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輝けるもの(下)  作者: 長谷川るり
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第8章 引き潮

8.引き潮


 ある朝、沙希が出勤した時から 何だか様子のおかしかった桜田が、ようやく昼過ぎになって 在庫整理にロッカールームに来た沙希を捕まえた。

「チーフ。チーフって・・・元々木村さんと・・・知り合いだったんですか?」

言いにくそうな桜田を前に、沙希もまた慎重になる。

「木村さん・・・と・・・?」

「姉の・・・彼氏の・・・あの木村さんの事、元々知ってたんですか?」

沙希は先日 小樽の夜、大地の車内で掛かってきた桜田からの電話を思い出していた。

「どうしたの?この間から、何か変よ」

そんな風に気丈に言い放ってみたものの、不安の大波が沙希を襲っていた。大地が千梨子に自分の事を話してしまったのかもしれない。そんな疑問がふと頭をよぎるが、やはり沙希はしらを切り通すつもりで、余裕の笑みを浮かべてみせた。しかしそれも 束の間だった。

「彼の携帯にチーフの名前があったの見付けたって・・・。それで・・・彼に問い詰めたら・・・全部話してくれたって・・・。どういう・・・事ですか?」

微妙に桜田の声は振るえていた。同時に沙希も愕然としていた。言うだけ言うと 俯いてしまった桜田に、沙希は一言掛けるのが精一杯だった。

「ごめんなさい・・・」

とうとう修羅場が来てしまった事を覚悟した。何とかこのまま 気が付かれないまま逃げ切って、サロンを辞めていくつもりだったのに、やはり そう都合良くはいかないものだと 肩を落としていた。その時青山の声がした。

「チーフ。花杉様からお電話です」

救われた思いでその場を離れ 電話に出ると、時間よりも30分遅れるとの事。後も詰まっていなかった為、快く承諾し 予約表を開いて そこで又目を疑った。7時から入っていた千梨子の担当が、桜田からいつの間にか自分に変えられていた。

「キャンセルの電話?」

予約表を覗き込む青山に、沙希が顔を上げた。

「この6時からの予約を30分遅らせて欲しいって。で、OKしちゃったんですけど、この大野様の予約 私の担当に変わってるの気が付かなくって・・・」

「あら?大野様って、桜田さんのお姉さんでしょ?桜田さんの担当じゃなかったっけ?」

そこに いつの間にか現れた桜田が、横から発言した。

「姉が・・・今日はどうしてもチーフにやって欲しいって連絡がありました」

ちらっと桜田を上目使いに見ると、桜田も同じ様にチラリと沙希の目を見た。そんな事を一つも知らない青山が 少し考えると、予約表を指さした。

「じゃ、花杉様を桜田さんが、大野様をチーフが・・・それでどう?花杉様には いらした時に説明すれば分かって頂けるんじゃない?」

内心がっくりと落胆した思いで、沙希はその予約表を閉じた。

「店長。すみません。ちょっとそこのコンビニに、切手買いに行ってきます」

無理矢理用事を作り、必死の思いでサロンを抜け出すと、慌てて携帯電話を取り出した。せめて千梨子が来る前に、大地に真相だけでも確かめようと 耳に当てた携帯を握りしめるが、聞こえてくるのは留守番電話サービスの応答メッセージだけだった。

 予定通り花杉が30分遅れて、サロンに姿を現した。事情を説明すると、にこやかにお手入れルームへと入っていった。その頃もう既に決戦を前にした沙希の心境は やはり穏やかではなく、もう何か冷静に物が考えられる状態ではなくなっていた。動いていないと落ち着かず、整っている筈の千梨子用のベッドへ もう一度点検に行く。一つ空のベッドを挟んだ隣のベッドには、カーテン越しに花杉と桜田のやり取りが聞こえてくる。

