第11章 見えない鎖
11.見えない鎖
とある晩、大地の握る電話は 川崎の由美姉へと繋がっていた。
「久し振り!・・・どうしたの?」
「まぁちょっと、報告があって掛けたんだけどさ・・・。そっちはどうよ。元気?」
「な~によ、取ってつけた様に。元気にやってるわよ、相変わらず。・・・で?報告って?いよいよ結婚でもするの?」
いつも通りのさばさばとした由美姉の口調に誘導される様に 大地の口が開くが、それはいつもより照れを帯びていた。
「まだ具体的な日程が決まった訳じゃないんだけどさ、とりあえず来年って事で。一応お前には言っとこうかと思ってさ」
「おめでとう。あんたもとうとう所帯持ちか。・・・で?例の・・・彼女のお父さんの反対は撤回できたの?」
由美姉の『例の彼女』は、千梨子の事を指していた。大地が少々口ごもりながら、
「それなんだけどさ・・・」
と切り出す。
「あいつとは別れたんだ」
すると由美姉がすっとんきょうな声を上げる。
「え?!じゃあ あんた誰と結婚すんの?」
ストレートな質問に、口の中で間を溜めた後 深呼吸をして、大地は大事に大事に その名前を告げた。
「沙希と・・・結婚する」
「・・・・・・」
何故かあれ程ポンポンとやり取りを繰り返していた由美姉が、急に押し黙る。以前沙希との事で由美姉にブレーキを掛けられていた事が、脳裏によぎる。
「勢いとか・・・過去にすがる気持ちとか・・・そんなんじゃなくて、俺には沙希が必要だって分かったんだ。冷静に真剣に考えた挙句の事でさ・・・」
すると、ようやく由美姉に反応が戻る。
「何よ。私に言い訳じみた事言っちゃってんのよ。・・・別に・・・いいんじゃない?」
しかし その『いいんじゃない?』の言葉が、どうしても大地には腑に落ちず、釈然としないものが残った。
「また詳しい事決まったら、招待状送るから 来てくれよ」
すると由美姉は暫く押し黙った後、ボソッと言った。
「行かないよ」
「・・・えっ?」
まさかという思いで、大地も耳を疑う。
「私、結婚式行かないからね。だから、招待状もいらない。ま、末永く幸せにやってよ」
大地の眉間にしわが寄る。
「何でそんなに・・・俺達の事 反対?前は・・・俺がメキシコ行く前位までは・・・応援しててくれたじゃないか」
「・・・・・・」
「そりゃ確かにさ、俺がこっち帰ってからも沙希の事吹っ切れなくて 女々しいとこもお前には見せたしさ、何とか気持ちにけじめつけて 千梨とつきあい始めた時も、お前に背中押してもらったりしたしさ・・・。それなのに、やっぱり沙希を選んだ俺に 腹を立ててるんだろ?そりゃあ、たまにしか連絡取らないのに、その度に俺の言う事が違っちゃあ 男としてフラフラ何してんだって言いたくなる気持ちも分かるし、・・・それにお前は沙希とも仲良いから、こんな俺で沙希を幸せにできるのかって言いたいのもあんだろ?」
「・・・・・・」
「分かるけど・・・。分かるけどさ・・・しょうがないんだよ。回り道をしなくちゃ、俺達 こうなれなかったんだよ。・・・分かってくれよ」
相槌もなく、ただ沈黙を守り続ける由美姉に、大地は受話器を持つ手を変えた。
「俺の事はどう思っててもいいからさ、あいつの晴れ姿だけは見てやってくれよ。あいつだってお前に来て欲しいだろうし・・・。俺の方じゃなくて、沙希の方の友人で来てやってくれよ。それなら・・・いいだろ?」
「・・・へぇ、随分と沙希ちゃん思いなのねぇ。『俺はいいからあいつの晴れ姿見てやって』なんてさ。・・・私はどっちから誘われようと、行く気はないから。悪いけど」
へそを曲げている理由を 一つもはっきりと言わないまま、由美姉は電話を締めくくろうとしていた。
「また・・・掛けるよ」
これ以上掛ける言葉も見付からず、次に希望を繋ごうとするが、それもまた出鼻をくじかれる。
「いいよ、もう その話なら。・・・私、はっきり言って 結婚式って好きじゃないのよね。どうせ何年かしたらお互いの悪口言ったり、別居したり 離婚したりする夫婦が多いのにさ、まるでその日は自分達より幸せな人はいないでしょーみたいなとこ 見せたいだけって気がして・・・。自己満足の極みって感じでさ」
両親が離婚をしている由美姉に、多少結婚に対して斜に構えた見方がある事に、大地は悲しみを覚えていた。
「他人なら分かるけど・・・仮にも友達の結婚式だろ?もっと単純に祝福してやろうとかさ・・・」
すると電話の向こうで、由美姉が鼻で笑った。
「祝福ね・・・。祝福する気持ちがあれば、こんな事言ってないわよ」
そして由美姉が言葉を溜めた後、弱い声で そして一息で言った。
「私が二人の結婚式に出るって事は、私の夢も終わったって事だからね」
初めて耳にした由美姉の想いに、大地は返す言葉を失った。
結局 予定よりも約一週間延長されたカナダの旅から帰国した母と二人で、沙希はリビングのソファに腰掛けて ミルクティーをすすっていた。父の入浴中とあって、沙希は先日の小樽での出来事を心置きなく報告していた。大地との結婚を認めてくれたとはいえ、やはり男親にはなかなか話しづらい内容であった。そして母も、その沙希の報告に 素直に喜んだ。
「私、今回のお母さん達の居ない間に つくづく思ったんだ。お母さん達がカナダに行っちゃったら、本当に淋しくなるなって。私は結婚して向こうに行っちゃって 滅多に会えなくなるかもしれないけど、飛行機で一時間半空飛んだら、いつでもお母さんに会えるっていう安心感が無くなっちゃうんだもんね。でもさ、まだお家見付からなかったって聞いて、ちょっと安心しちゃったんだ」
すると母が笑った。
「いい加減に 親離れしなさいよ。これからは木村さんが あんたのパートナーなのよ。いつまでもお母さん頼りにしてちゃ駄目よ。それにね、嫁さんの実家の両親は近くに居ない方がいいのよ」
「どうしてよ!?」
沙希は少々むきになって、目を剥いてみせる。
「嫁いだ先のご両親を 自分の本当の親だと思って、精一杯尽くさせてもらったらいいの。実家の親が近くにいたら甘えるでしょ?特にあんたはね」
沙希は口を尖らせた。
風呂から上がった父が ソファに腰を落ち着けて、ビールを飲みながら一息つく。
「そうだ、沙希。木村さんのご両親には、いつお目に掛かれるんだ。あちらのお父さんの体調を考えたら、こちらが北海道に出向いて行った方がいいんじゃないか?」
何せついこの間、しかも帰り際にようやく大地の両親と少しずつ通じ合えたばかりで、沙希はその嬉しさに浸るのが精一杯で、次の段取りなど 今父に言われるまで すっかり忘れてしまっていた。台所から母も出てくる。
「そうねぇ。寒い中飛行機に乗ったり電車乗り継いだりして横浜まで出て頂くの大変でしょう?あちらのご両親とか 木村さんは何か仰ってた?」
「まだ何も・・・」
父の隣に座った母が、何故かウキウキした面持ちで 父の腕をつついた。
「冬の北海道ですって。・・・小樽か・・・。行ったらついでに観光もして帰ってきましょうよ」
「いいなぁ・・・」
「あら?札幌の雪まつりって、いつだったかしら?」
沙希の結婚とは別のところではしゃぐ二人は、まるで子供の様だった。
両手いっぱいの荷物を携えて、新千歳空港の出発ロビーに来ていた沙希とその両親と大地。
「わざわざ遠くまで、ありがとうございました」
「いいえ。こちらこそ、沢山のお土産頂いちゃって・・・」
「かえって荷物になっちゃいましたね」
親戚の畑で出来たという男爵芋と米。どれも重たい物ばかりだった。しかし父も母もにこやかだった。
「すっかり観光案内までしてもらって・・・。ありがとう。楽しかったよ。小樽もいい所で・・・また機会があったら来させてもらうよ。ご両親にもくれぐれも宜しくお伝え下さい」
手荷物を持ち上げながら、母が大地に言う。
「じゃ、沙希をあと一日 宜しくお願いしますね」
結婚式の打ち合わせという名目で残った沙希だったが、本当は 明日の大地の誕生日を共に迎える為だった。大地と一緒に両親を見送ると、すっかり氷点下に冷えた空気が待ち構える外へと出る。両家の親の顔合わせも無事済ませ、安堵の溜め息が真白く沙希の顔を包む。二人が乗り込んだ冷え切った車も、大地がエンジンをかけエアコンを全開にすると、じわりじわりと温み始め、指先に血が通い出すのを実感する。そして二人の乗った四角い箱は、雪で通行止めの道を迂回しながら 札幌へ向かった。
札幌大通り公園で華やかに灯されるホワイトイルミネーションが、辺りに積もった雪に映え 一層見事で、それに見とれながら沙希が 歩き慣れない雪道に不安を覚えたが、大地の腕に手を伸ばすのに躊躇していると、大地がすっと沙希の腕を掴んだ。少し驚いたと同時に安心した沙希が、会話を作った。
「初めて腕組んだ時の事、覚えてる?」
唐突な質問に、大地が少し笑う。
「初めて?それって随分昔の事だろう?」
「あっ、覚えてないんだぁー!やっぱりね」
軽く大地の腕を叩く。
「なによ!相当ドキドキしながら 手伸ばしたのにぃ」
「え?お前からだったっけ?」
更に強く 大地の腕をはたく。
「そうだってぇ。夏だったな・・・。私がまだ学生で・・・バイトも始める前。桜木町の駅で待ち合わせして、飲みに行った時だった。外でデートなんて すっごく嬉しくって・・・私ウキウキしてたんだ、きっと」
頭の中で鮮明に思い出されるフィルムをゆっくりと送りながら、沙希は言った。
「あの時、大地言ってた・・・。過去を知ったらやきもち焼くから聞かないって。だから自分も あんまり言いたくないって・・・」
「そんな事、言ったか?俺」
「もう、本当に何も覚えてないんだね」
沙希は頬っぺたを膨らましてみせる。
「じゃ、大地が覚えてる事ってある?」
