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輝けるもの(下)  作者: 長谷川るり
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第9章 渦

9.渦


10月に入ってからの沙希の生活は、本当にのんびりとしたものだった。仕事が忙しく 休日返上でサロンに通っていた時は、あれ程自分の時間が欲しいと望んだものなのに、いざ空白の時間に取り囲まれてみると 意外にする事はなく、ただ退屈で ただ無意味に時間を浪費し、憧れだった“自由”にすっかりもてあそばれている様だった。

 振り返ると学生時代、放課後の時間は家事に使い、また“びいどろ”でバイトを始めてからは少し忙しくなったものの、空いた時間は大地が埋めてくれていた。“サロンラヴィール”に入社してからは 家には殆ど寝に帰る生活で、考えてみると沙希は 自分の趣味と言える物が無い事に気が付いた。27になり、あとほんの何年かで30歳を迎えようという女から仕事を取った時、趣味の一つも無い つまらない人間である事にため息が漏れた。しかし かといって急に趣味が見付かる筈もなく、『私には仕事も彼氏もいなくて、あるのはお酒だけか』と愚痴っぽく部屋で一人 やけ酒を飲む事もしばしばだった。しかし毎晩夕飯の支度をして 母の帰宅を待ち、夕食を共にしながら、

「たまには こうやってのんびり主婦やるのも、いいもんだね」

等と強がって言ってみせる沙希に、母が

「本当の主婦は、のんびりなんてしていられないのよ。次々と仕事があるんだから。沙希みたいな“にわか主婦”が一番気楽で楽しいのかもね」

と冗談混じりに 厳しい現実を匂わせてくれていた。そして、

「ま、まだ独身だから、その位夢があった方がいいか」

と母も笑ってみせたが、沙希にとっては胸に刺さる一言で、

「私、一生独身かもよ。お父さんとお母さんの老後の面倒は 私が看てあげる。大丈夫、任せといて」

「な~に言ってんの。あんた達の世話になんて、なろうと思ってませんよ。それにね『一生結婚しない』って豪語してる人に限って、コロッと嫁に行っちゃうんだってよ。安心して下さい。当てになんてしてませんから」

冗談みたいなやり取りの中に、お互いの本音がちらほら垣間見れた一コマだった。


 しかし、こんなのどかな状況が長続きする訳もなく・・・。

ある日曜の晩、河野家に 長男純平の家族と 沙希が呼ばれ、集まっていた。そして普段口数の少ない父から、重大な発表が告げられた。

「お父さんの今の会社が、来年吸収合併されるのは聞いてると思うが」

父が一つ咳払いをする。

「今月いっぱいで会社を辞める話も・・・聞いてるかな?」

父が時々合間合間に咳払いをする事で、その後に続く話の重大さを物語っていた。子供達を順に見つめ、少しずつ頷くのを確認すると、父が次の言葉に踏み切った。

「会社を辞めて、夫婦二人でカナダに行こうと思う」

沙希は目を丸くした。

「カナダ・・・?・・・旅行?」

考えるより先に気持ちが言葉になったという感じだった。

「カナダに・・・引っ越そうと思う」

沙希の中に、物凄い衝撃が走った。『雷が自分に落ちた感じ』という表現が一番近かった。しかし、兄の純平は落ち着いていた。

「目的は?」

いかにも男性的な、理性たっぷりの言葉だった。

「俺は昔カナダに出張に行った事があってね。貿易の仕事だから 世界中色んな国に行ったんだけど、その中でもカナダは凄く印象が深くてね。あのロッキー山脈見て『老後はあんな所で暮らしてみたい』ってずーっと思ってたんだよ」

父の目は、娘から見てもすっかり少年の輝きで、特に自らの事を『俺は』と言ったあたりが、沙希には何とも“父として”ではなく 一人の“男”として これからの人生を見据えた父の姿が感じ取れた。そして母が、言葉を付け加えた。

「日本っていう この小さい島国じゃなく、カナダの大自然の中で 自然の懐に包まれて暮らしてみたいって 前々からお父さんの夢だったの。だから・・・いい機会だから、お父さんと二人 新婚時代を思い出してっていうのも良いかもしれないと思って」

はにかむ様に笑う母の顔は、もう“母”ではなく“少女”の様なあどけなささえ透けて見える様だった。

「永住・・・するつもりなの?」

沙希が聞くと、それに父が答えた。

「色々永住権の問題とか ビザの事とかもあるから、そう簡単に荷物まとめてハイッ!て訳にはいかない。だからまず来月むこうでの色々な準備を兼ねて、早速行って来ようと思ってる」

「この家はどうするつもりなの?」

今度は兄の純平だった。

「んん・・・。それなんだけどなぁ・・・」

父の口が重たくなった。そして その代わりに母が説明した。

「沙希がまだ住んでるから、あんたにここを任せて行っちゃってもいいんだけど・・・。一人で住むには大きすぎるでしょ?だから・・・沙希ももう大人だし・・・どっかで一人暮らししてみるのもいいと思う」

そんな母の言葉に続いて、父が純平へ真剣な眼差しを投げた。

「私達夫婦は、第二の人生をカナダでのんびり過ごそうと思ってる。だからお前達に残してやれるものは何も無い。せいぜいこの土地とこの家位のもので、それは長男のお前が相続してくれればいい。だから、ここを自由に使ってくれ。このまま住んでくれても構わないし、人に貸して家賃収入を取ったっていい。もしくは自分達の使い勝手の良い様に建て替えたっていいし、綺麗さっぱり売り払って 好きな所にマイホーム構える足しにしたっていい。それは、みのりさんと良く相談して決めなさい」

そして父が、今度は沙希の方を見た。

「お前はいずれ嫁に行くだろうから、嫁ぎ先で精一杯の事さしてもらいなさい。だから、お前に残してやる物は 何も考えてない。もしお父さんが死ぬ時まで お前が独身だったら・・・それは皆で仲良く話し合って決めてくれ。今から変に期待させると、それを目当てに嫁にも行けないと困るからな」

軽い冗談のつもりで笑う父を、沙希は心の中に影を落として見つめていた。父の口から初めて聞いた『相続』という響き。まるで もうカナダに行ってしまったら、死ぬまで会えない様な淋しさが 沙希の胸に去来する。“死ぬまで会えない”どころか、まるで死の宣告を受けた病人が 身辺整理を始めたみたいな物の言い方が、沙希にはまだ真っ直ぐに受け入れられずにいた。

 結局その晩 兄達は実家に泊まっていく事となり、沙希は向かいの兄の部屋を訪ねた。丁度おっぱいをあげていたみのりと、横になってテレビを見ていた兄が 沙希を部屋へ受け入れた。そしてどうしても胸のモヤモヤが取れないやるせなさを、沙希は兄の純平にぶつけた。

「相続なんてさ、まだお父さん60前じゃん。なのに、あんな話するなんてさ。カナダに行っちゃったら、それっきり帰っても来ないし、死に目にも会えないみたいな口ぶりでさぁ。もう・・・何であんな事言うんだろう・・・。お兄ちゃんは何とも思わなかった?」

あぐらをかいていた足を組み替えてから、兄は言った。

「やっと親父達も、自分達の好きな様に生きられる歳になったって事だよ。お前だってもう・・・27だろ?もうすっかり親離れしてる歳だしさ。俺は結婚して・・・無事子供も生まれたし。これからはいよいよ 親父とお袋夫婦二人、好きな様に 生きたい様に生きられるんだ。そりゃあ、一家の主の責任として・・・けじめとして相続の事とか、考えてるんだと思うよ。でも俺は、今日親父が自分達のこれからの事を『老後』って言わずに『第二の人生』って言うの聞いて安心したね」

今晩同じ話を聞いて、沙希は 兄と自分の立つ位置やスタンスの違いを目の当たりにした気がしていた。自分は社会に出て6年半、すっかり大人になり 親から経済的にも精神的にも自立した気になっていた。しかし本当はそうではなかったんじゃないか・・・?いずれ必ず訪れる“親の死”に対し、兄はどことなく冷静に覚悟を決めている様子で、それは単に 男と女の違いなのか、沙希はそれに比べ、目をそらしてしまいたくて 必死に逃げ惑う無様な自分を自覚していた。だからといって、両親のカナダ行きを反対する程無邪気な子供にもなれずに、沙希は中途半端な狭間でもがき苦しんでいた。仕事も大地も失い、心の拠り所は やはり家族だと思っていた矢先の出来事で、これからの自分の行き先を 本当に真剣に考えなくてはいけない時が来たなと思っていた。


 翌日の夕食時、母が昨日の話題を持ち出した。

「突然でびっくりしたでしょう?」

「本当だよ。何も言ってくれないんだもん。急にカナダに行くなんて。この家も好きにしてくれみたいにさぁ。・・・でもいいんじゃない?カナダ素敵な所みたいだし。気心知れた人と、好きな土地でのんびり暮らせるなんて・・・ちょっと羨ましいよ」

元気に笑ってみせる沙希が 無理をしている事など、母は百も承知だった。

「お母さんはね・・・今は沙希が仕事も辞めちゃったところだし、もう少し落ち着くまで・・・って思ってたんだけど・・・」

「なによ。私の事なんか気にしないでよ。もう27よ、私だって」

ついそんな言葉が口をついて出ると、母が一瞬伏せ目がちになった。

「お父さんもね・・・『沙希はもう大人なんだから、一人だって大丈夫だ』って。『親元から離れて一人暮らしで頑張ってる人達は世の中に大勢いる。沙希が独身の内に そういう経験させてやれる今がチャンスだと思う』って。お父さんきっとね、“かわいい子には旅をさせろ”の心境なんだと思う」

そしてご飯を一口口に運ぶ母の方へ顔を向ける事も出来ず、ただ沙希は『一緒について行っちゃおうかな』と早まって口走らなかった自分に、ほっと胸をなで下ろしていた。


 9月に入ってからの沙希は、本当に毎日 無駄に時間を過ごしていた。職探しをするでもなく、どこかへ出掛けるでもなく、ただ一日中家の中でぼんやりと過ごしていた。仕事が忙しかった時は『時間があったら』と願った読書も 今はどうでもよく、『のんびり一人旅でも』と夢見ていた あのパワーもすっかり減退していた。TVをつけたところで どれも退屈で、出るのは溜め息ばかりだった。


「それって鬱だよ」

いつもの炉端焼き屋で、神林と祥子が 覇気のない沙希にアルコールを入れた。

「鬱ん時って、結局何やっても駄目なんだよね。私も経験あるなぁ・・・。ほ~んと辛いの」

「じゃ、ただじっとしてるしかないのか?」

神林が祥子を見ながら、ビールをぐいっと一口やった。すると沙希がおしぼりでジョッキの水滴を拭きながら言った。

「私って本当に甘いんだなって思った。家族の事にしてもさ、これ位の事でこんなに不安になっちゃうなんてさぁ。27にもなって笑えるでしょ?」

そこで すかさず祥子が言った。

「それだけ沙希ん家は、家族が穏やかで平和だったって事じゃない。私から見たら羨ましいよ。それって良い事なんだから・・・大事に思わなきゃ」

神林も続いた。

「男と女って違いもあるかもしれないけど、遅かれ早かれ それぞれ親離れしなきゃならない時が来るんだよ。それが人によって、時期が違うだけでさ。なかなか恵まれた 守られた環境の中で、自ら断ち切るっていうのは 皆出来る事じゃないからなぁ。俺の場合は、高校ん時に親父が脳梗塞で倒れたのがきっかけになっただけ。もっと早い奴もいるし、40、50迄自立できない奴もいる。人それぞれだよ」

何気なく明かされた事実に、二人の視線が一気に神林に注がれた。

「・・・そんな事あったの?」

「・・・全然・・・知らなかった」

二人の心配そうな面持ちを、神林は軽快な笑顔で吹き飛ばした。

「別に隠してたつもりはないんだけどさ。高校ん時の話だし、二人と会う前の事だからなぁ・・・」

「今は?お父さん・・・大丈夫なの?」

祥子の問いかけに、煙草に火を点けながら答える神林。

「親父、大工だからさ。あんまり昔みたいには仕事に行けないけど、調子の良い時は時々現場見に行ったりしてるよ。兄貴が後継いでるから、その辺は安心してるみたいだけど。仕事人間だったからな、親父。『少しゆっくり休めって神様が言ってるんだ』ってお袋が言ってたよ」

