「未来、ただし君と」
「すまない。君は、機械人形が自殺することが機械人形の三命題にあるであろう欠陥のせいだと考えているのかい?」
「無論です。第三条に違反する行為をしている以上、それ以外に理由は考えられません。論理集積回路の構成そのものにミスがあったのか、それとも後天的なものか。どちらにしろ、第三条に関わるどこかがおかしいということです」
「それは違うな。機械人形には欠陥など無いよ」
「どういうことですか。現に、起こり得ない何かが起こっていることは事実です」
「君は少し勘違いをしているな。確かに機械人形の三命題は第三条で自らの損壊を禁ている。人間で言えば自傷行為、自殺といった事柄が動機の時点から否定されている。動機が封殺されるということはつまり、その行為自体が消滅することを意味する。知識として知ってはいても実行する気など到底起きないということだ。だというのに、機械人形は自ら命を絶つ。これがどういうことか。答えはね、意外と簡単なのだよ。三命題のうち、第三条がその動機を無くすものならば、他の二つの命題が必要に感じてその動機を発生させているんだ。幸いというべきか、第三条は三命題の中では最も序列が低い。具体的な内容が示してあるのは第三条だが、場合によっては無効化されることもありうる」
「ということは、機械人形が自殺するのは第一条、もしくは第二条が働いた結果ということですか。たとえば、自殺しろと優先命令を人形に下した場合など、人間による指示があった時に?」
「フム、そういえば君は機械心理学を専攻しているわけではなかったな。機械心理学の分野で機械人形の三命題を動機としてはいるもののうち、じゅうぶんに想定されうる特異なケースにはそれぞれに制限をかけている。たとえば、君のいう機械人形に人間から死ぬように命令が出された場合、もし所有者以外の人間に命令された場合は所有者権限で無効化し、所有者からの優先命令として下された場合には廃棄場での正式な手続きを踏んだ死を勧告する。自らを破壊することはない」
「人間が優先命令で死ぬことを強要した場合にも、機械人形は自殺することはないと。今の質問でますます疑問は深まりました。だとすれば、どうして機械人形は自殺するのですか。その動機が起きないのなら、目の前を走る電車に飛び込んだり、高所から飛び降りたりはしないでしょう」
「君は目の前で起こっている現実と頭の中の理論、どちらを優先するのかね? もし後者ならばそれは理屈倒れとそしられても仕方がないぞ」
「それは……確かにそうですが。にわかには信じがたい事実も世の中にはいくつもあります」
「信じるという行為は全てが主観で構成される。客観が含まれない認識はエゴでしかない。まずは目の前の事実を受け入れることが第一歩だ。機械人形の自殺も同じことだよ。その結果に行きつく方法は必ずある」
「僕には想像もつきません。人形から命を奪おうなど、考えたこともありませんでしたから」
「もっともだな。君は本当に優しい人間だ。鳴海君が褒めるのもうなずける。その姿勢や在り方はとても立派だよ」
既に夕日が鋭く傾いている。部屋の中の陰影はいっそう濃さを増し、部屋の中を四方八方に定規で引いたような境界線を描いている。幾何学的な風景は美しく、まるで社会の中できっちりと住み分けされた人々を風刺しているように見えた。暗い黒色の部分は不幸な人、明るい緋色の部分は幸せな人。いや、明るい部分が人間で、暗い部分が人形なのか。もしくはその逆なのか。どちらにしろ、自分がそれを決める権利は無いと清隆は思った。床山秀夫のいう自分の優しさとは、つまりそういうところなのだろうか。床山は西日に目を細めて立ち上がり、窓の薄いカーテンを滑らせて光を遮った。
「僕自身は、自分のことをそんなにできた人間だなんて思っていません」
「主観と客観の相違だな。まあなんにしても、だ。機械人形は自殺する。それはいいとして、何故、どうして自殺するのかということだが。結論から言うと、彼らはある種の脅迫を受けているんだ」
「脅迫? そんな、誰かを人質に取られたわけでも――」
まさか。ある可能性に、清隆は気づく。むしろなぜ今まで考える事すらなかったのか。
機械人形が自らの命題すらも捻じ曲げてさえ優先させること。それはただひとつしかない。
「人間ですか。人間を脅迫の種にされて、機械人形は自殺を強いられている」
これ以上に恐ろしさを伴う納得がこの世にあるだろうか。人間は自らと同水準の意識を持っている何かを、ただ言葉で死に追いやる事ができるのだ。それは既に事故ではない。殺害だ。自ら手を下すことなく、最小限の労力で機械人形を苦しみ抜かせ、想像を絶する絶望の果てに破壊する。シンプルで、これ以上ないというくらいに効果的な手法。
機械人形にとって何よりも優先すべき何かは人間でしかありえない。ならば機械人形を通じて人間を脅せばいい。お前が死ななければ、お前の主人が死ぬぞとでも一言二言、耳元で吹き込んでおけば、人間と違って脅迫してくる人間を害することもできずに自分がどう行動すればいいかを判断できずに苦しみ続けるだろう。警察に通報したり他の誰かに助けを求めた場合にも所有者に害が及ぶ可能性があるとなれば、よほどの強い意志を持つ個体でもない限りは少しでも人間が傷付く可能性と自分の存在を秤にかけ、当然のように前者へ傾ける。それこそが機械人形の意味であり、価値だからだ。そうあるべきだと人間が考え、自らを犠牲にすることが誰にとっても幸せなのだと、自分自身を度外視した価値観で自殺を決意する。
