表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/13

「食わせ物、ただし及ばず」

  *



 先日までろくに眠っていなかったこともあって、今日は盛大な寝坊をしてしまった。入社したての新人じゃあるまいし、と心の中で自分を叱咤しながら前島冴子は雑居ビルの階段を上り、四階にある事務所のドアを開いた。そのままカードをスキャナーに翳して出勤を記録させる。今日は遅刻になってしまうが、それもいいだろう。機械は記録しかしない。機械人形ならば文句のひとつくらいは言うのかもしれないが、ただの記録装置に萎縮しても何も起こらない。それに、たまには失敗のひとつくらいしないと。自分は機械ではないのだから。

 元より少ない荷物がまとめて入っているバックを肩からおろしながら、窓際にいる杤原惣介へと声をかけた。

「ごめんなさい、遅れたわ」

「構わん。どうせ今日も仕事は無い」

 彼の声に怒りの感情が混じっていないことを知ると、胸をなで下ろして自分のデスクへ向かう。会計処理の業務はもうあらかた済ませてあるし、今はリリィの一件でこの事務所には閑古鳥が鳴いているため、無理をして仕事をする必要もない。まだ眠気の残る頭をどうにかしようと茶でも飲もうかと思って給湯室へ足を向けると、ソファで眠りこけている誰かがいる事に気付く。

 はじめは秋津清隆かとも思ったが、毛布から出ている顔は女だ。見知らぬ女、それも美人が事務所の中で眠りこけ、杤原惣介はやたら眠そうにコーヒーをちびちびと飲んではコンソールをいじくっている。時計を見れば既に時刻は午後一時を回っていた。何やらよからぬ出来事の気配を感じ、いやまさかと三回ほど心の中で自分を叱咤した後で、前島冴子はつかつかと杤原のデスクまで詰め寄った。

「ちょっと、事務所に女の子を連れ込んで何したっていうのよ」

「は?」

 驚いて顔を上げる杤原だが、彼らしくなんとか頭を回して納得したように頷いた。既に湯気も立っていないコーヒーを一気に飲み干すと、デスクの上に音を立てて置く。

「彼女は鳴海遥、秋津君の大学時代の友人で、機械心理学を専攻している。涼子ちゃんの診断をしたとかで、今朝がた出勤してきた秋津君を追いかけて事務所まで来たんだよ」

 秋津清隆。そういえば、今日事務所に戻ってくる予定だった。眠気のせいでまだ頭が本格的に動いてはくれないらしい。数日分の寝不足が一日で押し寄せてくるなど、自分も歳を取ったのだろうか。そんな事を考えながら、前島冴子は再び胸を撫で下ろす。

「で、なんで彼女は寝ているの? 私が事務所に入った時も起きる気配はないし、まだ死んだように寝てるけど」

「相当無理をしていたんだろう。秋津君のために身を削っていたのは、私だけではなかったということだ」

「へえ。あの子も案外、隅に置けないのね」

 ちらりと寝顔に目をやると、安らかな表情で眠っている彼女が身動きした。寝返りをうって、また静かになる。応接用のソファがひとつ占領されているが、今の状態では支障もないだろう。注目すべきは彼女の体にかかっている毛布だ。茶色いそれは杤原が不器用に気を利かせたものに違いない。

「そういえば、秋津君はどこに行ったのかしら? ここに来る途中も見なかったけれど」

「ああ、それはだな――」

 インターホンが鳴る。突然の来客に杤原は言葉を切り、前島冴子ともども驚きの表情でドアを見やった。この時期にこの事務所を訪ねてくるなど、物好きもいいところだ。自分がこの事務所で働いている事も忘れてそんなこと考えつつ出迎えようと前島冴子が歩き出すと、杤原が慌てて立ち上がった。

「待て。君はここにいろ、俺が出る」

「あら、そう。なら任せるわ」

 彼は返事もせずに足音を忍ばせてドアまで近寄っていった。心なしか緊張しているように見える。苛々とインターホンがもう一度押され、同時に杤原は防犯カメラから相手の顔を確認した後、不思議そうに首をひねった。どうやら意外な人物が来訪したらしい。しかしそんな事にかまいもせず、意外にもあっさりとドアを開いた。

 そこには前島冴子にとって赤の他人としか言いようのない、見も知らぬ男が立っていた。オールバックに固めた髪の毛とくたびれた背広、そしてその上に乗っかっている顔は隈がついていて寝不足である事は一目でわかった。男はひどく苦しそうな表情を見せたが、一転して何物にも無関心な表情へとすぐに切り替えると、杤原惣介に向かって軽く頭を下げる。二人は顔見知りらしい。事務所の外で探偵業のために様々な人間と顔を合わせている杤原惣介のことだ、前島冴子が知らない顧客も大勢いる。そのうちの一人だろうか。

「杤原さん、少しよろしいですか」

「何の用でしょうか、田邊さん。どうしてあなたがここに?」

 田邊と呼ばれた男は、杤原より少しだけ高い背をしていて、体を壁にして事務所内に入れさせまいとしている杤原の頭越しに冴子を凝視した。その視線が何か得体の知れないものに感じられて、思わず目を逸らす。まるで機械人形だ。何の感情もこもっていないかと思いきや、その中には意志がある。しかし、その心が本人のものだという実感が、冴子には感じられなかった。誰か他の人間に意識を乗っ取られているのではないかとも思える、自分という存在を無視した瞳。その目は、機械となんら変わらない光をたたえていた。

 田邊はゆっくりと杤原惣介へと向き直り、あらためて言った。

「捕まえた三人の件で、少しお話がありまして。ここで話すことではありませんし、署のほうまで来ていただけますか?」

「それなら電話で済む。何故あなたがここに来たのか。私はそれを問うているんですよ、田邊敦彦さん」

 彼hもう一度だけ前島冴子を見やると、杤原惣介になにやら耳打ちした。そのとき杤原は冴子でも見たことの無い、鬼の形相で田邊を睨み付けるが、すぐにもとの飄々とした顔に戻って踵を返す。