その落ち着いた表情から、その事実を真正面から受け止め すっかり消化しきっている神林が、沙希の目にはとても男らしく また頼もしくも見えた。

「皆、色々あるんだね・・・」

ボソッと沙希が そう漏らした。妙にしんみりとしてしまったテーブルに 少々責任を感じてか、神林が声を掛けた。

「鍋でも取りますか!季節先取りって事で」

その掛け声に皆賛同し、“たらちり湯豆腐”が運ばれて来た時には、思わず三人から歓声が沸き起こった。あらためて三人は『いただきます』と言って鍋をつつくと、豆腐をフーフーしながら祥子が口を開いた。

「もう今年もお鍋の季節かぁ・・・。早いねぇ」

暫く三人共 物も言わず黙々と鍋に集中し、あっという間に土鍋の中身が空になった頃、祥子が一息つく様に 日本酒で喉を潤してから、急に沙希の方を向いた。

「沙希さ、何か資格とか取ったら?せっかく今仕事も無いんだしさ・・・何か適当に好きそうなの、チャレンジしてみたら?」

「そうだよ。何かないの?こう・・・元々興味があった分野とか・・・」

身を乗り出す様な勢いの二人に比べ、沙希は対照的に肩を落とした。

「資格ねぇ・・・。私さ、本当情けないんだけど、これって言える趣味もないのよ。学生ん時はさ、学校とバイトと家の事で手一杯だったし、社会人になってからは ずーっと仕事仕事って仕事だけに没頭してきたじゃない?だからって急に『何がやりたい?』って聞かれても、別になーんにも無くてさ・・・。ほんと私って・・・」

そこまで言いかけて 声がかぶさった。祥子だった。それ以上言わせない為か、それとも急に思いついたのか、祥子の声はかなり大きく その上何故か沙希を指す指に力がこもっていた。

「免許は?そうだ!沙希、車の免許持ってなかったよね?」

「そうなん?いい機会だから取っちゃえば?あると便利だよぉ」

祥子に便乗して神林までもが けしかけた。そして更に勢いづいた魚の様に、祥子が水面でピチピチ跳ねた。

「北海道に住むんならさ、普免くらいは常識で持ってないとまずいんじゃない?・・・な~んてね」


 そんな二人の思いつき プラスけしかけにすっかり乗せられた・・・というよりは、乗せられてみる事にした沙希は、それから数日の内に 教習所に申し込みを済ませた。祥子の言った『北海道に住むんなら』のフレーズを必死で否定しながら、やはり何万分の一の可能性を信じている自分もいるのだった。

 いよいよ今日が初教習という日、沙希が荷物を持って部屋を出た時 チャイムが鳴った。沙希が階段を降りるよりも早く、母が玄関に出ていた。

「どうも初めまして」

という声がかすかに聞こえてきた。(宅配便でも届いたのかな)と思っていた沙希は、すぐに(な~んだ。何かの営業かぁ)と悟り、また(インターホンで済ませちゃえば良かったのにぃ)等と少し母をもどかしく思いながら、スタスタと玄関へと足を進めた。後ろから聞こえるスリッパの足音に母が振り返ると、沙希も又 母の肩越しに見える そこに居るはずのない顔に目を丸くした。

「あっ、沙希。丁度良かった。・・・木村さんがわざわざみえたわよ」

にっこり笑う母の顔を見る余裕も無く、ただ体が硬直して 身動き一つ取れなかった。

「上がって頂く?」

「いえ・・・結構です。こちらで・・・充分です」

気を利かせたつもりの母の言葉によって、沙希の思考は大きく乱された。

「私・・・もう行かなくちゃ」

実際にはまだまだ充分時間はあった。

「少し、話 聞いてもらえないかな」

大地の視線が、沙希に突き刺さる。もちろん何の返事もなく 目をそらしたまま、黙々と靴を履こうとしている沙希に、大地が言った。

「うちの両親に会ってもらいたい」

ドキッとした。思わず大地の顔を見てしまうところだった。しかし沙希は まるで何も聞こえなかったかの様に、大地の横をすり抜け様とした その時、一つの声と一つの手が沙希を止めた。

「沙希」

そう呼び止めた母の声と、沙希の肘をしっかりと掴んだ大地の手。この二つに引き止められ、沙希はそれ以上一歩も外へ出られなかった。

「やっぱり、ここじゃ・・・なんだから」

母がなだめる様に言って、スリッパを出そうとした時、沙希は肩越しに半分振り返る様にして言い放った。

「手紙読んでくれたんでしょ?あれが私の出した答えだから」

「手紙?・・・無かったよ」

「そんな筈ない!私ちゃんと約束の場所に置きに行ったんだから」

その時沙希の脳裏に あの時の映像が甦る。そしてハッとする。確かにあの日は昼間 台風一過の晴天だったが、夜になってから風が強く、置いた手紙も時々 パタパタとひるがえりそうになっていたのだった。そしてその上に、思い出のキーホルダーを重石代わりに乗せてきたのだった。

「やっぱり置いてたんだ・・・。帰ってくとこは、ちょっと見掛けたんだ。だけど上行ったら無くて・・・」

沙希は絶句していた。

「きっと・・・風で飛ばされたんだと思う・・・。・・・もういいよ。今さら仕方ないし。でもさ、それならそれで、どうして今頃なの?あれから何日経ってると思うの?電話の一本も無かったじゃない。今頃来てくれたって、私だって気持ちの整理つけちゃっ・・・」

大地の言葉が沙希を遮る。

「身の周りの整理に時間が掛かった。次に沙希の前に現れる時は、胸張って自分の気持ち言えないと無責任になると思った。だから・・・今日になった」

まるで偶然にその場に居合わせた様に立ち尽くし、二人のやり取りを見守っていた母が、口を挟んだ。

「上がって頂いてもいいし、こちらでも構わないし・・・どうぞごゆっくり」

そう言い残して その場を去って行くつもりだった母を、すかさず大地が引き止めた。

「お母さんにも聞いて頂きたいんです」

そこで初めて沙希は 母も居た事に気付いた様子で、顔を上げた。またそう言われ、どんな顔して娘の恋愛話に立ち会えばいいのか多少の戸惑いを抱えながら、母は心持ち背筋を伸ばした。すると大地は 母の正面に立ち、しっかりと目を合わせた後、深く深く頭を下げた。

「沙希さんと、結婚させて下さい」

沙希の口はぽかんと開き、大地の深く下げられた頭は 暫くそのままで、母の言葉でようやく顔を上げた。

「木村さん・・・。沙希は・・・まだまだ色んな事が未熟で、これからも沢山ご迷惑をお掛けしたり、足を引っ張ったりすると思います。とても木村さんをサポート出来る程の器は持ち合わせていないと思います。それでも・・・いいんですか?私は・・・詳しい事はあまり聞いてませんけどね。沙希には、木村さんが必要なんだって事だけは感じてるんです」

「僕もです」

大地の目には力がこもっていた。

「僕にとっても沙希さんは・・・必要な人なんです。僕は今まで彼女に、本当に助けられて、支えられてきました。僕が日本を離れていた間も、ただ一途に励まし続けてくれました。沙希さんのお陰で、今の僕があるんです。だから これからの自分の人生にも、彼女がいないのは考えられないんです。どうか・・・」

そして大地の最後の台詞を、母は笑顔で遮った。

「木村さん。あなたが結婚するのは私じゃなくて、沙希でしょ?あとは、沙希と話をしてちょうだい」

そう言い残して、母は階段を上がっていってしまった。玄関に二人っきりになると、大地が今度は沙希の方へ向き直った。

「急に押しかけてきて、ごめん。でも、俺の精一杯の誠意を伝えるにはどうしたらいいか考えて・・・そしたら、こうなっちゃったんだ」

相槌を返さないばかりか、大地の顔さえ見ない、そちらへ向こうともしない沙希に、大地はポケットからANAのチケットの入った封を抜き、沙希の前へ差し出した。

「今日これから・・・小樽に来て欲しい」

ようやくボソッと洩らした声は、どうしても素直になれないもう一人の沙希のものだった。

「今日は・・・教習所があるし・・・無理だよ・・・」

そしてまた もう一人の沙希が、頭の隅で舌打ちをする。(大地とのこれからと、教習所を同じ天秤に掛けるなんて)と・・・。大地は沙希の手首を掴んで、真正面から訴えかけた。

「俺は・・・これからの人生を、沙希と同じ位置に立って、同じ方向を見て、手を取り合って生きていきたい」

それでもまだ煮え切らない態度を沙希がとっていると、階段を下りてくる母の足音が近付く。玄関に再び現れた母の手には、沙希のコートがぶら下がっていた。

「そんな格好じゃ、もう北海道寒いでしょ?」

そして笑顔の母が 半ば押し付ける様にコートを沙希に手渡すと、今度は大地の方へ顔を向けた。

「宜しくお願いします」


 それからあっという間に新千歳空港に到着し、小樽行きのリムジンバスに揺られていた。その間の事は、沙希は殆ど覚えておらず、嬉しいのか不安なのか、自分の気持ちなのに それすら把握できずにいた。ただ一つ、家の玄関に居た時からずっと 沙希の心の中に罪悪感に似た黒い塊が重たい影の様について回っていた事だけ、分かっていた。しかしそんな事を知らない大地は、言葉は少なくとも 隣で窓の外をじっと眺めている沙希の手を ずっと握りしめていた。

 大地の家に着いた時には、もうとっぷりと日は暮れていた。駅からタクシーに乗る前に、大地が家に電話を掛けていて『これから河野さんと一緒に帰るから』と言った言葉を耳にして、ようやく沙希の中に現実味が湧いてきた。

 タクシーを降り、家の前でもう一度大地が沙希の手を握った。

「いいね?」

ここで本当なら こくりと頷けば良かったのだろうが、沙希の良心がそうはさせなかった。

「一つだけ・・・」

優しく温かい瞳で見つめ返す大地を、沙希はまともに見る事が出来なかった。

「一つだけ・・・言ってない事がある・・・」

「何?」

「さっきうちの玄関で大地『メキシコにいた時、私が一途に大地を励ましてた』って言ってたけど・・・ちょっと違うの・・・」

「ん?」

「私は・・・大地を・・・裏切ってた」

「・・・・・・」

それまで穏やかだった大地の笑顔が、少々引きつる。

「私・・・浮気してた」

そしてとうとう大地の顔から 潮が引いていく様に、笑顔が消えた。沙希もまた、口にしてみて ようやくその重大さが甦り、手や口が震え始め 言った事を後悔した。しかし、もう後に引けない沙希は、ただ先へ進むしかなかった。

「それでも・・・私と・・・いいの?」

これで良かったんだと言い聞かせる自分と、言わない優しさもあったんじゃないかと後悔する自分とが、沙希の中で同居していた。暫く考え込んでいた大地が 何か言おうと顔を上げた瞬間、一人の声が うす暗闇を破った。

「大地君」

振り返るとそこには 夕刊を取りに出てきた、向かいの沖月のおばさんだった。すぐさま沙希の存在に気付くと、もう一度大地を見た。

「どうしたんだべ?家の前で」

「あぁ、これから入るとこ・・・」

沙希は少々肩をすぼめ、顔を伏せた。そんな沙希を 少々怪訝に感じながら、沖月のおばさんは大地に言った。

「随分モテモテねぇ・・・」

「そんなんでないですよ・・・」

そしておばさんは 郵便受けから取り出した夕刊を脇に挟むと、大地に言った。

「親泣かしちゃ ダメよ」

すると家の玄関が開く音がして、そこから大地の母が姿を現した。

「外で声がしたっけ・・・」

「あ・・・今着いたんだ。したら沖月のおばさんにばったり会って・・・」

大地の母と沖月のおばさんが いつもの挨拶を交わしている間、肩身の狭そうに立ち尽くす沙希に気付く大地。

「こちら・・・河野沙希さん」

初めて紹介を受け 沙希が深く一礼すると、母は急に慌てた。

「とにかく、中に入んなさい」

通された居間に入ると、父親があぐらをかいていて、難しい顔をして 何となく流れるニュースを見ていた。しかし明らかにテレビに焦点は合っておらず、歓迎されていないムードを 沙希は全身に感じていた。母は座布団を一枚沙希に差し出すと、すぐに台所へと消えてしまった。二人の方を一度も向こうとしない父親に、大地が声を掛けた。

