの計画を促進した。歌舞伎町の入り口から新宿駅東口にまたがる部分は大胆にも取り壊しと建築が同時に進められ、何の変哲もないビルが立ち往生していた場所に、細長い、あるいは土地をまたがって大小さまざまな新しいビルが建つ。元よりそこで営業をしていた企業はそのままその場所で営業を続け、他の企業が増えた分のスペースに陣取る。時折、彼らの腹を満たす為に飲食店用のテナントなども増設されたりして、さながら多重高層とも言うべき空間へと変貌していくその流れは、日本という国がひとつの転換点を迎えて大きく移り変わった時代の潮流を如実に表すひとつの指標であるといえた。

 新宿は大きく変容していた。東京駅周辺と比べても決して見劣りはしないどころか、より高く、幅をもって肥え太っていく経済の中心がここにある。それをひと目見ようと外国からの観光客は相変わらず多いし、周辺の住宅街からも交通の要として、または生活の基盤として利用する膨大な住人もいるため、高層化は更なる人口過密地帯として完成しつつあり、行政は人の流入による新たな道路交通網の設置に追われ、ここ数年ではたった一件の交通事故が都市の交通網を麻痺させるほどの影響を与えうるものともなってしまった。同時にビルとビルの狭間で繰り広げられる麻薬組織や犯罪者との小競り合いも拡大傾向にあり、警視庁は総力を以てこの対応に当たっているが、それもどこまで効果的なのか疑問の声が周辺住民から上がっていた。

 杤原探偵事務所はそんな市街地の真ん中、駅前の巨大ロータリーより程近い位置にある雑居ビルの四階にひっそりと居を構えている。まだ新しく、区画整理の煽りを受けないでいられるくらいには背丈も大きい建物で、屋上を含めれば八階まである。行政からはしばしの間のお目こぼしを頂いている、というのは表向きの理由だ。小さい物を壊して大きなものをぽんぽんと作っていく流れに逆らっているのは、何故かこの捻くれ曲がった事務所長を気に入っているビルのオーナーが行政に対してよくわからないルートで圧力をかけているからだ、と前島冴子が話したことがある。その都市伝説めいた話を聞かされるたびに、我が事務所長はいったい何者なのかと、秋津清隆は怪訝な目で背広姿の男を見やるのだった。

 人には、インターネット・ネットワーク以外のつながりもあるものだ。東京都庁を前にした人気のない通りを二人で歩く。意外なものを見つけた子供のような心境で、空高く突き上げられたふたつの塔が曇り空に挑戦するバベルの塔のようだと心の中でひとりごちた。反対側に目を向ければ、プラザホテルの都庁とは打って変わって壁のような威容が見られる。その間には四車線のアスファルトが敷かれ、タクシーや送迎用の大型バス、私用の電気自動車が静かに行き交っていた。まわりにあるオフィスからも人の出入りは絶えることがなく、そのまま駅前の飲食店へと向かったり、はたまた近くのコンビニエンスストアや地下道への階段へと吸い込まれていった。

「いきなり詩人めいた事を言わないでくださいよ。どうしたんですか、藪から棒に」

「なに、そろそろ秋だろう。毎年この季節になると寂寥感が押し寄せてくるんだ。君も年を取ればわかるぞ。蝉が死ぬのは想像以上に儚くて辛い」

「へえ。所長、自分がお年を召されてるって自覚しているんですね。そんなこと言ったら怒るかと思ってました」

 杤原は露骨に顔をしかめながら、涼しい顔で隣を歩く清隆を睨んだ。年齢についてとやかく言われることには慣れていないのだろう。

「君は時々、無神経というかなんというか。その顔からは想像もできないほど図太くなるな」

「電柱くらいは太いと自覚はしてますよ。で、どうなんです。気にしてるんですか?」

「気にしてない訳がないだろう。ただ、他の同年代よりも年を取るということに寛容なだけだ。一年、また一年と誕生日が来るにつれ、自分が寿命へと一歩進むことに人間は死を恐れない様に準備をする。そのための期間が人生だよ。仕事や趣味なんてのはその間の暇つぶしだ」

