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輝けるもの(下)  作者: 長谷川るり
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第4章 進み続ける過去の時計

4.進み続ける過去の時計


5月の爽やかな風が海を渡り、正に五月晴れというに相応しい日曜日、横浜のとあるホテルで ゆかり達の結婚披露宴が予定通り執り行われた。神前式の挙式の後、その白無垢のまま 披露宴に二人は姿を現した。お互いの親戚の他 会社関係や友人知人を含め、総勢90名近くの出席者の中 厳かに開宴される。色打掛と最後にドレスと 二度のお色直しを間に挟み、盛大に披露宴は進んでいった。沙希も考えておいたスピーチをメモした紙を手に握りしめ、緊張の中 正直どこかで胸に引っかかるものを感じていた。しかし今日、二人の並んでいる姿や 合い間合い間に言葉を交わす様子や笑顔を目にして、胸のつかえも どこかへ消えてなくなっていた。安心した気持ちと、本当に純粋に『おめでとう』という祝福の思いいっぱいに なんとかスピーチも無事終える事ができた。そして、あっという間に両親への花束贈呈となり、披露宴はお開きとなった。会場を出た後、この日久し振りに再会した中学時代のテニス部の仲間と、早速二次会の話題で持ちきりとなる。

「皆、二次会行くでしょ?」

沙希も、皆と同時に頷いた。

「私、着替えてからいくわ」

他の二人も『私も』と、クロークに荷物を取りに行く。残された沙希を含めた3人が ロビーのソファに腰を下ろし、着替え組を待つことにした。

「ゆかりのあんな緊張した顔、初めて見たね」

「中学ん時のテニスの試合の時だって、あんな顔した事なかったのにねぇ」

「ゆかり いっつも『なる様になるでしょ』って笑ってコートに立ってたもんね」

「そんなゆかりが結婚だもんねぇ。何か信じられないよねぇ」

思い思いに話をしていると、一人の女性が こちらに向かって歩いてきた。

「河野さん・・・ですよね・・・?」

顔を知らない人に突然話し掛けられ、戸惑い気味に返事をしながら、背もたれに寄り掛かっていた上体を起こす。

「私・・・雨宮里子です」

顔も知らない上に、名前も聞いた事がなかった。益々不思議な顔になっていく沙希と、それをあとの2人が黙って見守っていた。

「あの・・・ゆかりちゃんと、昔同じ会社で働いていて・・・」

その女性の年格好から、沙希はとっさに 以前ゆかりが話していた“入社した頃から世話してくれた先輩”で、『女は二番目に好きな人と一緒になる方が幸せ』と明言した張本人だとピンとくる。しかし、その人が何故 今自分だけに挨拶に来るのか、沙希には全く見当が付かず、とりあえず立ち上がって 失礼のない様に挨拶をする。しかし そんなよそよそしい挨拶に、その雨宮と名乗る女性は 再び言葉を加えた。

「・・・覚えてないかしら・・・?」

沙希は、思いもよらぬ言葉に目を丸くした。そして、まじまじと顔を覗き込んだ。沙希の頭の中のファイルが 音を立ててペラペラとめくられたが、どれも素通りをするだけだった。そんな呆気に取られた表情を見て、雨宮が言いにくそうに口を開く。

「あの・・・」

先程までのにこやかな面持ちも 少しうつむき気味になり、そしてやっと出てきた言葉は 沙希をもう一度驚かせた。

「以前・・・桜井のマンションで・・・一度だけお会いしましたよね・・・?」

沙希は記憶の糸を辿ると、目の前の雨宮の黒いロングドレスと あの夏の日の黒いワンピースが重なって見えた。思わず言葉を失う沙希。そしてそこから ただならぬ空気を感じ取った他の二人も、身動き一つ取れぬまま 成り行きを見つめていた。

「驚かせちゃってごめんなさい。たださっき スピーチされた時に 私もハッとして・・・。お声掛けようかどうしようか迷ったんだけど・・・知らん顔するのも、何となく気が引けて・・・」

その時、着替えを終えた3人が戻ってくる。しかし何やらただならぬ雰囲気を察し、立ち尽くす。

「ごめん。先・・・行ってて」

沙希が皆にそう言うと、他の五人は言われるままに その場を立ち去っていった。

「ごめんなさい。・・・邪魔しちゃったみたい・・・」

「いえ・・・」

ぎこちない会話は、誰もどうする事もできなかった。

「ちょっと、お話させてもらっていいかしら?」

『今更何の話を?』そんな本音を内心抱え、少々警戒気味に 並んでソファに腰を下ろした。するとまず雨宮が、開口一番笑ってこう言った。

「私の事、悪い印象しか残ってないでしょ?」

「そんな事・・・」

しかし、それ以上言葉は続かなかった。そして、暫し沈黙の時が二人を包み込んだ。そこで思い出した様に、沙希が顔を上げる。

「ゆかりが入社した時から凄くお世話になった先輩って・・・雨宮さんの事ですか?」

「入社当時から確かに知ってるけど・・・お世話したかなぁ・・・?」

謙遜気味に首を傾げてみせる雨宮に、もう一つ質問する。

「『二番目に好きな人と一緒になる方が 女は幸せだ』って言ったのも・・・雨宮さんですか?」

すると何やら雨宮の表情が、みるみるうちに雲行きが変わってくる。そして 俯いていた顔を少し上げ、遠い目でこう呟いた。

「あの時は、そう信じてた・・・」

「あの時は・・・?」

雨宮の言葉を繰り返しながら、沙希の胸が急にざわつく。

「桜井からどう聞いてるか知らないけど・・・私、昔桜井と別れた後、他の人と結婚したの。その時は、本当にそう信じてた。・・・『信じようとしてた』・・・の方が正しいかもね」

むきになる気持ちを抑えながら、もう一つ問い掛けた。

「今は・・・そうはお思いにならないんですか?」

返事によっては殴りかからんとばかりの勢いが、沙希の中で沸々と沸き起こってきていた。しかし、淡々と話を続ける雨宮。

「私・・・結局離婚したのよ。それで又・・・桜井とよりが戻ったの」

そこで、沙希の顔をちらっと見てから続けた。

「だから・・・やっぱり『二番目』なんて、自分の選んだ妥協人生を正当化しようとしてただけだったのね。桜井とも・・・きっと近い内・・・一緒になると思う。私にとって彼は、いつでも特別な存在だった訳で・・・自分の気持ちに正直に生きたら、こうなっちゃったの。桜井も・・・そんな私を受け入れてくれた」

そこまで聞いて、やっと台詞が途切れるのを待って 沙希は声を上げた。ゆかりの あの喫茶店での顔を思い出すと、もう居ても立っても居られなくなっていた。

「ひどいじゃないですか!そんな自分ばっかり勝手に・・・」

優雅なBGMの流れるホテルのロビーで、沙希の声が高い天井に僅かに響いた。それに驚いた沙希は口を閉ざし、また雨宮も 表情を凍らせた。

「河野さんも・・・まだ桜井の事・・・?」

その言葉に沙希はハッとする。そして慌てて首を横に振って 言葉を足した。

「ゆかりの事です。あの子・・・雨宮さんのあの言葉に影響されて、結婚決めたんです。今更『あれは違った』なんて・・・随分無責任じゃないですか」

少しの間 押し黙っていた雨宮が、まっすぐに沙希を見て言った。

「じゃ、河野さん。あなたは・・・自分が今まで口にした言葉 全てに責任を持って生きてるって・・・言い切れるんですか?」

穏やかな顔つきからは想像もできない程鋭い台詞だった。さすがに この問いかけに反論できる筈のない沙希をもう一度見ると、雨宮が言った。

「ゆかりちゃんは大丈夫よ。今日凄くいい顔してた。それに・・・今日の新郎の彼が、もう ゆかりちゃんの中で一番になってるわよ」

何を根拠に、そんな自信満々で言い切れるのか・・・沙希には分からなかった。だからかえって、雨宮に対しての反発心が大きくなる。

「河野さんは・・・お友達思いなのね・・・」

そう言葉を残したまま、ソファから立ち上がる。

「ごめんなさい、お引き止めしちゃって。あ・・・この後、桜井が迎えに来てくれる事になってるんだけど・・・会ってく?」

「いえ・・・。友達を待たせてますので」

頭を下げると足早にロビーを突っ切り、ホテルを後にした。

 目の前の道路を渡った所で沙希が振り返ると、丁度雨宮がエントランスの自動ドアを出てきたところだった。そのまま、目の前に停まっているシルバーのBMWの助手席に乗り込んだ。沙希の位置からは あまり良く運転席が見えず、桜井の姿を確認する事はできなかったが、沙希の知っている頃とは すっかり車も変わり、まるで別人で 遠い存在の様に感じられた。沙希の頭のどこかで、自分を引きずってフランスに行った彼が、今でも心の中に沙希の面影を持っているものだと思い込んでいた高飛車な自分がいる事に、初めて気が付く。最後に『桜井に会っていく?』と言った雨宮の余裕が、何故か癪に障る。色々な思いが錯乱する中、沙希は彼女の言った『いつでも彼は特別な存在だった』という言葉に、心を大きく揺さぶられていた。


 その晩家に帰るなり、何やら引き出しの中をゴソゴソと探り、一冊のアドレス帳を見つけ出す沙希。そして 当時大地が新丸子のアパートに住んでいた頃の番号を、懐かしく眺める。大地にメキシコ行きを告白されてから5年という歳月が流れていた。あの後、あそこのアパートには すぐに大地の友人の弟が入った筈であった。そんな事もあり、電話はそのままにしていくと言って 日本を離れて行った記憶が甦る。この番号は、まだその弟が使っているのだろうか。彼はいまだに あのあおい荘203号に住んでいるのか?大地と繋がるには、もう沙希にはここしかなかった。藁にもすがる想い・・・と言ったら大袈裟かもしれないが、それに似た気持ちと あと半ば勢いも手伝って、気が付くと手に受話器を持っていた。ひたすら懐かしく 見慣れた番号をプッシュすると、暫くして呼び出している音が耳に届く。『現在使われておりません』という悲しいアナウンスでなかった事に ホッと胸をなで下ろすと、ガチャッと向こうで受話器を上げた音を 待ってましたとばかりに聞きつける。電話の向こうから聞こえてきたのは 紛れもなく男性の声で、歳もそう遠くはなさそうだった。

「木村大地さんのお宅・・・ですか?」

違うと分かっていながら、あえて そう聞く事しか沙希には出来なかった。

「違います」

100%に限りなく近い確率で そう返事が戻ってくる事を覚悟していたが、やはり実際耳にすると、心が萎えた。しかし次に何と言っていいのか、このまま引き下がる訳にはいかず、メキシコに電話した時と同じ様に『彼を知っていますか?』と恥を承知で聞いたらいいのか、さっきまでの沙希の中でのシナリオは すっかり白紙になってしまっていた。

「やっぱり違いますよね、もう・・・」

思わずこんな言葉が 沙希の口から漏れる。しかし それが功を奏したのか、何やら電話の相手は話し始めた。

「僕の前に ここに住んでたのが、木村さんでしたけど・・・?でももう、だいぶ前の事ですけど・・・」

沙希は心の中で『ビンゴ!』と叫ばんばかりにガッツポーズをして、自分にも運が向いてきたと 勇気が湧いてくる。

「私・・・彼の・・・昔の知人なんですけど・・・どうしても連絡を取りたくて・・・。でも、メキシコに行ってる間に音信不通になってしまって・・・探してるんです。この番号も、彼が日本を発つ時に 彼の友人の弟さんに そのままお部屋ごと使って頂くって・・・」

「それが・・・僕です」

この辺、沙希は正直 自分で何を喋っているのか 覚えてはいなかった。

「彼が今どこにいるか・・・ご存知ですか?もし良かったら、教えて頂きたいんです」

とにかく必死だった事だけしか覚えていない。しがみつく様に、又言い方を変えたら“すがりつく様に”、電話の彼に懇願した。

「いや・・・僕も・・・直接の知り合いじゃないんで・・・。でも・・・兄が前ちらっと言ってたのは・・・」

沙希は無我夢中な自分をしきりに落ち着かせ、耳を澄ませた。

「メキシコを引き上げて・・・北海道の実家に戻ったとか・・・言ってました」

沙希はすかさず言葉を返した。

「ありがとうございます。それで・・・北海道の連絡先とかは・・・」

「いや・・・そこまでは僕も・・・」

肩を落としかけたその時、電話の向こうが 僅かにざわつく。

「あれ?もしかしたら・・・あ、ちょっと待って下さい。連絡先聞いてたかもしれない」

一転して 意外な答えに、沙希も期待を膨らます。

「そういえば、何かあった時の為にって 教えてくれていた様な・・・。それを書いた紙が 確かこの辺に・・・」

ガサガサゴソゴソいう物音が、受話器の向こうで大きくなる。そしてついに、

「あった。これだ。・・・これです。北海道小樽市・・・あ、電話番号でいいんですよね?」

こうしてやっと 大地の居場所が分かったと同時に、沙希の手元に011から始まる連絡先が届いたのであった。確かに念願が叶った訳だが、それよりも何よりも、無事にメキシコから帰国していた事に、沙希は大きく安堵していたのだった。