悔しさのあまり、噛み締めていた唇に血の味が滲む。そうした潔白さ、誠実さこそが機械人形の本質であり、濁りの無いその姿こそが機械人形の機械という一事を補って余りある人間以上の魅力だと、ともすればこの世界で唯一、心の底から美しいと思える何かなのだと彼は感じていた。それがどうだろう。一方ではその美徳が人形の首を絞める縄として使われている。たかが人間の恨み辛みがために、何体もの機械人形が恐ろしいほどの矛盾を抱えたまま、あらゆる方法で死んでいった。
ある機械人形は、自らが人形でなくなれば問題ではなくなるのではないか、と首のチョーカーを外すように主人へと頼んだ。
ある機械人形は、目の前の電車に飛び込んだらすべてが解決するのだと唐突に思いつき、そのまま苦しみから解放された。
ある機械人形は、自らの敬愛する主人がいちばん好きな場所に車椅子を押していったあと、もう何もすべきことはないと高所から身を投げた。
彼ら、彼女らに自殺を決意させ、その動機を発生させたのは、皮肉にも愛情へとつながる第一条だった。最も強い拘束力を持つが故に、いちど発動すれば止まる事はない。さらに脅迫相手が主人に危害を与える事を阻止しようとしても、緊急性のない脅迫を受けた時点では殴り倒すこともできず、ただ途方に暮れるしかなかっただろう。
「人間はいつもそうだ。いつも、恨みや憎しみで他の何かを傷つける。たとえそれが報復だとしても、罪を赦す何物にもなりはしないというのに。いつになったらその勘違いに気付くんだろう」
両の拳を握りしめ、清隆は強く目をつぶった。震える肩は怒りか哀しみか、あるいはその両方の感情の波が押し寄せているのを必死に押しとどめているのか。床山秀夫は彼の姿を見つめ、もしかしたら彼には人形を自殺させる方法を教えるべきではなかったのかもしれないと微かに胸を痛めたが、しかし必要なことだったのだと自分に言い聞かせた。
「人間が機械人形の上に立っているのは創造主として当然の権利です。しかし権利ばかりに目を取られて、人間は人形に対して果たさねばならない義務を放棄している。世の中には神様がいい加減な奴だと非難する人もたくさんいるけど、僕はそうは思わない。神様が人の犯した罪の全てを赦すのは、自分が創った人間という創造物の行いにまで自分が責任を取るという究極の創造倫理観だと、僕は思います。かえって、人間は鉛筆ひとつにだって自分たちの責任を認識しているかあやしいものだ」
ひどく寂しさの翳りのある面差しで、床山は目の前の若者を見つめる。人間とはかくあるべきだという理想の姿がそこにあった。
「それが答えだよ、秋津清隆。人間とは愚かな生き物だ。だが失望してはいけない。人間は愚考し、愚行を重ね、社会が限りない数の過ちを淡々と積み上げるだけのシステムになり果てようとも、人間の手が創るものは美しい。機械人形は別格だ。あれほど美しい何かを今まで人類が生み出したことがあっただろうか。よもやあれらを生み出すためにこそ人間は生まれてきたのかもしれないとさえ思うほどにね」
それから、床山は夜の帳が空の半ばを覆う様子を細くカーテンの隙間に覗いた窓越しに眺めながら、告解のように話し始めた。なんとか気分を落ち着け、彼の沈黙に気が付いていた清隆は、その茫然自失とした独白を黙ったまま聞いていた。
「実を言うとね、その方法を考えたのは私なんだ。当時の私はまだ機械心理学者の卵でね、まだ専攻し始めてから二年しか経っていない若造だったんだ」
染み入るような衝撃は、遠くで啼く烏の声に掻き消された。
「ある日、友人の一人が訪ねてきた。突然のことだったが、機械人形を殺すにはどうすればいいか、と彼は聞いてきた。どうしても見返してやりたい奴がいて、相手を殴るかわりに人形を殺したいのだという。を三命題があるとはいえ、実際に暴行などの被害に遭えば機械人形は自衛する。彼ら、彼女らを壊すには相当な労力を費やす大仕事だ。人間みたいに殴って終わり、というわけにはいかない。その機械人形を殺す方法はないかとその友人が言って、私は事情を聞きながら、友人が怒る相手に同じ憤りを覚え、このシンプルな方法を考え出した。今でも夢に見るよ。ありがとうと言って去っていった友人と別れた次の日に、我が家の女性型機械人形が屋根の上から飛び降りて死んだ光景。彼が恨んでいたのは他の誰でもなく私だった。彼は私が、彼女を愛していることを知っていたんだ」
床山は服の胸元から鎖でネックレスとされたひとつの歯車を取り出すと、愛おしげに指で撫でた。それがなんであるかは、聞くまでも無かった。
「それ以来、僕は何度か機械人形の製作に口を出したりするまでには成功をおさめた。今では大学で機械心理学を教えているが、十年以上前から、機械人形を創るのはもうやめようと誓った」
清隆は、何も言う事ができなかった。窓の外から転じて、真っ直ぐに、力強く自分を見つめる男の視線を真っ向から受け止め、後悔と贖罪に満ちた瞳を見据える。自らの行為から産まれた怨嗟により愛する何かを失った男。自分も他人ごとではない場所に立っているのだと彼は思った。
