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「心臓、ただし歯車」

  *



 雨が、降っている。

 ぼんやりと靄のかかった頭はそんなことくらいしか認識できないまま、ふらりと涼子は夜の街を歩く。高層ビルのガラス壁にはバケツで水をかぶせたように雨水がぶつかり、街灯の明かりですら雨でぼやける。残暑の湿気を全て凝縮したような雨は冷たく、健康的な人間の肌を模した人工皮膚はかえってよく目立つ。それでも常人よりはるかに白い彼女の肌が雨に打たれて冷えた人間の皮膚を連想させ、今時にしては珍しい長い人工毛髪がチョーカーを隠し、正面、あるいは側面から彼女を見ない限りはとても機械人形などには見えない。通りすがる人々は判断つきかねる彼女の美貌に首を傾げるしかなかった。

 新宿の街は騒がしかった。いつも清隆に連れてきてもらうのは昼、太陽の上っている時間だった。夜に来たとしても杤原探偵事務所から駅西口までの道のりだけで、人の多さには圧倒されたけれど、これほどの喧騒を感じたことはなかった。街を行き交う人々の靴は心配になるくらいの勢いで地面にたたきつけられ、雲の向こう側では飛行機の飛ぶ音、すぐ隣の車道では電気モーターを動力にしているとはいえ耳を塞ぎたくなるほどの走行音を響かせて通り過ぎていく数多の自動車。そのすべてが彼女の麻痺している意識の中に染み渡り、これ以上はやめてと叫ぶ彼女の心に何かたとえようのない傷を残していく。

 あの男から電話がかかってきたのは先日の昼頃。内容については思い出したくもない。自分が生きている限り、秋津清隆の命を狙うと脅迫してきたあの男。どこの誰かもわからなかったが、涼子にとってはその一連の言葉が、彼女ら機械人形を自殺に追いやった現況なのだと瞬時に悟った。それから今日まで一日と少し、清隆が帰ってくるまでは頑張ろうと思ったが、どうして、抗えぬこともあるものだ。自分の中で大きく、暴走していく感情を置き去りにして考えながら、涼子は虚ろな瞳で傘をさす人々の好奇の視線をひとつひとつ受け止め、その中に自分の求める誰かがいないことを確かめる。

 機械人形が自らの動機制御を踏み越えてまで行動を起こすのに必要なものは、三命題の序列の観点から見ると第三条以外のどちらか。中でも禁忌ともいえる自壊を選ぶともなれば、それは第一条でしかありえない。あの、踏切でばらばらにされた女性型機械人形を見た時からそれはわかっていたことだが、自分の身にも起きうることで、そして秋津清隆にも関わってくるものなのだと気付いた時、彼女は苦悩するしかなかった。突然にして自分の身に降りかかってきたこの災難をどう受け止めればいいかは考えずとも明白ではあったから、人間に比べればまだ救いがあったかもしれない。機械人形である自分は人間のために死ねばいい。それだけのことで、ほんの少しも逡巡する必要もなく、彼女は自分自身で下したその結論に疑問を挟むこともしなかった。

 だが、それでも清隆が帰ってくるまで待っていよう、一目、最期に彼を見てから死のうと思い、いつもの彼の帰宅時間を過ぎても待ち続けたのはなぜか。その答えは自殺することを決意するより簡単であるのに、受け入れたくない自分がいる。まるで嫌いな食材を前にした子供の様だ。食べたくないと拗ねているが、いつまでたっても嫌いなものは無くならない。かといって好きにもなれないものだから困ったものだ。

 機械人形は人を愛するべくして生まれた。それは当然のことで、世の中にあまねく分布している人形たちに共通する自分の存在意義である。記憶媒体に常識と共に格納されているそれはつまり、機械人形が人間を愛する時、それは仕組まれたものでしかないということ。だからこそ、涼子は秋津清隆が彼女を人間のように扱い、必要以上に感情を抱くことに対して無意識のうちに苛立ちを抱いていた。そうすることで、彼女は自らが秋津清隆という個人を愛している事実を遠ざけて、自分の本心による愛情なのか、それとも他人にプログラムされた愛情なのかを判断する恐怖を避け続けてきた。もちろん、機械人形を理由もなしに偏愛する機械人形偏愛症に所有者が罹患しないようにと、人間に対して「自分は機械人形である」という意思表示をする動機はあった。隠れ蓑としてこれを使う事に決めたのは、彼女の無意識ではあったが。

 遠くに交差点が見える。雨に霞んではいるが、大きな高速道路の出口から直結したあの交差点は、一ヶ月ほど前に人形が自殺したあの交差点であるらしい。知らず、彼女の足はそちらへ向いていた。

 涼子は、すすんで自分が誰か、何かにとって特別なものになろうと望んだわけではなかった。杤原惣介も前島冴子も、鳴海遥でさえもよくしてくれるが、彼女自身が願ったものではない。秋津清隆の両親、秋津清隆自身ですらも、機械人形であるという事実を無視するかのように気遣い、慈しみ、そして愛したであろう人々を涼子は愛してはいたものの、その感情が自らの内から純粋に発生したものであるという確信を抱けなかった。手垢のついた愛情ほど、悲しくて無意味なものは無いと思ったから。

 自分は幸運だったのかもしれない。今日この日まで、多くの人々が無償で自分を愛してくれたことが誇れるものだと思える。同時に、どんな感情も、動機も、誰かの意志が混ざり込んだものではなく、純粋に、これこそが自分の本心だと言い切れるその在り方が、彼女にはどんなものよりも羨ましくてたまらなかった。その度に自分がどこか汚れているのだと恥じた。

