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輝けるもの(下)  作者: 長谷川るり
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第2章 灰色の居場所

2.灰色の居場所


仕事帰りに浜崎から連絡があって 二人は横浜で会うと、いつものショットバーに腰を据えた。そしていつものラムコークを飲みながら、沙希が言った。

「昨日も一昨日も電話したんだけど、ずっと留守電だった。どっか行ってたの?」

「あ・・・ちょっとね・・・」

曖昧な返事に、少々怪しげな顔で浜崎の顔を遠慮がちに覗き込む沙希。するといつものストリッチナヤウォッカのロックを口に含ませてから 浜崎が言った。

「友達と急にスノボーしに行く事になって、新潟まで行ってたんだ」

「ふ~ん・・・」

昨日一昨日と浜崎の仕事を休みだったのを知っていて、何の連絡も取れなかったのを不信に思い、尋ねたのだった。浜崎修也は 雑誌の出版社に勤めるエディターで、基本的には日曜休みだったが、割合不規則な仕事で 先日から詰めて働いていた為、代休を二日間取っていたのだった。休日でも必ず沙希とデートするとは限らず、友人が多いせいもあり 比較的勝手気ままな自由人で、今回の様な事は珍しくなかった。最初の頃は 沙希もそれが分からず、問い詰めたり疑ったりすると、束縛を嫌う彼をかえって怒らせてしまっていた。そのうちに沙希も そんな彼の態度や行動に慣れっこになってしまい、とりあえず浜崎が『誰と何してた』と答えると、それを受け入れる事にしていた。ピスタチオの殻を剥きながら、沙希がまた喋る。

「今年ももうすぐ終わっちゃうね」

「年末年始で、一泊でいいから どっか行きたいな。沙希は温泉がいいんだろ?」

「いいねぇ。露天風呂に入りたいね。雪見風呂とかしてさ・・・」

「よく部屋に風呂が付いてる所あるじゃん。そういうんだったら二人っきりで入れるしな。俺調べとくよ」

付き合いたての頃は 彼の自由人ぶりに馴染めずに、浮気をしてるんじゃないかと気を揉んだが、最近ではそれにも慣れ 更にはこんな一言や些細な言動でごまかされてしまう自分がいた。浜崎は、沙希の仕事の事を殆ど聞いてこなかった。沙希が今まで付き合った人は皆、仕事の事を気に掛け 励まし応援してくれた。だからそんな浜崎の行動が理解できずに、聞いた事があった。

「私の仕事の話とか・・・どうして聞かないの?知りたいとか 思わないの?」

「だって、どうせ聞いたって分かんねえし」

「そうだけど・・・。だけど、もっと私の事知りたいとか・・・さぁ・・・」

「俺は、仕事の時の沙希が好きな訳じゃなくて、俺と居る時の沙希が好きなんだよ。だから・・・それでいいんじゃないの?」

あっさりしたものだった。そして、変に納得してしまう沙希だった。


 今年の初めに専門学校時代のクラス会があり、実に約5年ぶりに再会する面々と楽しく過ごし 時の経つのも忘れた。当時仲良く会話を交わした男友達とも、卒業と同時に疎遠になっていたが、再び友情が復活していた。神林吾郎もその一人で、良き飲み仲間になっていた。