「うちのチーフとは、どういったお知り合いなんですか?」

桜田の何気ない質問にドキッとする。

「直接の知り合いじゃないのよ。うちの主人のね・・・」

そこまで聞いて堪らなくなり、沙希はその場を退散した。

それから間もなくして、千梨子が現れた。果たして本当にどこまで知っているのか、もし全てがバレてしまっているとしたら 一体どんな顔をして会えばいいのか。沙希の思考回路はパニックに陥り、もう何も考えられなくなっていた。早々に着替えをすすめ、ベッドへと案内した。沈黙が恐ろしく、沙希はひたすら お手入れや美容に関する話をし続けた。話の隙間にいつ千梨子が切り込んでくるかとハラハラしながら、沙希は必死で手と口を動かし続けた。そしてようやくパックを塗り終え、ほっと一息つこうとした時だった。

「河野さんは仕事と恋愛、どっち取りますか?」

唐突な千梨子の質問に、思わず凍りついた。

「どうかしら・・・。その時の恋愛にもよると思いますけど・・・」

何とか正面衝突を免れようと かわしてみるが、千梨子もそう簡単には振り払われなかった。

「今はどうですか?」

ドックンドックンと心臓が大きく脈打った。

「昔なら迷わず『仕事』って答えたと思います。でも私も、段々年齢が上がっていくと・・・やっぱり結婚もしたいし 子供も欲しいなって考えると・・・。自分の好きな仕事持っちゃうと、それはそれで大変みたいですよ。そういう話、良く聞きますから」

何とかすり抜けて、間髪入れずに立ち上がった。

「このまま少しお時間置きますね。ゆっくりお休みになってて下さい」

正にその場から逃げ出す様に離れた自分を卑怯だと思いながら、その反面 仕方ないと慰めてもいた。そして沙希は次の準備を始めた。パックを綺麗に拭き取りながら、沙希は説明をした。

「今日はお肌の調子を見させてもらって、超音波ではなくバイオニックセルサーの方掛けさせて頂きます」

もっともらしく『お肌の調子を見させてもらって』なんて、まるで嘘だった。

「これも凄く美白効果が高いんです。お肌の深部にまで働きかけてくれますからね。夏の間中 紫外線をたっぷり浴びて お肌も疲れてますのでね、一回でもくすみが取れて、血行が良くなったのを実感して頂けると思います」

超音波をやめてセルサーにした理由の本当のところは、もちろん違っていた。セルサーは顔の上にセットしてしまえば、あとは席を離れていられる上に、千梨子は目も口も塞がれた状態で 話をするのも不自由になる。『あなたの為』と言いながら、職権乱用して『自分の為』に取った行動に、沙希は チーフの名に相応しくない落ちぶれた自分を感じ、自己嫌悪に陥った。それでも そんな自分を止める事は出来ず、ただただ早く時が行き過ぎるのを祈っていた。

 セルサーを外し 化粧水で肌を整え、あとは頭皮と肩のマッサージだけといったところで、一歩早く千梨子が口を開いた。

「河野さんは今までに、自分の彼氏に裏切られたり、他の人に愛してる人を取られた事 ありますか?」

「・・・・・・ありますよ」

沙希の脳裏には、浜崎修也が思い出されていた。しかし 容赦なく千梨子は、更にキツイ一言を言い残した。

「じゃぁ、裏切られた方の気持ち、わかりますよね?」

心なしか語尾が強く感じられたが、それは沙希の気のせいかどうかは定かではなかった。千梨子のこの最後の一言は、沙希にとっては大きなダメージとなった。


 その晩沙希がなかなか寝付けずに ベッドの中で苦しんでいると、そこへ携帯の着信音が鳴る。大地からだった。これで今日4度目のコールだった。きっと夕方の沙希からの着信に気付いての電話だったが、どれも沙希は取ろうとはしなかった。今回も暫く枕元で鳴り続ける着信音を聞いてから、沙希はむくっと起き上がった。

「寝てた?」

何も知らない大地の声が、沙希には悲しくさえ聞こえていた。

「大地・・・。私は・・・私のしてる事は・・・間違ってたんだね」

大地は黙って耳を澄ました。

「今の私には、自分の気持ちに正直に生きる事が大切だと思ってた。・・・ううん。そう・・・信じてた。だけど・・・やっぱり、人の物取ったら自分も同じ目に遭うんだよね。それが人の道なんだと思う。私のしてる事は・・・しようとしてる事は・・・人の道に反してるんだね」

「何かあったのか?」

大地の口調が前のめりになる。

「ううん。今は・・・何もない。でも いずれ・・・何か起こる。それが分かるから・・・。せっかく大地が掛けてきてくれた電話で こんな話するの、本当に悲しいんだけど・・・」