「秋津君、君は彼女を愛するべきだ。たとえ社会からのつまはじきにされようとも、人間ではない何かに変わり果てようとも、君は彼女を愛し続けるべきなんだ。創ったものを愛する、それが人類の責任だと君は言った。それは間違ってないよ」
ようやく手に入れた答えに、清隆は頷き返した。彼女は、自分を人間扱いするなといった。それは正しかった。だから、自分は彼女をどう扱えばいいのか、それを決めあぐねていた。
今なら彼女を愛せる。その確信が彼の胸の中に小さく固まって、じんわりと染み出すような温かみを帯びた。
長野で一泊してから翌日に東京へ戻ると、そのまま事務所へ向かって報告書を書いた。その最中に事務所長である杤原惣介から昨日の松田正一、田邊敦彦、六道清二との会談で話し合った出来事を清隆に伝えてきた。突然の話に面喰いはしたものの、淡々と頷く彼に向けて、杤原はさりげなく心配の言葉をかけた。
「君しかいないと思ったんだ。迷惑だったなら代役を立てることもできる。君が矢面に立つ必要はないが、どうするね?」
「いえ、やらせてください。僕自身にとっても今回の事件は大きな意味がありますし、むしろ自分の口で副大臣を説得できるなら本望です」
杤原は顔をしかめた。その仕草には不快感を煽る様なものは一切なく、ただ単純に、まるで死にに行くような彼の台詞が嫌な予感を駆り立てたからである。
「家には帰るのか?」
「いえ、少し自分の気持ちも整理しておきたいですがこのまま行きます。それよりも所長、機械人形が自殺するメカニズムがわかりました」
「本当か!?」
「ええ。ですが明日からで。報告書にも記載しておきましたので、よろしければ目を通してください」
「わかった。まずは決着をつける、ということだな」
「そうです。いずれにしてもこれは人間が避けては通れない命題です。誰かが答えを出す必要があります。それが僕なのか、それとも所長か松田副大臣か……確かなことは言えません」
「そうだな、取り繕うのはやめよう。私は君が適任だと言ったが、本心は君が答えを出すことを期待している。この社会の中で君にしかできない事だ。誇っていい」
「ですが、少し事務所にご迷惑をかけるかもしれません」
「気にするな、けじめというものは関係者各位が取るべき責任だ。大人は責任を取るのが上手いんだ」
それからしばらくして、二人は前島冴子に見送られて事務所を出た。その後姿を見送りながらわけも分からない寂寥感が胸を満たしていくのを、彼女は自覚せずにはいられなかった。
*
秋の夜にしては冷たすぎる北風が埋立地を吹き抜け、降りしきる雨が窓ガラスを叩く。街灯は無人の道路を淡いオレンジ色に染めて、地面の上に溜まった雨水がほのかな光を反射してきらめく。空を埋め尽くしている分厚い雨雲は忙しなく北へ向かって流れている。今日は夜通しの雨となりそうだ。こんな嵐の日に涼子を一人で家に残して大丈夫だろうかと思うが、彼女のためにも松田正一を説き伏せる必要がある。清隆は毅然と前を向いてプレハブ小屋の階段を上った。
神経質な電灯の光で照らされた室内へと足を踏み込むと、眼鏡をかけた初老の男がプレハブ小屋の二階で待ち受けていた。松田正一だ。今日は机上には何も置かれず、彼だけが部屋の上座に座している。既に六道清二は退屈そうに欠伸をかみ殺しながら向かって右側の席について、杤原惣介と秋津清隆の両名を待っていた。いくつか増えているパイプ椅子は下座を囲む様に三つ並んでおり、杤原は松田正一へ向かって軽く会釈すると、返事も待たずにそのまま彼に向かって左側の椅子へと腰を下ろした。
先日と同じように電気自動車で二人を連れてきた田邊敦彦が後ろ手に扉を閉じた時、眼鏡の奥で鋭利な輝きを放つ松田の瞳が秋津清隆を捉える。見る限りでは嘲りや増徴の色はなかった。彼は既に、一回り以上も年下の青年を自らの施した強固な理論武装を打ち破る最大の脅威であるとみなしている。杤原からやり取りを聞いた限りでは、彼はどうも杤原惣介を買っているらしい。恐ろしい男の認めた隠し玉、とでも思われているのかもしれない。それが正しい評価なのかどうかも判別がつかないまま、清隆は深々と一礼した。
「松田副大臣、こちらが私の事務所に勤務している秋津清隆です。今日は彼とお話しいただきたい」
杤原の言葉に両腕を組んだまま、彼は礼を終えて立っている青年を見据えた。
実のところ、想定以下の人間が来たと彼は感じていた。彼が想像していたのは機械心理学者。そのうちの誰か、著名な人間を杤原惣介は連れてくるだろうと思っていた。事情を説明すれば物好きの多い機械心理学者はこぞってこの場に駆けつけるだろうし、その場合は事の顛末が世間の目に触れないためにどう処理すればいいかを田邊敦彦と話し合ったりもした。もしそうなった場合は手荒なことも覚悟せねばなるまいと腹を括ってこの場に列席した彼だったが、予想外に若く、しかも探偵事務所に勤務しているとはいえただの事務職員をここに連れてくきた杤原惣介の正気を疑う思いだった。慌てて、彼の紹介する人間なのだから何かしらの特別性を備えた人物であるには違いないと落胆する自身を叱咤する。人は見かけによらぬものだし、何事に足をすくわれるかは自分では決められない。仮に平凡な青年にすぎなかったとしても、自分にとっては有利なことではないか。慎重な姿勢を取る彼も、秋津清隆の登場には気を緩めずにはいられない。自分は何十年生きてきたと思っているのだ。こんな小僧との論争は年の功でなんとかなる、と己の政治人生を自負して止まない松田正一は、秋津清隆の顔から視線を動かすことなく頷き返した。
