第7章 三つの振り子
7.三つの振り子
その日仕事を終えた沙希が 携帯をチェックすると、神林からメッセージが入っていた。
『珍しい人と飲んでます。いつもの店にいますので、来られたら来て下さい。待ってます』
いつもの炉端焼き屋の戸を開けて、威勢の良い『いらっしゃい!』の声に出迎えられながら店内を見渡すと、奥の座敷から顔を覗かせ 手を振る神林が居た。駆け寄ると、テーブルの向かいには祥子が座っていた。
「まぁ、上がれよ」
祥子とは四年振りで、青葉の事で電話で喧嘩別れをして以来だった。あれからとっくに沙希の中では 祥子を恨む気持ちなど無くなっていたが、どうも連絡しづらいまま 音信不通となっていた。
「久し振り」
勇気を出して一声掛けると、祥子も気まずそうに目を合わせないまま、同じ言葉を繰り返した。
「どうしたの?急に。この組み合わせ」
沙希が、神林と祥子を交互に見ながら聞いた。クラス会にも顔を出さなかった祥子に 懐かしくなって連絡を取ったと言う。そして沙希も祥子も どことなくよそよそしい空気を漂わせたままビールを口にしていると、神林が専門学校時代の懐かしい話を持ち出した。
「二年ん時のライティングの先生でさ、Mr.Joharって覚えてる?ほら、ハロウィンパーティーん時にかぼちゃの着ぐるみ着て『pumpkin boy,pumpkin boy!』
って叫んで パレード練り歩いてた先生。あの人にさ、前成田空港で会ったんだよ。思わず声掛けたらさ、そりゃやっぱ覚えてなかったんだけど、それでも『今何やってるんだ?』って聞いてくれてさ。最後に『Good luck!』なんて言ってくれたよ。嬉しかったなぁ」
「懐かしいね・・・Mr.Joharか・・・。でも よく思い切って声掛けたよね?」
沙希の問いかけに神林は、穏やかな笑みを浮かべた。
「俺やっぱ専門ん時が一番、学生生活の中で充実してたっていうか・・・。要は、あん時の思い出が一番大切なんだよな。仲間にしても、勉強にしても、経験にしても、あそこで得たものが今一番活きてるかな」
少し考えた後、沙希も頷いた。
「私もそうかな・・・。中学より高校より やっぱ専門。確かに毎日楽しかったしね」
「よく二人、一緒に居たよな。休み時間になると外階段で、祥子は煙草吸いながら しょっちゅう話してたよな。あん時はやっぱ、恋愛の話が多かったな・・・」
にわかに当時の映像を思い出しながら 沙希は、あの時も自分が大地の話をしていたなぁとぼんやり思う。すると祥子が、神林を見て笑った。
「よく覚えてるね。もう7、8年も昔の事なのに」
「そういや祥子、煙草やめたの?」
神林が テーブルの上に祥子の煙草やライターがないのに気付く。
「とっくよ。ちょっとね、軽~い喘息になってさ。やめざるを得なかった。酒と煙草と男はやめられないと思ってたんだけどね。病気にはかなわなかった」
カラ元気に笑ってみせる祥子に、すかさず神林が突っ込んだ。
「でもその分、酒と男は勢いを増してたりしてな」
「はは・・・言えてるかも」
軽く笑い飛ばす祥子を、沙希は気がかりな心を抱えて 見つめていた。神林がトイレに立つと、残された二人に 当然の様に沈黙が待ってましたとばかりに近寄ってくる。しかし祥子の性格を知っている沙希が、口火を切った。
「ごめんね・・・。前・・・祥子の事・・・悪く思ったりして。ずっと謝ろうと思って気になってたんだけど、なかなか・・・言い出せなくてさ。私も・・・素直じゃないからね」
「私こそ・・・」
そして祥子は言葉を詰まらせた。何が言いたいのか、何を言わんとしているのか、祥子の表情から汲み取ろうと必死になる。そして祥子の眉間には、みるみるしわが寄った。
「私・・・あん時、いや・・・ずっとかな。沙希の事、羨ましかったの。・・・ううん。そんな綺麗な気持ちじゃない。どっちかって言ったら“恨めしい”に近いかな・・・。だから、ちょっと出来心・・・っていうか妬み心であんな事・・・。本当にごめんなさい。謝んなくちゃいけないの 私の方だったのに、私って本当に嫌な奴でさ。自分から友達に頭も下げらんないの。・・・最低でしょ?」
初めて見る弱い祥子を悲しく見つめながら、首を横に振った。そして沙希が首を傾げて言った。
「私が・・・羨ましい?」
こくりと頷く祥子が、沙希にはとても小さく見えてならなかった。
「いつも何事に対しても真っ直ぐで、純粋で。私と同い年なのに、全然すれてなくて・・・」
そこにトイレから神林が戻ってくる。しかし、テーブルの上の携帯を持って 表を指さした。
「ちょっと電話してくる」
ガラガラと扉の閉まる音を聞いてから、また祥子が話を始めた。
「昔はね、そんな沙希をちょっと見下してたの。私の方が色んな事経験して、辛い思いいっぱいして、その分人の気持ちも分かるんだって。沙希みたいに、家族に何の問題も無く すくすく育ってきて、恋愛だって 自分を一番に愛して大事にしてくれる男がいてさ。悩みって言ったら、自分が相手に本気になれないとか その程度で・・・って。家族に愛され、彼氏に愛され、愛される事に慣れちゃって 愛情に飢えた事がない。だから愛情に特別な執着もないんだって。・・・酷いでしょ?友達なのに・・・。でもね、後になってやっと分かったんだ。私の考え方が屈折してた事にね。やっぱりさ、人に愛されてきた人って、人の愛し方を体で、本能で分かってるんだよね。純粋で素直な沙希は、やっぱり男から見たって 愛おしい存在だろうし、私みたいに屈折した人間は、やっぱり一番にはしてもらえない魂なんだよね。やっとね、そうやって素直に認められる様になったんだ」
初めて聞く祥子の本音に、正直沙希は 何と言葉を返していいか分からずに戸惑っていた。最後に少し笑った祥子と目を合わせるのも やっとだった。
「祥子、最近は・・・どうなの?元気にやってるの?」
遠慮がちに、そして遠回しな問いかけをすると、やはり祥子にはその真意が伝わっていた。
「私が今付き合ってる人・・・奥さんも子供もいるの。・・・呆れちゃうでしょ?私ってこういう運命なのよね」
笑ってみせた祥子の顔は、明らかに四年前とは違っていた。そして沙希は恐る恐る言葉を声にした。
「それで・・・平気なの?祥子は」
鼻で息をつくと、祥子は遠くを見つめながら口を開いた。
「そりゃ、辛いよ。やっぱりどうもがいても、私は彼の一番にはなれないし。だけど一緒に居てくれる時は、私が一番だって思わせてくれる。その優しさの中に 身を任せてみようって覚悟したんだ。そんな事言ってもね、やっぱダメな時はダメよ。人の頭は理性ばっかりじゃないし」
沙希は心の傷口に沁みる思いで、その言葉を聞いていた。すると祥子が、沙希の方を向いた。
