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「想定外、ただし事実」

「は?」

 唐突にそんな事を言われれば誰でも間の抜けた反応をするとは思うが、教授に向かってこんな態度を取るのは無礼に過ぎたかもしれない。恐る恐る目の前に座る男を見やると、彼は親しげで、朗らかな表情を浮かべていた。怒ってはいないらしい。むしろその反応を喜んですらいる様子だった。つくづく不思議な男である。実はこの研究棟では、床山秀夫は多少ネジが外れた人物として知られているのだ。恐らくは、他人に寛容に見えて実は無関心を貫いているだけの孤独な性格な故に。

 床山秀夫はどこにでもある中流家庭からの出身で、都内の高専を卒業するといちど海外へ渡って海外の大学へ進学、そのまま卒業証書を引っ提げて日本に帰ってきたかと思ったらこの大学で研究職に就いた。彼の業績は大きく、機械人形の技術十年分の進歩を一年で成し遂げたとも言われている。それほどの才能と学歴の持ち主ならば企業への就職など引く手あまただろうに、海外や政府の研究機関ではなく、何故この大学に舞い戻ってきたのかは誰にもわからない。本人いわく思い入れがあるからという話だが、彼が生まれ育った故郷からも遠く、特に彼の人生に関係のある立地でもないこの大学に思い入れなどあろうはずも無い。彼の言葉ですらそのような有り様なのだから、実は教授の亡くなった想い人がこの大学に在籍していた、そしてその彼女は機械人形だったのだ、と学生たちの間で根も派の無い噂が立つのは仕方のない事だろう。

「どうかね? 名前まで言わなくともいい。イエスかノーで答えて欲しいんだが」

「答えなくてはなりませんか」

「嫌なら別にいいさ、強要はしない」

「……強いて言うなら、イエスです。たぶん」

 床山は頷くと、湯呑を手の中で回した。

「やはりな。となると、この件に関しては、私から言えることはもう何もない。鳴海君、君が恋慕を抱いている彼は、秋津清隆君じゃないか?」

「そうですが、何故、彼だと?」

「他に人がいない。失礼を承知で言うが、君は交友関係があまり広い方ではないし、彼であってほしいと僕が願ったからでもある」

 床山秀夫は湯呑を二つ手に取ると、唐突に席を立った。

「いろいろ話そうかと思ったが、邪魔になるだけだろうからやめておこう。今日はここまでだ。秋津君のためにも、君は今日は帰りなさい。データについては明日にでも煮詰めればいいだろう」

 言外に示した退出の指示に、鳴海遥はおとなしく従った。

「床山教授。今日は夜分遅くに、本当にありがとうございました」

「構わないよ。さ、もう行きなさい。君みたいな綺麗な女学生に長くオフィスにいられると、よくない噂でもたちそうだ」

 もちろん、今の時間に研究棟には誰もいない。噂など立ちようもないのだが、鳴海遥は笑みを残して部屋を後にした。

 独りで非常灯に照らされた廊下を歩いていく。床山秀夫のオフィスでは早くも明かりが弱まる。彼は再び眠りの床についたらしい。薄くなった自分の影を見つめながら、鳴海遥は微笑みと共につぶやいた。

「そうよ。私はあいつに惚れてるんですもの」

 不貞腐れた言葉は、しかし誰にも聞き取られることなく虚空を彷徨った。



  *



 いつも通り、涼子に見送られて家を出る。

 今日から十月だ。暦の上では既に秋。だというのに気の早い冬が先にやってきたのか、列島は寒波に見舞われていた。まだ本格的なものではないとはいえ気温は例年に比べて五度近く落ち込み、人々は遂にコートを解禁した。襟を高くして歩いていく大人の間に挟まれながら、歩きなれた通勤路を革靴で踏みしめていく。黄色い点字ブロックのごつごつとした感触が土踏まずに当たる。見ず知らずの他人と肩を擦り合う。さすがに機械人形の姿は通勤時間帯にはあまり見なかった。

 涼子はもうかなり落ち着いた。そう思った矢先の大桟橋での出来事だったために安心はできないが、もっと危ない状態に陥るより良い。絶対に家から出ないように命令しておいたし、何かあればすぐ携帯端末へ電話することも付け加えておいた。

 しかし、なぜ機械人形は自殺するのだろうか。ずっと頭を悩ませた疑問にいまいちど向き合うが、さして真新しい考えも浮かびはせずに憂鬱な吐息ばかりが漏れる。人形達が意識の根本にある動機制御の神髄、機械人形の三命題を無効化することのできる致命的欠陥。傷一つない芸術さえ評された精神構造の巨大な欠落。そのメカニズムがどうしても思いつかず、ここ五日は悶々と過ごすことになった。

 電車に揺られているうちに眠気に襲われる。混雑する電車の車窓から摩天楼が真っ直ぐな日差しに焼かれる光景を眺める。つり革を握る手は冷たく、車内で嫌というほど味わわされた水中にいるような息苦しさは人と人とを隔てる緊張感。誰もが窮屈な世界で自分の立つ場所を主張して譲らない。そんな他人の空気を、機械人形には感じ取ることはできないのだろうか。少なくとも人間のように肌で物を感じているわけではない。彼女らのクオリアはまた別の形で彼女らの意識へと伝わっている。もしかしたらそこに鍵があるのかもしれない。

 電車が止まる。惰性に流されて電車を降りた。ドアが開けばどっと押し寄せてくる外気に逆らうようにしてホームに降り立ち、大勢の人々がその場を後にする。入れ替わりに同じくらい見ず知らずの誰かが乗り込んでくる。閉じて、走って、開いて、閉じて。その繰り返しを何かの競技のように電車は延々と続けている。まあ、それが営みというものなのだろう。三命題の第三条にもある生活に関する条文。

 改札を出る時、とあるコメンテーターがテレビで熱論していた、機械人形は計算して生きるが人間は行き当たりばったりで生きているというスローガンを思い出す。

 それは違う。きっと、人間だって計算のもとに生きているのだ。意識して数を数える事ではなく、自分の選択が目の前の現実に対してどのような影響を与えるのかを無意識のうちにそろばん勘定しながら生きている。計算はしていてもその結果を目にしていないだけ。機械人形は演算による予測という形で、機械的にそれを模倣しているのだ。自分の直観を持ってはいるが、それは人間と同じように衝動として認識されるものではない。同じように衝動を感じることはあるものの、それに突き動かされるほど未熟な精神を持ってはいないと言うべきか。人間と機械人形は別物だ。その事実が、今の秋津清隆には何よりも重く感じられる。これほどまでに、彼女が人間とは違う別の何かなのだと思い知らされているというのに、その都度、彼の中で彼女を愛する感情は揺らぐことの無い堅牢なものへと変わっていく。