靴が踏みしめた真っ白い雪のキュッキュッという音が、暫く考えている間の沈黙を 優しく埋めた。
「あるよ・・・」
そして大地は静かに話し始めた。
「沙希が初めてアパートに来てくれた時の事。俺がチャーハン作って出した時、お前 押し入れん中の俺の卒論のノートまじまじと見てたんだよ。その後ろ姿が・・・やけに愛おしく見えてさ・・・あん時、抱きしめてキスしたいと思った。でも・・・出来なかった。あん時のお前・・・ちょっと間違ったら 壊れちゃいそうでさ」
「全然知らなかった・・・」
大地はくすっと笑った。
「沙希を大事にしたいっていうのもあったけどさ、恥ずかしいっていうか・・・照れ臭いっていうか・・・そういうのもあったんだ」
周りの雰囲気も手伝って、沙希の口が素直に動く。
「あの時みたいな初々しいドキドキ感は、もう私にはさすがに感じないでしょ?」
すると大地が質問返しをする。
「沙希はどうなんだよ?俺に初々しいドキドキ感、感じられる?」
「初々しい・・・か・・・」
と首を少し傾げる。
「大地の心が・・・まだ私を受け入れられないんじゃないかって・・・」
大地は足を止めて、沙希と向き合う。
「・・・試してみる?」
沙希は驚いた表情で、大地を見上げる。
「俺が・・・嫉妬に狂って沙希を跳ね除けるか・・・」
「怖いよ・・・」
「俺も・・・どっちか分からない・・・」
緊迫した沈黙が一瞬流れた後、沙希が止めていた息と共に言葉を吐き出す。
「やめとこ。・・・大地が・・・大丈夫って思える時まで・・・」
そう言い終えるか否かの内に 大地は沙希の腕を引き寄せ、硬直した沙希の肩を優しく両手で包み込んだ。大地のその後の反応を恐れて、沙希の硬直がなかなかほぐれずにいると、からかう様に大地が言った。
「どう?感じられた?俺は初々しいドキドキ感じたよ」
瞬間冷凍された様な体が 次第に溶け始め、沙希から笑みがこぼれた。
「ちょっとずつだけど・・・確実に、俺の心と体が一つになってってる」
沙希は大地の腕の中で、黙って頷いた。
「時間が掛かるけど・・・俺に愛されてないんじゃないかって、疑わないでいられる?」
「昔と同じ失敗は・・・したくないもん・・・」
真正面に見える煌々と輝くタワーを仰ぎ見ながら、大地が言った。
「俺、沙希ともう一度行っておきたい場所があるんだ」
「どこ?」
気軽にそう聞き返した沙希が、大地の横顔を見て、それ以上の言葉を喉元で止めた。
「俺、年内にもう一度 仕事で東京に行かなくちゃいけないんだ。だから、その時行こう」
にこりともしない大地の瞳の奥に 何か強いものを感じつつ、二人は更に雪を踏みしめて ゆっくりと進んだ。
今夜泊まる予定のホテルの最上階のラウンジで、二人は夜景を眺めながら 一日早い大地の誕生日を祝って乾杯をした。そしてその後 二人の泊まるツインルームのドアを開けて、大地が先に部屋へと足を踏み入れた。二人で泊まる部屋を取ったものの、大地が沙希に触れるのもためらわれる関係で、お互いにどことなくよそよそしい空気を感じ取っていた。部屋のキーをテーブルに置く その音すら、やけに大きく感じる。
「さて・・・どうするかな・・・」
それは一体どういう意味なのか、沙希が何の相槌も返せずにいると、大地が独り言の様に続けた。
「あ~疲れた」
ベッドに腰を下ろし、仰向けに上半身を横たえた。朝から沙希の両親に気を遣いながらのガイド役を果たし、一日動きっぱなしの大地の体はくたくたに疲れていた。
「もう・・・お布団に入って、寝たら?」
大地は目を閉じたまま言った。
「沙希も疲れたろ?シャワー先入ってきていいよ」
「このまんま寝たら、風邪ひいちゃうよ」
「んん・・・でも、もう動けない・・・」
あと何秒か黙っていたら、確実に眠りに落ちていきそうな大地の足元に、そっと沙希がしゃがみ込む。
「じゃ・・・靴だけ・・・脱ぐよ」
そう言ってそっと靴を脱がせると、大地が両手を上げてぶらぶらさせてみせた。
「沙希、着替えさせて」
大地の見えない結界に自分から近付くのを恐れていた沙希だが、恐る恐る手を伸ばしてみる。
「じゃ・・・セーターだけね・・・」
カウチンセーターの前ファスナーを開け、大地の体を左右に傾けながら腕を抜く。
「お布団掛けないと、風邪ひいちゃうから・・・ちょっとだけ起きて」
ベッドカバーと掛け布団を剥がしながら、大地の肩をゆする。すると、沙希の腕を掴んだその勢いで、大地の横に体が倒れ 顔と顔が目の前に近付く。さっきまで目を瞑っていた筈の大地が、沙希の怯えた目を捉えた。
「・・・キス・・・してみる?」
心臓が痛い程、大きく脈打っている。何かと戦っている様な大地の目を見ると、沙希も大きく深呼吸をして目を瞑る。どれ位時が流れたのか分からない。息と共に心臓も止まっていたんじゃないかと思う程強張った沙希の体に、ふっと柔らかい風が顔を撫でる。唇が一瞬触れるのを感じる。ほんの一瞬の出来事で、沙希がそっと目を開けると、大地がもう一度唇を重ねた。再び目を閉じた沙希だったが、先程よりも少しだけ肩の力が抜けていた。しかし次の瞬間、大地ががばっと起き上がり、頭を掻きむしった。
「ごめん・・・ごめん・・・」
再び体を硬直させた沙希も 慌ててベッドから離れた。何か言いたいが、言葉が出ない。
「ごめん・・・沙希・・・」
何度も謝る大地が痛々しい。必死で首を横に振る沙希。
「もう 大丈夫だと思ったのに・・・」
「・・・・・・」
「俺は沙希の事本当に本当に愛してるのに・・・どうやって伝えたらいいの?俺は沙希を安心させたいのに・・・」
頭を抱える大地を見る目が、涙で滲む沙希。
「・・・焦らないで・・・。私・・・大丈夫だから。ゆっくりで・・・平気だから。・・・ごめんね・・・」
最後のごめんねは、まるで独り言の様にか細い声だった。
結局別々のベッドで朝を迎えた二人。先に目覚めた大地の煙草のにおいで、沙希がぼんやり目を覚ます。隣のベッドが空で、慌てて体を起こす沙希。まだ眠っていた沙希を気遣い、少しだけ開けたカーテンの隙間から 外を眺めて煙草の煙をくゆらしている大地。その背中に沙希が声を掛けた。
「おはよう・・・」
振り返った大地は、沙希に優しく微笑みかけた。
「沙希、良く眠ってたから・・・起こさなかった」
「大地は・・・眠れなかった・・・?」
急に不安気な顔になる沙希に、大地は煙草をもみ消してから もう一度微笑みかけた。
「朝起きたらさ、隣に沙希の寝顔が見えて・・・あぁ幸せだなって思った。これからは、毎日こんな安心感の中で朝が迎えられるのかなって思ったら、無性に嬉しくなった」
その言葉は、沙希の胸をじんわりと温かくした。そして、カーテンを開けた大地の向こう側の窓の外を見て、沙希が目をこする。
「雪が下から上がってる・・・?」
沙希が何度も何度も目をこすると、大地が高らかに笑った。
「風があるから、雪が舞ってるだけだよ」
確かに18階から見える外の風景は真っ白で、雪が次々と下から上へと昇っている様に見えた。しかしこれは珍しくない事で、天気の変わりやすい札幌や小樽辺りでは風が強い事が多く、ビルの上階から 時として舞い踊る雪が そう見えるのだった。
「こっち来てみ。こっちからこうやって下見ると、もっと凄いから」
大地の言った通り、窓際からの眺めは もっと四次元の世界が広がっていた。
「こっちで見る自然って、本当不思議」
「そうかぁ?」
「昨日上で飲んだ時だってさ・・・もやがかかって 雲の上にいるみたいに何も見えないと思ったら、5分と経たない内にまた夜景がはっきり見えたり・・・」
昨晩最上階のラウンジで見た ガラス越しの景色を、瞼の裏にはっきりと思い出しながら 沙希は喋った。
「晴れたり雪が降ったり、ころころ天気が変わるなんて、こっちじゃしょっちゅうだからな」
再び沙希が暫く外の四次元の世界に引き込まれていると、大地がそれに区切りをつけるかの様に 沙希の肩にポンと手を置いた。
「さ、朝飯でも食いに行くか」
沙希が化粧をしながら、鏡の中に映る大地に話し掛けた。
「結婚式、由美姉にも来てもらえる様に 今から話しとかなくちゃね」
携帯をいじっていた大地の手が止まる。
「・・・そうだな・・・」
「来てもらえるかなぁ・・・。ちょっと・・・心配・・・」
大地も鏡の中の沙希に視線を移す。
「・・・どうして・・・?」
口紅を塗り終えた沙希が、ポーチをしまいながら 伏せ目がちに言った。
「前喋った時・・・私が大地に行くの、相当反対されたから・・・」
「・・・・・・」
そしてすぐに笑ってみせる沙希。
「でも、あれかな?あの時はまだ大地が千梨子さんと付き合ってる時だったから・・・横槍入れる様な真似が嫌いだっただけかな?由美姉はご両親の事で辛い思いしてるからね・・・。だけど、大丈夫だよね?過去に縋ってるんじゃなくて、本当に私達はお互いを必要としてるんだって話せば、きっと分かってくれるよね?」
「・・・あぁ・・・」
大地は鏡の中から姿を消した。そして沙希を背中に感じながら言った。
「でも・・・ま、もう少し具体的に決まってからでも いいんじゃない?」
しかし そんな言葉も、沙希の胸に長くとどまる事はなかった。
二日前に沙希が両親と小樽を訪れ、両家の両親が無事顔合わせを済ませ、昨日は沙希の両親を小樽市内の観光へと連れ、二日間まるで仕事が手つかずになっていた大地は、果たすべき仕事が溜まっていた。いつもの大地の運転で、空港に到着する。出発ロビーのカウンターで 搭乗手続きを終えた沙希に大地が声を掛けようとした瞬間、二人の背後から 聞き覚えのある声が二人の耳に飛び込む。振り返った大地は 自分の目を疑い、沙希は体を凍りつかせた。
「河野さん、この次の羽田行きですか?」