「冴子、すまんがちょっと出てくる」

「何よ、急に。どうして――」

「すぐに戻る。ここから出るなよ。戸締りをしっかりしておけ」

 そう言い残し、杤原惣介は田邊と共に事務所から出ていった。

 ひとり残された前島冴子は、鳴海遥の眠っているものとは別のソファに腰掛けると、頭を抱えてうずくまってしまった。

 間違いなく、あの田邊という男は脅迫の種に彼女を利用したのだろう。杤原惣介はそう軟な男ではない。彼が膝を折ったとなれば、それは敵に対してではなく己の弱みに対してのみ。その事実を、彼女は痛いほどよく知っていた。

「とにかく無事に戻ってきなさいよね。じゃなかったら、承知しないんだから」

 祈りとも取れるつぶやきに、鳴海遥の静かな寝息が重なった。



  *



 秋津清隆が出勤してから、涼子は手持無沙汰な気分のまま溜まってもいない洗濯物を洗い、必要の無い自分の昼食を用意し、食後の茶を啜っているうちに時計の短い針は三を指していた。いつもより早く感じる時間の流れに戸惑いながら、とにかく食器を片付けなければと台所まで歩く。

 ここ数日は清隆と共に食事をしていたからか、どうも何かを食べないと落ち着かない気分になった。無論、機械人形である彼女が何かを口にしなければならないわけではなく、ただ単に彼女の気分が落ち着かなかっただけである。買い物に行くのも出費を増やすだけかと思い留まって、台所にしまっておいた余り物のパスタを茹で、ケチャップやたまねぎ、ピーマンなどを一緒くたに炒めた即席ナポリタンは疑似飲食機能を使ってたいらげた。

 これほど食事とは味気ないものだっただろうか。機械人形には味覚が無いから、人間のように味で食事をする機能は元から備わっていないから、食べることを嗜好する個体は皆無だ。そもそも味覚とは人間が口にしたものを有害か無害かを判断するために獲得した一種のセンサーであり、本質的に食事という行為が蛇足でしかない機械人形には実装される必要のないものだ。もちろん味覚を再現する努力は為されているし、美味いかどうかではなく塩辛いか甘いかの判断がつく程度の味覚を備えた機械人形は実現可能ではあるが、そもそもが必要のない物である以上、秋津清隆のような例外を除けば機械人形に食事を出すなどという酔狂な人間はいない。供給以前に需要そのものが消滅していると言っても過言ではない。人形に食事をつくって食べさせるなどままごとの域を出ないからだ。幻想以外の何物でもない、だから清隆にはきつく言い渡すべきだと思いつつ、食事をしろという彼に向かって抵抗していた自分がこうして独りの食事をすることになるとは。戸惑いを隠しきれない涼子は、多くもない食器を洗剤の泡をまとったスポンジで磨き上げては水道水で濯いでいった。

 涼子は、最近の自分が少しおかしいことに気付いている。

 彼女の内部には、人間の日常生活に人形として溶け込むための倫理判断基準として様々な情報がデジタルデータとして記憶されている。これは人間の言葉で常識と呼ばれるものだ。たとえば、子供が一人で道路脇を歩いていたら「危ない」と思うし、老人が坂道を歩いていれば「大丈夫だろうか」と荷物を持ちに声をかけたりする。機械人形が人間として感じ得る衝動を感じるのは、子供は何をするかわからない、老人は体力が低下している、などの情報を既に常識として備えており、そこから次に生じうる危険を無意識のうちに推測しているからだ。精神的には未熟でも人間の大人と比較しても遜色ない社会常識を備えている。しかし、知識があるから人間の手助けをするわけではなく、機械人形の三命題によって動機制御、つまり第一条によって人間を広く愛することを生きる意味としていることが大きく機械人形の行動に影響を与えている。

 そうした彼女らの献身的行為を、大抵の人間は「ただのプログラムだから」と一蹴する。対して涼子は憤りなど以ての外、むしろ共感さえ示すほどにその意見には肯定的だった。機械人形がプログラムや論理集積回路によってくだされる一連の計算結果に基づいて行動することは世に広く知られていることであるし、人形自体がそうした構造の上に成り立っているのだから議論の余地はない。

 涼子には魂という概念がわからない。命はわかる。少なくとも機械かそうでないかで命は分ける事ができる。無論、機械である自分は命ではない。人格を持っていようが、そこには命は存在しないと一般的には思われている。

 だというのに、秋津清隆は機械人形である自分に服を着せて食事をし、話し、あまつさえ家族だといった。彼は彼女を人間として扱う。何か命あるモノとして、ただの機械ではないと言い張る。

 それは大きな矛盾に満ちた疑問を彼女に投げかけた。それは彼女の存在そのものを根本から覆すほどに大きな意味を持っていて、機械人形である彼女だけではどうにも答えが決められそうにない。難問も難問で、ただひたすらに自分の演算素子で計算するには連立方程式の解に必要な変数に対応する方程式が不足しているようだ。いくら計算しても答えは違うものになる。

 清隆は自分をどうしたいのだろうか。ますます深まるばかりの困惑に涼子はなんとか意識を別の方向へ引きはがそうとする。すると、今度は死んだ機械人形たちのことが頭を過ってしまう。あまり思い出したくない記憶はどうしても彼女の中から記録として消えることはない。

 いったいどうすればいいのか。悩みに悩んではいるものの、どうしたって納得する解答は見つからない。

 とにかく、清隆が帰ってくるまで待とう。彼ならば、自分がどうすればいいかを教えてくれるはずだ。当ても無く、涼子は湯呑を置いて、新しく茶を点てるばかりだった。

 その時。やけに大きな音で電話機が着信を報せた。



  *



 すぐ目の前に東京湾を臨む新埋立地、そのど真ん中に建っているプレハブ小屋まで車に乗って案内される。田邊明彦は顎をしゃくってその二階へ続く階段を上るように伝えてきた。よく見れば小屋の周りには何人かのスーツを着た男たちがおり、無言のまま彼を見つめている。その目は、およそ人間の情を感じさせない無機質な光をたたえていた。

 道中、高速道路の標識を見た限りではどうやらここらは新木場のあたり。六道清二が言っていた、自殺した機械人形を専門に扱っているらしい業者が彼らの亡骸を使って埋め立てを行っている地区だろう。今もこの足下には無数の機械人形が土と共に埋められているに違いない。いくら機械とはいえ、人工意識を持つ何かに対してここまで無神経な扱いをすることができようとは。冬の気配がする海風に思わず背筋が震える。

