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輝けるもの(下)  作者: 長谷川るり
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第6章 居場所

6.居場所


 日曜日、木村家では 賑やかな孫達の訪問で慌ただしく、あっという間に夜を迎えた。娘家族と一緒の夕食が済み、市内にある自宅へと帰って行った後、母が大地に改まって話を持ち掛けた。

「あんた、千梨子さんとはどうなってんだべ?」

「なんだよ、急に。別に・・・普通だよ」

思わず母から目をそらしてしまう大地。

「あんた、千梨子さんのご両親には挨拶に行ったんだべ?どうなの?認めてもらえそうなのかい?」

大地は鼻から息を吐くと、首を傾げた。

「難しいかな・・・」

一気に母の顔が曇り出す。

「いいんだよ、心配しなくて」

「んだけどもさ・・・。したっけ千梨子さんには正式にプロポーズはしたのかい?」

思わず大地は、畳の上に転がっていた 甥っ子の忘れていったスーパーボールを手に取って、一瞬の動揺をごまかした。

「正式にっていうか・・・別に・・・まだ・・・。だけど・・・むこうは、そのつもりでいてくれてるけど・・・」

すると母が、僅かに身を乗り出した。

「うちも あちらさんのご両親にご挨拶に行かないといけないんでないのかねぇ」

大地は目を丸くした。

「ちょっと待ってくれよ。いいんだよ、まだそんなの・・・」

慌てて 先案じする母を制しながら、大地は 自分の気持ちとは違うところで 事が動き出しそうな気配に少々戸惑っていた。


 千梨子がフェイシャルベッドの上に身を委ね、スチームを顔いっぱいに受けながら話し始めた。

「ちょっと、聞いてもらえますか?」

沙希は内心ドキッとした。

「最近、何だか彼の様子がおかしくって・・・。気のせいかなって思えば そうかもしれないんですけど、一度気になるとずーっと気に掛かっちゃって・・・」

「おかしいって・・・?」

週に一度程の千梨子との会話は、まるで二人を覗き見している様で、ハラハラしながら なおかつ好奇心を募らせる自分を、沙希は醜いと思った。

「前は・・・何を置いても私を最優先してくれてた時とは、何かが少しずつ違ってきてる様に思えて。言葉では上手く説明できないですけど、感じるものが・・・あるんです」

沙希は思わず『気にし過ぎじゃない?』等と その場しのぎの言葉を掛けようとして、やめた。

「だから、この間私 言っちゃったんです。『そっちに行く』って」

「えっ?!」

思わずこう声が漏れた。

「もともと結婚したら、私が仕事辞めて むこうで一緒に暮らす事になってたんで、それをちょっと早めるだけで」

「そしたら彼、何て?」

沙希も質問に熱がこもる。

「・・・『まぁそう慌てるな』って。結局うち 父が大反対してるじゃないですか。それを元々『ゆっくり認めてもらおう』って言ってた人なんで・・・。あ~あ」

溜め息をついて、また千梨子が言った。

「来週私、お盆休みなんです。だから、北海道行ってきちゃおうかなって」

それを聞いた沙希の頭の中では、先日小樽で過ごした大地との時間が まるでスライドフィルムの様に映し出されていた。

 お手入れルームから着替えを終えて出てきた千梨子に、沙希が予約表を片手にお茶を出した。

「来週は きっとこっちに居ないんで、少し間空いちゃうんですけど・・・次の週の月曜日、取れますか?いつもの時間で」

まだ殆ど書き込まれていない予約表を秘かに見ながら、沙希が言った。

「私はその日予約が入ってしまってるので、妹さんで予約お取りしておきますね」

「それでもいいんですけど・・・別の日にします。えぇっと・・・」

すかさず沙希が遮る。

「かなり間が空いちゃうんで、良ければその日でお取りしておきます。妹さんも もうすっかり一人前ですから、お姉さんから成長ぶりを見てあげて下さい」

ていの良い説得文句を並べて、笑顔で千梨子に向かう沙希は、心の中で必死に自分を正当化していた。そして後日 桜田に千梨子のカルテを手渡して言った。

「これからは段々とお姉さんのお手入れ、あなたが担当していった方がいいと思うの。身内を自分の手で綺麗にするのって、やっぱり今までとはちょっと違うと思うの。いい機会だから、是非経験してみて欲しい」