「生きることが死ぬことへの準備期間ってことですか? 哲学は死の練習である、と?」

「微妙に違う。誰だって死ぬ時に悔いの残らない人生を送りたいと思うだろう。その結果が目的と入れ替わっているだけだ」

「わかりませんね。僕は、まだ死ぬってことも体験してないからわかりません。わかるとしたら、所長のその持論が少し捻くれてるってことくらいです」

 しかし、どこかでそれは本当だとも感じている。ポケットに両手を突っ込んでぶらりと歩く彼が頷くのを気配で感じながら、清隆は肩から下げている鞄を担ぎなおした。

「だから、死ぬのは怖いです。ほとんどの人がそうじゃないですか?」

 コーヒーチェーン店の前を通り過ぎる。ガラス張りのひとり用カウンター席が歩道の方を向いて据え付けられていた。座っているのは疲れた顔のサラリーマンが大半で、喫煙スペースはもうもうと紫煙で満ちている。あんなにつまらなさそうに携帯端末をいじくっているくせに、なかなか手放そうとはいないのだから不思議なものだ。彼らは、杤原惣介の言う緩慢な死に自分が突き進んでいる事に気が付かないのだろうか。それとも、気付いているからこうしてコーヒーを飲みながらぼんやりと過ごしているのだろうか。しょうがないから行ってやるか、そんな程度の心構えなのかもしれない。

 自分はどうなのだろう。まだ何十年も先に待っている寿命というものについて、何かしらの意識を抱いたことがあるのか。仮に彼らに問うたとしても、その答えは決まっている。「忙しくてそれどころじゃない」とか、「何十年先のことよりも今のこと」などと言われるのがせいぜいだ。何十年も前の先人たちがそうして残してきた多くの遺産を、彼らは同じ言葉で、次世代にそっくりそのまま託そうとしている。終わる事のない伝言ゲームの様だ。伝える伝言は呪いの類なのだろうが、原理自体はそれほど変わらない。そう思うと、この巨大な社会機構が児戯に思えてくる。

「誰でも死ぬのは怖い。それは真実だろうな」

 甲州街道を勢いよく通り過ぎていく電気自動車の群れを遠目に見ながら、杤原はいった。ポケットに手を突っ込んだまま、肩を動かして羽織った背広の着心地を調整している。まるで喧嘩の前の準備運動と思えなくもない。やる気があるのは結構だが、できれば寝癖が付いたままの髪の毛をどうにかしてもらいたいのだが。

「自然界には自らを犠牲にして群体コロニーの存続を優先する生物が星の数ほどいるが、生憎と人間はそうではない。また、死には社会的な死と生物学的な死があるが、より直接的な脅威として認識されているのは生物学的な死だ。お前をいじめるぞ、と脅すよりも、眉間に銃を突きつけたほうが早い時もある。また、この順序は社会依存度に応じて変動するが、古来より多く感じられてきたのは、死ぬというまさにその一事だ。たとえば」

 杤原は横断歩道を渡りながら、顎をしゃくって信号機の正面に整然と並んでいる電気自動車の長い車列を示した。

「びゅんびゅん車が通っているこの道を前にして、俺が君をいじめるぞ、本気でいじめるぞと脅したとする。それを免れるためには、君は道路へ一歩踏み出してボウリングのピンよろしく、車に撥ねられなければならない。どっちを選ぶ?」

「そりゃ、いじめられるほうを選びますよ。まだ救いはありますし、死にたくもないですから。もちろんストライクも」

「そういうことだ。だが年を取ると、少しでも人生というものに自分なりの考えを持っている人間ならば、今まで頑張って生きてきた、もういつ死んでもいい。そういう思考になることがある。これはある意味で、思い通りにならなかった人生に対する抵抗の末の諦念なんだが、一方では達観とも言われる。早い話しが、飽きてくるんだな。臨終の床に着いても、死にたくないと喚き散らす人間は、飽きるほど人生というものに向き合わなかったということだ。ほら、よくあるだろう。終わりよければすべてよし。最期に自分の死と向き合った時、それを受け入れられるか。そこに人生の結果が詰まっているんだ。そこで後悔したところでもう遅い。そこに可逆性は無いよ」

「なるほど、それはよくわかります。思えば単純なことですね。自分が後悔しないためには、常日頃から後悔しない結果を見据えて動かなければならない。その積み重ねが自分の寿命に届いた時、人は清々しい気分で死ねる。たしかに間違ってはいないかも」

「そういうことだ。君もわかってきたじゃないか」

「で、所長は今の所、人生については真摯に向き合っていると」

「その通り。だが、世の中には死にたくもないのに死ななければならない人間がいる。ベタなたとえになるが、よく映画とかで見る紛争地帯の少年兵などだな。それは環境のせいであって、彼らの責任ではない。理不尽な状況に陥れば誰だって被害者となるだろう。だから、彼らは死にたくないと叫ぶ。ここで重要なのはだな、その声を拾わないでこうしてのうのうと暮らすことも人間にはできるんだ」