 立ったまま動こうとしない杤原の肩をそっと押して、田邊は言った。

「既に先客を待たせてあります。どうか、そちらへ」

「先客だ? ああ、読めた。ま、この状況じゃ彼以外にいないだろうな」

 杤原は素直に従い、階段を上った。どのみち抵抗しても結果は知れている。こうなったらとことん付き合うまでだ。

 二階部分のドアはステンレス製のスライドドアとなっており、びゅうびゅう吹いている海風に巻き上げられた砂を踏みしめながら開くと、見知った顔が中から歓迎の笑顔を向けてきた。自然と杤原の口元にも笑みが浮かぶ。

「杤原さん、来ましたか」

「六道さん、やっぱりあんたか。ということは田邊さんにやられた?」

 六道清二は頷き、無言のままシャツの裾をたくし上げて生々しいスタンガンの傷跡を見せた。左脇腹に二点ある赤い傷跡を見てから、杤原は後ろに付き添っている田邊を睨み付けた。彼は肩を竦め、後ろ手にスライドドアを閉じる。

 改めて室内を見渡せば、部屋の天上からLED灯が神経質な光で室内を照らしている。室内には杤原探偵事務所よりも殺風景なオフィス用と思われるファイルキャビネットや机が置いてあるだけで、人が使った形跡はあるものの必要以上にこの場所に固執していないことが一目瞭然だった。生活感が無いのだ。もしこのプレハブが青い海の臨める海岸沿いではなく都市の只中にあったのならば、窓の外の景色も建物の外壁で埋まり、この上ない閉塞感となって重くのしかかってくるに違いない。

 そんな質素な部屋の上座に、一人の男が椅子に座っていた。整えた髪型と時代錯誤な口髭を生やしている。テレビでも何度か見たことのある顔だった。背筋はぴんと伸びていて年齢を感じさせない。落ち着いたオーダーメイドと思われる高級スーツはこの薄暗がりで、大昔のマフィア映画のように気品が溢れており、その両眼は鋭く、見つめる何者をも捉えて離さないとばかりに泳ぐことは一瞬たりともなかった。

 彼は目の前に置かれている湯呑を手に取ると、親しげに反対の手で挨拶してくる。初対面だというのにこんな態度を取るということは、杤原惣介は彼にとっては他人とは思えないほどに知り尽くしているという警告を言外に示したいが故か。とにかく、国家権力を笠に着た人間を相手取らなければならないことは事実だ。気を引き締めて、杤原は彼の両眼を見据える。

「これはこれは、松田正一厚生労働副大臣閣下。こんな辺鄙な埋立地までどんな御用がおありかは存じませんが、政務はよろしいので?」

 不躾な言葉に、松田正一はなんの反応も示さずに受け流す。そのまま六道清二の隣に置いてあるパイプ椅子を手で示した。丁寧で、何の嘲りも感じさせない動きだった。こいつは手強いな、と杤原は軽く舌打ちする。

「杤原惣介君、まずは座ってくれ。今は太陽が出ているが、暗くなったらあんがい歩きづらいんだ、この小屋は。それに今日は政務でここに来ている。きっとあなたにとっても有益な話をする事ができるはずだ、この小屋で行われたかつての協議のように」

 さりげなくこのプレハブ小屋で議事録も作成し、会合を開いていた人物が自分であることを強調しながら松田正一はいう。杤原は軽く鼻を鳴らした。

「そうですかね? こちらとしては解き明かす謎はひとつだけだ。他のことに興味は無い。あなたに御教授いただけるなら話は別だが、そんなことは口が裂けても言わないんでしょうな、あなたのような人間は」

「どうだろうか。私には、あなたがそこまで軽率な人間であったことに深く失望しているのだが。そもそも私がなぜお二人をここまでお呼びしたのか、聡明な君ならわからないはずもなかろうに」

「呼んだ、だって?」

 六道清二が怒り心頭に発するとばかりに怒鳴った。

「冗談はよしてください、こんなのは友人を自宅に招くような行為と同じではない。他人の自由を足の裏で踏みにじって、さらにバターでソテーしたような拉致事件だ」

 彼の言葉に、松田正一は涼しげな顔で湯呑を傾ける。その所作には微塵の動揺も含まれていない。つまり、そういったこと諸々を含めて、この男自身が誰よりも納得している結果が今この状態なのだ。何を言っても事態を好転させることはできないだろう。そう判断すると、杤原は自らパイプ椅子を引いて身を沈めた。六道は気遣わしげに横目で彼を見てくるが、杤原は軽く頷き返すだけで何も言わなかった。別に、彼と違って危害を加えられたわけではない。先の一件でこちらが暴れたらどうなるかを知っていたから、田邊敦彦は前島冴子を脅迫に使ったわけだ。

 冴子。彼女のことを思い出すと、あまりの怒りにテーブルを蹴りあげそうになった。すんでの所で堪え、胸糞悪さの抜けない気分をどうにか落ち着かせようと深呼吸を繰り返す。

「それで。お話とは?」

 なんとか声を絞り出すと、それが開始の合図となったらしい。松田正一は淡々と話し始めた。

「無論、機械人形の連続自殺事件についてだ。君がいま担当している案件についても同様だ、六道警部補。そもそも、君は警視総監からの直々の辞令を見なかったのか?」

 六道は肩を竦めて見せた。

「ええ、確かに見ました。ですから署内では何もしていませんし、事件資料にも触れていません。無論、聞き込みだってしちゃいませんよ」

「なるほど。しかし杤原惣介に捜査資料を公開したことは情報漏洩に当たるのではないか? ファイル類が全て署内にあり、たとえ君が情報を複製した証拠が見つからなくとも、この短時間で彼が君の長い捜査の裏付けから立証までを全て一人でこなしたとは考えられない。口外したとしても情報漏洩は免れない」

 六道清二と杤原惣介は、等しくあの喫茶店「禊」での出来事を思い浮かべた。あの時、確かに周りには尾行と思われる人間の影は無かったように思われるが、真偽のほどは定かではない。松田正一が「あの時、店内には尾行者がいた」と言い張ってしまえばこちらには嘘を見抜きようがない。だが、彼が嘘をつく前に暴いてしまえば、こちらの勝ちだ。