 新丸子のレンタルビデオ屋の自動ドアが開き、男が一人入ってくる。

「いらっしゃいませ」

いつもの様に 店員がそう声を発する。するとその男は カウンターに直行し、中にいる店長に声を掛けた。

「おう!木村。久し振りだなぁ。どうした?」

「ご無沙汰してます。ちょっと仕事で こっち出て来てたもんで、ご挨拶に・・・。お元気ですか?」

大地と店長が そう挨拶を交わすと、店長がカウンターの中へ『まあ入れや』と手招きをする。

「新しい仕事の方はどうだ、調子は?」

「まぁ、ぼちぼちやってます」

「俺も何か力になれる事があればなぁ・・・」

そんな会話のやりとりの後、店長が思い出した様に 一つのノートに手を伸ばす。

「木村が前 お薦めだって言ってた、ほら、“シルク・オブ・ライフ”。あれ入れて当たりだったよ。結構レンタル需要あるんだよなぁ。ほら」

店長の広げたノートには、ビデオ毎に毎月のレンタル数の集計と レンタルした人の名前がずらりと載っていて、“シルク・オブ・ライフ”の欄に大地が目を通す。

「へぇ、こんなに出てるんすねぇ。・・・やっぱ女性が圧倒的に多いかぁ・・・」

すると その時、大地の目に“河野沙希”の名前が飛び込んでくる。

「これって・・・俺の知り合いと同姓同名なんですけど・・・」

ノートを覗き込んで、店長が答えた。

「あ、確かこの人・・・割合最近だったと思うよ。新しく会員証作って借りてったと思ったけど・・・?」

今度はレジ脇のパソコンを開いて、河野沙希を検索する。そして出てきた画面を大地に見せた。

「知り合い?」

「・・・そうっすねぇ・・・。ま、でも昔の・・・」

大地は言葉を濁した。

「近所の人かと思ったら、住所が横浜だったから 何となく覚えてたんだ」

暫く その画面を眺めていたが、大地はすぐにマウスを動かし ウィンドウを閉じた。


 その週の日曜、休日出勤から戻り 週に一度の家族との夕食を楽しみ 部屋に上がってくる沙希。そしてベッドの上で膝を抱え、メモを片手に 沙希の心の天秤は大きく左右に揺れていた。様々な不安や疑問が、後を絶たず次々と浮かんでくる。何故北海道に帰ってしまったのか?いつメキシコから戻ってきて、今何をしているのか?そして結婚は・・・。自分の年齢に 指折り三つ足してみる。30代の大台まであと一年を切った大地は、一体どんな人になって どんな生活を送っているのか?沙希の中で 不安よりも好奇心が勝った時、受話器の011のボタンを押していた。

「はい、木村です」

おっとりとした 優しそうな母親らしき声が、沙希の耳に飛び込んできた。思わず声が震えそうになるのを堪え、背筋を伸ばし 気丈に名前を名乗った。すると母が、すかさず腰の低い挨拶を返した。

「いつも大地がお世話になっとります」

電話に向かってお辞儀でもしているかの様な口ぶりで、まるで沙希の事を知っているかと思わせた。そして言葉は続いた。

「又いつでも遊びに来て下さいね」

それはとても心温まる言葉だったが、沙希の身に覚えがあればの事だった。先程の丁寧な挨拶も全て、母は自分の事を誰かと勘違いしているが故の事だったのだ。答えに困っていると、母が少し照れた様に笑った。

「あ、大地ね。丁度さっき帰って来たとこだべさ。ちょっと待ってて下さいね」

一体誰と間違えているのか 不安が膨らむ中、この空白の時間が沙希の緊張をあおった。

「もしもし。どうした?」

約四年ぶりに聞く大地の声だった。やっとこの声に辿り着けた喜びが、いまいち まだ信じられずにいた。

「もしもし?」

大地までが誰かと勘違いしたまま受話器に出てきた事に、なおさら沙希は 自分の声を発しづらくなっていた。

「あの・・・・・・河野です」

何故か申し訳なさそうに名乗る。一瞬凍りついたこの空間に沙希は、一気に逃げ出したい気持ちになっていた。そして あまりにも応答のない大地に、もう一度勇気を持って声を届ける。

「河野・・・・・・沙希です・・・」

一言も言葉を交わしてくれる事無く電話を切られたらどうしようと、不安が最高潮に達した時、大地の声がする。

「沙・・・希・・・?」

それは正に、“蚊の鳴く様な声”だった。

「突然ごめんなさい」

しかし沙希も、その後 言葉が続かなかった。大地も少々戸惑っている様子で、最初の元気はどこかへ行ってしまっていた。

「・・・びっくりしたよ。・・・久し振り」

やはりどこか他人行儀な態度に 仕方ないと思いながら、かけた事を沙希自身後悔し始めていた。

「さっきの・・・お母さんかな?『いつもお世話になってます。又遊びに来て下さい』って・・・誰かと勘違いされてたみたい・・・」

「ああ・・・。似た名前の・・・知り合いがいるんだ・・・」

切ないくらい度々沈黙が訪れる。

「無事にメキシコから帰って来たんだね・・・」

「あぁ・・・」

口数の少ない大地から、内心この電話をどう思っているのか察するのを、沙希には少々ためらわれた。

「どうしたの?急に」

やはりそう聞かれるだろうと、用意しておいた答えを返す。

「お兄ちゃんの結婚式でね、偶然・・・ほんと偶然 由美姉に会って・・・。それで・・・何となく・・・どうしてるのかなぁって・・・思い出して」

かける前に この台詞をそらで練習した時は 完璧と思っていた筈なのに、実際口に出してみると どこか不自然な気がしてくる。

「それで、ここの番号もあいつに聞いたんだ?」

「え?」

あの日コーヒーを飲みながら 大地の近況を知らないと言った由美姉が、沙希の中ではっきりと甦ってくる。

「由美姉とは・・・今でも連絡取ったりしてるの・・・?」

「あぁ。あいつとはずっと、なんだかんだ繋がってるな。ま、そんなしょっちゅうじゃないけど、たま~に電話したり そっち行った時は会ったりしてる」

何故由美姉があの時自分に嘘を言ったのか。沙希の中でぼんやりとした 輪郭の定まらない不安が、また一つ生まれた。

「こっちに来る事もあるんだ?」

「仕事でね」

「仕事?・・・今・・・何してるの?」

「知り合いの人と、ライブとかをプロデュースする会社を始めたんだ」

「凄いね・・・」

「全然凄い事なんかないんだ。メキシコに居た時に 仲良くなった日本人がいて、その人が『やらないか?』って声掛けてくれたんだ。その人は東京にいるし、やっぱり営業するのは都内がメインだから。月一位でそっちに行くんだ。俺はこっちを離れる訳にはいかないから、こっちで出来る事をやって・・・。まだやっと動き出したばっかりだから、今が正念場かな。頑張ってるよ」

「・・・言ってた通り、メキシコでの経験とかをステップにして頑張ってるんだね・・・」

嬉しい様な、反面 取り残されていく様な淋しさが、沙希の胸の中に共存していた。

「メキシコには・・・どれ位いたの?」

「結局・・・3年半位居たのかな・・・。いや・・・親父がさ、心臓発作で倒れたって聞いて 飛んで帰ったんだ。心筋梗塞だったんだけど、今は普通に家に居るんだけどさ、やっぱ仕事は辞めて・・・。だから・・・俺 一応ここの長男だからな、こっちに帰ってきたってわけ」

「そっか・・・。大変だったんだね。お父さん、今は・・・大丈夫なの?」

「今はね、落ち着いてるよ。だけどやっぱり寒くなると、ちょっと怖いね」

「お母さんも・・・心配でしょうね・・・」

「まぁ・・・な。でも、俺も帰って来たし、姉貴んとこも 時々孫連れて遊びに来てくれるしな」

「お姉さんのとこ、お子さん生まれたんだ?」

「男の子二人だよ。上のなんて もうすぐ3歳だし、家ん中走り回って もう大変だよ。一日中ギャーギャーギャーギャー二人でやってるよ」

そう言いながらも 子供好きの大地の顔がほころんでいるのが、受話器から聞こえてくる声だけで想像が出来た。

「じゃ すっかり、おじさんやってるんだ?」

すると大地も、笑いながら言った。

「あいつら俺の事、対等に友達だと思ってるからな、完全に」

映像が目に浮かぶ様で、沙希の気持ちも少しほぐれた。しかしそれも束の間、また一つ聞きたい事が胸を疼く。

「大地は・・・結婚・・・は?」

恐る恐る口にして、あとは祈る気持ちで返事を待った。

「いや、まだ・・・」

多少救われた様な思いを抱え、もう一つ質問する。

「予定とかは?だって・・・彼女・・・いるんでしょ?」

「あぁ・・・。でも・・・結婚の話は、具体的にはまだ決まってなくて・・・」

「そうなんだ・・・。じゃ・・・お互いにしたいなって思ってる感じ?」

「ま・・・そんなとこかな・・・」

精一杯平静を装い 気丈な声を発したが、沙希の動揺は 手の汗となって表れていた。

「沙希は?・・・彼氏いるの?」

この電話が始まって以来 初めての沙希に対する問い掛けだった。

「うん。まぁ・・・ね」

「そっか・・・」

心なしか 大地の声が気落ちした様に感じた。そのまま会話は滞り、五年前には気にならなかった無言の時が、今は沙希を 針のむしろに居る様な気にさせていた。お腹に力を入れ、あえて明るい声を作る。

「彼女って・・・そっちの人なの?」

やめておけばいいものを、何故か知りたくて 聞いてしまうのだった。

「いや・・・。東京の子」

「そうなんだ・・・。もう・・・長いの?」

「いや、まだ・・・一年も経ってないよ」

彼女の事を聞かれ 少し口の重たくなった大地を、沙希は敏感に感じ取っていたが、その真意は定かではなかった。

「上手くいくといいね」

思い切って こう言ってみる事にした。沙希の中でこの一言は、大変大きな賭けであった。すると大地も、こう返してくる。

「そっちもな」

確かに元気な言い方だった。しかし言葉の最後に 僅かに息が震えた様に思えたが、それは空耳かどうか 沙希には区別もつかなかった。そこで大地から 今日二つ目の質問がくる。

「沙希・・・ちゃん・・・は、仕事は順調?」

思わず耳を疑った。『えっ?』っと聞き返してしまいそうだった。『沙希ちゃん』というその呼び方に 愕然としてしまう。そして彼の無言の内に置こうとしている距離に、沙希もただ合わせるしかなかった。

「はい・・・」

胸がギュッと絞めつけられて、気を緩めたら涙が溢れて止まらなくなるところだった。

「木村さんも・・・お仕事頑張って・・・下さい。じゃ・・・」

これ以上会話を続けられる自信がなくなり、締めくくりの言葉を使うと、慌てて大地も同じ様に言った。

「あっ・・・じゃあ・・・」

そうは言ったものの、お互い何か釈然としないまま受話器を握りしめて、切るタイミングを窺っていると、やはり沙希の方が『待った』を入れた。

「あの・・・っ!」

「はい・・・」

「また・・・いつか・・・かけてもいいですか?」

『いつか』と入れたのは、沙希の精一杯の強がりだった。

「迷惑なら・・・もうやめます」

暫く黙った後、ようやく大地が口を開く。

「・・・その喋り方、やめない?『です、ます』なんて他人行儀な・・・」

沙希は単純にとても嬉しくなった。何よりも『他人行儀な』というフレーズが 心の隙間にすっと入り込み、心を温かくした。

「そっちが最初に言い出したんじゃない。『沙希ちゃん』なんて・・・」

素直に『そうね』と言っておけばいいものを、つい言い返してしまう。

「だって、もう彼氏がいるのに・・・悪いかなと思って・・・」

「そっちだって 結婚を考えてる様な彼女がいるから悪いかなって・・・私なりに考えたのよ」

沙希が昔の様に言い返すと、昔の様に『そんな事いいんだよ』等と返ってくるのを期待したが、現実の大地は違っていて 口ごもってしまった。

「そうだな・・・。やっぱり・・・考えた方がいいかもな」

その言葉を聞き、沙希が慌てる。

「私なら全然平気。こっちは全然気にしないけど・・・そっちは・・・やっぱり気にするか・・・」

「んん・・・。あいつがな・・・」

今更仕方のない事なのに、自分以外の人間が 大地の口から親しみ持って『あいつ』と呼ばれる事に、沙希はまだ慣れずにいた。

「そうだよ。そりゃ、彼女は気にするって。そりゃ そうだよ」

物分かりの良い、まるで友達みたいな口ぶりで 沙希はそう言った。

「でも・・・ま、名前位はしょうがないよな。慣れってのがあるし」

その一言に、ほっと胸をなで下ろす。

「彼女は・・・結構やきもち焼きなの?」

「ん・・・それもあるけど・・・とにかく淋しがり屋なんだよな」

「そりゃ、そうだよ。普段離れてるんだもん」

メキシコと日本の超遠距離恋愛時代を 懐かしく思い出す沙希。

「そっちこそ、彼氏はやきもち焼かないのか?こんな昔の男に電話して」

「いいの、いいの。うちらはお互い自由にやってるって感じだから」

つくづく物は言い様だなぁと、自分の言葉に感心していた。

 その日『またね』と電話を切ったが、その『またね』は一体いつなのか、沙希には分からなかった。


 いつものショットバーのカウンターで、浜崎の隣に沙希が座っていた。つまみのピスタチオの殻を剥きながら、沙希は 惰性で続いている様な二人の関係を あらためて考えていた。

「修ちゃんはさぁ、普段・・・私と会ってない時、思い出したりしてくれてるの?何やってんのかなぁとか・・・」

「どうしたよ、急に。珍しいじゃん、そんな事言うなんて」

浜崎は少々驚いた顔をしていた。

「別に、もっと『考えて!』って意味じゃなくて・・・ただ聞いただけ」

沙希の言葉に力はなかった。返事の無いまま 暫くグラスの中で氷の踊る音がした後、浜崎が言った。

「今度さ・・・また出張があるんだ。取材班と同行する事になったんだけどさ、それが北海道の札幌と小樽なんだよ」

今まで何となく聞いていた沙希のアンテナが、一気に反応する。

「北海道?」

「あぁ。夏の北海道はやっぱ人気だろ?だからそれに向けて、うちも特集組むらしいんだけどさ。その最終日に、沙希も北海道来いよ。旨いもんでも食って、一泊しようよ。年末年始にボツった、あの埋め合わせ」