「わかった。秋津君、既に話には聞いていると思うが、私は厚生労働副大臣を務めている松田正一という者だ」
「存じております。改めまして、自分は秋津清隆。杤原探偵事務所の職員です。僭越ながら、本日は副大臣のお相手を務めさせていただきます」
最初から対決姿勢をとっている秋津清隆へ剣呑な一瞥を投げるも、松田は席を勧めた。彼の真正面に座れば、秋津清隆の右手には六道清二の不思議そうな顔、左手には杤原惣介の無表情、そして正面に松田正一の仏頂面が見える。背後には田邊敦彦の気配も感じる。いまさら後戻りはできないし、するつもりもなかった。秋津清隆はこの会談がどんな意味を持つのかを改めて考え、相手方から話を切り出してくるのを待った。
「それで、君は私となにを話そうを言うんだ?」
老人の威厳に満ちたしゃがれ声に、青年は物怖じもせずに答えた。
「はい。松田副大臣、今すぐに機械人形の自殺を防ぐための手段を取ってください。そして機械人形を自殺させる手段を悪用しようとする人間の取り締まりを、行政で行っていただけますか」
弾ける様に、彼は大笑した。言葉通りに秋津清隆の要求を一笑に付すと、かえって無表情のまま彼を睨み付けた。窓を打ち付ける雨の音がひときわ強くなる。
「いまさら私が意思を翻すと思っているのかね? いささか失望したな。そんな要求を私が受け入れるとでも?」
「何か問題がおありですか?」
言うまでもないとばかりに、松田は手を顔の前で振った。
「簡単なことだ。機械人形は社会の存在する限りその版図を広げていくだろう。今はまだ労働階級に多く採用され、家庭用としても数万体以上が人間の生活を助けるために所有されている。今はちょうど、機械人形が完全に人類社会に馴染むまでの中間期なのだ。現段階で既に機械人形は大量失業を招き、社会構造において人間の生活の場を多く奪っている。そもそも、人間社会で機械が意志を持って人間の真似事をすること自体が不可能だったのだ。機械が人の居場所を奪うなど、あってはならない」
「だからこそ、機械人形を排斥することは正しいとお考えなわけだ」
「そうだ。杤原君から聞いているとは思うが、機械人形が自殺し得るという事実を世間に周知させる。それも、上から頭ごなしに喧伝して回るのではなく、あくまで底のほうからじっくりと認知させていくことが、確実で効果的だ。機械人形の排斥は短期的ではなく長期的なものとなりうる。そのために人形による自殺を多く引き起こさせた。今回のような失敗は、少なくともこの国では繰り返さないように人々の意識の中に人形への不信感を根付かせることを目的としている」
「あなたは大義名分の旗の下、政治家であるご自身の信念に沿ってに行動している。杤原所長から聞いた限りだと、機械人形のことを失敗と評したそうですね。人間の科学が産み落とした失敗だと」
「人間の役に立つために生まれてきた機械が創造主を追いやっている。これを失敗と言わずになんというのかね? 本末転倒で済ませるにはいささか問題が肥大しすぎているように思える」
「そうですね、そういった観点からだったら失敗といえるのかもしれません。でも僕は機械人形が失敗だとは思わない。あなたと話したいのはそういうことです」
松田正一はたじろいだ。杤原惣介を勢いよく振り返る。目に見えて憤激している彼の視線を、杤原は悠々と受け止めた。
「杤原君、彼は機械人形偏愛者なのか」
杤原惣介は鼻で笑うことも肩を竦めることもせず、パイプ椅子の上でわずかに居住まいを正した。先日から座りっぱなしの尻が痛い。
「どうでしょうね、副大臣閣下。あなたはそのあたりから彼を見誤っている、ということを自分の口から申し上げておきましょう」
松田正一は憤慨した。機械人形の社会における是非を問う、そうした話し合いで機械人形偏愛症に罹患している人間が相手となれば、もはや議論とはなり得ないでないか。機械人形を人間として見ることは理解して弁護することとわけが違う。人形の存在自体を無視して自分にとって都合のいい偶像として仕立てあげているからこそ人間として彼らを認識し得るのであって、こうした議論の場におけるそのような極めて自己中心的価値観は破綻をもたらす。感情論は論理的思考を鈍らせる。そうなれば冷静で理性的な話し合いは到底不可能だ。
見損なった、と松田正一は首を振った。侮辱された後味の悪さが彼の胸中に残る。意味のないものならば何も言うことはないとばかりに席を立ちかけた彼を再び椅子に戻させたのは、秋津清隆自身の一言だった。
「その点に関しては大丈夫です。僕はある機械心理学者より、機械人形偏愛症ではないという診断を受けているので」
困惑した表情で松田はあらぬ方向を見やり、腰を浮かせたまま唸った。今度は何を言い出すのか。でっちあげに決まっている。
