第3章 過ぎ去った陽だまり
3.過ぎ去った陽だまり
「今の私ってさ、女としてぜ~んぜんダメじゃない?」
「どうしたよ、急に」
神林といつもの炉端焼き屋で飲み始めると、すぐに沙希が洩らしたのだった。
「正直ね、自分が今 くすぶってて何の輝きもなくなってるの、自分でもわかるんだ。吾郎にだって そう見えてるでしょ?」
「何かあったの?」
神林の問いかけに答える事無く、沙希は続けた。
「この間ね、4月に結婚するって友達と会ったらさぁ、すっごく綺麗になっててね・・・」
「焦ったんだ?・・・そうかぁ、女の子は26歳でもう焦っちゃうんだ?」
沙希はおちょこに口をつけながら、首を傾げた。
「焦ったんじゃないの。・・・違うと思う・・・。その子がね『2番目に好きな人と一緒になる方が女の幸せだ』って・・・」
もろみ味噌をつけた胡瓜をかじりながら、しばし考え込む神林。
「男の俺には、そういう感覚 分かんねえな・・・。俺からしたら、それってただの逃げじゃねえかって思うし。でも・・・もし自分の彼女とか・・・奥さんがそう思ってたら・・・結構イテェな」
そう言って、拳で胸の辺りを叩いた。そんな神林と沙希の間に、湯豆腐の小さな鍋が運ばれて来る。その豆腐をとんすいに取りながら、沙希が話を続けた。
「本当に愛された事のある女性は、その思いだけで 凄いエネルギーになって生きていけるって。そういう経験してる人は、皆 いい顔してるって言ってた」
湯豆腐に鰹節とねぎを絡め 熱そうな顔で頬張る神林を、猫舌の沙希は少々恨めしそうに眺め、箸で豆腐を四等分した。
「確かに、それはあるかもな。良い恋愛してる時って やっぱいい顔してるし、特に女の子は そういうの顔に出るもんな」
まだまだ湯気の盛んに立つ豆腐をふうふうしながら、沙希が言った。
「その言葉・・・結構へこむなぁ・・・」
首をうなだれている沙希をチラリと見てから、神林が口を開いた。
「沙希はないの?大事にしたい思い出とか・・・人とか・・・」
「そりゃ・・・ない事ないけど・・・」
すっきり晴れない顔つきの沙希を見て、神林が言った。
「それが今の彼氏じゃないって事が、悩みの種か・・・」
その言葉に苦笑いをする沙希。
「いいの、もう修ちゃんは。修ちゃんには私・・・あんまり期待してないから」
おちょこの酒をぐいっと一口で空けると、神林は沙希と自分にお酌をする。そしてただ黙って頷きながら聞いていると、沙希がゆっくりと話し出す。
「もう一度会いたい人はいるけど・・・今の私じゃ、とても会えない」
そして湯豆腐をやっと一口 口へ運ぶ沙希。
「その時はさ・・・別れる時は・・・5年とか10年後に笑って会えたらいいねって言ったけど、とてもとても そんな状態じゃないし、今の私なんか見たら きっと嫌われちゃう」
言った矢先にハッとする。『嫌われちゃう』なんて、一体今更何を期待しているのか。そして、今でも彼が自分の事をどこかで思っていてくれてる筈という 何の根拠もない自惚れに、沙希自身へどが出る思いがした。自分のいやらしさを まざまざと見てしまった様な気がしていた。
ある晩、仕事から帰宅した沙希が部屋に入ろうとすると 向かい側の 昔兄の純平が使っていた部屋から何やらゴソゴソと音がする。気になってドアをそっと開けてみると、段ボール箱に入った本の中から 探し物をしている純平の姿があった。
「どうしたの?」
「仕事で昔使ってた本が必要でさ、探しに来たんだ」
みのりと暮らし始めた新居は 収納が少ないらしく、仕事関係の大量の本の山を そのまま純平は実家の自分の部屋に置いていたのだった。
「どう?みのりさん、体調は順調?」
「あぁ。ちょっとずつ腹も出てきたし、つわりが軽いみたいでピンピンしてるよ」
安心した様に微笑む沙希に、純平が手を止めて 腰を伸ばした。