沙希の心は 急にざわつき始めた。しかし、顔と声は冷静だった。

「覚えててくれたんだ。もうすっかり忘れてると思ってた」

「言ったろ?『この埋め合わせは必ずする』って。いいだろ、北海道。行った事ある?」

沙希が首を横に振った。

「行きたいだろ?沙希好きそうだもんな」

普段会っている時も、あまり沙希の事を色々聞いてはこない割に、沙希の好みを意外にも正確に把握している浜崎に、不思議なものを感じていた。

「修ちゃんは 女の子の喜ぶツボを心得てるよね。・・・だからモテるんだ」

浜崎が少々警戒気味に 沙希の顔を見る。

「なんか今日はやけにつっかかるな」

「ごめん。そういう意味じゃ全然ないの。ただ単純にそう思っただけ。・・・修ちゃんはカッコもいいし、お洒落だし・・・女の子の扱いも上手だし・・・。女の子の方が放っとかないの分かるなって・・・」

しかし それに何ら具体的な返事もなく、浜崎の開いた口から出てきたのは 旅行の件だった。

「出張の日程決まったら、また連絡するわ」

実際沙希の中に 浜崎に対する嫉妬や責める気持ちは これっぽっちもなく、かえってその事の方が、沙希には問題だった。


「それ自体が、もう終わってんだろ」

いつもの炉端焼き屋の座敷で、神林が 蛤を箸でつまんでそう言った。

「やきもちも焼かない様じゃ、男と女じゃねえよ。何で別れないの?」

沙希もその通りだと思った。首を傾げながら、虚ろな表情になる。

「何でだろ・・・」

沙希が冷酒を二口飲んで、また神林も 沙希の話を待つ様に、刺身の盛り合わせに手を伸ばす。

「一回、もう別れようと思ったよ。だけど・・・ずるいけど・・・修ちゃんと別れちゃったら私、本当に一人ぼっちになっちゃう気がしてさ。凄いずるいけど・・・」

「一人ぼっち?」

「この間友達の結婚式・・・あっ ほら、この前話した『二番目に好きな人と・・・』って言ってたあの子。あの子の結婚式で、偶然意外な人に再会してね」

沙希は 雨宮と初めて会った桜井のマンションでの事、そして先日の再会の一部始終を話した。

「その彼がフランスに二年間の出張に行く前にプロポーズしてくれたの。でも・・・21の私は・・・断ったの。別にその事を後悔してる訳じゃないんだけどね。その彼女と近い内に結婚するんだって」

何を言わんとしてるのか、神林は箸を止め 食い入る様に沙希を見つめた。

「まぁそれはそれで・・・。それよりもね、私にとって忘れ難い人って・・・前ちらっと話したでしょ?その元彼に、この間久々に電話してみたの。そしたら・・・『結婚を考えてる彼女がいる』って・・・言われちゃった。あれから何年も経ってるし、仕方ないっていうか・・・当たり前なんだけどね。当時は皆 私の事を凄く大事に思って いっぱい愛してくれたって思ってたけど・・・皆もうそれぞれ前に向かって歩き始めてるんだよね。何だか・・・私だけ取り残されてる気になっちゃって・・・」

「それで『一人ぼっち』かぁ・・・」

「修ちゃんはきっと・・・私だけを見てるんじゃないと思うし・・・。もう私を一番に考えてくれる人なんて居ないんだなって思うと・・・」

沙希は 最後の最後で言葉を濁すと、箸でお通しをつつく。そしてまた急に顔を上げて、ごまかす様に笑ってみせた。

「ま、今の私じゃ・・・しょうがないけどさ」

それを受けて 何か言い出そうと神林がゆっくりと身を乗り出した時、すかさず沙希が言葉を挟んだ。

「分かってるよ、自分でもずるいって。私の言ってる事も やってる事もおかしいって・・・筋が通ってないって・・・全部分かってるよ。だから尚更、自分が嫌になるんだよね・・・」

まるで『こんな私を責めないで』とばかりに 一方的に言い放つその姿が、神林の目には 一層深刻に映った。

「電話したっていう その元彼が、結局一番なんだ?だったら・・・後悔しない様に、とことんぶつかってみろよ。俺が同じ立場なら・・・絶対そうしてる」

「だけど・・・」

沙希はゆっくりと言葉を選ぶ様にして、由美姉の事を話した。

「何であの時私に『音信不通』なんて嘘ついたんだろうって ずっと考えてた。・・・やっぱりさ、大地が・・・あ、その元彼が・・・きっと今の彼女の事 凄く真剣に考えてるんだと思う。だから私に・・・邪魔して欲しくなかったんじゃないかな・・・」

ゆっくりと冷酒のグラスをテーブルに置く神林。

「自分にとって一番大切な事って何なんだよ」

そして一拍置いてから、また続けた。

「皆に対して、良い人になろうなんて無理だよ。それにさ・・・」

一瞬二人の間が静まり返った時、神林の声が 少々酔いの回った沙希の頭に響き渡った。

「決めるのは・・・その元彼だから」


 サロンの営業を終えた後、カルテの整理や書類のチェックをしている沙希の元へ 桜田が歩み寄る。

「あの・・・ちょっと・・・ご相談したい事があって・・・。今日この後・・・お忙しいですか?」

「どうした?今いいよ」

「いえ・・・あの・・・仕事の事じゃなくて、プライベートな事なんで・・・できれば外で・・・」

言いにくそうに下を向く桜田の顔が、珍しく曇っていた。桜田は とにかくいつも笑顔の印象があり、客にも『ひまわりみたいな人』とまで言われている。


 黄金町駅近くの手打ちパスタのお店へ、ラストオーダー30分前に二人は駆け込んだ。渡り蟹のトマトクリームパスタと きのことあさりのスープパスタを一つずつ注文すると、二人はまず水を一口飲んだ。

「プライベートの話って・・・何かあったの?」

おしぼりで手を拭きながら、沙希が単刀直入に聞いた。

「私 母子家庭だって、チーフ知ってましたっけ?」

桜田が高校生の頃 両親が離婚し、母親に引き取られた。そして3歳年上の姉は 父親に引き取られ、その後父が再婚し 姉は現在3人で暮らしていた。

「当時もう姉は短大を卒業して、丁度銀行に就職したばっかりだったんです。だから苗字が変わってもいけないからって 父方に。それで私は母方にって、別々に引き取られたんです」

想像以上に重たい話の内容に、沙希も気を引き締めた。

「その姉に今 付き合ってる人がいて、この間その彼氏を親に紹介したらしいんですけど・・・どうも父がその人の事、気に入らないらしくて・・・」

「どうして?」

「父は・・・頭が固いっていうか・・・いわゆる“厳格な人”って言われる様なタイプで・・・。だから大学卒業して、まぁ名の知れた企業にずっと転職もせずにいる事が素晴らしいと思ってる人で」

「違うんだ?その彼は」

「自営業なんですよね。私からしたら“青年実業家!!”って感じだけど、父にしたら『そんなの いつ潰れるか分からない』って。『そんな収入も不安定で生活の基盤が作れるのか』って。『そんな男に娘を預けられない』って・・・」

そこに、テーブルサービスと言ってガーリックトーストが小さなバスケットに四切れ盛られて テーブルに届く。

「お父さんも・・・心配なのよ。娘って、男親からしたら 格別の思いがあるらしいから」

「それにしたって・・・」

桜田はガーリックトーストを沙希に勧められ、一切れ手に取り 半分にちぎりながら言った。

「その彼っていうのが海外生活の経験があるんですけどね、その事を『風来坊と一緒』なんて言い方したらしいんですよ。大手企業の海外赴任なら認めるくせに、おかしいですよね」

「お父さんも、娘を取られるみたいで・・・淋しいんじゃない?」

沙希は、言葉を選びながら 慎重に話をした。そして話題は、問題の中心へと進んでいった。

「だから姉も、家を出るなんて言い出してるし。でもその銀行って・・・一人暮らしだめなんですよね。それで姉は『仕事も家族も捨てて、彼の所に行く』なんて言い出すし、父は父で、私に『姉の肩持つ様な事するな』って電話してくるし」

溜め息をつきながらガーリックトーストを口へ運ぶ桜田。

「肩持つって・・・何かしたの?」

「違うんです。お泊りとか・・・あるじゃないですか。そういう時、親に言ったら絶対ダメって言われるから、私の所に泊まるって事にしてるだけなんですけどね」

「彼には・・・会った事あるの?」

「はい、一回だけ。それがすっごく良い人で・・・。だから余計に 父に腹が立つんです。お姉ちゃんにはもったいない位の良い人。これ逃したら、もう一生出て来ないって思うから」

沙希もガーリックトーストに舌鼓を打ちながら、返事をした。

「仲良いんだ」

その言葉で、桜田は突然思い出した様に口を開いた。

「あっ、今度姉がサロンに来たいって」

「・・・見学?」

「いえ。コースで通いたいからって。でも姉は東京なんで 加賀美店長の方のサロンにって思ったんですけど、私の居る方がいいって・・・。今度予約取ってきます」

笑顔で相槌を打った後、パスタが運ばれて来る。そして暫く無言でパスタの味を堪能すると、再び桜田が言った。

「どうしたらいいんですかねぇ。私は姉に加勢したい気持ちでいっぱいなんですけど、そうすると父が 私とか母にまで文句を言って来て・・・。私達の穏やかだった生活まで掻き乱されるんです」

「お母さんは何て?」

「母は『自分がこの人と決めたんなら そうしなさい』って。父にそう言っても『あの男と会って話した事ないからだ』って、その一点張り。そうしてると、やっぱり父の再婚相手は 自分だけが蚊帳の外みたいで気分が悪いみたい。もう、あっちからもこっちからも 色んな情報が入ってくるのも考えもんですよね」

食後のコーヒーまで飲み干して店を出ると、沙希が桜田の方へ向き直った。

「ごめんね。何の役にも立てなかったみたい」

「今日はありがとうございました。チーフなら、色々こんな事でも親身に聞いてくれそうかなって思って・・・。私・・・すっごいチーフに憧れてるんですよ。5年後私もこんな風になれてたらいいなって・・・。でも・・・まだ自信ないけど」

そう言って、いつもの桜田の笑顔が満開になった時、沙希は思わず『ありがとう』とだけ言って、下を向いた。


「はじめまして、河野です」

桜田の姉が初来店した。しかし桜田はまだカウンセリングが充分にできない為、沙希の担当となったのだ。名刺を差し出しながら沙希が挨拶をすると、小柄で可愛らしい姉もぺこりと頭を下げた。やはり姉妹と思わせる程 笑顔はそっくりだった。カウンセリングシートを差し出し、

「こちらにお名前とご住所 ご連絡先をお願いできますか?」

目の前に出されたボールペンで、姉は名前の欄に“大野千梨子”と書き込んだ。間を埋める様に、沙希が話し掛ける。

「東京の方から、わざわざ大変でしたでしょう。特に今日は雨だったから・・・」

「いえ、今日はすっごく楽しみにして来ましたので。それに、妹の制服姿も見てみたかったし」

にこにこと話すその笑顔が、桜田と遺伝子が同じ事を物語っていた。

カウンセリングを終え フェイシャルベッドに横たわると、千梨子がスチームを顔いっぱいに受けながら口を開いた。

「私 本当は、ブライダルで通おうと思ってたんです」

「妹さんからチラッと伺ったんですけど、ご結婚が近い様で」

すると千梨子は 少し照れた様に、でもとても幸せそうに微笑んだ。

「そうなんです」

「おめでとうございます。羨ましいわ。運命の赤い糸の人と出会えて、将来を一緒に見られるなんて」

クレンジングジェルでマッサージをする沙希の手が、口元を過ぎるのを待って 返答する。

「あれ?河野さん、ご結婚は?」

「まだ、独身です」

「でも・・・素敵な人、いらっしゃるんでしょう?」

「いいえ、私なんか。それにまだまだ この仕事が楽しくてしょうがなくって、それを言い訳に ずっと一人かもしれないなって、最近思ってます」

冗談交じりに笑う沙希の目は、秘かに沈んでいた。スポンジでクレンジングを拭き取りながら、沙希が話し掛ける。

「結婚も近づいて、今が一番ラブラブな時じゃないですか?」

少々冷やかし気味に言うと、それに千梨子も乗ってくる。

「そうですね。彼もすっごく優しいし、愛されてるなって・・・な~んて、のろけちゃった」

軽く弾むような千梨子の笑い声が弾け、それにつられて沙希も顔がほころぶ。これが沙希と千梨子の出会いだった。


関東地方も ここ最近ずっとはっきりしない天気が続いていたが、とうとう気象庁から梅雨入り宣言が発表になった。そんな矢先のある土曜日、沙希はいつもよりも2時間早く早退し、その足で羽田空港へ向かった。そしてバタバタと搭乗手続きを済ませ札幌行きの飛行機のシートに腰を下ろし、ようやく一息つく。そして間もなく機内アナウンスが流れ、滑走路の上を動き出した。体は一週間の疲れを残し、リクライニングされたシートの背もたれに深く沈んで ひと時でも眠りに就きたがっていたが、沙希のはやる気持ちが そうはさせなかった。浜崎の小樽取材の日程が今日までで、沙希が北海道に着き次第 落ち合う約束になっていた。この話が具体的に浜崎から持ち掛けられた時、正直沙希は迷っていた。二人の関係を“惰性”と感じている今、一泊で旅行をする事の重みを改めて考えずにはいられなかった。もちろん浜崎は もっと軽い気持ちで、もっと軽いノリで、そしてきっと思いつきで口にしたに違いなかったが・・・。しかし『北海道小樽』皮肉にも行き先がここであった故、沙希は今機上の人となってしまっていたのだ。散々悩んだ挙句の決断だった。どんなもっともらしい理性も、『大地の生まれ育った町を見てみたい』この一念にはかなわなかった。しかし内心 そんな思いでいそいそと出掛けていく自分は やはり許し難く、また一つ沙希を苦しめる材料となっていた。