「男なんて、けっこう干渉されるの嫌なとこ あるかもな」

神林は横浜の住人で、職場も横浜とあって 二人は仕事帰りに飲む事も少なくなかった。

今日も二人が常連となった炉端焼き屋で、日本酒の盃を傾けていた。

「吾郎もそういうとこ、あるんだ?」

「そりゃ あるよ。例えばこれだってさ・・・」

言いながら、沙希と自分を交互に指さす神林。

「女友達と飲んでるって言っても、彼女に色々詮索されたり 痛くもない腹探られたりするの嫌だからなぁ」

「そうかぁ・・・」

沙希は無造作におしぼりで手を拭く。

「私のしてる事だって、修ちゃんと同じなんだよね」

「そうだよ。彼女以外の女の子と飲みにも行かないでなんて 言えるか?自分はこうやって俺と飲んでるのに」

「吾郎の彼女は理解あるの?」

「あいつはさ、けっこう自分の時間が欲しいタイプの人間だから、お互いそれぞれの時間を楽しく過ごしましょう・・・みたいなとこ あっからな」

冷酒をゆっくりと口に流し込むと、沙希は言った。

「昔だったら、許せなかっただろうなぁ・・・」

沢蟹の唐揚げを一つ口に放り込んで、沙希の言葉を待つ神林。

「昔だったら、私以外の女の子と二人っきりで飲むなんて・・・って言ってたかもしれない。・・・それだけ大人になったのかな?」

神林は無言で微笑んでいるだけだった。

「そういやさ、祥子と仲良かったよね?今でも付き合いあるの?クラス会にも来なかったからさ」

沙希の顔が一瞬強ばる。

「卒業して1~2年は会ってたけど、もうここ何年もないなぁ」

鯛のあら煮の骨をしゃぶりながら、神林が言った。

「就職しちゃうと、それぞれの生活が皆違っちゃうからな。また連絡取ってみたら?又皆で会おうよ」

冴えない返事を返す沙希だった。


 日曜日、沙希が相変わらずの日曜出勤から 7時頃帰宅すると、玄関には何やら見かけない女物の靴が脱いであった。

「ただいま」

靴のデザインから 親戚のおばさんでない事は明らかで、もっと若い女性向けのパンプスだった。すると出迎えた母の顔は いつもより明るく、弾んだ声で言った。

「お客様がいらしてるの。一緒にお夕飯食べようと思って待ってたのよ」

リビングに入ると、ソファに座った兄の横に 背筋を伸ばして浅く腰掛けている女性が目に入った。すかさず母が紹介する。

「こちら藤谷みのりさん。純平の彼女」

みのりはすぐさま立ち上がって、深々とお辞儀をした。その立ち居振る舞いは 実にしなやかで品があり、その上とても颯爽として見えた。すらりと背の高い印象が 余計にそう見えたのか、それとも この日の服装が淡い水色に白い襟とカフスといった爽やかないでたちだったからか、沙希にはとても素敵に そして大人に見えた。

「やっと揃ったから、お夕飯にしましょうか」

ご馳走の並べられたテーブルの方へ 母が歩いていった。実に母は嬉しそうで、まるで後ろ姿からでも鼻歌が漏れてきそうだった。

「いっつも皆帰りが遅くて 生活がバラバラだから、こんな賑やかな食卓、本当嬉しいわ」

みのりの方へ笑顔の母が言う。5人でテーブルを囲んでいる光景を見て、ふと沙希は 青葉の家へ招かれた夕飯の席を思い出していた。そしてぼんやりと(お兄ちゃんは何故突然彼女なんて連れてきたんだろう。今まで一度だって家族に紹介したりした事なかったのに・・・)と、こんな事を考えていた。話のやりとりを聞いていると、どうやら二人は 仕事を通じて知り合ったらしい。純平はとある雑誌の専属カメラマンをしていて、そこである時、キッチン用品 つまり台所用品から食器に至るまでの商品の撮影があった。その時に キッチンコーディネーターとして来たのが みのりだったらしい。つきあい始めてから もう丸3年が経っているという事で、合い間合い間に交わす二人の会話や目つきは とても自然で落ち着いていて、まるで若い夫婦にさえ見えた。聞くと、みのりの方が純平よりも2つ年上だったが、やはりその分しっかりとして見えたが、二人の様子からはまるで そんな事を感じさせる節はなく、主導権は純平が握っている様が折々で見て取れた。

「沙希にとってはお義姉さんになる人なんだものね。昔っから沙希は『お姉ちゃんが欲しかった』って言ってたから、良かったわね、念願が叶って」

それが青葉の母の時の様に、嬉しさのあまりの早とちりなのか、それとも現実的な事なのか 沙希にはすぐに判断が付かず、思わず母とみのりの顔を交互に 大きく見開いた目が答えを探っていた。するとみのりが箸を止め、頭を下げた。

「宜しくお願いします」

沙希にとっては随分と急な話の様に感じたが、改めて兄の28という年齢を考えると それもおかしくはないと納得が出来た。

 和やかな食事が進む中、母がまたもや今まで以上に笑顔で顔を歪めながら言った。

「夏には私もお婆ちゃんだものね。どうしましょう」

沙希は耳を疑った。箸を口へ運ぶのも忘れ、その真相を探る様に 母から視線を外す事は出来なかった。そしてそれに気が付いた母が、実に清々しく言い切った。

「みのりさんのお腹の中に赤ちゃんがいるのよ」

その言葉と同時に衝撃が走り、沙希はみのりの方へ視線を移したまま身動きをとる事ができなかった。何故そんなあからさまな態度を取ってしまったのか、沙希自身にも分からなかった。沙希に凝視され、みのりは笑うでもなく 縮こまるでもなく複雑な表情をすると すぐに俯いてしまった。すると兄の純平が茶化す様に沙希に言った。