「ひどい、許せない、そう思いますか。こんな世の中です、安全な場所に至って自分のことについて考えていかなきゃならない。戦争には戦争の、平和には平和の生き方がある。それに所長は怒りますか?」

「どうだろうな」

 しれっと男は答える。昨日の夜に髭を剃ったばかりの顎を撫でまわしながら、目の前を通り過ぎた一台の大型トラックを目で追った。その車輪に巻き込まれればどうなるかは容易く想像できるだけに、彼の横顔は少しだけ怖く見えた。

「好き好んでそんな生まれ方をしたいと思う人間もいない。不幸な誰かがそうなったように、俺達がこうして日本に生まれ、幸福に育ったのも俺達が選んだわけじゃない。その点で引け目に感じる事はないよ」

「宝くじみたいなものですか……で、そもそもなんでこんな話を? 今回の依頼とは関係ないと思うんですけど。まあ、所長の無駄話はいつものことですが」

「無駄じゃないと言いたい所だが、無駄以外の何物でもないな。何せバスで行くにも不便な所で、暇つぶしとばかりに口数が多くなったのかもしれん。年よりの戯言さ。耳汚し以上の意味は無いよ」

 それから、二人は言葉を交わすことなく、微かに夏の香りが残るアスファルトの道を歩いていく。道路の植え込みに生えている草花はまだ青々とした葉を茂らせたまま自動車のまき起こす風に揺れている。

 高層化が進む新宿だが、それは甲州街道と青梅街道に挟まれた駅を中心とする昔ながらの高層ビル群とその周辺に限られる。東京都も、無制限にこの混沌とした塔の群れをむやみやたらと作る意志は流石に無かったらしい。街道を渡ればそこから先はこの地域に住み着く人々と雑居ビルが奇妙に重なり合う区域だ。既に都市開発と平行して地下へと埋設する方式をとっているために景観から消え去った電柱と電線以外は特に昔と変わらない四角く切り取られた空を見上げながら街道沿いに下っていくと、やがて突き当った高架下にある交差点を左折し、初台方面へと向かう。

 初台は、ここ数年で富裕層セレブリティが住まう高級住宅街の色をより一層強めている。昔から東京の一等地で駅を間近に見る、大都会特有の喧騒が満ちる大通りから一歩外れたこの地区は、すぐ隣の渋谷区と境界を接する便利な位置にあり、必然的に不動産的価値が大幅に上がる。さらに近年は電気自動車の普及で騒音問題はほぼ解消されていて、一昔前の様にガソリン車による夜も眠れない騒音問題は無いようなものだし、機械人形の台頭により農業従事者の収入が安定して楽な仕事へ入ると、このような都心から少しは金を持っている人々が我先にと地方へ引っ越して畑を開墾する様になったから、取り壊すにも金のかかる中途半端で古臭い邸宅が立ち並んでいるのだ。さらに高級住宅地という建前上、中級家庭以下の人々がここに住まうには中古物件になり、そういった住人はプライドの高い先住民から白い目で見られることになる。そういう訳で、ここに住まう人間は必然的に金銭的な面でたいへん裕福な位置に相当する人々ということになり、排他的でねじれたコミュニティを形成する様相は年を追うごとに濃くなる気配を見せていた。時折ニュースを騒がせるスキャンダラスな事件の舞台にもたびたび上がる。

 しかし物事というものは他方で負の一面を持っていても、もう片方では正の一面をもっているものだ。我欲にまみれた社会の形成も同じ。杤原探偵事務所にとっては好ましいことで、金を持ち、自らの体裁を気にし、それ以上に相手の秘密を探ろうとするこの唾棄すべきご近所付き合いを生き延びていくために、金をかけて探偵に依頼する富裕層が後を絶たないのだ。そういった顧客が増えるに越したことは無い。金は吸い上げられるところから吸い上げるべきだ。営利目的の探偵業なのだから、決して倫理に反するわけでもない。

 なのだが、黙々と足を運びつつも清隆は漠然とした不満を感じていた。

 他人の領域に土足で踏み込んでいく仕事。世間からの探偵に対する評価はそんなものだ。この高度情報化社会において、自らのプライバシーを保護する事は生命を守る事の次に重要なものだ。自分達にも当てはまることを棚上げし、あろうことか金と交換してそれらを請け負う盗視屋。