 もう誤魔化すことなどできないくらいに、秋津清隆は涼子を愛してしまっていた。

 機械人形偏愛症オートマチック・シンドロームだ。自嘲的な笑みを口元に閃かせながら、いつの間にか目の前にそびえている雑居ビルを見上げる。灰色に塗られた塗装は所々が剥げ落ちてはいるものの、まだ改修するほどではない年月を経た建物は物言わぬ裁判官のようだ。自分が品定めを受けているような気分で、清隆は建物の足元にある階段へと向かった。

 機械人形偏愛者。生物は生物に恋をすべきであるという常識から外れた落伍者。機械人形を愛することは様々な問題を内包する。性生活や互いの生活、日常に深く食い込んだ問題の数々は口に出すことこそはばかられるものの、人間にとっては一大事だ。いつか鳴海遥は問うた。秋津清隆は涼子をどう見ているのかと。そのことについての答えは、まだ見つけてはいない。自分でも納得する答えが出たとき、またそれを鳴海遥に伝えたとき、彼女が何を考えるのか。恐らくは嫌われるのではないか、と清隆はぼんやりと思う。しかしここまで協力してくれている彼女に偽りの答えを返すなど、彼には到底できないことだった。




 事務所に入ってみれば杤原惣介しかおらず、その彼はデスクに直接腰を下ろしてビル群を眺め呆けていた。勤怠管理装置にカードを翳していつも通りの出勤を完了しても、彼は電子音に気付かずそっぽを向いている。自分のデスクの上に鞄をおろし、椅子を引いても振り返る気配が無いので、痺れを切らして声をかけた。

「所長、おはようございます」

 彼はゆっくりと振り返ると、ぱっと顔を輝かせた。しかしすぐさま無表情に戻って、照れ隠しか咳払いを挟んでいう。

「おはよう、秋津君。どうだね、涼子ちゃんの調子は」

「上々ですよ。涼子もだいぶ落ち着きましたし、友人の機械心理学者にも診断を頼んでます。そろそろ結果が届きますから、これからどうするべきかも考えるつもりです」

「それはよかった。私もひと安心だよ」

 目に見えて肩の力を抜き、杤原は行儀悪く座っていたデスクから腰を上げてデスクチェアにどっかりと座った。よく見れば目の下に濃い隈ができている。まさか自分との約束を守るために徹夜をしたのだろうか。

「お疲れのようですね。コーヒーでも淹れましょうか?」

「ああ、復帰早々に悪いが頼むよ」

 給湯室で二人分のマグカップにお湯を注ぎながら尋ねる。

「そういえば、冴子さんは? 今日は出勤のはずですよね」

 二人は恋仲にある。既に涼子から聞いた話は清隆の中でその域にまで達している。両想いなら恋仲だろう、そんな短絡的な発想ではあるが、もう付き合っているも同然の状態である二人だからこの解釈でも問題はあるまい。いっぽうで、部下から大それたことを思われている事務所長は何も気づくことなく、能天気に欠伸をかみ殺していた。

「寝坊だよ。もう連絡はもらってる。何日か前から徹夜していてね、よせばいいのに事務所で待っていてくれたのさ。女性に寝不足は大敵だから無理はするなと言ったんだがね」

「ははあ、それはまた」

 前島冴子が事務所に夜遅くまで残っていたということはつまり、徹夜続きだった彼の体を案じていたからだろうか。もしその動機が恋慕からくるものだとして、それについて話を早く終わらせたいのか簡潔な説明で話を終えたところからみて、やはり杤原惣介も何がしかの感情を彼女に抱いているのだと再確認する。しかしそうなると、二人は本格的に付き合う気は無いのだろうか。杤原惣介のことだ、前島冴子から寄せられる好意に気付いていないわけでもあるまい。何しろ自分の徹夜に付き合ってくれる女性など、世の中にはそういないからだ。機械人形でもない生身の人間ならば特に。

 マグカップにドリッパーからコーヒーを注いで事務所に戻る。彼にカップを手渡すと、しみじみと杤原はコーヒーを味わった後で切り出した。

「それでだな、秋津君。機械人形の自殺に関することなんだが、ある程度は絞りこめてきたぞ」

「そのことですか。僕もこの五日間、ずっと気になってたもので。ぜひ聞かせてください」

 それから、杤原惣介は語った。まず六道清二から非公式の依頼が来たこと、その依頼が政治圧力を受けて頓挫した捜査を引き継ぐものだったこと。この六道という警部補はなかなかの切れ者で、滅多に人を褒めない杤原惣介が一言、侮りがたいと形容したことに清隆は驚いた。そこから被害に遭った家庭にはどこかしらの企業で重要な役職を任されているか、その精神的被害はどのようなレベルにあるかを調べた。さらにその後の日本労働組合東京支部への訪問、その後の闇討ちなど、最後などはバイオレンスな雰囲気が漂っていたこともあって清隆は肩をすぼめた。

「所長、まさかとは思いますが涼子の件で責任を感じてそんな強硬手段に出ているのだとしたら、僕としてはこの上なく申し訳がないのですが」

「あのな、確かにそういう側面もあった。だが、今回このような運びとなったのにはちゃんと理由がある。この機械人形連続自殺事件、どこかの誰かが見つけた機械人形を証拠すら残さずに破壊する方法を、第三者が私怨を晴らすという卑小きわまりない理由で悪用しているのは推測するに難くない。つまり結末はおぼろげながら見えているんだ。そこまで一気に近づいているだけで、君が負い目に感じることはなにもないぞ。それに、今回のことで俺を気づかう必要はないと伝えだじゃないか」

「はあ。重々承知はしていましたが、まさか殴られにいくとは。勝つ自信があったんでしょうが、もう少し穏便な手段を選ぶことはできなかったんです? こんなこと、涼子が知ったら罪悪感のあまりうちのベランダから飛び降りかねませんよ」

 冗談なら冗談になっていないし、本気だとしても冗談めかしているものだからなかなか反応に困る。複雑な顔のまま杤原は窓の外に広がる陰影が濃くなった影に彩られるビル群に視線を投げた。烏が二羽、どこからか飛んできてガラス壁の前を飛んでいく。

「まあ要するに君と話し合いたいのはだな、これからどうするべきかということだ。涼子ちゃんのことがあるんだから、君はすでに当事者だ。これ以上の調査はおそらく相手側としてもあまり好ましいものではないだろうから、また別の攻め口を見つけないと厳しいぞ」

「それなら、気になることがあります。機械人形が自殺する、そのメカニズムがなんであるかは置いておくとして、社会にこれほど普及している機械人形にそんな欠陥があると知れた場合の社会、企業ともに波及する衝撃は相当なものになるはずです。労働組合、ひいてはその裏で暗躍しているらしい反機械主義団体がこの情報を活用しない手はないと思うのですが、何故、労働組合のような第三者に使われるに任せているのでしょう?」