 そんな想いを乗せた飛行機は、東京の夜景を眼下に見下ろしながら 夜の空を飛ぶ事一時間半、新千歳空港に着陸した。(とうとう来てしまった)そんな気持ちが胸いっぱいに広がる。何度大地も この路線を使い、この空港のゲートをくぐった事か・・・。まるで先日、新丸子の街並みを懐かしみながら歩いた あの時と同じ目をした沙希が、そこにはいた。空港からは、外で待ってましたとばかりのバスが鈴なりに並んでいて、沙希は小樽行きのバスのステップに足を掛けた。様々な思いを巡らしながら、車窓から見える街の明かりへ目をやる。ふと気が付くと、窓ガラスに映る自分の顔が 虚ろな事にハッとする。そのまま沙希は窓に手を伸ばし、少々開けてみる。途端に耳元を抜けるひんやりとした風に、まるで学生の頃 部活の後に水道の水で顔を洗った様な爽快感を覚える。お陰で目の覚める様な思いで、初めて足を下ろした北海道の春の風を感じていると、いつか大地の言った言葉を思い出す。

『北海道はいいぞぉ。景色は広いし、空気は綺麗だし。連れてってやりたいなぁ』

しかしそれが実現したのは、大地と別れてから何年も経った現在で、既に大地には結婚を考えた彼女がいて、自分にも新しいパートナーが出来ていた。その彼に連れて来てもらうという 自分の運命の皮肉さに 沙希は苦笑いをするしかなかった。

 大地の言っていた通り、飛行機が着陸した時に思ったのは、やはり景色が広い事。そして窓から入り込む夜風は とても澄んでいて、そしてとても優しい香りがした。

 その時バッグの中で携帯が鳴る。浜崎からだった。

「ごめん。仕事ちょっと押してんだ。今どこ?もう着いた?」

「今バスの中。あと・・・30分位かな・・・」

腕時計を見ながら沙希が言った。

「また連絡入れるわ。とりあえずホテルに先に行って、荷物置いてきといて。その頃には もう一回電話出来ると思うから」

仕事の合間を見付けて掛けてきた様子が、手に取る様に伝わった。『浜崎さん、ちょっとチェックお願いします』という声が遠くですると、浜崎との電話は切れた。浜崎に言われた通りバスを降りると、そのままタクシーに乗り込み ホテルへ直行した。

 ベルボーイに案内された32階の部屋の窓からは、小樽の夜景が一望できた。遠くに揺れるガス灯が 幻想的に街を演出してみせ、沙希はまるでどこか違う世界にでも来てしまった錯覚に陥りそうになる。暫くそのまま立ち尽くして見とれていると、また携帯が鳴る。

「ホテル着いた?」

さっきより周りは静かだった。

「修ちゃん今電話、平気なの?」

「あぁ。ちょっと休憩入れたから」

そしてコーヒーをすすっている様な音を立ててから、浜崎が言った。

「夜景綺麗だろ?わざわざ見える部屋 選んだんだぞ」

「ありがと・・・」

それ以上言葉が出なかった。

「沙希、腹減ったろ?まだこっち、終われねぇんだよなぁ・・・」

「大変そうだね・・・」

「実はさ、一昨日撮った部分にミスがあってさ。全部撮り直してんだよ。皆 明日の帰りの便、チケット取っちゃってるしさ、もう今晩しかないんだよな」

「そうか・・・」

「年末の埋め合わせなんて言って 俺から誘っといて、本当悪いんだけど、今んとこ 全然目処が立たないんだ。まさか『彼女待たせてますから、俺お先します』って帰れねぇだろ?」

「そりゃ、そうだね。いいよ、気にしないで。私勝手にやって 待ってるから」

「悪いな。そっちに何時に行けるかも約束できないし・・・」

「平気。気にしないで仕事して」

『また電話する』と言って切れた電話をテーブルに無造作に置くと、沙希はベッドに横たわった。ぽっかり空いてしまった時間をどう過ごそうかと ぼんやり考えながら目をつぶる。仕事の疲れと 長旅の疲れから 一瞬うとうとした隙に、瞼の裏に現れた映像は、まだ大地と付き合い始めて間もない頃のものだった。

『俺はきっと北海道で生まれてなかったら、この名前も付いてなかったんだろうな。北海道の大地みたいにでっかい男になれって意味があるらしい。おやじとお袋の当時込めてくれた思いに、少しは応えられる男になりたいよな』

あの時の温かくキラキラした瞳、そしてそんな大地の傍で心が優しく満たされていくのを感じたあの日の事が、まるで昨日の事の様に思い出される。

 自分の回想なのか 夢を見ていたのか 区別のつかない状態から目を覚まし、真っ白い天井を見つめる。そしてゆっくりと起き上がると、携帯へと手を伸ばした。

「夜分失礼します。河野と申しますが、大地さんいらっしゃいますか?」

ゆったりとした口調の父親が返事をする。

「大地は今 仕事で東京に行ってまして、留守にしてるんですわ」

そう聞いた途端、沙希の頭の中では勝手に 大地が彼女と楽しく語り合う姿が想像されて止まらなかった。

「来週の水曜まで戻りませんですけど?」

「それじゃ・・・けっこうです」

多少訛りのある調子で、父は続けた。

「あの・・・どちらさんでしたっけ?もう一度お名前を・・・」

「・・・河野です・・・」

二度も自分の名前を名乗るのに気が引けて、少々小声になる。

「戻ったら伝えときますわ」


「大ちゃん、私この間言ってた話、本気だよ」

大地がマルボロの箱から煙草を一本取り出す。そしてべっ甲の柄のターボライターで火を点けるのを見届ける様にして、彼女が言葉を続けた。

「私、北海道に行く。仕事だって家だって・・・何の未練もない。私には大ちゃんより大事なものなんてないし、大ちゃんさえ傍に居てくれたら・・・それで幸せだもん」

ゆっくりと煙を吐き出しながら、大地が言った。

「だけど、お父さんにもきちんと認めてもらって・・・許してもらって・・・それからだよ」

「そんな事言ってたら いつになるか。もしかしたら私達、ずっとこのままかもしれないんだよ」

感情の高ぶる彼女をなだめる様に、あえて穏やかな調子で大地は言った。

「お父さんの言う事も・・・分かるよ。娘を心配する気持ち・・・分かんなくないし」

「パパの言った事、やっぱり気にしてるんだ・・・?」

心配と不安の入り混じった顔つきで、大地を覗き込む。

「ごめんね・・・」

涙が溢れ出そうな瞳に 大地は微笑みかけ、優しく頭を撫でた。

「千梨が謝る事ないって・・・。俺らの気持ちさえしっかりしてれば大丈夫だって。俺もお父さんに認めてもらえる様に頑張るから、ゆっくり二人でやっていこう」

そして大地は、両腕の中にすっぽりと千梨子を包み込んだ。千梨子にとっては何よりもの至福の時で、こういう場面で『ずっとこのままギュッとしてて』が口癖だった。

 大地の温もりの中で顔をむくっと上げ、甘える様な目で言った。

「今度千梨、ディズニーランド行きたい」

甘えた時 自分の事を『千梨』と呼ぶのも、口癖の様なものだった。

「そっか。じゃ今度こっち来る時は、土曜か日曜休み取れる様にスケジュール組んでくるから」

千梨子の『こうして欲しい』『こうしたい』に対して跳ねのけた事は、今まで一度もなかった。大地の返答に対して、千梨子が首を横に振った。

「来週、あと一日長く居られない?」

「木曜までって事?だって千梨、仕事だろ?」

「いいの、休む。有給残ってるし」

大地が少々困った顔になる。

「仕事は・・・行った方がいいよ。そんな慌てなくてもディズニーランド・・・」

すると遮る様にして 千梨子の唇が大地の口を塞いだ。そしてゆっくりと離れた後、千梨子が言った。

「だから言ったでしょ。私は・・・大ちゃんより大切な物はないって」


 静まり返ったホテルの部屋の中で一人で居ると、大地へのあらぬ想像が暴れ出しそうで、それを掻き消す様にテレビのスイッチをONにする。土曜の夜とあり、バラエティ番組や クライマックスに近付いた映画が流れていた。とりあえず映画のところでチャンネルを止める。暫くは頭に空白の時を作らぬ様 テレビへと神経を傾けるが、やはりいつの間にか 映画俳優の台詞はBGMへと化していた。(今頃大地は・・・)そう思うと、どうにもやりきれない思いで いっぱいになる。今更こんなやきもちなどお門違いなのは充分分かっていた。腰掛けていたベッドへ背を倒すと、その拍子に 以前神林の言っていた言葉がピョコンと顔を出す。

『人は無い物ねだりな生き物だからな』

『手に入らないと思うと余計に欲しくなるってもんだろう?』

沙希は自分の胸に手を当てて考えてみた。確かに、大地に対してこんなにも嫉妬心を燃やしたのは初めてだった。だがそれは、やはり神林の言う通り 人の性からなのか・・・。『そうじゃない』と主張する自分と『そうかもしれない』となだめようとする自分とが、尚一層沙希を苦しめていくのであった。しかし、どちらにせよ、勝手にそして足早に一人歩きする妄想は 止まるところを知らなかった。大地と寄り添う女の影。大地と親密そうに語り合い、顔を近付けて笑う二人。そして二人のキス。そして・・・。胸がザワザワしたまんま、いつしか沙希は眠りに落ちていった。


「沙希、こんな格好で・・・。ちゃんとベッドに入って寝ろよ」

「・・・・・・大地・・・?」

今仕事を終えて辿り着いた浜崎が、テレビもつけっ放しのまま ベッドカバーの上に横たわる沙希を揺り起こすと、寝言の様に沙希がこう言った。薄っすらと目を覚ますと、そこには疲れた顔の浜崎が立っていた。自分の今発した言葉を遠い記憶の様に思い出しながら、慌てて起き上がる。

「お疲れ様!ごめん・・・寝ちゃった・・・」

「いいけど・・・」

内心ドキドキしながら浜崎の様子を窺う。

「途中何度か電話したんだけど、出ないから・・・寝ちゃってんだろうなって思ってた」

「ごめん、ごめん。寝るつもりなかったんだ」

しょぼしょぼする目をこすりながら、腕時計で時間を確認する。針は3時52分を指していた。

「今までかかったの?大変だったね。無事終わったの?」

先程の失言を浜崎の耳から掻き消そうとする様に まくし立てた。

「結局夜できるのはここまでだったから。昼間明るい所で撮り直さなきゃいけないものもあってな。明日に持ち越しだよ」

まるで何事もなかったかの様な浜崎を 少々いぶかしく思いながらも、『大地』と言ってしまったアレは夢だったのかもしれないと考え始める。

「明日朝飯食ったら、また行かなきゃ。昼過ぎの便までに済ませないといけないからな。その後なら体空くけど・・・」

「大丈夫。心配しないで」

『疲れた~!』と伸びをしながら浜崎が言った。

「今日ほんと悪かったな。夜、飯何食った?」

「夜・・・?あ・・・何も食べないで寝ちゃった」

浜崎が驚くのと同時に、沙希もあらためてびっくりする。

「腹減ったろぉ?何か食うか?・・・って言っても、こんな時間じゃな・・・。本当はジンギスカン食いに連れて行ってやろうと思ってたんだ。明日はな、一応観光名所ってことでオルゴール堂行って、昼は旨い寿司屋でって思ってたんだけど、何だかパーだな」

笑顔で相槌を返す沙希に、時計を外し 寝る支度を整えながら浜崎がサラッと聞いた。

「こっちに知り合いとか居ないの?」

「えっ?!どうして?」

あまりにもそれが唐突に聞こえ、心臓が飛び出しそうな程沙希は動揺していた。

「もし居るんならさ、明日の午前中だけ 何とか時間キープしといてもらえないかって思って」

何の不思議もない発想なのに、過剰に反応する沙希が浜崎にはそのまま不自然に映った。

モーニングコールを6:30にセットすると、浜崎は壁際のベッドへと潜り込む。

「疲れたし明日も早いから 寝るわ。おやすみ」

そして沙希の方に背中を向けた。いつもの浜崎とは 何かどことなく違っていたが、その原因は自分にあるのか、それとも本人の言った通り 疲れたからなのか、沙希は分からないままもう一つの窓に近い方のベッドへと体を滑り込ませた。


 夏に生まれてくる初孫の為に ベビー用品を揃えようとデパートに行くと言う母に誘われ、沙希もついてきていた。ベビー服からベビーラック、ベビーベッドに至るまで ただ母は『懐かしい』の連発で、ウキウキと買い物を楽しんでいた。一息入れようと 疲れた足を休める為に、甘味処ののれんをくぐった。

 クリームあんみつと玉露茶のセットを前に二人共、笑顔がこぼれる。

「こういうの食べるの久し振り」

スプーンを片手に沙希がそう言うと、また母も同じ様に頷いた。

「懐かしいわねぇ。お母さん達が女学生の頃 帰りにこういう所であんみつ食べるのは、すっごく贅沢な寄り道だったのよ。お友達と色んなお喋りしながらね。楽しかったなぁ。好きな男の子の話したり、将来の夢を語り合ったり」

「お母さんは昔、何になりたかったの?」

「看護師。ずーっと看護師になるのが夢だった」

「じゃ、叶ったんだ。凄いね。一途なんだ、お母さんって」

「そうよ。沙希もそういうとこ、お母さんに似たわよね」

あんみつの寒天をすくおうとしていたスプーンが 思わず止まる。そして又母が続けた。

「一途って美しいわよ。例え方向が違ってても・・・一つの事に一筋に・・・って、お母さんは長所だと思ってる。でも、真っ直ぐだからこその悩みもあったけどね、若い頃は。ほら、お父さんとはお見合いで結婚して、他人と一緒に暮らすなんて初めてじゃない?だから・・・」