 朝起きる時間、出勤時刻、昼に食べた食事内容、財布の中に入っている金の総額、自分の体重、身長、名前、エトセトラ、エトセトラ……それら誰もが脛に持つ傷から髪の毛の本数までを、言われるがままに金をもらって調査するのが探偵で、その依頼をされる動機には少なからず悪意が混じっていることが少なくない。競合企業の弱点を洗い出して、プレゼン段階からライバルを蹴落とそうとする悪徳業者などがその代表例だ。清隆自身、自分が白い目で見られるようなことを生業としている杤原の下で働く限りは避けられないその視線を向けられる事には何とも思わない。いつの時代だって、忌み嫌われる職業を営む人間は必ずいた。社会的な差別を受けようが、えてしてそうした仕事は当時の社会にとって不可欠なものばかりであったことは多い。これは大いなる矛盾で、本来は汚れ仕事を請け負ってくれている人間には感謝を捧げるべきところ、どういうわけか人間は忌避する。探偵も同じで、そういった企業の成長戦略や近所付き合いにおける最後の切り札に至るまで、技能を持たない凡人の代わりに探偵免許を持った専門家が人の粗を探そうと努力する。杤原惣介に限っていえば、俗世間的な事には目を光らせているようでいて鈍感、しかも自らの信念を何よりも信じている男だから、彼いわく「くだらない」依頼はほとんどを蹴っている。生活に困らない程度という注釈はつくが、彼自身が探偵という職業で避け得ない人の暗い一面から出てくる案件は、なるべく受けない方針をとっている。そういった点で、清隆は彼を好ましいと思っている。ただ、金に困ったらすぐ報酬の高い案件に手をだし、法的なグレーゾーンを何食わぬ顔で通って金を掠め取ってくるのはこちらの背中に悪寒も走るのでやめてもらいたいのだが。

 この世の中、誰かを完全に信じ切ることほど難しいものは無い。人の行動は方向性で限定する事ができても完全に予測することはごく単純な行動以外には難しいものがある。他人との接触は行動の不確定性を目前にする事で必ず疑念という摩擦を生む。疑念は放置すれば周囲の感情さえもくさらせ、いつかは朽ちる。その前に、なぜ疑念が生まれるのかを誰かが調べなければならない。また、自分の尊厳を守るために相手の何かを探らなければならない場合もある。それ故に探偵は無くならない。どんなに数が減ろうが、その負う役割には事欠かないのだ。たとえ時代が情報化社会、自らの情報を守る事が第一になっている社会だとしても、それは裏を返せば他人の持つ情報の価値が飛躍的に増大したに過ぎない。むしろ、探偵にとっては活動がしやすくなったと言える。

 清隆は袖をまくって腕時計を見た。短い針が十、長い針が八を指している。この調子なら五分ほどの余裕をもって依頼人の邸宅へ到着できそうだ。愛用している黒いショルダーバッグを担ぎなおすと、隣を歩く杤原が何気なくいう。

「君、メモとか持ってきたか」

「バッチリですよ。その他にも調査権譲渡、念書、各種依頼料早見表に事務所の営業日まで記したチラシまで持参しています」

「うむ。相変わらず君の仕事の細やかさには脱帽するよ」

「そういう所長こそ大丈夫ですか? 手ぶらでしょう、今。いくら僕が持っているものを持っているからといって、事務所長としてそのスタンスはいかがかと思いますが」

 杤原は大げさに肩を竦めて溜息をつく。一般家庭の宅地の中で甲州街道から響くサイレンを尻目に、彼は背広のポケットに両手を突っ込んだ。途中、小さな商店街めいた店舗の並びで店員や客たちが物珍しそうにこちらを見やる。清隆は所在ない思いで、できるだけ誰とも視線を合わせない様に俯いた。機械人形は視線が真っ直ぐすぎて、あまり顔も覚えられたくはないために余計に気をつかう。

「馬鹿だな、俺はモノ探しのプロだぞ。自分で自分に依頼するようなヘマはしない。それこそ本末転倒、君の発言は竜頭蛇尾、私の間違いなど晴天の霹靂だ」

「その割には身軽ですよね。心配はしてませんよ、してませんけど、万が一ということもありますし」

「大丈夫だと言ってるだろう。荷物は全部ここに入っている」

 と言って、彼は自分のこめかみを指さす。清隆は呆れたと言わんばかりにため息をついた。物忘れと無縁ではない彼がどうしてここまで自分の頭に自信をもっていられるのか、彼には理解しがたかった。それこそ機械人形でもない限りは、人間はどんなに大切な記憶でも忘れる生き物であるのに。



「あんまり気が進まなくなってきた」

 杤原惣介は言った。気の抜けた炭酸飲料のようなその言葉に秋津清隆は顔をしかめ、人目のつく住宅地で怪しまれる様な行動は極力慎む様にと肘で軽く小突いた。しかし同時にまったく同じ心境のまま、どこか情けない気分で眼前に構える邸宅を見上げる。