何の疑いも持たず、桜田は素直に受け入れた。

「わかりました。頑張ります」

そして いつもの様に、向日葵みたいな笑顔を顔中に広げた。


「この間・・・ありがとう」

沙希は受話器を耳に当て、先日聞いたばかりの大地の声を待った。

「次の日無事に飛行機取れたの?」

普段の大地の調子が、沙希の心を落ち着かせた。

「・・・聞いた?来週・・・千梨子さん、そっち行くって・・・」

「・・・・・・」

「あっ・・・いいの。別に、そういう意味じゃなくて・・・。その前にちょっと、話しておきたい事があって・・・」

「何?」

「・・・電話じゃ・・・。会って言いたいなって思って・・・。だから また・・・今週末でも、大地の予定が空いてたら そっち行こうかなと思って・・・」

「ごめん・・・。今週末はダメなんだ。仕事入ってて・・・」

沙希の心がグラグラと不安定に大きく揺れたが、『信じよう、信じよう』と必死に自分をなだめた。

「千梨が来るって・・・聞いたけど、丁度その時期 俺の仕事が休み取れなくて・・・無しになったんだ。その代わり、8月の末に又そっちに行く様にスケジュール組んだ」

沙希は複雑な気持ちで それを聞いた。

「こっちで会うのは・・・出来ないもんね・・・?」

「・・・・・・」

この無言は、大地のどんな気持ちを反映しているのか。もどかしい思いを胸に抱きながら、受話器を片手に肩を落とした。すると大地が言った。

「横浜の東口のマンションの屋上・・・覚えてる?そこで会おう」


 あれは確か、21になりたての夏の事だった。仕事で初めての失敗。そして桜井のマンションで鉢合わせた元彼女。泣きながら呼びつけた大地が、缶ビールで慰めてくれた遠い日の記憶を辿りながら、360度見渡せる屋上から 北の空を眺めた。あの時はまだ桜井と付き合っていた事を思うと、何だかとても遠い昔の様な気がしてならなかった。ぼんやりと、以前と同じ様に貯水タンクの脇に腰を下ろして、ふと腕時計に目を落とした。約束の時間から既に15分が経過していて、比較的時間に正確な大地だけに 心配が募り、無造作に携帯を取り出す。そしてメモリダイヤルの検索をしようとして ハッと気がついた。大地の携帯の番号も知らなければ、むこうも沙希の番号を知らなかった。前回小樽で会った時に、お互いの想いが一緒なのを肌で感じ、すっかりその気になっていた沙希だったが、あらためて現実を思い知らされた気がしていた。そして四年という空白の大きさを 実感せざるを得なかった。初めの内は、仕事で遅れて連絡が取れずに困っていると思い込んでいた沙希だったが、約束の時間から30分が過ぎようとすると、次第にその思いは変わっていった。仕事で“来られない”のではなく、あえて彼の意志で“来ない”のではないか?それとも彼女にこの事がばれ、足止めを食らっているのかもしれない。様々な思考が頭の中で錯乱し それがピークに達した時、携帯の着信音が響いた。桜田からだった。

「どうしたの?」

少し緊張気味に声を掛けた。

「すみません。仕事後に携帯なんかに掛けちゃって・・・。もう、ご自宅ですか?」

「いや・・・まだちょっと・・・外なんだけど」

「今、ちょっと話聞いてもらっていいですか?」

一呼吸置いて、桜田はすぐに本題に入った。

「今姉が来てるんですけど・・・結構へこんでて。距離が離れてる分、彼の事を信じる気持ちが強くないといけないのは分かってるみたいなんですけど、不安を抑えてどこまで信じ切ればいいのかって・・・。チーフって 遠距離の経験があるって聞いてたから、こういう時って どうなのかなって思って」

「何か・・・あったの?お姉さん達」

何故か沙希は屋上の端に行き、背中を丸めた。

「彼が・・・嘘ついてたって・・・」

「嘘?」

「明日、こっちに来る事になってたらしいんです。でも、本当は今日からこっちに来てた事が分かって・・・。たまたま彼の実家に電話したら、お母さんが『あれ?今朝東京に行きましたよ』って。それから千梨ちゃん・・・姉・・・おかしくなっちゃって・・・」

「彼は・・・何て?」

もう少し気を緩めたら 声が震えてしまうところを、懸命に堪える沙希。

「姉がそれを知った事・・・木村さんはまだ知らないんです。怖くて聞けないって・・・。でも、木村さんがこっちで最近使ってるウィークリーマンションに押しかけてみちゃおうかなって言い出しちゃって・・・。だけど、女がいたらどうしようなんて・・・すっかり思い込んじゃってて」

「女?!」

「何の根拠もないとは思うんですけどね」

その一言に 内心ほっと息をついた時、桜田の質問が飛ぶ。

「チーフも、そういう事ありました?遠距離の時」

「え?私?」

とっさに沙希の思考回路が乱れる。

「彼に嘘つかれたりとか・・・浮気とか・・・」

「彼?・・・え?」

桜田の言う“彼”と、沙希の考える“彼”が 勝手にぐちゃぐちゃに入り乱れる。そして何故か動揺する沙希を電話口で不思議に思いながら、桜田が繰り返した。

「その、遠距離の時の彼と・・・ありました?そういう事。もしあったら、何か良いアドバイスでも頂けたらいいなって・・・」

ようやく通常の回路に戻り、桜田の質問を理解する。

「ごめんね・・・私そういう経験なくって」

「そうですか・・・」

「でも・・・彼も彼なりの考えがあっての事かもしれないし・・・そう あまり思い詰めないでって、お姉さんに・・・」

どこまで どう言っていいのかも分からず、無責任にも 半分『もう どうにでもなれ』といった気持ちで そう話をすると、桜田はすんなりと引き下がった。電話を切ったまま その場で立ち尽くし、暫くボーッとしていると 背後から沙希を呼び覚ます声がした。