「その診断はいつだ?」
「昨日です」
目を瞬かせてから、彼は長い溜息をついて椅子に腰を下ろした。
自分が相手をしているこの青年は、いったい何者なのだろう? 杤原惣介が連れてきたから特別な男かと思いきや、やはりただの青年、いや、機械を人間とみなしている輩だとは。およそ社会常識に照らし合わせてもまともな人間とはいえない。その機械心理学者の診断というのも、どこの馬の骨とも知らぬ人物だ、信憑性など無いに等しい。こんなことは時間の無駄でしかない。
呆れたと言わんばかりに俯いている松田正一へ、清隆は語り掛けた。
「松田副大臣、あなたにとって機械人形はどんなものですか? 人間? それとも機械?」
「決まっている。人形なんだ、機械だろう」
即答する彼に向かって、清隆は頷いた。
「簡潔で完璧な答えですね。しかし、断じて機械人形は機械ではありません」
驚いて顔を上げる松田へ向け、なおも清隆はいった。
「機械人形は既に、ただの機械ではないとみるべきです。いうなれば、機械と人間の狭間に位置している中間的存在とでもいいましょうか」
「馬鹿なことをいうな。機械人形は間違いなく人類の科学の申し子だ。そして、少なくとも生物学的な生命とはいえない。骨は金属、思考回路も演算装置と論理集積回路で成り立っている。これを機械と呼ばずなんというんだ」
「お言葉ですが、それは人間の体が生物学的に霊長類と分類されるから人間も動物である、という考え方となんら変わりありません。それは正しい認識ですが、同時にわれわれ人間は動物の中でも特別な位置付けとして、人間自身を認知しています。だというのに、機械の中でも疑似的とはいえ意識を持っている機械人形を機械の中の人間として見ようとしないのは何故ですか?」
杤原惣介の知る限り、今までどんな言葉にも流れる様に反論を紡ぎだしていた松田正一が初めて無言のまま言葉を受け止めていた。六道清二も、彼の考えとはまた違った機械人形に対する見解を提示している青年を驚きの表情で見つめている。田邊敦彦でさえ、会話の中にはいないものの秋津清隆の認識自体に大きな感銘を受けているようだった。
これこそが杤原の狙っていたことだった。自分の打算が正しかったことに満足感を覚えて、杤原は誰にも気づかれないようにため息をつく。考えてみれば、自分の職場に機械人形を連れてくる人間自体が稀有な存在だったのだ。秋津清隆は元から少しずれた機械観を持っている青年だ。いや、機械すべてというよりも、機械人形を機械の延長として認識する常識と違い、彼は機械と機械人形のうちに大きな隔たりを設けている。彼にとっての機械人形は機械ではなく、もちろん人間でもない。その狭間で、ある一体の機械人形を巡って揺れる自分の立ち位置を見つける事ができずに苦しんだ彼が、床山秀夫の下で導き出したであろうその答え。経済単位でしか機械人形を見る事の出来ない松田正一の理論を打ち砕けるのは、彼しかいなかった。
「人間と機械人形は決定的に違います」
黙ったままの松田正一へ向けて、彼はつづけた。
「人間は進化というほとんど奇跡みたいなもので説明される自然の摂理の結果として生まれた生き物です。かえって、機械人形は人間が築き上げてきた科学から産まれた、進化論や他の生物論よりも幾分か計算と理論の上に成り立っている機械です。意識を持つもの、人として振る舞うものという観点で見れば人間も人形も変わらない」
「君が……君が機械人形偏愛者ではないことはよくわかった。口振りから察するに、君自身は機械人形を機械ではなく人間でもない何かとして、しっかり自分の中で捉えているようだ。だが言わせてもらうならば、機械人形が機械という一言では表現しがたい一面を持っているという君の指摘について、私は認識しているつもりだ。だからこそ、機械人形は社会の中で今までの機械では想像すらできなかった影響を及ぼしている。人間の仕事だけではなく、生活の場を奪っているんだ。それでもこの社会は人間主体のもので、我々は人間である以上、人を選ばなければならない」
「ですが、人間が機械人形を対等の存在として見るのならば話は違ってくる」
「君は、機械人形を人間と同等の何かだというのか。君の言った通り彼らは機械だ、道具でしかないだろう。人間の作った人形だ。その意識ですらもプログラムで動いている。論理集積回路を含めたハードとソフトで。それは機械心理学が証明していることだ」
「仮に、人間と全く同じ反応、生活、言葉を話すアンドロイドが一体、いるとします。今の機械心理学でいえば、機械人形の最終到達点はそこでしょう。機械人形の三命題が適用されているかどうかは別問題として、です。機械人形の究極が人間であるのならば、僕らがその人型を前にした時、人間であると判断するのか機械人形であると判断するのか」
「それは……私は、機械人形だと判断する。作られたものである以上はそう認識せざるを得ない」
「しかし実際に人間と何ら変わらない何かが生み出され、生活するとなった時、誰が彼、あるいは彼女を機械だと叫ぶことができますか?」
無言のまま、松田正一は唇をかみしめている。返す言葉は、同時に清隆の主張も裏付けてしまうことを、彼自身がもっとも理解していた。