「でも女って凄いよなぁ。子供が出来たって分かったら、その瞬間に産みたいって決断できるんだもんな。男はさ、仕事の事とか色々考えたりするけど。お互い結婚するつもりでいたけど、それぞれの仕事の都合とか考えて、来年ぐらいかなって思ってたんだ。今年はないだろうなんてお互い思ってたらさ、こんな事になって、トントン拍子だろ?女って凄いよ・・・」
「そうらしいね。私の友達もそんな事言ってた。まぁ、迷わず産みたいって思える人だから、赤ちゃんも授けてもらえたんじゃないの?」
壁に寄り掛かり 何食わぬ顔でそう言ったものの、兄の言葉が沙希の心臓に棘の様に刺さったきり、取れなくなった。
横浜の丘に柔らかい風が吹く様になった3月末。河野純平、みのりの結婚式が山手の教会で執り行われた。ここ一週間で一気に暖かくなっていた関東地方にも 桜の開花前線が訪れていて、例年よりも数日早く淡いピンク色の並木がトンネルとなっていた。その坂のトンネルを抜けると、色とりどりの花で飾られた花壇に囲まれた白い教会が凄然と建っていた。シンプルなウェディングドレスとモーニングが かえって二人を引き立てていた。河野家と梅津家の家族親戚の他に、ごくごく親しい友人が数人ずつ参列した とてもアットホームな式が無事進み、ライスシャワーを浴びながら 幸せそうに寄り添って腕を組んだ二人が ゆっくりと参列者の間を通る。すっかり春の香りとなった風が 新婦のヴェールを軽やかに揺らす。その後銘々の写真撮影となり、新郎新婦が引っ張り凧となり、あちこちでシャッターを切る音が聞こえていた。ほっと一安心した様子の両家の両親が笑顔で挨拶を交わす頃、沙希も一歩二歩引いた所で 写真撮影の人だかりを遠巻きに見ていた。皆、特に新婦の友人やいとこ達は 晴れ姿のみのりと一緒に写りたくて、順番待ちでウズウズしていた。すると、さっきからカメラを頼む知り合いがいないらしく、他人と一緒に並んで笑う二人を 時折カメラのシャッターを押す人がいた。黒いパンツスーツを着た女性で、どうやら新婦側の友人らしかった。
「カメラ・・・撮りましょうか?」
気を利かせたつもりで、その女性の後ろから声を掛ける沙希。振り返ったその顔に、お互い息を詰まらせる。
「沙希ちゃん!」
「由美姉?!」
まさかの再会に 二人の頭の中は同時に 急速に回転を始めた。
「分かんなかったぁ・・・」
「あれ?沙希ちゃん・・・あっ、そうかぁ・・・河野さんって、沙希ちゃんも河野さんだったね」
「由美姉は?みのりさんの・・・お友達?」
由美姉は笑って頷きながら答えた。
「幼なじみ。小っちゃい頃近所だったの」
沙希が シャッターを浴びるみのりをチラッと見ながら言った。
「そういえば・・・千葉の出身だって言ってたか・・・」
その時、みのりがこちらを呼ぶ声がした。
「由美。一緒に撮ろうよ」
沙希の知るみのりと 由美姉の共通点がどうしても重ならず 少々戸惑っていると、由美姉がみのりの方に手を上げて合図をする。『また後でね』と言い残してかけて行く由美姉の見慣れないヒール姿を、ぼんやりと眺めている沙希だった。その後、みのりと由美姉が言葉を交わす光景を目にしたが、やはりまだ そのツーショットに信じられない沙希だった。
「良かったの?パーティーに行かないで」
「沙希ちゃんこそ、お家の人達と一緒に帰らなくて平気だったの?」
近くの喫茶店で、コーヒーの香りに一息つく。『びっくりした』とか『気が付かなかった』とか『まさか会うと思わなかった』とか・・・ひとしきり今日の再会の驚きを口にし合うと、どこからともなく沈黙が訪れる。そして、コーヒーカップとソーサーの音だけがカチャカチャと その間を繋ぐ。大地がメキシコに行ってから、沙希も仕事が忙しくなり 休日が無かった事もあり、すっかり疎遠になってしまっていた。すると、由美姉が コーヒーをすする沙希に話し掛ける。