「余計なお節介かもしれないけど、沙希は 24時間自分を一番だって言ってくれる男と一緒になりなよ。沙希には、その資格があるんだから」
「祥子。私ね・・・」
そう言いかけた時、神林が席に戻ってきた。
「仲直りは出来た?」
その言葉に、沙希は目を丸くした。
「知ってたの?」
「いや・・・この間電話でチラッと聞いてさ。そんでまあ、とりあえず飲もうぜって・・・今日になったって訳」
神林は二人の表情を確認すると、一言言った。
「二人共、俺に感謝しろよ」
「これからは頭上がんなくなっちゃうね」
そう言う沙希に続いて、祥子も黙ってはいなかった。
「もう足向けて寝らんないよ」
ひとしきり笑いが湧き起こり ビールの泡と共に消えていくと、祥子が苦笑いを浮かべて沙希を見た。
「でもさ、一生恩着せがましく言われそうだね」
ある晩 沙希は仕事を終え まっすぐ帰宅すると、母がリビングでいつもより深刻な面持ちで話を始めた。
「ここ最近不景気でしょ?特にこの不況の風にあおられて、日本の貿易が厳しい状況にあるのは・・・沙希も知ってるでしょ?お父さんも、それでも何とかこの波を乗り切ろうと頑張ってたんだけどね・・・とうとう来年、ある会社に吸収合併される事になったの・・・」
沙希は息を呑んだ。
「それでね、それに伴って 大幅な人員削減をしなくちゃいけなくって・・・」
「お父さん・・・クビ・・・?」
まさかという思いで、母の顔にかぶりつかんばかりに身を乗り出す。母は首を振った。
「お父さんは役員だから クビ・・・ではないんだけど・・・。その今度合併する会社が、貿易会社じゃないのよ」
「何の会社なの?」
母はゆっくりと口を開いた。
「医薬品とか・・・化粧品とかの製造メーカーなんですって。だから、これからは全然違う仕事内容になっちゃうって・・・。まぁお父さんからしたら、畑違いな事やらなくちゃいけない訳で・・・。だからね、お父さん・・・。お父さんはずーっと貿易一筋でやってきて、貿易の為に自分の身も心も全て捧げてきた様な人なのよ。それが突然 医療だ、美容だって・・・。一から心を入れ替えてやらなくちゃならないなんて・・・可哀想でしょ?だから お父さんね、仕事・・・辞める事にしたの」
鈍い驚きが沙希の中で渦巻く。
「辞めて・・・どうするの?どっか別の貿易会社にでも 行くの?」
母はまた首を横に振った。
「暫くのんびりしたら良いと思ってるの、お母さんは。だってお父さん、今までずーっと走り続けて来たんだもの」
沙希はソファの背もたれに寄り掛かった。
「まぁうちは、お母さんが仕事あるからね。大丈夫か」
安心して伸びをする沙希に、母が微笑みかけた。
「お母さんも、小児科辞めるの」
耳を疑った。
「どうして?!え?だってお父さん会社辞めちゃって、お母さんもじゃ・・・どうするの?うち」
慌てる沙希に反比例して、母は朗らかに笑った。
「もう純平も沙希も立派に成人して、親から独立したのよ。まぁ 沙希をまだお嫁に出してないから、親としての大仕事は一つ残ってるけどね。でも子供を養わなくちゃいけない義務も充分果たしたし、あとは私達夫婦の事だけだもの。それ位ならお父さんが今まで一生懸命お仕事して残してくれた物で何とかなるしね。家のローンももう無いし」
「だけど、何もお母さんまで好きな仕事辞める事ないのに・・・」
「お父さんが家に居て、お母さんが仕事に行ってたんじゃ、何だか逆さまになっちゃうじゃない。それにお父さんのプライドだって傷付けちゃうしね。男の人って そういうものなのよ。やっぱり いつの時代も、女は男を立てるものなのよ。それが一番自然な形だし、上手くいく方法。沙希も将来の為に覚えておいて」
あまりにも爽やかに、すっきりとした表情で微笑む母に、沙希はそれ以上掛ける言葉を失った。そして、どことなく 近い内に河野家が大きな節目を迎える事を感じ取っていた。
見事な程 雲一つなく抜ける様な青空が広がっていたが、沙希はジメジメとしたくすぶった心を持て余して 日曜を過ごした。つい先日 桜田から千梨子が東京に戻ってきたと耳にして以来、いつかいつかと大地からの電話を指折り数え 心待ちにしていた。しかし期待に応える様な電話は一つも鳴らず、沙希をイライラさせていた。これ程大地からの電話を待っている自分が、メキシコと日本の遠距離時代を鮮明に思い起こさせた。そしてまた、由美姉の言っていた『都合の良い女』が 頭の中を占有する率が高くなる。
しびれを切らし、大地の携帯へとコールした。すると大地は、いつも通りの調子で電話に出た。
「ごめんな。ずっと掛けらんなくて」
「千梨子さん・・・来てたんでしょ?」
一か八かそう言ってみる事にした。やはり大地は 一瞬言葉を詰まらせ、その後
「情報が早いな」
ふっと柔らかい吐息と共に笑ったのは、何を意味していたのか、沙希も過敏になる。『いい機会だから、千梨に全部話したよ。『分かった』って許してくれた。だから、もう沙希と何の後ろめたさも無く これからは会えるね』そんな気の利いた、都合の良い台詞を胸いっぱいに期待していたが、現実はそう沙希の思う通りばかりには させてはくれなかった。大地もこんな風に言わないばかりでなく、『情報が早いな』と言ったきり、一言も口をきこうとせず、もちろん千梨子の話題も触れようとはしなかった。沙希はとうとう諦めて、話題を逸らした。
「この間、また偶然に 由美姉に会ったんだ」
「何だって?・・・何か・・・言ってた?アイツ」
気のせいか、心持ち早口になった大地に 一つ不信感を募らせた。
「別に・・・。お兄ちゃんのとこの子供に会いに行ったの。そしたら丁度由美姉も訪ねて来て・・・」
「そう・・・。何も・・・あいつ、言ってなかった?」
妙に探る様な物の言い方に、先日の由美姉の言葉を思い出してしまう。
「特別には、何も・・・。あっ!でも・・・『大地は昔とは変わった』って・・・」
沙希も探りを入れる様に 言ってみせた。その後の短い沈黙が、由美姉の言葉に真実味を加えた。
「どんな風に・・・?」
「・・・さぁ・・・そこまでは、聞かなかった」
まさか そのまま言える筈もなく、また沙希も言わない事で 大地の反応を見ようとしていた。そんな駆け引きしながらの会話に少々疲れた頃、沙希の口が勝手に動いた。
「また・・・そっちに会いに行くよ。・・・いいでしょ?」
「いいけど・・・仕事平気なのか?」
大地の一言一言を聞く度に、先日由美姉に言われた事が邪魔しに入る。
「だから言ってるじゃない。今の私には、仕事より大地・・・」
以前と同じ様に、同じ所で、語尾に言葉をかぶせた。
「だから言ってるだろ?そんな事言うなって。お前がそういう事言うと、本当に俺悲しくなるよ・・・」