「こちら・・・河野沙希さん」

「はじめまして。河野です」

声が震えているのが ありありと伝わり、そんな沙希の背中に そっと大地が手を回した。ピーンと張りつめた異様な雰囲気はそのまま、時計の針を進めた。母親が湯呑茶碗を沙希の目の前に差し出しても『おかまいなく』等という気の利いた台詞が口から出る事もない程、沙希の緊張はピークに達していて、その表情から緩やかな曲線を全て奪っていった。父も母も沙希に何も質問しないどころか 話し掛ける様子も無く、ただ母はやはりそれを悪いと思っているらしく、お茶をすすってみたり、畳の目を指でなぞってみたり、どことなくソワソワしていた。それでも何とかきっかけを作ろうと、大地が口を開く。

「今日・・・わざわざ・・・横浜から来てもらったんだ」

それでも返ってくる相槌は、母の『ああ、そうですか』という蚊の鳴く様な声で、それはきっと 何も返事をしない訳にもいかないから・・・という程度のものだった。また沈黙に脅かされるんじゃないかと 内心ドキドキしていると、母が急に声を発した。

「今日・・・お仕事は?」

「あの・・・私・・・今・・・」

聞かれて当然の事なのに、プライドが邪魔して どうしても『無職』と言えずにいる沙希を、大地がすくい上げた。

「先月の末まで ずっと、6年間エステで働いてたんだ」

「エステ・・・?」

母は首を傾げた。

「ほら、女の人が顔とかをさ綺麗にしたり、痩せたい人が行ったりする所・・・あんだろ?」

60を過ぎた田舎暮らしの母にも分かりやすくと 随分と大雑把な説明をすると、母はなおさら難しい顔をする。

「あぁ。最近流行ってる・・・美容整形とかってやつかい・・・」

「違うよ。そうじゃなくて・・・」

大地も言葉に迷いながらも 何とか“エステ”を正しく伝えようと躍起になる。

「顔にパックしたりさ・・・テレビとかで見た事あんだろ?」

「あぁ、分かった分かった。金持ちの奥さんとかが行くとこだべ?」

大地は軽いため息を漏らした。

「そんなとこばっかりでないよ」

「前ニュースでもやってたなぁ。『綺麗になる』とか『痩せる』とか上手い事言って 高い化粧品売りつけたりして、何十万もの契約さして そうなんなかったって・・・そのエステとやらを詐欺で訴えたって。そういえば昔、そんなのあったべな・・・」


 その晩、急遽予約したビジネスホテルまで沙希を送る車の中で、大地が言った。

「ごめんな、仕事の事も。お袋、田舎にしか居た事ないから、全然分かってないんだよ。東京とかは 怖い人がいっぱい居るとこだと、未だに思ってるからな」

「仕方ないよ。・・・きっとお母さんは・・・私が気に入らないから、私のしてた仕事も そういう風に見えるんだよ。・・・仕方ないよ。・・・お母さんが悪いんじゃないよ・・・」

沙希の声からは、すっかり覇気が無くなっていた。

「親父も・・・ごめんな。結局一言も口利かなかった・・・」

ゆっくりと首を左右に振る沙希を 隣に感じながら、大地が少し明るい声を発してみる。

「親父って元々、あんまり口数の多い方じゃなくてさ。思ってる事も素直に表現しない・・・いわゆる昔の男・・・なんだよな。だから・・・あんまり気にしないで。きっと親父も緊張してたんだよ」

それに対し 沙希が何の反応も示さないと、暫くして大地がチラッと助手席を見た。

「本当にどっかで飯食ってかないか?腹減ってんだろ?」

再びゆっくりと首を振ると、沙希は手で口を覆った。何かを必死に堪えている様子で、それが大地の目には とても痛々しく映った。

「今日 夜帰って、また親に話してみるから。・・・大丈夫。絶対分かってもらえるって」

ホテルの前に車を止め、サイドブレーキを下ろす。

「明日は俺一日パソコンで仕事だから、朝こっち持ってくるよ。部屋で仕事してもいい?とりあえず ゆっくり休んで、朝起きたら電話くれよ」

沙希の瞳に 前に停まっていた車のバックライトが光った時、ようやくスイッチが入った様に ゆっくりと口が動き出す。

「さっき・・・大地のお家の前で言った事・・・。あの返事・・・まだ貰ってなかった・・・」

一瞬大地の眉間が険しくなるが、その事に沙希も大地も気が付いてはいなかった。大地の頬が緩み、シートベルトは外し 体を助手席へ向けた。

「俺の答えはとっくに出てるよ。うちの親の前で言った通り。俺は沙希と結婚する。・・・お互い過去は・・・ここまで来るのに、色々あったよ。でもきっと、俺達には必要な事だったんだ。・・・そう思ってる」

一呼吸置いて、大地は鼻で息をつく様にして笑った。

「これで安心した?」

「あと一つ・・・」

沙希は更に俯いて、小声でボソッと言った。

「千梨子さんとは・・・」

「そっちも大丈夫」

大地は大きく頷いてみせた。

「ちゃんと話をしたんだ。・・・分かってくれたよ」

沙希の頭の中で、最後にサロンで千梨子に会った時に言われた言葉と その時の尖った声色が甦る。

 一向に暗い表情のままの沙希に、大地が手を叩いた。

「一緒に暮らそう。よし!じゃ明日、不動産屋行こう」

「でもまだ、お父さんもお母さんも 私の事認めて・・・」

それ以上言わせまいと、大地が沙希の語尾に被せた。

「大丈夫。俺に任せろって」


 次の日の昼間、沖月のおばさんが回覧板を持って 木村家の玄関の戸を開けた。前掛けで手を拭きながら出てきた母に、早速顔を近付けた。

「昨日の女の子、やっぱり大地君のガールフレンドだったの?」

母は溜め息と共に眉をひそめ、床に膝をついた。

「一緒になりてぇって」

おばさんは目を丸くした。そして辺りをキョロキョロ見回してから、更に小声になった。

「前に連れてきた事のあった・・・ほら、あの・・・めんこい娘さんは?」

力無く左右に首を振る母。

「フラれちったのかい?」

「んだらば こっちもちっとは諦めがつくべさ。父ちゃんも私もね、あの子の事 本当に気に入っとったもんだべ・・・ねぇ・・・」

「内地の子かい?あれは・・・こっちの子じゃないな?」

「もう知り合ってからは長いんだと。大地が向こうの大学行ってる時に、知り合ったんだと。一度付き合ってたけど、何やら別れたりして、んで又一緒にやってこうって話になったんだと。私はね、その辺が気に掛かっとるべさ。あの子の嫁さんをね、私ら親が決めるつもりはないんだけどもな。一度別れた子とは、やめといた方がええって言ってんだけども・・・本人がその気になってるっしょ、全く聞こえんわ」

すると、便乗する様に おばさんも口を開いた。

「いやぁ私もな、な~んか引っ掛かっとったべさ。昨日の子は・・・会った時ニコリともせんし、挨拶するでもなし、ただじーっと隠れる様にして立っとったでしょ?あったらこっちゃ、こっちではやってけんなぁと思ったべさ。それに比べて前の子は、にこにこしてて感じも良かったし、人見知りもせん様だし・・・こっちも安心してたんだべさ」

母は腰にぶら下げた手ぬぐいを 無造作に撫でつけながら、首を傾げた。

「なして、こったら事になっちまったんだか・・・」

すると、何か思いついた様に おばさんは母の膝をポンと叩いた。

「昨日の彼女が、上手くいってる二人に 横槍入れたんでないかい?昨日のあの子なら、そったらこわいとこ ありそうだべ。前の彼女は穏やかそうだし、争い事とか嫌いそうだから、身を引いちまったんでないかねぇ。その辺、もういっぺん大地君に聞いといた方がいいんでないかい?」

「んだな・・・。前の子な、私に『別れたくない』『うちに嫁に来たかった』って泣きながら言ってくれたんだ。本当に良く気に掛けてくれててなぁ。あの子には良くしてもらったから、今でも心が痛んどるんだわ」


 その日の午前中、沙希と大地は 小樽市内の不動産屋を巡って回った。大地の温かい笑顔や、柔らかい声の響き、そして昔と何も変わらない自然な態度に 次第に硬くなっていた沙希の心も溶けていった。

 店の前に貼り出されている物件表を眺めながら、

「まずは2DK位でいいよな。これなら子供が生まれたって、とりあえずは大丈夫だ」

そんな何気ない会話に内心ドキドキしながらも、沙希の中で“大地と一緒に住む”事が、現実味を帯びていった。思わず沙希の口から漏れた『大地、本気なんだね・・・』という言葉に対し、大地はただ笑顔で顔を柔らかくした。

 午後からはホテルの部屋に戻り、仕事をする大地の背中をぼんやり眺めながら、こんな風に当たり前の様に一日中一緒に居られる事に 不思議な感じを覚え、また同時に、幸せも噛みしめるのだった。電話とパソコンにかかりっきりで ろくに口を利く暇が無くても、沙希はコーヒーを入れたりと ただ同じ空間を共有しているだけで幸せだった。満足だった。そして大地の、自分と居る時とはまた違った真剣な表情で仕事をする姿に、更に男らしさを感じては 笑みがこぼれるのだった。


 その頃、小樽の大地の実家では 一つ大きな嵐が吹き荒れようとしていた。静かな木村家の居間に鳴り響く一本の電話が、その始まりだった。

「木村大地君のお宅はこちらですか?」

言葉は丁寧でも、その声はどこか殺気立っていた。それを受けた母が『はい』と返事をするや否や、怒声が耳をつんざいた。

「娘をどこにやったんですか?!」

仰天した母が 何とか話を聞いてみると、今にも殴り掛からんとばかりに電話を掛けてきているのが千梨子の父親で、どうやら昨日から 千梨子の行方が分からなくなっているらしかった。今までも家に帰らない事はあったが、妹が居場所を知っていた。しかし今回は、妹までも千梨子の行方を聞いておらず、勤め先の銀行からも『無断で休むのは初めて』と言って電話が掛かってきたと言う。そして妹からは、千梨子がフラれた事を聞かされていた。事態を重く見て、一日経った今日 警察に捜索願を出してきたという話に、ただ母は謝り続けるばかりで、受話器を持ちながら電話の前で正座した背中が小さく小さくかがんでいた。

「何か分かり次第、すぐに連絡さしてもらいます」

それを言うのが精一杯の母に、千梨子の父はキツイ捨て台詞を投げてよこした。

「娘に何かあったら、きっちり責任取ってもらいますからね」

そして電話は一方的にガチャンと叩き切られた。後ろでテレビを見ていた父に「なした?」

と声を掛けられ 返事も出来ずに頭を抱え込んだ母の苦しみを、その頃大地はまるで知る由もなかった。


 その晩遅く、何も知らずに大地が家の玄関を入ると、いつもなら もうすっかり寝静まっている筈の居間から、煌々と明かりが漏れていた。その扉から、母が鬼の様な形相を呈して飛び出してきた。

「あんた。千梨子さんがいなくなったって」

事情の掴めない大地は まるで寝耳に水で、とにかく居間に入って話を聞くと、大地の表情はみるみる変わっていった。母の話をひとまず聞き終えると、すぐさま携帯を取り出し まだ記憶の新しい千梨子の携帯へと指を動かした。しかし、大地の耳に当てた電話からは、冷たい留守番電話に繋がる音声メッセージが聞こえるだけだった。

「あんた、千梨子さんに何て言ったんだい?そのショックで居なくなっちまったんだべか?」

その問いには、何も言えずに下を俯いた大地がいた。


 同日、その余波は 横浜の沙希の自宅にも及んでいた。

「桜田と申しますが、沙希さんいらっしゃいますか?」

「ごめんなさい。今留守にしてるの」

少しずつ荷物の整理をしていた母が電話に出て、そう答えた。

「お戻り・・・遅くなられますか?」

「今日は戻らないんです」

「じゃ・・・いつ・・・?」

母は少々答えにもたついた。

「実は今・・・ちょっと・・・旅行に行ってて・・・いつ帰るかは・・・」

そこで、少しためらう様に一拍置いて 桜田が突っ込んだ。

「北海道・・・ですか?」

すると急に母の声は明るくなった。

「あ!聞いてます?そうなんです。先日急に発って・・・。いつ戻るかも未定で・・・今日むこうに荷物送った位ですから」

「ありがとうございました」

そう一方的に言うと、電話はガチャンと乱暴に切られた。妙な終わり方に 首を傾げた母だったが、また元の仕事に戻ると すぐにそんな事も忘れていった。


 次の日の朝、約束通りに大地が沙希のホテルの部屋を訪ねると、沙希は満面の笑みで大地を招き入れた。そして手には、賃貸住宅情報誌を抱えていた。

「私ね・・・考えたんだけど・・・」

ペラペラとページをめくりながら、嬉しそうにはしゃぐ沙希が そこには居た。

「丘の上の高台に住みたいなって思ったの。ほら、横浜も小樽も同じ様に坂が多いでしょ?それに大地のお家も 私の家も高台にあるし。お互い生まれ育った場所がそうだから、やっぱり二人のルーツはそこかなぁ・・・な~んて。それにね、高い所の方が見晴らしもいいし、風も気持ちいいし、空に近い気がして。ねぇ、どう?」