「おかしいですね。私が杤原氏に情報漏洩を行った確かな証拠でも? 私が機械人形の自殺についての調査を彼に依頼したのは純粋な好奇心からです。事件捜査の延長ではまったくない。状況証拠以外に、私が彼に捜査を肩代わりさせたものは無いはずですが」

 男は興味深いとばかりに眼鏡の奥の瞳を輝かせた。寿命が縮まなかったと言えば嘘になる。

「そう問われてみれば、確かに無いな」

 顔には出さないようにほっと胸をなで下ろしたのも束の間、松田は湯呑をテーブルの上で弄りながら言った。

「しかし、杤原君が暴行事件の被害者になることを、君は知っていただろう? 未遂に終わらせず、暴漢三名を現行犯逮捕するためにその兆候を故意に見過ごしたとなれば、それだけで懲戒免職は免れないと思うのだが、どうだろう」

 背後で革靴が床板を擦る音が聞こえる。うっかりとしか言いようがないが、田邊敦彦が彼の側の人間であったことをすっかり忘れていた。松田正一には、杤原惣介を囮として使うことも筒抜けだったのだ。裏切りの事実を思い出し、六道は怒りで声を震わせる。

「それを言われると……ちくしょう。田邊さん、見損なったぜ。あんたはてっきり、もっと筋の通った人間だと思っていた。胸糞が悪すぎて吐き気がする」

 感情をむき出しにした言葉を背中越しに投げつけると、田邊敦彦は少しの間を置いてから飄々と答えた。

「これも別方向から筋を通した結果だよ、六道。お前は切れ者だ。だから扱う奴が必要なんだ。剃刀はただあるだけではどうにもならん。柄を握り、確かな技術で用いる職人がいなければ宝の持ち腐れだ。少なくとも、俺は錆びはじめていたお前にこのまま退場してほしくなかった」

「だから、あの夜に帰宅しようとしていた俺を引き留めて、事故現場へ行かせたのか。この事件に関わるように?」

「そうだ。機械人形の自殺については、前々から知っていた。お前が調べるより前にな。感心したよ、六道。お前は驚異的な速度と閃きで、この事件を解き明かしていった。これ以上はまずいと思って圧力をかけても、お前は止まる事を知らなかったな」

「俺にここまで辿り着かせないために圧力を加えたのなら、どうして今、俺はここにいるんです? 全てが無駄だ。スタンガンを使うなら、あの事故現場に俺が辿り着いた時に使うべきだった。俺にわざわざ首を突っ込ませるまでもないだろうに」

「そうだな。今ではそう思う。次の教訓としてとっておくよ」

「話は済んだかね?」

 松田正一の言葉で、二人は口を閉じた。彼は満足そうに二度ばかり頷くと、やや身を乗り出して杤原惣介と六道清二を交互に見た。

「本題に入りたい。私が君達をここに呼んだのは、別に命を取ろうとか、口封じをしようという目的ではない。ひとつの事について議論したいと思ったからだ」

「拝聴しましょう」

 杤原惣介は居住まいを正す。既に彼の好奇心は松田正一の目的へと移り変わっていた。松田正一は湯呑を回す手を止めて、両手を膝の上に置く。

「昨今の経済状況、及び労働環境の変化は目まぐるしいものがある。日本は泡と呼ばれた経済の崩壊から続く長い不景気から脱却しつつある。機械人形の登場は家庭に普及するよりも先に、従来の機械とは違う意思を持った人間の代替として社会基盤の中に組み込まれ、少子高齢社会における労働者不足を見事に解消した。だが、反対にデメリットもある。機械人形は税を納めないから、働いた分だけ国に入る税収が高くなるということはないのだ。それも経済の上向きで解消されつつあるが、以前から問題の多かった医療・福祉関係、及び農業従事者の不足などは問題とはいえなくなり、反動として多くの労働者が人件費の発生しない機械人形へとその座を明け渡す要因となった。解雇された労働者の多くは労働組合を頼り、組合活動は全国において史上類を見ないほど活性化した。企業側と労働者側の橋渡しとしての機能よりも組合は労働者の不平不満、企業へ対する馬事雑言の坩堝となることを選んだ。厚生労働省としても最大限の対策は取ろうとしたが、時の大臣が経済の上向きに制止をかけるような横槍を入れるべきではないとし、機械人形と労働者の代替と思われるリストラを行う企業をリストアップし、厳重注意およびリスト登録するに済ませた。労働組合が内閣に直訴状を提出したことはまだ記憶に新しいが、彼らの言うこともあながち間違ってはいなかったということだ。時に虚偽は正鵠を射ることもある」

「政府が意図的に昨今の機械人形にまつわる問題を棚上げしたとお認めになるのですか? 他でもない、厚生労働省の役人であるあなたが。これはたいへんなことですよ。今の内閣以前のことではありますが、今の政治かすべてに飛び火する問題だ」

 心底の驚きを含めて杤原が問うと、松田は微かに自嘲的な笑みをひらめかせた。

「私はよりよい労働環境をこの国に構築することを命題として今まで政治人生を歩んできた。厚生労働省に入ったのももちろんそのためだ。この国は昔から労働者に対しての措置がおざなりなきらいがある。それもグローバルな視点を持つが故の代償なのかもしれんがね、国家である以上は自国民を第一に捉えなければならない。そのために我々は血税から給料を得ているわけだ」

 杤原は何か言おうとしたが、その前に六道が口を開いて機先を制した。

「副大臣、あなたの政治観は今はどうでもいいことです。私が知りたいのは、なぜあなたは機械人形を自殺させるのかという一点だ。そんなご高説に付き合うほど、私の気は長くはありませんよ」

「フム。その質問はされると思っていたよ、特に君の場合はな」

「では、解答はおありですね」

「もちろん。君の言いたいところは、人間に危害を与えるはずのない機械人形を、どんな手段であれ自殺させるというその非情さについてだろう?」

 六道清二は憤った。

「そこまでおわかりならば、家族同然の付き合いを彼らとしていた所有者家庭が、毎日の生活を共にして機械以外の何かであると感じ、あまつさえ喪失感に激しい苦痛を感じているんだ。子供は泣き、大人ですら頭を抱える。その結果、手に入るのが社会の安寧? 人類社会の保証? 笑わせないでください、そんな社会が成立するときには幸福な人間なんてこの地球上に一人もいなくなっている」