スプーンをくわえたまま母の言葉を遮って、沙希が口を挟む。

「えっ?お父さんとお母さんってお見合いなの?」

目を丸くする沙希とは対照的に、母は当たり前の顔で頷いた。

「そうよ。あら?知らなかったっけ?」

「・・・初めて聞いた。ずっと・・・恋愛結婚だと思い込んでた」

余裕の表情で笑う母。

「お見合いって言ったって、出会いはそうだったけど、デートするうちに段々好きになって それで結婚したんだから、恋愛結婚と同じ様なものだけどね」

母のそのひょうひょうとした言い方に変に納得してしまう沙希だった。また暫くあんみつに熱中する二人。そしてふと思いついた様に、沙希が顔を上げた。

「お母さんはどうして、お見合いしようと思ったの?」

そのストレートな質問が、母の記憶を30年近く巻き戻した。

「きっかけは・・・失恋かな」

母から聞く初めての恋愛話にドキドキし始める。

「ずっと好きだった人がいてね。その人が結婚したのよ」

一言でサラッと言い終えてしまう母に、沙希が突っ込む。

「気持ちは・・・伝えなかったの?」

「言えなかった。友達だったからね・・・余計に」

「じゃ、その人も知らないまんま・・・?」

母が首を傾げた。

「どうかしらね。その人に、結婚する前に相談された事があってね。お相手の方は親からの紹介だったみたいで、『結婚した方がいいかなぁ?』って。だから『良い人なら・・・いいんじゃない?』って。それから暫くして言われちゃったのよね。『結婚する事にしたよ』って。それで『中西も幸せになれよ』って」

“中西”という母の旧姓が、沙希には妙にリアルで切なくなるのだった。

「それって・・・その彼は・・・お母さんの事、好きだったんじゃないの?だから止めて欲しくって、相談したんじゃないの?」

「どうかしらね・・・」

母はまた笑いながら首を傾げた。しかし否定もしないその言い方に、沙希は確信を強めると共に また一つ疑問が浮かび上がる。

「それでお見合いして、すぐ気持ち切り替えられたの?」

母はスプーンを置いて、お茶に手を伸ばす。

「・・・『女は二番目に好きな人と一緒になる方が幸せ』って言うけど・・・そういうとこあるかもね。・・・そう思ってたわ」

母の清々しい面持ちとは裏腹に、沙希は一瞬耳を疑った。母までがそんな事を言い出すとは 夢にも思っていなくて、戸惑う自分をしきりに宥めながら 声を発する。

「今でも・・・そう思ってる?」

祈る想いで耳を澄ませていたが、母の顔を見る事は出来なかった。しかし母の穏やかな口調は続いた。

「今は お父さんと一緒になって良かったって思ってるわよ。やっぱり私はこの人と一緒になる運命だったんだって思えてる」

それを聞くと、一気に沙希の心が軽くなる。

「そういうもんなんだ・・・。じゃ、もう全然思い出したりしないんでしょ?」

「思い出したりは・・・するわよ、たまに。本当たまにだけどね。結婚して随分経ってから、高校の同窓会があったの。そこで何十年振りに再会したんだけど、お互い良いおじさんとおばさんになっててね。むこうには3人お子さんがいて、お母さんも2人の子供に恵まれて、それぞれの人生を明るく精一杯生きてて。お互いに子供の話なんかしちゃったりしてね。だからもう・・・昔の綺麗な思い出として 残ってるだけよ。まぁ・・・青春っていうのかしらね」

母の口から出た“青春”という響きが、目の前に座る50代の母をセピア色に染めていった。果たして自分も この先、大地の事を“青春の思い出”と言えてしまう日が来るのか。沙希はいまだに自分の方向性を定められずにいた。


 梅雨のジメジメとした毎日が続く中、7時から千梨子の二回目の来店の予約が入っていた。フェイシャルベッドに横になる千梨子の頭にタオルを巻こうと首筋に手を伸ばした時だった。

「あら?ここどうなさったんですか・・・?」

薄い赤紫色のあざの様なものが 沙希の目に飛び込んだ。

「あ、それ・・・」

千梨子が照れる様に手で隠そうとした時、沙希の目にもそれが何だかはっきりと映った。

「あ、ごめんなさい。傷かと思って・・・」

「いえ・・・」

一瞬たち込めた気まずいムードを打ち破るかの様に、沙希はあえて茶化す様に明るい声を出した。

「ラブラブですね~」

すると恥ずかしそうに笑う千梨子が口を開いた。

「この間ディズニーランド行って来たんです。彼も忙しい人なんですけど、平日都合つけてもらって・・・会社休んで行って来ちゃいました」

「良かったですねぇ。平日だと、そんなに長時間並ばずに済みますもんね」

「そうなんです。結構空いてて、その日に限って晴れてくれたし・・・」

「じゃ、言う事ないですね」

そんな何気ないやり取りが続く。クレンジングと洗顔の拭き取りを終え、蒸しタオルを顔から取ると 自由になった口が再び動き出す。

「エステに行き始めた事、彼に言っちゃおうかなって思ったんですけど・・・やめました」

「どうしてです?」

「もう少しして、彼が気付いてくれるか待ってみようと思って・・・」

「じゃ、彼に気が付いてもらえる様に精一杯お手伝いさせて頂きます」

この時まだ沙希は、自分の言動の重さに気が付いてはいなかった。


 東京からとっくに戻り 沙希から電話があった事を聞いている筈の大地から 電話の一本も来ない事に、沙希はじりじりとした苛立ちを覚えていた。又それが彼の正直な気持ちなのかなと、心を倒してもいた。しかしどうしても待ちきれず、そんな欲望が『電話があった事すら聞いていないのかも』という都合の良い妄想まで作り上げる。・・・が、やはりそれは 沙希の“都合の良い妄想”に過ぎなかった。

「ごめん。電話貰ってたって?」

「あ・・・聞いてたんだ」

「あぁ・・・。でも・・・番号・・・分かんなくって・・・」

その一言に愕然とする。それは暗に、アドレスから沙希を抹消していた事を意味していた。言葉に詰まる自分を どうにかして振り払おうと、頭をブンブン振ってみる。

「あ、そうか。そうだよね。私、この間番号言わなかったし・・・。いや、別に連絡もらう程の事じゃないかなって・・・」

「・・・で、どうしたの?」

この間から この言葉を聞くと、『用がないなら掛けてくるな』と言われている様で、胸が苦しくなるのだった。

「この間、小樽にいたの。だから、もし居たら・・・ご飯美味しい所でも教えてもらおうと思って・・・」

さすがに大地の声の調子が変わる。

「こっち、来てたの?・・・旅行?」

「まぁ・・・そんな感じ」

「・・・彼氏と?」

思わず声に詰まる沙希。

「うん・・・まぁ。でも、むこうは仕事で あの夜も結局『仕事が押したから』って夜中までかかったみたいで。だから一人で・・・全然どこが美味しいとか分かんなくってね」

妙に言い訳がましく 不自然な自分を、沙希は自覚していた。

「何日位居たの?」

「次の日に帰った。仕事もあるし」

「彼氏って・・・何の仕事してる人なの?」

ドキッとした。彼の事を質問されたからではない。確かに、大地がこんな事を聞いてくるのは初めてだったが、沙希が大地の彼女の事を気になる様に、大地も自分の彼氏の事が気に掛かるのかもしれないと思いたかったからである。

「雑誌のエディター。編集をやってるの。今回は北海道の取材に同行したみたい」

大地の前で浜崎の事を話すのは抵抗があったが、沙希にも考えがあった。

「何かさっきから私の事ばっかり。大地の彼女の話も聞かせて。いくつの人なの?」

「俺の事はいいよ」

「なによ!もったいつけちゃって。いいじゃない、少し位話したって減るもんじゃないんだし」

まるで“友達以外の何者でもない”と言わんばかりの 全身から溢れ出すパワーで、言葉に息を吹き込む。あまりにカラッとした沙希の口調につられ、大地の口も少しずつ動き始める。

「25だよ」

「へぇ。何してる人?」

「・・・銀行に勤めてる」

しかし相変わらず口の重たい大地。

「この間東京に来てた時は・・・彼女とずっと一緒に・・・居られたの?」

正にこれこそ“怖い物見たさ”という言葉がぴったりだった。

「俺も仕事で行ってるから。でも、まぁ顔を見ない日は無かったかな・・・」

「そう、良かったね。普段離れてるから、近くに行った時くらい いっぱい安心させてあげなくちゃ」

「そう思ってる。特にあいつ、結構淋しがり屋なとこあるから・・・」

沙希の調子につられ、大地までもが段々と正直に語り出す。

「さっき羽田で別れてきたばっかりでも、『淋しい』って電話してきたり、突然夜中に『不安になっちゃった』って掛かってきたり。・・・・・・沙希もそうだった?」

「さぁ・・・どうだったかなぁ・・・。もう昔の事だもん、忘れちゃった」

とっさにとぼける事しか、沙希には出来なかった。

「沙希と別れた後、色々考えてて分かったんだ。沙希は、小さいけど沢山俺にシグナルを送ってたんだなって。でも俺がすぐに気付いてやれなくて。あん時は 自分が生きてくのに必死だったから。だから今回はそうならない様にって、極力 気持ちとか時間とかをあいつの為に割くようにしてる」

この会話が電話で良かったと、沙希はつくづく思っていた。顔が引きつって上手く喋れない事など、大地は知る由もなかった。

「沙希には本当 辛い思いさせて、悪かったと思ってる。ごめん」

「何よ、今さら・・・」

笑い飛ばして見せる沙希は、奥歯をぐっと噛み殺していた。

「でも、沙希には仕事があっただろ?それって強いよな。あいつ、仕事も何もかも 俺の為に捨てられるって言うんだ。そういうとこが、何か こう・・・線が細い感じっていうか・・・。あいつ、両親が離婚してんだ。それと関係あるかどうか分からないし、前の恋愛の傷かもしれないんだけど、俺と居てもさ、どこか いっつも不安そうな顔してんだよな。いつの間にか、どっか遠くに離れてっちゃうんじゃないかって思ってるみたい」

気が付くと、いつの間にか すっかり大地と彼女の恋愛話の良い聞き役になっていた。微妙に震える唇を抑える様にして、沙希が口を開いた。

「彼女は素直な人なんだね。大地も・・・甘えられる男って事だ」

「そう・・・だな。男としては、やっぱ・・・必要とされてる実感ってのは 嬉しいもんだよな」

そこで沙希は、一つの賭けに出た。

「私と居た時には、味わえなかった感情でしょ?」

答えに媚びない様、出来るだけ明るく 冗談ぽく言い放った。すると大地は、

「あいつと沙希は・・・タイプが全然違うからなぁ」

『そんな事ないよ』という沙希の心の叫びは、ひたすら沙希の中だけで こだまし続けていた。

 大地との電話を終えた後で、声を殺し 溢れる涙を拭いながら、どうにもやりきれない切なさと戦っていた。しかし 自分が一線引く事で、こんなにも自然に大地と話が出来るならと、沙希は 自らの想いを封印する覚悟を決めた。


 珍しく日曜の午後、浜崎から連絡が入る。それは、

「これからドライブでも行くか?」

というデートの誘い以外の何物でもなかった。降りしきる雨の中、湾岸道路を黄色いMRⅡがしぶきを上げて 飛ばしていった。

「珍しいね。昼間に会うなんて、私達」

沙希にとっては やや倒し気味の助手席のシートに沈みながらそう言った。

「ここんとこ ずーっと雨だから、車でも飛ばしてスカーッとしたいと思ってさ」

そしていつしか話題は、先日の小樽旅行に移っていた。

「3時間位だったけど、一応観光めいた事してやれて 本当良かったよ。あのまんま仕事に押されて帰ってたら、一生お前に恨まれてたな」

「そんな事ないけど・・・。でも、あれでグッと旅行っぽくなったね。ありがとう」

「証拠写真一枚も残ってないけどな」

「ほんと。オルゴール館の前で皆撮っててさ、『シャッター押しましょうか?』って言われて、修ちゃんが『カメラ持ってないんで』って言ったら、びっくりした顔されちゃったもんね」

さっきから のろのろ走ってた前の車を、スムーズなハンドルさばきで追い越す浜崎。

「修ちゃんの運転見るのも、久し振りだね」

「そうだな、そう言えば」

「この車も、こんなんだったっけ?って感じ」

無造作に、目の前のダッシュボードに手を掛ける。

「確かさ、ここにCD入れてなかったっけ?」

開けると、中にはsalem lightの煙草が一箱入っていた。周りのフィルムがない事から、新品でない事を悟った。

「あれ?これって・・・」

もちろん浜崎の買う銘柄とは違っていた。何気なしにその煙草に手を伸ばし、少し持ち上げたところで 沙希は再び目を疑った。ころんと転がり出てきたシャネルの口紅を見るや否や、慌ててダッシュボードを閉めた。

「どうした?何か入ってた?」

まるで中身に気付いていないのか、それとも やましくないと言い切れる理由があるからか、浜崎に 取り乱す様子は一つもなかった。

「煙草が・・・salem lightが・・・入ってたみたい・・・」

「あぁ、あれか。前に友達が忘れてったんだよ。そこに入れといたっけ。忘れてたよ」

顔色一つ変えず、真っ直ぐ前だけを見て ハンドルを握る彼の口ぶりから、七割近く そうなのかなと信じる気持ちになっていた。そして残りの三割は・・・『これが嘘なら、この人はプロの詐欺師になれるな』と考えていた。その時だった。浜崎の口から、意外な言葉が出た。