「そこは私も考えていたところだ。君が言いたいのは反機械主義団体が機械人形を社会から排斥するための格好の攻撃材料を得たにも関わらず、なぜそれを表だって騒ぎ立てないのかという点だろう? 私が思うにだな、これには二通りの仮説が立てられる。ひとつめの仮説は、彼らが労働組合にこの手法で機械人形を自殺させ続けて、その結果をもとに自分達が批判するという構図を取ろうとしている場合。機械人形にはこんな欠陥がある、実際にこれだけの人形たちが所有者への私怨を晴らすためだけに自殺させられている。そんな論法で挑めば、世論はどんな判断を下すか。機械人形の商業的価値は一気に急下降し、製造業に携わる労働者から大企業にいたるまでとてつもないダメージを受ける。社会の隅々にまで人形は進出しているから、彼ら、彼女らを仕事で使っている人間にとっても大きな損失だ。一方で、労働組合が人形を自殺させたことになっているから反機械主義団体は問題への関与を言及されずに済む」

「社会構造の末端まで駆け巡る衝撃に恐れをなしたのでは? 特に一次産業でしょうか。農業、漁業、三次産業になりますが福祉関係も大打撃を受けますよね。これらの職業は人手が最も必要な分野ですし、需要も大きいわけですから。あまりにも大きな傷を負わせては社会そのものが衰退しかねませんし、そこで踏みとどまったとか」

「それも無きにしも非ずだが、彼らはどちらにしろ機械人形の台頭が人類を衰弱死させるとまで言っているんだ。そんなことを気にする前に、社会への傷を最小限にして最大の効果を得るための方法を考え、それを実行するだろう。時間はあったはずだ。そこでふたつめの仮説になるわけだ。それはつまり、もしかして彼ら自身は機械人形を自殺させられることを知らないのではないかという仮説だ」

 不可思議な仮説に清隆は眉を潜めた。重大な論理の矛盾があった気がする。

「よくわかりません。機械人形の欠陥を見つけたのは反機械主義団体ではないんですか?」

「それは先入観というものだよ、秋津君」

 にべもなく返される。杤原は椅子をくるりと回して、勢いよく伸びをした。やはり疲れがたまっているのだろうか、欠伸が止まらない。五度目にようやく睡魔を噛み殺して、しょぼつく目をごしごしと手の甲で擦った。

「確かに反機械主義者たちが機械人形の欠点を見つけ出そうと躍起になっていることは確かだが、だからといって彼らにしか見つけられないのかといえば、もっといい人種がいる。今回の場合は特にな」

 清隆は事務所の本棚に並ぶ題名だけで頭痛がしてくるような学術書を見やる。歩み寄って一冊を手に取ると、鳴海遥が大学時代に使っていたものと同じものだった。タイトルは「人形心理の構造」。厚さ三センチはあるハードカバー本の茶色い表紙を懐かしそうに捲りながら、納得したように独り言ちた。

「なるほど、機械心理学者ですか。誰かは特定しきれないが、欠陥を見つけたのは専門家であると所長は考えているんですね。言われてみればその通りだ。専門家以外に機械心理学を扱うことは、ほぼ不可能ですから」

 さわり程度とはいえ、実際に機械心理学を学んだことのある人間ならば行きつくのにそう難しくない結論。少し自信を失いながらも納得せざるを得ない。清隆のように大学で専攻ではなくひとつの講義として学ぶ場合、機械心理学で主に応用している多分野にわたる技術の基礎を学び、その成り立ちや構造に触れる事が主なとっかかりとなるために、機械心理学を専攻している鳴海遥のような機械心理学者志望の人間にとってはいちから学ぶより簡略化された体系を学習することになる。まるで別の学問であるかのように取捨選択された内容を取り扱うため、機械心理学者を志して学ぶ者以外には本当の意味で機械心理学を理解することはできない。それはちょうど、秋津清隆と鳴海遥の対比でもある。清隆は機械心理学について人並み以上の知識を持ってはいるが、鳴海遥のように理解して自分の血肉としているわけではない。理解することと知識として蓄えることは根本から異なる。なればこそ、涼子の異常について、清隆は彼女を診断する事すらままならなかったのだから。

 それにしても、機械人形に自殺させることが可能という事実はいま考えなおしてみてもまだ信じられないほどだ。これを防ぐために機械人形の三命題があるのではないのか。そもそも動機から制御されている人形が自殺できるということが、どのようなことを意味するのか。それはオートマチック・テーゼが機械人形が人間を傷つけないために築いた防波堤が、実は何の役にも立たないものであったと証明することに他ならないのではない。

 突然、襲いかかってきた悪寒に清隆は身を震わせる。機械人形が自殺するのなら人形たちが人間を殺すことも起きうるのではないか? 第三条が無効化されたのなら、第一条だって絶対ではないだろう。自分の家で命令を聞くだけだと思っていた人形が自らに牙を剥きうると知った時、人々はどんな反応を示すだろうか。排斥? それとも擁護? 安全だと思っていた相手が突然にして暴力をふるってくる恐怖は想像するに余りある。

「おれとしてはこの可能性は信じたくない。機械人形を生み出した機械心理学者が彼らを滅ぼす。それは創造主にとって当然の権利なのかもしれないが、そんな責任の取り方は早計に過ぎるし無責任だ。意志を持った何かが自分を傷つける可能性があるなんて、そんなことは前からわかっていたことでもあるからな。だからこそ機械人形の三命題という処置を施したというのに、人々は敵対心や闘争心といった、人格にとって必要不可欠なものが機械人形から根絶されたと考えている」

「オートマチック・テーゼによる動機制御は、人形の行動原理そのものを縛る巨大な枷です。とてつもなくシンプルで、故に強力なものですが、枷をはめるということは対象を駆逐したことにはならない。むしろ逆です、生かすために枷をする。人形たちが人間社会の中で存在していくためにはどうしたらいいか。三命題は人間が考えた必要条件なんです」

 ある意味では、機械人形の三命題は社会において機械人形がいわれの無い理由で排斥されることを憂えた、製作者の愛であるともいえる。しかしなんのために? 誰が、どうしてそこまでして機械人形を生み出そうと思ったのか? そんな清隆の疑問とは裏腹に杤原惣介は淡々と話を進めていく。

「機械人形が作られた当初、まず懸念されたのが人間へ謀反を起こすことだった。君はまだ若いから当時は覚えていないだろうが、それはもう大騒ぎだったよ。当時はまだロボットというものが日常には無い概念だったからな、どこか工場の中で腕だけの個体を見かける程度だった。そして当然ながらアレルギーを起こす人々が出てきた。ロボットは人間と比べれば頭も回るし、強い。だが人間と違って、自分の行動に疑問を持つことが無い。ひとたび暴走すればもう説得のしようがないんだ」

 それが人工意識とプログラムの違いだ。プログラムは自分で判断をする主体が無い。構造としては処理を担当する部分を分けてネットワーク化し、それぞれの関数が与えられた情報のみ計算し、定められた場所へ解答を渡す。それをまた他のプログラムが処理をする、これの繰り返しだ。関数ごとの序列が定められていても、厳密にどのプログラムも同じ原理でできた、唯一性を持っているわけではない。人工意識は途方もない数の関数を従えているが、その主体は自分自身、精神という名の迷宮の中に確かに有しているのだ。その過程の多くをどこか自分とは別の何かに依存していると半分自覚している。そうなると、客観的な要素も入ってくるから途端に疑問を感じることはなくなってしまう。

