第10章 初めの一歩
10.初めの一歩
小樽に戻った大地を訪ねて、姉が実家の玄関をくぐった。子供二人を 一階の居間にいる両親に預け、スタスタと階段を昇っていった。ノックをし 返事を待たずに引き戸を開けて、大地の部屋へと入った。パソコンに向かって仕事をしていた大地が振り返るなり、姉が開口一番こう言った。
「ありゃぁ、随分とまぁ派手にやられたねぇ」
口元に絆創膏を貼ってあるにも関わらず、そこからはみ出した赤黒いあざと、頬骨の辺りの青紫の内出血が まだまだ生々しく、その修羅場を物語っていた。
「どうしたんだよ、急に。あれ?あいつらは?」
姉は下を指さし、大地もそれに頷いた。
「何あんた、父ちゃんと母ちゃんに 結婚反対されとるんだって?」
大地は少し怪訝な顔をする。
「誰に聞いたんだよ。母ちゃんか?」
姉は襖に寄り掛かりながら、頷いた。大地はくるりと椅子の向きを変え、姉を正面に見て、大きく溜め息を吐いた。
「で?何が言いたいの?姉ちゃんまで加勢しに来たの?」
「な~によ、人聞きの悪い。人を敵みたいに」
「だって、そうだろ?二言目には いつも『あんた、ここの長男なんだから』って。もう分かっとるよ、充分。今回だって どうせ『長男なんだから、いい嫁さん見付けて、親安心させれ』とか『今から反対されとる様じゃ、嫁姑大変だ』とか、そったら事言いに来たんだべ?」
腕組みをしていた姉が、部屋の中を歩き回り始めた。
「違うわよぉ。・・・その・・・彼女ってば、今こっちさ居るの?」
「もう横浜に帰ったよ。・・・何でだよ」
いぶかしげに姉を見る大地。
「こっちさ来る予定とか・・・ないん?」
「何企んでんだべ。どうせ母ちゃんに、何か入れ知恵されて来たんだべ?」
姉が壁に掛けてある もう今年も残り少なくなったカレンダーを眺めながら言った。
「あんたも、だいぶ参っとるみたいね。・・・母ちゃんとは何も関係ないの。いやぁ ほら、ちび達の保育園の学芸会とか もうすぐだべ、それ一緒に観に来ないかなぁと思って」
大地の目の色が、少し変わる。
「だって・・・父ちゃんと母ちゃん 行くんだべ?孫の行事、毎年楽しみにしとるんだから」
「したっけ、子供が間に居ると居ないとじゃ違うっしょ?」
煮え切らない大地に、姉がしびれを切らす。
「私が一役買って出ようって言ってんでない。鈍感ね」
暫く考えてた大地が、ゆっくりとした口調で話し出す。
「姉ちゃんの気持ちは有り難いんだけどさ・・・。暫くはうちの両親に会わせんのはやめとこうと思ってて・・・。あいつ、結構落ち込んでんだわ・・・。父ちゃんなんて、一言も口利かなかった」
「父ちゃんが?母ちゃんっしょ?」
振り返る姉に、大地が言った。
「違うって。父ちゃんだ。『こんばんは』の挨拶の一つも無かったんだから。酷いっしょ?」
姉は少々首を傾げた。
「そんな筈ないっしょ。昨日だったか、私 父ちゃんと二人で話したけど、父ちゃんは別に反対してないってよ。ただ『都会の若い人だから、何から聞いていいか分かんなくって、上手く喋れんかった』とは言っとったけど・・・。父ちゃんはね、その・・・彼女の事はまだどうか良く分かんないけど、大地が『この人』と本当に思える人と 幸せに頑張ってってくれたらいいって、思っとるみてぇだ。まぁでも、今回のこの傷見て、母ちゃんも 大地が本気なんだって分かったと思うよ。だから、最初ん時とは 状況が変わっとるって事。・・・彼女がこっちさ来る目処が立ったら、連絡ちょうだい」
そう言うだけ言うと、大地の肩をポンと明るく叩いて 部屋を去って行った。
この日、長年勤め上げた貿易会社を退職した父を祝おうと、河野家に一同が集まっていた。母をはじめとして みのりと沙希の女性陣が腕を振るい、御馳走の沢山並んだ食卓を囲んで、和やかな宴となっていた。そして父が ワイングラスを一旦置いて、口を開いた。
「前から言っていた様に、10日からお母さんと二人で 二週間程カナダに行って来ようと思ってる。向こうでの物件を探したりするから、もし日にちが足りなければ もう少し延びる可能性もある。その間、この家の事は宜しく頼む」
みのりは赤ん坊を抱っこしたまま、子供達は一斉に頷いた。そして父の話はまだ続いた。