そんな大地の言葉まで 屈折して聞こえてしまう自分の耳を、沙希はこっそり掻きむしっていた。
「だけど私、もう辞めるって店長に言っちゃったからね」
受話器越しに、大地が固まっているのが分かる。そして大きく溜め息を吐くと、ようやく大地の声がした。
「あんなに大事にしてた仕事を、何で簡単に手放すんだよ。俺がどんな思いで営業したと思ってんだ・・・」
「営業・・・?」
確かにサロンに大地の口利きで、二人の女性が訪れた。そしてその二人共が、現在コースに快く通ってくれていた。沙希もその事で大地に感謝はしていたが、本人が“営業”という言い方をする程、そこに時間もエネルギーも費やしていた事実を 初めて知った。
「ははっ、営業って程でもないか」
おどける大地が、余計に沙希の胸を絞めつける。
「大地には、本当に感謝してる。だけど・・・やっぱり私は・・・私の気持ちは変わらないんだ」
「俺、仕事に打ち込んで頑張ってる沙希が好きだった。・・・第一、辞めてどうすんだよ?」
「えっ?」
一気に寒気を感じた。何気ない大地の一言が、沙希の心に 一足早い秋の風を吹かせた。全てを置いて 身一つで大地のいる小樽に飛び込んで行こうとしていたのは、自分の勝手な勇み足に過ぎなかった。
「また、別の所探してもいいし」
大地と足並みが揃わないのを分かっていながら、沙希も少々打診する。
「・・・そっち・・・行っちゃってもいいしね」
ごまかす様に笑う沙希とは対照的に、貝の様に口を閉ざす大地だった。
大地に会いに行く為に 早退の申し出をしていたある土曜日の昼下がりだった。店長にこっそりと呼ばれた沙希が姿を現すと、青山はにっこりと微笑んだ。話の内容に薄々気が付いてはいたが、自分から切り出す勇気も 青山の笑みに応える力も、その時持ち合わせてはいなかった。
「沙希ちゃん、代わりの人の件だけどね。見付かったの。昔一緒に働いてた私の知り合いで、表参道にあるサロンで 今チーフやってるの。その人に来てもらう事にしたんだけど、むこうのサロンを9月いっぱいで辞めてからになるの。でも一からの研修は必要ないし、ただ このサロンに慣れてもらうだけの時間さえあれば充分なの。だから沙希ちゃん、悪いんだけど それまで待ってもらっていいかしら?」
首を振る理由は何もなかった。
「良い方に来て頂ける事になって・・・良かったですね」
着々と自分の居場所が そこから消えていく事が、今更ながらあらためて淋しいと思った。
「今よりも全然お給料下がっちゃうのに、快く受けてくれてね。これで沙希ちゃんにも、安心して休んでもらえるわ」
しかし もう二度と戻れない事を、沙希は切実に感じ取った。
一足早く上がる為、着替えを済ませ いそいそと化粧直しをしていると、ロッカールームに桜田が入って来た。
「最近チーフ、早退多いですね。今日は何ですか?お友達の結婚式とか・・・?」
きっと何の深い意味もない桜田の言い方にもドキッとする沙希。適当に相槌を返すと、桜田の質問はそれでは終わらなかった。
「どこまで行くんですか?飛行機に乗るんですか?」
「・・・どうして?」
変に警戒して、沙希もそう尋ね返す。そして桜田は、沙希のバッグを指さした。すると その先には、バッグのポケットからはみ出し半分姿を現した航空チケットがあった。
「ああ、そうなの・・・。ちょっと・・・北海道まで・・・」
いつもの様に とっさの嘘が下手な沙希も、この時ばかりは嫌な予感がしていた。
「うわぁ遠いですね。大変・・・。でもきっと、今良い季節ですよね。月曜にでも、話聞かせて下さい」
何も知らずに 満面の笑みを浮かべる無邪気な桜田までをも裏切っている自分に、迷いが無くなる日が来るのか、沙希は深いため息をついた。
再び訪れた北海道の大自然は、そんな沙希を温かく迎え入れた。まだ片手で余るほどしか降り立った事のない地なのに、何故か懐かしい感すら覚えていて、またここに来る事が出来た喜びを体いっぱいに充満させていた。
約束通り、待ち合わせの場所から大地に電話を入れていたせいか、さほど待たないうちに 車に乗った大地が現れた。窓を開けて走る位が心地良く、少々気まずさを残した車内を渡る風が、空気を柔らかくしてくれた。
「今日は・・・間違えられなかった。お母さんに」
「え?・・・あぁ・・・ごめんな」
何度も今まで『河野』と『大野』を聞き違えられ、前回思い切って訂正してみた事で、今日の無事に繋がったと 冗談めかして言ってみせる沙希。しかし場を和ませるどころか、かえって大地を湿っぽくさせた。
「ジンギスカン食った事ある?」
左のウィンカーを出しながら、大地が聞いた。
「ううん。でも食べてみたかったんだ。だってせっかく北海道に来たんだもんね。本場の味を・・・」
「前来た時は・・・食わなかったの?」
「前・・・?」
運転席を振り向き、首を傾げる沙希。
「前・・・彼氏と来たって・・・」
何故今 そんな事を・・・と内心思いながら、相槌を返す。
「来たけど・・・食べなかった」
何がどう狂っているのか、さっきからずっと噛み合わない歯車に お互いやるせなさを感じずにはいられなかった。
“汚いけど旨い店”と大地が太鼓判を押した店は、その言葉通り 小さくて汚かったが、行列が出来ていた。店の外で20分、狭い店内でも10分程待つと、ようやくカウンターの一番端の席が二つ空き、二人は その待ちに待ったジンギスカンにありつく事が出来た。生ビールと 想像以上に美味しいジンギスカンが空腹を満たすと、次第に二人の間の空気も和らいでいった。そして又カウンターしかなく 隣の人と肩がぶつかる様な空間も、それに一役買っていた。
すっかりご機嫌になった沙希を助手席に乗せ、車は夜の道をまっすぐに進んだ。天狗山の頂上まで登りつめると、そこは夜景の綺麗なスポットとして有名らしく、観光客や地元のカップルが その景色に酔いしれていた。しかしやはり それだけの事はあり、空気も澄んでいたせいか 小樽全体の街が遠くまで鮮やかに見渡す事が出来た。車を降りて一周すると、半袖では少々肌寒い程の風が吹き抜けて行った。そのせいもあってか、長居する人は少なく、かえってせわしなく人が入れ替わっていた。
「ここ、冬はスキー場になるんだ。俺が小学生の時の遠足では、ここ登ったんだ」
懐かしげに見渡す大地の横で、沙希は両手を大きく広げた。
「ここが、大地が生まれて 育った町か・・・」
沙希は目を閉じて深呼吸をした。目で見えない、耳では聞こえない大地のルーツを 体全体で感じ取ろうとしていた。すると急に 頬を撫でる風が柔らかく感じ、何とも言い難い無垢な香りが ほのかに沙希の鼻をくすぐった。そして、大きな宇宙の中のたった一つの地球という星の上に立つ小さな自分を感じた時、思わず目からじわりと水分が湧いて出て、頬を伝い落ちた。その一すじさえ温かく感じられる程 沙希の中の全ての感性が全開した時、港から汽笛が聞こえてきた。