「コーヒー飲んだっけ?沙希ちゃんって、紅茶のイメージだったような気するけど・・・?」
内心ドキッとしながら、カップから口を離す。
「最近なの。・・・友達がコーヒーすっごく好きで、しょっちゅう缶コーヒーだのホットだの飲むでしょ?そのうちいい香りだなぁって思う様になって、飲む様になっちゃった。うちでもコーヒー入れて飲むのって父親ぐらいだったから」
「その友達って、彼氏じゃないの?」
沙希の言い方から そう察した由美姉が率直に聞くと、少々動揺しながら返事をした。
「・・・うん・・・まあ・・・」
切れの悪い口ぶりに、由美姉が軽く笑った。
「隠す事ないよ、別に」
頷きながら つられて笑う沙希だったが、何故自分が浜崎の事をとっさに“友達”と言ったのか分からなかった。
再び沈黙が訪れると、それをごまかす様にお互いコーヒーを一口飲んだ。
「由美姉・・・知ってるかな・・・。私・・・大地と・・・別れちゃったの」
思い切ってその話題に触れると、由美姉は下を向いたままくすくす笑い出した。
「何?何か変・・・?」
首を横に振る由美姉。
「だって沙希ちゃん今『彼氏いる』って言ったでしょ。大地と別れたんだって事くらい、分かるよ」
「そうか・・・。そうだね」
沙希も照れる様に笑った。すると由美姉が、煙草を口にくわえながら言った。
「やっぱり距離と時差にはかなわなかったか・・・」
その言葉で、約3年前の別れのシーンが沙希の脳裏に甦る。
「でもね、5年後とか10年後に 笑って会いたいねって・・・言ってた」
煙草の煙を口の端から吐き出しながら、由美姉が返す。
「あいつ、そんな事言ったんだ・・・」
「まだ4年も経ってないけど・・・大地、どうしてるかなって・・・。メキシコにいるのかなぁ。それとも・・・もう日本に戻ってきてるのかなぁ。・・・由美姉は・・・連絡とか、取ってる?」
沙希が打診すると、由美姉は煙草をもみ消しながら言った。
「沙希ちゃんは、今の彼氏とはどうなの?上手くいってるの?」
自分の聞いた質問に対しての答えじゃなかったからではない。今沙希にとって、一番触れられたくない事柄の一つだった。
「まぁ・・・お互い好きにやってるって感じかな」
そんな思いつきに任せた台詞を言いながら、由美姉が何故そんな事を聞くのか 不思議に思った。
「結婚とかは?考えてないの?」
「まさか。そういうタイプの人じゃないし」
由美姉がコーヒーをまた一口、そして沙希も一口飲んだ。無言の時が流れ、もう一度沙希がチャレンジする。
「由美姉は・・・大地の近況とか・・・知ってるの・・・?」
そこまで喋ってから、自分の醜い下心を隠す様に 付け加える。
「いや・・・元気で、無事ならいいんだけどさ。ほら、メキシコって・・・そんなに治安が良い方じゃなかったし、ただ・・・それだけ気になったっていうか・・・。って言っても、由美姉の顔見て 久し振りに大地の事思い出したんだけどね」
最後まで沙希のわざとらしい言い訳を聞いてから、ゆっくりと由美姉が口を開いた。
「私全然知らないんだ。でも・・・ま、あいつの事だから 元気にやってると思うよ」
あれからしばしば、大地の事が沙希の心をかすめていた。そして あの当時を思い出す時、大地を裏切った罪悪感は薄れ、ただ大地に想いを残したまま離れ離れになった運命を悔やんだ三年間の月日だけが、胸に去来するのだった。しかし、今のこんな自分じゃ 胸を張って会えないと思う理性と、それでも大地を求めてしまう情が 複雑に絡み合って、沙希の中で喧嘩していた。だが、大地との再会を思い描いただけで、今まで緊張感や新鮮さを欠いていた日常が 嘘の様にキラキラと輝いて見え、自然と心が躍り出すのだった。しかしやはり現実的には難しく、第一 由美姉が大地の居場所を知らないとしたら、連絡のつけ様がなかった。