「人間と変わらないのならば作られたものであっても、人間です。機械人形は外見上、人間と何ら変わらない存在だ。その意識が、骨格が、プログラムや金属でできたものだとしても、機械人形は人間と変わらない生活を送っている。それこそが問題であるとあなたは仰るのかもしれないが、これに限っては機械人形に責任はありません。創造物がどう思うかは別として、創造主は創造物の全てに責任を持つべきです。神が人の罪を全て許すように、人間は機械人形のすべてを許すべきです」
「それでも、機械人形が社会で問題を引き起こしているのは、事実だ。見過ごす事はできない。現に不幸に見舞われている人々が何万人もいる」
「原因は人間が機械人形を道具としてしか扱っていないからです。機械は道具で、冷徹なものだという機械観が常識となっているため、それは仕方のない事なのかもしれません。あるいは、道具ごときが人間社会にどんな影響を及ぼし得るのだという奢りだった。機械人形を機械といいつつ、人間の代替として社会基盤の中に組み込もうとした人間の認識ちがい。それがすべての原因です。彼女らを排斥することは倫理に反する」
最後に語をそう結んですらもなお、松田正一は毅然と清隆と相対していたが、不意に体から力を抜くと、とても疲れた顔をして自分の座るパイプ椅子の背もたれに体を預けた。微かな軋みが、雨音で満たされる室内に響く。
「機械人形はただの機械ではない、か。昨日、六道君にも言われたかな」
杤原惣介も六道清二も、はたまた田邊敦彦でさえも、秋津清隆の言葉には深い納得を示していた。今まで社会の中で機械人形が受けてきた扱い、それは人間の召使いという立場。彼の言いたいことは、彼らにも届いていた。当初からは予想していなかった秋津清隆の論は、ここに集った当事者たちをも部外者へと変えるほど非常識的なものだ。彼自身の中で考え抜かれた理論はこれ以上ない剣となって、松田正一の一分の隙も無い理論の鎧を貫いたように思えた。
秋津清隆が松田正一に説いたのは、機械人形が機械人形を作ったのではなく、人間が機械人形を作り、服従させ、自らの生活を助けさせる。それが行き過ぎた挙句、労働組合や反機械主義運動に代表される社会問題を引き起こしてきたという人間の責任転嫁だ。人間の生活を肩代わりできる何かを都合よく使役する生活は確かに未来的で魅力に溢れたものではあるが、人間自身が社会の中で自分達がその基盤を築いていくのだという気概を持ちきれず、人形に頼り切りであったことは否めない。繊細で扱いづらい問題を、技術で補助をするのではなく根本から消し去ろうと目論見た代償であるともいえる。そして、都合がいいからといって取り除いてしまえばいいと考えるほどに、機械人形は普通の道具とは違い過ぎていた。
人間が、人形の人の代わりさえも果たし得るという本質を利点ではなく社会に対する脅威としてみなしていたのならば、昨今に騒がれている問題は多くが生じることなどなかっただろう。それは機械人形が存在したからこそ起きうる問題であるといえるが、同時に人間が未然に防ぐこともできた不覚でもある。機械人形が社会に悪影響を及ぼしているからといって、そこに機械人形の意志はない。結果だけを見て人形を排斥することは横暴だ。
松田正一は秋津清隆という人間の一端を理解できた気がした。機械や人間を問わず、何物をも愛することのできる人間。どちらか一方に立って論じていたのではなく、秋津清隆は人間と人形、双方が最も幸福でいられる道を模索している。今日のこの議論で彼が述べたことは一日二日で醸成されるものではあるまい。彼自身が苦しみ悩んだ末に出した結論であることは、反対の立場となって彼と矛を交えた松田にしかわからない重みを感じさせた。
なんと誠実な男だろう。こんな人間がまだ社会にいたとは。
「秋津清隆。逆に私から問いたい。君にとって、機械人形とはなんだ?」
松田正一の静かな問いに、清隆は夕暮れに染まったリヴィング、椅子に座ったまま寂しく微笑むある機械人形の姿を思い出す。
思えば、些細な問題だったのかもしれない。彼女は人形であることに悩み、自分は人間であることに苦しんだ。それは動かしようのないことで、これからどうにかなるわけでもない。清隆は人間のまま生涯を終え、涼子は人形のまま廃棄場に送られるだろう。そんなことがいったいどれほどの障害となるのだろうか。彼女と子は持てないだろうし、人間として最も重要な義務と責任を放棄しているとそしられても仕方がない。だが、他の誰かでは果たせないものが、自分に果たせるとしたら? 松田正一をこうして説き伏せ、機械人形の自殺を止めることは実は自分にとって二の次だ。恐らく、彼女が傷を負わなければ自分でどうにかしようなどとは夢にも思わなかったに違いない。
だから、清隆は最後に、自分の思いの丈を言葉にして紡ぎだした。
「僕にとって、機械人形は機械人形です。機械か人間か、ではなく、人形か人間か、だと思います。人間は人形に負うべき何かがある。だから僕は、ある一体の機械人形に対して、全てに責任を持つと決めたんです」