 しかし、彼ならばそんなことは関係ないと抱きしめてくれるのだろうか。そう思えばこそ、彼女はあのマンションの一室で秋津清隆を待ちぼうけていた。心の底から彼を必要と感じた。今まで自分がどれほど大きな愛情で守られていたか、痛覚のない彼女は心が痛いと悲鳴を上げる。その愛情ですらも、もしかしたら自分のものではないのかもしれない。そんな疑念がナイフのように彼女をずたずたに切り裂いた。

 足を止める。そこは交差点、新宿駅周辺でもひときわ交通量の多い街道の脇。そこから血管のようにつながった二車線の道路ふたつに挟まれた高架のすぐそば。赤信号に足を止めると、中洲めいた歩道の切れ端には自分しかいない。目の前を勢いよく過っていく自動車をぼんやりと眺め、そのまま足を踏み出そうとしたその瞬間だった。

「涼子」

 人形は動きを止める。気のせいだろうか。今、ありえない声を聞いた気がしたが。

 まさかと振り返ると、そこには雨に濡れそぼった秋津清隆の姿があった。慌ててかきあげたであろう、深い黒色の髪の先から雨水が滴り、目尻を伝って流れていく。スーツの上着はぐっしょりと濡れていて、送り出す時に整えたネクタイも見る影もない。革靴も、彼が一歩歩くたびに染み込んだ雨水でがぽがぽと音を立てそうだ。よほど急いできたのだろう、肩で息をしながら、彼は心の底から安心したような笑みを浮かべた。

「清隆」

「涼子、帰ろう。僕らの家に。帰って、一緒に暮らそう」

 何があったのだろうか、彼はとても疲れている。この冷たい雨に打たれて、肌は病的なまでに白い。このままでは風邪をひいてしまうではないか。

 だが、帰る訳にはいかなかった。

「私は帰れません。ここで死にます」

 自分の声がひび割れてしまいそうなことに驚くが、そんなことは顔には出さない。反対に、彼は無表情に戻り、頬を伝って瞳に入りそうな水を乱暴に手の甲で拭った。

「駄目だ、帰るぞ。このままじゃ二人とも幸せにはなれない。君がなぜ自殺しようとするのか、僕にはわかるよ。脅迫されたんだろう? 心配ないよ、警察の人が守ってくれる。君は気にしなくていい」

「それは……ああ、清隆。それができるなら、私はここまで苦しみません。あなたもわかっているはずです。相手が誰かも分らぬ以上、あなたを殺すと言われれば私は死ぬしかない」

「わかっている。だけど、二人一緒ならば何か考えられるはずだ。だから家に戻ろう。今からでも遅くはないよ。現に、僕はここにいる。ここに君といるよ」

 信号が青になる。立ち止まっていた人影はなく、また赤になるころには彼女らは孤立していた。隣の街道をびゅんびゅんと通り過ぎる電気自動車のヘッドライトが、お互いの影を袈裟に重ねた。

 秋津清隆が一歩踏み出すと、彼女は退く。既に道路からはみ出そうなほどに縁石から一歩踏み出している。それを見た清隆は、やりきれない感情を言葉にしてぶつけた。

「涼子、どうしてなんだ。君が死ねば僕は悲しむ、わかりきってるだろう。だというのに、君はどうしても死ぬっていうのか。こんなにひどいことはない、そうだろう」

「清隆、あなたは私を人間として見すぎるのです。私は機械。あなたが愛するには足りません。私は人形である以上、誰かを愛するのは第一条によって決められたことでしかない。それがどれほどの苦痛か、あなたなら察してくれると思っていた」

「僕は、もう君のことを人間として見ていないよ。君は君だ。涼子は機械人形なんだと、今では僕は誰よりもわかっている」

「しかし、私の愛情は仕組まれたものです」

「君が僕を愛する感情がたとえプログラムの結果だとしても、僕は構わない」

「私は、そんな偽物の感情であなたを愛したくないんです。あなたを冒涜することになる。そんな不誠実なことは、私はしたくありません」

 何故だろう、ここまで意固地になって彼に反論するのは。もう自分自身ですらもわからなくなって、すべてが嫌になった。

 彼女は道路へ向けて足を踏み出すと、肩ごしに儚い笑みを浮かべた。この瞬間でさえ、彼女は彼のことしか考えられない。しかし愛することはできない。何故なら、彼女は彼を――

「清隆、ありがとうございました」

 そうして、彼女は一歩を踏み出す。ちょうど左折してきたトラックが、けたたましいブレーキ音を響かせながらも止まり切れない巨体で彼女に迫る。

 これで終わる。静かに瞳を閉じながら、涼子はようやく安心できるのだと、自らを慰めた。自分の死は無駄ではない。秋津清隆はこれで死なずに済む。これでよかった、自分にはこれしかなかったのだ。

 だが、そんな彼女の意志に反して、体は妙な動きをしていた。ちょうど、曲がり角を曲がったら壁があって、思い切りぶつかったあとで尻餅をつくような、あの感じ。それが勢いよく襟を掴んで引き倒されたせいだと気付いたのはすぐだったが、既に慣性の力で倒れ込んでいる体を起こすことはできずにそのままアスファルトへと倒れ込む。