そう言ってそこに立っていたのは、紛れもなく千梨子の姿だった。沙希が恐る恐る返事をすると、千梨子は明るい顔をした。
「偶然!私もそれ乗るんです」
その笑顔の裏に隠された真実に怯えながら、沙希は様子を窺う。そんな沙希の心の動揺を察知し、大地が行動に出た。
「ここで・・・何しに・・・?」
千梨子は笑いながら、鞄から小さな包みを取り出した。
「お誕生日おめでとう。今日・・・だったもんね」
沙希が不安な面持ちで見守る中、それを受け取れずにいる大地に、千梨子が何故か高らかに笑ってみせた。
「そんな警戒しないで、私の事。これだって本当大した物じゃないの。・・・いいでしょ?河野さん」
まさか『駄目だ』と言える筈もなく、ひきつらせた表情で沙希が首を縦に振るが、大地が沙希の本音を知っていた。
「ごめん・・・。これは・・・。気持ちだけ・・・」
するとやはり瞳の奥で とてつもなく悲しい色を発しながら、千梨子が言った。
「別に、これに何の深い意味もないのに・・・。ただ知ってるのに、知らんぷりするのも変だと思って・・・。冷たいんだね」
しかし、何の意味もなく こんな所まで来る筈もない事を、沙希は痛い程分かっていた。
「私、先に搭乗手続きしてきちゃうから・・・ちょっと待っててもらえる?」
そう言い残してカウンターへ向かった千梨子の背中に怯える沙希の肩を、大地は優しく抱きしめた。
「便、変更するか?」
暫く黙り込んでいた沙希が、気丈に もたげていた頭を上げた。
「大丈夫。きっと千梨子さん・・・私と話して・・・気持ちにけじめつけたいのかもしれないし・・・」
そんな沙希を、心配そうに眺める大地。そしてまた沙希は、大地にそう言う事で 自分に言い聞かせてもいるのだった。頼りなさそうに見つめる大地に向かって、沙希は手を力強く握ってみせた。
「大地も逃げないで、色んな事にぶつかってってくれたんだもん。私だって逃げずに・・・頑張る」
そうは言ったものの、やはり沙希の腹の中では『嫌な予感が的中した』と思っていたのだった。大地が顔にあざを作ってまでして 千梨子との関係に終止符を打ったあの話を 横浜の大桟橋で聞いた時、沙希ははっきりと感じていた。話し合いで大地との別れを納得し、あれ以上駄々を捏ねなかったのは、愛する大地に嫌われたくない強い強い千梨子の防衛本能だったんだと。しかしその気持ちは 沙希にも良く理解が出来るだけに、今回の千梨子の登場が痛々しくさえ感じるのだった。
本来ならば、大地も沙希もしばしの別れを惜しんで もっと気持ちを伝え合い、手を握りしめ合い、次に会うまでの充電をしたいところだったが、千梨子の存在がそれを邪魔した。もどかしい位に上手い言葉も見付からず、目で会話をするのがやっとだった。
「家着いたら、連絡しろよ」
「うん・・・。帰り・・・気を付けて・・・」
ふと沙希が、脇で目をそらす千梨子に視線を投げると、なんと千梨子は唇をぎゅっと噛みしめていた。そして沙希は、持ち上げていた荷物をもう一度床に置いた。
「私、ちょっと、トイレ行ってくるね・・・」
そう言い残して、その場を立ち去った。しかし何故こんな行動をとったのか、沙希自身 理屈では説明がつかないでいるのだった。
実際機内に乗り込んだ後、沙希が自分のシートにほっと一息ついて腰を落ち着けたのも束の間、窓際の自らの席と 沙希の通路側の隣の人に席の交換を申し出、成立させた千梨子が シートに落ちた。
「ちょっと・・・お話してもいいですか?」
やはり来る時が来たんだと 腹をくくる様に、静かに深呼吸する沙希。千梨子がああは言ったものの、やはりきっかけを掴めないでいた。そしてふと沙希の左薬指に目をやる。
「素敵な指輪・・・。・・・婚約・・・指輪ですか?」
メキシコで自ら手作りしたというオパールが 小さく輝く指輪も サイズ直しが済んで、ようやく先日沙希の指に落ち着いたばかりだった。とっさに沙希は曖昧な返事と共に、それを右手の中に覆い隠した。また きっかけを逸した千梨子との間に、ギクシャクとした空気が立ち込める。
「今更私が何言ったって、負け犬の遠吠えにしか聞こえないでしょうけど・・・」
「そんな・・・」
卑屈なものの言い方をする千梨子に、沙希が必死に首を横に振った。
「千梨子さんの気持ち・・・私、分からなくもないですから・・・。私も、似た様な経験した訳ですし・・・」
その一言に黙り込んでしまった千梨子が、ハッと思い出した様に口をつく。
「さっき河野さんがトイレ行ってる間に・・・もう一度プレゼント渡したんです。そしたら彼・・・貰ってくれました」
沙希は不思議と穏やかな笑顔で頷いた。
「良かった・・・」
しかし、その言葉が千梨子の気持ちを逆なでした。
「随分余裕ですね」
「いや・・・そんな意味じゃ・・・。ごめんなさい・・・」
ピーンと張りつめた中に、機内アナウンスの声だけが響く。離陸し 一気に空に舞い上がり 機体が雲の上で安定するまでの間、二人の間に会話は存在しなかった。再び機内アナウンスがシートベルトのリリースを告げると、それを待っていたかの様に 千梨子が喋り出した。
「私・・・正直今、男性不信になって・・・神経内科に通ってるんです。安定剤も・・・飲んでます・・・」
沙希の目と耳が、急に吸い寄せられる。
「でも私、これだけは信じてるんです。彼が私を本気で愛してくれてた事。それで本気で私の事、いっぱいいっぱい抱いてくれた事。それから・・・彼のお父さんやお母さんにも 本当に気に入ってもらって『早くうちに嫁に来てくれ』って、話す度に言われてた事。彼に『好きな人がいる』って言われた時も、お母さんは息子よりも私の味方になってくれた。彼は私にとって生涯賭けての最愛の人だって信じて疑わなかったし、最後の人だと思ってた。私は正に幸せの絶頂にいたの・・・。河野さんさえ滅茶苦茶に引っ掻き回さないでいてくれたら・・・。はっきり言って・・・あなたを恨んでます」
最後の一言が、沙希の胸に鉛の矢の様に突き刺さる。
「私も・・・いつか・・・千梨子さんにきちんと謝らなくちゃと思ってました。今日・・・声掛けてもらって・・・良かったです」
一呼吸置いて、沙希がもう一度口を開いた。
「千梨子さんには、本当に申し訳ない事をしたと思ってます。ごめんなさい。千梨子さんの気持ち考えたら・・・本当 何て言っていいか・・・。さっき『これだけは信じてる』って言ってた事、本当に全てその通りだと思います。彼が千梨子さんの事を 本当に大切に大切に思って、将来を真面目に考えていた事も知ってますし、彼のご両親が千梨子さんを非常に気に入られてたのも知ってます。それに比べて私は最初、口も利いてもらえませんでしたから・・・。きっと彼のご両親も同様に、私さえ出て来なかったらって思ってたでしょうね・・・。千梨子さんが 人生最後の最愛の人だと信じてた様に、彼もそう思ってたと思います。その歯車を全て狂わせて、人の気持ちも滅茶苦茶に引っ掻き回した責任を、いつどんな形でとらなくちゃならなくなるのか・・・それに怯えてるっていうのが・・・正直なところです。非難されて当然の事をしたんだし、その恨みや 千梨子さんの受けた苦しみから、一生逃げちゃいけないとも思ってます。だから・・・出来る償いがあるなら・・・いくらでもさせてもらわなきゃいけないんだと・・・思います」
初めて見る様な千梨子の別人の様に冷やかで 鋭い瞳が、沙希を捉える。
「私・・・河野さんを訴える事だって出来るんですよ」
沙希はゆっくりと頷いた。
「私も・・・覚悟決めなきゃいけないですね・・・。あんなに優しくて笑顔の可愛かった千梨子さんを こんなにしてしまったのは・・・全部私ですもんね・・・。一生、許されちゃいけないんです」
「私・・・河野さんが もう二度とこうやって生きていられない様にしてやろうって考えた事もあったんですよ・・・」
しかし、そんな機内とは思えない程過激な発言にも、沙希の心は不思議と動じる事はなかった。
「そうですよね・・・。当然です・・・。・・・それで気が済むなら・・・そうして下さい」
その後も 凍てつく様な視線で沙希を凝視している千梨子に目を合わせ、もう一度ゆっくりと頭を下げた。
「千梨子さん・・・本当にごめんなさい・・・」
そして暫く二人の間に 何も動かない空気が立ち込めた後、瞬きもしなかった千梨子の瞳に、みるみる涙が溢れ 大粒の雫となって次から次へと頬を伝い落ちた。しかし沙希は ほっとするどころか、何もできないもどかしさを胸に抱きつつ、そんな千梨子を痛々し気に見つめていた。
それから二人の乗る羽田行きの便が 東京の地に着陸するまで、二人の間に会話はなかった。次々と手荷物を抱え 席を立つ人達の中で、千梨子は一向に立ち上がる様子はなかった。一通り下りる人波が通路から消えていくと、ようやく千梨子が体を動かした。
「悔しいけど・・・私の・・・負けです・・・」
「千梨子さん・・・」
「分かってたんです。私だって・・・。あんな事言ったって、今更どうにもならない事も・・・余計に自分が惨めになる事も・・・。だけど・・・本人目の前に吐き出しておかないと、気が済まなかったんです。許して下さい・・・」
「許すなんて・・・そんな・・・」
千梨子は続けた。
「私にあんな事まで言われても びくともしないで強くいられるのは・・・彼に充分愛されてる証拠でしょ?愛情を自分の力に変えられる河野さんが・・・私には羨ましい」
そしてようやく席を立つ。空港に出て来て、後ろから来る沙希に 千梨子が足並みを揃えた。
「本当はさっき 彼に会って全部分かってたの。二人でしてたペアウォッチは すっかり昔の腕時計に変えられちゃってるし、私がプレゼントしたライターだって、とっくに昔使ってたジッポーになっちゃってるし・・・」