「おうっ!」

ビクッと振り返ると、そこには缶ビールを二つ掲げた大地の姿があった。

「ごめん、遅くなった。渋谷にあるライブハウスとの打ち合わせも延びちゃったんだけど、慌てて飛び乗った東横線が 大倉山で人身事故があったって 止まってたんだ。悪かったな、待たせて。お詫びに、ホイ!ビール買ってきた。今買ったばっかりだから、まだ冷たいだろ?」

何も知らずに そう明るく笑う大地を、まともに沙希は見る事ができなかった。

「心配しただろ?酷い遅刻だもんな」

「・・・大丈夫」

「お前の事だから、色々考えちゃってんだろうなと思ってたよ。だけど、連絡しようにも・・・出来なくってさ」

先程の桜田からの電話の内容がどうも邪魔して、上手く会話の出来ない沙希。

「・・・どうした?元気ないな」

そんな大地の言葉の語尾に重なる様に、遠くでドーンと打ち上げ花火が上がる。みなとみらいの方面の夜空を一瞬にして華やかに彩る その花火に、二人は思わず顔を見合わせる。そして どちらからともなくフェンスに寄り掛かり、身を乗り出す様にして儚い夏の夜の華を見つめた。たった三発程 連続して打ち上げられると、また再び元の静寂が戻る。

「何の花火だ?」

沙希も時計に目をやって答える。

「こんな時間じゃ、花火大会でもないしね・・・」

その後花火が続いて打ち上がる事はなかった。しかし その花火のお陰で空気が変わり、沙希もだいぶ大地の顔を見られる様になっていた。

「前もここで こうやって缶ビール飲んだな」

大地もここでの以前の出来事を覚えていてくれた事への嬉しさが 胸いっぱいに広がるが、今日この場所を選んだのには 理由があったのか、沙希は正直聞けずにいた。

「話って?会ってしたい話って・・・何だった?」

大地は貯水タンクの脇にあるコンクリートで出来た台に腰を下ろして言った。そして沙希は、大地の向かい側に立ちつくし、俯き気味に声を絞り出した。

「大地・・・。私・・・今は・・・二番でもいいよ」

沙希は、自分で自分の台詞に驚いていた。どうしてしまったのか、沙希の口が勝手に動く。

「千梨子さんがいても・・・いいよ」

さすがに大地も言葉を失っていた。

「結婚まで考えてた彼女と すぐにどうこうしてなんて無理だし、言えないし・・・。私・・・それでもいいから。大地と居られるなら・・・それでもいいから」

「沙希・・・」

暫く俯いていた大地が顔を上げる。

「それは・・・沙希の本音?そんな筈ないだろ?」

少し頬を引きつらせて笑ってみせる沙希。

「・・・半分は本音だよ」

「どういう意味・・・?」

今度は沙希が下を向いた。

「・・・千梨子さんと・・・別れてからじゃなくていいって事・・・」

遠回しな言葉を選んで そう言うと、大地がすくっと立ち上がった。

「俺、今回アイツに言うつもりでいるよ」

きっぱりと言い放った大地の顔を、目を丸くして見つめた。

「えっ?!」

「・・・だからお前、そんな自分を安くする様な事 言うな」

沙希の心は、途端に動揺し始めた。

「言うって・・・何て?」

「そのまま正直に・・・『結婚できない』って。『好きな人が出来た』って」

「ちょっと待って。だって、そんな急に・・・」

しどろもどろの沙希を、冷静な大地が見つめて言った。

「早い方がいいんだ、あいつの為にも。」

「でも、あまりにも突然すぎるじゃない。大地、私ね。今日話そうと思ってた事って・・・」

そこまで言って、沙希は屋上のフェンスの方へ歩いて行った。

「もし私が、千梨子さんの妹と同じ職場で面識があったり、うちのお店に千梨子さんが通ってくるのが気になるんなら・・・私、仕事辞めてもいいんだよ」

最後まで言い終えた途端、明らかに背後で 大地の様子が変わったのを 雰囲気で感じ取った。

「大地の為なら、今の私・・・仕事だって・・・」

そこで大地がストップをかけた。

「沙希・・・」

先程よりもピンと張りつめた空気が漂う。

「そんな事言うなよ・・・。悲しくなるよ・・・」

そっと振り返ると、大地は拳をきつく握りしめ 悔しそうに歯を食いしばっていた。

「お前にとって仕事って・・・そんなもんじゃなかっただろ?俺は沙希が19の時から見てきたよ。まだ学生で 将来の目標も定まってない時から。だけど今の仕事見つけて『自分にはこれだ』って頑張ってきたじゃないか。辛い事だってあったけど、そのたんびに歯を食いしばって乗り越えて来たんだろ?そりゃ、最近のこの4年は知らないよ。だけど この間だって営業頑張ってるって。慣れない事だから上手くいかないけどって、何とかしようと張り切ってたじゃないか。それだけこだわって大事にしてきた仕事を、そんな簡単に『捨てる』なんて言うな」