「驚いたな。君は機械人形を人間として見ているのかね、六道警部補。彼らは機械だ、人間ではない。いくら背伸びをしたところで機械は生き物にはなれないのだ。機械主義的な発言はまったくもって偽善でできた虚構だよ。人間がいくら歩み寄ったところで機械人形は機械人形だ。人間の体を全て機械に置き換え、この意識さえも情報化した果てには人と人形の境界は曖昧にはなるだろうが、無くなることはない。スタート地点が違うんだ。人形は人形なるべくして歯車を軋ませ、人間は人間なるべくして産声を上げる。その違いは些細なことになれど、決定的だ。そうは思わんかね?」

「その通りだ。俺はあなたの言う事はもっともだと思う。しかし、おれの言いたいことはそうではない。正直に言って機械人形が人間と機械の狭間のどのあたりに陣取っているかという話ではなく、現実問題として機械人形が機械のまま、もはやただの機械という一言では言い切れない程に進歩し、人間の肩代わりをしている部分について論じているんだ」

 松田正一は笑みを浮かべた。おそらくは、この議論こそが彼の目的であるが故に。

「その点については私も考えないでもない。わかるだろう、経済において機械人形が問題の火種となり社会基盤を侵蝕していることもまた事実で、その理由は正に君の言う通り機械人形が人間以外の何者かであるにもかかわらず人間の代替を済ましていることなのだ。それを快く思わない人間は海外にもいる。反機械主義団体と呼ばれてはいる彼らだよ。言っておくが、私は彼らとの付き合いはない。確かに彼らは存在するが、そもそも政府からして機械人形の存在を容認しているような国よりも、まだ中途半端な体裁しか整えていない第三国などでの活動に忙しく、こちらまで手を回す余裕などないらしい。そこのファイルに書いておいたのはブラフだよ、君の正義感を煽るためのね。田邊君から聞いていた通り、効果てきめんだったな」

 古くから、人間は機械の代わりに人間を用いてきた。生産、農業など、仕事と言われるものはほとんどが機械による代替を可能としている。それはつまり、人間が機械の代わりに働いているということだ。どれだけ否定しようとも、現代社会において人間は部品という単位でしか見られない。その中で、誰もが使い捨ての小さな部品であることを恐れて、重要な部分の歯車になろうともがいている。歯車であることは往々にして楽な位置ではあるが競争は激しい。歯車同士の生存競争は人間特有の本能がなせる業ではあるが、その本質的な部分、仕事、経済を回すための循環活動のポンプとしての役割は、大部分を機械に委ねることも可能だ。人間は機械にその生活の座を奪われるまで、機械の存在場所を奪って生活を営んできたといっても過言ではないかもしれない。今まさに社会の混乱を招いている機械人形は、機械が可逆性のある作用を人間に及ぼしているだけにすぎず、本来はそうなる可能性を知りつつも人形を利用しようとした人間に非があるのではないか。

 しかし、道具を作って楽をしようとするのは人間の性である。文字ひとつ書く事にも道具を使いたがる人間が、自らの背負う社会的責任と重圧を全て肩代わりしてくれる何かを頼るのは当然のことだった。情報化社会において個人は感情面では考慮されることなくひとつの経済単位として重要なものとされ、誰か他人を大切に思うことと特定の誰かを丁重に扱うことの意義が混同されつつあり、適材適所の名のもとに権利と自由を謳いつつも機械部品としての人生を約束された社会。

「人間の業、と一言で切って捨てることは短絡的だとは思わないかね」

 松田正一は田邊敦彦に身振りで示し、二人の客人に茶を淹れさせる。杤原惣介と六道清二の目の前に湯呑が置かれ、緑茶の香ばしい芳香が鼻をくすぐった。まだ昼過ぎの陽射しは窓から真っ直ぐな光の柱をプレハブの中に投げ込み、見方によっては三対一とも思える対立図の境界線を窓と窓の間にある柱の影として強く残した。

「人間は間違いを犯すとはよくいうことだが、だからといって免罪符として機能はしない。ある失敗に対して責任を感じ、改善策を求めて改良を施す試行錯誤こそが人間の真骨頂だ。そのサイクルを円滑に行うための潤滑油がこの言葉だ」

「あなたは、機械人形が人間の失敗だと仰りたいのか?」

 杤原惣介は心なしか険しい表情を作った。松田正一は同じように眉を潜めている六道清二とを交互に見比べ、挑む様に二人を見つめ返す。

「その通りだ。社会の中で、人間の生活は保証されねばならない。互いが互いを庇い合う巨大なシステムが社会だ。それらを脅かしている元凶はなんだ? 機械人形だ。発展と共に大きな代償を支払う必要があるのはわかる。しかしその代償はこの国の、ひいては世界の人々が心の底から認めたものではない。この決断を強行した結果が先日の直訴状提出までをなぞる反機械主義者、労働組合の抗議活動だ。私は正義などは信じないが、道理は理解しているつもりだよ」

「そうして、彼らを自殺させたのか」

「私が、ではない。この一件に関しては労働組合に任せた。企業側に恨みを持っている人間は労働組合にこそ多い。仮に機械人形を自殺させている何者かが明るみに出た所で私の下へたどり着くようにはできていない構図を整えている。警察庁には親しい友人もいる。私が提供したのは自殺させる方法と、方針だけだ。あとは彼らで恨み辛みを晴らすための小さな行いに走ったよ。もっとも、それで責任逃れなどをするつもりは毛頭ないがね。この調子で機械人形の自殺が広まっていけば、社会の中に人形に対する大きな不信感が生まれ、小さな傷口から入り込む最近の如く社会に伝染していくだろう。これがこの事件の全容だ。機械人形は排斥されるべきなのだよ、六道警部補。他でもない、君も含めたすべての人間のために」

「人間の社会のため? だからといって、意識を持っている機械人形を……苦しませ、自殺させ、それらを使って埋立地をつくる? 他人に対する攻撃の手段に使う? 狂気の沙汰だ。このプレハブ小屋にしろ、機械人形たちの怨嗟の声で満ちている。息苦しいほどだ」