「沙希・・・」

大地の大きく吸い込んだ息づかいが、沙希の耳に届く。

「うちの両親に会って欲しいんだ」

この言葉をせめて一週間早く聞けていたらと、沙希は自らの悲しい運命に 静かに目を閉じた。

「大地・・・。ご両親の気持ち、考えてあげて。結婚を前提にお付き合いしてる人だって千梨子さんを紹介してるんでしょ?それからまだ ろくに時間も経ってないのに・・・混乱するわよ」

「でも、俺達にはもう その方法しかないんだよ」

懸命な大地に、沙希は儚く微笑んだ。

「大地のその想い、聞けただけで もう充分だよ。ありがとう。これだけで、強く生きていけそう・・・」

もう何も聞こえて来なくなった電話に、沙希は一人呟く様に言った。

「ありがとう」

不思議と 沙希の目から涙が一粒もこぼれ落ちる事はなかった。


 サロンラヴィールに 沙希の代わりにチーフを務める小酒井之江が、今日初めて出勤した。大手エステサロンの都内の店舗でチーフをしていただけあり、やはり貫禄があった。仕事の引き継ぎを次々とする中で、沙希の体が次第に削り取られていく様な感じを覚えていた。自分が21歳からの6年間築き上げてきたものを手放すという事が どんな事か、沙希には想像以上に苦しいものとなった。今の自分から ここでの6年間を取ってしまったら、一体何が残るんだろう・・・そんな事をふと考えては、心を曇らせていた。そしてまた、往生際の悪い自分を格好悪いと思った。本当はもっと潔く、すっきりと線引きをするつもりだったのに・・・沙希は陰で一人ため息をつくと共に、先の決まっていない不透明な未来に ただ立ち往生していた。しかし、何よりも驚いていたのは桜田だった。沙希が辞める事も、今朝の小酒井の存在で、そして朝の会議で初めて知ったのだった。

「お疲れ様でした」

その日サロンを出て、エレベーターに乗り込んで 沙希はそこで張りつめていた緊張を一気にほどいた。大きなため息と共に エレベーターが一階に着きドアが開くと、そこには桜田が待っていた。

「チーフ・・・どうして辞めちゃうんですか?」

「ごめんね、話してなくて。店長にも、内々に治めてもらう様に言ってあったから」

答えになってない その返事を じれったく聞き終えて、桜田がまた聞いた。

「姉の事が・・・原因ですか?・・・っていうか、正確には・・・木村さんの事ですけど・・・」

沙希は夜の街へ足を進めながら、首を横に振った。

「今までこの仕事始めてから、この世界一筋に突っ走ってきたけど、この辺でちょっと立ち止まって、色んな事見つめ直してみたくなって」

半分本当で 半分嘘の言い訳に、納得したのは沙希だけだった。

「チーフ、教えて下さい。以前、姉と木村さんと四人で会った時・・・あの時にはもう・・・彼を知ってたんですか?」

もう逃げも隠れもしないと腹を決めた筈なのに、いざとなると 口が思う様に動いてはくれなかった。

「それとも・・・あの日会ったのが初めてで・・・それがきっかけで二人が近付いたんですか?」

このままでは誤解を招くと、慌てて首だけ左右に振った。

「じゃ・・・知り合いだったんですね・・・?でも、どうしてですか?あの時、それならそうと どうして言ってくれなかったんですか?知り合いだったんなら、それは偶然だし 仕方ないけど、千梨ちゃんから彼を奪う様な事しなくても・・・。だってチーフ、彼氏いましたよね?木村さんの事、別に元々好きだった訳じゃないんですよね?」

次第に感情があらわになり、早口でまくし立てる桜田。その剣幕に 不思議とたじろぐ事もなく、沙希の口からはほろほろと言葉が溢れてきた。

「私が前話した“遠距離の彼”が・・・彼なの。ずっと・・・想いが残ってたの・・・。ごめんなさい。四人で食事に行った あの時が、本当に四年振りの再会だった。でも・・・どうしても言えなかった。ごめんなさい」