 これは正しいことなのだろうか。もしかしたら誰かが傷付くような結果になったりしないか。自分自身は納得できているか。誰しも自分自身を信じ切る事は出来ない。疑念はどんな人間の心にも、常に表面にこびりついている。疑念はいくら洗っても落としきれない汚れとなり、それを抱えて生きているのだとすれば、傷つける疑念があるからと機械人形だけを責めることは、誰にもできないではないだろうか。

「それで。所長はどっちだと考えているんですか。この欠陥を見つけたのが反機械主義者なのか、それとも機械心理学者なのか」

「おそらくは後者だろう。もしかしたら……いや、なんでもない。とにかく、君にやってもらいたいことがある。日本労働組合東京支部の金の流れからどこかの政治関係者とつながりがないか調べてくれ。資料ならある程度まとめてあるから、目を通すだけでもいい。復帰早々にすまんが、報告書を夜には読みたい。無理なら無理で構わないぞ」

「やりますよ。リハビリにはちょうどいいですし」

 冷めたコーヒーを淹れ変えようと席を立った時、事務所のドアが開かれた。二人は等しくそちらへ首をひねると、細い腕がドアの隙間からぬっと出てくる。まさか、まだ寝足りないのだろうか。清隆は白昼夢かと思われる光景に目を擦って自分の頬をはたくが、痛いし寝ぼけてもいない。なら現実かと面倒くさそうにもう一度ドアへ目をやると、真っ黒なスーツを身に纏った女性がやや艶の失せたセミロングの髪を手で梳きながら入ってくるところだった。

「遥。何してるんだ、こんなところで」

 鳴海遥は薄いメイクをした顔をぱっと輝かせるが、すぐに元の無表情に戻ってつかつかと清隆に歩み寄り、肩から下げている黒いショルダーバッグを応接用のソファの上に放り投げた。どすん、と音を立てて鞄は着地し、思わずびくりと体を震わせる。

「何をしてるなんてひどい言い草ね。涼子の診断結果、なんとか納得のいくものができたから持ってきたのよ」

「秋津君、その女性は?」

 珍しく当惑している杤原惣介を一瞥すると、人当たりの良い笑みを浮かべて鳴海遥はお辞儀をした。

「突然すみません、秋津清隆の知人の鳴海遥と申します。少し火急の用がございましたので、こちらまで伺わせていただきました」

「ご丁寧にどうも。私は秋津君の上司で、杤原惣介といいます。それで、一口に知人といっても二人はどういったご関係で?」

 いらぬ探りを入れる彼の言葉に答えながら、鳴海遥は手際よくラップトップを鞄の中から取り出してソファの前にあるテーブルの上に置いた。スリープ状態だった画面が目を覚ますと、角度を調節しながら清隆を手招きする。

「大学時代からの友人です。そんな大したものではありません。清隆、こっちに来てったら。あなたのフィアンセの様子を確かめたくはないの?」

「フィアンセって、結婚するわけじゃないだろうに。君のそういう言い回し、すごく意地が悪いと思うぞ。この前だってそうだ」

「いいから来なさいっての。このわからず屋」

「私も見よう。いいだろう、秋津君?」

「構いませんよ。所長も無関係というわけではありませんし」

 杤原は頷いて立ち上がり、清隆は三人分のコーヒーを淹れるために給湯室へ向かった。




「それじゃ、はじめるわよ」

 いかにも眠りたりないといった顔で鳴海遥が言う。恐らくは杤原惣介と同じく徹夜を繰り返していたのだろう。涼子のことで当事者の一人である自分だけがぬくぬくと日常を謳歌していたことにあらためてうしろめたさを感じたが、何とか顔には出さずに頷き返した。

 ふたつある応接用ソファの入り口側、ガラス壁から新宿の街並みを一望できる位置に鳴海遥が陣取り、その反対側に秋津清隆と杤原惣介が並んで座った。ラップトップから天井に吊るしてあるプロジェクターに無線接続し、本棚の前に引っ張り出してきた備品であるスクリーンに、彼女が整理してきた波形画像などがいくつか投影される。難解な図形の数々はどうやらフーリエ変換らしいことまでしかわからない。それを見越してか、彼女はポケットから取り出したレーザーポインターを使って説明し始める。

「これは涼子から取り出した周波数ごとに成分を内包したフーリエ変換図。元の値は数値としてあるけれど、それこそ機械人形でもないかぎり難解なものだから分析にはこっちを用いたわ」

 手際よくタブごとに分けられた波形図が切り替わっていくが、杤原惣介にも秋津清隆にもその意味を理解する事が出来ない。目を白黒させている二人を見て、基本的なことから説明をする必要があると感じたのかいちばん大きな図を表示する。

「フーリエ変換すると、波形成分が周波数毎に分離格納された状態になっているの。これは何ヘルツの周波数帯にどれだけの波形成分が含まれているかを表すヒストグラムで、横軸のメモリに該当する周波数帯にはどんな波形成分が含まれているのかを端的に示しているわけ。機械人形は論理集積回路や中央演算装置などの様々な部位から送られてくる信号を高速で処理して人工意識を保持している。それらの状態を見るには数値として出された情報をフーリエ変換することで、どの部分にどれだけの反応量が含まれているのかを確認できる。清隆、これくらいは講義でやっていたでしょ」

 後頭部を掻きながら、清隆は申し訳なさそうに俯いた。

「やりはしたけど、正直なところフーリエ変換だけは苦手でね。僕が習ったのは体系と基礎部分で、こうした分析するための手法なんかはさわり程度だよ。この波形図には見覚えがあるけど」

「あら、そうだったっけ。ま、床山先生のことだし肝心な部分をやってないのは納得ね。あの人、自分でやる価値がないって決めたらやらない人だから」

 レーザーが消え、代わりに機械人形の三命題を示す三位一体となった三角形の図が表示された。

「話を戻しましょう。わかりやすく説明すると、機械人形の心理は周波数帯として見た時、低周波数を低周波数が第三条、中周波数が第二条、高周波数が第一条と、それぞれが機械人形の三命題に準じた成分を内包しているの。人の意識と同じで、何か行動をする場合には必ず複数の動機がないまぜになっている。お腹が空いているけど先に仕事をすませてしまおう、という具合ね。機械人形の場合はそっくりそのまま三命題が当てはまるわけ。もちろん個性として固体毎に違ったものを好む傾向はあるにはあるけれど、そうした自分の中で行われる欲求のぶつかり合いにおいて、第一条が強い位置にあるために、より意識の中に上る頻度が多いから周波数は必然的に高まっていく。比較して、第二、第三条と続いていく三命題の成分は、それぞれが中、低と続くわけ」