「そんな・・・」
沙希は返す言葉を見付けられずにいた。
「そう。そんなのは小さい事。そんな事より、彼の・・・河野さんを見る目つきとか、話し掛ける言葉一つ一つが・・・私に対してとは明らかに違ってた」
「・・・・・・」
「確かに彼は・・・私に優しかったけど・・・。それが本物だって、私も信じてたけど・・・。あれは・・・私を想う心の底からくる優しさじゃなくて・・・私に・・・合わせて・・・気を遣って・・・優しくしてくれてたんだと思う。彼も、それに気が付いてはいないと思うけど、今日の二人見て・・・もう どうにも出来ない差みたいなもの・・・見えちゃいました」
一呼吸置いて、更に千梨子は続けた。
「私は・・・彼のパートナ-というより・・・彼に依存して、ぶら下がってたんだと思います。過去の恋愛での傷を埋める為に・・・」
「千梨子さん・・・」
「これでもう、本当に終わりにします。・・・『お幸せに』とは、まだ言えないけど・・・」
そう一方的に言い残して、千梨子はその場を去って行った。その瞬間、千梨子の鞄の隙間からは 大地が開ける事のなかったプレゼントが、遠慮がちに顔を出していた。
「本当、何もなかったんだってばぁ。だから大丈夫だって。そんなに心配しなくっても」
羽田空港からの帰り道、待ちきれずに掛かってきた大地からの電話だった。『何か言われたか?』『辛い思いしなかった?』等と盛んに聞いてくる大地に対して、沙希はさっきから何度もそれを否定していた。
「同じ飛行機だったのは、本当に偶然だったみたい。席も離れてたし・・・。帰りに挨拶したけど、千梨子さん『お幸せに』って言ってくれた。だから・・・大丈夫だったよ。大地が心配する様な事、何もなかった」
沙希にそう言い切られ、大地も安堵の溜め息をつく。
「それよりもさぁ・・・」
沙希が話題を変えた。
「由美姉って、まだ小杉に住んでる?住所変わってない?」
大地の生返事が沙希の相手をする。
「どうせバイトで近くまで行ってるんだから、会って色々話して来ようかなと思ってね」
二度目の生返事の後、大地が一言付け足した。
「まぁそう焦って報告しなくっても、俺らの事は。具体的に色々決まってからでもいいんじゃない?」
その時初めて、大地らしくない消極的な言動が、秘かに胸に引っかかる沙希だった。
バイトを終えた沙希が、東横線に一駅乗る。武蔵小杉の駅からまっすぐ歩き、昔新年を共に迎えた焼き鳥屋ののれんをくぐった。もし由美姉がいれば、以前 偶然みのりの家で会って以来の再会となる訳で、沙希は少々緊張していた。昔は久々に会っても、お互い懐かしさにはしゃぎ すぐに空白の時間も埋まったのに、ここ最近はどこか違っていた。メキシコにいる間に別れた大地へ未練を抱き始めてから 由美姉が厳しくなったのを、沙希も感じ取っていた。しかしその理由までは見当もつかず、先日みのりの家からの帰り道に釘を刺された事を思い出し、緊張も増していったのだった。それでも会って伝えたいと思ったのは、沙希なりのけじめのつもりで、今までの自分からも 現実からも逃げてばかりいては仕方ないという、ある意味覚悟めいたものがあっての事だった。6年前と変わらず活気のある店内をぐるっと見回し、沙希の視界に引っかかる物は何もなく、がっかりとした気持ちと 半ばホッとした思いを抱いて背を向けた。すると、
「・・・沙希ちゃん・・・?」
その呼び止める声に、信じられぬ思いで 慌てて振り向く。しかしどこにも知り合いらしい顔も見当たらず キョトンとしていると、すぐ脇のテーブルでビールのジョッキを掲げた男が、沙希の目に飛び込んできた。
「俺・・・中山。覚えてない?」
名前も顔も見覚えのないその男と同じテーブルに座るもう一人の男にも視線を投げる。しかしそれは、沙希の記憶を掘り起こす何の役にも立たなかった。しかし相手は自分の名前を知っている訳で、沙希の目が段々と警戒した目つきに変わっていくと、その中山と名乗る男が 少々困った様に頭を掻いた。
「う~ん・・・何て説明したらいいかなぁ・・・。随分前にさ、ここで大晦日由美とかと皆で飲んで・・・そうそう、その後初日の出見に行ったでしょ?」
沙希の記憶が次第に甦る。
「その時の・・・中山。・・・って言っても分かんないか。俺、髪も切っちゃったしな」
また頭を掻いてみせる中山。
「昔はさ、ほら こん位長くてパーマかけてて・・・。あっそうだ。由美と後ろ姿が同じだって皆にからかわれてた奴」
その一言で沙希の6年前の記憶に残る映像と、目の前の男の顔がやっと一致する。ぱぁっと表情のほぐれた沙希を見て、苦心の末通じた中山が ようやく質問した。
「誰かと待ち合わせ?」
「いえ・・・そういう訳じゃないんですけど・・・。ちょっと・・・由美姉いるかな・・・と思って」
つい口走ったその一言が、中山の顔を明るくした。
「おう、丁度良かったよ。これから由美来るよ。ここで俺ら待ち合わせしてんだ。一緒にここで待ってけば?」
隣の椅子を勧める中山に、正直沙希は戸惑っていた。沙希が今日報告しようと心に秘めてきたものは、二人っきりで・・・そう願ってここに足を運んだ筈なのに・・・。今度は沙希が頭を掻いた。
「いえ・・・でも・・・中山さん達も、何か用事があったんでしょう?」
「いやいや、俺らは平気よ。ただの飲み仲間だから・・・。それより沙希ちゃんの方が、由美に用事があったんでしょ?」
それでも沙希が一歩後ずさりしながら遠慮する。
「また・・・改めて・・・来てみます」
その時、横に急に人影が飛び込んでくる。
「おう!ごめんごめん。待った?」
その声の主は 紛れもなく由美姉で、そこに何故か立っている沙希の姿に すっとんきょうな声を上げる。
「あれ?・・・どうしたの?」
すると、待ってましたとばかりに中山が口を開いた。
「お前に話があるとかで、わざわざここに立ち寄ってみたんだってさ。良かったよ、俺ら先に来てて。じゃなかったら、すれ違いになるとこだったろ?」
沙希とは面識のない中山の向かい側に座る もう一人の男は、そのやり取りをずっと黙って見ていた。
「ほら、由美も来たんだしさ、沙希ちゃんもちょっと一緒に飲んでったら?」
そして さっきから一言も口を利かなかった男が、自分の荷物を乗せていた椅子を引いて空にする。
「どうぞ」
と一言だけ喋った。それは低い声だったが、決して不機嫌な調子ではなかった。しかし沙希は それをも遠慮する素振りを見せると、つられて立ったままの由美姉が あっけらかんと言い放った。
「話?あぁ、大地との事?あいつとね 沙希ちゃん、今度結婚するらしいよ」
中山に顔を向け そう報告する由美姉に、沙希は内心驚いていた。しかしそんな事に気づく間もなく、中山は明るい声を上げた。
「そう?!おめでとう。良かったじゃない。いつ?」
「いや・・・まだ日程までは決まってなくって・・・」
「大地って今、北海道だよね?じゃ 沙希ちゃんも、結婚したら向こう行っちゃうの?」
中山の陽気な顔つきに合わせる様にして 沙希が笑顔で頷くが、それも束の間の事で、また慎重に由美姉の顔色を窺った。
「由美姉・・・知ってたの?」
「あぁ・・・大地からね。な~んか意気揚揚と掛かってきたよ、前に」
あっさりとした物言いだったが、一度もこちらの目を見ない事に 沙希の不安はやはり拭い去れずにいた。
「おめでとうの乾杯しようよ。ほら、とりあえず沙希ちゃんも座って・・・」
中山がそう何度もけしかけるが、由美姉からは一言もなく、沙希はきっぱりと断った。
「もう、本当に失礼します。すみません、お邪魔しました」
もう一人の男にも一礼をして立ち去ろうとした時、由美姉が声を掛けた。
「あっ、そうだ。大地にも言ったけどさ、私に・・・招待状要らないからね」
振り向いた沙希が口を開くよりも先に、中山が反論した。
「何でだよ~。俺は行くよ。・・・って、招待状送ってくれんだろうな、あいつ・・・。沙希ちゃんの花嫁姿も綺麗だろうけどさ、あいつの一張羅 笑いに行ってやらなきゃなぁ・・・」
そしてようやく、沙希の口から言葉が出た。
「・・・どうして?由美姉・・・。私・・・由美姉には来て欲しいよ・・・」
妙に悲しそうな目つきの沙希から顔を逸らして、由美姉は言った。
「ま、結婚式や披露宴にお呼ばれって・・・そんな柄でもないしね」
軽く笑い飛ばす その姿に、それ以上沙希はどうする事もできなかった。
「何かあるのよね・・・」
『もう一度二人で行きたい場所がある』と言っていた大地の先導で、二人は新宿から成田エクスプレスに揺られていた。年末休み目前とあって、車内は大変混み合っていた。スーツケース等の荷物置き場もいっぱいで、ドア脇に唯一身軽な二人は立っていた。そして沙希は、先日由美姉に会った時の事を話していたのだった。
「大地もさ、由美姉に言ったんなら、私に一言教えといてくれれば良かったのにぃ」
「ごめん・・・」
もう真っ暗な窓の外に目をやり、どこか上の空な大地の腕を沙希がつねった。
「大地、何か知ってるんでしょ?」
「いてててて・・・。俺が?!」
「だって何か・・・この話になると、この間っから どっか心ここに在らずっていうか・・・親身になってくれないっていうかさぁ・・・」
「そんな事ないって・・・。気のせいだよ」
沙希はそう話す大地の目の奥をじっと見つめた。
「じゃ大地はなんでだと思う?由美姉が『行かない』って言い張るの」
「・・・さぁ・・・」
首を傾げる大地の目を 一時たりとも逸らすことなく、沙希は見つめていた。
「じゃ今度さ、明日でも・・・いや明後日でも・・・今回大地がこっちに居る間にさ、二人で由美姉に話しに行こうよ。ね?!」