いつの間にか二人は駅を通り越して、大岡川沿いを歩いていた。そして沙希は橋の上で立ち止まると、何度も何度も桜田に頭を下げた。

「もちろん・・・千梨子さんの事も・・・桜田さんの事も、いつも頭の隅で引っかかってはいたんだけど・・・どうしても諦める事が出来なかった。四年前に別れた時から、前に進めないでいたから・・・。だから・・・色んな覚悟をして、彼にぶつかっていった」

そこで一台の自転車が通り過ぎて行った。そしてまた、静寂が戻った。

「でも・・・私が言うのも変だけど・・・彼はホイホイ私に流されたんじゃない。千梨子さんの事、凄く大事に思ってるの分かったし、決して軽率な行動を取ったりしなかった。やっぱり結婚を考えただけの事はあるって、良く分かったわ。それは・・・信じてあげて。私が未練がましく 彼に気持ちを伝えたりして、彼の中で少し波風が立っただけ。だから・・・千梨子さんに伝えてもらえないかなぁ・・・彼を許してあげて欲しいって。私はこの辺で退散しますって。本当にごめんなさい」

沙希はもう一度、深々と頭を下げた。

「桜田さんも 私の事許せないと思うけど、もう暫くサロンで顔合わせるの、辛抱して。私の社会人としての責任も果たさなくちゃならないから」

そう話し終えると、90度腰を曲げる様にお辞儀をし、桜田の前から去って行った。


「お母さん、私 今月いっぱいで、今のサロン辞める事にしたから」

そう母に告げると、当然の如く『どうして?』という返事が返ってくる。

「ちょっと疲れちゃって・・・少し休憩しようかと思って・・・」

軽く笑って、そう言ってのける予定だった。しかし予想外にも 沙希の目からは、じわりじわりと涙が溢れ出した。台所に居た母は手を止め、沙希の横に腰を下ろした。話すつもりではなかった大地との事を 洗いざらい喋り終えると、沙希の顔は涙でぐちゃぐちゃになっていた。

「そう・・・」

母は一言だけ相槌を打ってから、沙希の目を見つめた。

「それで・・・いいのね?」

鼻水をすすり上げながら、沙希がボソボソと言った。

「良くはないけど・・・もうそれしか、仕方ないもん」

「『私さえ身を引けば』・・・って、あんたもプライドが高いわね」

沙希は予期しない母の台詞に唖然とした。

「別にけしかける訳じゃないけど、あんたの覚悟は その程度だったって事よ。それに『私さえ我慢すれば』って、一見凄く謙虚そうだけど、それって傲慢な人間の物の考え方よ」

自分の事を『フライドが高い』『傲慢』と言われ、反発したい思いで母を見ると、その母が注釈を付け加えた。

「沙希が身を引いたところで、その婚約者は以前と同じ様に彼を気持ち良く受け入れられる?彼だってそうよ。沙希が駄目なら、じゃ 元のさやに・・・って平気な顔して戻れると思う?沙希は身を引いた自分を 悲劇のヒロインみたいに仕立て上げて、自己満足してるだけよ。一番気持ちいいのは、沙希じゃない」

「そんな事ないよ!私だって どんだけ辛い思いして諦めたか・・・っ!」

食ってかかる沙希に、母は淡々と言ってのけた。

「あんたは気が付いてないかもしれないけど、心の奥底では『私が身を引いてあげた』って気持ちがあるのよ。『自分の方に揺れた彼を許してあげて欲しい』とかさ・・・。婚約者からしたら『何様のつもり?』って話よ。あんたのそのプライドをかなぐり捨てて、自分の身一つで彼の所に飛び込んでく覚悟が出来なきゃ 無理ね。まぁ沙希はそれが出来なかったから、諦めたんだろうけど。ま、それはそれで良かったんじゃない?」