北海道の実家の住所も電話番号も知らず、大地の友人知人の連絡先は 由美姉以外は誰も知らなかった。ただ知っているのは、4年前メキシコに住んでいた時の住所と電話だけ。沙希は何日も迷った挙句、ある晩思い切って受話器に手を伸ばす。4年前、メキシコとの15時間の時差を気に掛けながら 受話器を手にした いつもの時間帯、ゆっくりと指でプッシュボタンを押しながら、4年前のあの時へ 沙希はタイムスリップしていた。呼び出し音が一回ずつ耳に鳴り響く度に、期待と不安が同じ速度で膨れ上がっていった。その風船の様な気持ちが満杯になり、弾けそうになる寸前で ガチャッと相手方の受話器が上がった音がする。用意していた台詞は一瞬にして吹っ飛び、頭の中が真っ白になった瞬間、耳に飛び込んできたのは 聞き慣れないスペイン語を話す男の声だった。沙希はやっとの思いで、言葉を絞り出す。
「Is Taichi Kimura here?」
(「木村大地さんはいますか?」)
しかし返ってくるのは 意味の分からないスペイン語ばかり。そして再び沙希が、スペイン語を話せない事を告げる。
「I’m sorry. I can’t speak Spanish. So・・・」
(「ごめんなさい。スペイン語話せないんです。だから・・・」)
すると、ぶっきらぼうに その男は一言言い放った。
「Wrong number」
(「間違い電話だよ」)
確かに、朝っぱらからの間違い電話に のんびり付き合ってくれる人は居ない訳で、まるで このまま一方的に切られてしまいそうな勢いを感じ、沙希は慌てて叫んだ。
「Wait a minute, wait a minute!!」
(「ちょっと待って、ちょっと待って下さい!!」)
すると意外にも 沙希の次の言葉を待っている様子で、慌てて沙希も喋った。
「I’m looking for Taichi Kimura,Japanese man. Do you know him?」
(「日本人男性の木村大地さんを探してるんです。彼を知ってますか?」)
冷静になって考えると、随分と大胆な行動に出たものだが、後のない沙希は この時必死だったのだ。しかし沙希のがむしゃらも無念に、ただ相手の男は 低く太い声で『No!』とだけ言うと、ガチャンと乱暴に電話は切られてしまった。回線が途切れたと同時に、沙希の僅かな希望まで絶たれた思いがしていた。
日曜日、相変わらず浜崎からの連絡はなく、時間を持て余した沙希は ふと思い立った様に家を出ると、電車に揺られた。横浜駅で東横線に乗り換え、丁度ホームに滑り込んできた各駅停車に乗り込む。この電車に乗ると思い出す大地との様々な出来事。何度大地に会いに、この電車に乗った事か。そして 時にはワクワク、そして時には暗い気持ちで流れる景色を眺めていた記憶がわぁっと溢れ出す。新丸子駅の改札を出る時、初めてこの駅に降り立った あの19歳の夏を思い出す。あの時も同じ様に、大地を探す為 当てもなく ただ思いつきと勢いだけで改札をくぐったのだった。気持ちが頭を通らずに行動に出る瞬発力は20代前半までの専売特許だと思っていたが、今でもそんな若い情熱が残っている事に 沙希は単純に嬉しくなった。最近の自分は、ただ傷付かない様に 身を守る事ばかりを考えて、自分を抑え 相手と向き合う事を恐れた軟弱な人間に いつの間にかなっていた。もうこんな 期待と好奇心を胸いっぱいに抱え、なおかつ大きな不安と低い可能性というリスクまで背負って、ただ前を目指して歩こうとする恋愛体力が 自分の中に隠れていようとは、思いもよらなかった。