そこで車内アナウンスが もうじき到着する事を告げる。そのアナウンスを避ける様にして喋り終えると、大地が言った。
「そんなさ、結婚式って・・・説得して来てもらうもんじゃないんじゃないの?そりゃ沙希はあいつに来てもらいたいと思うけどな、それ叶えてやりたい気持ちもあるんだけどさ・・・そういうやり方って、どうかな・・・と思う・・・。まだ式の日取りが決まった訳でもないし、時間あるんだからさ、じっくりやってけばいいんじゃないの?アイツの事は」
そこまで言い終えると、降りる準備へと乗客達がせわしなく動き出す。みるみるうちにドア脇は降りる順番を待つかの様に 二人の後ろに列ができ、自然と由美姉の話題にピリオドが打たれた。
空港の地下に到着した電車を降り、エスカレーターを昇り、ひとまず空港に入る。
「懐かしいね」
そう話す二人の脳裏には、様々な思いと映像とがオーバーラップしていた。
「どこ?もう一度行きたいとこって。ここ・・・?」
含み笑いで首を横に振りながらズンズンと進んでいく大地の後を、沙希は追った。そしてようやく大地の足が止まったのは、柵の向こうに滑走路が見える 二人が別れた“あの”場所だった。
「ここ」
大地が沙希の方を振り返る。
「ここか・・・」
複雑な心境でその場に立ち、4年半前と似た様な景色を瞳に映す沙希。あの時には聞こえなかった機体の走り出す爆音が、時々二人の間に鳴り響く。
「どうして・・・ここ?」
「俺さ、沙希と結婚するって決まってから、色々考えてたんだ」
再び声を掻き消さんばかりの音が行き過ぎるのを待つ間、大地はジッポーで煙草に火を点けた。
「俺があの時メキシコなんかに行かなければ、沙希ともっと早くこうなれてたんじゃないかって・・・思ってた。だけど、それを認めちゃったらさ・・・俺のメキシコに居た数年間が無駄だったって事になるだろ?そうはどうしても思えなくて・・・。メキシコに発つ前に俺は、お前との事『不安じゃない』なんて・・・思い上がってたんだ。俺達は深いところで繋がってるんだって・・・。それに甘んじてた気がする。どんなに強い絆で結ばれてたって、もっともっと敏感に沙希を感じてやらなきゃいけなかったし、もっともっと受け止めてやらなきゃいけなかったんだ」
「仕方ないよ。大地だって 知らない土地で精一杯だったんだから・・・」
大地はゆるく頭を振った。
「それでもさ。俺は沙希に対する愛情を勘違いしてた」
スーッと冷たい風が二人の体温を奪っていき、沙希は少し首をすくめながら 大地の話に耳を傾けた。
「いつでも どんな時でも 沙希の気持ちを尊重する事が、大切にするって事だと思ってた。それが男の包容力だと勘違いしてた。俺は“尊重する”って言葉で、自分の弱さをごまかしてたんだ。新丸子のアパートで 初めて沙希が別れたいって言った時も、その後鍵を返しに来たお前と顔合わせた時だって、俺は一言だって『傍に居て欲しい』って言わなかった。メキシコに行く前だって、何の当てもない将来の俺にがんじがらめにされない様にって綺麗ごと言って、『俺は沙希との結婚を真剣に考えてる』って言葉すら 伝えられなかった。それから・・・あの夏の日・・・」
大地はふと天を仰いだ。二人の胸に あの数年前の7月7日の蒸し暑い風が吹き抜けていった。
「あの日も俺は、ここで肝心な事を言わずに逃げたんだ」
「肝心な事・・・?」
随分昔に大地からクリスマスプレゼントにもらったマフラーで、口や鼻を覆う沙希が 上目使いで大地を見た。
「本当は『離れてても、俺は沙希を愛してる。だから、もう少しだけ辛抱して 俺の事待ってて欲しい』って・・・言いたかった。それなのに・・・」
いつの間にか吸い終えた煙草の吸殻を、大地は少し離れた灰皿へと捨てに行った。そして戻ってくると、手をパンパンとはたき、大地は右手を差し出した。
「俺があの時ちゃんと言うべき事言えてたら、沙希にもこんな遠回りさせなくて済んだ。俺はずっと・・・あの時のここから やり直したいと思ってた」
冷たく冷え切った大地の大きな右手を、両手で優しく包む様にして 沙希は押し返した。
「『やり直したい』なんて、大地らしくないね・・・」
沙希は少々悲しい笑顔をした。
「私が・・・そうさせちゃったんだよね。私の弱さが、大地の心も千梨子さんの心も・・・壊したんだ。・・・ううん、そんな“弱さ”なんて綺麗なもんじゃない。自分で自分を守ろうとする醜い気持ちが・・・周りの人を壊していく。私、社会人になった時、もらう喜びより 与える喜びを感じられる人になりたいって思ってたのに・・・人から奪う人になってる・・・」
大地は下を向いて、ふっと溜め息をつく。
「俺が昔みたいに 沙希にキス出来たら・・・そんな事言わないよね?」
沙希はこの間のホテルの部屋での出来事を思い出すと、頭をブンブンと振った。
「違う!そういう意味じゃない!」
沙希の両腕を掴んで深呼吸をする大地に、沙希は体を硬直させた。
「やだ!私・・・そんな事して欲しくて言ったんじゃない。無理しなくていいって、前も言ったじゃない・・・」
「・・・・・・沙希・・・震えてる・・・」
大地の悲しい瞳に見つめられ、沙希は自分の固まった体に気付き、慌てて力を抜いた。
「私は・・・大地の愛情を疑ってるんじゃない。・・・私を・・・許せなくて受け入れられないんだなって・・・。当たり前の事だし、大地を責めてるんじゃなくて・・・それだけの事をしたんだって・・・自分を悔やんでるの」
「じゃ・・・いつまで遡ればいい?俺がメキシコ行かなければ良かった?俺が・・・帰って来たら結婚しようって言ってれば良かった?俺が・・・愛してるって毎日メキシコから電話してたら良かった?」
沙希は苦い表情を浮かべ、首を振った。
「そう。そんな事いくら言っても、意味のない事。悔やんでも・・・二人でいくら悔やんだって、過去は変えられない・・・。反省は必要だけど、大事なのは これからどうするかって事。俺達には必要だったんだよ。遠回りしなくちゃ気付けない事もあったし・・・お互いに成長してここに立ってると思うよ」
じーっと沙希を見つめる大地。
「強くなってるよ・・・沙希は」
滑走路を走る飛行機も、いつの間にかめっきり数を減らしていた。
「いつの間にか、すっごい強くなっちゃってて・・・凄いよ、沙希は」
少々こぼれる笑みに つられる様にして、沙希も笑ってみせた。
「この間、千梨子さんに会ってからかな。それまでは やっぱり・・・色々逃げてるとこ あったし・・・。あのお陰で、やっと私も少しは腹が決まったっていうか・・・」
「やっぱり何かあったんだ?」
慌ててハッとする沙希は、すかさずマフラーに顔をうずめた。
「だから・・・何もなかったって・・・」
疑わし気な目つきで 沙希の顔を窺う大地を チラリと見ると、冗談ぽく沙希が 大地の脇腹を軽くパンチする。
「どんな大地でも、私一生ついて行く覚悟したからね。だから・・・」
一つ息を吸って、また続けた。
「いつまでもお互いを大事に想っていたい・・・」
「そうだな。愛情の形は変わっても、お互い相手の事を一番だと思っていたいな。子供が生まれても・・・。」
そこで大地は沙希の手を取り 指を絡ませて繋ぐと、フェンスに寄り掛かって空を見上げた。
それぞれの胸に思いを抱え、新しい年を迎えた。元旦、年始の挨拶に訪れたみのりを捕まえ、沙希が聞いた。
「由美姉・・・元気にしてる?最近」
「うん、まぁ・・・相変わらずかな」
何も知らないみのりは、いつもの様に優しい口調だった。
「ちょっと前にね・・・夏くらいかな?・・・に、メジャーデビューの話がバンドに来たらしいんだけどね。結局、ポシャっちゃったみたいだし・・・。『私も30過ぎたんだから、いつまでも こうもしていられない』って笑ってたけど・・・。本人はいたって元気なんだけどね。色々考えなくちゃならない時期が来てるみたいよ」
沙希の立ち話は続いた。
「由美姉って今、彼氏・・・いるの?」
みのりは大きく首を傾げた。
「さぁ・・・どうなんだろう。ここ最近、そんな話も聞かないねぇ」
ふと みのりは周りを見回すが、母は台所で、父はすっかり孫に夢中で、兄の純平も父につられていて、二人の立ち話を誰も気に留める者はいなかった。
「あの子前に 大失恋してから、そういう話聞かなくなっちゃったね」
「大失恋?」
「もう随分前だけどね・・・」
みのりは喋り始めた。
「日本に来てたアメリカのネイビーの彼がいたの、当時。それで 彼の船が来る度にデートして、すっごく仲良くやってたの。でもね、ある時その彼が船を下りる事になって、アメリカに帰ったの。それから暫くは電話のやり取りで繋がってたんだけど・・・実は彼には 別居中の奥さんと子供がいる事が分かって・・・。でも彼の『話し合いがつき次第 別れる』って言葉を信じて、ずっと待ってたんだけど・・・結局奥さんにバレて・・・相当の修羅場があったみたい。その奥さんも 別居してたのに、彼女がいるって分かったら・・・意地になっちゃったんだろうね。結局は・・・ダメになっちゃったんだ。で、そんな時に限って 辛い事って重なるもんでね、お母さんがよそに好きな人作って、家出てっちゃったのよ・・・。それで・・・両親の離婚でしょ?結構あんな顔して、色々あったのよ」
『自分のした事は必ず返ってくる』と語った由美姉の言葉が、沙希の脳裏に鮮明に甦る。みのりから初めて聞いた由美姉の恋愛話で、何となく沙希は、自分の祝福されない理由が分かった気がした。そして又新たな決意を固めていた。
ある日曜の昼間、沙希はぎゅっとハンドルを握りしめ、恐る恐るアクセルを踏んだ。
「おいおい。そんな顔して運転されたら、俺のが怖くなるよ」
助手席の神林が、わざと大袈裟に言ってみせた。無事免許取得となった沙希の練習に、神林が車付きで呼び出されたのだった。