「純平達は、特別何もないな?お前達の事は、お父さんは何も心配してない。・・・沙希。お前、この前から言ってる話、どうなってるんだ?」
「まだ・・・ちょっと・・・」
蚊の鳴く様な声で そう答える。
「結婚だ何だって 勝手に自分達で話を進める前に、一度彼氏をきちんと紹介しなさいって言ってるだけだろ。簡単な事だろ?それとも、なんだ。彼氏が嫌がってるのか?」
「そうじゃないよ!だけど・・・」
大地の名誉の為にも、そこだけは声を張って否定するが、言葉が続かない。見かねた母が 何とかその場を取り繕うと、諦めたのか 父はまた純平へ質問をした。
「純平は この家をどうするのか、みのりさんと相談したのか?」
純平がすっとんきょうな顔をする。
「だって、沙希がまだ住んでんだろ?相談も何も、まだまだ先の事だと思ってたから。結婚の話が出てるなんて、今初めて聞いたから・・・」
「ほら」
父がすかさず沙希を見た。
「お前がいつまでもはっきりしないと、皆が動けないんだよ。自分だけの事じゃないんだ。それに、お父さん達がカナダに行っちゃってから、いちいち挨拶だ顔合わせだ 式だって言ったって、そんなにちょくちょく戻って来られないからな」
「すみません・・・」
沙希が肩をすくめて父に謝った日から 一週間が経たない内に、河野家のリビングに 大地が足を踏み入れていた。未だあざの跡の消えない顔を、沙希は大変気にしていた。そして沙希の心配通り、父の目線がまずあざに向いて厳しい表情を見せる父に、沙希の不安は募るばかりだった。何も出来ない自分をもどかしくさえ感じていた。
「その傷は?」
挨拶もそこそこに ソファに腰掛けた大地を、上から下まで確かめる様に見ると、父は一番にそう口火を切った。その事は聞かないでくれと言わんばかりに体を縮こめる沙希とは裏腹に、胸を張って堂々と父の目を見て 大地が答えた。
「殴られました」
怪訝そうな顔で、父が返す。
「穏やかじゃないねぇ」
しかしそんな言葉にも動じず、大地は正直に事の一部始終を説明した。しかし、それをどう受け止めたのか、父はあっさりと話題を変えた。
「お仕事はどんな?」
それに真面目に応答する大地が、まるで父に面接を受けている様で、沙希は心の休まる間もなかった。大地が仕事の説明をしている頃、母がコーヒーを運んでくる。母がその場に加わった事で、いくらか沙希の気持ちも和んだ。こんな風に真面目に仕事の話をする大地を見るのは初めてで、沙希の目には やけに大人に映っていた。
「今のお仕事の前は?」
相変わらずの面接官の様な口調で 尋ねる。そして大地は 一呼吸置いてから答えた。
「・・・メキシコに行ってました」
「メキシコ?」
おうむ返しの父に、沙希はただ俯いたまま、ただじっと黙って二人のやり取りを聞いていた。
「一言で言ってしまえば・・・自分を試してみたかったんです」
父の目が少々変わる。
「自分を知る人が誰も居ないゼロの所から、本当の自分の力を試してみたかったんです。それで、元々興味があったメキシコのグアダラハラという町で、約三年半生活してきました」
「そこで得たものは?」
瞬きをしない父の眼光が、とても鋭かった。
「本当に沢山の事を学びました。人の原点みたいなものも 自分なりに気が付きましたし、人生の中で 二度と出来ない貴重な体験をしたと思っています。世間的には賛否両論だと思いますが、行って良かったと思っています。それは、胸を張って言えます」
そう堂々と主張してみせた大地が、何故か神々しく見えた。
「私も貿易の仕事をずっとしてましてね。色んな国に行きました。やはり今いる自分の世界から飛び出して外に出てみると、人生観が大きく変わりますね。木村さんも、大変貴重な体験をされた様で・・・」
初めて父の口から自分の話が出、言葉も最初に比べ丁寧になり、最後には『木村さん』とまで呼んだ事に、沙希や母は僅かに胸をなで下ろしていた。
「沙希とはどちらで?」
大地が8年も前になるライブハウスでの出会いのエピソードを父へ話すのを聞きながら、沙希の脳裏にも その時の映像が懐かしく甦るのだった。