「大地って・・・誰?」

沙希は耳を疑った。・・・いや、そんな生ぬるいものではない。“凍りついた”に限りなく近かった。やはり聞こえていたのだ。小樽のホテルで 寝言の様に口走ってしまった あの一言を、やはり沙希は確実に声にしていて、浜崎が確実にそれを聞き取っていた。

「え?・・・あぁ、犬の名前、昔飼ってた」

もう少しマシな嘘がつけなかったもんだろうかと、自分の発想の乏しさを悔いた。

「どうしたの?急に」

「いや、別に」

珍しく、浜崎らしからぬ その仕草に沙希は驚いていた。何となく異様な雰囲気に包まれるその瞬間、浜崎が言った。

「種類は?」

「あ・・・ただの雑種。捨てられてたのを拾ってきたの」

犬の種類を聞いてくるなど、沙希のついた嘘を信じていない事がありありと分かり、沙希の心にプレッシャーをかける。

「いつ頃まで居たの?最近?」

「ぜーんぜん昔。子供の頃の話だから」

「死んじゃったの?最後は」

正直もうやめて欲しいと思った。犬を飼った事のない沙希には、もうこれが限界だった。するとそこに、沙希の願いが通じたかの様に、浜崎の携帯が鳴った。その電話の最中、沙希は この話題を忘れてしまう程 通話が長引く事を願っていた。

「また後で連絡する」

その言葉で電話を終えた浜崎が、急に黙って煙草を一本抜き取る。口にくわえると同時に、左手で灰皿を開ける。その動作につられて、沙希の視線が開いた灰皿に落ちると、そこには口紅の付いた吸い殻が 浜崎の煙草に紛れて何本も捨てられていた。沙希の目線に気が付いたがどうか定かではなかったが、浜崎は開けたと同時に灰皿を閉じ、くわえた煙草を脇に置いた。慌てて何かを隠そうとか 取り繕う素振りは何一つなかった。ただ淡々と、同じリズムで一連の動作が過ぎていった。

「・・・吸わないの?」

その声で初めて沙希の存在を思い出した様に、助手席を振り返る。

「あぁ・・・。最近ちょっと吸い過ぎでな。気を付けてんだ」

何があっても、どんな場面でも冷静に スマートに切りかわしてきた浜崎にしては、その理由が真実でない事を 充分すぎる程 あの一瞬の隙に見せた目が物語っていた。しかし、そんな弱々しい浜崎を見たくないと、沙希は逃げ道を与えた。

「修ちゃんまで健康ブームに影響受けてんだ。らしくないねぇ」

その時沙希は思った。お互いに 何かを隠し、お互いに嘘をつき合い、また それを許してしまう二人の渇いた関係は、実質的にはもう幕を閉じてしまっているのかもしれないと・・・。

 

 週に一回から 多い時は二回のペースで、コンスタントに千梨子はサロンに通っていた。沙希は、出来るだけ妹である桜田の担当になる様に予約を入れようとするのだが、千梨子の希望で 毎回沙希が付く事となった。話題はやはり、千梨子の彼氏の事が多かった。

「どんな人なんですか?大野さんの彼って」

「すっごく優しくって、男らしくって・・・強くって・・・」

沙希が笑った。

「聞いたのが間違いだったかな。きりがなさそうですね。初めて会った時、やっぱりビビッときたんですか?」

「私達 知り合いの紹介で会ったんですけど、初めは『良い人だなぁ』って その位で、でも最初のデートで『この人なのかな?』って何となく思ったんです。彼も私の事、いっぱい知ろうとしてくれて・・・。私 彼の前では隠し事とかできなくって、何でもストレートに感情をぶつけちゃうんですけど、それを全身で受け止めて 精一杯それに応えようとしてくれるんで、遠距離でもここまで来られたのかなって・・・」

「遠距離?遠距離なんですか?じゃ、淋しいでしょう?」

「そりゃもう・・・。遠距離って・・・した事ありますか?」

沙希の手元が一瞬止まる。

「もう何年も前になりますけどね」

「あるんですね。どことどこですか?」

千梨子の口調からは、共通点を見付けた嬉しさみたいなものが かすかに滲んでいた。

「・・・地球の裏側とでした」

「うわぁ、超遠距離ですね!それに比べたら、私なんか まだ幸せな方なんだ・・・」

「どちらなんですか?」

「北海道です。でも月に一回はこっちに来てくれるし、来た時は三日から一週間は居てくれるんで 毎日会えるし。まだまだ恵まれてる方なんですねぇ。文句言ったらバチが当たっちゃうかも」

「そうですよぉ。私なんて、短くても3年は戻らないって言われてたんですから。ま、結局一年でダメになっちゃいましたけどね、私の場合は」

「どうして・・・ダメになっちゃったんですか?・・・聞いても・・・いいですか?」

遠慮気味に聞く千梨子の顔から ジェルを拭き取りながら、沙希の記憶は一気に数年前へとタイムスリップした。

「自分の気持ちを、もっと正直に表現してたら・・・って、今は思います。その点、大野さんは大丈夫ですね。それに、ここの店長、御主人とは遠距離を乗り越えて一緒になってるんですよ。あの遠距離時代があったから、今とても良い関係が築けてるって。だから大野さんも頑張って下さいね。応援してますから。あっ、そうだ!今度彼の写真でも見せて下さいよ」

「あ、じゃぁ後で。手帳に入れてあるんで・・・」

嬉しそうに、そして又 照れた様に笑う千梨子が 今の沙希には妙に初々しく、羨ましくもあった。

 着替えを終え 次回の予約を取る為 待っている千梨子の元へ、一足早く接客を終えた妹の桜田が歩み寄り、立ち話をしていた。そしてそこへ、予約表を持って沙希が現れると、申し訳なさそうに千梨子が言った。

「今日、手帳を会社に忘れてきちゃったみたいで・・・。だから次回の予約は、また電話します」

にこやかに予約表を沙希が閉じると、千梨子の言葉は続いた。

「あと・・・写真も・・・」

「残念。今度見せて下さいね。期待してます」

そのやり取りを、すかさず桜田が聞きつける。

「チーフ、写真って・・・もしかして千梨ちゃんの彼の?」

桜田は姉の事を『千梨ちゃん』と呼んでいた。二人の会話も、まるで友達の様だった。

「そうなの。こんなにメロメロになっちゃう彼って・・・興味あるじゃない?」

「手帳に入れてる写真って、すっごくラブラブなヤツなんですよ。チーフ、覚悟しといた方がいいですよ」

「やだ!あれは内緒のヤツなの。皆に見せてるのは、もう一つの方だって・・・」

千梨子は妹の腕を軽く叩いた。そして頬を赤らめる千梨子を 桜田と一緒になってからかった。

「そこまで聞いちゃったら、内緒の方の見てみたいなぁ」

照れて困った顔の千梨子と、大口を開けて笑う桜田を交互に見ながら笑っていると、そこにサロンの電話が鳴る。店長が接客中なのを知っていた沙希は、すっとその場を離れた。電話を終え、沙希が二人の元へ戻ると桜田が口火を切った。

「チーフ。その・・・写真もいいんですけど・・・今度、一緒にご飯でもどうですか?」

あまりにも唐突で、何の事か 頭が追い付くのに時間が掛かる。

「チーフと私と・・・千梨ちゃんとその彼氏の・・・4人で」

何故そのメンバーに自分が加わっているのか戸惑いながらも、以前『相談がある』と持ち掛けてきた桜田を思い出す。

「でも・・・私なんかがご一緒させてもらったら・・・」

「気にしないで下さい。いずれは、私の義理の兄になる人なんですから紹介しておきたいんです。千梨ちゃんも・・・姉も、そう言ってます」

その真剣な眼差しから 断る訳にもいかず、千梨子の顔色を窺う。しかし その視線の先には はにかむ千梨子がただ小さく座っているだけで、沙希の何故か尻込みする気持ちを救い上げるものではなかった。

「だけど彼・・・北海道でしょ?たまに会える貴重な時間に割り込んだりしたら・・・」

自分で言いながら“北海道”の文字につまづく。改めてその響きを噛みしめると、『まさか』と『もしや』が急に絡まり始める。

「あら?北海道の・・・どこでしたっけ?」

いつもの様に 走り出したら止まらない沙希に、スイッチが入ってしまう。

「小樽です。あれ?北海道 詳しいんですか?」

慌てて首を横に振る沙希。

「一回だけ行った事があって。ただそれだけ」

「私も一回だけ行った事があるんです。彼のご両親に挨拶も兼ねて。有給使って5日間ものんびりしてきちゃいました。良い所ですよね、小樽って。そう思いませんでした?」

段々と沙希の中に『まさか』よりも『もしや』が大きく膨らみ始め、千梨子との会話が息苦しく感じだす。桜田の『仕事の後の時間で 段取っておきます』の言葉は、沙希の耳を素通りしていった。

 その晩から、沙希の頭の中では 大地から聞いた彼女の話と、千梨子から聞く彼氏の話を ジグソーパズルの一片一片を組み合わせていく様に、一つ一つ思い出しては型に成していった。そして今すぐにでも大地に電話をして 真相を確かめたい一念が先走りを始めるが、今となっては何の口実も無く連絡をするのには 大いに気が引ける関係となってしまっていた。


 ある日、サロンの営業時間を終え、店長の青山が沙希を呼んだ。神妙な面持ちで数字の並んだ何枚かの紙を広げて見せた。

「チーフも分かってると思うけど、ここ半年数字が落ちてるでしょ?この間キャンペーンも打ったし広告も出したけど、結果はこの通り。伸びなかった。それでも去年までが割合良かったから、減ったって言ってもまだ黒字だったけど、先月と今月はマイナスです。・・・知ってるわよね?」

そして青山が、紙面のある欄を指さした。

「広告打った分の回収も出来てないし」

毎月把握をしていた筈の沙希も、かなり深刻な現実に 思わず言葉を失った。

「夏に向けて打ったボディのキャンペーンも 反応が悪いし。何か・・・原因として思い当たる事ある?」

もちろん沙希にも、具体的な答えなど見付かってはいなかった。ただし漠然と沙希は、身に覚えを感じていた。だが まさか『自分のやる気です』とは口が裂けても言える訳がなかった。

 沙希もこの仕事に就いて約6年。そしてチーフというポジションを与えられて2年が経ち、仕事に対しての新鮮さを欠いている事は間違いなかった。入社時、そしてチーフという役職が付いた時、その節目節目に自分が心に抱いた希望や決意は 知らず知らずの内に日常に埋もれ、ついには自分自身でもその在りかを忘れる程 埃が積もっていた。しかしそんな自分をよそに、一丁前の顔をして接客をし、後輩の指導をしていた自分が恥ずかしいと思った。醜いと思った。許せないと思った・・・。

「最近・・・沙希ちゃん元気ない?・・・気のせいかしら?」

見事な程こういう事には敏感な青山だった。暫く無言の時が流れ、ようやく開いた沙希の口から出たのは、何とも重苦しく じめっとした言葉だった。

「私・・・チーフ失格ですね」

途端に目を丸くする青山。

「そんな意味で この話したんじゃないわよ。勘違いしないで」

「いえ・・・この間店長と、それぞれ個人的に営業するって決めたじゃないですか。それでも私、一件も取って来られなかったし」

「すぐに出る結果だけが結果じゃないもの。今蒔いた種が いつか芽を吹いて 花が咲き 実がなった時、収穫すればいいんだもの。遅いか早いかだけの違いよ」

そこまで言って一息つくと、青山のトーンが変わる。

「そんな事より・・・沙希ちゃん。仕事に対して・・・何か思うところがあるんじゃない?もし良かったら・・・話してくれない?」

「・・・・・・」

沙希の口は堅く閉ざされていた。

「それとも・・・プライベートかしら?」

ピクリともしない沙希に 青山がフォローを入れる。

「別にね、プライベートまで立ち入ろうって訳じゃないの。ただ最近、沙希ちゃんから 以前みたいな・・・覇気とかパワーとか感じられなくって・・・。これは私個人として・・・ちょっと残念だなって・・・」


「そんなフィードバックくれる上司がいるって、ある意味恵まれてんぞ。羨ましいよ。俺の会社なんて 男ばっかだから、何かこう殺伐としてるっていうか・・・。まず『人として・・・』なんていう概念がお互いないもんな。仕事上の繋がり。That‘s all.ま、それも そう割り切ってると、楽でいいけどね」

ここ久しくご無沙汰だった飲み友達の神林が、初鰹の刺身を口いっぱいに頬張りながら そう言った。そしてそれを飲み込んで、冷たく冷えた“久保田“の萬寿で口を湿らせてから聞いた。

「で、何て答えたの?」

沙希の首は横に振られた。

「言えなかった・・・。ってか、何て説明していいか分かんなくってさ。このだるーい感じを、自分でだってよく把握できてないのに 人になんて・・・言葉でなんて、どう言っていいのか・・・」

ずらりと並ぶ日本酒のメニューを見ていた神林が、そのお品書きをテーブルの脇に置いた。

「結局、意外と女っぽいって事だよ」

“女っぽい”とは一体どんなニュアンスなのか、神林を覗き込む様に首を傾げた。

「仕事とかチャキチャキやって『私は仕事一番です』みたいに見えるけど、本当は結構 好きな男の事で一喜一憂して、それが仕事に影響しちゃったりしてさ。『彼も頑張ってるなら、私も』みたいに張り切ってみたり、恋愛でもやもやしたら 仕事に対してのエネルギーまで下がっちゃう・・・みたいなとこ」