すっかり浮足立つ沙希とは裏腹に、大地の心はここに在らずだった。そんな大地の異変に敏感に気が付いた沙希は、すぐに雑誌を閉じた。

「まぁ、急ぐ事ないしね。・・・ゆっくり探そ」

笑顔の裏では、また嫌などんよりとした分厚い雲が 沙希の心に影を落としていた。『明日は一日仕事が詰まっちゃってるから、朝しか時間ないんだ。朝飯でも一緒に食いに行こう』と言っていた昨夜の約束など すっかり忘れている様子で、大地はテーブルにパソコンを置くと、椅子に座り込んでしまった。

「・・・ご飯・・・は?」

何故か恐る恐る声を掛けると、背もたれに寄り掛かったままの大地が、ぼんやりと言葉を返した。

「まだだけど・・・。何かあんまり食欲ないし」

「調子悪いの?」

「いや」

「・・・何かあったの?」

そう言いかけてハッとする。

「お母さん達に、何か言われたの?」

そこでようやく大地が顔を見せた。

「違うよ。何もないって。大丈夫。安心しろって。あっ、お前飯まだ?食ってきていいぞ」

昨日の事など すっかり忘れているどころか、昨夜別れた時とは何か全く違う様子の大地に、沙希は不安を募らせていた。

 黙々と仕事をする大地の傍らで 全く手持無沙汰な沙希は、ただぼんやりと大地を見つめているしかなかった。そんな沙希の瞳の中の大地は、パソコンと携帯で仕事に追われている風ではあったが、度々手を止めて、遠くを見たり、ぼーっと物思いにふけっていた。大地の頭の中に 突如として現れた何か偉大な物体の正体を知り得ないもどかしさも当然あったが、それよりも何よりも、何があったのか話してくれない淋しさの方が、沙希にとっての比重は 遥かに重たかった。『はぁ・・・』と一息ついて 椅子の背もたれに寄り掛かり伸びをすると、煙草に火を点ける大地。そして、この時とばかりに沙希は勇気を振り絞る。

「ねぇ・・・何かあったの?何か・・・昨日と違うみたい」

『実は・・・』で始まって欲しいと切望した大地の第一声は、奇しくもその願い通りにはいかなかった。

「別に・・・何もないよ」

明らかに嘘だと分かる そんな台詞にもめげず、沙希がもう一押ししてみる。

「私って・・・頼りにならないかな・・・」

大地の背中が椅子から離れる。

「どうしたよ・・・。俺は、お前を頼りにしてるよ」

しかし、まだ曇りの晴れぬ表情の沙希を見て、大地が一段大きな声を出した。

「沙希、お前暇なんだろ?お前は本当は忙しい位の方がいいんだよな。時間があると ろくな事考えないだろ?どんどんどんどん陰気になってきて・・・な。分かった。明日俺、ゲーム持って来てやるよ。あれが有れば、結構暇つぶしになるし」

沙希はがっくりと肩を落とした。暫く一人になりたくて バスルームに入ると、空のバスタブの縁に腰を下ろして、気を静めた。会話を打ち切る様にして部屋から消えた沙希に 気を留める事もなく、大地がバスルームのドアをノックして来る事はなかった。沙希の中では 多少の計算もあったのだが、それは全くの誤算に終わった。自分を気に掛け 後を追ってこない大地に少々腹を立てながら、諦めて部屋に戻ると、胸ポケットやズボンのポケットを探り 何やら探している様子の大地がいた。

「ちょっと、煙草車から取ってくるわ」

そう言い残して、バタンとドアを出て行った。沙希が『私って頼りにならないかな』と言った意味も、バスルームに姿を隠した意味も何も分かっていない 分かろうともしていない、あっけらかんとした大地に大きな溜め息を吐いた時、パソコンの横に置かれた大地の携帯が鳴った。恐る恐る近寄ると 液晶の画面は上を向いていて、バックライトの灯った四角い液晶に点滅する発信者の文字が 沙希の目に飛び込んだ。『千梨子』・・・・・・。一瞬の内に、戸惑いと後ろめたさと独占欲が 頭の中で絡まり合い、ほどけぬ糸となった。そして反射的に手が伸びると、沙希の右手の親指が その回線を断ち切った。着信音が鳴り止んで 静まり返った部屋の中で、沙希の激しい感情が暴れ出した。しかしその感情は どこから来るものか、そしてどうやって鎮めたらいいのか沙希自身にも分からず、心の中は息を切らす程のた打ち回っていた。そこから先は記憶もおぼろげだったが、右手に持ったままの携帯を 何やら指が勝手に動き出し、幾つかのボタンを押した。そして今のこの着信は完全に削除された。

大地が戻ってきた時、沙希は自分を責める思いと 大地を責める思いと、更には千梨子を責める思いまでも加わって、それをいっしょくたに胸に抱え、ベッドの上にしゃがみ込んでいた。大地がまた平然と 元の椅子に腰を下ろし、今取ってきた煙草の封を開け、仕事を再開する その後ろ姿を見ているうちに、沙希の中では とても意地悪で醜い自分が疼きだす。そしてそのマグマは、赤々と燃えながら溢れ出した。

「大地、ずるいよ」

さっきまで普通に見えた沙希が、今急に荒っぽい面持ちで牙をむいている。大地はすっとんきょうな顔で振り向いた。

「『親には俺がちゃんと説得するから大丈夫』なんて言ってさ、それから一体どんな話をしたのか、何て言われたのか、何も言ってくれないじゃない。それに・・・千梨子さんの事だって。千梨子さんにどんな風に話して分かってもらったのか、『大丈夫』しか言わないから全然分かんないよ。そりゃ私は、お母さんが言ってたみたいに まだまだ未熟だし、大地の支えになんか全然なれない位頼りないかもしれないけどさ、大地は『私と一緒に頑張りたい』って言ってくれたんじゃない。それなのに・・・。『大丈夫』なんて言って格好つけて、そんなの自己満足じゃない!」

大地はぐるっと向きを変え、沙希の方に体を向けた。

「親の事は・・・悪かった。でも・・・まだ平行線で・・・。少しでも進展があったら、ちゃんと話すつもりだった」

そこで大地が、一呼吸置いた。

「それから・・・千梨の事・・・。あれは・・・もう済んだ事だし・・・過去の事だから言わなくてもいいと思った。それに・・・別れ話っていうのは・・・実際俺とあいつの問題だから・・・」

「私には関係ないって言うんだ?」

「・・・わざわざ・・・言う必要はないと思ってる。付き合ってる間には、そりゃ二人にしか分からない事だって沢山あるだろ?そういう部分とか・・・他の人に話すのは・・・。いや・・・俺は良くてもさ、あいつのプライバシーだってあるだろ?」

沙希の中の悪魔が癇癪を起こし始める。

「二人の思い出を大事にしたい。踏み入らないで欲しいって事?」

大きく溜め息を吐いて、首をうなだれる大地。

「何でそうなっちゃうんだよ。そんな事、一言も言ってないだろ?」

「大地は何にも分かってないよ。私は着のみ着のままで、大地について こっちに来たんだよ。その上 お父さんには口も利いてもらえないで、お母さんには嫌な顔されて・・・。私には今、頼れるのは大地しかいないのに・・・全然私の気持ちなんて 分かってないよ!」

確かに沙希のわがままで“言いがかり”に近かったが、これだけ感情をあらわにしたのは 本当に久し振りだった。

「俺なりに考えてるよ。だから『一緒に住もう』って・・・」

沙希につられ、大地も少々興奮気味ではあったが、語尾には優しさが残っていた。しかし沙希の次の一言で、それもガラガラと音を立てて崩れ、大地の目が変わる。

「千梨子さんと別れたって聞いたって・・・信じられないよ」

「じゃ 沙希は、どうして欲しいんだよ。俺を信じられないんじゃ、もう俺だって どうしようもないよ。昔の事ほじくったら、きりがないだろ?そんな事言ったら俺だって、日本に居ない間に浮気してた男の事、根掘り葉掘り聞いたっていいのかよ!」

一度崩れ始めた土砂は、気が済むまでなだれ落ちるのを待つしかない様に、大地と沙希も それに似ていた。

「聞きたければ・・・聞けばいいじゃない」

売り言葉に買い言葉だった。

「その男とは、どこで知り合ったんだよ。一回だけか?それとも二股掛けてたのか?あの頃毎日帰りが遅かったのは、そいつと会ってたからか?そいつとは、どの位付き合ってたんだよ。俺が一回帰って来た時も、そいつとは上手くやってたんだろ?」

この時初めて、沙希の浮気に対する大地の本音が噴き出した。しかし、息をつく間もない程 一気に喋りきった大地と、それを聞いた沙希は、二人揃って言葉を失った。それから少しの沈黙を経て、沙希が呟く。

「それだけ・・・?」

さっきまでフル回転していたエンジンは 急に止まる筈もなく、まだ冷めやらぬ大地の煮えたぎった思いが、ゆっくりと口から溢れ出す。

「そいつに抱かれてる時・・・俺の事・・・思い出さなかったか?」

あまりにも露骨な言い方に 沙希がドキッとしていると、大地が急に大きな声を上げた。

「俺は浮気を許せる程、でっかい男じゃないんだよ」

同時に頭を掻きむしり 抱え込む大地をどうする事もできず、ただ全てが崩れていく物音を遠くで聞いて見ているしか、沙希には出来なかった。


 結局何の修復も出来ないまま、昼頃大地は 予定通り仕事道具一式を抱えて 外出していった。様々な思いが沙希の胸の中でぐるぐる廻り、到底纏められそうになく、思考回路も循環を放棄していると、そこへ電話が鳴った。フロントからで、母からの荷物が着いた様だった。

 部屋に運ばれてきたスーツケースを開けると、沙希の瞳からは大粒の涙が止めどなく溢れて 止まらなかった。沙希の滲んだ視線の先には、開かれたスーツケースの一番上に置かれた一つの包みがあった。それは横浜中華街の肉まんや中華菓子の詰め合わせで、それに添えられた白い封筒から手紙を取り出すと、懐かしい母の文字が 沙希の目に飛び込んだ。

 『木村さんのご両親の好みも存じ上げず、勝手に選んでしまいました。お口に合うか分かりませんが、差し上げてちょうだい』

こんなに短い文章の中からも、母の温もりが溢れていた。娘を手ぶらで送り出してしまった母が胸を痛め、こちらで沙希が肩身の狭い思いをしない様にとの心遣いが、今となっては胸に切なく響いた。

 

 その晩 仕事を終えた大地が家に戻ると、新聞を読んでいたのか、眼鏡をかけたままの母が、階段を上がろうとする大地を呼び止めた。

「お前、東京に一度行ってきた方がいいんでないかい?千梨子さんのご両親に会って、謝って、一緒に探して来たらどうだい?千梨子さんだって、ここには連絡しづらいだろうし・・・。それに・・・この間の子も、まだこっちに居るんだべ?だったら尚更 千梨子さん、こっちになんて来る訳ないだろうしね。向こうじゃきっと、夜も眠れないで心配してんだべさ。んだらとにかく あんたが飛んでって・・・それが誠意ってもんだろう?」

少し悩んだ挙句、大地は顔を上げた。

「分かったよ。したら、仕事 段取りつけてみる」

また二階へ上がろうとした大地の上着の裾を、母がつまんだ。

「こったら事になっちまったんだし・・・やっぱり、この間の子とは・・・別れなさい。今からこんな風にゴタゴタすんだから、結婚したって きっと幸せになんかなれないべさ、お互いに。お前達の結婚は良くないって、きっと神さんが前もってお知らせ下さっとるんだ。だから・・・千梨子さんが見つかったら、とにかく謝って謝って許してもらって・・・もう一回プロポーズしてみたらどうだべ」

大地は溜め息をついて、無言で階段を昇っていった。

 