「あっ・・・」
思わず二人は目を合わせ、どちらからともなく切り出した。
「また汽笛だね・・・」
そう言うと、軽くお互い吹き出した。
「大地の風景には いつも港があって、私の風景にも港がある。・・・なんか、これだけで嬉しい」
そして突然、沙希が夜空を指さしてみせた。
「あの辺。大地からプレゼントしてもらった星。丁度あの辺りにあるの」
夜空が大きすぎて、また 指さした先が遠すぎて、大地の視点が定まらずにいると、もう一度沙希が寄り添って 背伸びをする様にして 指に力を込めた。
「ほら、あそこに三つ並んでる星 あるでしょ?それと、その斜め上に大きく光ってる星見えるでしょ?その丁度間位なの。肉眼ではちょっと見えないけどね」
「良くわかるなぁ。こんだけ星がいっぱいあるのに。目で直接見える星買ってやれたら良かったんだけどな・・・」
沙希ははにかむ様に笑って、首を振った。
「そりゃ大地が向こう行ってた間、毎日の様に望遠鏡で眺めてたんだもん。位置くらい分かるわよ。それに・・・」
その時少々強い風が、再び二人の前を通り過ぎていった。
「それに皆には見えない星で良かったの。私と大地しか知らない、二人だけの秘密みたいで。私の・・・宝物」
大地の方を見て口元を緩めたが、それを大地は見る事はなく、ただただ遠い港の明かりを眺めていた。そして、ゆらゆらと灯が映っているその瞳は かすかに潤んでいる様にも見えた。それが強い風のせいなのか、それとも遠い揺らめきの光の加減でそう見えたのか 定かではなかった。
「寒いだろ?そろそろ車戻ろうか?」
そう大地が言って こちらを向いたのは暫くしてからで、その間一体何を思っていたのか、何を考えていたのか、沙希には全く想像がつかなかった。
車内はやはり暖かく、初めて外の風が冷たかった事を知る。冷え切った指先に血液の温もりが行き渡るのを感じると、沙希が沈黙の闇を破った。
「さっきから・・・どうしたの?何・・・考えてるの?」
「沙希・・・。仕事の事だけどさ・・・」
「なんだ。又その話?」
助手席から聞こえた落胆した声に、大地が反応する。
「お前は『また』って言うけど、実際の問題として・・・」
「大地・・・」
ハンドルに寄り掛かる様にして話す大地の言葉の最後を待たずに、沙希がそう言った。そして、車という小さな個室から一切の音が消えた。
「大地はさ、私の事・・・遊び?」
大地の顔が、ゆっくりと沙希の方へ向く。
「昔の女に言い寄られて、都合よく付き合っとこう・・・って、そういうつもり?それなら私、次の仕事 向こうでまともに探さなくちゃならないし・・・」
「・・・・・・」
「言えないか、そんな事」
自分で自分の台詞に軽く吹き出してみたりする沙希に、大地の静かな視線が突き刺さる。
「仕事も家族も・・・今までの私の27年間の人生 全部置いて 飛び込んで来ようなんて・・・大地には重い?」
さっきから一言も喋らないまま 大地はハンドルに寄り掛かり、一人遠い目をしていた。内心『そんな事ないよ』という優しい笑顔と返事を期待していた沙希には、この静寂は 予想以上に辛いものとなった。桜田から話を聞く度、そして由美姉と話した後、そして大地から一本の連絡も無かった事、日を追う毎に 不安という風船が膨らんでいっていた。その風船が今 この沈黙によって更に限界に限りなく近づいていっていた。その時、煙草を一本抜き取り、大地はライターの火を点けた。
「俺にだって・・・簡単に 一筋縄じゃいかない事情があるんだよ」
待ちに待った大地の口から出た言葉は、期待を大きく外れた。そして少々怒っている風にも見えた。『分かってるよ』と沙希が言おうとした時、煙を大きく吐き出した大地が、後を続けた。
「そう思いたいなら・・・そう思ってろよ」
思わず愕然とした。まさかという思いで耳を疑ってみるが、助手席から見える大地の横顔からは 沙希を跳ね返す磁力が感じられ、冷やかな目つきが 沙希から言葉を奪っていった。
どうにもならない空気が、車中に充満していく。そして沙希が息苦しさを押し殺し、開いた唇が震える。
「ごめんね・・・。責めたみたいに聞こえたんだったら・・・ごめんなさい。そうじゃなくて、ただ・・・」
その後、言葉が繋がらなかった。責めたんじゃないと言いながら、やっぱりどこか心の隅で 大地を責めていた自分に気が付いてしまったのだった。
「勘違いしないで。さっき私が言ったのは・・・私の事、都合の良い女にしないでって事じゃなくて・・・前にも言ったけど、二番でもいいから。ただ・・・それならそれで、私の身の振り方ってのがあるし・・・言っておいて欲しいなって・・・」
煙草を灰皿で力強くもみ消すと、大地がシートに寄り掛かった。少し開けていた運転席の窓から、時々うねりを上げた風が入り込む。
「俺・・・沙希のそういうとこ・・・嫌いなんだ」
一瞬時が止まった。沙希の手足の力が抜け、耳が遠くなる。大地から今まで『嫌い』という言葉を聞いた事が一度もなく、その響きに 沙希は完全にノックアウトされていた。夢から覚めたら泣いている時の様に、無意識の内に涙がこぼれ落ちた。
「ごめんね・・・」
何故か謝ってしまう沙希の心の中では(じゃ、どうしたらいいのよ)という本音が、分厚い防音壁の中で必死にもがいていた。
窓を閉め エンジンをかけると、大地はサイドブレーキを解除した。
「行くか」
少々荒い大地の運転で展望台を出ると、窓に映った夜景が段々と消えていき、すぐに真っ暗になった。
大地の家で電話が鳴った。そろそろ布団に入る準備をしていた母が居間に行き 受話器を上げた。
「大野です・・・」
「あら?まだ大地行ってない?さっきお電話頂いて、すぐ出て行ったんだけどもねぇ」
「・・・大野千梨子です・・・」
ようやくハッとする母。
「・・・え?千梨子さん・・・?あれまぁ、ごめんなさい。また間違えちまった。さっきは丁度『河野さん』って方から電話があって 大地が出て行ったもんんだから、てっきり『コウノ』さんかと思っちまって・・・。ごめんねぇ」
「河野さん・・・?」
「んだよぉ。『オオノさん』と『コウノさん』、似てるべさ?・・・どうしたの?」
「携帯の方に掛けたら 電源切っちゃってて繋がらなかったんで、もしかしたらお家に居るかなと思って・・・」
母はにこやかに対応した。
「何でも、横浜からお友達が来たとかで、・・・あっその“河野さん”って人ね。んでね、出掛けてって、まだ戻ってないべさ」
曖昧な相槌を返すと、母が少し小声になる。