「でもね、大地。今のあなたを選ぶって事は、そういう事なの。だって どんな顔して千梨子さんやその妹の桜田さんと毎日会えっていうの?会わせる顔なんてないよ。それに・・・もし大地が、私と将来を考えてくれたとしたら、こっちで仕事続けてもいられないし、家族とも離れるっていう事。私は それだけの覚悟をしたから、大地に想いをぶつけたんだよ」

苦しい表情のまま、大地は口を開いた。

「だけどお前にとっては大好きな仕事で、あの店が好きで、あそこの人が好きで・・・なんだろ?なかなか そう思える仕事や場所なんて、見つかるもんじゃないよ」

しかし何故か落ち着いた沙希がいた。

「私にとっての居場所は、もうここなんだって はっきり分かったの。居場所は・・・一つあれば充分だよ」

そして最後に少し 大地が顔を上げた時、そっと沙希が微笑みかけた。

 沙希が再びフェンスにもたれ 夜風に吹かれていると、大地も隣にやって来て、二人は暫くの間 その何もない空間に身を任せていた。

「こうやってると、昔のあの時に戻ったみたいな気持ちになるね」

沙希がそう言って、ふと時計に目をやる。

「これから都内まで帰るんでしょ?電車大丈夫かなぁ。ごめん。時間の事 すっかり頭から飛んでた」

「あぁ」

そう言う大地の腕をふと見ると、先日の腕時計はなく、その代わり そこだけ白く日焼けの跡が付いていた。携帯で時間を確認し、屋上を降りていく大地の背中を追いながら、桜田から聞いた話を伝える事は 結局沙希は出来なかった。


 次の朝、重たい心を抱えてサロンに出勤すると、まだ誰もいないサロンの中を感慨深げに見て回る。6年間慣れ親しんだ一つ一つの物や風景と 近い内に別れる時が来る事を、今更ながら少々悲しく感じていると、そこに店長の青山が現れる。

「おはよう。今日は早いわね」

店長が鞄を置いて ロッカーに着替えに行くと、沙希も一つ深呼吸をして後を追った。ロッカールームのドアノブに手を掛けた時、『おはようございます』と元気の良い声に呼び止められる。

「昨日はすみませんでした」

少々小声で桜田はそう言って、手を合わせた。店長に切り出すタイミングを逸したのと同時に、突然昨日の電話の内容に頭が引き戻され、沙希の体は固まっていた。

「あんな時間にプライベートの事でベラベラ話聞いてもらっちゃって、迷惑じゃなかったですか?大丈夫でした?」

桜田のペースに持って行かれる様に、いつしかノブに掛けた手は空になって 力なく下に垂れた。

「大丈夫だった?お姉さん」

「まぁ、ずっとあんな調子でしたけど・・・。でもかなりショックだったみたいですよ。嘘つかれたのって初めてだったからって言ってました。だけど人って分かんないもんですよね。あんな誠実そうな木村さんが、自分の彼女に変な嘘つくなんて。やっぱ嘘って良くないですよね、人として。・・・あ、別に 姉の肩持つ訳じゃないですけど・・・」

そこにドアがガチャッと開いて、制服姿に着替えた店長が現れる。

「あら。何こんな所で立ち話?中入ったら?」

すうっと通り過ぎた青山の後ろ姿を、沙希は目で追っていた。結局その日 タイミングを掴めず、沙希は青山に切り出す事のないまま家路に着いた。


 大地は品川にあるウィークリーマンションの部屋で、千梨子と二人きりの時間を過ごしていた。しかしその空間は、今までにない程重たく、緊張感漂うものだった。大地はデスクの椅子に腰掛け、千梨子はいつもの様にベッドの上で 膝を抱えて座っていた。そしてお互いが別の事を思い、いつ切り出そうとタイミングを計っていた。ついこの間まで 寄り添い、同じ将来を夢見、肩寄せ合って歳をとっていく姿を想像していた二人が、こんな日が来るとは まさか思ってもいなかった。そのムードに耐え切れず、千梨子が様子を窺う様にボソッと口をついた。