 翌日東京行きを伝えるべく、沙希の宿泊するホテルの部屋の前に姿を現した大地。ドアの前で足を止めると、昨日の大喧嘩が鮮明に甦る。多少の気まずさをぐっと呑み込んで、ノックをする。しかし静まり返った廊下に響くものは何もなく、もう一度ノックを試みるが、やはり結果は同じだった。急に表情を強張らせて携帯を取り出すと、沙希へコールした。回線が繋がるまでの何秒かの間に、大地は同じ様に気まずさを残した沙希の声が聞こえる事を予想していたが、耳に届いたのは赤の他人のアナウンスの音声だった。電源を切っている・・・もしくは電波の届かない所に居る・・・。大地は嫌な予感を胸に、フロントへ急いだ。『ここでは大地しか頼る人がいない』と言っていたのに、その自分と後味の悪い喧嘩をし 次の約束もしないまま別れてしまった事に、今更ながら大きな後悔をしながら エレベーターを降りた。(俺に絶望して、横浜へ一人帰ってしまったのかもしれない・・・。)そう思っていた大地だったが、フロントの中で やや気怠そうに仕事をする50前後の男の返事は違っていた。焦る大地とは裏腹に、のんびりとキーボックスを確認するそのフロントマンは、振り返りながら『外出中』と答えた。まだ小樽にいたんだと ホッと胸をなで下ろしながら、早とちりな安堵感の中で、もう一つ質問した。

「何時頃、出掛けて行きましたか?」

するとフロントマンは、また気怠そうに天井を仰ぎ見て 記憶を辿ると、『あぁそういえば』といった様な、思い出した面持ちで口を開いた。

「昨日の晩から、お戻りになってません」

大地は自分の耳を疑った。何か少しでも手掛かりをと思い、フロントマンに尋ねようかと気持ちははやったが、実際聞ける事もなく、渋々ホテルを後にして もう一度沙希の携帯を呼び出した。しかしやはり聞こえてくるのはアナウンスの音声で、大地は路肩のブロック塀に腰を下ろした。千梨子の行方不明に続いて 沙希までが・・・。そして足元の水溜りを見て、昨夜の大雨を思い出す。昨日は天気予報が大きく外れて、深夜になって急に冷たい雨が小樽の町を濡らした。そして大地が目が覚めた朝7時には もう雨が止んでいたが、この秋一番の冷え込みと、朝のテレビでは どのチャンネルも開口一番 口を揃えて言っていたのを思い出す。きっと傘も持たずに、その上 こんな冷え込みと思わず出掛けた沙希は、どこであの大雨と寒さをしのいだのか、大地は胸を痛めた。そして更には、思い詰めると止まらなくなる沙希の性格を知っているだけに、大地は深刻に事態を受け止めていた。とにかく東京行きを一旦見送り、まずは沙希を見つけ出す事が先決だった。大地は迷わずタクシーに乗り込み、天狗山の頂上の展望台を目指した。小樽中の 沙希と一緒に訪れた場所をしらみつぶしに回ってみるつもりだった。寒さで空気が澄んで霧もなく、遠くまで視界が開けていたが、沙希の姿はそこには無かった。

 再び待たせていた車に乗り込んで、今度は小樽運河の傍にある倉庫で一旦降りた。そこは 別れて以来初めて二人で会った場所で、沙希の想いを聞いた場所だった。しかし大地の思い出が甦るばかりで、現実に沙希の姿はどこにもなく、その後ジンギスカンを食べに行った“だるま屋”や、市内の不動産屋など一通り巡ってみるが、全てが空振りだった。そこで大地はこれ以上辿る所が無くなって、初めて気が付いた。沙希とは昔から知っていて、もうすっかり長い付き合いだからと 高をくくっていたが、四年のブランクを置いて再び始まってからは まだまだ日も浅く、思い出も少なかった。本当なら 付き合い始めたカップルの様に、もっと繊細に相手を気遣わなければいけなかった筈が、相手を良く知っていて、自分の事も知ってくれているという高座布団の上にあぐらをかいていたんだと、大地はハッとする。そして更には、四年のブランクを埋める為にもっともっと心を寄せ合って努力すべきだったんだと、自らを責めた。しかもその“四年”は、ただの“四年”ではない。結婚を考えた新しい彼女の存在を一方は知り、また一方は相手の浮気の事実を聞かされていた。それぞれの 相手にとっては大きな傷を もっと癒してやれる様に、愛情という薬をたっぷりと付け、温もりという包帯で守ってやるべきだった。それを二人はお互いに、傷をほじくり合い、薬をつけるどころか 塩でもすり込む様なむごい言葉を浴びせかけた。そして大地は、横浜の沙希の母の顔を思い出していた。もし沙希がこのまま見付からなければ、あの時『宜しくお願いします』と言って気持ち良く沙希を出してくれた母親に、何と謝ったらいいのか・・・。

 もう一度沙希の泊まっていたホテルに帰り着き、タクシーを降りた。遠ざかる車のエンジン音をおぼろげに聞きながら、大地はもう一度 ホテルのエレベーターを上がっていった。待つ身の辛さを痛感し、同時に千梨子の家族の心労が 初めて痛い程良く分かった。エレベーターで三階に着き 沙希の部屋をもう一度訪ねるが、再びがっくりと肩を落とす大地。仕方なく下りのエレベーターを待とうと、ボタンを押して俯くと ほどけた靴ひもに気付きしゃがみ込む。まだ一階にいた筈のエレベーターが 高らかにピンポーンと鳴り、三階に到着した事を知らせる。力の抜けた指先が空回りして なかなか上手く結べずにいると、エレベーターの扉が開き、大地の目の前で 見覚えのある靴が止まった。大地が顔を上げると、そこには沙希が立っていた。とっさに何の言葉も浮かばずに、ただ沙希を抱きしめる大地。

「どこ行ってたんだよぉ」

回した手が、沙希の背中をコツンと叩く。しかし、きつくきつく抱きしめられている沙希は、言葉を喋るのもやっとだった。

「ごめん・・・。映画見てた・・・」

「映画?」

ようやく体が自由になり、一歩後ずさりしてから説明した。

「昨日・・・あんな喧嘩しちゃって・・・気分転換に外に出てみたんだ。それで・・・映画三本見た」

「三本?」

大地は目を丸くする。

「オールナイトでやってるとこ あって・・・。あとは・・・午前中に一本・・・。何だかボーッと色んな事考えてる内に、一晩過ぎちゃった」

大地は膝に手を当て、大きく息を吐いた。

「お前まで居なくなっちゃったかと思ったよ」

何気なく言った一言が、沙希の耳に敏感に引っ掛かった。

「『お前まで』って・・・?」

そこで大地はあらためて、朝ここに来た理由を思い出した。

「実は、何日か前から・・・千梨子が行方不明になってるらしい。それで・・・一応俺、東京に行って来ようと思って・・・」

沙希は顔を強張らせた。

「自分の過去にきっちりけじめつけておきたい。俺にはその責任があるんだ。分かって欲しい」

顔色一つ変えない沙希に、大地が説得を続けた。

「東京では、あいつの行ってそうな所を当たってみる。それから、あいつの両親にも・・・頭を下げに行く。2~3日は戻れないと思う。だから・・・沙希も、一旦家に帰るか?帰るなら、これから一緒の飛行機に乗ろう」

そして結局、昨日母から送られてきたばかりのスーツケースを引いて チェックアウトすると、一路 新千歳空港に向かった。

 途中の電車の中で、それまで押し黙っていた沙希が、思い切って大地に聞いた。

「千梨子さん・・・いつから?」

「正確には俺も聞いてない。でも一昨日の夜 家に帰って、お袋から聞かされたんだ。千梨子の親父さんから、怒鳴り込みの電話があったらしい」

「一昨日の夜・・・?」

沙希が少し記憶を辿る。

「あぁ。だから昨日、本当は色んな事が上の空で 気も立ってて、あんな喧嘩になっちゃったけど・・・。何となく言い出せなかったんだ」

すると語尾に被る位の調子で、沙希が白状した。

「昨日・・・千梨子さんから・・・電話あったよ・・・」

隣に座る大地は、目をむいてこちらを見た。

「どこに?沙希にか?」

当然の事ながら、目の色を変えて食い付いてくる大地を見て、沙希は自分のした事の重大さを あらためて思い知った。

「大地の・・・携帯に・・・」

「俺・・・の?」

こくりと頷く沙希。

「昨日、車に煙草取りに行ってる間に・・・。携帯が鳴って・・・たまたま『千梨子』って見えちゃって・・・」

「で、どうしたの?!」

少々怖い顔つきの大地に、沙希は心の中で手を合わせた。

「あの時私も ちょっと怒ってたし、何か隠してる大地に不信感持ってたから・・・」

みるみる表情が変わっていく大地が怖くて、回りくどく 本題に入れないでいると、大地はとうとう牙をむいた。

「言い訳はいいから、先に結論を言えよ!」

「ごめんなさい。切りました」

沙希の祈る思いも虚しく、大地は呆れた様子で 大きく溜め息をついて、携帯を取り出した。恐る恐る沙希が大地の手元を見ると、どうやら着信履歴を探している様子に、再び頭を抱えた。

「昨日の午前中だよな・・・」

大地の独り言に、更に沙希は胸を絞めつけられた。

「残って・・・ないと思う・・・」

もう大地の顔を見る事は出来なかったが、沙希のその言葉を受けて振り向いた大地の 刺す様な視線が、自分を軽蔑している事を よく物語っていた。

「消したの?」

先程とは打って変わって、低く重々しい声の響きが、深刻さを増長させていた。

「ごめんなさい・・・」

蚊の鳴く様な声で 震えながら絞り出した言葉だったが、大地の反応は容赦なかった。ギュッと拳を握ったかと思うと、それを自分の膝に大きく打ち付けた。そして荒っぽい呼吸を 少々整えた後、沙希へ投げかけた台詞は あまりにも冷やかだった。

「最低だな・・・」

それから空港に着くまで、二人の間に会話は無く、電車を降りるなり 大地は携帯を取り出し電波を確認する。そして千梨子の番号を検索したところで、着信音が鳴った。“非通知”の表示にピンときた顔で電話に出る大地を、ただとぼとぼと後を追う沙希だった。

「もしもし?・・・千梨だろ?そうなんだろ?!お前今どこにいるんだ?もしもし?」

応答がないのが、大地の喋り方から察しがついた。昨日大地に掛かってきた電話を勝手に切り、又その跡形も抹消してしまった沙希としては、再び連絡がついた事にほっと胸をなで下ろしていた。しかしそれは少々不純な感情である事に、沙希自身気が付いていた。三歩先を歩く大地の懸命なやりとりが続く。

「皆、心配してんだぞ。・・・無事なんだろ?もしもし?」

荷物を担いで 電話をしながら足早に歩く大地は、すれ違う人波に次々とぶつかり、時には睨まれたり『気をつけろ!』等と怒鳴られていた。しかしそんな罵声も 一切大地の耳に届く事はなく、周りが見えなくなる程 一心不乱に千梨子へ思いを馳せる大地を、沙希は複雑な思いで眺めていた。

「待ってろ。今行ってやるからな。俺これから飛行機乗るところだから・・・夕方には東京に行けるから。とにかく待ってろよ。分かったか?もしもし?」

その姿は、後ろをついて歩いている沙希の存在など すっかり忘れてしまっている様で、こんな時と分かっていながらも どんどんいじけていく沙希がいた。そして急に、沙希の行く手を阻む様に 大地が立ち止まった。

「お前、こっちに居るのか?どこだ?俺、すぐ行ってやるから、待ってろ」

千梨子が居場所を伝えているのか、一瞬無言の時が流れる。そして大地は また急にくるりと向きを変えた。

「分かった。すぐ行く。えっ?大丈夫だって。俺一人で行くから。誰にも連絡しないよ。とにかく会おう。会って話そう。絶対そこに居ろよ。そこ離れるんじゃないぞ」

電話を切るなり 走り出そうとする大地を、沙希が呼び止めた。振り返った第一声の『あぁ・・・』という一言で、自分の存在をすっかり忘れられていた事を悟った。

「千梨子がこっちに来てたんだ。これから話しに行ってくる。それでどうにか説得して、あいつの家まで送り届けるまでの責任を果たしてくるよ。だからちょっと時間が欲しい。全て終えたら また・・・連絡する。だから沙希は・・・どうする?一度家、帰るか?」