「この間千梨子さん うちに来た事、大地には言ってないからね」
「ありがとうございます・・・」
母はその場にしゃがみ込んだ。
「・・・大地とは・・・どうなってるのかねぇ」
「・・・聞いてもらえますか?お母さん・・・」
電話の向こうの千梨子も、受話器を持つ手を変えた。
「大ちゃん・・・好きな人が出来たって・・・」
溜め息と共に、千梨子の声が再び電話線を通る。
「でも私 大ちゃんの事大好きだし、お母さんやお父さんの事も好きで・・・それに、その町も好きなんです。私、本当に・・・大ちゃんにお嫁に貰って欲しかった・・・」
千梨子のすすり上げる泣き声を 母は痛々しく聞いていた。大地の母は昔から小樽の町で生まれ育ち、他へ出た事のない女で、典型的な田舎人間で 口も決して上手い方ではなく、こういう時 何と千梨子に声を掛けたらいいのか困惑していた。しかし泣き止まないどころか、激しくなる千梨子のすすり上げに、母も口を開いた。
「私もね、千梨子さんにはうちに嫁に来てもらいたかったんよ。前、何日かうちに泊まってくれた事あったっしょ?あん時から父ちゃんとも言ってたんだ。『あったらいい子さ来てくれたら、安心だべなぁ』って。優しくって、よう気が利いて、めんこい娘さんだってなぁ。銀行さんお勤めしてるっけ きっとしっかりしてるべさ、あんな気立てのええ子 おらんって。大地にゃあ、もったいない位だぁって。だけども、千梨子さんのお父さんに あの子気に入られてない様だったから・・・その事も関係あるんだろか?」
ひっくひっく過呼吸を整えながら、千梨子が答える。
「うちの父は、ただ子離れが出来てないだけなんです。だから私・・・いつでも仕事も家族も捨てて、そっちに行くって言ってたんです。それなのに・・・」
また じゅるじゅる鼻水をすする音が聞こえてくる。
「あの子も男だべ・・・結婚前の悪あがきのつもりなんでないのかねぇ。そう思って、許してやってくれないかい?私からも、あの子に言っとくから」
沙希の今晩の宿泊先であるホテルの前に、車は停まった。天狗山を出てから 殆ど会話のない車内に、虚しくラジオのDJの笑い声が響いていた。
「今日も仕事、早退してきたんだろ?」
沙希はただ黙ってうつむいた。
「俺は今まで、沙希の何を見てきたんだろう・・・」
ハンドルに寄り掛かり おでこをこすりつける大地の姿を横目に悲しく見つめながら、沙希はもう耳を塞いでしまいたかった。『なんで そんな事言うの?』という素直な感情が 喉の奥でとどまり、その代わりに 少々強気な言葉が、本音とは裏腹に口から飛び出す。
「大地の思ってた私とは、違うって事?」
お互いキャッチボールにならない会話で、大地の動かない背中を眺めて 沙希は口を開いた。
「そう思うのは、大地に本当の私が見えてなかった訳でも、私が変わった訳でもないよ。ただ・・・」
そこで一旦ひるんでみるが、もう一度心を立て直し 深く息を吸い込んだ。
「ただ、大地が変わったんだよ。大地の・・・私を見る目が・・・昔とは・・・」
それでもピクリともしない大地の背中に、沙希は静かに語り続けた。
「でも、当然だよね。人は変わっていくものだし・・・」
その時、沙希の携帯が鳴った。相手は、こんな時間に何の用事だと思う様な人物からだった。
「桜田です」
「・・・どうしたの?サロンで・・・何かあった?」
「いえ・・・すみません、プライベートの時間に。今・・・小樽ですか?」
その瞬間、沙希は妙な胸騒ぎを覚えた。確かに今日サロンを出る時に『北海道に行く』と口走ってしまったが、『小樽』とまでは言ったかどうか・・・。それに、それが桜田に何の関係があるというのか・・・。警戒心をむき出しにして、沙希は返事をした。
「札幌よ。・・・私・・・小樽なんて言った?」
「いえ・・・。勝手に勘違いしてたみたいです。すみません・・・」
変におどおどした様子の桜田が、沙希の心に引っかかった。
「それで?」
「もう・・・お休みになってましたか?」
「まだだけど・・・?」
一体何が言いたいのか。それとも、それ程言い出しにくい何かがあったのか、沙希も手探りをする様に 恐る恐る歩み寄る。
「今まだ外なんだけど・・・急ぎの用事?」
「いえ・・・ちょっと・・・聞きたい事が・・・。でも、いいんです。月曜にサロンに来られた時で。すみませんでした、夜分に」
そう言い残して 慌てて通話は途切れた。その内容に少々心を残しながら、携帯を鞄にしまい込んだ。その頃、千梨子からも大地へ電話が入っている事を、電源を切っている大地は 一向に知る由もなかった。
気持ちを切り替え、沙希はシートベルトを外した。
「さっき『お前のそういうとこ嫌い』って言ってくれてありがとう。これからも・・・言ってね、思った事。私・・・少しずつでも、直す努力するから。それで、大地の好みに近付ける様に頑張るから。・・・正直、私もまだ 大地とどう付き合っていいのか、手探りで 一歩ずつって感じなの。だから・・・想いが先走っちゃうの。許して」
そこまで言って、ドアのロックを解除した。
「今日はありがとう。美味しいジンギスカン食べさせてもらったし、綺麗な夜景まで見せてもらった。・・・会えて良かった。・・・明日は・・・早めに帰る事にする」
「夜の便だって・・・。チケット取ってあんだろ?」
ようやく利いてくれた口に、沙希は秘かに心を温めていた。
「うん。キャンセルする。直接朝 空港で買い替える。・・・ありがとう、気に掛けてくれて。馬鹿みたいかもしれないけど、今みたいな一言とか、そんな些細な事でも嬉しいんだ」
「・・・でも明日・・・ノーザンホースパーク行こうって・・・」
少し賑やかなラジオのボリュームのつまみを回す大地。
「そうだね。行きたかったんだけど・・・ちょっと・・・行けそうにないや。今 こんな風に喋ってるけど、かなり・・・もう限界。明日 連れてってもらっても、元気に笑ってられる自信ないもん。ごめんね、勝手言って」
そう言って、ドアに手を掛ける。後ろ髪を引かれる思いで、沙希が外に身を乗り出した時だった。
「明日、空港まで送ってくよ」
沙希は最後の力をふり絞って、助手席の大地に微笑んだ。
「ありがと。でも平気。一人で行けるから」
『おやすみ』と声を掛けたかどうか分からない内に ドアがバタンと閉じ、そのまま沙希はロビーに向かって歩いていった。初めはゆっくりと、そして終いには駆け込む様にして その身を隠した。沙希の後ろ姿をじっと見つめ、その影が消えた後までも大地は その場を離れる事ができなかった。