 奇妙な事に、何かが何かにぶつかったような、鈍い衝突音が響いた。同時にトラックが視界の端で止まったのが見える。何が起こったのだろうかと顔を上げた時、彼女は自分の全てが真っ白に漂白されていくことを自覚した。

 トラックは交差点から少し進んだところで停車している。運転手は飛び降り、携帯電話で救急車を呼んでいた。急ブレーキのせいで路面には黒いタイヤ痕が残り、そのすぐ脇に、スーツを着た男性が倒れている。

 あまりの衝撃に、言葉が出てこない。しかし、何も考えられない頭でも機械人形の三命題、第一条が働いて、彼女はおぼつかない足取りで彼の下まで歩み寄っていった。

 一目見て、重症だと思うくらいには血が流れている。雨によってできた水の流れは雨水升へと流れ込んでいた。水の流れは赤い。赤い絵の具を溶かした水をバケツから広げたようだ。その中心で、仰向けで力なく横たわっている秋津清隆の左肩のあたりに跪く。涼子は彼を優しく抱き起し、慎ましくたたんだ膝に頭を乗せた。まわりでは何事かと騒いでいる人々の気配がするが、構わずに涼子は雨に打たれている彼の髪をそっと撫でる。

「清隆?」

 呼びかけると、意外にも秋津清隆は目を開けた。弱々しいものではあったが、彼は目だけを動かして何かを探している。そのまま視線が彼女の顔を捉えると、口元が緩んだ。

 何かが込み上げてくるのを、涼子は感じる。だというのに、彼女は涙すらも流さず、ただ彼の髪を撫でることしかできなかった。こんな状況でも、これが彼の最期の言葉になるかもしれないと冷静に考えている自分が悲しくて仕方が無かった。

「涼子、さっき、自分の愛は偽物だって、いったろ?」

 細い彼の声を聞きのがすまいと、涼子は彼に顔を近づける。既に吐息がかかるほどの距離だ。

「だから、ぼくを愛せないって」

 掠れる声で、今も全身を駆け巡っているはずの痛みも感じさせないような口ぶりで、彼はいった。ところどころで、大きく肩で息を吸うその仕草が体力の限界を物語っている。ただ轢かれただけならばいざ知らず、今はこの雨だ。雨だけでも止んでくれればいいのに。

「はい、清隆」

「でも、それは間違いだ。君がそのことに……罪悪感を感じるのは、どうしてだい? そんな、君の言う、偽物の愛ではぼくを、冒涜すると、思うのは」

 今まで考えたことも無かったその言葉に、涼子は驚いた。

「私は……私は、あなたを愛しているのでしょうか。他でもない、私自身が、あなたを」

 微かに、清隆は頷く。咳き込めば、口元から赤い筋が水溜りに尾を引いていった。

「でも、清隆。私は、こんな時でさえ泣けません。あなたを想っていても、あなたのために泣くことはできないのです」

 告解にも似た彼女の言葉は、しかし、彼にとっては微塵も問題ではなかったようだ。清隆は震える右手を伸ばすと、俯いて彼を覗き込んでいる涼子の左頬に手を添え、愛おしげに撫でた。恐ろしく冷たい機械人形である彼女にも想像できないほど、彼の手は冷たかった。降りしきる雨が、彼女の髪を伝って目尻へと零れ落ち、そのまま彼の頬に落ちる。

「何言ってるんだ。君、泣いてるじゃないか」

 そうして、秋津清隆は意識を失った。右腕が支えを失って崩れるのを、涼子は両手で受け止め、そのままうずくまるようにして彼を抱きしめる。もう戻らない何かを噛み締めながらも、涼子は体いっぱいに、金切り声をあげて叫んだ。

「誰か、彼を助けて。お願いします。誰か、彼を!」

 その姿は、人か、機械か。少なくとも、その細い首に赤いチョーカーが巻き付いているというのに、交差点で遠巻きに様子を眺めていた人々は血の通った何かにしか見えない彼女を見つめ、顔を見合わせた。

 慟哭は夜の街に、雨の中に溶けていく。

 遠くでは、サイレンの音がビルに反響して虚ろな響きを奏でていた。



  *



 杤原惣介は探偵であるから、たとえ無一文の身でありながら依頼料の発生しない仕事を受ける場合であっても、しっかりと果たさなければならない責任があった。

 堤家を訪問して、今回の事の顛末を全て話した。機械人形という存在の根本にかかわることだ、本来はむやみやたらと他人に話すべきではない。しかしひとりの人間として、一体の機械人形と接していた彼ら家族には知る権利がある。そう思い、よく晴れた日の午後に杤原は高級住宅街の奥にある邸宅を訪ねた。

 出迎えたのは意外にも堤祐介その人だった。彼は無言のまま杤原を招き入れてあのリヴィングに通すと、自分の手で紅茶を淹れながらダイニングキッチン越しにいった。

「あなたがここに来るということは、わかったんですね。彼女の自殺した理由が」

「ご明察、恐れ入ります」

 テーブルの上に二人分のソーサラーとティーカップが置かれる。冬に近づいてきた陽射しは夏とはまた違った鋭さを持っていて、窓越しとはいえ少し眩しい。室内の照明は全て消してあり、思えば小奇麗に整ったこの邸宅には、堤祐介以外の人間の気配が無かった。もの寂しいこの家で出迎えに出たのが家主一人であるには、何らかの理由があるのだろうか。そんな好奇心をくすぐられて、杤原はティーカップに手を伸ばしながら問うた。