駅前のスーパーは綺麗に改装されていて、照明も明るく 日曜の午後 家族での買い物客で賑わっていた。商店街はあまり変わっていなかったが、やはり所々新しい店構えが目についた。新しくなってしまうと、昔そこに何があったのか 忘れて思い出せないものである。ぼんやりと そんな懐かしさに浸りながら歩いて行くと、大地のバイトしていたビデオ屋が見えてくる。月日は流れても、佇まいを同じくして健在であった。思わず足が向き、ふらっと その自動ドアをくぐる。あの時と同じ様に『いらっしゃいませ』という声に出迎えられて店内に入って行くと、やはり足の進む方向は洋画のコーナーで、二度目に大地に再会した時の映像が まるで昨日の事の様に鮮明に思い出された。しかし、もう大地はそこにいる筈もなく、全く知らない若い男の子が 当時の大地と同じ様に返却されたケースを棚に並べていた。
「いらっしゃいませ」
振り返りながら その店員が言った拍子に、両手いっぱいに抱えていたビデオのケースが床に転がり落ちる。
「失礼しました」
まごまごしながら抱えた沢山のケースを気に掛け しゃがみ込むと、また一つ二つと手元からケースが落ちてくる。沙希もしゃがんで 幾つか一緒になって拾う。手渡したビデオケースにチラッと目をやると“インディペンデンスデイ”“トップガン”そして・・・“シルクオブライフ”だった。
「ありがとうございます」
若い店員が、少し恥ずかしそうに頭を下げる。手渡してから、今度は沙希が声を発した。
「これ・・・借りてもいいですか?」
大地と渋谷まで“シルク オブ ライフ”の試写会を観に行った日。あの日は雨で、帰りに 近くに越してきたという由美姉の行きつけの焼き鳥屋に傘を忘れてきたエピソード。あの時の記憶のフィルムと共に、感情までが再生される。あの時試写会で観た“シルク オブ ライフ”が、今ではビデオ化されている事に じんわりと歳月を感じながら、レンタルしたビデオを片手に店を出て行った。
懐かしい黒い煙突の立つ沢野湯を過ぎると、いよいよ沙希の鼓動も早くなる。深呼吸をして ゆっくりと足を一歩一歩踏み出すと、やがて左側に昔とちっとも変っていない“あおい荘”が見えてくる。昔から決して綺麗とは言い難い 古い木造のアパートだけに、正直 取り壊されて新しく立派なマンションにでも生まれ変わっていたとしたら・・・と、半ば覚悟をしていたのだった。そしてアパートの裏側に回り、かつて大地の住んでいた203号室の部屋の窓を見上げる。窓にはカーテンが掛けられている様子が ガラス越に窺い知る事ができ、空き部屋でない事に多少の期待を膨らませた。昔と同じ様に カンカンと靴のかかとが音を立てて、恐る恐る階段を昇ってみる。そして少しスリルを感じながら、203号室の表札に目をやる。大地がいた頃は そこにマジックで手書きされた“木村”という文字が入っていたが、沙希の目の前の札には 何も書かれておらず、一見誰も住んでいないのかと思わせる。しかし、玄関脇の小窓のすりガラスからは、台所用品と思える物影が 住人の存在を示していた。心のもやが晴れないまま、階段の手すりに手を掛ける。意外にも急な階段を下りながら、強引に別れた20歳の冬、返し忘れた鍵を持って来たあの年末の1ページを思い出す。留守だと思っていた部屋のドアが突然開き、階段の上から呼び止められた事。顔を僅かにひきつらせながら『元気で頑張って。幸せにな』を絞り出す様に口にした大地が、まるで今振り向いたら そこに立っている様な錯覚まで起きてくる。
その時、バッグの中で携帯が鳴る。一瞬にして現実に引き戻され、慌てて階段を下りながら電話に出ると、来月に結婚を控えたゆかりからだった。
「どうしたの?」
「急で悪いんだけどさ、結婚式でさ スピーチ頼まれてくれない?」
「スピーチ?私が?」
「頼んでた人がね、スキー行って骨折しちゃってさ、欠席になっちゃったんだぁ。だから、本当急で悪いんだけど・・・。沙希だったら、原君の事も私も 両方知ってるし・・・」