そしてそのまま 朝を迎え、いつの間にか眠り込んでしまっていた大地の頬には、東から昇った朝日が 新しい光を運んできた。閉じた瞼の上から眩しさを感じ 目を覚ました大地が時計を確認すると、7時にもならない時を示していた。軽く伸びをして 車を降りると、今日も天気が良い事を知らせる様な青空が 頭上に広がっていた。まるで昨夜の出来事が遠い夢の様に思える程、清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んで、大地はコーヒーを買いに歩いていった。
結局待ち伏せする様に、ロビーから出てきた沙希を呼び止め、強引に近い調子で助手席に乗せると、車を空港へ向けて発進させた。昨日別れてから まだ数時間しか経っていない事を、車内の空気が物語っていた。
「昨日はごめん。俺も・・・どうかしてて・・・言い過ぎた」
昨夜と全く同じ服装の大地を横目にチラッと見ると、沙希も呟くように声を発した。
「もしかして・・・昨日から・・・?」
しかし返事というのは何もなく、ただ一度 沙希の方を見て笑っただけだった。
「どうして・・・?」
やはり返事がないのを 半ば仕方ないと諦めて、窓の外の青空を仰ぎ見ると、そこにはすっかり秋の雲が帯をなして漂っていた。
「俺はさ・・・お前が思ってる程強くないし、立派でもない。自分の決めた心まで、ぐらつくのを支えきれなかったりするんだ。情けないと思うかもしれないけど、それが今の俺の本当の姿なんだよ」
一体何を言おうとしているのか、沙希は恐ろしくて 何度も途中『待って』と言いそうになる自分を 必死で抑えつけていた。
「俺の生まれ育った小樽って町はさ、確かに観光地化されてるけど、俺らの住んでる所は 本当に田舎で・・・。沙希には想像がつかないかもしれないけど、近所を見慣れない人が通っただけで目立つんだ。信じられないだろ?その分近所づきあいがしっかりあるから、親父が心臓発作で倒れた時だって 随分助けられたんだけどな。ま、そんな所に住んでるからさ・・・何ていうか・・・自分の事も個人の問題だけじゃないっていうか・・・色んなしがらみがあるっていうか・・・。上手く言えないけど」
分かった様な分からない様な宙ぶらりんな心境でシートに沈む沙希に、大地はもう一度目をやった。
「無理に笑ってる事ないよ。頑張って元気でいる必要もない。だけど・・・空港までは、これに乗ってって」
密室の中でのぎくしゃくとした雰囲気は、耐えがたいものがあった。中学生が初デートの時にドキドキした心が弾け合い、そんなぎくしゃくなら まだ可愛げがあったのにと、頭の隅でぼんやりと考えていると、運転席の大地が左手を伸ばしてきた。
「何かCDかけよっか?そこ開けて、好きなの選んでいいよ」
ダッシュボードを指さしていた。しかしその途端、急に沙希の心が凍りついた。浜崎修也の車でドライブに行った時に見付けてしまった口紅。そして その同じダッシュボードから、数か月後 浜崎と同棲していたという女が取り出した母子手帳。その記憶が甦り、沙希は目の前のダッシュボードに嫌悪感を覚えていた。浜崎の事も、また その女の事も もうすっかり過去の出来事として忘れ去られていた筈だったのに、沙希の心の奥底深くでは 無意識の内に冷凍保存されていたものが解凍された様に 息を吹き返していた。沙希は口を閉ざしたまま、首を横に振った。
「いいよ、開けて。別にCDしか入ってないし。確か沙希の好きだった・・・」
そう言いながら、片手を伸ばし ダッシュボードに手を掛けた。
「いいって!」
叫ぶ様にそう言い放つと、反射的に耳を塞いで 目をそむけ、身を縮めた沙希。驚いたのは大地の方で、一瞬呆気に取られる。
「ごめん。CD聴く気分じゃないよな。・・・ごめん」
そうは言ったものの、何故あそこまで激しく沙希が拒絶したのか 真意を知る筈もなく、大地は誤解したまま言葉を選んだ。
「この車、親父もお袋も使ってんだ。まぁ親父にはあんまり運転させないんだけど。発作があるといけないから。で、俺が使わない時は、お袋が結構乗ってたりしてて。お袋は演歌が好きでな。ふと気が付くと、石川さゆりとかさぶちゃんとかのCDが紛れ込んでるわけよ。で、いつだったか 前なんてさ、開けたら俺のCDが全然なくなってるんだよ。『お袋の奴、どこしまったんだ?』って探したらさ、勝手に後ろ、トランクの中に移動されててさ。『英語で書いてあるから何だか分かんなくって よけといた』だって。参ったよ。それからは俺、車乗る前に必ずここチェックする様にしてんだ。だって高速乗っててCDかけようと思って、無かったからってさぶちゃんは無いだろ?さすがに」
合流車線で 後ろを気にしながら入り込むと、また大地が喋った。
「開けてみてもいいよ。石川さゆりもさぶちゃんも ちゃぁんと入ってっから」
しかしやはり沙希は、手を前へ出す事が出来なかった。暫くして、ようやくさき程の嫌悪感がどこから来たものか見えてきた。浜崎が自分を騙していた事が許せなかったんじゃない。同棲していたという女が、突然挑戦状を叩きつけてきた事を根に持っていた訳でもなかった。もちろん自分以外の女と 平気な顔して子供まで作っていた事を恨んでいるんでもなかった。ただ沙希は、自分が二番だった事に気が付かなかった己の愚かさに、無性に腹を立てていたのだった。
「二番なら二番で、言っといて欲しかったよ・・・」
ぼそぼそとした声は、まだ続いた。
「急にこっから母子手帳なんて・・・」
「えっ?」
さすがに意味の把握しづらい内容に、大地が聞き返した。すると沙希は 案外あっさりと、窓の外を眺めながら 話し始めた。
「私、前付き合ってた人に、二股掛けられてたの。その上ね、相手の女の人とは一緒に住んでたんだって。それで、ある日突然その女の人が 母子手帳持って現れて・・・。笑っちゃうでしょ?気が付かなかったなんて。いや・・・多少は感じてたよ、変だって。だけど・・・さすがに 彼の事も、その女の人の事も責める気になんてなれなくて、ただ自分の馬鹿らしさに嫌気がさして嫌気がさして・・・」
前を見たまま視線を外さない大地の眉間には、小さくしわが寄っていた。
「『お前は俺の一番じゃないよ』なんて まさか言える訳もないと思うけどさ、私にだって一応プライドがあるもん。そりゃ そんなの、私のくだらないちっぽけなプライドかもしれないけど、逃げ道を残しておいて欲しかったよ・・・」
「逃げ道・・・?」
一瞬ぱらついた雨の雫が、窓の外についた。それを内側から指でなぞりながら、沙希は口を開いた。