しょげた顔をして、いじけた様にお通しの小鉢を箸でつつく沙希。

「そんなメチャクソに言わなくっても・・・」

「違うよ。女の子ってそんなもんだよ、皆。別に悪い事だとは思わないけどな。可愛くっていいんじゃない?」

最後の一言が わざと沙希をあおった。

「あぁー!馬鹿にしたぁっ!」

冷奴の上のじゃこと鰹節をちょびっとつまんで口に入れ、神林が大声で笑った。

「今のは冗談。ちょっとからかった。ごめん ごめん。・・・だけどさ、自分でも自分の事 もっと仕事に対して“男っぽい”って思ってたろ?」

鰹の刺身をチリ酢に付けて、手が止まる。

「そうかな・・・そうかも・・・そうだね・・・きっと」

まるで どこか懐かしい三段活用のリズムに 神林がクスッと鼻で小さく笑った。しかし、それにも気付かず 沙希は一点を見つめて言った。

「私って、女っぽかったんだ・・・。なんか・・・ちょっとショック・・・」

「どうして?」

「仕事とプライベートを割り切れない人って、私嫌いで・・・きっと軽蔑してた。だから そうなりたくないって、必死で男っぽくなろうって頑張っちゃってたんだね・・・」

沙希は溜め息をついた。気分を切り替える様に、神林の声が明るく響いた。

「もう一本いくか?悪いけど、これ頼んどいて。俺ちょっとトイレ・・・」

“久保田の萬寿”を追加注文し、トイレから戻った神林に 早速並々と注いだ。

「営業って、何かコツとかあるの?私には向いてないみたい。元々私はさ、技術者であって 営業マンじゃないんだもん。出来る訳ないよ」

「何甘えた事言ってんだよ。もし自分の店だったらどうよ?業績落ちてんのに、そんな呑気な事言ってられっか?店長さんだって、きっと 自分の店の様に愛着持って頑張ってくれてると思ってっから、『営業しよう』って声掛けてくれたんじゃないかなぁ。そうじゃなかったら、きっと店長さん一人でとっくに営業回ってるって。それにさ、目の前の壁を打破して もうひと回り大きくなる鍵が、そこにはあるのかもしれないし」

弱気で少々愚痴っぽい沙希に 喝を入れた。

「近所にさ、昔から良く行く焼き鳥屋があんだけどな。そこの大将が前言ってたんだ。『下手なプライド持ってちゃ、商売できん』って。俺、その言葉がすっごい印象に残っててさ。そん時 大将は“下手なプライド”って言ったんだよ。どういう意味か その時分かんなくって、確か聞いたんだったな。そしたらさ、こう言ってた。『お客に媚びへつらうのは嫌だけど、自分の作った美味いもんを なるべく多くの人に 多くの物を食べて頂ける様に、頭は下げる』って。『食べてもらわなきゃ、自信作もただの自己満足だ』って。『昔の知り合いの所まで訪ねて行って 頭を下げてる俺は、カッコ悪いんじゃないか・・・とかっていう下手なプライドは一切捨てて、“どこに出しても恥ずかしくない物を作ってます”っていう真のプライド持って、堂々と頭を下げる』って。俺 それ聞いて、その潔い生き方に 益々大将に惚れ込んだんだよなぁ。今じゃ俺の、第二の親父みたいになってるけどね」

 その言葉によって、沙希の中でゆっくりと霧が晴れ、そしてまた 埋もれていた何かが顔を出した。


 約6年振りに見る“びいどろ”のドアは、昔と全く変わっていなかったが、心なしか沙希には 重たく厚く思えた。沙希はもう一度バッグの中のキャンペーンのチラシと名刺入れを確認すると、大きく深呼吸して ドアノブに手を掛けた。ゆっくりとそのドアを開けると、昔と変わらぬ音色で ドアベルが出迎える。

「いらっしゃいませ」

何人かのバイトの女性に声を掛けられ 一瞬圧倒されていると、脇からママが顔を出す。

「あ~ら、珍しい人」

開口一番こう言って、肩に手を掛ける。

「どう?元気に頑張ってる?」

「はい。お陰様で。ご無沙汰しちゃって・・・すみません」

「ちょうど良かった。今日ね、懐かしい人が来てるのよ。ほら、あそこ」

そう言って ママの指さした方向には、五年半前に別れた桜井がカウンターに座っていた。途端に沙希の顔が凍りつく。

「ママ、私今日・・・営業に来たんです。キャンペーンのチラシ 貰って頂こうと思って・・・」

一か八か 先日の神林の言葉にすがる思いで 口にすると、ママは快く受け入れた。その微笑みは まるで、母親が娘を見る眼差しに似ていた。

「わかった。でも、せっかくだから ゆっくり話聞かせてもらいたいから、店閉めてからでも良いかしら?時間あるなら、少し飲んで待っててよ」

とっさに出た『はい』という相槌を、沙希は少々後悔していた。

「桜井さん。懐かしい人よ」

背中越しに声を掛けると、ママを振り返った桜井が 沙希の存在に絶句する。

「あっ・・・。お久し振りです」

皆の手前、慌てて作り笑顔を付け足す沙希。隣の一つ空いた椅子に沙希を落ち着けると、ママが言った。

「昔話でもして、待っててちょうだい。桜井さんもね、本当久し振りなのよね。後で久保さんがいらっしゃるんですって。それにしても 偶然って面白いわね」

『じゃあ、よろしく』と言わんばかりに 二人の肩をポンと叩いて、ママはその場を離れた。すると、カウンターの中に居た女の子までもが テーブル席の客に呼ばれ、二人はまるで離れ小島になった。一体どんな言葉から始めたらいいのか お互いに手探りをしている様子で、相手の吐息までも耳につく程 張りつめた空気が襲ってくる。

「元気そうだね・・・」

やはり初めは桜井だった。

「桜井さんも・・・」

こんな返事じゃ 会話が続かない事を分かっていながら、気の利いた台詞も思い浮かばないまま、沙希はただ下を向いた。

「ビール・・・これ・・・飲む?」

桜井が自分の飲みかけの中瓶を手に持つ。沙希の答えを待たずに、カウンターの奥に居るバーテンダーにグラスを一つ注文した。

「仕事・・・頑張ってる?」

グラスにビールが注がれる。泡が弾けるのと同じ速度で、沙希の中でも何かが少しずつ弾けて消えていく。

「新人賞っていうの取ったって・・・おめでとうございます。やっぱりあいつは凄いって・・・久保さんが言ってた」

「あれ?たまに来るの?」

その時、ドアベルが一人の男を出迎える。

「いらっしゃいませ」

「雨降ってきたよ、急に今」

久保が言いながら、入口のドアの前で ハンカチを取り出し 肩や袖の雨の雫を拭った。

「あらあら、凄い。今タオルお持ちしますね」

ママが駆け寄ると、久保が首を横に振った。

「大丈夫、大丈夫」

「桜井さん、さっきからお待ちかねよ」

ママに背中を押される様にカウンターに近付く。

「桜井。悪い悪い、遅くなった」

「おう!お疲れっす」

久保の目に、桜井の隣の女が目に入る。

「おい、女連れか?カミさん泣かすなよ。・・・って、あれ?沙希ちゃん?!」

目を丸くする久保に、ママが言った。

「そうなの。偶然ね、久し振りに沙希ちゃんが遊びに来てくれたのよ。テーブルの方にお席作りましょうか?」

「あ・・・お願い」

久保とママのやり取りを傍らで聞きながら、沙希は落ち着かない思いでいっぱいになる。

「じゃ、あちらどうぞ。今、準備しますから」

桜井が椅子から腰を浮かしたところで、沙希が慌てて言った。

「ビール、御馳走様でした」

その言葉を聞きつけ、久保が声を掛けた。

「沙希ちゃんも こっちおいでよ」

「いえ・・・私は・・・」

「な~に俺の事避けてんだよ。一人なんだろ?大丈夫、セクハラしないから。ちょっとお酒作ってもらう位だから」

いつもの様に明るい久保の笑い声に、少々救われる思いがしていた。

 テーブルにボトルを運んできたママに、久保が言った。

「ママ、ここ女の子いらないからね。その代り、沙希ちゃん ちょっと借りま~す」

「あら、高いわよ~」

「じゃ、出世払いで。・・・あっ、こいつが居るから大丈夫だ」

久保が桜井の背中をポンと叩く。

「ママ、こいつねぇ、大大大出世ですよ。フランス支社に行ってる間に獲った新人賞を皮切りに、こっち帰ってきてからも やる仕事やる仕事大当たり。業界誌に顔写真まで載ったりして。今やスターですよ。俺なんか とっくに追い抜かれて 惨めなもんよ。今じゃ、こいつに顎で使われてる身分でね。うちの会社も年功序列だったら良かったのにねぇ」

そこまで聞いて、今まで大人しかった桜井が 口を開く。

「何言ってるんすかぁ。俺と久保さんの仕事は、全く別の分野なんです。だから上も下もないんです。それに、俺が久保さんの後輩には変わりないんですから。人聞きの悪い事言わないで下さいよぉ」

そこへバイトの子が、グラスと氷とミネラルを運んでくる。すかさず 冗談のキツイ久保が絡む。

「ありがと、ありがと。でも、ごめんね。今日ここは女の子間に合ってるからね」

「ねぇ 久保さん。女の子いらないって、私も駄目?」

ママが久保の膝を軽く叩いた。

「何?沙希ちゃんのお目付け役?」

「そうよ。私の大事な娘だもの。こき使われたら 本当にバイト代請求しちゃうから」

「わかったよ。じゃ、この店で一番高いつまみ出してよ。フルーツ盛り合わせか?いや、沙希ちゃん何がいい?沙希ちゃんの好きな物頼んでよ。それでバイト代の代わり」

突然そんな風に振られ、戸惑う沙希にママが言った。

「こういう時に高いワインとか言っちゃえばいいのに。商売下手なのよねぇ。きっと今の仕事でも そうなんじゃないかと思って・・・」

「そこが沙希ちゃんのいいところ。そうでしょ?ママ」

「欲深くない所が 久保さんの男心をくすぐっちゃうかしら?」

いつの間にか話題の中心になってしまっている自分に 大きな戸惑いを感じながら、時が進む。

 カベルネ品種のフランス産赤ワインを開けてから 少し時間が経った頃、話の谷間にママが言った。

「桜井さんって、ご結婚なさったの?」

思わずうつむく沙希。

「いえ・・・まだです」

「だって さっき『かみさん』って・・・」

「あぁこいつね、一緒に住んでる婚約者がいるの」

久保がチーズを一口つまむ。

「あら、おめでとうございます。お式は?いつのご予定?」

「それがね、ママ聞いてよ。こいつ 式挙げないで籍だけ入れようとしてるの」

背もたれに寄り掛かっていた上体を起こし、ママに顔を近付ける久保。

「彼女は それで納得?『ウェディングドレス着たい』とか・・・おっしゃらないの?」

「いやいや。こいつの彼女、もう37,8だから ウェディングドレスに夢見る様な年でもないし、それに・・・むこうバツイチだから。だから俺言ったんだよ。『わざわざバツイチ捕まえてくる事ないだろ』って」

知り合いの彼女とはいえ、凄い物の言い方に 沙希が少々ハラハラしながら久保に呆気に取られていると、ママが腕組みをした。

「あ~ら いや~ねぇ。“バツイチ、バツイチ”って馬鹿にしないでもらえる?私だって結婚二度経験者よ」

初めて聞くママのプライベートな話題に、三人の視線が一気に集まる。

「何、ママ。そうなの?」

「そうよ。でも・・・本当言うとね、やっぱり今の主人の所には 傷なしで行きたかったかな。ま、それが女心なのよ。どうしようもない事だけどね」

ケラケラと笑ってみせるママ。すると久保が聞く。

「で、式は挙げたの?」

ママは静かに首を横に振った。

「それどころじゃなかったのよ。『バツイチの嫁なんか』って 主人の両親に大反対されて、それで 主人が家を飛び出して 私と一緒になってくれたの。でも今思うと・・・挙げておけば良かったって思うわ」

それを聞いて、一瞬沙希の頭に 千梨子の顔がよぎる。“家を飛び出す”とは 言葉では簡単だが、その裏には どれ程の勇気と決断と、はたまた心の葛藤や争い、又それを支える計り知れない程の深い愛情が渦巻いていた事だろう。もし自分が・・・。家を出るとは・・・?家族を捨てるとは・・・?そんな事を ふと思い巡らしていると、久保がふいに言葉を投げかける。

「沙希ちゃん、結婚は?まだ?」

「私なんて・・・まだまだ」

「ほうら、やっぱり」

久保の意外なリアクションに、沙希をはじめ 他の三人が首を傾げた。

「もうちょっと長く 沙希ちゃんがここで働いててくれたら、俺 桜井と沙希ちゃんのキューピットに絶対なれてた自信ある。俺 こいつに言ったんだよ。『結婚する事になりました』って来た時さ、相手が再婚だって言うじゃない。『あぁ、やっぱり沙希ちゃんとくっつけとけば良かった』って。何もわざわざ・・・」

そこで 思い切って沙希が言葉を止めた。

「いいじゃないですか?桜井さんがせっかく『この人』って決めた人なんですから、素直に祝福してあげれば。肝心なのは中身でしょ?」

「そりゃ そうよ。もちろん俺だって、その彼女に会った事も話した事もあるからさ、悪い人じゃないってのは知ってるよ。だけどお前、あのやきもちには 一生苦労させられるぞ」