「私は・・・適当にやるよ。大丈夫。心配しないで。千梨子さんの所、早く行ってあげて」

「ごめんな。時間がないんだ」

前に向き直り 走り出そうとしたところを、沙希がもう一度呼び止めた。

「電話の事・・・本当にごめんなさい」

頭を深々と下げる沙希の心の中では、オホーツク海から吹き上げる様な冷たい木枯らしが吹いていた。


 沙希は空港に入ると、チケットカウンターにも寄らず、窓際のソファに腰を下ろした。飛び立つ機体や、又その準備をするもの、そしてこの北海道の地に降り立つ飛行機を眺めながら、いつしか深い眠りにいざなわれていった。昨晩眠っていないせいもあってか、一瞬の内に熟睡という無の世界に引き込まれていったが、沙希が目を覚ました時には もう窓の外はすっかり日も傾いていた。冬支度をする北海道は 尚更日も短く、夕日がほんの少し 顔を残していた。しかし昨晩とは打って変わって、明日天気が良い事を思わせる見事な夕焼けだった。沙希の部屋に飾られた クリスマスプレゼントに大地から贈られた夕日の絵とダブって見えたが、それがかえって沙希を悲しくさせた。ここ数日大地と一緒に居て感じた事・・・それは、あの頃の大地とは やはり少し違ってしまっているのか・・・。定かではない思いを胸に 沙希がゆっくりと伸びをすると、背後から会話がこぼれてくる。

「元町のチャーミングセールって、明日までだったよね?間に合って良かったぁ」

「山下公園のワールドフェスタも今日明日じゃなかったっけ?」

振り返るとそこには、20代前半位の若い女性の二人組が、チケットをひらひらさせながら 搭乗ゲートの方へ向かって歩いて行くところだった。沙希にとっては懐かしい固有名詞がいくつも耳に飛び込んで、それらが心をくすぐった。無性に自分の生まれ育った横浜が懐かしく思え、初めて(家に帰りたい)と思った。いつものあの母の笑顔のある温かい家へ、そして 優しく柔らかい自分のベッドへ体を沈めたいと思った。空港を訪れてから何時間も経過して初めてチケットカウンターを訪れた沙希だったが、数分後にはがっくりと肩を落として 空いた席に座り込んだ。土曜日とあってか、どの便にも空席は無く、キャンセル待ちをするしかなかった。大地の傍に行きたいと願った時には それが出来ず、今家に帰りたい沙希に その道は無かった。そんな皮肉に、ただ座り込むしか もう力は残ってはいなかった。そんな時、沙希の様子を 隣の椅子で見ていた30代位のダウンジャケットを着た男が声を掛けた。

「キャンセル待ちですか?」

「はい」

「僕もなんです。羽田行きなんですけど・・・。どちら迄ですか?」

少々戸惑い気味に、沙希も返事をした。

「私も羽田です」

「東京の方ですか?」

「いえ・・・横浜ですけど・・・」

「僕の妹が横浜に住んでるんですよね。僕自身は、東京の練馬区なんですけど。実家がこっちなんでね」

「そうですか・・・」

気乗りしない対応の沙希に気付くその青年が、照れた様に笑って 軽く頭を掻いてみせる。

「すみません、急に声なんか掛けちゃって・・・。ナンパしてるみたいですよね。ごめんなさい。ただ、がっかりしてこちらに座られた様にお見受けしたんで、つい一緒かなと思って・・・」

「いえ・・・」

その気さくな笑顔につられ、沙希の頬も僅かにほころんだ。

「北海道は・・・ご旅行ですか?」

男の質問に、沙希は一瞬暗い目をした。

「だといいんですけどね。・・・知り合いを訪ねて・・・」

「札幌ですか?」

「・・・小樽です・・・」

その返事の歯切れの悪さに、その青年は話題を変えた。

「こっちでの食事、口に合いました?食が合うと、その土地に住めるっていいますからねぇ」

その言葉で、沙希は自分の空腹に気が付いた。結局朝、映画館で食べたサンドイッチとジュース以来 何も口にしてはいなかった。

「ごめんなさい。私、ちょっと・・・何かお腹に入れてきます。朝食べたっきりだったんで・・・」

立ち上がろうとする沙希を青年が引き止める様に、鞄の中から紙袋を取り出した。

「もし良かったら・・・これどうぞ。にぎり飯ですけど」

「いえ・・・まさか・・・」

「僕も急に東京に帰んなくちゃいけなくなったんで、慌ててお袋が握ってくれたんです。でも多すぎて・・・一人じゃ食べきれないですから」

「でも・・・」

「僕も東京に戻ったら 食事取ってる時間なんか無いでしょうから、今食べといた方が良かったんです。残して捨てるのは勿体ないんで、少し手伝ってもらえませんか?」

半ば青年に押し切られ、もう一度椅子に腰掛けると、開けられたアルミ箔の中からは 大きな三角のおにぎりがゴロゴロと顔を出した。二人でそのおにぎりにそれぞれ噛り付くと、沙希がぽつりとこぼした。

「美味しい・・・。やっぱり手作りのおにぎりっていいですね。人の温もりがあって・・・」

目頭がツーンと熱くなるのを感じていると、それに気付いてか否か、青年が沙希のおにぎりを覗き込んだ。

「中身何でした?」

「鮭です・・・」

「それ、昨日親父が獲ってきたばかりのヤツです。美味いでしょう?こっちは昆布でした。これ、ちなみに羅臼昆布」

沙希は中身を見つめながら言った。

「お父様って、そういうお仕事なんですか?」

すると青年は笑った。

「いやぁ、ただの趣味みたいなもんですよ」

沙希が一つ食べ終わる頃に、青年は更に包みを差し出した。

「もう一つどうですか?朝食べて以来の食事なら、まだまだ入るでしょう?」

「いえ・・・。お茶でも買ってきます」

席を立ってその場を走り去ってから数分後、両手にペットボトルのお茶を抱えて戻ってくる。

「どうぞ。すみません。もっと早くに買って来れば良かったんですけど・・・。気が利かなくて・・・」

快くそれを受け取ると、青年がポケットから財布を抜き取った。しかし沙希は驚いた表情で青年を拒んだ。

「おにぎりのお礼と言っちゃ、なんですけど・・・。もし良かったら、飲んで下さい」

「じゃぁ、もう一つどうぞ」

お礼のお茶に対し、そのお礼にもう一つのおにぎりと物々交換をしている内に、二人の間には親近感が芽生え、手作りのおにぎりのせいか 温かいお茶のせいか、やけにほのぼのとしたムードが漂っていた。いつしか沙希も、初対面のその青年に すっかり気を許して、昨日今日の出来事を 一瞬でも忘れてしまったかの様に 朗らかに微笑んでいた。

「急に戻らなくちゃいけないって・・・お仕事の都合ですか?」

「いやいや・・・。高校時代の恩師に不幸があって・・・」

沙希はとっさに『ごめんなさい』と呟いて下を向くと、口をつぐんだ。すると、青年の顔から笑みは消えていたが、少々遠い目をして話し始めた。

「僕、高校ん時 ラグビーやってたんですよね。で、高校2年の春に 札幌の僕のいた高校に、その人が来たんです。それで・・・スカウトしてもらって・・・。その年の夏休み明けから、東京の私立の高校にラグビー推薦って形で転入したんです。だから高校時代は特に、親代わりになって世話してもらいました」

思わず引き込まれる様な青年の話に、沙希は遠慮がちに割って入った。

「凄いですね。スポーツ推薦なんて・・・。じゃ、今もラグビーを?」

青年は気の抜けた様な笑顔を沙希へ向けた。

「高3の時に大学ラグビー目指して 早稲田の推薦狙ってたんです。そんな矢先に・・・試合で大怪我しちゃって・・・。膝とアキレス腱やっちゃって・・・。それで全部パアになりました」

話の内容と 顔の表情がちぐはぐなだけに、沙希はその時の彼の挫折の痛みを感じ取っていた。

「すみません。初めてお会いした人に、こんな話」

沙希は首を左右に振って、別の話題を探した。

「妹さんが横浜にいらっしゃるって・・・。横浜のどちらですか?」

「戸塚って所です。今年嫁に行ったんですけどね」

相槌を返す沙希が、何気なく青年を見た。

「ご結婚・・・は?」

「僕?僕はまだ独りもんです。ご覧の通り」

そう言って両手を広げて、笑ってみせた。

「そちらは?・・・なんて、失礼なのかな?さっき会ったばかりの女性に こんな事聞くのは」

沙希は青年の言葉に対する『いいえ』と、質問に対する『まだです』を、同時に首を横に振る事で済ませた。

「ご予定は?」

続いて頭を左右に振ったが、沙希の視線は反れていた。すると青年は言った。

「結婚って、色々あるみたいですよ。妹んとこは、短大時代からの付き合いで 6年越しの恋を実らせて結婚しましたけどね、6年もつき合ってて 相手の事色々知ってると思ったら、生活してみて初めて分かった事ばっかりだって この前言ってました。周りからは『新婚新婚』って言われるけど、毎日喧嘩してばっかりだって 愚痴ってましたよ。分かんないもんですね」

その内容が何故か自分達とだぶって見え、沙希は他人事とは思えなかった。

「結婚願望は・・・ないんですか?」

その質問に、青年は笑った。

「誰でもいいから とにかく結婚したいっていうのは無いですよ。この人とだから結婚したいって思うもんじゃないですか?まぁ僕の場合は、そういう人も今は居ないですけどね」

「そうなんですか・・・?」

「去年終わりました。僕の場合、8年越しの恋を実らせずに、長過ぎた春にピリオドを打たれたクチですけどね」

「そうなんですか・・・」

沈んだ表情の沙希に、明るく青年が言い放った。

「って言っても、くっついたり離れたりしてましたから、僕等の場合。結局別々に生きろって事だったんですね。最近ようやく そう思える様になりました」

その言葉がずしんと重く響いて、沙希をがんじがらめにしそうになった時、隣から現実の声が聞こえてきた。

「ごめんなさい。また、こんな話・・・。あなたには どうしてだか、色々と話しちゃいますね。すみません・・・」

現実に引き戻された沙希が、慌てて頭を下げた。

「ごめんなさい。こちらこそ、変な事聞いたりして・・・。でも・・・今の話、凄く分かる様な気がしました・・・」

沙希は一口 お茶で口を湿らせた。

「私にも・・・くっついたり離れたりしてた人がいたんです。でも私は・・・離れても『やっぱり』って思うのは、お互いに離れられない存在なんだと信じてました。でも・・・その逆だったんでしょうか・・・」

「いや・・・」

青年は体を 心持ち沙希の方へ向けた。

「さっきのは、あくまでも僕の話です。皆が皆、そうだっていう訳ではないですから・・・。あなたが その人の事を“離れられない存在”だと感じるなら、そうなのかもしれないし・・・」

親身になる青年の姿に、沙希は急にハッとした。

「ごめんなさい。私まで変な事・・・。何だか妙に落ち着いちゃって・・・余計な事まで、つい喋り過ぎました」

首をすくめると、はつらつとした表情で青年が言った。

「今度ゆっくりお酒でも飲みながら 話したい位ですね。アルコールは・・・大丈夫な方ですか?」

すると急に 沙希の心にブレーキがかかり始め、頭をこくりと頷かせただけで、声は出なかった。しかし青年は、それを見るなり パアーッと顔を明るくした。そして更にはつらつとして言った。

「じゃ今度、是非飲みに行きましょう。都内に来られる事ってありますか?いやぁ、もし焼き鳥がお嫌いでなかったら、是非ご案内したい所があるんです。池袋なんですけどね・・・横浜からだと、ちょっと遠いかな・・・」

沙希の脳裏には、昨年電車の中での浜崎修也との出会いが思い出されていて、彼とのあの結末が、今の沙希の心に 暗い影を落としていた。そして 知らず知らずの内に、青年に向けていた体を直し、首をすくめていった。

「あ・・・焼き鳥、あんまり得意じゃなかったかな?いや、別にどこでもいいんですよ。ただ僕自身があんまり横浜には詳しくないもんで。そちらのお薦めのお店があったら、そこでも構いませんよ」

沙希の様子が明らかに先程と違う事に、気が付いていた。

「ごめんなさい!僕、自分の名前言うのも忘れてました。すみません。阿田辺行世あたべゆきよと言います。割合 苗字も名前も珍しいから、一回聞いたら忘れないって言われます」

急に貝の様に口を閉ざしてしまった沙希へ、阿田辺が恐る恐る遠慮がちに質問した。

「もし、差し支えなかったら・・・お名前を・・・」

膝の上に乗せた沙希の両手に力が込められ、何かに耐えている様な面持ちで、じっと前を行き交う人波の足元を眺めていると、阿田辺が取り繕う様に明るい声を上げた。

「ごめんなさい。今会ったばかりの人に、ぶしつけに『飲みに行きましょう』なんて誘われても、困りますよね。まるでナンパみたいだし・・・。すみません。僕が無神経でした・・・」