「人形は人を恨まない、むしろそのために自らを賭して本望だと思うだろう。第一条だったかな? 機械人形の三命題だ」

 言うまでもないとばかりに肩を竦める松田正一に対して、六道清二はいきり立って立ち上がった。立ち上がりかけた。その肩を、杤原惣介が掴んで押し戻そうとするまでは。

「杤原さん、その手を放してください」

「六道、落ち着け。俺も手荒なことは――」

「あんたは黙っていろ!」

 ぴしゃりと言い放つ六道の剣幕に押され、田邊敦彦はわずかに後ずさった。しかし、杤原惣介は変わらずに彼を座らせようと力をこめる。

「杤原さん、もう一度いいます。その手を――」

「松田厚生労働副大臣閣下」

 やけに大仰な様子で杤原がいい、その場の全員がぴたりと動きを止めた。田邊敦彦は胸ポケットからスタンガンを取り出しかけ、六道清二は腰を浮かせ、松田正一は澄ました表情で座ったまま、全ての時間が停止している。その中、杤原惣介だけが悠然と話し始めた。

「あなたは機械人形を人間の失敗だと仰る。その根拠は人間の社会に役立てるための機械が人に害を為したから?」

 松田正一は頷く。何も言わないところをみると、その一言ですべてが要約されているのだろう。杤原惣介は満足そうに頷くと、背広のズボンのポケットに両手を突っ込みながらだらしなく足を前に投げ出した。椅子に座ったまま唐突に横柄な態度を取り始める彼に向かって、松田正一は厳しい目で睨み付けるが、当の本人は退屈だとさえ言いたげな瞳で男を見やった。

「そのために機械人形を排斥する、と。それがあんたの道理ですか」

「そうだ。それが私の義務であり、責任だと感じている」

「なるほど、よくわかりました。機械人形を排除するための手段としては、確かにこれ以上のものはありませんね。人心を煽るのは政治家としての妙手を見せてもらったということにしておきましょう。ですがひとつ、残念なことがありますな」

 松田の表情が微かに曇った。その表情の変化が、この対話による形勢逆転の瞬間であったことは間違いがない。一瞬にして自分が劣勢に立たされるらしい気配を感じ取った政治家は、戦々恐々として杤原に問うた。

「何が残念なのかね、杤原君」

「何が? 閣下の人を見る目ですよ」

 意外な言葉に、杤原以外の誰もが息をのんだ。

「あなたは社会のことを心から思って機械人形というひとつの存在に対して解答を出した。それが人類の失敗という解釈だ。しかしそれを話すには、私達では役不足であることをあなたは見抜けなかった。なまじ機械人形を相手にしていただけに、人間というものを見失っていたんでしょうな。誠に残念だ」

「君達以外に当事者がいるとでも? 連続自殺事件のことを嗅ぎまわっていたのは君らしかいないだろう。私は君達と話すために田邊君に六道君を事件に関与させたんだ」

 杤原惣介は会心の笑みを浮かべた。その瞬間、松田正一は唐突に、衝動的な不安に襲われた。寒気すらも走ったかもしれない。

「いますよ、もう一人ね。ここで事のケリをつけるには誰もが適任ではない。あなたは機械人形とは何か、という人類共通の命題にたいして答えをお持ちだが、それを私達に提示するべきではなかった。あなたがするべきはもう一人の機械人形に対する解答を持っている誰かと答えを突き合わせ、比較する事だったんですよ」

「しかし、そんな人間が他にいるとでもいうのかね」

「誰よりも相応しいのが一人ね。日取りと場所を改めましょう、副大臣。私が彼を連れてきます。ご安心を、六道警部補も含めて怪しい事なんかなにひとつしやしませんよ。どうです?」

 しばしの黙考の末、松田正一は頷いた。

「結構だ。では、明日の午後九時にここでまた会おう。よろしいかな?」

「ええ。それでは」

 席を立ち、杤原はぶらぶらと出口まで歩いていく。六道はしかめっ面のまま机の角を見つめている松田正一に軽い一瞥をくれてから立ち上がり、彼の背中を追いかけた。田邊敦彦が扉を開いて先導し、三人はプレハブ小屋の階段を下る。三人分の足音が重なるなか、田邊は事務所まで送ると申し出た。




 結局、六道も署に戻ることになり、運転席に田邊が、助手席に六道が座り、後部座席のど真ん中にくたびれた様子の杤原が席に着いた。覆面パトカーの電気モーターを始動すると、滑らかな加速で黒塗りの電気自動車は路面を滑り出す。

「田邊さん、まさかあんたがね」

 一般道から新木場インターチェンジを通って料金所を通過したところで六道清二がいった。田邊敦彦は真っ直ぐに正面を見つめながら、適性速度で車を走らせている。杤原惣介は相変わらず放心状態のまま勢いよく流れていく港湾地区の景色と高速道路の行き交う車を眺めており、田邊はちらりとバックミラーで彼の様子を覗った。

 天気は崩れ始めていた。遠い東の空から厚い鉛色の雲が流れ込んてきて、深夜には関東圏へ到達するだろう。不穏なことの前触れでなければいいが。

「聞いてるんですか、田邊さん」

「聞いてるよ。それで、お前は俺に何をしてほしいんだ。謝罪か、弁明か。生憎とおれはどちらもする気はないぞ。これは俺の道理だ」

 六道は強気な答えに息を飲み、やがて脱力したように全身の力を抜いてシートのリクライニングを緩めた。

「わかりましたよ。田邊さん、なんで寝返ったんですか?」

「素直すぎるのも考えもんだな」

 苦笑いしてから、田邊は答えた。

「さっき松田副大臣からの説明にもあったとおり、これは最初から決まっていたことだ。俺は六道清二が不必要な何かを知らなくて済むように派遣された工作員。そんな位置付けだ」

「いや、それじゃ筋が通らない。そもそも俺にかぎつけてもらいたくなかったのなら、あの事故現場に呼ぶ理由そのものが無かった。もしあんたからの電話が無ければ、家に帰ってゆっくり眠る、それで万事順調だったはずじゃないですか」

「それについては、俺も疑問に思っていた。そもそも松田正一は厚生労働省の人間だ。警察庁にコネがあるとはいえ、俺一人を操るのがせいぜい。圧力ったってかけるのは難しいものなんだぜ? だというのに俺を動かしてお前をこの事件に巻き込んだその理由、さっきはっきりしたよ」