「お前だって、もうすぐおばさんだぞ」

そこでようやく沙希に笑顔が戻った。沙希の中でも 突然の兄と彼女の訪問の意味に やっと納得が出来たのだった。


「ごめん、沙希。クリスマスも正月も仕事入っちゃった」

浜崎からのキャンセルの電話に(またか)という思いで、あっさりと返事をする沙希。

「わかった。・・・また、どっか出張?」

「ああ。京都の方に取材チームが行くんだけど、それに一緒にくっついて行く事になっちゃって」

浜崎にしては、理由を明確に説明した。

「年明けて落ち着いたら 休み取るから、そしたら一緒にどっか行こ」

「私、仕事休み取れないよ」

そんな事、浜崎は百も承知の筈だった。

「そっか・・・。ま、この埋め合わせは必ずするから。ごめんな」

「気にしないで。修ちゃんの仕事の不規則には慣れてるから」

そうは言いながらも、浜崎の今回のキャンセルの理由も100%は信じていない自分が当たり前にいる事に、沙希は麻痺して気が付いてはいなかった。


 そんなまま年が暮れていき、曇り空に昇るぼんやりとした日の出と共に 新年が明ける。

 河野家では、兄の純平とみのりが早々にも入籍を済ませ、かねてから探していた新居もJR新子安駅から徒歩5分のマンションに決まり、バタバタと引っ越しをしていった。挙式は みのりが安定期に入る3月の予定で、山手にある丘の上の教会で こじんまりと行われる事になっていた。

 年が変わってから 約10日ばかり経った頃、突然浜崎から沙希の携帯に電話が入る。今年初めての会話だった。

「これから会えるか?」

仕事帰りに突然電話が鳴り『これから・・・』という いつも突然の行動に、すっかり沙希は慣れていた。

 いつものショットバーのカウンターで沙希は、あらためて浜崎に頭を下げた。

「明けましておめでとうございます」

ささやかな抵抗のつもりか、その一言には少々嫌味も混ざっていた。

「こんなに放っておかれると思わなかった。このまま連絡ないのかなぁ~とか、考えちゃった」

前を見たまま無表情に言った。すると、それに対して何を言うでもなく、浜崎はバッグの中から小さな小さなガラスの瓶をつまみ出した。

「お土産」

カウンターのテーブルに置かれた瓶の中には 小さな砂が入っていて、店の照明に反応してキラキラと輝いていた。

「何・・・?」

「京都でさ、仕事で行った先で見つけたんだけど、あまりにも綺麗な砂だったから 拾ってきちゃったんだ。沙希、こういうの好きで喜ぶかなぁと思って。ま、ただの砂っちゃあ砂なんだけどな」

「へぇ・・・」

沙希は小さな瓶をつまみ上げて、明かりにかざして 角度を変えては眺めていた。

「どうして こんなキラキラしてるの?」

「何か鉱物系の物が混じってるらしいよ。それ自体は全くの天然の物らしいけどね」

「ありがとう。凄く嬉しい」

沙希は正直、クリスマスからお正月にかけての浜崎の行動は、他の彼女との旅行なのかなと疑っていた。しかし旅先で 自分の事を思い出し、世界でたった一つのお土産を用意してくれた浜崎の優しさに、ただ単純に喜びを感じていた。沙希の心の中での疑惑がすっかり晴れた訳ではないが、(ま、いっか)という 最近ではいつもの うやむやにする癖が働いていた。


 約半年前の沙希の誕生日の翌日に会った京子が、再び日本に家族で帰国していた。4歳になったノーナちゃんと1歳半になるジューン君の4人家族を切り盛りする、すっかり良い母になっていた。

 この日は雪が降りそうな程しんしんと冷え込んでいて、子供連れで外で会うのをためらい、久々に京子の実家へと訪ねていた。10年近く振りに会った京子の母は 変わらずに元気だったが、やはりどことなく10年の歳月を感じさせる年輪が刻まれていた。