「大ちゃん。私に・・・嘘ついてない?」

「え・・・」

大地からしたら突然のけん制球で、一瞬たじろぐ。

「私・・・ショックだったよ。一日早くこっちに来てたなんて・・・。大ちゃんだけは私に嘘つかないって信じてたから」

「ごめん」

大地は潔くそれを認めたが、千梨子が望む様な言い訳は 一切出て来なかった。

「・・・それだけ?」

千梨子が催促しても、大地の口が動く事はなかった。

「何か・・・言ってよ。どうして あんな嘘ついたのか・・・」

大地の相槌代わりに、座っていた椅子がギシッときしんだ。

「たまたま・・・だよね?急に・・・一日早く来なくちゃいけなくなったとか・・・?」

膝を抱え、悲しい瞳で大地を覗き込もうとする千梨子が、ベッドの上で小さく映った。そんな千梨子をあらためて まっすぐ見つめ、大地は背筋を伸ばした。

「千梨・・・」

そう呼びかけて、もう一度深呼吸をした。

「大事な話があるんだ」


 それから一週間程経った日のサロンの千梨子の予約がキャンセルされた。キャンセルの電話を受けたのは青山で、予約表の消された跡を見て 初めて沙希は知ったのだった。

「お姉さん、今日・・・何かあったの?キャンセルになってるから・・・」

それとなく探りを入れる沙希に、桜田はあっけらかんとしていた。

「残業か何かじゃないですか?」

 しかしそれから何日経っても、千梨子からの予約の電話がかかる事はなかった。沙希はもう一度、桜田に打診してみる。

「お姉さん、この間キャンセルされてから次の予約頂いてないけど・・・風邪ひかれたりしたのかしら?」

「あ・・・ここ最近、連絡取れてないんで。電話しておきます」

その言葉がどうしても気に掛かり、沙希はその晩 携帯のメモリーに登録された大地の番号を見つめていた。横浜のマンションの屋上で会って以来で、あの時大地が言っていた言葉が気になって仕方がなかった。

(もう話をしたんだろうか・・・。そのショックで千梨子さん、サロンの予約もキャンセルしたのかもしれない)

ただの憶測ばかりが充満していき、沙希の心を大きく揺さぶっていた。あと一つ通話ボタンを押せば大地に繋がるのに、その一歩がどうしても重たかった。『まだ仕事中かも』『お風呂に入ってるかも』そんな多くの言い訳に行く手を阻まれた挙句、ようやくそのボタンを押せたのは、夜中の1時を針が指した頃だった。7回程呼び出し、(もう寝ちゃったかな)と沙希が半ば諦めかけた時、電話が通じた。

「ごめん・・・寝てた・・・?」

「いや・・・」

「こんな夜中にごめんね。・・・毎日暑いけど・・・元気かなぁと思って・・・」

「あぁ、俺は元気にやってるよ。大丈夫」

確かに返事は返ってくるが、その声に覇気は無かった。

「今・・・話しても・・・大丈夫?」

「ごめん・・・今出先なんだ。だから・・・ちょっと・・・。どうかした?」

「ううん。いいの、いいの。ただちょっと、声・・・」

その時、電話の向こうで遠い声を沙希の耳はキャッチしてしまった。

「誰?」

そう大地に聞く女性の声は 確かに聞き覚えのある声で、それが千梨子である事に 沙希はすぐに気がついた。心臓が止まりそうな程 ハッと息を呑むと、その後ドックンドックンと胸が大きく脈打ち始めた。

「忙しいとこ、ごめんね。また掛ける」

そう言い残して、一方的に電話を切る。しかし心臓のドキドキは 一向に落ち着く気配もなく、本当に“飛び出してきそう”とは この事かと変に実感していた。沙希の思考回路に様々な横槍が飛び込んでくる。

(こんな時間まで二人で一緒にいるなんて)

(話をするなんて言ってたけど、やっぱり言い出せなかったのかな)

(もしこの後 大地の携帯の着信履歴を彼女が見たら、私だってバレちゃうかな)

そしてついには、掛けた事すら後悔し始めていた。


「えっ?!沙希ちゃん、ちょっと それ・・・どういう事?!」

店長の青山が目をむいた。しかし沙希は ただ頭をしな垂れるだけで、口からは同じ言葉が繰り返される。

「ここまでお世話になったのに、本当に申し訳ありません・・・」

今まで少々の事では動じなかった青山が、この時はさすがに愕然としていて、それが顔を上げられずにいる沙希にも 手に取る様に分かった。そして又悲しい声が発せられる。

「もうここで得られるものは無くなった?」

「どんでもない!」

そう半ば叫ぶ様に言って 顔を上げると、青山の切ない瞳が目に飛び込んできた。

「まさか・・・そんなんじゃないんです。まだまだ勉強し足りない位で・・・。だけど・・・すみません」

「理由を教えてもらえないかしら?言いにくいとは思うんだけど、私も参考にしたいから」

再び口をつぐんだ沙希の頭に、ふと昔に大地に別れ話をした時の事が甦った。理由も言わずに 逃げる様に大地の前から姿を消した自分の行動が、どれ程相手を傷付け苦しめていたのか、それを知ったのは だいぶ経ってからの事だった。

「ただ自分の中の問題で・・・。自分をもう少し良く見つめ直してみたいなって。勝手な事言ってるのは、充分承知してます。だけど、こんな状態でお客様に接するのは失礼だと思うし、それを堪えながらお仕事するの・・・もう限界なんです・・・。すみません」