「不躾ながら、奥様は?」

「妻と娘は、あの踏切に献花にいっています。今日で区切りを付ける、そういうことになりました。いつまでも機械人形に執着した生活を送っていては、彼女に笑われてしまうだろう、と」

「なるほど。確かに、人形は世話焼きですからね。しっかり自立したところを見せないと、かえって不安がらせてしまいます」

「そういうことです」

 どうやらこの家族も、機械人形に対する答えを出したらしい。彼らには彼らなりの最適解がある。それを見つけられたであろうことを、今は切に願うばかりだ。

 二人はしばし、各々の感傷に浸りながら紅茶の赤茶色をした液面を見つめ、はかったように同時に口を付けた。ソーサラーへとカップを戻すと、まだ香りを楽しんでいる堤祐介がいった。

「どうでしたか、杤原さん。この一ヶ月は」

「あまりにも様々な出来事が交錯した一ヶ月でした」

 それから、杤原はリリィの自殺から始まる一連の騒動について、堤祐介に何もかもを話した。自殺していたのはリリィだけではないこと、全国、特に東京で集中していた機械人形の連続自殺事件がひとりの政治家によって企図されたものであったこと、その目的や、根拠となる彼の理論と、人形への暴挙を阻止しようと奮闘した、ひとりの青年のことを。そして、機械人形が自殺する理由が、狂っていたからではなく、ただ人間を愛したその結果に殉じたひとつの末路であったことを語ると、堤祐介は眼鏡を外し、ああ、と声を漏らした。

「そうでしたか。リリィは、狂ってなどいなかった。それを教えてくださっただけでじゅうぶんです」

「ご家族では、何を話されていたのですか?」

 目頭を手で拭うと、彼は毅然とした態度に戻っていった。

「私達は、リリィを機械として扱っていました。お金を払って買った物ですし、人間と呼ぶにはあまりにかけ離れている部分がありましたから。ですが、彼女が口紅をしたことは、自分も人間になろうとしたからではないのか、と、妻や娘とはよく話すんです。家族の一員となりたかったのではないかと」

「ある意味では間違っていません。機械人形はあなたの命を盾にした脅迫に屈すまいと、自らの意志で抵抗していたんです。その結果が、口紅をして少しでも他人に自分を似せるという、人工意識にヒビを入れかねない重大な決断だった」

「ええ、わかっています。だからこそ、私は彼女に言いたい。もう既に家族であったこと、それと、機械だからといって慇懃な態度をとっていた私を許してくれ、と」

 これもまた、ひとつの決着であり、責任だ。これから堤家は、一体の機械人形を心に刻み込んで生きていくだろう。綺麗な思い出よりも後悔の念の方が大きいかもしれない。だがそれもまた、ひとつの形だ。彼らはそれを果たした。今はそれでいい。

 最後に、堤祐介に杤原惣介は誰かがうそぶくように言っていた、救いの言葉を紡ぎだした。

「堤さん、彼女はあなたを、もう許していますよ。というのも、機械人形の三命題では――――」



  *



 またもや徹夜。自分のお人好しは底なしなのかと頭を抱えながら過ごす日々に、六道清二は多少なりとも満足している。

 あの一件から、松田正一厚生労働副大臣は昨今の世間を騒がせている機械人形連続自殺のメカニズムを流布した張本人として新聞やテレビを騒がせ、彼自身は辞任することなく、機械人形社会適性化委員会を抜けて機械人形社会対等化委員会を設けた。これは社会人形を不当に貶めたり、人間の利己的な計算で傷つけられる個体を出さないようにと配慮するべく、行政の中に設置されたひとつの査問委員会という位置付けとなり、今日も精力的に、世間で自殺されかかっている人形たちを救うために奮闘している。それまでに彼は数百体の機械人形を破壊した自らの所業に戦々恐々としながらも、贖罪のために寝る間も惜しんで活動しているらしい。厚生労働副大臣として、機械人形との代替によって失業した人々の社会支援にも注力することを、先日テレビで会見したばかりだ。これには政府内外から賛否両論が投げつけられたが、彼は既にやる気らしい。そうなってはもう誰にも止められないことを、六道清二自身が身に染みてよくわかっていた。

 警察内部でもひと騒動あった。警視総監から圧力を受けていた六道清二と田邊敦彦は正式に労働組合と反機械主義者の癒着を探れとの辞令が降りたのである。念願の捜査再開に喜ぶ暇もなく、一転して不可思議なことに首を傾げてしまう。

 田邊は捜査二課をやめ、そのまま情報犯罪課へと転属してきた。本人たっての要望だったらしい。いままで積み重ねてきたキャリアを棒に振ってまで彼が転属したのは、やはりあの一件が大きく響いているからだろうことは想像に難くない。今も隣で隈をつくりながらコンソールをいじくっている田邊を眺めて、六道は熱いコーヒーを啜る。

「なんだ、六道。何か用か?」

 横目で見ながら不機嫌極まりないといった体で呟く田邊に、六道は傍にあるドリッパーから新たな一杯を大きなマグカップに注ぎながら苦笑いした。

「いや、本当によかったのかと思いまして。まだあの一件から二週間だ。いきなりこっちに来るってんで驚きましたよ。十数年のキャリアを棒に振るなんて、思い切りが良すぎます」

「まだ警部だよ、ヒラに逆戻りだがな。俺だって、あれで考えさせられた部分はあった。というより、もう上からがみがみ言われて唯々諾々と従っているような役職はまっぴらだと思い始めていたのもあったがな」