「沙希ちゃんも すっかり綺麗なお嬢さんになっちゃって。外でふらっと会ったって 分からないわね、きっと」

「おばさんも お変わりなくお元気そうで・・・」

孫に囲まれ嬉しそうな京子の母に『ごゆっくり』と笑顔を送られ、久し振りに踏み入れた懐かしい京子の部屋を 感慨深げに眺め回す。

「この部屋も変わってないね。このまんま残してくれてるんだ?」

10年前と同じ様に 沙希は床に座り込み、京子がベッドに腰を下ろした。

「うちもね、お兄ちゃんが結婚したんだ。夏に赤ちゃんが生まれるって」

「そうかぁ。沙希のお兄さんって・・・2つ上だっけ?28じゃ、そういう話があったっておかしくないもんね。もう、そんな年にお互いなってきたって事だよね」

「お腹に子供がいるって、なんか神秘的だよねぇ。妊婦さんって 凄く幸せそうだし、子供連れの家族とか見ると なんか温かくて幸せいっぱいって感じする」

京子が少し笑った。

「実際はそんなロマンチックなもんじゃないけどね。妊娠中も子育ても、もっとこう・・・壮絶っていうか・・・そんな沙希が言うみたいな ほんわかしたもんじゃないよ。毎日が戦いみたいなとこ あるからね。ま、その分嬉しさも楽しさも倍になるけどさ。・・・沙希だって そろそろ そういうのが現実的になってきたんじゃないの?どうなの?その、誕生日に出会った彼とは?」

とっさに沙希は答えに迷った。

「まぁ、何とか・・・やってるって・・・感じかな」

「結婚とか考えてないの?その彼とは」

真顔の京子に、沙希が手を横に振って笑い飛ばした。

「ぜ~んぜん。修ちゃんは自由人だし・・・家庭を守っていくってタイプじゃないし。それに私だって修ちゃんとの結婚なんて考えた事もない」

ベッドの淵に腰を下ろし、両足をぶらぶらしていたのをやめる京子。

「じゃ、どうして付き合ってるの?」

「えっ?だって・・・好きだから・・・」

そう答える自分の言葉に、沙希自身足元がぐらついていた。

「好きなら ずっと一緒にいたいって思って・・・それが『結婚したい』になるんじゃないの?」

京子もベッドから降り、床に座り込んでいた。沙希は京子から視線を外すと 暫く考えていた様子で、やがて重たい口を開く。

「結構 修ちゃんの行動ってつかめなくてさ。束縛されるの嫌いな人だし・・・でも疑おうと思ったら 怪しいとこいっぱいあるし・・・。だけど、そんな事聞こうもんなら 怒って不機嫌になっちゃうだろうしね。最初はね、そりゃ気を揉んだけど、最近じゃ割と平気になっちゃってね。私も、やっと楽に恋愛できる様になったよ」

最後に少し笑ってみせると、沙希はようやく京子の顔を見る。すると京子が黙ってはいなかった。

「そんなの恋愛じゃないよ。恋なんて楽なもんじゃないし、全身全霊でするものでしょ?・・・沙希は、その彼の事・・・好きじゃないんだよ」

またしても京子の言葉が、沙希の胸に深く突き刺さった。


 今年の冬は寒さが厳しいと 皆が口々に言うだけあって、この日もこの冬三度目の雪が降っていた。昨夜 雨から雪に変わり、一晩中かけて街を白く覆い尽くした。東京の都心では、電車に遅れが出たり ストップしたりと、交通機関にも多くの影響が及んだ。今日は日曜出勤の日だったが、サロンの予約も 当日キャンセルの連絡が何本も入り、早くに閉店となった。電車の中で 沙希はスケジュール帳を取り出し、カレンダーを見る。そして指折り数えてはふぅと溜め息をつき、深刻な顔で肩を落とした。いつもならとっくに閉まっている本屋が、今日は思いがけない早帰りで開いている。沙希は重苦しい心を抱え、本屋へと入る。実用書の棚に行き、少々周りを気にしながら 手を伸ばしたのは“明るい妊娠と出産”という一冊の本だった。最初の方のページをパラパラとめくると、“妊娠の兆候”という項目が目に飛び込む。思わず食い入る様に読んでみると、その内容に 何か決定的な切り札も無ければ、絶対に違うと断定できる物も何も無かった。モヤモヤを更に募らせたまま本屋を後にして、次に向かったのは ドラッグストアだった。こんな雪の日に買い物客は誰もおらず、化粧品類 ヘアケア製品の棚を通り過ぎ、店の奥の方にある女性用品のコーナーで立ち止まり、妊娠検査薬に手を伸ばす。そして箱に書き記されている注意書きを読むと、そこには『生理予定日より2週間が経過している事』とあった。暫く沙希は その場を立ち去るでもなく、又それをレジに持っていくでもなく ただじっと立ち尽くしていると、どこからか呼び掛ける声がした。