 目の前を比較的遅い速度で走っていた軽自動車を車線変更しながら勢いよく追い抜いていく。田邊敦彦の説明を、後部座席で呆けていた杤原惣介が継いだ。

「俺と六道清二と話すため、か。なるほどね、ああいった自己陶酔の激しい人間にはありがちな考えだ。自分の持論で論破して、より強い理論武装を自らに施すつもりだったんだろう。これから意志を持った数多の機械人形を闇に葬ろうというんだ、それくらいしないとさすがに落ち着かなかったんだろう」

「そういうことです」

 ともなれば、あのプレハブ小屋からの演出がそもそもブラフだったことになる。六道清二は自分が松田正一の掌の上で踊らされていた道化にすぎないと知り、悔しさのあまり唇をかんだ。隣の運転席では、ハンドルを握りながら田邊がバックミラー越しに杤原を見やる。

「しかし、杤原さん。あなたもよくわからない人だ。明日の午後九時までに、あの男の精神城塞を突き崩せる誰かを用意することができると思っているとは。私が知る限り、あの御仁は筋金入りですよ。簡単に考えを覆すような人ではない」

「ああ、その点については心配いりませんよ。彼は優秀だし、何よりも……」

「何よりも?」

 言葉を飲み込んだ杤原惣介は、それ以上何も言うことはなかった。

 車は流れに乗って、高速道路を走っていく。



  *



 長野県の名前も知らぬ建造物の前ではたと立ち止まり、メモしてある住所と照らし合わせて間違いがないことを確認する。空を仰げば既に夕暮れ、赤い絵の具を流したような空が山の裾野と混じり合って影となっている。

 床山秀夫は大学にいなかった。秋津清隆が鳴海遥の紹介状のおかげで入り込めた母校で聞き込みをすると、どうやら長野の実家に帰ったらしいという話を頼りにここまでやってきた。電車とタクシーを乗り継いでこの地までやって来たときには本日中の帰宅は絶望的で、涼子には早めの連絡を入れておいた。復帰早々に出張させられたということにしておいたが、彼女はどうもただならぬ気配を感じ取ったらしく、お気をつけてと一言いうとそのまま電話を切ってしまった。邪魔になると思ったのだろう。だが今の清隆にとって、胸中の不安をどうにか鎮めるためにも彼女の声をもっと聞いていたかった。

 足下に長く伸びる自分の影から顔を上げ、改めて目の前にそびえる建物を見上げる。床山秀夫は実家にはいなかった。家主である彼の母親に話を聞いたところ、ここにいるのかもしれないといって住所を教えてくれたのだった。

 雑然とした都市部の只中に突如として現れるこのアパートメントは、いつ建てられたのかもわからないコンクリートの打ちっぱなしで、外壁は黒く滲んでは所々が剥がれ落ち、ふたつの階段出口がコブのように建物の屋上に突き出ている。それぞれの脇には給水塔が並び、錆果てた金網フェンスが四方を囲んでいる。並んで見えるドアも塗装がはがれて錆が顔をのぞかせ、一見したところ住人はいそうもなかった。

 誰からも見捨てられた場所。社会という枠組みの中から抜け落ちた、錆びた歯車。このアパートメントはそんな印象を抱かせる。それまでにどんな家族が住み、どんな生活が営まれていたのかは知らないが、入り口に張られた取り壊し予定の貼紙が何とも言えない哀愁を醸している。清隆はあたりをぐるりと見回し、ほとほと困り果てた挙句に中へ踏み込むことにした。

 埃の積もった階段を上がる。エレベーターは一基あったが、電力の供給が途絶えていて使えなかった。住所はこのアパートの最上階である五階を示し、階段を上り切った後に積もった埃から雑草の生えている廊下をざりざりと歩いて、ようやく奥から二番目の表札すら剥がされたドアの前に立った。

 ノブに手をかけた瞬間に、ある事に気が付く。足下には、積もった埃がドアに押しやられた跡がついていた。

 やはり、床山秀夫はここにいるのか。突然に行方をくらませたかの男と対面すべく、清隆は思い切って丸みを帯びたノブを回す。

 建物に比べて、室内はそれほど荒れ果てた様子はなかった。代わりに薄らと廊下に積もった砂埃と知らぬ間に寝泊まりしていたであろう空き巣の残したビニール袋、食べ散らかされた食事の容器、ペットボトルなどが廊下の両端に追いやられている。その中に正面のリヴィングへと消えていく足跡をみとめ、夕暮れの茜色が半ば開いたドアの隙間から漏れ出ているのを見る。足跡の主は靴を脱がないで上がったようなので、こちらも靴を履いたままお邪魔することにした。三メートルほどの廊下を洗面所と洗濯場のスライドドアを横目に見ながらリヴィングのドアを手前に引く。

「やあ。そろそろ来ると思っていたよ」

 目を焼く程の西日が差し込む窓を背に、床山秀夫は立っていた。記憶にある姿とあまり変わっていなかった。リヴィングは廊下のようにゴミが散在しておらず、思いのほか小奇麗に掃除されている。どうやら定期的にここへやって来るらしい。床は素足で歩くには気後れする程度に汚れてはいるものの、部屋の中央に置かれたテーブルの上にはペットボトルの緑茶と食べかけのサンドイッチがある。どうやら食事中だったようだ。こんな荒れ果てた空き家にどんな意味があるのかわからないが、ともかく彼と出会えたことに安堵する。

「お久しぶりです、床山教授。鳴海遥と同学年の秋津清隆です。一年生の時、教授の講義を受けていました」

「覚えているよ。機械心理学入門、だったかな。鳴海君にいちど聞いたことがある。機械人形偏愛症に罹患したとかしないとか」

 驚くべきことに、床山秀夫は彼を知っていたらしい。手元にある缶コーヒーを放って寄越すと、自分は木製の古びた椅子に座る。清隆はその場で立ち尽くしたまま、赤色に染まった部屋の中で彼に向かって頷いた。

「ええ。お恥ずかしい限りですが」

「恥じる様なことではないよ。私とて機械心理学者の端くれだ。彼女らに感情移入する気持ちはよくわかる。言っておくが、君を慰めるために方便を使っているわけではないよ。理解しているつもりだ。人間の、何者であれ相手を愛する気持ちはね」