一呼吸置いて、青山が口を開いた。

「何から何まで頼り切って、寄り掛かっちゃったから、そこまで沙希ちゃんを追い込んじゃったのね。ごめんなさい。私の責任ね。・・・休暇って事じゃ・・・駄目?落ち着いて、又ここに戻ってきてくれる気があったら、いつでも帰って来て欲しい。それでも辞めたいっていうなら、その時聞かせて欲しい。今は 辞表、保留にさせてもらっていいかしら?」

沙希はそれに同意した訳ではない。ただ それ以上青山を説得できる自信がなく、生返事を返し 部屋を出た。肩を落としたままロッカールームに入ると、丁度着替えを済ませた桜田が口紅を直しているところだった。

「お疲れ様です」

元気な声に 反射的に背筋が伸び、笑顔が漏れる。

「あっチーフ。姉に連絡取れたんですけど、北海道にいました」

「そうね・・・」

とっさに こう答えた事に沙希自身気付いておらず、桜田の後の反応で ようやく自分の失敗に目が覚めた。

「あれ?知ってました?姉から連絡来ましたか?」

慌てた沙希が、またとっさの苦手な嘘を絞り出す。

「いや、いや。そういう意味じゃなくて・・・あの・・・何ていうのかなぁ・・・。何となくそうかなって・・・」

一瞬不審な面持ちで沙希を見ると、またすぐ気を取り直して、桜田は話を続けた。

「どうやら仕事も休んで、木村さんの事追っかけてったらしいですよ。この前の木村さんの嘘事件で ゴタゴタがあったかどうかは知らないですけど。北海道に行ってる事 親にも言ってないみたいで、仕事の有給使って もう一週間以上・・・。このまま籍入れちゃうつもりですかね」

「じゃ・・・いつ戻るかも分からないんだ?」

少々眉をひそめて、桜田が頷いた。それと同時に、沙希の心にもまた一つ影が落ちた。


  日曜日、兄とみのりの一粒種 星夏を見に、沙希は二人のマンションを訪れていた。兄の純平は 日曜日でも関係なく仕事に出掛けていて、赤ん坊と二人っきりの淋しい生活だからと みのりは沙希の訪問を歓迎してくれた。『まだ寝てる時間が殆どの星夏と二人の生活だと、ろくに口も利かずに一日が終わる事も珍しくないのよね』と笑いながらみのりが言い、アイスティーを差し出した。それに一口口をつけ、グラスの中で氷がカランと涼しく響いた時、みのりが思い出した様に切り出した。

「そういえばね、私の友達で エステに行きたいって言ってる子がいるの。だから沙希ちゃんの事少し話しておいたら『そのエステに行ってみたい』って。その子世田谷に住んでて、職場も新橋で都内なんだけど、沙希ちゃんとこのサロンって 横浜だけなのよね?」

「うちの姉妹店が都内に一つあるから、そっちの方がいいかな?」

今となっては みのりまでが気に掛けてくれる事に、後ろめたさを感じずにはいられなかった。

 そんな時、突然のチャイムにみのりが玄関に出てみると、やはりそこには突然の訪問者が訪れていた。

「どうしたの?急に。あ、丁度今 沙希ちゃんも来てくれてたの」

そう玄関で話すみのりの声に、沙希は耳を澄ませた。

「姫の顔でも見せてもらおうと思ってさ、ふらっと来ちゃったよ。どうせ居るだろうと思ったから、電話もしなかった」

聞き覚えのある懐かしい声に、沙希は少々鼓動を早めた。笑顔のみのりに先導されて現れたのは、由美姉だった。

「由美姉?!久し振り」

「おう!・・・元気にしてた?」

こんな挨拶を交わしていても、お互い心の中では 昔とはすっかり違う距離を感じていた。

「すっごい偶然だねぇ、二人共。あれからは?会ってないの?」

みのりの問いかけに、すぐさま由美姉が返した。

「あんたの結婚式以来だよ。ほんとアレにはびっくりしたねぇ」

「でも二人共、きっと本当に縁があるのよ。この間にしたって、今日にしたって」

何も知らないみのりは、冷蔵庫から氷を取り出しながら朗らかに言った。

 夕方、みのりのマンションを共に出た後、駅までの道のりを 並んで歩きながら、まず声を発したのは由美姉の方だった。

「彼氏とはどうよ。上手くいってる?」

「別れたんだ」

「どうして?」

その由美姉の言葉を最後まで聞かずに、沙希は調子を強めた。

「由美姉。・・・大地とは・・・時々連絡取ってるんだって?」

本当は『どうしてあの時、大地の近況も居場所も知らないなんて言ったの?』そう言いたかった。しかし、それを胸の奥にしまい込んで こう言ったのだった。

「時々って言っても、ほんのたま~にだよ。・・・何?大地がそう言ってた?」

こくりと頷くのを待って、由美姉がストレートに切り込んだ。

「大地の事、思いっきり引きずってんでしょ?どうなってんの?」

大地からは何も聞いていない様子の由美姉に、沙希はポツリポツリと口を開いた。

「由美姉だから話しちゃうけどさ・・・」

千梨子と自分の関係や 大地との4年ぶりの思わぬ再会、そして己の心の葛藤など 事細かに話をした。今の状況がどうであるかまで しっかりと聞き終えると、不安気な沙希に 火に油を注ぐ様に由美姉は言い放った。