潔く頭を下げるその阿田辺と名乗る青年に、沙希は心苦しくて 居ても立っても居られなくなり、とうとう席を立ち上がった。

「私、ホテルに忘れ物してきちゃったみたいで・・・。ごめんなさい。取りに行ってきます」

彼に深く一礼すると、顔も見ずにスーツケースをガラガラと引きずって 走り去って行った。阿田辺という青年からではなく、何かから逃れる様に夢中で走っていると、いつの間にか空港から出ていて、タクシー乗り場に突き当たった。途方に暮れる間もなく、先頭のタクシーのドアが開き、引き込まれる様に座席に座り込んだ。その後、運転手のおじさんの トランクをバタンと閉める音から間もなく、勢い良く車は発車した。

「どちらまで?」

と聞かれ、とっさに沙希は

「この辺で、一番近くのホテルまで」

と答えた。快く返事が来たものの、運転は荒っぽく、お陰で沙希はすっかり現実に引き戻されていた。


「ここでいいかい?」

と言われ 降ろされたホテルは、ピシッとしわ一つ無い制服を着こなしたドアマンが出迎える様な 一流と名の付く所で、沙希は回転扉に吸い込まれていった。ロビーに一旦入ると、外の寒さからは想像も出来ない程 別世界の暖かさで、それは吹き抜けの天井に高く吊るされたシャンデリアや、壁に飾られた巨匠達の絵画、そして中央に生けられた花々が 尚も別世界の雰囲気を盛り立てていた。

 ホテルに着いたものの 沙希には何の目的も無く、とりあえず空いていたソファに体を沈めた。すると その日初めて“疲れた”という感情が湧き上がってきた。そして背もたれにゆっくりと寄り掛かると、自然とまぶたが下り、沙希を景色のない世界へと連れて行った。するとまぶたの裏に 今日起きた出来事が次から次へと思い起こされ、その場面の多さに沙希の許容範囲を超えそうな事に初めて気付く。そう自覚した途端、ぐったりと全身が重たくなった気がした。このままでは動けなくなると思い、重たく鈍いまぶたを押し上げた。しかし 立ち上がって荷物を引きずるなど 考えただけでもしんどく、沙希は暫く心の声に身を任せる事にした。沙希の心情とは似ても似つかない程華やかなロビーに ふと視線を飛ばすと、多くの旅行者の隙間をかいくぐり、一組のカップルにその矢は刺さった。ベルボーイに先導されながらエレベーターに向かう大地に寄り添う様に しがみつく様にして、腕をしっかりと絡める千梨子の後ろ姿がそこにはあった。途端に凍りついた沙希に 再び血液が流れ始めたのは、それから暫くしての事だった。ほんの一瞬の出来事で、漫画にしたら きっと一コマにしか過ぎないであろう あの映像がどうしても信じがたく、沙希は目をこすった。しかし 思い出せば出す程 二人は確実で、おまけにベルボーイの手には鍵がぶら下がっていた様にも見えた。

(じっくり話をする為に、きっと部屋を取ったんだ)

そんな声が沙希の頭の中で湧き上がると、又いたずらにそれを消し去ろうと別の声が聞こえる。

(でも何も、部屋じゃなくても・・・。レストランでもどこでも、二人で話し合う場所ならいくらでもある筈)

しかし又、もう一つの声が反撃に出る。

(千梨子の今日泊まる部屋を取ってあげただけに決まってる。だからきっと大地は、出てくる・・・。話が終わったら、絶対出てくる・・・)

沙希はもうそれ以上 声が勝手に言い争わない様にと、自分の耳を塞いだ。

 丁度沙希の座っているソファから エレベーターホールがかろうじて見え、そこから再び見える筈の大地の姿を 今か今かと待ちわびていた。一時間、二時間と経った頃、沙希は突然そこを立ち上がった。ただ待つという苦痛と時間の重さに耐えかねて、深呼吸をしてフロントに向かった。

「すみません。大野千梨子という女性がこちらに宿泊してると思うんですが・・・」

今朝まで沙希が泊まっていた小樽のビジネスホテルのフロントマンとは明らかに違う 品のある笑顔で承ると、手元のパソコンのキーボードを叩く。

「申し訳ございません。大野千梨子様というお名前の方のご予約は頂いておりませんが・・・」

丁寧な調子につられ、沙希がもう一歩踏み込んでみる。

「あっ、木村大地で予約してたかも・・・」

再びフロントマンはキーボードを叩く。

「はい。木村大地様、承っております」

沙希にとっては決定的な言葉だったが、フロントマンの爽やかさの手前 お礼を言って会釈をすると、『お部屋の方、ご連絡入れさせて頂きましょうか?』等という気の利いた台詞も耳に入らないまま、その場を立ち去った。

 フロントマンの視界から逃れる様にして 別のソファに腰掛け、少々の放心状態に溺れる。そんな時、ふと思い出した大地の台詞。沙希の昔の浮気を 心の深い部分で秘かに引きずり、爆発して溢れ出したあの日、捨て台詞で大地が言った言葉。

『俺は浮気が許せる程 でっかい男じゃないんだよ』

そして沙希の心の中に 嫌な予感が立ち込める。

(浮気をした私を恨む気持ちから解放される為に、自分にも既成事実を作ろうとしてるのかもしれない・・・)

『でも・・・』とまだ大地を信じたい沙希は、今度は携帯を取り出した。

(話をするだけなら、きっと電話も繋がる筈・・・)

暫くの無音状態が、沙希を不安にさせる。そして耳に当てた携帯から聞こえてきたのは、悲しくも音声メッセージだった。最後の望みまでも絶たれた思いで、沙希がガックリと肩を落とすと、今度は由美姉の声が頭の中でこだまする。

『自分がした事は、必ず後で返ってくるんだよ。そういうもんだよ、人生って』

その言葉にとどめを刺された沙希は、荷物を引きずりながら ホテルを後にした。


 沙希が自分のベッドで目を覚ましたのは、日曜日も もうあと二時間程で終わる頃だった。久し振りにゆっくりと眠った沙希は、ベッドの中でふと思い起こす北の地での出来事は まるで夢かうつつかという位、遠い昔の事の様に思えた。

結局朝一番の便で羽田に着き、家に帰るなり出迎えた母とろくに口も利かずに部屋に閉じこもり、眠りこけていたのである。心配を掛けた母に、そして何も言わずにこの家を出た事の 父への気まずさが渦巻いて、下へ降りる決心を固められずにいた。家に帰り着き、自分のベッドで体を休めた安心感からか 押し寄せた空腹感が、沙希の背中を押した。帰ったままのくしゃくしゃになったスカートを着替え、パジャマ姿で階段をそろそろと下りて行った。

「ただいま」

ソファに腰掛けテレビを見ていた父と、台所で何やらゴソゴソ片付けをしていた母に、沙希は蚊の鳴く様な声でそう言った。すると、気のせいか 刺す様な鋭い父の視線とは対照的に、母は笑顔を向けた。

「ゆっくり休めた?お腹空いたでしょう?取ってあるわよ。沙希の大好きなクリームシチュー」

 沙希の大好物の母手作りのチーズ入りクリームシチューが湯気を立てて食卓に並ぶと、それだけで沙希は思わず涙ぐみそうになった。暖かい湯気の上がる食事は、本当に何日か振りで、それが凍えた沙希の心を溶かしていった。懐かしい母の味に包まれていた矢先に、リビングの方から厳しい声がした。

「一体どこ行ってたんだ」

その一言で、沙希の体は凍りついた。母がなだめる様に、そしてまるで『さっき言ったじゃない』と言わんばかりに『お父さん!』となだめるが、父の口は止まらなかった。

「嫁入り前の娘が、何の連絡もなしに何日も家を空けて」

すると、すかさず母が応答した。

「だから言ったじゃない。彼がわざわざご挨拶に見えて、一緒に北海道に行ったって・・・」

しかし、父は治まらなかった。

「電話の一本もして来ないじゃないか!」

いつの間にか 沙希の横に弁護人の様に立ち、暫く父と母のやり取りが続いた。

「ちゃんと沙希から連絡が来たって、言ったじゃありませんか」

「俺には一言もないだろう!それにその男だって、俺は一度も紹介されてない。結婚したいなら、まず両親揃った所に挨拶に来るべきだろう」

母が何か返す言葉を考えている隙に、沙希は立ち上がって頭を下げた。

「ごめんなさい。・・・お父さんの言う通りです・・・。でもあの時は・・・家を出る時は、あまりにも急な事で 私も・・・あれよあれよという間に飛行機に乗ってた様なとこがあったから。心配掛けて、すみませんでした」

すると父が、落ち着かない素振りを見せた。

「そんなに結婚したい人なら、明日でも明後日でも ここに連れて来なさい」

沙希は口をつぐんだまま、首をうなだれた。

流しに食器を下げた沙希の肩に、母が手を置いた。

「お風呂に浸かって、ゆっくり温まって来なさい。疲れも取れるわよ」


 肩まで湯船に浸かって目を閉じると、やはり見えるのは ホテルのロビーで偶然見かけた二人の後ろ姿だった。このままここで のぼせる程浸かっていたら、この数日間の嫌な事 全て忘れられそうな錯覚を起こし始めていると、ドアの向こうから母の声がする。

「沙希・・・。さっきのお父さんの言った事・・・あんまり気にしなさんなよ。心配だったのよ、沙希の事。それに・・・急に、何の前触れもなく『結婚』なんて聞いて・・・淋しかったのよ。それが、あんな言葉になっちゃったの」

「うん・・・」

ポチャンとお湯の弾む音だけがする。

「私が居なかった間、お母さん、お父さんに色々言われてたんでしょ?・・・ごめんなさい・・・。本当に私って、親不孝だよね・・・」

「違うよ。沙希、それは違う」

母の口調が少し強まった。

「親の機嫌取りながら、顔色見て 親の言う通りにする事が親孝行じゃないわよ。子供がどんな事したって、親は心配するもんなのよ。それが親ってもんなの。だから心配掛ける事が悪いんじゃないのよ。子供が自分で幸せになろうと頑張って生きてってくれる事が、一番の親孝行かな。きっとお父さんだって、そう思ってる筈よ」

「ありがとう・・・」

またポチャンという音がした。ひとしきり話が終わり、帰りかけた母の足が止まる。そしてもう一度、風呂の中の沙希へ声を掛けた。

「そういえば、沙希が出掛けてった次の日・・・だったかな。桜田さんって方から電話があったわよ」

その名前が、沙希の耳に引っかかった。

「お友達?『北海道』って言ったら、知ってる様な風だったから・・・」

沙希はがっくりと肩を落とした。

「前のサロンの時の後輩」

「あら・・・。じゃ、何か仕事の事で 用事があったのかしら。別に連絡くれとも何とも言ってなかったけど・・・。もし必要なら、明日にでも掛けてみて」

母は軽い気持ちで そう言い残して、ドアノブに手を掛けたところだった。

「彼の・・・」

母の足が止まる。

「前の彼女の・・・妹なの」

ドアノブから ゆっくりと手が離れた。母が口を開こうとした瞬間、沙希の浴室に小さく響く声が 一足早く耳に届いた。

「その・・・前の彼女が・・・居なくなったって・・・」

母が沙希に掛ける言葉に迷っていると、エコーのかかった声がトボトボと続いた。

「多分、それで電話してきたんだと思う・・・」

小樽で何があり、何故突然 連絡もなく帰って来たのか話さない沙希だったが、今の一言で その辺の状況を母なりに察し、胸を痛めていた。

「彼の居場所を私が知ってると思ったのか、私のせいで姉が居なくなったんだって責めたかったのか、知らせたかったのか・・・。・・・どっちにしても、お姉さんが家出した本当の理由が私にあるって思ったんでしょ、きっと・・・」