「機械心理学者であるあなたが、機械人形を人間として見ることを容認するのですか?」

 世の機械心理学者たちは、人形を知り尽くしているからこそ、人間が機械に極度に依存し、人間として扱うことの危険性を声高に叫んできた。その結果として機械人形偏愛者という蔑称ともとれる呼称が誕生したのだが、大学で講義をも行っている床山秀夫ほどの人間がこれを許容するなど、本来ならありうべからざることのはずだ。

 しかし、思えばそう驚く事でもないのかもしれない。清隆は講義の初めに彼が学生に説いたことを思い返しながら、彼の言葉を聞いていた。

「機械人形偏愛症は、機械人形、アンドロイドと呼ばれていたものが人間に限りなく近似しつつあることに由来する錯覚だ。彼女、或いは彼らは可憐で、清楚で、逞しく、そして儚い。機械人形にはほとんど美形しかいないのは何故だか、教えた筈だね?」

「ええ、しっかり覚えています。人形は意識を持つ疑似生命体である前に、企業が生産するひとつの製品として社会的地位を確保していることを忘れてはならない、でしたよね。教科書にも載っていました。工業生産品である機械人形が美形である理由は商業的価値を押し上げる重要な要素だと」

「その通りだ。誰も不出来な人形など欲しくはない。我々人間は様々な人種があって、外見だけで様々な差異がある。いや、たとえ同じ人種であったところで他人とそのまた別の人間との違いは明白だ。その不確定性が機械人形には無い。人間は遺伝子によって無差別な外見の決定がなされるが、機械人形の場合はその時点で人の意志が介在しているわけだ。その時点で人間と機械人形の間には埋めようのない巨大な隔たりがある。しかし現実として機械人形を人間として錯覚し、愛してやまない人々は途絶えることがない。むしろ年々増加している、との報告が学会でもなされるほどだ。我々は機械人形が機械だと認識しているし、おそらく機械人形偏愛者も同じことが言える。だというのに、なぜ機械人形を人間として扱うのか」

「それこそ、外見が人間だからではないですか? 蛙や亀ならまだしも、機械人形となれば、原理はどうであれ形も行動も人と同じものになります。そうなれば、それはもう人間と認識してしまう。不気味の谷は遥か以前に超えましたし、人間の脳が既に機械人形を人間として認識してしまっているのでしょう」

「もっともだ。君の言う通り、機械人形の生活と人間の生活は多くが重複している。そうなればもう人間以外のものと認識することができない。ちょうど今、僕が君を人間だと認識して会話しているように」

 床山秀夫はやんわりとした仕草で清隆を指さす。彼はテーブルの上にあるペットボトルの蓋をあけて一口だけ口の中に含むと、全く元の位置にそれを戻した。清隆もそれにならって缶コーヒーを開け、乾いていた喉を潤す。

 認識とは決して自分の思い通りにはならない。自分が感じている世界というものは、自我が感じ取る感覚質であっても受信しかできない。この世界に自分がいるのだと思いつつも、実はその情報を受け取る感覚だけでは世界がその姿のまま存在しているのだという保証はされない。たとえばどこかの湖に怪獣が存在すると聞いたとしても、その情報を感覚を通して脳で認識しながらも、実際にいるのかいないのかを確かめるには不十分だからだ。可能性は否定しきれない。人間一人がもつ情報量では少し離れた世界のことなど別の宇宙の出来事になってしまう。確かめるには、実際にその事象を認識して確定させるしかない。

 生活する上で、機械人形と人間の違いはどこにもない。床山秀夫はそう断言したのだ。

「人形の腹に据え付けられているメンテナンスパネルを開いて、初めて生命ではない機械なのだと気が付く。おかしな話だが、頭の中にある知識と自分の認識は必ずしも一致しない場合がある。その間隙を人間は確認という行為で埋め合わせる。機械人形と人間の違いも、言うなればそういうことだ。頭の中ではその人型が人間ではないとわかっているのに、首に付けてあるチョーカーを一度隠してしまえば見分けがつかなくなる。これがどういう意味をもつかわかるかね?」

「大雑把には。人間と機械人形が、少なくとも外見上では見分けがつかないということは、つまり両者の違いは決定的なものこそあれどその程度でしかない、ということですね。遠すぎるようでいて、実はいちばん近いところにいる」

「そういうことだ」

 床山秀夫は、文字通り覚えの良い教え子を褒める教師の笑みを浮かべた。

 秋津清隆は気が付く。これは一年生の頃に受けた講義の続きなのだと。本来は学ぶはずではない何かを、彼は自分に教えようとしている。きっと、他の誰にも伝えたことのない何かを。

「だからこそ、私はあえて機械人形を人間として見るし、そう扱う。私自身は彼女らを作ることもできる能力があるが、それでも人形をそう扱わずにはいられない」

「痛いほどよくわかります。しかし教授、僕はその話をするためにここまで来たわけではありません。お聞きしたいのはもっと別のことです」

 ほう、とかけている黒縁眼鏡を片手で直しながら、彼は挑む様に真正面から清隆を見つめ返した。

「拝聴しよう。私に答えられればいいのだが」

「機械人形が自殺する、その原因についてです」

 一瞬、床山秀夫は悲しい顔をした。目は清隆を見つめながら他の部分に思いを馳せているようで、着ているセーターの茶色がオレンジと重なり、その体から筆舌に尽くしがたい哀愁が漂っている。

 少し間を置いてから、床山は再び眼鏡をかけなおし、思い切って顔から外すと、ハンカチでレンズを拭き始めた。

「なるほどな。その質問は予想はしていたが、いざ問われるとなると心が痛む。秋津君、君はなんと辛いことに関わってしまったのか」

 心の底から同情する素振りを見せつつも、彼は顔を上げる事は無かった。清隆は空になった缶コーヒーをテーブルの上に戻して、一歩踏み出す。

「やはり、知っているんですね。機械人形のもつただひとつの欠陥を」

「欠陥、だと?」

 目の色を変えて、彼は勢いよく顔を上げた。はたと気が付き、手に持っている眼鏡を再び鼻の上に引っ掛けながら、深いため息をつく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