少し位同情して慰めてくれると思っていた母から こんな厳しい指摘を受け、沙希は正直戸惑っていた。


 九月も半ばを過ぎ お彼岸近くなると、ぐっと朝晩の気温も下がり すっかり秋めいてくる。先日訪れた小樽で感じた秋が、徐々に本州に下りて来ているのを 沙希は肌で感じ取っていた。その時隣にいた大地に自分の未来を重ねて 見上げたあの秋の空を、今同じ空の下で沙希は一人 求人情報誌を片手に、家への坂道をゆっくり上っていた。天気の良い せっかくの日曜日、どこへも行く所もなく、ただ家でぼんやりと就職情報を眺めていた。『エステティシャン募集』や『技術スタッフ急募』の欄に丸を付けてみるが、手に持つその赤ペンは 何故か重く、沙希自身そこにどうしても現実味を覚えられずにいた。一向に気乗りしてこない その雑誌を一旦閉じると、沙希は頬杖をついて 目の前に掛かる夕日の油絵を見つめた。暫くして沙希は、大地に宛てた手紙を綴り始めた。大地からはあれからも何度か電話は掛かっていたが、沙希がその電話に出る事はなかった。しかし そう逃げてばかりもいられず、自分の蒔いた種の後始末をすべく、握りしめたペンと便箋に想いを込めた。5枚にも及ぶその内容は、『今までありがとう』の言葉で締めくくられた別れ話だった。それを封筒にしまい、ゆっくりと封をした。


 その後、まるで沙希の行動を見ていたかの様にタイミング良く、大地からの電話が入る。心の中で区切りをつけたばかりの沙希だったが、恐る恐る携帯を手に取り 耳に当てた。

「明日、そっち行くんだ」

随分長い間耳にしていなかった様な大地の声が、沙希の心を大きく揺さぶった。

「何があったのか知らないけど・・・俺の事避けてるんだろ?」

沙希の心のツボに大地が入り込み 大きく響き、自分が崩れてしまう前に 沙希は勇気を出して声を発した。

「全部・・・思ってる事手紙に書いたから、読んで欲しい。明日、横浜の西口にある あのマンションの屋上に置いておくから、取りに来て欲しい」


 台風が近付いていた。夕方から横浜も暴風域に入り、雨足も強まっていた。サロンのブラインドの隙間から外を覗くと、雨が風で四方八方に飛ばされ、辺り一面白い景色と化していた。そんな視界不良の中 空を見上げて、沙希は 今日羽田行きの飛行機が飛んだのか気に掛かっていた。何時頃の便だったのかも聞かず、昨日一方的に用件を伝え 切ってしまった電話に、少しだけ後悔すると共に、最近の大地を何も知らない自分に悲しい笑いがこぼれた。

 サロンの予約もキャンセルが続出し、早目に店じまいすると、いつもより一時間早く仕事から解放された。勇ましい風雨の吹き荒れる中、何とか傘も飛ばされずに駅に辿り着いた時には、全身ずぶ濡れになっていた。駅の屋根の下に潜り込み 気休め程度にタオルで拭いて 定期券を取り出そうとした時、携帯が鞄の中で震えた。もう取る事もないと思っていた大地からの電話に、天候を理由に仕方なく出ると、まず大地の声よりも先に 送話口に吹き付ける風とポツポツと当たる雨音が、こちらに来ている事を伝えていた。

「大丈夫かぁ?お前、雷ダメだったろう?今どこだ?もう仕事上がったのか?」

昨日あんな調子で あんな用件を伝えたのに、何故この人はいつもと何も変わらない様子で こんな電話を掛けてくれるんだろうと切なく思いながら、沙希は心を鬼にして冷たく突き放した。

「何?」

「こんな天気だしさ、マンションの屋上に置いとくなんてやめようって言おうと思って」

沙希は黙って、次の言葉を待った。

「俺もう体空いたし、横浜駅かどっかで手紙受け取るよ。本当なら直接話したいとこだけど、きっと沙希なりの覚悟をしての事だろうと思うからさ。俺大体 内容 想像ついてるよ。でも、その予想が外れればいいなっていう期待も、もちろん捨ててない。だからあえて、もう一度言っとくよ」

一体どこに居るのか、雨と風の吹きすさぶ中、大地の声が響いた。

「うちの両親に会って欲しい」

正直に揺れる心をがむしゃらに抑えつけて 蓋でもしてしまうかの様に口を開きかけると、大地がそれを食い止めた。

「返事は今じゃなくていい。それでも、もう駄目だっていう場合は、指定の場所に手紙置いといてくれよ。もし万が一、まだ俺にもチャンスを与えてくれるっていうなら、手紙は置かないで欲しい。明日まで考えて。それで あのマンションの屋上に、明日の夜10時以降に 俺は見に行く。それでいいよね?」