「男ってずるい生き物だからね」

予想に反する返答に、沙希は思わず耳を疑った。

「沙希ちゃんには痛い現実かもしれないけど、大地 本当に千梨子ちゃんの事大事に思って、そりゃ真剣に結婚考えてたんだ。沙希ちゃんの事も・・・言いにくいけど・・・とっくに吹っ切ってたし。だから、千梨子ちゃんを手放すなんて あり得ないよ。だけどさ、昔の彼女に『まだあなたの事忘れられません』みたいな事言われたら、そりゃ誰だって悪い気しないでしょ?上手く繋いどいたら、こっちでも少し息抜き程度に遊べるかな~みたいにさ」

大人しく聞いているには耐えがたい内容に、沙希は声を荒げた。

「大地はそんな人じゃないよ!」

思わず立ち止まる沙希につられる事なく、由美姉はまっすぐ前を見たまま 冷やかに続けた。

「信じたくないだろうけど、大地って、もう沙希ちゃんが思ってる様な程 純な奴じゃないよ」

『もう』というフレーズに、沙希は返す言葉を失った。

「所詮大地も、そこら辺の男と一緒って事。大地とは長い付き合いだから、あんま こんな事言うのも嫌だけどさ。だから余計、沙希ちゃん見てると可哀想になっちゃって。大地の都合の良い女になんかならないで、もっと良い人幾らでもいるでしょ?わざわざ自分で自分の価値下げる事ないのに・・・」

暫く奥歯を噛みしめた後、拳を握りしめて沙希が言った。

「せっかく由美姉がそう言ってくれても・・・私の気持ちは止められないんだ。・・・ごめんね」

ようやく辿り着いた駅で 改札を入ろうとした時、由美姉が言った。

「人の物 横から取る様な事したら、今度は自分が同じ事されるんだよ。人を悲しませた分、自分も後で泣く事になるんだ。この世の中って、巡り巡ってくる様になってるんだって」

この言葉が、沙希にはとどめにも似た響きを持っていた。

その帰り、沙希は一人電車に揺られながら、様々な思いを巡らしていた。初めは頑なに(由美姉の言葉なんか信じない)と突っぱねていた気持ちも、次第に暑い夏の日の陽炎の様に溶けていった。小樽で二人っきりで会った後『信じていいんだよね?』の問いかけに頷かなかった大地が、『また来てもいいかな?』で首を縦に振った現実。横浜のマンションの屋上で『大地の為なら仕事も辞められる』と言った沙希を 引き止めた大地。あの時は見えてこなかった事が、由美姉の言葉によって浮き彫りになる。昔は待ち合わせの時間に お互いに必ず早く着いていたのに、この2回共 約束の時間よりも遅れてきた大地。『もう』この四年で大地は変わってしまったのかもしれない。私が見ているのは昔の大地で、今の大地ではないのかもしれない。そして変わったのは大地の人間性だけでなく、心の中に居る人も。大地が今心の瞳でまっすぐに見ているのは、やはり千梨子さんで、だから仕事を休んでまでも追いかけていった彼女を 一週間以上受け入れているに違いない。きっとそれが大地の答えなんだ。・・・・・・その結論に達した時、丁度沙希は家の門の前に帰り着いていた。


営業時間終了後に、沙希は店長の青山に呼ばれていた。

「この間の気持ち、変わりはない?」

先日と違い 心の中に迷いはあったものの、今更出した手を引っ込める事も出来ず、黙って沙希は頷いた。

「そう・・・。次の人探す関係もあって、最終確認。・・・で、いつまでは続けてもらえそう?急ぐ?」

今更ながら後戻りが出来なくなってきた事に(本当にこれでいいの?)という焦りに似た感情が湧き上がる。しかし沙希の口から出た言葉は、実に常識的だった。

「そちらの都合に合わせます」


 次の朝、サロンの予約表を確認しながら桜田が言った。

「おう!今日はチーフファミリー一色ですね」

「ファミリー・・・?」

首を傾げていると、桜田がいつもの様に明るく笑いながら言った。

「チーフの営業の甲斐あって開拓された方達の予約が集中してるって意味です。何だかいいなぁ、そういうの。自分で営業して、その人を一から綺麗にするのって、そりゃぁ やりがいありそうですよねぇ。私もやってみようかなぁ、営業・・・」

桜田の何気なく言った言葉で、沙希はその日一日憂鬱なスタートを切った。

 確かにその日は そんな予約が多く、新丸子のビデオ屋の店長の奥さんを皮切りに始まった。ボディベッドに横たわった花杉が、声を弾ませていた。

「先生聞いてよ。私海で水着着られる様にって頑張ってきたけど、昨日主人にね『痩せた?』って お腹のとこ見て言われたのよ。あの鈍感な人が気が付くなんて、私嬉しくなっちゃって。だからね、今度は昔履いてたスカートが又着られる様になるのを夢見て頑張ろうと思って。お願いしますね。先生だけが頼りなんだから、私」