桜井の方に向けた久保の顔に、何故だか沙希は身を乗り出した。

「そんな事ない!・・・それだけ桜井さんをずーっと愛してたんですよ」

皆の動きが止まり、たちまち六つの瞳から鋭い視線を浴びる。

「な~んだ。沙希ちゃんも知ってる人なの?」

ママが沈黙を破り、久保の気持ちを代弁した。

「いえ。一回だけ・・・いや二回・・・かな・・・?」

久保の顔はまだ晴れない。

「桜井、紹介したの?沙希ちゃんに。・・・あれ?今日久し振りじゃないの?」

「いや、久し振りだよ、もちろん」

口の中でまごつく言葉を 何とか吐き出す桜井を、ママはじっと見ていた。慌てて沙希が取り繕う。

「友達の結婚式で偶然バッタリ・・・桜井さんの彼女にお会いしたんです」

「何でそれが桜井の彼女だって分かったの?」

素朴な疑問を久保が口にして、初めて沙希もハッとする。

「その・・・彼女が・・・『近々桜井さんと結婚する』って仰ったので・・・」

半分もう どうしていいか分からなくなっている沙希だった。しかし追及は治まらなかった。

「じゃ、何で・・・沙希ちゃんの事知ってたんだろう・・・」

少々混乱気味の久保を、今度はなだめる様にママが言った。

「いいじゃないの、そんな細かい事は。それより、わざわざ桜井さんを呼びつけたんだから、何かお話があったんじゃないの?」

何とか危機を脱して ホッと胸をなで下ろす沙希だったが、ママの態度には 返って気の落ち着かない思いをしていた。

 

そんなママと 店じまいを始めた店内の隅で、沙希がキャンペーンのチラシを取り出し 話を始めた。

「もし宜しければ・・・是非いらして下さい」

不器用でぎこちない口調に、ママは優しく相槌を打った。

「綺麗にしてくれるの?こういう商売してるとね、もうお肌整えるのが大変でね。まぁ歳もあるんだけど、ボロボロのお肌で お客様の前に立つ訳にいかないしね。お客様とのお付き合いで 色んなお化粧品使ってたりするんだけど、そういうのは大丈夫なの?」

「はい」

思ったよりも快く受け入れてくれるママに、沙希は神林の言葉を思い出していた。

「じゃ 今度昼間、行かせてもらうわ。沙希ちゃんにやってもらえるの?楽しみだわ」

早々に話を終え、席を立とうとした その時、ママが言った。

「うちの女の子達にも話してみるから、このチラシ 余計にある?もし良かったら、何枚か多めに置いていってくれないかしら?」

願ってもない有り難い申し出に、沙希は耳を疑った。自分の思っていた営業とは 全く違った感触で、そしてまた 全く違った展開に、沙希はつくづく今までの自分を反省していた。殻を破れなかったんじゃない。破らなかったんだと・・・・・・。

 びいどろのドアを出ようとした時、突然その扉は開き、ぶつかりそうになった沙希が少々よろける。外からひょっこり顔を出したのは、先程帰った筈の桜井だった。

「すみません。この位の茶封筒 置き忘れてませんでしたか?」

するとカウンターの傍で ボトルを片付けていた女の子が声を上げた。

「あ・・・これですか?カウンターの下に置いてあったんですけど・・・」

「あぁ、それだ。良かった。どうもありがとう」

桜井はまるで ドアの前に居た沙希など全く目に入っていない様子で、ツカツカとカウンターに近寄り 茶封筒を受け取る。ママが後ろから声を掛けた。

「ごめんなさいね。きっと こっちに移って頂いた時に、私が忘れちゃったのね。すみません」

「いいえ。僕の方こそ うっかりしてて・・・」

そう振り返って初めて、沙希の存在に気付いた顔つきをする。その一部始終を立ち尽くして見ていた沙希が、我に返る。

「それじゃママ、ありがとうございました。失礼します」

その後ろ姿は 至って普通だったが、沙希の内心は“逃げ出す様に”に近かった。何故“逃げ出す様に”だったかは分からない。7年前よりも洗練された桜井が 今はもう全くの遠い他人で、ましてやママの目の前で 一体どんな態度で接していいのか分からないまま、さっきまで同じテーブルで時を過ごしていたが、もうこれ以上時を同じくするのは 沙希にも限界だった。そして又、現実を直視するのが怖くもあったのだった。

 店のドアが背中越しに閉まる音を確認すると、何故だか沙希はほっと胸をなで下ろした。バッグの中から折り畳み傘を取り出し 開こうとした時、後ろで再びドアベルが響く。このまま気付かないふりをして立ち去ろうと、振り返りもせずに傘を広げる。背中に気配を感じながら 一歩踏み出した所で、道路脇に傘をさしてたたずむ雨宮が目に飛び込む。ハッと一瞬息を呑んだ。雨宮の放つピリピリと強い視線をかわす様に 沙希が後ろを振り返ると、真後ろに傘を広げた桜井が立っていた。まるで“びいどろ”から二人で出てきた様な光景に、沙希は余計な気を揉んだ。何か早く、一刻も早く言い訳をしなくてはと、言葉も思い浮かばないまま 気だけがはやり 口を開けたその時、雨宮が一歩早く声を発した。

「あった?」

目の前の雨宮の視線は、沙希を通り過ぎ 桜井に向けられていた。

「あぁ、あったあった」

背中で その懐かしい声を聞きながら、沙希はようやく状況を把握した。先程までの自分を恥ずかしく思いながら、また“逃げる様に”雨宮に会釈して、その場を立ち去ろうとした。すると丁度 すれ違い様に、雨宮がこちらに声を掛けた。

「河野さんも・・・来てたんだ・・・」

驚いて顔を上げるなり、反論した。

「いえ・・・たまたま・・・ちょっと用事があって・・・」

再び雨宮の鋭い視線に耐えきれず俯くと、今度は挑戦的な台詞が 沙希の頭を掻き回した。

「桜井に会うのは久し振り?」

「おい、何言ってるんだよ。当たり前だろ?」

桜井が止めるが、雨宮は不敵な笑みをたたえたまま続けた。

「どう?河野さんから見て、久し振りに会う彼は・・・変わった?」

ただ押し黙ったままの沙希は、まるで いじめられっ子の様にさえ見えた。

「やめろって。ただ彼女は・・・ママに用事があって来ただけなんだから」

いつの間にか桜井にぴったりと寄り添う雨宮の傘は、桜井の傘とぶつかって 雫がスーツの肩を濡らしていた。

「ふうん・・・ママに・・・ね。ここのママさんとは、そんなに親しいんだ・・・」

ここでようやく沙希の口が動く。

「ここで働かせてもらってた時は、ママに本当にお世話になったので・・・」

すると雨宮の顔がふと ほぐれる。

「河野さんって、この店の女の子だったんだ。それで・・・二人は知り合ったんだ・・・」

何かホッとしている様な、また 少し嘲笑うかの様な目つきで 沙希を見る。

「飲み屋の気に入った女の子に、手出しちゃったんだ」

笑って冗談ぽくそう言いながら 桜井を見上げる雨宮に対して、桜井は苦い顔をする。

「やめろって、そんな言い方」

雨宮からの屈辱を受けて やり切れない思いを胸いっぱいに抱えながら、沙希はバッグからチラシを一枚取り出した。

「もし良かったらいらして下さい。うちのエステのチラシです。今キャンペーン中なので。あ・・・ブライダルのコースもありますので。精一杯お手伝いさせて頂きます」

その紙一枚を手渡すと、沙希は二人に頭を下げ、雨の中に消えていった。


 次の日、久々に澄んだ夜空に望遠鏡を向け、儚げに瞬く星を一つ一つ眺めていた。そしてもちろん、大地から誕生日プレゼントに贈られた たった一つの沙希の星も。真っ黒な宇宙と、そこに孤独に存在する一つ一つの惑星。自分もその内の一つの上に佇む 何とも小さく無力な生き物にすぎないと思えた時、沙希は大地の声を聞かずにはいられなくなっていた。抑えきれない思いが、何の口実もないからと必死に言い訳をする自分を突き倒し、受話器を耳に当てていた。

「河野と申しますが、大地さんいらっしゃいますか?」

「あら、どうもどうも、こんばんは。またいつでも遊びに来て下さいね。こったら田舎で 何もない所だけんど、のんびりするには良い場所だから。都会の人は 毎日忙しいんだべ。千梨子さんが来てくれっと、うちの中がぱぁっと明るくなるっしょ・・・」

沙希は一瞬耳を疑った。少々訛りのある母親の口調が、余計にはっきりとは耳に届かず、沙希の心は大きく揺れた。

「あ、大地ね。おるけ、ちぃと待っとって下さいね」

そしてそのまま母は 受話器を保留にしないまま、電話の向こうで大地を呼んだ。

「大地―!電話だべさ。千梨子さんから」

沙希は思わず息を呑んだ。『やっぱり』という思いはあったものの、これだけは避けたかった最悪のパターンに、沙希は言葉を失っていた。

「どうした?こっちの電話に掛けてくるなんて、珍しいな」

いきなり そう言われ、沙希はもう 黙って電話を切ってしまいたかった。

「ごめんなさい。残念ながら・・・彼女じゃありませんでした」

声に詰まるのを 電話越しに感じ取る沙希だった。

「河野です。・・・沙希です」

そう言ってみて初めて“なるほど”と思った。初めて北海道の大地の実家に電話した時も、母は自分を誰かと人違いをした。そして今回も・・・。母には『河野』が『大野』と聞こえていたのだった。何か皮肉なハプニングに すっかりへこたれていると、一拍置いて 受話器の向こうから反応がある。

「おう。・・・何だ、お袋。何で・・・」

「ごめんね、私で。まぁそうがっかりしないで」

努めて明るく振る舞う沙希は、切なさで胸がいっぱいになった。

「どうしたの?」

何気ない その言葉に、沙希は毎回敏感になる。無理やり作った理由を、今回もまた口にする沙希。

「今度、いつこっち来るの?」

「ん・・・?・・・どうして?」

瞬間的に身構える様子が、受話器からかすかに聞こえる呼吸だけで 感じ取ってしまうのだった。これも遠距離時代に培われた沙希の癖で、今となっては こんな習慣がない方が余程楽だったろうにと思う事もしばしばだった。

「あ、今警戒したでしょ?大丈夫だって。別に下心なんかないから」

あっけらかんと 大地をからかう様に言う事しか、沙希にはできなかった。

「一応・・・来週行く予定になってるけど・・・」

歯切れの悪い大地を安心させる為に、沙希が再び口を開く。

「彼女も喜んでるでしょ?きっとこの日を楽しみに、一か月頑張ってるんだからね」

今度は、沙希の妙な明るさに 大地が気付く。

「・・・何か・・・あったのか?」

「どうして?」

「やっぱり、何かあったんだな。何かあった時、沙希は必ず こういう質問には『どうして?』って答えるから」

自分の口癖を覚えていてくれた事で、沙希の心にも 梅雨の合間の太陽が顔を出した。

「実はね、ここ数カ月 うちのサロン、業績不振でね。それで最近私、営業してるの。・・・似合わないでしょ?」

「そうか・・・。で、手応えは?営業の」

「なかなかね・・・。店長は『すぐに芽が出る種ばかりじゃない』って言ってくれるけど、本当はそう のんびりも構えていられなくって。気ばっかり焦っちゃってさ。『私は営業向きじゃないんだから』って友達に愚痴ったら、すっかり喝入れられちゃった。で、そのお陰で今は 結構やる気になってるんだけど・・・頭を下げるって大変な事だね」

沙希はふと、昨晩の あの雨宮の見下げた目つきを思い出す。

「そうだな。謙虚でないと下げられないし、でも自信も持ってないと胸張っていられないし。自信と過信の大きな違いは その辺なのかな」

大地が一拍置いて、大きく息を吸い込んだ。

「俺が力になってやれればいいんだけど・・・所詮俺 男だし・・・」

「あ・・・いいの。そんな意味で電話したんじゃない」

また一呼吸置いてから、大地が話し出す。

「・・・彼女に・・・声掛けてみようか・・・?」

沙希はドキッとした。そして慌てて大地を止めた。

「やめてやめて。いいのいいの。そんな気 遣わないでって。気持ちだけ・・・貰っとく。ありがとう・・・」

今度は 沙希が慎重に言葉を吐き出す。

「今の話・・・彼女には言わないでね・・・お願い」

「言わないよ、もちろん。内部事情だもんな。それに『業績不振のエステがあるけど行ってみないか?』なんて言える訳ないだろ?いくらなんだって」

「そりゃ そうだね」

電話の向こうの大地と 声を合わせて笑いながら、沙希は秘かに千梨子の顔を思い出していた。『体全部でストレートにぶつかっていく私を、彼は精一杯受け止めようとしてくれて』と声を弾ませていた千梨子が、沙希の耳の奥で甦る。ぼんやりと そんな事を考えていると、大地の声で現実に引き戻される。

「本当に俺、何も力になってやれないと思うけど、もし万が一 そういう話があったらさ、店に連絡入れればいいのかな」

「あ・・・そうだね。それでもいいし・・・私でも。・・・あっ、携帯教えとこうか。携帯なら いつでも連絡つくし・・・」

大地とは一線を置いて 純粋に友達として付き合っていく事を決めた筈なのに、姑息にも 携帯の番号を教える事で、これをきっかけに一歩近付けるかもしれないという下心が働く。しかし、大地のガードは そう甘くはなかった。暫く考えていたのか、無言の時を挟んで 口が動いた。

「とりあえず・・・店の番号聞いておこうかな・・・」

それは暗に、沙希の携帯の番号など 知る必要がないという事を意味していて、初めて大地から拒絶された経験に 唖然としてしまう。大地が番号をメモし終わった頃、沙希が感慨深げに 手に持つ携帯を眺めた。

「今は 携帯なんて便利な物、皆持つ様になっちゃったもんね」

「どうした?急に」

半分笑い流す大地に対し、沙希の口調は さっきと変わらぬままだった。

「これがあったら、私達も違ってたかな・・・」

一瞬にして静まり返る二人の空間に、何故か沙希は いつになく慌てる事もなく、ただ成り行きを見つめていた。きっと秘かに『そうかもな』という言葉が、大地の口から出てくるのを待っていたに違いない。しかし現実は、そんなシナリオを用意してはいなかった。

「今更そんな事言ったって、所詮たらればだし・・・な」

その言葉の裏には 一体どんな大地の本音が隠れていたのか 掴めないまま、沙希の心は 冷たく いつしか窓に打ちつける雨と一緒にずぶ濡れになっていった。


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