 依頼人の邸宅は初台と銘打つ高級住宅地、その御多分に漏れず立派な門構えだった。こうした上流階級の人間にとって玄関は最初に目に入る生活の一部だ、生半可な装飾や大きさでは分不相応なのだろう。据え付けられた黒い屋根は太陽光発電装置の変換効率が最適な浅い角度で張り付けられ、三階建ての現代建築は一面がガラス張りになっている。外壁は高級感あふれるホワイトパールで、一面に面した日本庭園風の広い庭に大きなポーチ、家の周囲を囲む壁は石造りで、最初は本物かと思ったが普通のブロック塀にそう見せるだけのアクセサリーが据え付けられた今流行りの偽物だった。最近は本物の石を積むよりも、自由に形を変えられ、安く済むこういった簡易建材が多く出回っている。これは現代社会の全てに言えることで、水面下で最新技術と旧来の職人技とが交代していくが、その表面上の暮らしや街並みは変化しない。気付けば、目に見えない様々な部分が革新的な進化を遂げている。科学の進歩がそのまま目に見えて現れる風潮は、今の時代とは無縁だ。勿論、ヘリコプターの代わりに当初は騒がれたティルトローター機が採用され、当時の大規模な反対運動や国までも含めたメディアや市民たちの大騒ぎも、運行開始からの事故率の明らかな低下や性能の裏打ちが実証されたことによって下火となり、今はもうほとんどがティルトローター機になっていたり、ガソリンやディーゼル車ではなく価格の高さで嫌煙されていた電気自動車が交通の主流になったりと、老人が見れば変わったと思い涙に暮れる様な変化は所々に溢れているが、人々の営み自体に大した変化はなかった。

 いつの時代になっても、そうした目に見えない変化は起こり続けているものなのだが、中には幾世代にもわたって傲慢にも常識として居座り続ける輩もいる。こうした豪邸の目の前で狼狽える小市民という図式も正にそのひとつで、清隆はマンションの一室、杤原は事務所の隣にある自分の部屋で生活している身分、つまりどちらも一軒家には住んでいない。少しばかりこういった過剰とも思える個人スペースの占有に関しては疎い部分があるのだ。要は貧乏臭さである。こんな時、涼子ならば澄ました顔で「大きな家ですね」というだけに済ませるのだろうが。

「やっぱり、受けるのはよしますか? 今からでも間に合いますし、食い扶持に困っている訳でもありませんから。僕の職業倫理として、断るのは好ましくはないですけれど」

「おいおい、受けないとは言ってないぞ。気が進まないだけだ。それに、これくらいの家には俺も住んでいた時があったさ」

「え。所長、そんなに育ちがよかったんですか?」

「今の発言は聞かなかったことにしよう。俺の両親は医者と弁護士だ。収入なら人並み以上にあったよ」

 言いつつ、杤原惣介は驚きに目を丸くしている秋津清隆を無視して一歩前に出た。ポーチの目の前に据え付けられた、深い焦げ茶色の輝きを放つ門扉の脇にあるインターホンを押す。

 どこからともなく教会の鐘らしき豪奢な音が聞こえてきた。二人は思わず顔を見合わせる。セレブはここまで気を遣うのか。恐らくはスピーカーも別物。どこかで侍女が鐘守をしているとも聞き取れる。目の届かないこんな場所にまで金をかけるとは。

「はい、どちらさまでしょうか」

 と、待つほどもなくインターホンがしゃべり始めた。その声は清隆が電話で応対したあの女性だと思われた。杤原が少し身をかがめてインターホンを覗き込む。顔を見せるのは大事なことだ。そのためのインターホンでもある。

「先日お電話いただきました、杤原探偵事務所の者です。ご自宅でのご相談ということで、伺わせていただきました」

「あら、御足労ありがとうございます。いま出迎えにあがりますので、そのままお待ちください」

 音声が切れる。一分も経たずして、ポーチに人影が現れた。痩せた壮年の女性がきょろきょろとあたりを見回し、やがて門扉の前に佇む男二人組を見つけると、朗らかな笑みと共に駆け寄って来て木製の扉を内側に開いた。

「どうも、わざわざご苦労様です。お電話させていただいた、堤香苗です」

「いやいやどうも。事務所長をしております、杤原惣介と申します。こっちは助手の秋津清隆」

 二人そろって軽いお辞儀。堤香苗と名乗った女性は清隆へ向けて軽く頭を下げた。快活な彼女の対応に、清隆は無表情で返す。あまり人の良い笑みを浮かべていても怪しまれる時はある。特に、相方が普段とはかけ離れた良心的な対応をしている傍では。