「へぇ。やっぱありましたか、そういうの。おれはあんまり気にしませんけど」

「麻薬とかそっち関係で、いろいろと口を出されるんだよ。本当はこっちの管轄であって権限もあるんだが、どうにも暴力沙汰はよくないと思っている上司がいるらしい。こっちとしては取っ組み合いになってでも検挙できればそれでいいって課員が星の数ほどいるんだが、そんな俺としても部下を危険な目に遭わせたくはないしで、正に中間管理職だ。やってられんよ」

 下からの突き上げ、上からの押し付け。そのふたつに板挟みとなった挙句のこの始末だ。そういって、田邊は自分で暇つぶしに書いた「始末書」を六道に付きつけた。タイトルは「中間で管理する職であるがための失態」だ。組織の一員として、あくまで上からの命令に従うべきだという矜持を守ったが故に、彼は旧友である六道清二をスタンガンで襲った。今でもその決断に後悔はないという。ただ、少しくらいは気遣いらしいものを見せてもいいのではないかと、六道は未だに薄らと残っている傷跡を背広の上から撫でた。

「物好きな人だな。確かに情報犯罪課は課長なんてあってもないようなものだけど、そんな理由で転属だなんて。こっちはおちおち寝てもいられませんよ」

「構わんさ。体力なんてどうとでもなる。問題はその苦労に自分自身が納得できるかどうかさ。ああ、六道警部補殿。こちらの事案はどのように処理を行えばよろしいでしょうか?」

「うむ、これはとにかく、相手の家に行ってみるしかあるまい。機械人形についての相談とあらば……痛いな、ぶつなんてひどい」

「敬語を使え、敬語を。それに、どうして電話じゃ駄目なんだ?」

 六道は殴られた肩をさすりながらため息をついた。

「そういう専門のダイヤルがまだ無いんですよ。自殺した機械人形の所有者に対する精神的カウンセリングなんて、そんな製品を出していると企業が認めるようなものですからね。事後処理も含めて、警察が行うべきだそうです。上申書にはそんな返事が添えられて返ってきましたよ」

「なるほどな。それじゃ、今から行くぞ」

「待ってました、そろそろ陽の光を浴びたいと思ってたところです。このまんまじゃかびが生えちまう」

 言うや否や、二人は背広の皺を伸ばしてオフィスから出ていった。



  *



「秋津君。そういえばもうひとつ、君に話さなければならないことがあるんだ」

 赤色も薄れ、夜の帳が地平線の向こう側から押し寄せている。ちょうど空は青と紫と緋色に染まり、太陽が大地の向こう側へ隠れはじめていくらか弱まった陽射しが室内を照らし出す中、床山秀夫は帰りかけた秋津清隆へいった。彼は鞄を手に持ったまま振り返ると、眼鏡を手に持って静かに拭いている男へと向き直る。

「なんでしょうか?」

「うん、君の家の機械人形についてなんだがね。彼女は、実は私が製作したんだ。といっても、論理集積回路にほんの少しの手を加えただけなんだが」

 清隆はみるみるうちに瞳を見開く。驚愕の波が収まったころを見計らい、床山は眼鏡をかけなおして青年を見つめた。

「君のお父さんからのお願いでね。機械人形を一台買いたいんだが、他よりすこし毛色が違うものを用意してくれないか、と頼まれたんだ。私は、その頃にはもう人形を手がけることはしないと誓っていたから、最初は断ったがね。古い知人の頼みだ、断り切れなかった。そこで、既に完成しつつあった彼の機械人形の内部に、少しだけ手を加える事にした」

「教授が、涼子を手掛けた……わけではないんですね。あくまで、手を加えるにすぎなかった、と?」

 自分の父親が彼と親交を持っていたこともさることながら、涼子自身が何やら特別な細工を施されているであろうことを知り、清隆は驚きを禁じ得なかった。手に持っている鞄を床に落とし、埃がもうもうと立ち上がる。そんな彼の様子を見て面白がっているのか、床山秀夫は愉快そうな笑みを口元にひらめかせた。

「君は既に、鳴海遥から彼女の特異点について聞かされているはずだ」

 清隆、あの子恋してる。鳴海遥の言葉がよみがえり、彼は反射的に頷いた。

 思えば、定められた計算によって成り立っている機械人形の人工意識において、恋などという不確定なものを扱うことは不可能なはずだ。そもそも恋愛は思春期における愛情の前段階としての役割を持っているし、機械人形の三命題の第一条による愛情を既に獲得している涼子にとって、そんなものは体験するまでもなく素通りしてきたことだろう。生まれた時から恋をさらに発展させた何かをもっている人形が、いまさらそんなものにはまり込むなんてことはありそうでありえない。だが鳴海遥が恋だと結論付けたのは確かなことで、その狭間で悶々と悩んでいる清隆へと、床山秀夫が助け舟を出した。

「君はなんでも一人で考えようとする癖があったな。大学時代もそうだった。私が講義のはじめに言ったことを覚えているかね?」

「ええ。機械人形は人間に恋をしている、そして恋愛は両想いでなければ大団円を迎えることはない、と」

「うん。君の知っている彼女を含め、人形はみな、三命題という確固たる動機を持っている。それは望ましいことのように聞こえるが、実は、彼女たちにとってはそうではないんだ」