しんと静まり返った室内。響いているのは壁と窓を叩く雨音のみ。骨の隙間にしみ込んでくるような寒さを感じながら、誰もが身じろぎひとつせずに空気の中にわだかまっている彼の最後の言葉をかみしめる。人間ではない人型を真剣に愛するという告白。どれだけの影響を各人に残したかわからない。治安維持をつかさどる警察官。人の事情を探って生計を立てる探偵。行政を行う政治家。それぞれに違った感想を抱いたことは間違いなかった。
松田正一はひとつ溜息をつくと、自嘲気味な笑い声を漏らす。窓と屋根を叩く雨音は激しさを増すばかりで、今や外は土砂降りの雨だ。埋立地の地面は巻き上がった砂埃で煙り、街灯が切り取られた空間の雨粒を照らす。室内の照明が妙に濃い影を床に映し、労働組合関係者と偽りの反機械主義者を交えた会談、そして自らの信念を補強することを目的とした話し合いのために設置したこのプレハブも天候の暴力に辟易するかのように、海風に軋んでいる。
「秋津君、君はいくつだね?」
唐突に彼が問うので、清隆は反射的に二十四ですと答えていた。彼は顎をさすりながら、感慨深げに唸る。
「白状すると、君みたいな若造に論破されることは万が一にもありはしないと思っていたよ。どうも私も歳を食ったらしいな。時代が違う、ということか」
しばしの逡巡の末、松田正一はぽつりぽつりと語り始めた。まるで自分の罪を告解しているようだ、と清隆は思った。
「私が機械人形を排斥しようと決意したのは、別段、機械人形が社会に普及し始めたからではなかったし、もちろん私怨のためでもない。当時の厚生労働省の役人の中では、国民が働いても働き切れない人材不足の著しい職種が年々増大している事も知られていて、早急に対策を取らねば福祉産業をはじめとするサービス業、生産業などは瓦解する寸前までいくことが容易に推測できた。農業や水産業、林業もまた同じで、後継者不足に悩まされる毎日を送っていた。どうにかすることができないかと考えていた時だ、機械人形が登場したのは」
海際だからか、強まった風に雨音が高低を繰り返している。室内の全員が、淡々と語り続ける松田正一の突然に老け込んだ横顔を見つめていた。窓の外に何か恐ろしいものが見えたらしく、松田は軽く身震いすると打ちのめされた目で清隆を見つめた。
「君達は知らないだろうが、いちど厚生労働省から各企業に対して、機械人形による労働者の代替は過度に控えるようにとの注意喚起を行ったんだ。当時の内閣もこれを承認したが、意見は真っ二つに割れて不信任案が可決された。日本経済を救う一手を妨害したとして、結果、内閣は解体されたがね。私は下っ端だったからなんとか生き延びた」
少子高齢化から始まる労働者人口の止まらない現象に端を欲する労働者不足は深刻だった。さらに赤字国債の返済すらもままならない状態となりつつある中、機械人形の登場は人手不足に悩まされていた各産業の救世主となった。少々値は張るが給料ではなく電気さえ供給すれば働く機械人形は低迷していた日本経済を救った。かねてよりロボット工学先進国だった日本国内にはいくつかの機械人形製造企業が立ち上がって膨大なシェアを持つようになると、国家経済さえも好調の兆しを見せ始める。しかし、依然として長い不況の影響を強く受け、新しく労働者を採用することすらも困難であった機械人形産業から遠い各企業が導き出した生存への道は、労働者自体を経済活動から切り離すこと、機械人形を採用することによって人件費を浮かせるというものだった。あまりにも魅力的、合理的な理由で続々と解雇されていく労働者の姿を見ていることしかなかった彼は、どれだけ能力があっても「人形の方が安上がりだから」という理由で理不尽に解雇通知を受け取っている人々を不幸に思い、その原因が機械人形にあり、人間主体の社会を守るためにはなんとしても彼らを排斥しなければならないと決意した。
結果として、彼の懸念通りに大量に溢れ出た失業者は労働組合へと雪崩れ込み、全国的な政府批判を叫ぶ集団と化した。その時に、ある人物から教えてもらったある手段を用いて、機械人形を自殺させ、社会の中に人形不信の空気が蔓延するように世論を誘導し始める。その顛末こそがこの連続自殺事件の真相。反機械主義団体が会合に参加したと言うのは、総じて機械人形へ反感を抱いている労働組合員を食いつかせるための餌でしかなかった。今も国際社会の間で機械人形の排斥へ向けた運動を展開している彼らは、今回の一件には何も感知していないはずだと松田は言う。このプレハブ小屋で反機械主義団体の代表者と労働組合の代表者を交えて行った会談では、日本国内の経済を憂えているわけではなく、ただ単に機械人形を排斥する、ただその一時によって古き良き時代を取り戻そうとしているだけだった。
「私は、私が間違っていたなどとは思わない」
憔悴した自分へと言い聞かせるようにつぶやくと、彼は立ち上がって窓に歩み寄り、夜の闇に溶けて消えている埋立地を眺める。身に着けている高給スーツは皺が付き、長く座っていたせいで裾が少しめくれ上がってしまっていた。
「機械人形がただの機械ではない。自分ではわかっていたつもりだが、大事なことを見落としていたものだ。君と話してから、まるで嘘のように罪悪感を感じるようになった。ほんの数時間前の私なら考えもしなかったことだ。この埋立地に機械人形を使ったことは、社会における彼らの立ち位置を象徴したものにしたいと思っていたからでね。その身を挺してまで人間に尽くす、その姿勢をここで示しておきたかった」