「本日はご相談という事で、恐縮ながら伺わせていただいたのですが、ご都合はよろしいでしょうか?」

「はい、もちろん大丈夫です。どうぞおあがりください。主人が中で待っていますので。まだまだ残暑で厚いでしょう、お茶でも飲みながらお話しを」

「いや、それはありがたい。夏が過ぎたとはいえ、未だ厳しい折ですからなぁ」

 屈託なく受け答えをする杤原の社交技能に舌を巻き、または気分を悪くしながら、清隆は黙ったまますごすごとポーチへ進んだ。門扉と統一された木製の玄関を潜った先にある、秋津家の居間ほどもある面積の玄関とクローゼットほどもある下駄箱に圧倒されながら庭に面したリヴィングへ続く廊下を渡る間も、杤原惣介は喋り続けた。堤香苗もまんざらではないようで、朗らかに彼と会話を重ねている。残暑とはいっても近頃も少しは涼しくなりましたね、お加減はどうですか。旦那様はどちらに、などと、どこから持ってくるのか杤原の話の種は尽きる事が無い。好印象を与えておくに越したことはないが、あまり依頼人――になるかもしれない人間――と親密になりすぎるのはよろしくない。次の依頼では、この家の不祥事を洗い出さなければならないのかもしれないのだ。

 話し続ける杤原惣介と堤香苗に続いてリヴィングへ入ると、最近の建築工法の流行りである空気循環型構造特有の微風が清隆の頬を掠める。自然の風を可能なかぎり取入れ、空調設備を使わずとも屋外と感じさせるほどの空気の流れを演出するのだ。その風が頬を掠めたと同時にスイッチを切り替えたのか、杤原は打って変わって静かになった。同時に、清隆の目には二階まで続きとなった高い天井と扇風機、最大限に太陽光を取り入れる壁一面のガラス壁を前にして、ソファに座り込むひとりの男性が目に入った。彼が堤香苗の夫だろう。彼は立ち上がると、眼鏡をかけた几帳面な顔を僅かにほころばせて律儀なお辞儀をした。

「どうも、本日は御足労いただきましてありがとうございます。堤祐介と申します」

「こちらこそ、お電話いただきありがとうございます。杤原探偵事務所の所長をしております、杤原惣介というものです」

 名刺交換。清隆も形式だけの紙切れを渡し、渡された。

「こっちは助手の秋津清隆、私の助手をしております。誤解の無きよう申し上げさせていただきますが、彼はあくまで私の補助。実際の依頼遂行は私が行います」

 ちらり、と眼鏡の奥にあるブラウンの瞳が清隆を捉える。ぺこりとお辞儀を返すと、彼もまた会釈で応えた。清隆は下に向けた顔をしかめるのを何とかこらえた。眼鏡の奥の瞳がまるで物を見る様な品定めの色を帯びたのだ。堤祐介からしてみれば、杤原にしても清隆にしても、金に糸目さえつかなければ依頼人にさえ刃を向ける野蛮で低俗な寄生虫に見えたのかもしれない。

 そのまま四人は対面式のソファに身を沈め、杤原惣介が口火を切った。

「それで、ご依頼の件なのですが――」

「ちょっと待ってください。香苗、お二人にお茶を。今日は歩きで?」

「ええ、まあ」

「なら、どうぞゆっくりなさってください。涼しくなってきたとはいえ、歩いてこられたのは大変だったでしょう」

 彼の一声で、妻の香苗が弾かれた様に席を立つ。台所へ消えていく妻の背中を見送って程なくして、彼女はアイスティーをグラスへ注いで戻ってきた。二人はありがたく頂戴することにし、杤原は不躾にもミルクとガムシロップを注文する。

「出端をくじいてすみません。それで、依頼についてなのですが」

 手渡されたガムシロップを杤原がアイスティーに落とし込んだ所で、今度は堤祐介は切り出した。話しの主導権は自分が握るつもりらしい。相談が始まったと同時に既にグラスに口を付けていた清隆は鞄を開き、中身を取り出し始める。その様子を横目で見つつ、杤原は話を進めた。

「はい。ああ、ひとつ言っておきますが、あまりにも過激な依頼内容だったりする場合はお断りするケースがございます。稀にあるんですよ、探偵を殺し屋と勘違いしておられるお客様が。そこのところ、ひとつご了承いただきたいのですが」