一方的に仕切られ、かえってそれが 大地の強い決意と覚悟を思わせた。


 嵐の様な昨晩とは打って変わって、台風一過のもたらす久し振りの真夏日となった。風は強かったが、かえってそれが清々しさを運んでいた。

 昨日の電話での大地の言葉に 後ろ髪を引かれる思いを振り切る様にして、マンションの屋上まで無我夢中で駆け上った。息が上がったまま、以前大地の座っていた貯水タンク脇のコンクリートの台に、そっと封筒を置いた。360度視界を遮る物は何もない屋上に抜けていく風は、今にもその手紙をどこかへ飛ばして行ってしまいそうで、沙希は鞄の中から 鍵の二つぶら下がったキーホルダーを取り出した。それは19歳の夏、大地と初めてデートした時に 合鍵と一緒にプレゼントされた物で、ガラスのプレートには二人のイニシャルがはっきりと刻まれており、脇で小さな鈴が軽やかに そして控え目に音色を奏でていた。もう随分と昔、大地と別れた次の日に 合鍵は返したが、このプレゼントだけは何故か手放せずに大事にとってあり、いつの間にか沙希のお守りの様にもなっていた。そして家とサロンの鍵を二つぶら下げて、どこに行くにも肌身離さず持ち歩いていたが、もう何週間もしない内に サロンの鍵もここから消える。沙希の人生において最も大切な家族と仕事と大地。その三つを一つに結んでいたのが、このキーホルダーだった。沙希は丁寧にそのキーホルダーから二つの鍵を外すと、時々風ではためく手紙の上に置いた。

 妙に小ざっぱりとした気持ちになると、沙希は今までの様々な事を思い返しながら、夜景を眺めた。遠くでかすかに鈴の音を聞きながら 腕時計に目をやると、もうすぐ10時になろうとしているところで、沙希は慌てて非常階段を下りた。そして一瞬 海からの少し湿った風が大きく吹くと、キーホルダーは転がり 手紙の上を離れた。

 沙希がかかとを鳴らしながら階段を下りたところで、足首をひねった。履いていた靴のヒールが高かった分、体も同時によろめき

「痛っ!」

っと思わず口走ってしまう程だった。しかし そんな事に気を取られているうちに大地が来ては大変と、時計を確認して 又すぐにその場を去って行った。

 そんな一部始終を非常階段の脇にある車庫から大地は眺め、駅へと駆けて行く沙希の後ろ姿を ため息と共に見送った。


 次の就職先も決まらないまま 9月の末を迎え、いよいよ沙希の出勤最終日となった。店長の青山から送別会の提案がなされていたが、沙希が何度となく断っていたので、いつもと変わりなく9時まで仕事をし、もう二度と袖を通す事のない制服を脱ぎにロッカールームに入ろうとしたところで 声が掛かる。呼ばれてテーブルの方へ行ってみると、店長はじめ、三人が並んでいた。

「今まで、本当にご苦労様でした」

青山がそう口火を切って、後ろ手に持っていた大きな花束を差し出した。驚いた沙希が口をぽかんと開けていると、隣に立つ小酒井が拍手をしていた手を止めて言った。

「安心してお休みになって下さい。お留守の間、私が精一杯務めさせて頂きますから。ご苦労様でした」

そしてその隣に並ぶ桜田が俯いて黙っていると、青山がせっつく様に声を掛けた。

「桜田さん」

そして桜田は 顔を上げないまま、一言だけ言った。

「お疲れ様でした」

ぺこりと頭を下げる桜田に対し、沙希も心苦しく一礼した。そして胸いっぱいの花束を抱えた沙希が 挨拶をした。

「店長、・・・そして桜田さん。今まで本当に 沢山ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございました。そして小酒井さん。何もかも中途半端な状態で、やり残した事も沢山ある中で、勝手を言って辞めさせて頂きます。どうか許して下さい。そして・・・宜しくお願い致します」

そう言い終えると、頭を深々と下げ 沙希の6年半続いたサロンラヴィールでの仕事人生に幕を閉じた。


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