いつもなら そんなやる気の奮い立つ様な言葉も、今の沙希にとても重く重圧をかけ、返事を返すのもやっとだった。

 そして午後には、びいどろのママがフェイシャルベッドでスチームを顔いっぱいに浴びていた。

「私にとったら、沙希ちゃんは自分の娘みたいでね。学生の頃にうちに来てくれたでしょ?何だか、うちから巣立って行った様な気がしてるのよ。だからこうやって娘が元気で自分の道を突き進んでるの見ると、すっごく嬉しいわ。親を安心させるんだから、沙希ちゃんは本当に親孝行よね」

「そんな事・・・」

大地を選ぶという事は、この店を辞めるという事。ここで培った経験や積み上げた信用を手放すと、自分には一体何が残るのだろう。そんな事充分承知していて、踏ん切りもついた筈なのに・・・。そして今のこの状態を、もし親が全て知ったとしたら・・・。あらためて自分のしている事が、なんと親不孝なんだと 肩を落とさずにはいられなかった。

 しかし兄も結婚し、そこには孫も生まれた。嫁姑問題も今のところなく、割合近くに住んでくれている。今特に大きな問題も抱えていない河野家・・・沙希は 母に話をしてみようと考え始めていた。しかし親に話そうにも、何一つとして確かなものも無く、ただ勢いや 止められない想いに引きずられる様にして仕事を辞め、この先の人生設計もままならない。そんな状態で親を説得する自信は、沙希には無かった。何か一つでも決定的なものを掴んだら・・・それが大地からのプロポーズであれば、沙希にとっては この上ない喜びだが、今の不安定な大地との関係を考えると、結婚を匂わせ重たい女にもなりたくないのだった。


 毎日不安な夜を過ごし、そのままそのトンネルを抜けられないまま朝を迎えるという繰り返しの中で、沙希は先日の由美姉の言葉を思い出していた。大地が自分との事を遊びだったとしても、『2番でいい』と言った筈だった。あの時は分かったつもりで言った『2番』という文字が、今は沙希の首を絞めつけていた。心や本能で 大地は自分を選ぶという変におごった気持ちがあった事をあらためて知り、醜い自分を今更恥じた。ずっと修也の二番でいた事にも、最後の最後まで気が付かなかった自分を 沙希は“めでたい奴”だと思った。そして沙希は、誰の一番にもなれない自分の価値に 深いため息をついていた。あの時大地に『二番でもいいから、大地と一緒に居たい』と言った気持ちは、確かに真実だった。しかし自分の吐いた台詞は綺麗事に過ぎず、承知して“2番”でいるには、そこには並大抵でない覚悟が伴わなければならない事に、その時初めて気が付いた。覚悟・・・。しかし、どうやって・・・。頭を抱えたまま、また夜は更けていった。


「お姉さん・・・もう・・・戻られた?」

そう桜田に聞きながら、公私混同して探りを入れているちっぽけな自分に、沙希は腹が立った。

「それが、大変な事になってるんです」

朝のロッカールームで、桜田が髪をまとめていた手を止め 話し始めた。

「まだ姉は戻ってきてないんですけど、父にバレちゃって・・・。父の怒りが私の方にまで向いてきちゃって・・・。『お前も一役買ってんだろ?』って。『連れ戻しに行くから住所教えろ』って、もう大変。ホント、修羅場ですよ。姉からは『絶対お父さんに居場所言わないでね』って念を押されるわで、板挟み状態なんです、今私。何だか、向こうでやる事が まだもう少し残ってるんですって、言ってました」

桜田は言いながら、首を傾げた。

「駆け落ちでもするつもりですかね?あの二人」

沙希がドキッとする。

「でももう、それしかないですよね、こうなっちゃうと。私なんか、まぁそれでもいいかなぁ、なんて。そうでもしないと、あの父から解放されて二人っきりでラブラブの新婚生活なんて あり得ないですからね」

沙希の胸がざわつき始め、話をまとめようとした その時、桜田が付け加えた。

「それか、極秘でむこうで結婚式挙げてきちゃうとか。あっ!だから『まだもう少しやる事が残ってる』なのか・・・。きゃー!かっこいい!木村さんもやる時はやるんだぁ」

すっかり思い込んだ桜田は、もうスピード全開 止まらなくなっていた。

「この前の嘘事件で ちょっと心配したけど、損しちゃったみたい。あの事できっと喧嘩になったけど、喧嘩がきっかけで かえって盛り上がっちゃう事ってありますもんね」

妙にわくわくする桜田の肩にポンと手を乗せ、作り笑顔を見せる沙希の目は、すっかりうつろになっていた。そして、

「ほら、そろそろ時間よ」

そう促して、一足早くロッカールームを後にした。


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