「ええ、勿論です。こちらもそのつもりはありませんから。と、そんな人が本当にいるんですか?」

「守秘義務があるのでその時の依頼内容についてはお話しできませんが、かなり物騒な事を依頼されました。もちろん拒否しましたがね」

「それはそれは……断っても後が大変だったでしょう」

「ハハハ、お察しの通りで。こっちが殺されそうになりましたが」

 会話の主導権を取り戻した杤原は静かにアイスティーを口に運んだ。堤祐介の眼中には、もう秋津清隆という人間はさきほど名刺を渡した程度でしかなかった。そのほうが杤原も清隆も仕事がしやすい。

「それで。今回のご依頼は、人ですか、モノですか」

 お決まりの台詞だ、と清隆は思った。大まかなジャンルから依頼内容を絞りこんで、そこから詳細な話に詰めていくのが定石だ。わかりやすいし、てっとり早い。彼らの会話内容をちょこちょことメモに取っていく。流れを大まかに把握できるように、箇条書きで。

「モノ、です」

 モノ、と書き込む。

「フム。それについてどんなご要望をお持ちでしょうか。具体的に示していただきたいのですが」

「調べて欲しいのです」

 調査? と付け加え、丸で囲む。

「その……あれの生活を」

 生活、と矢印を引っ張る。

 そこで、探偵とその助手は顔を見合わせた。何か重大な論理の矛盾があった気がする。見落としてはならない何かが。

「あれの生活、とは、どういう?」

 思わず、清隆はメモを構えながら問うた。堤夫妻は顔を見合わせ、はたと困り果ててしまう。彼ら自身にも、どう表現していいかわからないらしい。

 やがて、自分自身の言葉を信じられないような素振りで香苗が口を開いた。

「なんと言いますか……最初からお話ししますと、一ヶ月前のことです。我が家には機械人形が一台あるのですが、彼女を買い物に出したところ、ある異常に気が付きまして」

「異常とは?」

 やはり言い辛そうに、堤香苗は口を噤んだ。隣に座っている祐介が、おずおずと語を継ぐ。

「その、口紅をして帰ってきたのです」

 驚き、沈黙。清隆は「口紅?」と書き加えたところで手をとめた。

 機械人形は、人間を模倣した人工意識が植えつけられているとはいえ、自ら進んで化粧や食事は行おうとしない。それは彼、あるいは彼女らが自身を機械だと認識しているからであって、機械人形の三命題の中にもそういった自らをよく見せようとする条項はない。そもそも人間が化粧をするのには生存本能にも絡まった極めて複雑な動機があるのだが、機械人形はそんなことは気にしない。元より実装された顔のままで過ごす。人間と違ってシリコンの肌は荒れる事がないし、言うなれば化粧を施された状態で出荷されていくからだ。さらに、下手に化粧をしてしまうと自分の顔を自分と認識できなくなる。これは人間にも通ずるもので、意識に重大な欠陥をもたらす恐れがあるのだ。人間でも、朝起きて鏡を見た時、そこに写っている姿が自分ではなかったとしたら、決して平常心ではいられない。それ故に、化粧とは機械人形自身が忌避することでもある。

 心理学の分野で定義される意識の必要十分条件は、予測、自覚、そして自己認識である。さらにそれを補助する働きとして、連続性、時間の概念、所有の概念が生まれる。予測は、ある原因を目の当たりにした時、その結果をおぼろげにでも想像すること。車が走っていれば、何秒後にはあのあたりまで行くだろう、などというものだ。自覚は、今自分が何をしているのかという事に集中すること。料理、買い物、掃除などの行為を正しく認識する事だ。

 そして自己認識は、自分を自分として認識し、クオリアを受け止める意識の土壌を設けること。その先に、自分と相手という境界線、所有の概念や、予測から成り立つ現在、過去、未来といった時間の概念、過去から続くこの意識が自分であるという連続性が付随してくる。

 人間より、遥かに自分の顔という情報を詳細に記憶している機械人形にとって、化粧をするだけでも鏡に映った自分が他人だと判断されることは少なくない。彼らの自意識は人間ほど複雑ではないものの、それだけ脆いものであるから、小さな自己不認識が生ずるとすぐに精神に失調を来す。情緒が不安定になれば機械人形は心を病んでいく。だから、口紅をつけるという行為はその限界、ぎりぎりまで迫った行動だ。人形にとってみれば狂気の沙汰である。当人にとっては大きなストレスになるだろうし、周囲の人間も驚き、戸惑うに違いない。この夫婦の様に、それが自ら所有する機械人形に起きているのだとすればなおさらだ。