「なるほどな。日常において機械人形が真っ先に考える事は、人間を傷つけないためにはどうしたらいいかということだ。それが積み重なれば数も多くなり、意識した回数が周波数という指標となって表れるということか」

「その通りです、杤原所長。機械人形が何かを感じたり考えたりする場合、この三命題から逃れることはできない。人間が欲求から解き放たれることがないように。私は診察するときに大方の機械心理学者が行うものと同じように、特定の質問に対する反応としてサンプルを取った。話題は彼女が機械人形の自殺現場を目撃した時のことを話したわ。この波形はその時の彼女が考えていたことを示している」

 鳴海遥は、ぐるぐると最初のヒストグラムへ戻ってレーザーポインターで示した。

「思考までは読めないけれど三つの命題がどれほどの割合で動機として組み込まれているのかを見ることはできる」

 次の波形図に移ると、座標系などの表示は変わらないまま波形部分のみが変化したものに切り替わった。

「この波形を見る限り、おかしい点がふたつあった。ひとつは、ショッキングな出来事を思い出しているというのに高周波数帯と低周波数帯に多くの成分が含まれているということ。ふたつめは、確認できる限り妙なノイズが入り込んでいるということ」

 目の前で機械人形が自殺するのは同族である涼子にとってショッキングな出来事なはずだが、その時に反応したのは第一条と第三条ということだ。通常、目の前で人形が自殺するなどした場合、対象が人間ではないとわかっているから第一条は適用されないはずである。同じ人形ということで第三条に顕著な反応が現れるにとどまるはずだ。しかし波形を見るかぎり、ほぼ同量の第一条と第三条の成分が含まれており、これが異常な診断であることを鳴海遥は指摘した。

「彼女は対象が機械人形であるのに、人間にしか適用されないはずの第一条で過剰な反応を示している。現時点で私が話した時には、彼女は取り乱してはいたけれど正気を失っている様子はなかった。波形にも判断力の欠如などを示す乱れた波形なんかは見られなかったし、会話も成立していたしね。けれど、彼女は第一条に反応した。清隆、どうしてだと思う?」

「え、僕かい? そうだな、機械人形といえども人間に姿形が酷似しているからじゃないかな。僕の口から言うのもどうかと思うけど、実際に人間だって機械人形がチョーカーを外したら区別がつかなくなるだろうし」

「それは不正解ね」

 素っ気なく突き返され、清隆は自分の元に戻ってきた解答を持て余し気味に頭の中で反芻した。

「あなたが用意してる解答はもうひとつあるはず。自信満々に、ここで言ってもらいたいわね」

 確かに、答えはもうひとつある。しかし羞恥心の塊めいたこれを口にしてしまうのは気が引けた。それを見透かして、鳴海遥は剣呑な目つきで、杤原惣介は面白くて仕方がないといった表情で催促してくる。

「どうかしら、清隆?」

「わかったよ。彼女が第一条に反応している理由だったな」

「そうよ。言ってごらんなさい」

「僕だ。僕が、その原因だろう」

 言ってのけてしまうと、あとには顔が赤くなるほどの羞恥心が溢れてきた。鳴海遥は満足そうに頷くと、柔らかい笑みで清隆を見つめる。杤原惣介は初心な彼の様子を楽しそうに眺めていた。

「正解。けど、恥ずかしがる理由なんてどこにもないのよ。私はそれでいいと思ってる」

 しばし沈黙する彼女を見つめながら、最後の一言はまるで自分に言い聞かせているみたいだと清隆は思った。やがて彼女はコーヒーで喉を湿らせると次の説明に移る。その口調には今しがた見せた逡巡は微塵も感じられなかった。

「第一条がはたらくのは、対象が人間である場合。この時、涼子の傍には杤原さんと清隆の二人がいた。そして失礼ながら、杤原さん、あなたは涼子にとってこれだけの動揺を引き起こすだけの親密度が不足している。となれば、あとはあなたしかいないの」

「待ってくれよ。他にも大勢、周りには人がいたんだ。彼らに対して反応していたんじゃないのか?」

「もっともな指摘だけど、今回は違うと言い切れるのよ。さっき妙なノイズが入ってるって話したのを覚えてるわよね。涼子が気にかけていたのがあなただとしたら、この話にも説明がつくの」

 そこで、鳴海遥は多くの感情がないまぜになった瞳で清隆を見つめた。清隆は辛抱強く彼女が口を開くのを待ち、そして、彼女は清隆が目を逸らすのを待っているようだった。

 しばらくの沈黙の末、先に観念したのは彼女の方だ。溜息と共に、プロジェクターで表示しなおした波形図を指さす。

「この波形には少し迂遠な方法であるノイズが混入されていたわ。でも最初はどんなものなのか、どう抽出すればいいのかが全然わからなくて、床山教授に泣きついたわけ。そうすると、ある仮想の定常波という形で信号を分離することが可能になったの。そこから少しは手こずったんだけど、結果としてこのノイズの意味がわかったわ」

 再び清隆を見つめて、鳴海遥は告げた。

「涼子はね、恋してるのよ。他でもないあんたに」




 大学時代、選択科目で機械心理学を学んだ秋津清隆は、ある教授の一言を鮮明に覚えている。それから一時期、不安定な自分を誰かに心配してもらったりしたものだ。懐かしさと同時に胸に溢れる何か温かいものに改めて触れ、頭の中であの言葉がよみがえる。忘れもしない第一回目の授業で、機械心理学への興味ではなく、ただ大学の単位確保のためだけに席についている学生たちに向かって彼が放った一言。

「機械人形は、人間に恋をしています。しかし恋というものは、どちらか一方が想いを募らせるだけでは決して大団円を迎えることはありません。お互いに恋をする必要があるのです」

 学生たちは笑った。あの教授は独身に違いない。一人暮らしの寂しさを人形で紛らわせているのさ。まったく、あんな風にはなりたくないよな……響く嘲笑と動揺のざわめきの中、秋津清隆だけは教授から一ミリたりとも目を離さなかった。

 彼は毅然と胸を張っていた。そしてあろうことか、真剣な眼差しでもなんでもなく、とても幸せそうに、ただ一人だけ真摯に自分を見つめている清隆に微笑みかけたのだ。

 機械人形は人間に恋をする。しかしそれだけではどちらも幸せにはなれない。当然だ、愛は成就しなければ幸福へと昇華はされないものなのだから。そして、当時は自分が彼女へ一方通行の想いを寄せているだけなのだと思っていた。機械人形が人間を愛することは当然のことだからだ。彼女らにとって最も優先されるべきは人間であって、自分達ではない。命に代えても人間社会は守り抜かねばならないものであるし、個人の生命ともなれば議論の余地なしだ。それは三命題により制御された動機から生まれる愛情。あの教授はそういうことを言っているのだろうかと考えてはみるものの、ニュアンスとしてはもう少し違ったものだった気がして、首を傾げてしまう。