「沙希ちゃん?!お買い物?」

慌てて ふと隣のコーナーへ手を伸ばすふりをしてみせ、声のする方を見ると 近所の武村さんのおばさんだった。

「こんばんは」

「今お仕事の帰り?今日は雪で大変だったわね・・・」

笑顔で受け答えをする沙希の手元に、武村さんの視線が走るのが分かる。とっさに掴んでいた生理ナプキンを置くと、沙希は挨拶をして店を出て行った。


 家に戻り、部屋のベッドに横になりながら 様々な思いが頭を駆け巡った。

(京子は、子供が出来たとわかった時 一体どんな気持ちだったんだろう。みのりさんは・・・?手放しで皆 喜べたのだろうか)

“産む”という決断を下すには、様々なしがらみを払拭する必要があった。仕事の事、結婚の事・・・。

(修ちゃんは一体、どんな反応を示すんだろう。喜んで『結婚しよう』と言ってくれるのか。・・・私は修ちゃんと結婚したいのか・・・?)

沙希には今、途中で辞めてしまいたくない仕事があった。そして浜崎とも 結婚など考えた事もなく、先日京子に言われた『その彼の事好きじゃないんだよ』という指摘も、時が経つ毎に(そうなのかもしれない)と思い始めているところだった。時として運命は悪戯で、浜崎に対しての自分の気持ちに疑問を持ち始めた矢先の妊娠・・・。もしかしたらお腹に生まれたかもしれない小さな小さな命。それを簡単に否定するような行動は、今の沙希には 親に打ち明けるより難しかった。

 その時、遠くで携帯が鳴る。さっき着ていたコートのポケットに入れたまま忘れられていて、そこから沙希を呼んでいた。浜崎からだった。

「今どこ?今日これから会える?」

「いいけど、雪平気?」


 そして二人はTommy’s Barで好物のポテトパイとエスカルゴをつまみながら、浜崎はストリッチナヤをロックで、沙希はラムコークのグラスを傾けていた。

「私達って、会うのいっつも夜だね。会えば飲んでる気がする。今日は昼間も仕事だった?」

煙草を灰皿でもみ消しながら 浜崎が言った。

「寝てた。昨日夜遅くってさ。久々に良く寝たよ」

大あくびをして左手で首を揉んでみせる浜崎に 全く悪びれた様子もなく、その仕草に沙希はかえって溜め息をついた。

「私も今日、仕事早くに終わってたの」

「そうか。どこも行かなかったの?あ、久々に寝てた?お前も」

遠回しのささやかな抵抗も、あっけなく砕け散った。

 ウォッカのグラスを一杯空けると、丸くカットされた氷を人差し指で転がしながら 沙希のグラスに目をやる。

「もう一杯頼む?」

しかし沙希のグラスには まだ半分以上ラムコークが残っていた。

「今日はピッチ遅いなぁ」

「ゆっくり飲むからいいよ、先オーダーして。最近ちょっと飲み過ぎだから、今日は・・・控え目にしとく」

とっさに付いた嘘にも 特別な反応はなく、それが沙希を余計に悲しくさせるのだった。

 修也の所に二杯目のグラスが来ると、沙希が切り出した。

「お兄ちゃんのとこ、夏に赤ちゃんが生まれるって。うちの母親なんか 今からウキウキしちゃって、もう大変。奥さんもね、キッチンコーディネーターの仕事してるんだけど、つわりが軽くて楽みたい。仕事ぎりぎりまで辞めなくて済んだって言ってた」