 杤原惣介がおごそかに口を開いた。彼自身はじゅうぶんに注意していたに違いないのだが、付き合いの長い清隆には、その声色に滲んだ隠しきれない好奇心が見え見えだった。

「お聞きしたいのですが、それ以前には機械人形に不審な行動は見とめられなかったのですか?」

「ええ。常識的な意味でいつも通りでした。買い物に行けばしっかり仕事をこなしてくるし、家の掃除もいつも完璧、作る食事もまったく問題なし。少し寡黙なところはありますが、いい人形です。とてもよくしてくれます」

「他に、そういったことはありましたか?」

「ありました。一週間前のことですが、今度はアイラインを。買い物に行くたびに、何かまた変な事をしでかすのではないかと気が気ではありません」

「それで、私共にその原因を調べて欲しい、ということですね」

 堤祐介は少し複雑な顔をした。どうやらこの問題だけで済む話ではないらしい。

「もちろん、それもあります。ですが、思えば私共は、機械人形が命令なしに何をしているのかということをまるで知らないのです。共に暮らしているのに、彼女のことはまるで知らない。得体が知れないのです、彼女は。そういったことも含めて、お調べいただきたいのですが」

 人工意識を持っている機械人形を非人間とみなすのは正しい。彼らは間違いなく人間ではないのだから。しかし、機械人形が意識を持ち、自らの意志で駆動して行動を取捨選択しているという現実を目の当たりにした時、しばしば議論されるのが、機械人形を、命を持った生物として見るのか、それとも意志があるように振る舞うだけのソフトウェアとハードウェアの集合体であると考えるのか。これは主観によって大きくわかれる重大な問題だ。下手をすれば人類が共通して持つ「息をしているものは生物である」とか、「どんなに小さくても化学反応を伴った生物学的活動がみとめられれば生命である」といった生命観を根本から覆すことになるのみならず、殊、機械人形が人の形をしているという時点でそれは人間とはいったい何なのかという哲学的問題にまで発展する余地すらもじゅうぶん以上に孕んでいるからである。機械的なアプローチから人間を創造しようという試みの結果が機械人形である、という未だに複数の機械心理学者が唱える暴論とも極論とも取れない解釈は学会においても、年に二回くらいは論文が提出される程度に細々と生きながらえてはいるし、その点について反論する人々は少ない。しかしそこに説得力と実証性が存在するのかと問われれば答えは否であり、現代科学のあらゆる分野における、高い事はあっても低いことは無い一定水準の知識と才能がなければ名乗る事の出来ない、杤原惣介いわく生まれつき頭がいかれていなければなれない彼らが頭を抱えているのだから、そういったことをいち探偵事務所の事務所長補佐兼庶務係である秋津清隆などが推察することは困難を極める。

 一方で見方を変えれば、今回の依頼については機械人形の行動についてそれらしい説明が出来ればいいのだ。堤祐介も堤香苗も、秋津清隆ほど機械人形についての知識を持っている訳ではない。こういった場合、既存の理論から大きく逸脱しない限りで依頼人を納得させることが出来ればそれでいい。目の前の二人が求めているものは、捻くれた機械心理学の複雑奇怪を極めるご高説ではなく、納得のできるくらいに抽象的で、ある程度噛み砕かれたお伽話だからだ。それに専門家から見ても違和感はない程度に浅い説明をして見せれば、それで依頼は完了となる。

 そうしたことから踏まえて、杤原惣介はさっそく依頼の外郭を埋めにかかった。

「私共が依頼を受けるかどうかの判断をする前に、少しお話ししなければならない部分があります。まずお二人は、機械人形をどう思っておいでですか?」

 思いもがけない質問だったのか、堤夫妻は戸惑いながら顔を見合わせた。そして答える。

「機械でしょう。電気で動きますから」

 簡潔で明解な答え。まるでそれ以外に解答があるのかと言わんばかりの口調だ。

 だが、この問いには適切解など存在しない。

「ええ、機械です。しかし、そこらへんのテレビやトースターとは違います。機械人形には意識がある。それが魂なのかどうかという深夜のドキュメンタリー番組じみた議論は抜きにしましょう。そのあたりをお考えいただいた上で、もう一度、事務所にお電話をいただけますか? 書類などは今用意して、お電話ひとつですぐに仕事には取り掛かれるようにいたします。どうでしょう」

 杤原の提案に夫妻は頷き、曇った表情のまま清隆が差し出した書類のひとつひとつに目を通していく。

 紙切れを渡す彼の胸の中は、何故か苦しい。


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