 涼子や他の機械人形たちが人間を愛するように作られているのは知っていた。彼女らにとっては人間が人間を愛するような自然さで人間を愛し、気遣っている。それこそが生まれてきた意味であって、人間のように自分の価値を決めることだけに一生を費やすことはない。人工意識は覚醒した瞬間から、自分がなぜ生まれ、誰のために尽くすのかを情報として持っている。メモリのどこかにある生きる意味を疑問に思うたびに引っ張り出しては確認する。自分が生きているのは何故なのか。これから何を目標に生きればいいのか。模範解答はすべて自分の中に用意されていて、その通りに日常を生きていけばいい。

 それが機械人形である彼女の生き方だった。少なくとも、共に生活している清隆にとってはそう見えた。彼女が炊事、洗濯、掃除をするのも、あの小さなマンションの部屋で独りきりのまま清隆の帰りを夜遅くまで待っているのも、それはすべて彼女自身のためだった。何故なら、彼女はそうあるべくして生まれたから。

 正直にいえば、むかついたと思う。誰かのために働いてはいても、その行動原理は個人に限定されることはない。何かのためには生きても誰かのためには動かない。涼子が秋津清隆に恋をしている。その言葉を、鳴海遥の口から聞くまでは。

「どういうことか説明してくれないか」

 なんとかそれだけの言葉を返すと、彼女はレーザーポインターの光を清隆の額に投影しながら首を振った。どうやら彼女にも説明できないものらしい。今の仕草はそういうサインだ、言うまでもなく。

「誰か、わかる人はいないかな?」

「床山教授なら、たぶんわかると思うわ。あの人、まるで全てお見通しみたいな雰囲気だったから」

 気を利かせて、杤原が横から口を挟んだ。

「鳴海さん、涼子の状態はもうその教授には話したのかい?」

「いえ。データとしては見せましたが」

「なら、彼に聞けば機械人形が自殺する理由もわかるかもしれないな」

 しばしの黙考の末、鳴海遥は頷いた。杤原惣介はマグカップを清隆に向けて振る。

「秋津君、君は床山教授の下へ行くんだ。そこで機械人形が自殺する原因を探れ。私は六道警部補と協力して、裏の事情を探る。一応、君も気を付けておきたまえ。私のように袋叩きにされてはひとたまりもない」

「わかりました。すみませんが、あとはよろしくお願いします」

「気にすることはない。君は仕事をしに行くんだから、給料分は働いてくれよ」

 身支度を始める清隆の横で、鳴海遥も荷物をまとめ始めた。電源を消したラップトップを鞄の中に放り込んでコーヒーを飲み干す。レーザーポインターもポケットの中に滑り込ませ、彼のデスクまで歩み寄ったと思ったら卓上のボールペンで傍にあったレポート用紙に走り書きし、破り取って手渡してきた。唐突に手渡された紙片と彼女の顔を清隆は見比べる。

「これは?」

「紹介状。本当は豪勢な紙に書くんだけど、今は時間がないから。床山先生に会ったらこれを渡しなさい。きっと話を聞いてくれると思う」

 乱雑に破かれ、先ほどの波形図めいた山と谷を描いている紙の断面図をまじまじと見つめながら、清隆は微かにほほ笑んだ。拗ねたのか、鳴海遥が彼を小突く。

「なに?」

「いや、君も変わらないと思って。こういうところは昔のままだ」

 紹介状の端を指さす彼へ向かって、鳴海遥は思いっきり舌を出した。清隆は思わず笑い声を上げる。

「ついてきてはくれないのか?」

「デートのお誘いなら、悪いけど後にして。そろそろ寝不足で昏倒しそうだから。このまま家に帰ってお昼寝タイムよ」

「残念、ふられたか」

 スーツの胸ポケットに紹介状を滑り込ませると、改めて席を立つ。親友の肩を叩いてから、鞄だけを手に取って歩き始めた。

「それじゃ、行ってきます。遥、眠ければここで寝てもいいよ。杤原所長は誠実な人だから平気だ」

「君の私に対する評価は知らんがソファなら貸そう。毛布を持ってこようか?」

「どうぞお構いなく。清隆、はやく行きなさいよ」

「はいはい。それじゃ」

 清隆はドアを開いて、忙しなく事務所を後にした。彼の背中を見届けるや否や、鳴海遥はソファへと力なく倒れ込んだ。杤原が慌てて駆け寄る。彼は鳴海遥の顔を覗き込むと同時に笑みを浮かべた。

「そうだった。彼と関わる人間はろくな目に遭わん。大学からの付き合いとなれば当然か」

 鳴海遥は既に眠っていた。よく見れば目元だけさりげなく化粧が厚い。隈を隠すためだろう。

 杤原は伸びをしながら立ち上がった。どうやら自分も他人のことは言えないらしい。寝ぼけた頭では、毛布をしまった場所を思い出すのにしばらくかかった。



  *



「ここに来て手詰まりか。奴さん、なんにもしゃべりやがらねぇ」

「まだ九時間ですよ。コーヒーでもどうです?」

「頼む」

 傍に置いてあったコーヒーメイカーからドリッパーを引き抜いて、差し出されたマグカップになみなみと注ぎいれる。湯気の立つところからもわかるように、今日はそれなりの冷え込みを見せていた。秋は服を着忘れたのか肩を抱いてあらぬ姿のまま走り去り、日本の真上にはいつのまにか冬が顔を出し始めていた。例年よりも早い寒波の襲来を告げるニュース番組がテレビから流れていたのを思い返しながら、六道清二は背広の襟を直した。。

 取調室には相変わらず簡素なデスクに椅子が二脚、隅には見張りのために監視役が詰める椅子が用意され、今も背の高い若い巡査が制服に身を包んで座っている。いかにも退屈そうな彼の視線の先にいるのはスキンヘッドの大男で、口の端と額に大きな絆創膏がよく目立つ。厳つい面構えは疲労の色が濃く、オーダーメイドであるらしい大きなスーツも皺が寄って泥汚れが目立っていた。杤原惣介と大立ち回りを演じた三人の男のうちの一人で、他の二名はまだ治療のために病院にいる。この件に関しては田邊敦彦以外に頼れる味方がいないために六道清二は彼と二人きりでこの巨漢を尋問し続けることになった。二手に分かれて病院とこちらで取り調べを行うことも案には挙がったが、結局、いつ目を覚ますかもわからない相手を待ち続けるよりもマシなほうを選ぶことになった。

 不眠不休の九時間が続いていた。これまであの男は頑なに黙秘権を行使し続けている。暴行罪とはいえ、拘束していられる時間あと十五時間ほど。あまり悠長に構えている時間はない。

「どうする。このまま持久戦でもいいが、奴の一人勝ちってのは癪だ。何か引っ掛けようにもネタが無い。万事休してるぞ、俺達」

 田邊が相手側からは見えないマジックミラー越しに男を睨み付ける。焦りの色を隠せない上司に肩を竦めて見せると、六道は欠伸をかみ殺しながら熱いコーヒーをむりやり飲み下した。食道を通る熱の塊を感じながら、歯噛みしつついう。