「子供かぁ・・・」

浜崎は一口ごくりとウォッカを飲んだ。

「俺、子供って苦手なんだよな」

「自分の子でも・・・?」

沙希は心の中で祈った。

「俺は駄目だな・・・。自分のやりたい事が多すぎて、子供に愛情注ぐ余裕ないわ」

決定的とも思える言葉だった。


その晩から沙希は、もう一度自分の気持ちを見つめ直していた。確かに浜崎は自由人で 束縛を嫌い、沙希に対しても束縛をしない事がかえって沙希の不安や不満を募らせていたが、本当はどうなのだろう。(もしかしたら子供が出来たかもしれない)と思った時、真っ先に何と思ったのか?嬉しいと思ったのか、困ったと思ったのか・・・。あの時自分の頭に浮かんだのは 奇しくも後者で、仕事の事や家族に対する建前や世間体、そして最後に浜崎の反応だった。たったの1回も(修ちゃんの子供が授かって嬉しい)と思わなかった事が、一番の問題なのではないか。彼がどうとか、自分に対しての愛情がどうとか、はたまた子供が嫌いだとか、そんな事は本来大した事ではなかったのだ。赤ちゃんが出来たかもしれないと分かって、初めて気が付いた自分の本音。だからと言って、沙希はどうしたらいいのか、どうすべきなのか 答えを出せずにいた。しかし、そんな落ち込んだ自分を 上から見下ろすもう一人の自分がいて、そして呟いていた。

(私何やってんだろう・・・)


 そんなもやもやとした気持ちのまま数日が過ぎた頃、沙希の元に一通の結婚式の招待状が届く。中学時代同じテニス部だった中条ゆかりと同級生の原周一郎の結婚式のお知らせだった。以前大晦日の日に、電車の中でばったり再会した時の事を思い出す。あれから4年、二人は着実に愛を育んできたのかと思うと、同じ4年の間、自分は一体何をしていたんだろうと 少々複雑な思いに駆られる。しかし、気を取り直して 受話器を上げた。

「おめでとう、結婚。今日招待状届いたよ。ありがとう」

「まぁ、そういう事になったんで・・・」

少し照れている様にさえ感じさせる口ぶりで、ゆかりは言った。

「突然でびっくりしちゃったよぉ」

「長すぎた春にピリオド打とうって事で・・・ね」

「いやぁ、原君とゆかりが夫婦になるのかぁ・・・。何だか変な感じ。まぁでも、とにかくめでたい めでたい。本当なら会って『おめでとう』って乾杯でもしたいんだけど・・・やっぱ準備とかで忙しいんでしょ?」


 そうして 沙希とゆかりは 仕事帰り、実に久し振りに近所の喫茶店で顔を合わせた。何年か振りに会うゆかりは、想像していた以上に落ち着いた顔つきになっていて、とても綺麗になっていた。

「ゆかり、凄く綺麗になったね。幸せそう・・・」

「やだ・・・何よ、急に。照れんじゃない」

大口を開けて笑う姿は、中学時代の部活の時と変わっていなかった。しかしその後、急に真面目な表情をする。

「うちらも色々あってね。やっぱ長く付き合ってると色んな事あるわよ。でもね、やっぱり自分の居場所はここなんだなぁってお互い感じたっていうか・・・。あれ?これってのろけ?」

再び照れた様に笑うゆかりに、沙希が呟いた。

「居場所かぁ・・・」

ガラス越しに映る店内の明かりをぼんやりと見ながら、コーヒーを一口飲んだ。

「私ね、本当はずっと 忘れられない人がいたんだ。原君の前に付き合ってた彼氏なんだけど・・・でもね、私が入社した時からずーっと良くしてくれた女の先輩に相談したら、その人がこう言ったの。『女は二番目に好きな人と一緒になる方が幸せだよ』って。私 そん時は理解できなくて『そんなの惰性だ』って思ってた。だけどね、その先輩が言ったのは前の忘れられない彼氏から本当に愛されたんだっていう自信だけで、女は充分生きていけるもんなんだって」

「そういうものかな・・・」

「そう言われて周りを見回してみるとね、やっぱり 本当に愛された事のある人って、いい顔してるんだよね」

今日久し振りに会った時の沙希の中のウキウキ感は、どんよりとした雨雲へと形を変えつつあった。

「え・・・じゃあ原君は・・・2番目って・・・事?」

何だか切ない気持ちになり、ゆかりに尋ねた。するとゆかりは笑顔で首を振った。

「前の彼氏の事は、本当に大切な宝物として 私の中に残してあるの。忘れちゃうなんて出来ないし、する必要もないと思ったの。あの人が居てくれたから、今の私があるんだし。そう思ったら、結構割り切れたっていうか・・・新たな気持ちで 原君について行こうって思えたんだ」