項垂れる松田正一の背中に秋津清隆はいった。
「でも、それでも、この埋立地に眠っている人形たちは、あなたのことを恨んでなどいませんよ」
振り返る老人に、彼は微笑みかける。面喰いながらも、彼は片眉を上げてなぜかと問う。
「三命題ですよ。第一条、機械人形は人間を傷つけてはならない。機械心理学において、三命題は動機であると同時に感情の種でもあります。第一条は愛情、第二条は忠誠心、第三条は我欲。人形は人間を愛するために生まれたんです。彼女らは自殺する瞬間まで怒りなど感じなかったでしょう。ただ、人間を愛するあまりに死しか選べなかった」
それがとどめとなったのか。不可思議な重圧が、松田の肩を、心を締め付ける。先ほど見えた何かはこの土地の真下に眠る数多の人形たちの姿か。
「となれば、その感情を逆手にとって自殺へと追い込んだ私は外道だな」
呟いた彼に、清隆は同情しなかった。彼の中には、まだ数多の人形たちが破壊される原因を作った松田に対する怒りは燻ったまま残っている。
「自覚しているのなら、その罪を背負ってください。時間はまだたくさんあります。それと、機械人形を自殺させる方法ですが、床山秀夫をご存知ですか?」
驚きのあまり、松田正一は呆けたように清隆を見つめた後、ひきつった笑いを滲ませながら言った。
「君は、あの男を知っているのか?」
「大学時代に床山教授の講義を受けたことがありまして、その縁を辿っていったんです。もしやと思いましたが、あなたでしたか」
「そうだ。若気の至りというやつかな。たかが人形一体に何を執着しているのかと思っていたが、なるほど。その代償とあらば本望というべき結果だな。私は当時、機械心理学という分野に進もうとしている奴がどれほど妬ましい存在であったかを忘れたことはない。あれだけの才能を持ちながら国のためではなく、たかが一体の機械のために尽くそうとしている人間が理解できなかった。冒涜だとさえ感じたよ。だから、象徴たる彼の愛する人形を殺すにはどうすればいいかと、奴自身に問うた。彼は、何か言っていたかね?」
「あなたを非難するようなことは、なにも。ただ、これから機械人形が自殺したという報せを受けるたびに、それが自らの罪であるという苦しみは増すばかりだと。そして、彼女を愛していたからこそ今のこの苦境に耐えられる、と言っていました」
床山秀夫は、松田正一を恨んではいない。そして、秋津清隆の言葉を借りるならば、彼が自殺させたあの女性型機械人形も彼を恨んではいないだろう。それは誰も、負の感情に支配されない比較的幸福な結末だが、松田の胸には恨まれるよりも深い傷を心の表面に残した。
人間は人形よりもけがれた存在なのではないかと、清隆は思っていた。しかし、そうでもないらしい。人を憎まず、ただ痛みに耐える機械のような道を選択する人間もいるのだ。
そうして彼が何かを言おうとした時、唐突に清隆の携帯端末が鳴り響いた。軽く礼をしてから胸ポケットの中のそれを手に取ると、ディスプレイには鳴海遥からの着信を知らせるホップアップが出ていた。何事だろうか。訝しみながら電話に出る。
「遥、どうしたんだ」
「清隆? 聞いて、いま事務所の前を涼子が通ったの」
意味がわからないまま、清隆は麻痺した頭が機械のように言葉を紡ぎだすのを、他人事のように聞いていた。
「それがどうかしたのか?」
「わからない? 傘もささずに歩いてたし、あなたの命令を聞かずに外へ出たのよ。もしかしたら、自殺するかもしれない」
思考回路が過負荷状態になり、頭の中が真っ白になった。強烈な眩暈を覚えて立ちくらみを起こすと、傍にいた六道と杤原が彼の肩を支えに駆け寄る。
「涼子が……どこにいったかはわかる?」
「わからない、見失ってしまったから。私はこれからあの子を探すわ。前島さんが事務所に残ってくれるっていうから、とにかくいちど帰ってきて。今すぐに」
「わかった。すぐに帰る」
「どうした?」
だいたいの事情は察しているのだろうか、杤原が問う。清隆は力なく首を振った。
「涼子が新宿で、傘もささずに歩いているそうです。彼女は僕の家にいろという命令を無視して外に出た。自殺するかもしれない、と、遥から」
目の色が変わったのは杤原惣介のほうだった。彼はすぐに田邊に怒鳴る。
「田邊さん、車を! すぐに新宿に彼を戻らせてください!」
「何故ですか?」
「彼の所有する機械人形が自殺するかもしれない」
「それは……わかりました。秋津君、来い!」
そうして我を取り戻し、弾丸のように弾けて田邊の後について部屋を出ようとした清隆の背中に、杤原惣介がいう。
「秋津君、こっちは顧みるな。君は君の責任を全うしろ」
「はい!」
階段を駆け下り、雨に打たれながら覆面パトカーに乗り込んでから清隆は思った。自分の責任、これが果たせなかった場合はどう生きていけばいいのだろう。何を成就させるために、自分は生活していけばいいのだろうか。
どうか死なないでくれ。きつく目を閉じながら、ただその祈りを繰り返すしかなかった。彼が責任を果たすには、彼女がいなければ何もかもが成り立たなかった。