「ハッタリでもかけますか。嘘か真かをあいつが判断できるとは思えませんし」

「にしても、奴を騙すほどの根拠らしい虚偽をでっちあげるには頭がもうひとつあってもいいくらいだぜ。今すぐにどんな餌を目の前にぶら下げりゃいいのかがわからない」

「それはそうですが、せっかく杤原さんが持って来てくれたチャンスだ。無駄にしたくはありませんし、このままここで終わるつもりもありませんよ」

「俺も同じ思いだよ。あの人はあいつをここに連れてくるために、わざわざ殴られたんだ。しかし、探偵だから起訴はしたくないってのは少し痛いな。少なくとも書類送検することにでもなれば、地検に送るまでの事情聴取としていくらでも拘束できそうなものだが、今のままじゃ二十四時間の拘留がせいぜいだ。悔しいぜ」

 確かに口惜しさは残る。二十四時間がタイムリミットだが、こちらとしてもそこまで粘ってもどうにもならないであろうことはわかっている。田邊の言うように、ここは自白させる大きな一手が必要な時だ。

「わかりました。俺がもう一回いってきます。少し心当たりがあるんで」

「あ、おい」

 制止を振り切って、取調室へ通じるドアを開く。男は入ってきた六道に目をやると、またかと言いたげに顔をしかめ、口をへの字に曲げた。厳つい顔の男が子供のように不満を表している落差に思わず微笑みながら、少し乱暴な音を立てて男の前に座った。

「お前さん、名前も言わずに帰るつもりか?」

 男は黙ったまま、じっと六道を見つめている。時折、視線が六道の背中側にあるマジックミラーを見やっては居直った態度で六道を睨み付けた。

「改めて自己紹介しようか。俺は六道清二。警視庁情報犯罪課所属の警部補だ。いい加減に我慢大会も終わりにしようじゃないか。お前ら、なぜあの男を襲った?」

 六道はややすごみながら身を乗り出した。大男は下唇を突き出して見下ろしてくる。

「夜の新宿とはいえ歌舞伎町からも離れているし、まさか酒に酔っていたわけでもあるまい。現逮から一時間も経ってないうちにアルコール検査までしたんだからな、言い逃れもできんぞ。お前らが誰かの指示であの探偵を襲ったのはわかってるんだ」

 何も反応は返ってこない。男はちらりとまたマジックミラーを見やると、また憮然とした様子で六道の顔へ視線を移した。

 彼が杤原惣介を襲った理由は考えるまでも無い、労働組合長からの命令で杤原惣介を口封じに殺そうとしたのだろう。いまごろ日本労働組合の組合長は泡を食って慌てているに違いない。三人とも警察の手の内にあるとなれば、まかり間違って組合を見る大衆の目は非難の眼差しへ変貌だろう。それだけは、彼らとしても死んでも避けなければならない事態だ。裏で企んでいる仲間たちからも顰蹙を買うだろう。機械人形を自殺させているのが労働組合であれ国外の反機械主義者であれ、この三人が杤原惣介に手を出した時点で関係が無いとは言えない。杤原惣介が挑発をかけた内容からして、労働組合が政治家の誰かと結託して機械人形の排斥を企図しその裏で反機械主義者たちも一枚噛んでいるという構図にはさらなる信憑性が加わった。これは組合、ひいては政界に巨大な衝撃を与えるスキャンダルで、当人たちにしてみればこの事実を伏せておくことが何よりも重要。だからこそ、この男たちが手中に収まっている内にどうにか事を進めなければならない。

 気を引き締めて、六道は男を思い切り睨み返した。押してダメなら引いてみろ、だ。今のところ、三人は労働組合との繋がりを消している。労働組合と他の団体、および個人との繋がりを裏付けさせる発言は何ひとつとして、この取調室に設置してあるカメラとマイクに記録されてはいない。物証が無い分、ここで地固めをしておきたいところだった。さもなければ、オフィスで悶々としているあの耐え難い生活へと逆戻りだ。

「それにしても、お前らもよくわからん連中だ。逮捕時には何も獲物は携行していなかったな。素手で殴り殺そうとしていたのか?」

 まだ喋らない。六道はデスクの上に人差し指と中指でリズムを取って叩き始めた。

「拳で殴打、それで殺すにしてもだ。大の大人相手に本当にやれると思ったのか? いや、俺が間違っていたか。絞め殺すつもりだったのか、それとも適当にそこらへんにある物を使うつもりだったのか。どちらにしろ目撃証言もある。お前たちが路地裏まで杤原惣介を尾行し、組織的に暴行を加えたことは間違いがないんだ。計画的犯行ってやつだろう。裏で糸引いてるのはいったい誰かね?」

 男の表情が微かに険しくなった。好機を逃すまいと、六道は身を乗り出した。

「既に調べはついてるぜ。厚生労働省も大変だな、このままでは内閣への不信任案提出にまで秒刻みだぞ。その発端をつくったのは、他でもないお前たちなんだ。そう、お前だ」

 指を指すと、男は怒りのあまり顔を赤らめたが、次第にその顔は血の気が失せていった。ハッタリは勢いが命。ここで失速しないためにも、さらに身を乗り出して男に顔を近づける。

「どうなるだろうな? このまま何も言わないでそこにぼけっと座っているのもいいだろう、お前は交流を解かれて外へ出られる。しかしここから解放された先はどうなる? お前を匿ってくれる誰かがいるか? 少なくとも一緒にドジを踏んだあの二人は無理だろう、傷からして病院から一週間は出られん」

「どこへなりとも身を隠せばいいだろう。東京だけでも隠れる場所はいくらでもある」

 掠れた声で男は言った。その調子だと激励する代わりに、六道は会心の笑みを浮かべて見せた。

「新宿ならばなおさらか? 笑えるぜ、相手はお上だぞ! 俺が所属しているのは天下の警視庁、所属は西新宿警察署だ。俺は情報犯罪課の捜査官。お前に余罪を問うために捜査を開始したら何人の捜査官がお前のにおいを嗅ぎ分けて追いかけると思う? お前ひとりでまんまと逃げおおせると本気で思うか、自分に聞いてみろ」

「無能な警察なんかには捕まらない。お前らがニュースの中でどれだけ醜態を晒してきたか、俺は知ってる」

 六道清二は大笑いした。遠慮なしに、盛大に。半分は偽りの笑いで、もう半分は本心からの笑いだった。男は不快そうに顔をしかめ、青ざめた顔とスキンヘッドの生え際で脈打つ血管が彼の動揺を如実に表わしている。これ以上ないというくらい完璧な舞台を与えられた熟練ダンサーの如く、自分の外見を微妙なさじ加減で調整しながら、六道清二はなおも続ける。