商店街を駅の方に戻りながら 話をすると、お祝い事だからと沙希も快く引き受け、電話を切った。そして思い出した様に、今度は駅の反対側に抜け、大地と来た小さな小さな喫茶店に入る。入口を開けると、ドアにぶら下げられたベルが 当時と同じ音色でカランコロンと響く。
「いらっしゃいませ」
と水とおしぼりを持って来たのは バイトの子らしき男の子で、以前は黒いエプロンをかけた奥さんが注文を取り、カウンターの中のご主人 つまり店のマスターにオーダーを伝えていたのだ。今までバイトを雇ったのを見た事のない店で、沙希は少し背伸びをして カウンターの中を覗く。すると当時より少し太ったマスターが、コーヒーをカップに注いでいた。こんな些細な事でも時の流れを感じながら、ホットを注文した。そしてさっき ゆかりから頼まれたスピーチでも考えようかと沙希がバックから手帳を取り出すと、カウンターに座っていた客が さっきの若い 注文を取りに来た男の子に話し掛ける。
「君はバイトかい?」
すると、すぐさまカウンターの中からマスターが 笑いながら答えた。
「息子です」
「いや~見ない顔だなと思ってね。そう、マスター こんな立派な息子さんがいたの?」
「いやいや、立派かどうかねぇ・・・。今日はね、たまたま女房が用事があって出掛けてるんで、息子に代わりに出ろって言って 手伝わせてるんですよ。今日は日曜で 大学も休みでしょ?だから家でゴロゴロ寝てるよりは よっぽどマシだと思ってね」
「そういやぁ目元の辺り、奥さんにちょっと似てるねぇ」
『なるほど』と聞こえてきた話に納得していると、今度は勢いよく入口のドアが開いて、作業服を着た二人連れが入ってくる。
「マスター、ランチもう終わっちゃった?」
どうやら常連だった様子で、マスターに手を上げて挨拶をしている。
「終わっちゃったけど・・・いいよ、作るよ。何がいい?」
「助かったぁ。俺ピラフ。ピラフ出来る?」
すると連れのもう一人も、ピラフが食べたいと言い出す。
「ちょうど二人前位残ってたよ。日曜はランチ、あんまり出ないんだよね。こっちも食べてもらって助かるよ」
そう言いながら、マスターが早速白い皿を二枚準備しながら その二人連れに話し掛ける。
「今日も仕事?」
「先週雨が続いたでしょ?だからずっと作業出来なくって。お陰で日曜まで返上で働いてますよ。特にさっきもちょっとトラブって、昼飯まで食いそびれちゃって・・・」
ぼーっと そんなやり取りを遠い意識で聞いていた沙希の鼻に、懐かしい匂いが届いてくる。見ると、マスターがピラフを皿によそっていた。6年近くも前の事だったが、ここに大地と来た時に 突然嬉しそうな面持ちで言ってきたのを思い出す。
『今日は奮発して、ピラフ食おう。ここのピラフ、すっごく美味いんだ。懐かしい味がすんだよな。前に一回だけ食った事あんだけどさ』
まるで子供が縁日で いつも我慢している射的をやろうと 貯めたお小遣いの五百円を嬉しそうに握りしめているみたいに、あの時の大地は そんな初々しい表情をしていた。実際そのピラフは本当に美味しく、二人で食べながら 笑顔で目を合わせた あの幸せな空間が、ふとまた舞い降りてきた気がした。再び我に返り、ボールペンを手に取り スピーチを考え始める。しかし、どうしても先日のゆかりの言葉が コーヒーの香りと共に思い出されてならなかった。『二番目に好きな人』『忘れられない人がいた』あの時すんなり飲み込めなかった言葉達が、未だに消化されないまま 腹の底で疼いていた。・・・あんな事、聞かなければ良かった。正直そう思った。あの言葉達が邪魔をして、純粋に二人を祝おうという気持ちまで曇ってきて、スピーチを考えるどころではなくなっていた。いつしか沙希の頭は、先日ゆかりと喫茶店で再会した時の会話に移っていた。
『本当に愛されたっていう自信だけで、女は充分生きていけるもんなんだって』