「全てが潰れた時にも『私は本当は知ってたんだ』っていう逃げ道を・・・ね。じゃなきゃ、惨めすぎて立つ瀬がないじゃない。それでもあの時はまだ、私には仕事があった。でもね、もう今度は その仕事もないのよ。親に泣きつく訳にもいかないし・・・。お父さんの会社ね、色々あって 会社辞める事になったの。お母さんは『夫婦二人だもん。のんびりやるわ』なんて言ってるけど、私も自分の事は自分でしないと・・・。だからね、私が前から『二番なら二番ってそう言って』って言ってるの、けっこう真面目なんだよね。やんわりでもいいから、私に気が付かせてくれないかな・・・」
喋り終えると、大きく溜め息をついた。その話をどう受け止めたのか、大地は貝の様に口を閉ざしてしまい、また沙希も 大地がそれに対し何を考えているのか、不思議と気にはならなかった。言いたい事を言うだけ言ってしまった沙希は、妙に晴れ晴れとした気分で 窓を中程まで開けてみた。勢い良く飛び込んできた風は、湿度が低くカラッとしていて、沙希の髪を心地良く通り抜けていった。ふと見上げた空は やはり秋めいていて、少し高くなっており 薄っすらとうろこ状の雲が青空を彩っていた。
「もう秋だね・・・」
そう自然とこぼれた沙希の口元は、ほんのりと緩んでいた。途中渋滞もなく 札幌まで辿り着くと、ちらほら“ノーザンホースパークまで8Km”の看板が見え始めた。
「寄ってく?ノーザンホースパーク」
大地の問いかけに、沙希は柔らかく微笑んで 首を振った。そして二人の乗った白いセダンは“ノーザンホースパークへは ここ右折”の看板を頭上に通り過ぎていった。
空港でチケットカウンターへ行くと、運良く すぐ後の羽田行きの便に席が取れた。
「送ってくれてありがとう。あんまり昨日寝てないんでしょ?帰ってゆっくり休んで。じゃあね」
明るく手を振って出発ゲートの方へ歩いて行きかけて、沙希が思い出した様に振り返った。
「私・・・むこうで次の仕事探すから・・・。安心して」
最後に一回だけにこりとすると、すぐ又前へ向いて歩き出した。それからは もう二度と振り向かない沙希の後ろ姿を 視界から消えるまで見送ってから、大地はゆっくりと空港の自動ドアを出た。高速バスのターミナルを通り、駐車場へ向けて歩いていると、後ろから呼び止める声がした。
「大ちゃん!」
きっとそれまでに何度も声を掛けていたに違いない様な叫び声で、その声のする方へ顔を向けると、そこには千梨子が立っていた。
「迎えに来てくれたの?メール見てくれたんだ?」
「えっ?あぁ・・・」
「違うんでしょ?・・・河野さん、見送りに来たの?」
大地は耳を疑った。
「それより お前・・・」
何とかはぐらかそうとする大地の行く手を千梨子が阻み、そうはさせなかった。
「『なんで知ってるんだ?』って思ってるんでしょう?・・・お母さんに聞いたんだ」
「お袋・・・?」
「昨日 大ちゃんの携帯 何度鳴らしても切っちゃってて繋がらないから、お家電話したの。そしたら『横浜から来た河野さんって人に会いに行った』って」
千梨子は探る様な目つきで、大地の顔を覗き込んだ。
「『横浜の河野さん』って・・・私の知ってる『河野さん』?」
大地は暫く千梨子の顔を眺めてから答えた。
「誰だよ。お前の知ってる『河野さん』って。違うよ。全然知らない人」
疑う様な鋭い目つきで、千梨子は依然大地を凝視していた。
「その人なんでしょ?・・・大地の好きな人って」
大地は軽く吹き出す様に笑ってみせた。
「お前、何か勘違いしてるよ。昨日会ってた『河野さん』っていうのは、男だよ」
バス乗り場の脇で 二人して立ち尽くして話していた為、大地が千梨子の手にぶら下がった荷物を持とうと手を差し出し、前へ歩き出そうとすると、その手は勢い良く払いのけられた。
「嘘言わないで!私『大野です』って電話したら、お母さんに『河野さん』と間違われたのよ。それって、河野さんが女の人だからでしょ?」
大地の頭の中では、金属疲労を起こす程 タービンが高速で回転していて、丁度その時 脇を函館行きのハイウェイバスが排気ガスを大きく吐き出して 発車していった。
「夫婦で来てたんだ。家に電話を掛けてきたのは、奥さんの方。旦那の方が、俺の元々の友達」
顔は半信半疑だったが、ようやく歩き出した千梨子に すかさず大地が 会話の主導権を握ろうと乗り出した。
「ところでお前、どうしたんだよ、突然」
「あれ?本当にメール見てないの?」
とっさにつまづく大地に、抜け目なく千梨子が突っ込んだ。
「って事は・・・昨日お家 帰ってないんだ?どこに泊まってたの?」
その姿はまるで、浮気を嗅ぎ付けた女房の様に ピリピリとしていた。
「車ん中。その『河野さん』夫婦をホテルに送って、疲れたから ちょっと仮眠取ろうと思ったら、そのまんま朝まで眠りこけちゃったんだ」
その大地の姿もまた、浮気を必死に隠すダメ亭主の様だった。
千梨子をその場で待たせて、大地は公衆トイレに駆け込み、慌てて携帯電話に電源を入れた。そこで初めて 昨晩何回も千梨子から着信があった事を知り、またメールをチェックした。しかしそこには『突然だけど、明日そっち行きます。昼頃着く様に行こうと思ってます。着いたら電話するね』と、ただそれだけしか入っていなかった。理由は一切分からず、さっきの千梨子の言葉が 大地にカマを掛けていた事も、そこで初めて知ったのだった。
駆け足で千梨子の元へ戻ると、再び探る様な目で千梨子は言った。
「遅かったね」
しかし 大地は動揺する事なく、一言『車、こっち』とだけ言うと、またさっそうと駐車場へ向かった。
ロックの解除された助手席のドアを開けて 千梨子が乗り込むと、抜け目なく ドリンクホルダーに開いていないミルクティーを見付ける。その横には大地のいつもの缶コーヒーが空になって置いてあった。千梨子は後部座席にも目をやった。まるで匂いを嗅ぎまわる犬の様で、大地は少々うんざりしていたが、あえて見て見ぬフリをした。
車が走り出してからだった。
「これ・・・どうしたの?」
千梨子の指さすミルクティーを見て、大地は一瞬うかつにも さっきまで隣に座っていた沙希の顔を思い出してしまった。朝 自分の缶コーヒーを買いに行った時に、同時に買い求めた沙希の好きなミルクティーに、一口も口をつけないどころか 開ける事も 手に取る事もしないまま この地を離れていった。
「私の為に買っといてくれたの?」
「あぁ・・・飲んでいいよ」
大地はもう半分、投げやりになっていた。
「大ちゃん忘れたの?私、ミルクティー嫌いだったじゃない。私の好きなのは レモンティーだよ」
「あれ?それレモンティーじゃなかった?ごめん、間違えちゃったんだ」
助手席で大きなため息が一つ漏れた。
「また嘘ついた、大ちゃん・・・。大ちゃんは今日、私が来る事だって知らなかったし、このジュースだって 私の為に買ったんじゃない。どうして そんなに嘘ばっかりつくの?さっきから何度 嘘言ったと思う?」