三時間ほど必死にしがみついていたハンドルから 沙希が手を離し、二人は一息入れた。
「これで免許も揃ったし、花嫁修業も着々と進んでるな」
「ごめんね。日曜の昼間付き合わせたりして。彼女にも謝っといてね」
すると神林が いたずらな笑みを浮かべた。
「今日『一緒に行こうかなぁ』って言うからさ、『命の保証はないぞ』って言ったら、『じゃあ やめる』だって」
「・・・確かに・・・」
がっくりとうなだれる沙希の肩を、元気よく神林が叩いた。
「でも大丈夫。この三時間で 随分上達したから。これで一般道はもうOKだな?自分でも感覚わかんだろ?あとは高速だけだよ」
「まだまだスーパードライバーまでの道のりは長いな・・・」
はぁと溜め息をつくと、すかさず神林がフォローする。
「だけど ほら、北海道って こっちより全然道幅広いし、どこまでも真っ直ぐで 眠たくなる位真っ直ぐだって言うじゃない。だからこっちより楽だよ、きっと。むこう行った時、彼氏の車で運転さしてもらいな。自信つくよ、多分。うん」
語尾の『うん』は まるで、自分に言い聞かせている様で、神林の必死の慰めに 沙希は心を温かくしていた。
沙希の住む横浜を、桜の花が一色で埋め尽くしてから 約一ヵ月が経った頃、大地と二人 思い出の地 箱根を訪れていた。
「もう何年前になるんだっけか・・・前ここに来たの」
「1・・・2・・・3・・・」
指折り数える沙希の顔にも余裕がある。
「あれ?1・・・2・・・3・・・4・・・。あら?分かんなくなっちゃった」
以前と同じ 枝垂れ桜のカーテンの様な山並を、晴れ晴れとした表情で眺める大地がいた。
「随分と遠い昔みたいな気がするのは、あれから色んな事があり過ぎたからかな」
ふとその隣で息をつく沙希が聞いた。
「これからもまた、色んな事があるのかな・・・」
何の返事もないのかと思ったその瞬間、そっと沙希の肩に腕が回り、大地が言った。
「あるだろうな・・・きっと」
気休めでも『これからは安泰だ』と言って欲しかった沙希からは、思わず笑いが漏れた。
「『これからは俺が傍にいるから大丈夫だよ』とか言って欲しいのにぃ、こういう時は」
気持ちの良い位あっけらかんと、大口を開けて声高らかに笑う大地。そして隣に沙希をしっかりと感じながら、口を開いた。
「俺達、結婚をゴールじゃなくて、スタートにしような」
その言葉は、沙希の耳に心地良い重みを持って響いた。やっとここまで辿り着いた二人には とても大切な一言で、沙希の中に 改めて良い緊張感をもたらした。
大地の都合で日帰りとなった今回の箱根の締めくくりとして、思い出の釜飯屋の座敷に落ち着く。ビールの泡が弾けているグラスで 『お疲れ様』の乾杯を済ませ 一息つくと、大地が言った。
「お父さん達のカナダの家、見て来たんだろ?どうだった?」
「そうだ。その話、まだゆっくりしてなかったね」
つい一週間程前に、カナダのロッキー山脈の麓のレイクルイーズから車で30分位の所に新しく購入した両親の新居を、兄家族と一緒に家族総出で見に行ってきたのだった。
「久々の海外で緊張しちゃったよ。パスポートも取り直した位だからね」
以前まだ前のパスポートの期限が切れていなかった頃、メキシコの大地の元へ飛んで行こうかと 度々パスポートを取り出し 眺めていた事を、懐かしく思い出す。
「でもまた今度は、新婚旅行でメキシコ連れて行ってもらえるもんね」
二人のハネムーンには、どうしてもメキシコの昔大地が暮らしていた町を見てみたいからとねだった沙希の粘り勝ちとなっていたのである。そしてなかなか本題に入らずに やきもきしている大地を、沙希が察する。
「カナダ、すっごくいい所だった。ちょっと・・・北海道に似てた・・・」
親しみを持って沙希の顔を見上げた大地に、少々慌てて付け加える。
「北海道で生まれ育った人から見たら違うかもしれないけど、私には・・・そう見えた。のどかで・・・自然がすっごくすっごく雄大で・・・。それでいて温かくて・・・。お父さん達も、今度木村君と一緒においでって・・・」
「じゃ今の家は、結局お兄さん達が住むの?」
沙希は笑顔で首を縦に振った。
「思い出も沢山詰まってるからって、そのまんま手直しせずに住んでくれるんだって。私が7月に出て・・・その後だから、8月中にはって言ってた。私としても、やっぱり家が無くなっちゃうのは淋しいもんね。良かったって思ってる」
さっきから『うん』『うん』と頷きながら釜飯を頬張る大地の素直な表情につられ、沙希の弾む声も止まらない。
「お家もね、ログハウスで暖炉なんかあったりして、まるで映画に出てくるみたいなの。そりゃあそんなに豪邸じゃないけど、何だか新婚さんみたいで・・・。結婚して30年以上経ってるのに・・・ね」
大地の釜の中味がもう殆ど無いのに比べ、自分の釜にはいっぱいの筍ご飯に気づくと、少々慌てて箸を口へ運ぶ沙希。そして又すぐ、思い出した様に口を開く。
「今度の冬には、アラスカに二人でオーロラ見に行くって、今から張り切ってた。なんか私達子供達の事なんか全然頭にないって感じで・・・ちょっと淋しい気もしたな・・・」
お茶を一口喉へ流し込むと、大地が一旦箸を置く。
「幸せな事だよ」
向かいに座る沙希が、少々不思議そうに大地の顔を見る。
「だってそうだろ?子供に頼らなくても生きていける元気な体と経済力があるって、凄い事だよ。その上、第二の人生を 同じ目標持って手を取り合ってやっていこうと思える夫婦仲を築いてきたって・・・なかなか出来る事じゃないよ」
「・・・親が元気だと、この先もずっと元気みたいな錯覚を起こすけど・・・そんな事ないんだもんね。私、大地のご両親にいっぱいいっぱい親孝行したいと思う。それで、お元気で長生きしてもらいたい・・・」
そう話す沙希を微笑ましく見つめると、大地はまた箸で残りのご飯をさらった。
今夜もいつも通りバイトに精を出し、そろそろ上がりの時間も近付いた頃だった。先程まで居た5名の客達の食器を洗いながら、マスターが言った。
「沙希ちゃんも、もうすぐ終わりかぁ・・・」
するとその奥さんも、テーブルを片付けながら便乗した。
「淋しいわねぇ。すっかりここの顔になってくれちゃったから・・・。結婚しても こっちに来る事があったら顔出してね。その時はご主人も一緒に」
その『ご主人』という慣れない響きに、くすぐったい様な恥ずかしい様な気持ちになり、やけにそわそわする沙希の背後で 入口のドアチャイムが鳴る。
「いらっしゃいませ」
反応の良い奥さんの声に、すぐさま現実に呼び戻され 振り返ると、何とそこには由美姉の姿があった。
「あっ・・・由美姉・・・!」
妙な距離を保ちながら、入口に突っ立ったまま由美姉が言った。
「何回か・・・手紙貰ってたから・・・」
何とか大地との事を理解してもらおうと、今年に入って数回 由美姉に手紙を出していたのだった。しかし今日まで何の返事も音沙汰もなく、心を倒していたところだったのだ。
「ありがとう・・・わざわざ・・・。あっ、コーヒー飲んでく?私もうすぐ上がりだから・・・それまで待っててもらえるかなぁ?」
恐る恐るそう言うと、由美姉は黙って頷く。端のテーブルに腰を下ろした由美姉に 水とメニューを持って行き、わざと明るい声を出した。
「ここのコーヒー、本当美味しいの。きっと由美姉にも気に入ってもらえると思う」
バイトを終えた沙希と コーヒーで一息ついた由美姉が店を出て、延々と歩いて行き着いたのは、多摩川の土手だった。歩きながら沙希が、
「わざわざ来てくれるなんて思わなかった。びっくりしたけど、すっごく嬉しかった。ありがとう」
そう言っても、ろくな返事も返って来ず、
「元気だった?」
と由美姉の話題に切り替えてみても やはり同じで、ろくに会話も無いまま、気まずい空気を引きずり、多摩川に着いた時は 正直沙希もどこかホッとしていた。もう決して寒くない夜風に吹かれて、芝生の上に腰をおろして、由美姉が第一声を上げる。
「どうして、あそこの店でバイトする事にしたの?もうとっくにあの町に大地は居ないのに。それとも思い出を辿ってるの?」
ようやくまともに口を利いてくれた事に喜び、意気揚々と答える沙希。
「あの店ね、大地と初めて入って話したお店なの。まだつき合い始める前。それから何かあると あのお店に行ったり・・・大事な話をしたのもあそこだったし・・・。思い出が詰まってるんだ。二人の原点っていうか・・・。だから、あそこで働きたかったの。そしたら丁度求人が出てて・・・」
沙希の弾んだ声とは正反対に、由美姉は下を向くと 相槌すら返す事はなかった。そして勇気を出して、沙希は口を開いた。
「手紙にも書いたけど・・・私が大地と結婚するの、簡単な考えで決めた事じゃないって分かってもらいたくって。由美姉から見たら、私の今までの行動は・・・くっついたり離れたりいい加減に見えるかもしれないけど・・・。それに今回は 彼には結婚を考えた人までいたのに、その人から奪う様な真似して、自分の事しか考えてない様に思うかもしれないけど、私の中では 本当に本当に悩んで、諦めようかと思った時もあったけど、やっぱり自分の気持ちに嘘つけなくて。大地も色々あったけど、そんな私の事 全部ひっくるめて受け入れてくれたから・・・。由美姉に『やめな』って言われたのに、それ無視したような感じになっちゃって・・・すごく気になってたんだ」
話せば話す程 熱がこもる沙希に、由美姉が淡々と口を開いた。
「それも手紙で読んだよ」
「・・・ありがとう・・・」
「でも・・・何度聞いても同じだよ、そんな事」
次に喋ろうとしていた沙希の口が凍りつく。
「悪いけど・・・そんな事、もう聞き飽きたよ」