「こいつは驚いた、お前でもニュースを見るのか。いい機会だから教えてやろう。マスコミは警察の不祥事はよく報道する。何故かというと、いちばん視聴率が取りやすいからだ。お前は警察が自分の顔に泥を塗るような行為ばかりをしているように見えたんだろうが、悲しいかな、ニュースで取り上げられない出来事のほうが、世の中にはお前が見た情報量の数百倍はあるんだぜ。数千倍かもしれん」

 厳密に言えばその公表されない事実の全てが警察にとって良き影響を与えるものではないのだが、男はそこまで頭が回らないのか、再び絞り出すような声でいった。

「だが、警察が怠慢しているのは事実だ」

「一部ではな。他の部分ではどうだ? たとえばこの警察署。そこにいる巡査が」

 六道に手で示され、若い巡査は心なしか背筋を伸ばした。

「この新宿で麻薬捜査に関わり、犯人を見事逮捕したとする。マスコミはよほど大きな成功でなければ放送しないだろう。お前が見ている警察の不祥事の裏には、そんな捜査一課のエリート刑事から末端の巡査に至るまで、日常の治安維持活動から生まれた功績が山となって控えてる。一概にニュースで醜態を晒してるからってその能力までを甘く見るのはご法度だ」

「俺にどうしろと?」

 ようやく態度を軟化させ始めた男の前で、六道はどっかりとパイプ椅子に腰を下ろした。使い古された椅子が悲鳴を上げるが、無視して背もたれに思いっきり体重をかけ、不遜な態度で男を見つめ返す。

「このままではお前の身に危険が迫っている。それは認めるな?」

 先ほどまでの強硬姿勢が嘘のように、男は素直に頷く。あまり気が進んでいる様子ではないが、こちらの知ったことではない。

「残念なことに、調べは済んでるが証拠がないと保護拘束の理由がなくなる。ここで証言しろ。自分の身に起きていることを。お前が知っている限りの情報をここで自白してもらいたい」

「その手には乗るか」

「そうか。ではこの話は無かったことにする。忘れてくれ」

 おもむろに立ち上がって取調室から出て行こうとする六道に、男はコンマ一秒以下の逡巡の末、食い下がるように言った。

「松田正一。厚生労働副大臣、現機械人形社会適性化委員会委員長」

 男の言葉に振り返ると、彼は息継ぎをするがごとく語を継いだ。

「俺はあの男に命令されて杤原惣介を襲った。なんでも、日本労働組合と他の外国にある団体と協力して、どでかいことをやろうとしてるって話だった。俺とあの二人で事情を知っているらしい杤原惣介を始末しろと言われたんだ」

「そして事に及んだと」

「ああ。いきなりの連絡だったから準備もクソもなかったが、とにかく杤原惣介の居場所は日本労働組合の組合長が居所を報せてきたもんで、そこからの尾行は難しくなかった。あとはあんたの知ってる通りだよ。なあ、俺はどうなるんだ? 守ってくれるんだろ?」

 六道清二はドアノブを握る手に力をこめた。

「上に連絡はしてみる。とにかく待ってろ」

 そのまま取調室を出て田邊の下へ戻ると、田邊敦彦に手厚く歓迎された。誰かと電話していたらしく、携帯端末を胸ポケットへ滑り込ませている。相手は残りの二人が入院している病院関係者だろうか。軽い敬礼までしている田邊に、六道は疲れた笑みでこたえた。

「よくやった、六道。これでどいつをとっちめればいいか、はっきりしたな」

「ええ。ありがとうございます、田邊さん。あなたなしでは、ここまで辿り着けなかった」

「いいってことよ。それでどうする。厚生労働省、行くか?」

「そのつもりです。いまさら大魚を逃すつもりはありませんよ」

 そうして二人で部屋を出て、人通りの多い廊下を歩いていく。そのままパトカーの駐車してある地下へ続くエレベーターへ乗り込んだ。

 思えば長い道のりだった。大きな溜息をつきながら、六道はエレベーターの壁に背中を預ける。あの交差点で起こった交通事故、現場へ駆けつけた田邊の電話を受け取ってから、既に一ヶ月は経過している。暦は夏から秋に変わり、今回の一件では機械人形の在り方について深く考えさせられた。

 そもそも情報犯罪課として勤務していて、六道清二にとって機械人形は人の形をした機械以外の何物でもなかった。街で見かけても、独り暮らしの身にあれが一台あれば自分の部屋がどれだけ簡単に片付くのだろうと夢想することが、彼らに対して抱く最も大きな感想だった。機械人形とは人間の生活を補助するためだけに存在し、時には人間の身代わりになって死ぬ。仮にも警察官としての職務に就いている彼の耳には道を踏み外した自分の所有者を守るために道路へ飛び込んだ個体や、はたまた見ず知らずの人間が強盗被害に遭った現場で、人を傷つける事ができないために身代わりになって袋叩きにされた例もある。都市伝説として語られるような内容の話はしかし、信じ難い事に事実だった。

 人形にまつわる逸話をいくつ聞いたところで、今までは六道清二の中でさしたる感慨は浮かんでこなかった。所詮、機械ではないか。奴らはそうすることが生きる意味で、プログラムの実行結果が人間の身代わりであったに過ぎない。あるプログラムが実行されて、二足す三は五と表示するのと同じ原理だ。

 その認識が変わったのは、高峰有紗の話を母親から聞いた時だったのか、それとも杤原惣介と初めて顔を合わせた時からか。少なくとも機械人形が人間にとって機械以上の何かなのだと実感させられたのはその時だ。たとえプログラムにすぎない自我だとしても、自分にとって、もうただの機械として彼らに接することは不可能になっていることに気づかされたのは、あの喫茶店で杤原惣介に問われた時。あの時、彼は機械人形が死ぬと表現した六道に、杤原は人間としての表現を用いたのはなぜかと問うた。自分の中にある答えの欠片をかき集めて彼にぶつけただけだったが、今ならばもっと単純な答えが出せるだろう。ただ単に、自分はもう機械としては彼らを見てはいないのだ。血が通っていなくとも、骨が鋼鉄でできていようとも。

 だから、俺は何か他の何かのために国に謀反を起こす。そう決意しながら、六道はエレベーターを出た。冷たい地下の空気が駐車場には渦巻いていて、人気のない場内、エレベーターから続く斜向かいの位置に停まっている覆面パトカーへと歩き始めると、田邊がいった。

「なあ、六道。ひとつ言い忘れたことがあった」

「なんですか。時間も無いんで早く言ってくださいよ」

 六道は電気自動車に乗ろうとドアへ手を伸ばす。

 瞬間。彼の体を、わけの分からない何かが駆け巡った。体の内に大蛇がいくつもとぐろを巻いて内蔵を食い荒らしているような激痛と共に網膜に火花が散り、そのまま遠くなる意識の中で倒れ込む自分の体を感じる。

「お疲れさん。悪く思うなよ」

 驚愕の悲鳴は、しかし空気を震わせることなく、六道清二の意識と共に駐車場の虚空へと溶けていった。

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