大地の反応は、この時いつもとは大きく違っていた。
「千梨だって、違うって分かってて わざとそんな事聞いてくるんだろ?一体何なんだよ。突然押しかけてきたと思ったら、人の身の周り 嗅ぎまわって。何のつもりだよ。いい加減にしてくれよ!」
普段滅多な事では怒らない大地が 声を荒げた事で、千梨子も硬直していた。しかし それだけではなく、自分の今回の行動を『押しかけてきた』と言われた事が何よりも一番の衝撃だった。すっかり場の雰囲気も凍りつき、つけていたカーラジオも 大地はボリュームを絞った。
「俺は千梨に言った筈だよ。好きな人が出来たって。だから千梨とは、申し訳ないけど一緒にはなれないって。それなのにさ、こうやって昔と変わりない様子で 突然訪ねて来たりさ・・・分かんねえよ」
助手席に座る影が動く事はなかった。
大地が夕方家へ戻り、停めた車のドアをバタンと閉めた時、後ろの方から声が掛かった。
「大地君、今 帰り?」
その声の主は、向かいに住む沖月のおばさんだった。そこの息子とは 年が一つ違うだけで、小学生の頃よく一緒に 学校までの2kmの道のりを通ったものだった。大地がここを離れていた間も、父が倒れた時も、本当に世話になったと母が言っていた人だった。
「おう、おばさん。こんにちは。相変わらず元気そうだねぇ」
植木に水やりをする手を止め、かがめた腰を伸ばした。
「私は元気よ。元気だけが取り柄だべさ。お父さんも近頃は 調子が良さそうで良かったべなぁ」
「お陰様でね。でもまだ寒くなると心配だけど・・・。ま、仕方ねぇんだ。もう そういう年だから」
車のキーをジャラジャラと少し手でもて遊ぶ様にして、大地が立ち話をしていると、おばさんがにやりとして 一歩近付いてきた。
「大地君だって、今年30っしょ?そろそろお嫁さん貰ったっていい年なんでないかい?この間 お家に訪ねてきてた娘さん、あれ 彼女なんだべ?」
「『訪ねて来てた』・・・?」
大地がピンと来ない顔をして首を傾げると、おばさんは説明を始めた。
「なんぼか小柄で・・・髪の毛がこの位で・・・ちょっこしクルクルっとしてて・・・めんこい感じの子」
それは正に千梨子の事を指していて、すぐに大地も気が付いたが、何故自分の居ない間にここに来たのか 腑に落ちないでいると、おばさんの話は続いた。
「お母さんとも仲良さそうに話してたし、私ににっこり挨拶してくれたべさ。とっても感じ良かったべさ。したっけ『大地のフィアンセだ』って お母さん紹介してくれたんだ、おばさんに。お母さん嬉しそうに笑っとったよぉ。早く結婚して、お父さんとお母さん 安心さしてやれ。元気なうちに孫抱かしてやるのが、親孝行だべさ」
ずしりと重い一言が、大地の上にのしかかった。
その晩、父が風呂に入っている隙を見計らって、大地は母の居る居間に下りてきた。
「この間、俺の居ない時に、千梨 ここに来たんだって?」
新聞を読んでいた顔を上げ、老眼鏡をずらし 大地を見た。
「何の用だったの?」
言葉に詰まり、ずらした老眼鏡を外しながら言った。
「千梨子さんに・・・聞いたのかい?」
「向かいの沖月のおばさんだよ」
『しまった』と言わんばかりの表情が、正直な母の顔に表れる。
「大地ねぇ。母ちゃんもちょっとお前に話があったんだぁ」
母はそう言って、大地の方を向いて正座をし直した。
「あんた・・・他に惚れた子が出来て、千梨子さんに『結婚出来ねえ』って言ったんだべ?千梨子さん、泣いとったよ。なして、そったら事になるんだべ?」
責めるというより、心配している様子がありありと母の表情から見て取れた。
「なしてって・・・そのまんまだ」
「なして?あんな千梨子さんみてぇないい娘さんがいるのに、他にフラフラするなんて・・・。あちらのお父さんに反対されてたのが、辛かったんかい?そんで、千梨子さんとの結婚諦めたんかい?」
「そうでない」
「したら、なして?あったら気立ての良い子、他にいないべさ。父ちゃんとも前から言ってたんだ。『あったらいい子、嫁に来てくれたら有り難いね』って。『あの子なら安心だ』って。父ちゃん、お前には言わんけど、時々寝る前に言うんだ。『千梨子さんと早く結婚してくんねえべかなぁ』って。『内孫、元気なうちに この手で抱っこするのが、俺の今の夢だ』って。姉ちゃんとこにも孫は二人居るけども、あれはやっぱ娘で、嫁に出してるべさ。所詮は外孫なんだ」
そんな母の言葉を聞きながら、夕方の沖月のおばさんの言葉を思い出していた。
「いつでも仕事辞めて こっちに来たっていいって、言ってくれてるそうでないかい。今の若い娘さんは、なかなかこったら田舎に来てくれないんでないかい?特に東京の人は皆、女の人も仕事が熱心で」
大地が何の反応も示さないので、母はまだ続けた。
「男っちゅうもんは、結婚前にちょっと位は 遊び納めした方がいいと 母ちゃん思ってる。んだら今回の事は どうか許してやってくれんべさって、千梨子さんにも言ったんだべさ」
「そんなんでないよ・・・」
あぐらをかいて下を向いたまま、大地がボソッと言った。
「・・・昔付き合ってた子だ。その時から俺は勝手に その子と一緒になりたいと思ってて・・・。でも当時は上手くいかなかった。んだけども、やっぱり その子の事が忘れらんなくって・・・」
母の顔がみるみる険しくなっていった。そして静かに首を横に振った。
「やめた方がいい。一度別れた事がある人とは・・・もうよした方がいい。昔は昔だべ」
大地の意見を母が否定したのは、これが初めてだった。東京の大学に行く為に上京する時も、メキシコに行くと言った時も、母は決して反対する事なく 大地の気持ちを尊重してきた。しかし今回ばかりは違っていて、それに大地は少々驚いていた。
「母ちゃん いっつも俺に『後悔しない様に、自分の思う様に生きろ』って言うっしょ」
母は大地の目をしっかりと見据えて、きっぱりと言い放った。
「結婚は別だ。結婚っちゅうもんは、一生を大きく左右する」
「したっけ俺は、後悔しない様に・・・っ!」
「いかん!それだけは母ちゃん賛成できん」
淋しそうに目を潤ます母を、大地は長い事見てはいられなかった。
「今度会ってくれないかな、その彼女に。したらきっと 母ちゃんにも分かってもらえると思う」
母はさっきまで掛けていた眼鏡を手で触りながら、更に声を小さくした。
「父ちゃんには何て説明するつもりだい?父ちゃん・・・本当に楽しみにしてんだよ、あんたと千梨子さんの結婚。あんまり心配掛けんでやってくんないかねぇ。あんたは、この家の跡取りなんだべさ。早く父ちゃん、安心さしてやっとくれよ」
ずっしりと懐に重く響き、大地は返す言葉を拳の中で握りしめた。