「何故ですか? 機械心理学において、動機を定めることで機械人形が人間を傷つける事を防止し、社会の中に彼女らが生きていく環境を整えることができたはずですが」

「人間からしてみればな。だが考えてもみたまえ。君が考える、感じる、そして行動することの全ての動機が、他の何者かによって仕組まれたものだということを」

 絶句する清隆を無視して、床山はテーブルの上に置いてある飲みかけのペットボトルを手に取り、蓋を緩めはしたものの、口を付ける事はなくそのまま元の位置に戻した。

「自分が自分でない感覚。精神にしろ肉体にしろ、人間にとって、ここまでが自分で、ここから先は他人だという境界の意識を持つことは極めて重要なんだ。我々は皮膚、そこから得られる痛覚などを元にして、脳で情報を高度に処理してそのような実感を得ている。他人が手を握って、肌と肌が直に触れておらずとも、境界線はしっかりと無意識のうちに感じられている。しかし機械人形はそうではない。人形には痛覚などは肩を叩かれたら気付く程度の限定的なものでしかない。故に、自分と他人という境界を意識するには自分の人工意識に頼るしかないんだ。そんな状態で、自分の動機が自分自身のものではないと感じるようになったら――」

「精神衛生上、とてつもない危機を招くことになる。自分の唯一、他人とは違うと言い切れるものが、実は第三者の意志によるものだと気付いてしまえば、自我境界が崩壊して悲惨な結果へとつながる、ということですね」

 床山は寄りかかっていたキッチンシンクから歩きだし、リヴィングから廊下へつながる扉を開いた。鞄を取り直した清隆が後ろに続く。

「そうだ。だから私は、彼女に何か特別なものをと考えた時、恋をできるようにしたんだよ。人間を愛することは第一条からくる仕組まれた動機で、たとえば君個人を特定して愛するようにしたとしても、それは作成者である私の意志が混ざり込んだ偽物にしかならない。しかし、彼女自身の無意識が選んだ誰か特定の個人に恋をすれば、そこから築かれる愛情は、間違いなく彼女自身のものだ。他でもない、機械人形自身が愛情を手に入れる。そのために、私は彼女に恋をさせたかった」

 最後に、と付け加えて、床山秀夫は玄関のドアの前で立ち止まった。清隆は土足のまま玄関へと降り立ち、疲れ切った誰かを振り返る。

「私は彼女に対して責任を果たせなかった。君はそうならないことを切に願うよ、秋津君。人類全体なんてどうでもいい。まずは、彼女の全てに責任を果たせ」

「もちろんです。お世話になりました、床山教授」

「気にするな。今度、鳴海君と二人で遊びにおいで。いつでも歓迎するよ」

「はい。それでは」

 ドアノブに手をかけ、眩しい世界へと踏み出した。



  *



「起きましたか?」

 朝の陽射しに目を覚ます。真っ直ぐで暖かな光が網膜を焼き、ぼんやりとした視界が開けた。目の前に広がるのがどこか病院の天井らしいと判断するまでに少し時間がかかる。重すぎる瞼に、自分はいったいどうしたのかと腕を持ち上げようとすると、左腕がずきりと痛んだ。

「動かないで。左腕は折れています。肋骨なんかもいくつかヒビが入ったそうですけど、命に別条はないそうです」

 首を傾けるとそこには美しい長髪を携えた、清楚な機械人形が一体、座っていた。涼子だった。首には赤いチョーカーが巻かれ、細く白い指が左腕の包帯に微かに触れている。動く右腕で目を擦ると、目やにでべたついているのがわかった。彼女は身を乗り出して、いつの間にか手に握っていたハンカチを使って器用に彼の目を拭う。

「ここは――」

 乾燥しきった喉にむせると、口の端から水差しが差し込まれた。少しだけ呑み込んで唇を舐めると、ようやく何かを話せるくらいにまで意識がはっきりとしてきた。

「ここは、どこだ?」

「新宿にある大学病院です。あの事故現場から最も近い病院がここでしたので、そのまま入院になりました」

 あの日、事故現場から救急車に乗せられた清隆に便乗した涼子は、意識の無い彼の手を握りしめたまま離さず、ずっと語り掛けていたのだという。頭を打ち、骨を折り、大量に失血して気を失った清隆は、そのまま大学病院で治療を受けた。脳の後遺症が心配される以外には目立った傷も残らず、左腕の骨も治療可能な範囲で、あとは目を覚ますのを待つばかりだと伝えられた彼女は、いちど家に戻って着替えた後、充電ケーブルと入院の手続きに必要な諸々を持参して再び病院へ戻った。看護師たちと様々な相談をした後も、決して彼の傍を離れようとはせず、今は三日目の朝を迎えた所なのだという。

 彼女に経緯を聞かされている内に、これまでの記憶が全て蘇ってきた。医者の心配に反して、どうやら後遺症も無いようだ。涼子がベッドのリクライニング機能を使って清隆の頭を少し持ち上げると、すぐそばでずっと座っている彼女の腹からケーブルが垂れているのが目に入る。どうやら充電途中だったらしい。眠る事もせずに自分のことを見守っていてくれたのか。