遠くで、多摩川を渡る電車の音が響く。
「ほら、前にも言ってたでしょ?私には関係ない事だから、二人は二人で好きにやってって」
「でも・・・由美姉、前『やめな』って・・・」
すると由美姉はカラ笑いをした。しかし目だけは淋し気で、いつからか急に 昔の様な目が無くなる様な笑顔を見せなくなっていた。
「あん時は私、どうかしてたんだ。悪い、悪い」
しかし沙希の胸のつかえは取れないまま、恐る恐る本題を切り出した。
「じゃ・・・結婚式・・・出てもらえる?」
「・・・・・・」
「7月のね・・・」
日にちを言いかけた その途端、由美姉が大きく左手を左右に振った。
「ごめん!それはやっぱパスだわ。お祝いくらいは送るから、まぁ仲良くやってよ」
本当は『どうして?』と聞きたがっている口が、何故か違って動き出す。
「淋しいよ・・・。結婚してから、大地も仕事の都合で 度々こっち来ると思うんだ。だからその時にでも、また一緒に会おうね」
何とか作り笑いをしてみせたが、由美姉からは意外な返事が返ってきた。
「・・・無理かもね。私もこの先、どうするか分かんないし・・・」
ふと沙希の脳裏には、正月のみのりとの会話が思い出されていた。
「今んとこも、引越すかもしんないんだ」
「どうして?!どこ行っちゃうの?」
「まだ分かんない。いっその事 日本飛び出して、海外に雲隠れしちゃおうかな・・・な~んて思ってんだ」
それを聞いた途端、沙希の中では みのりが言った『メジャーデビューの話がボツになった』というフレーズが甦る。掛ける言葉を見付けられずにいると、由美姉が続けて言った。
「私、しがらみとか何にもないから、身軽なもんよ」
「え・・・?お父さんは・・・?」
「いるよ、千葉に。でもあの人はあの人で自由にやってるみたいだし。い~んじゃない?お互い大人なんだしね」
父親の事を『あの人』と呼んだその響きに、沙希は無性に切なさを覚えた。そして自分には想像できない程の深い悲しみを抱えている様に、沙希の目には映った。
「由美姉、彼氏とかは?」
家族の話題から離れようとした気持ちと、また そんな心に闇を持った彼女を受け止めてくれる人が居てくれれば という希望を持って、沙希はそう聞いてみた。すると由美姉は、
「いないよ、彼氏なんて」
と言った後、おもむろに小石を川へ投げ込んで続けた。
「ていうか・・・好きな人はいたんだけどね。見込みがないから、やめた」
「そういえば、焼き鳥屋の人は?・・・その人の事?」
すると『あ~!』と懐かしい事を思い出した声を上げて 笑った。
「違う、違う。そんな人もいたねぇ。私、男には本当ツイてないみたい。でも ま、結婚願望とかもないから 楽なもんよ」
「引越しも・・・それと関係あるの・・・?」
「ま、色々とね。あそこに居る意味も無くなったし」
その一言が 何か意味深である事に気が付いてはいたが、まさか大地の事を指しているとは、この時沙希は思いもしなかった。
いよいよ沙希の結婚式の日が 日一日と迫る中、河野家ではそれぞれが荷造りをしていた。そんな日曜、純平とみのりが子供を連れ、顔を出した。
「俺の部屋、今のうちに片付けようと思って」
「じゃあ星夏ちゃん、預かっとくわよ」
母がいそいそとみのりから子供を受け取る。
向かいの部屋でガサガサと動く物音に心を飛ばしながら、沙希は荷造りの手を止め、遠慮がちに兄の純平の部屋を覗く。
「みのりさん。ちょっと・・・いいかなぁ・・・」
笑顔で頷くみのりを自分の部屋へ招き入れると、後ろ手にドアを閉めた。
「由美姉の事なんだけどさぁ・・・」
早速そう切り出す。
「私の結婚式・・・出てくれないって・・・。何だか引越す様な事言ってたんだけど・・・何か聞いてる?」
「何かって?引越しを考えてるっていうのは、聞いたけど」
「引越しの本当の理由って、何なんだろう。それと 結婚式来ないのと、関係があるのかなぁ・・・」
小さく首を傾げるみのりに、沙希がハッとする。
「あっ!もし何か聞いてたとしても、みのりさんだって言いにくいよね。由美姉とは昔っからの友達なんだもんね。ごめんなさい」
すると少し目をむいて、首を横に振った。
「ううん。本当に特別何も聞いてないのよ。ごめんね。前に『引越す』って言ってた時『私の居場所は日本じゃないのかもね』なんて言ってたから、『何格好つけた事言ってんのよ』って言ってやったのよ。『何かあったの?』って聞いたんだけど『今のとこに居る意味も無くなっちゃったし、居ても辛いだけだ』って、それだけ」
「それって・・・バンドのメジャーデビューが駄目になっちゃった事?」
意外にもみのりは 軽やかな笑顔を返した。
「ううん。その事はもうすっかり自分の中でクリアになってるみたい。むしろ恋愛がらみだと思う。はっきりとは言わないけどね。あの子、あぁいう性格だから」
「どうして・・・そう思うの?」
「どうして・・・かぁ・・・。難しいなぁ・・・。あっそういえば前にね、こんな事言ってたんだ。『どうせ見込みがないんだったら、思い出もない方がいい』って。『せめて思い出だけでもって しがみついてきたけど、かえって自分を惨めにした』って。それにね、『現実を歩いてる人を見ると、自分だけ取り残されてる様で、シャットアウトしちゃうんだ』なんて話してた」
沙希が思っていた以上に由美姉の心の内は重く暗いものだった事に、今更に気付く。
「そういう感じ、分かる様な気もするけど・・・、それと結婚式とどう関係があるの?だって、私の友達ってだけじゃなくて、彼とはもっと長いつきあいなんだよ」
「あら?そうなの?!」
初耳のみのりは、目をむいた。
「元々は彼の友達なの、由美姉って。だから彼が川崎の新丸子に住んでた時、よく遅くまで飲んでたんだって。それ位仲良いんだよ。それなのに・・・」
パタッと口を閉ざしてしまったみのりに気付き、沙希は少々照れた様に頭を掻いて 笑ってみせた。
「ごめんなさい。いつの間にか愚痴みたいになっちゃって・・・。忙しいのに、ひっぱり出しちゃってごめんなさい。ありがとう」
いつもの優しい微笑みを浮かべて、みのりは向かいの部屋へと姿を消した。
いよいよ来月に結婚式を控え、打ち合わせの為に沙希は北海道を訪れていた。間近になると具体的な準備も増え、喧嘩も絶えないと経験者から聞いていた通り、沙希達も例外ではなかった。そんなギスギスとした現状に 新しい空気を入れようと、大地の提案で、今日は二人で温泉へと来ていた。そこは地元では有名な旅館で、男女混浴で入れる眺めの良い露天風呂が売りで、入湯料さえ払えば宿泊客以外でも利用する事が出来ると聞き、二人は急遽 出向いたのだった。
「この季節に温泉ってピンと来なかったけど、いいもんだね」
そこから見える景色は絶景で、小樽の港が一望できる高台にあった。北海道らしい爽やかな風が時々、湯気と共に二人のイライラを包んで 拭い去っていく様でもあった。港に大きな客船を眺めながら、沙希は朗らかに言った。
「昨日 船上ウェディングの人達、見たじゃない?今更だけど、ああいうのも素敵だなって・・・」
「やっぱ、沙希は女の子なんだな。いっぱい夢があんだよな。こっちの親戚とか土地柄、決まり事が色々あって・・・ごめんな。俺なんか男だし、そういうの全然分かってやれなくて」
すると沙希も笑いながら、首を横に振った。
「ううん、そういう意味じゃないの。結婚式って、一生に一度の二人の思い出だけど・・・それ以上に 親孝行の為にやるんだなって分かったの。ごめんね」
するとそこへガラガラッと戸が開いて、赤ちゃんを抱いた一人の若い女性が入って来た。その女性は 淵まで来ると、しゃがんで慎重に湯加減を確かめると、そーっとお湯の中へと入って来た。思わずその赤ん坊に、沙希の目は釘づけになり、すかさず大地の腕をつついた。
「可愛いね、赤ちゃん」
見ると大地の目尻も下がり気味である。そして、
「すみません・・・。今・・・何ヶ月位ですか?」
すると大事そうに赤ん坊を抱きかかえていた女性が、明るい顔でこちらを向いた。
「7ヶ月です」
大地も沙希も『可愛いね』と、顔を見合わせた。そして大地が聞いた。
「北海道の方ですか?」
その女性は、小さく首を横に振って 照れた様に口を開いた。
「実は昨日、小樽で結婚式挙げたばっかりなんです」
二人の驚いた顔を見ながら、その女性は続けた。
「ここから丁度見えるんですけど・・・あそこで昨日、船上ウェディング挙げたんです。元々は東京なんですけど、新婚旅行も兼ねて、こっちに来ました」
更に驚いて顔を見合わせる大地と沙希。
「昨日って・・・!昨日の、夕方ですか?だったら私達丁度その時、あそこ通ったんですよ。それで『綺麗だねぇ』って言ってたんです」
その偶然に三人は目を見合わせて笑い合い、一瞬のうちに不思議な一体感が生まれていた。
「私達も来月 結婚するんです」
時々パシャパシャとお湯に手をつける赤ん坊に話題を移しながら、すっかりと打ち解けたところに 再びガラガラッと戸が開き、今度は背の高い男性が現れた。
「パパ!こっち」
「真宏にお湯熱くない?平気だった?」
片手を上げて合図を送る妻の元へ近寄り、お湯に足を踏み入れる男性に、沙希は我が目を疑った。まるで四人で円を描く様に腰を落ち着けると、その男性は赤ん坊を受け取った。そして子供を夫に預け 身軽になった妻が、口を開いた。
「こちらのお二人、来月結婚式なんだって」
「あっ、そうなんだ。おめでとうございま・・・す・・・」
先程からずっと俯き気味の沙希の顔で、その男の視線は止まった。何も知らず、大地は変わらず笑顔で応答した。
「そちらこそ、昨日結婚式だそうで。おめでとうございます」
まだ幼い我が子を抱いた青葉は、大地をじっと見つめて言った。