何となくまだ釈然としない気持ちを抱えながら、とりあえず笑顔で当たり障りのない事を言う沙希。

「ま、でもお互い この人と幸せになりたいって思いは一緒なんだもんね。良かった良かった」

口にしてみて あまりに薄っぺらな自分の台詞に、今の自分が全て反映されている様で 沙希は恥ずかしかった。

 その晩、沙希がベッドに入ってから瞼の裏に映し出された ゆかりの顔の輝きが、昔の彼氏からの愛情によるものだったかと思うと、やはり素直には寝付けず、複雑な思いが入り乱れた。そしてゆかりの言っていた“居場所”は、自分にとってはどこなのか・・・。浜崎の所でない事くらい、沙希も薄々気が付いていた。


 フェイシャルのお手入れをしながら、沙希はお客様と会話を交わしていた。

「女性にとっては内面的な事も、すごく大事なんですよ。例えば・・・恋をしたりすると、女性はみるみる綺麗になるじゃないですか。医学的にも、そういうホルモンが分泌されているって証明されているんですけどね」

まだ最近サロンに通い始めたばかりの22歳のOLは、なるほどと言った様子で、相槌を打ちながら 施術に身を任せていた。一方沙希は、自分の言った言葉に 自分自身が見合っていない事をはっきりと自覚していた。今の自分には輝きが全くない事を、他でもない自分が一番良く分かっていた。

「チーフ、疲れてるみたいですけど、大丈夫ですか?最近元気ない様に見えたんで・・・」

営業時間を終え、スチーマーのタンクから水を抜きながら 桜田が気に掛ける。内心ドキッとしながらも、顔ではにっこりと笑いながら

「大丈夫よ。ありがとう。桜田さんも、今日の新規のお客様、上手くいって良かったわね。凄く喜んで帰られたわよ」

話題をするりとすり替えたが、自分の心はごまかされなかった。


 黄金町の駅近くにある遅くまで開いている薬局で、沙希は毎晩仕事帰り その前を通る度毎に足が止まった。しかし(明日迄・・・もう一日待ってみよう)そう自分に言い続けて5日が経っていた。既に予定日からは20日近く遅れていた。さすがにこれだけ遅れて来ないと、いよいよ沙希の不安も現実味を帯びてくる。又、こういう時にいつもの 思い詰め型の性格が本領を発揮する。

(もし本当に、自分の中に小さな命が授かっていたとしたら・・・)

そんな事を考えると、とてもとても安眠できるような精神状態ではいられなくなった。結婚を選ばないとしたら・・・産む事を選択しないなら・・・。沙希の胸が誰かに握り潰された様に痛んだ。ゆかりが影響を受けた『二番目に好きな人と一緒になる方が幸せ』という言葉に、今頃になって揺さぶられ始めていた。2番目・・・。浜崎が自分にとって“2番目に好きな人”なのか・・・。だとしたら1番目は・・・一体誰なのか?沙希は頭をブンブンと振って、そんな考えを追い払った。お腹の子が、もし自分が2番目に好きな人との間に出来た子だと分かったら、どんな思いをするのだろう。自分の両親が、例えば2番目同士だとしたら・・・。沙希の中に 得も言われぬ どんよりとくすぶった渦が込み上げてくる。そしてその晩 沙希は、明日の朝 薬局で検査薬を買う事を心に決めて 眠りについた。

  

 次の朝、沙希は薬局に寄らずにまっすぐにサロンに出勤すると、いつも通りに仕事をしていた。そして午後 ロッカールームの椅子に腰掛けて 遅い昼食を摂ると、鎮痛薬をペットボトルのお茶で流し込んだ。それを見ていた桜田が、コットンの在庫の棚を開けながら 声を掛ける。

「チーフ、調子悪いんですか?」

沙希はペットボトルのキャップを絞めながら返事をした。

「生理痛。今回は薬なしでは ちょっときつくて・・・。まぁでも、今日明日の辛抱だからね」

そう笑って返す沙希の心は、昨日までとは打って変わって ゲンキンな程軽くなっていた。そしてまた、そんな自分を最低だと思うのだった。


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