力無く告白する沙希の言葉に、母は思わず苦い顔をして、左手で顔を覆った。

「沙希・・・。辛い思い、いっぱいしたんだね・・・」

母の掛けてくれた優しい一言に 沙希は耐え切れず、お湯に顔をうずめた。そして暫くして、母が言った。

「でも沙希。あんまり自分の事、責め過ぎちゃダメよ」


 結局その日一日 大地から連絡が入る事はなく、沙希の中の不安は更に募っていった。昼間帰宅するなり眠り続けたお陰で、体は眠る気配もなく、その空虚な時間が 大地がもう沙希の元へ戻って来ないシナリオを書き上がらせてしまっていた。だからと言って諦められる程 潔い自分にもなれず、沙希はそんな邪念を振り払うかの様に 部屋の片付けを始めた。始めて30分と経たない内に、クローゼットの奥にしまい込まれていた大地から昔送られてきたエアメールの絵葉書き達が 姿を現した。メキシコのグアダラハラという 当時大地の住んでいた町の消印に懐かしさを募らせながら、一つ一つ手に取ってみる。文章からは 二人の当時の関係が鮮明に思い出され、何故か初々しくさえ感じるのだった。

(出来る事なら、あの時に戻って やり直したい)

これが沙希の今の本音だった。しかし、過ぎ去った時間は 取り戻す事が出来ず、沙希を一層苦しめるのだった。


 次の朝早くに、待ちに待った大地から 呼び出された大桟橋へ向かう途中、沙希は戸惑いを片手に握りしめて走っていた。千梨子と寄り添う後ろ姿の鮮明な映像を脳裏に抱えて、そんな事を全く知りもしない大地と どんな顔をして会えと言うのか。電話を待っていた筈なのに、半分怖い気持ちと背中合わせな自分を引きずりながら、ウッドデッキへと足を踏み入れた。吹く風は冷たく、肌を刺す様な寒気は 関東この秋一番の冷え込みだった。そしてそれは、小樽の風を思い出させた。全く人気の無い大桟橋のデッキをゆっくりと昇って行くと、一番先頭に 小さな人影が見えた。傍に近付くまで顔も見られない沙希が、大地の2m程手前で足を止めた。恐る恐る視線を上へ上げていくと、大地は海の方を向いたまま、背中をこちらへ向けていた。沙希の気配を感じている筈なのに、なかなか振り返らない その大地の行動に、沙希はあの晩ホテルでの千梨子との知られざる時間に確信を持った。そして次の瞬間、沙希のもっとも恐れていた言葉が発せられた。

「ごめん・・・」

微動だにしない大地の淋しげな背中を見つめながら、沙希は大きく落胆していると、その後に訪れた長い沈黙が 沙希の不安を余計にあおった。再びやり直そうと決めてから、一度も沙希に触れようとしなかった大地が、千梨子とこれっきりと言えども 一晩を共にした事への償いの言葉だと思い込んでいた。しかしそれ以上の意味があるかもしれないと、ふと嫌な予感が頭をよぎる。そしてそれは 空気を送り込まれた風船の様に 大きく大きく膨れ上がり、今にも宙へ舞い上がろうとしていた。祈る思いで、大地の次の言葉を待つ沙希。大地の視線の端に 滑り込む様に進む貨物船が見えた時、大地の口がゆっくりと開かれた。

「一昨日千梨を見付けて話をした所から、正直に順番に話すから・・・聞いて」

一向にこちらを振り返ろうとしない大地の話に、沙希は耳を塞いでしまいたかった。

 大地の話が進むと、やはり千梨子の家出の原因は 沙希と大地の事で、結婚まで考えた相手に捨てられた自分の存在価値を見失い、死に場所を探して歩き回っていたという。しかしやはり いざとなると決心もつかず、すがる思いで大地に電話をしたが、それを拒絶された事で 死ぬ決心が出来たという。だが、大地からの大量の留守電のメッセージによって、あの時電話を切ったのは沙希だった事を悟り、当てつけの為に 最後のささやかな抵抗のつもりで、二人の居る小樽で命を絶とうと 飛行機で飛んで来たらしい。

 聞いていく内に沙希は、自分の行動が 人を死に追いやっていた事に、大変な絶望感を抱いていた。ややもすると『もういいよ』と話を打ち切ってしまいそうなところを、ぐっと歯を食いしばった。そこで、大地の声が止まった。暫くして、お腹いっぱいに朝の凛とした空気を吸い込んだのが、後ろからも見て取れた。

「千梨に・・・『最後にもう一度だけ・・・抱いて欲しい』って・・・言われた。俺は・・・千梨との話を うやむやにしたくなかったし・・・あいつに別れ話をした時は、一方的で強引だったから・・・その責任として・・・」

そこまで聞いて、堪らず沙希が口を挟んだ。

「そこはいいよ。そこんとこはいいよ。で・・・結論を教えてよ」

「結論・・・?」

「だから・・・千梨子さんと二人で、こっちに帰ってきたんでしょ?」

言いながら見つめる大地の背中は、どことなく遠く感じるのだった。

「向こうの両親へ無事に送り届けるっていう俺の責任もあるから、昨日・・・あいつの家まで・・・。そこで・・・あいつの親父さんに・・・殴られたよ。まぁもっとも、親の気持ちからしたら こうでもしなきゃ気が済まなかったんだろうから・・・」

ようやく振り返った大地の口元は赤く腫れあがり、沙希は思わず声を失った。ひきつる様に笑いながら、大地はその傷口に手をやった。

「今朝になったら、結構腫れてきちゃって・・・」

痛々しい大地の顔を見るに見かねて、沙希が叫んだ。

「酷いよ。こんなになるまで・・・。千梨子さんだって、どうして止めてくれなかったのよ・・・!」

すると、大地の表情が引き締まる。

「あいつが体を張って、お父さんを止めてくれたんだ。でなきゃ俺、もっとボコボコにされてたよ」

千梨子をかばう様な台詞に、沙希は愕然としてしまう。そしてついに、沙希の中のマグマが流れ出した。

「何よ!さっきから『あいつ』『あいつ』って・・・!」

「・・・ごめん・・・」

暫くして、沙希のマグマが 潮風によってクールダウンし始める。

「ここ何日かで、私一人になって色々考えたの。・・・やっぱり・・・私があの時大地に『他の人とどうにかなった』って話したの・・・間違いだったって分かった。私・・・正直でいる事が一番二人の絆を強めるって思ってた。だけど・・・世の中には、言わなくていい事もあるんだよね。だから・・・大地も・・・言わないで。お願い。言った事で散々大地を苦しめといて・・・勝手なお願いなのは分かってるけど・・・」

大地は返事のないまま、下を向いた。

「で・・・結局・・・千梨子さんと話して・・・どうなったの?大地と・・・千梨子さんの・・・関係は・・・」

何とか気丈に振る舞うが、言い終えるなり その場を離れ、柵に手を掛け 海からの潮風で沙希は自分を洗った。会った時から『ごめん』を繰り返す大地の、今日持って来た結論が 今にも大地の口から聞けるというのに、沙希は今頃になって 現実と向き合う事に怖気づいていた。

「千梨も分かってくれて・・・お互い別々の道を行こうって・・・納得してくれたよ」

「前の時もそう言ったじゃない」

水面にトビウオが一匹跳ねた。

「前は・・・俺が一方的に断ち切ったんだ。『どうしても』って縋ってくる千梨子の気持ちも無視して・・・」

ここに到着した時よりも朝日の位置が高くなり、分厚い雲間からほんのりと顔を出していた。

「私・・・今度みたいな事 また起こったら・・・耐えられるか分からないよ・・・。もう・・・嫌だよ・・・」

「大丈夫。今度は千梨とも きちんと話をつけたし・・・」

「そんなの・・・当てにならないよ。千梨子さんは大地に嫌われたくないから、そんな綺麗事言ってるのかもしれないじゃない」

「そんな奴じゃないよ、千梨子は」

その途端、二人の間に緊張感が走った。10℃とないピーンと身の引き締まる気温も手伝ってか、一瞬すべての時が止まった。そしてボーッと海の底に響く様な船の汽笛が、その重い沈黙を切り裂いた。沙希が小さく口を開いた。

「生きていくって、こんなに疲れる事なの?千梨子さんを苦しめたから、私は幸せになる資格はないのかな・・・」

肌を刺す様な冷えた潮風が目に染みたのか、みるみるうちに沙希の瞳は潤んでいった。こらえていた瞼が一度瞬きをすると、一すじの涙が頬を伝い落ちた。

「来年の春に結婚しよう。それまで沙希は・・・」

そんな穏やかな口ぶりの大地に、沙希は噛みついた。

「それでいいの?大地・・・本当にそれで・・・いいの?」

涙をいっぱい溜めた瞳で、沙希は大地をじっと見た。

「私の浮気の事・・・本当はまだ引っ掛かってるんじゃないの?だから・・・私の・・・手も握ってくれないんでしょ」

灰色の空と 深くくすんだ海の色と同じ様に、重苦しい空気が立ち込めた。

「確かに・・・あれは・・・相当ショックな出来事で・・・。正直、何で黙っててくれなかったんだって思ったよ。何度嘘をつき通して欲しかったって思ったかしれないよ。でもだからって、気持ちは変わらない。もう・・・自分の気持ち ごまかすの嫌なんだ。そりゃ小樽に居た時、何度もお前を傍に感じたいって思ったよ。だけど・・・そうなったら・・・嫉妬に狂う自分が目に見えて。そんな自分から逃げてたんだ」

「本当は私の事・・・汚い女だって思ってるんでしょ?」

急に淋しい表情をする大地。

「汚いなんて・・・。そんな風に思った事、一度だってないよ。冷静になって考えたら、淋しい思いをさせてた俺にだって 責任はあるんだから」

再び海の方を見て、大地に背を向け涙を拭った。

「どうしたの?そんな物分かりの良い事言っちゃって・・・。自分も千梨子さんとエッチしたから、気が済んだの?」

半ば投げやりに笑いながらそう言った沙希の肩に、大地が両手を乗せた。

「沙希・・・」

しかし、沙希は肩を左右に大きく揺らし、その手を振り払った。

「そうよ!私は思ってるわよ。自分の事棚に上げて、大地の事 汚い ずるいって思ってるわよ。でもしょうがないじゃない!思っちゃうんだもん。自分の頭とは全然別の所で、大地の事責めちゃうんだもん。だから大地だって もっと私の事、軽蔑したらいいじゃない。お互いに『最低な奴だ』って思ったら、そのうち憎しみと一緒に忘れていけるよ」

また自分が、自分のこの手で全てを崩していくのを 沙希は感じていた。しかし、どうする事も出来ずにいた。そして叫ぶだけ叫んだ後のボーッとした頭に、静かに大地の声が染み渡ってきた。

「話を聞いて欲しい。昨日 千梨と話をして、確かに『最後に一度だけ』って言われたよ。千梨は・・・『もう一回だけ抱いてくれたら、それを胸に これから頑張って生きていく』って言った。俺が千梨を愛してたっていう証が欲しいって言われたんだ。だけど・・・そういうもんじゃないだろ?お互い、相手だけを見つめてて・・・最高の愛情表現だと思ってる。俺の気持ちはもう沙希にあるのに、体だけ千梨に向いたって意味ないだろ?それで千梨が満たされる訳もないし。満たされるどころか、かえって虚しくなるんじゃないかって言ったんだ。でも・・・『それでもいい』って言われた。だけど俺は・・・そんな簡単なもんじゃないと思ってる。もっともっとお互いにとって大事な事で、深いもんだと思ってる。だから・・・千梨と付き合ってた時は、そういう気持ちで千梨を抱いたし・・・本当に愛おしく思ってた。でも今は・・・気持ちも状況も何もかもが違っていて、もう昔には戻れないんだって話した。今 心が空っぽのまんま千梨を抱いたら、あの時千梨を 俺の全部で抱きしめた気持ちまで嘘になるから、出来ないんだって言った。だから・・・千梨とは・・・何もなかった。・・・信じて欲しい」

いつの間にか 目の前の海の上を飛び交うカモメが、時々鳴き声を上げていた。沙希の中では大いに安心した気持ちと、まだ信じられない気持ちが 半々入り乱れていた。そんな沙希の思いを知るかの様に、大地が言葉を加えた。

「だから お願いだから、もう『忘れられる』なんて言うなよ」

それは嘆きにも似ていて・・・。

「私、自信ないよ・・・。私は大地と一緒なら 幸せに生きていけるけど、大地を幸せにする自信は・・・ないよ・・・」

すると大地は、優しく笑って返した。

「おかしな事言うなぁ。片方だけが幸せなんて、ないんだよ。相手が幸せなら 自分だってそう思えるし、だからいつも相手を幸せにしてあげたいって気持ちになるんだろ?幸せは・・・二人で作ってくもんだろ?」

そう言って、大地の手が沙希の頭の上に乗っかった。その瞬間、沙希の中に懐かしい安心感が込み上げてきて、何故か溢れる涙を笑顔で拭いながら、沙希は何度も何度も頷いた。


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