そういえば昔、桜井も似た様な事を言っていたのを思い出す。あれは大地と別れた後、後悔や淋しさが入り乱れていた自分に、桜井が慰める様に語ってくれた言葉だった。
『男は 愛した人の事は一生忘れないし、女性も愛されたって事が それからの人生で財産になるんじゃないかと思うんだ』
私がこんな風に思い出巡りをする様に、大地も私の事を覚えていてくれているのだろうか。きっと大地はあの当時、私を本気で愛してくれていた筈だろう・・・。しかし・・・自分の中でそれが財産となり、それだけで充分生きていける程の力になっているのだろうか・・・。答えはすぐに出た。もしその答えが“Yes”なら、今頃こんな所で こんな事を考えていない筈であった。『本当に愛された事のある人は いい顔してる』というゆかりの言葉は、まんざら分からないでもなかった。しかし自分は・・・決して今、その類に分類されない事は明白であった。確かに大切に愛してもらった筈なのに、それをエネルギーとして輝けない自分は 一体何なんだろう。沙希は出口のない迷路に入り込んでしまっていた。
「女ってなんでそうなんだろうな」
久し振りに会った浜崎が、カウンターに頬杖をつきながら そう言った。
「昔の彼氏には 自分をいつまでも一番の女だったって思ってて欲しいみたいなさ・・・」
何故突然こんな話題を持ち出すのか 内心沙希はドキッとしながら、次の言葉を待った。
「そんな事ありえねえのにな」
頭の上から大きな石が落ちてきた様な衝撃で、めまいを起こしていた。
「会社の後輩の女の子でさ、・・・って言っても その子は編集の方じゃなくて 取材班の方なんだけどさ、この間飲みに行った訳よ。そしたら『男の人ってどうなんですか?』って始まってさぁ、なんか元彼は 借金までしてギャンブルやる様な金銭感覚もめちゃくちゃな人だし、ルーズだし・・・で、別れたらしいんだけど、そいつが未だに時々会いに来るらしいんだよ。金が目当てか、体が目当てか知らんけど。でも そんなダメ男だと分かってても、それに応じちゃう自分がいるって。だから言ってやったんだよ。『お前 それ、ドツボにはまってる』って」
喉を潤す様に そこで一口ウォッカを飲んで、また続ける浜崎。
「『元彼はまだ私の事、忘れられないんじゃないかと思って』って言うから、思わず『バカ』って言っちゃったよ。だって、そうだと思わねえか?」
「・・・・・・」
黙ったまま首を傾げる沙希。少なからず その彼女の心情を察するに難しくない沙希は、まるで自分が言われている様で 少々バツが悪かった。しかしそんな沙希の心を知る由もなく、更に鋭いつっこみは続いた。
「男なんて、結構あっさりしてるもんだぜ。一人終わったら『はい、次!』みたいなさ。よく男の方が未練がましく言われるけど、そんな事ないって。女のがよっぽど女々しく引っぱって、その上たちが悪いのが、自分と別れた事を後悔してると思い込んでる高飛車ぶり。あれには勘弁して欲しいよな」
「・・・修ちゃんみたいな人ばっかりじゃないかもよ。中には・・・想いを残してる人だっているかもしれないし・・・」
たかだか他人の話で そこまでむきになる沙希を不自然に感じ、浜崎がグラスに口を付けながら沙希を眺めた。
「あれ?お前もそのクチ?・・・違うだろ?」
「いや・・・そういう訳じゃないけど・・・。その後輩にだって そんな言い方したら可哀想だよ」
まだ火のついていない煙草を歯にくわえながら、浜崎が喋った。
「勘違いしてる奴には、はっきり言ってやった方がいいんだよ。それにさ、どんな理由にしろ、元彼の事考えてるなんて後ろ向きな生き方 やめろって言ってやったよ」
その言葉がグサッと沙希の胸に突き刺さった。そんな浜崎の言葉が 暴走しそうになる沙希の心にブレーキをかけていたが、もはや止める事は出来なくなっていた。