「そういえば、君はどうなったんだ。もう落ち着いた?」

「私は、もう大丈夫です。昨日、六道警部補から脅迫した男を捕まえたと連絡がありました。杤原所長と冴子様は、いちどその報告ついでにお見舞いに来られましたよ」

「そうか……よかった」

 心の底から安堵する。清隆は脱力して、ベッドへと深々と身を沈めた。そんな彼を見つめながら、涼子は複雑な表情で窓の外へと視線を移した。




 一週間後、退院することになった。それまでに六道清二、田邊敦彦、杤原惣介や前島冴子までもが見舞いに訪れ、誰もかれもがあの事件のことについての感想を口にし、もう無理はするなと念を押して帰っていった。いちばん驚いたのは松田正一から花が届いたことだった。それと差し入れの果物類。とても食べきれない量だったものだから、涼子に頼んで事務所へと持っていってもらった。それでも、毎食後にリンゴやブドウを食べることになったが。

 慌ただしい日々の中で涼子は毎日、見舞いに訪れてはいたが、家のこともあるからとそそくさと帰っていくことが多かった。特にあの夜の出来事に関して、記憶の混乱もなくはっきりと思い出せている清隆だけを置き去りにし、距離を置いているような印象だった。気がかりといえばそれが気がかりで、もう彼女が自殺する心配はないものの、そのよそよそしさが彼を落ち着かなくさせた。

 ふと時計を見れば午前九時五十分。身内、および所有する機械人形の来院は十時からで、清隆の退院のためにやってきた涼子もそろそろ玄関で待っている時間だ。既に手続きや荷物のまとめは済ませてあるから、あとは着替えて部屋を出るだけになる。サイドボードに丁寧な畳み方で置いてあるシャツとズボンに手を伸ばした時、ドアがノックされて慌ててひっこめた。

「どうぞ」

 ドアが開き、閉じる。向こう側からカーテンを押しのけて入ってきたのは鳴海遥だった。そういえば彼女だけがこの一週間で顔を見なかったと思い直し、この退院間際でも顔を見せに来る彼女の律儀さに笑ってしまう。

「なんだ、もっと死にそうな顔してるかと思ったら。意外に元気じゃない」

「君もね。なに、お見舞いに来てくれたの? 生憎と今から退院なんだ」

「知ってる。まあ、とりあえず退院おめでとう。一時はどうなる事かと思ったけど」

 彼女は手ぶらで、いつものスーツ姿ではなく、黒いスカートに朱色のセーター、その上からさらに黒い上着を羽織った飾り気のない姿だった。気楽な足取りでベッドの隣までパイプ椅子を引きずってくると、清隆は体を起こしてベッドの端に腰掛ける。また深夜まで研究をしていて寝不足だったのか、鳴海遥は欠伸をかみ殺しながら、鞄の中からペットボトルを取り出すと緑茶を一口飲む。

「涼子、下で待ってたわよ。まだ時間じゃないからって。そういうところが律儀よね、彼女」

「君はどうして入れたんだ? 人間も機械人形も、平日は十時から面会だろ」

「どうせあと十分だからって、ごり押して入れてもらったの」

 ありそうなことだ。変に納得させられている清隆にかまわず、何でもないような口調で彼女がいう。

「ねえ清隆、私に何か言うことはない?」

 唐突な言葉に、彼は少し迷った後、口を開いた。

「ありがとう、遥。君が涼子の診断をしてくれなかったら、きっとここまで上手くはやれなかったと思う」

 彼女は落胆したようだ。溜息をつき、泣いてしまいそうに顔をくしゃりとゆがめる。だがすぐに元の顔に戻ると、薄い口紅を塗った唇を前歯で噛んだ。

「違うわ、そうじゃない。涼子のことは、私もなんとかしてあげたかったからチャラよ。ああ、もう! 言いたいことなんてわかってるでしょう」

 腹をくくるべきか。清隆は男らしく覚悟を決めた。

「君が、僕を好きなこと?」

「そう。私、あなたが好きだわ。愛してる。そのことについて、あなたの答えが聞きたい」

 なるほど、今日彼女がここに来たのはそのためか。頷きながら、清隆は思う。涼子だけではない。人は、生活の上で交わるどんな他人に対しても責任を負っている。これは、鳴海遥が秋津清隆にその義務を果たさせに来たのだ。たしかにうやむやにすべき問題ではない。ここで彼が答えを口にしなければ、彼女は前に進む事ができないのだから。

 今日はよく晴れている。開いた窓から冷たい風が室内に躍り込み、鳴海遥のショートカットをかきまわした。その首にチョーカーは無い。彼女は機械ではなく、人間だ。涼子よりも、彼女を選んだ方が幸せになれるかもしれない。

 だが、幸せは大きさで語る事は不可能だ。どれほど大きな幸福であっても、何物にも勝る輝きが世界にはある。幸福がその大きさ、性質について一様に定義し得るものならば、人間は生きる意味など求めて苦しんだりはしない。自分は、ついこの間、それを一体の機械人形から教わったのだ。

「遥、僕も君を好きだと思う。だけど、君の愛には答えられない。僕は、涼子を愛しているから」

 はっきりと、目を見て伝えると、しばし無言のまま見つめ合った挙句に鳴海遥は表情を緩めた。立ち上がって、親友であり愛する人でもあって彼の肩を叩く。

「わかったわ。こうなることはわかってた、というのは負け惜しみにしかならないけれど」

「卑下することはないよ。僕が出会った人間の中で、君はいちばんだ」

「アハハ、ありがと。また飲みに行きましょう。今度はそっちの奢りね。約束、覚えてるでしょう?」

「もちろんだ。それと、遥。本当に世話になった。感謝してる」

「どういたしまして。それじゃ、着替えもあるみたいだし、私は帰るわね。涼子によろしく」

 ひらひらと手を振って、どこかさっぱりとした表情で鳴海遥は病室を後にした。彼女は、これからも良き友人であり続けるだろう。罪悪感は少しだけ、感謝の念とひとつの区切りを付けた達成感が、彼の胸を満たした。