「こっちの方ですか?」
大地の『はい』という答えと、妻の『あのね』がかぶさる。
「昨日私達の結婚式の時、丁度港の所通って 見掛けたんだって。ねぇ、偶然だと思わない?凄いね!縁があるのかな。彼女はね、横浜なんだって。また東京に戻ってからでも会えたらいいなぁと思って・・・」
妙にはしゃぐ妻に、ろくな返事も返さぬ青葉。そんな二人に、俯いたままボソボソと沙希が言った。
「来月にはもう こっちに越してきちゃうんで・・・」
先程から急にそわそわしている沙希を怪訝そうに見る大地の腕を、沙希は軽く引っぱった。
「新婚さんの邪魔しちゃ悪いから・・・向こう行こうよ」
「あっ・・・そうか。北海道の旅、楽しんでいって下さい。本当、良い所なんで」
満面の笑みで そう告げる大地に、その女性は淋しげな表情を浮かべる。
「あら残念・・・。私達の事なら気にしないで下さい。出来たら せっかくだもの、少しお話したいし・・・」
そう言う妻を遠慮がちに引き止める青葉。
「あちらだって、せっかくの時間なんだし・・・」
「そうかぁ・・・」
渋々と諦める女性は、最後に大地と沙希に笑顔で言った。
「お幸せに」
心のこもった言葉に、同じ調子でお礼を言うのは大地だけで、青葉と沙希は何とも不自然なギクシャクした雰囲気に包まれていた。
「どうかした?沙希」
「ううん、別に。何でもないよ」
必死に平静を装う沙希の笑顔は、皮肉にも引きつってしまうのだった。
入浴後、何となく元気のない沙希を 大地が誘った。
「この近く、散歩でも行くか」
ロビーに出てみると、近隣の観光案内のパンフレットが並ぶテーブルに目が留まる。そして大地が思い立った様に 一段明るい声を上げる。
「どっか良い散歩コースないか聞いてくるよ。ちょっと待ってて」
そしてフロントへ急ぐ大地の背中を暫くじっと見つめてから、目の前にあったパンフレットを一枚手に取り、ソファに腰を下ろした。すると、浴衣姿の一人の婦人が 何やらパンフレットを物色しながら、向かいのソファに座った。
「こういうの見ても、良くは分からないのよねぇ・・・」
独り言を呟きながら、手にした何枚ものパンフレットに目移りさせる婦人。
「どこか良い所、ご存知ないですか?」
急に頭を上げて、こちらを覗き込む。その顔にハッとする。沙希とじーっと目をそらさない婦人。一体何秒見つめ合っていた事だろう。無言の時が流れ、その婦人がゆっくり首を傾げた。
「どこかでお会いしてません・・・?」
とっさに喉が詰まって声が出ない沙希。
「いえ・・・」
何とか絞り出し そう答えようとした時に、目の前の婦人は 急に目を見開いて 驚きをあらわにした。
「もしかして・・・河野さん・・・?!そうでしょ?河野さんよね?!・・・どうしてここに・・・?もしかして・・・っ!?」
確かに 何か大きな誤解をしている様子の青葉の母に、沙希は慌てて訂正しようと身を乗り出すが、言葉に詰まる。
「いえ・・・」
あとはただ首を左右に振って 俯くしかなかった。そして、ふと思い出した様に フロントに行った大地を振り返る。フロントマンが地図を広げて熱心に大地に説明をしている様子だった。すると今度は背後から、再び懐かしい声が響く。
「真宏 疲れて寝ちゃったよ。・・・どっか良いとこ、あった?」
すると母は、それどころではないといった厳しい面持ちで、青葉の浴衣の袖を引っぱって 急に小声になった。
「あなた!知ってたの?河野さん来てた事・・・」
ひたすら俯き続ける沙希の頭に、二人の視線が突き刺さる。
「かおるさん知ってるの?この事」
下を向いた沙希の耳に、一向に青葉の声は届いてこない。
「あなた達もしかして、まだ・・・っ!?」
「そんな訳ないだろう」
ようやく青葉の声がする。あまりに予想外な出来事に、すっかり感情的になっている母の声が 沙希の耳に突き刺さる。
「じゃ、河野さんがあなたを追ってきたって言うの?」
するとそこへ、ようやく大地が戻ってくる。
「聞いてきたよ。分かった、分かった」
そう言いながら近付いて、少々異様な空気に気付き、他の二人に顔を向ける。
「あっ!先程はどうも」
何も知らず 青葉に挨拶を交わす大地を、母はキョトンと眺めていた。
「あ・・・どうも・・・」
半ば上の空で挨拶を返す青葉。しかし妙な雰囲気の漂った三人に、大地はひと通り目を通すと、さっきから俯いたままの沙希へ声を掛けた。
「どうした?何かあった?」
一刻も早くこの場から立ち去りたかったが、沙希の足はもう力が入らなくなっていた。そして青葉の母が言った。
「河野さん、こちら・・・ご主人?」
「いえ・・・」
その二文字を言う事ですら精一杯で、声も震えている事を その場の誰もが認識できた。
「あれ・・・?知り合い?」
沙希に対してのその問いかけに、誰もが口を閉ざした。何とも言えない空気が立ち込め始めたところで、大地は母に視線を合わせた。
「木村大地と言います。初めまして。彼女とは、来月結婚します。さっき こちらのご夫婦と、露天風呂でたまたまご一緒させて頂きました」
何も分からない大地の とっさの誠実な対応に、母もにこやかになる。
「あぁ・・・そうだったんですかぁ・・・」
そして青葉も続ける。
「母です・・・」
あらためて深々とお辞儀をしてから、大地は思い出した様に話し掛けた。
「お孫さん、可愛かったですねぇ。やっぱり赤ちゃんって良いもんですね。一人居るだけでも、その場が明るく和みますから」
朗らかに会話をする大地の横で、沙希は涙を堪えるのが精一杯だった。
旅館で聞いてきた散歩コースを歩きながら、沙希はまだ先程のムードを引きずっていた。
「どうしたぁ。元気ないなぁ・・・」
優しくポンと肩に手を置くと、沙希はその場でうずくまってしまった。
「私、やっぱりこのまま 平穏に結婚して、幸せになっちゃいけないって事かなぁ・・・」
すると落ち着いた声の大地が、同じ様にしゃがみ込んだ。
「幸せになっちゃいけない人なんて、いないよ」
「私ね・・・実は・・・」
そんな沙希の言葉を、大地が優しく遮った。
「俺は平気だよ。自分の身辺整理つけて 沙希と結婚して一生共にしていくって心に誓った時、全てを受け入れる事にしたんだ。嫉妬ややり切れない思いとか そりゃぁ今全くないって言ったら嘘になるけど・・・。今更・・・大丈夫だよ。だから沙希も、もう忘れよう」
全てを知っているかの様な大地の反応に、沙希は少々度肝を抜かれる。
「いつから・・・分かってたの?」
「お風呂で あれ?と思って、さっきで・・・何となく」
しかし大地は余裕の笑みを浮かべてみせた。
「分かってて・・・あんな挨拶してくれたの・・・?」
「そりゃあ、沙希の顔を立ててさ・・・って言ったら、ちょっと格好良すぎるな。本当は・・・俺なりの意地もあったかな。男として、余裕のあるとこ見せときたいっていうか・・・」
そして すくっと立ち上がって満点の星空を仰ぎ見て、笑った。
「はは・・・っ!俺もちっちぇーな!」
しゃがんだまま大地を見上げると、その後ろに広がる無数の星屑が 初めて沙希の目に飛び込んだ。
「星・・・凄いね・・・」
「もう少し行くと、原っぱがあるんだって。そこで寝転がって空見よう。最高だぞーっ!」
そして沙希の手をすくい上げて、小走りに先を急いだ。
その晩泊まらせてもらう事になっていた大地の実家に 二人で帰り着いたのは、9時近かった。大地から『風呂も飯も済ませてある』と聞いていた母は、居間に二人分のお茶を出すと 又立ち上がった。
「河野さんのお布団、芽衣子の部屋に敷いておいたっけ・・・いかったかい?」
「すみません、わざわざ・・・ありがとうございました」
すると母は少し言いにくそうにモゾモゾとしだす。
「大地の部屋に・・・とも思ったっけ・・・まだ結婚前だし、河野さんのご両親からお預かりしてる大事な娘さんだべ・・・」
「ありがとうございます」
すると今度は、風呂上がりのビールを飲みながらテレビを見ていた筈の父が、三人の方へ顔を向け ボソッと言った。
「前ん時は、大地の部屋だったべ」
『前ん時』というフレーズに、三人の視線が一斉に父の顔に集まった。沙希だけが一瞬何の事か分からない顔をしたが、すかさず母が父の足を小さくはたく素振りを見せ、小声で父に言った。
「あれは、千梨子さんがそう言ったから・・・」
母は父だけに聞こえるつもりで言ったが、小さい居間の中で その会話は筒抜けだった。凍りつく様な空気が一瞬流れ、沙希が慌てて口を開いた。
「準備して頂いてるお部屋、使わせて頂きます」
「したっけ・・・」
母も少々取り乱していた。
「結婚も決まっとるべ・・・同じ部屋でも・・・」
「いえ・・・」
結局、姉の芽衣子が昔使っていた部屋を予定通り使う事となり、『お休みなさい』と両親に挨拶をして上がってきた沙希が 寝る支度を整え布団に横になったが、やはり落ち着かない。大地とそれぞれの部屋に分かれて入ってから2時間近くが過ぎた頃、沙希は思い切って大地の部屋の襖を小さく叩いた。
「もう・・・寝ちゃってる?」
大地の声を中に確認すると、そーっと襖を開ける。するとパソコンデスクの前に座ってカチャカチャとキーボードを叩く音が止まり、沙希を振り返る大地。
「どうした?」
「・・・いや・・・別に・・・。仕事?」
「ああ。ライブの依頼が来てて・・・。でももう終わりにする。そしたら俺も寝るよ」
「そう・・・」
「・・・眠れそう?」
「うん・・・」
大地が沙希の顔を見たのを感じ、慌てて笑顔を作った。
「ごめんね、仕事の邪魔しちゃって。おやすみなさい・・・」
「おやすみ・・・」
閉じられた襖越しの沙希の背中に じっと視線を投げたまま、暫くして 頭を抱える大地だった。