 急いで着替え、ボストンバッグを肩から下げて一階へと降りる。手続きは入口での署名で済んだ。そのまま人で溢れている正面玄関ではなく人気のない裏口へと案内され、病院の脇から外に出た。平日でも多くの人々が来院する大学病院は大きく、救急搬送、入退院用の入り口が別に設けられている。少しでも人の流れを妨げないように工夫がなされているのがありがたかった。

 入口はそのまま通りへと続き、冬の木枯らしが服の隙間から入り込んでくる。道の両脇に立っている木々は葉を散らし、色づいた枯葉が枝に幾枚か残っているだけ。アスファルトはからからに乾いて真っ白になり、少し路地に入り込んだこの道を通る車の姿も今は無い。ただひとつの人影を除いて、何も目に留まる様なものは無かった。

 今日は紺色のジャケットに同じ色のロングスカート。着ているのはいつも通りの白いシャツだ。今時にしては珍しい長い人工毛髪が冬の陽射しに艶めかしいきらめきを放ち、美しい顔の上にある大きなガラスの瞳が清隆を捉える。微笑みかけながら、彼女が寄りかかっている銀杏の木の下まで歩いていく。左腕は吊ったままだ。

「退院、おめでとうございます」

 涼子は律儀にお辞儀をする。それから、清隆が右肩に下げているボストンバッグを厳かに取り、自分の肩にかけた。彼の返事も待たずに、半歩進んで歩きだす彼女の細い背中を、清隆は指でつつく。

「なんでしょうか?」

 ぎこちなく振り返る彼女を、清隆は動く右手で抱きしめた。突然のことに、涼子が体を震わせるのが感じられる。目を閉じて、右手で彼女の髪の中に手を突っ込んで撫でる。

「涼子、何が言いたいのか、言ってごらん」

 少し体を離して、数センチしか差の無い、低い場所にある彼女の瞳を見つめる。その眼は突然のことで驚いてはいるものの、少しだけ恥じ入るような仕草で逸らされた。

「私は、何も言うことはありません」

 頑固に言い張る彼女が無理をしていることは見るからに明らかだった。第一条の動機制御に抗うほど、彼女は何を隠そうとしているのだろう。

「嘘だな。どうして僕を避けるんだ? もう君を悩ませることなんてないだろ」

 それでも俯いて何も言おうとしない。清隆は辛抱強く待った。彼女が黙る時は、自分の中で言っていいことかどうかを判断している時だ。そして、そういった場合はたいてい口を開く。

「清隆、申し上げにくいのですが」

 ようやく言葉を絞り出して彼女はおずおずといった。上目使いで、顔も合わせられないらしい。

「怒らないよ。言ってくれ」

「はい。私は、機械人形です。やはり、ハルカ様のように人間ご一緒になられたほうが……」

 それきり口を噤んでしまった彼女を、清隆はぽかんと見つめた後、笑い飛ばした。とつぜん破顔している自らの主人に呆気にとられて、涼子は目を丸くしている。もしかしたら怒っているのかもしれないが、清隆は遠慮なく笑わせてもらった。

「なんだ、そんなことか。まったく、遥も涼子も律儀すぎるよ」

「そんなこと、とはなんですか。その、申し上げにくいのですが、私は機械ですから人間の殿方が望むようなことはできませんし、泣くこともできません」

「そんなこと、だよ。涼子、僕は君を愛してる。君に責任を負うと決めた。君は、いまさらそんな風に言い訳するのか?」

 涼子は憤慨したようだ。少し険しい表情で清隆を睨む。

「私は言い訳なんてしていません。心からあなたのことを想っているから心配するのです。あの夜に、それは身に染みてわかりました」

「なら、何も問題はないな。君は泣くことができないけれど、それは悲しい何かを涙で濯ぎ落すんじゃなくて、笑顔で乗り越えていくためにそうするんだ。僕はそんな素晴らしい君を、機械人形として愛してる。君は僕を人間として愛している。それ以外に、僕たちが幸せになる材料なんて必要なのか?」

 息をのんで、涼子はただ目の前の青年を見つめた。

 清隆は、再び涼子を抱きしめる。片腕だけで彼女の細い肩を引き寄せれば、もう一組の腕が彼の体に回された。

 今ならわかる。今なら感じられる。歯車の心臓は人間と変わらず、鼓動を打ち続けている。それが鉄でできているとしても、今この時だけは彼女が自分を愛していると実感できる。確かに、彼女がそこに生きているとわかる。

 そして、自らの愛と相手の愛を確かめるために、彼ら、彼女らは言うのだ。

「愛しています、清隆」

 心の底から振り絞ったその言葉に、清隆はいった。

「僕も愛しているよ。さあ、家に帰ろう」

 はい、と答え、空いた右腕と彼女の左腕が握られる。どこまでも青い空の下、一人と一機で道を征く。

 お互いに必要としていたのは、相手をそのまま受け入れる覚悟だった。それはどこを探しても見つかるはずはなかった。何故なら、自分の内にこそ覚悟とは見つかるものであり、責任はその上に降りかかってくるものだから。

 さあ、まだ歩き始めたばかり。今はこの責任の重ささえも愛おしいと、清隆は晴れやかな気分で空を仰いだ。


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