「沙希がまだ学生の頃ですか?そんな昔から?私も仕事人間で あまり家には居りませんでしたし、この子もこういう話を私にはしませんからね。全く知りませんでした、そんな長い付き合いとは・・・」
「いえ・・・」
大地が初めて父から目線を外し、俯き気味に語った。
「知り合ったのは8年前ですが・・・それからは色々と・・・すれ違いもありまして・・・」
「じゃあ・・・最近なんですか?付き合いが始まったのは」
「いえ・・・」
沙希の中に緊張が走る。静かに唾を飲み込む大地に、母がそっとコーヒーを勧めた。
「もし良かったらどうぞ。こう質問攻めにあっちゃ、息つく間もなくて疲れちゃうでしょ?お砂糖かミルクかお使いになります?ほら、沙希。木村さんに入れて差し上げなさいよ」
沙希をせっつく母に、大地が言った。
「ありがとうございます。頂きます」
「ごめんなさいね。この子気が利かなくて・・・。この子まで緊張してんだから・・・。あんたまで硬くなってどうすんのよ」
少しバツが悪そうに、そしてまた照れた様に笑うと、それが連鎖反応を起こし 大地の頬をほぐした。そして一口コーヒーに口をつけてから、再び話を続けた。
「8年前、僕がまだ大学4年だった頃、一度おつきあいをさせて頂いてました。でも・・・一年位で 別れる事になってしまいました。きっと・・・あの時の僕に 物足りなさを感じたんだと思います。学生でしたし、音楽もやってましたから、金銭的にも時間的にも余裕がなかったので、気の利いたデートにも連れて行ってあげられませんでしたし、淋しい思いもさせたと思います。それから少し経って、またお付き合いする事になったんですが・・・その時にはもうメキシコ行きを決めていて・・・。当時、何があっても三年間は戻らない決意をしてましたから、沙希さんには 何の約束も出来ないまま、日本を発ちました。一年間しっかりと日本から彼女は 僕の事を支え続けてくれました。本当に感謝しています」
そこまで聞いて、また父が質問する。
「一年間・・・?」
「はい。姉の結婚式で 一度日本に戻った事がありました。その時見た彼女の顔は 本当に疲れ切っていて、それで僕が身を引く事を決めてしまったんです。沙希さんの事を本当に大切に思ってましたから、先の約束も出来ないなら、彼女を解放してあげる事が思いやりなんだと勘違いしてました。メキシコに戻って それに気が付いて、それが大きな後悔になってしまいました」
コーヒーを飲むと、父がまた口を開く。
「でも、その後に・・・例の彼女と知り合ったんでしょう?」
父は大地の顔の傷を指して言った。大地の話は淡々と続いた。
「メキシコで色々な事が軌道に乗って落ち着いてきた頃、実家の父が心筋梗塞で倒れた知らせを受けて慌てて帰国してから、何年も沙希さんの事が自分の中で吹っ切れずにいたので、昔の知り合いが、女っ気のない僕を心配して 女性を紹介してくれました。それがその・・・前の彼女です。うちの父も病気をしてからもう仕事もしてませんし、母にも『早く安心させてくれ』って言われてましたから・・・僕も心を入れ替えて・・・と思った矢先、沙希さんに偶然再会しました。・・・正直迷いました。前の彼女とは結婚を前提のお付き合いでしたから・・・」
いつの間にか大地の話に吸い込まれていた三人が、そこには居た。何を思っているのか、さっきとは打って変わって口を閉ざしてしまった父に代わり、母が口を開いた。
「お父様は、今はご自宅で療養されてるんですか?」
「はい。今はお陰様で普段通りの生活を送っています。ただこれからの寒い時期と心労には 気をつけないといけないんですが・・・」
「北海道は、こちらに比べたら随分とお寒いんでしょうからね。大事にして差し上げて下さいね。沙希も・・・何かそちらでお役に立てればいいんですけど・・・」
母とのやり取りをようやく顔を上げて聞いていた沙希だったが、その最後の一言をきっかけに、また俯いた。すると それに気が付いた様に、大地がもう一度父と母の目を見、背筋を伸ばした。
「今日 ご両親にお目に掛かれると決まって、僕はありのままの自分を見て頂こうと思ってこちらに伺いました。ですから・・・聞かれた事には、包み隠さず正直にお話させてもらいました」
大地はそこで、一度深呼吸をした。
「沙希さんとの結婚をお許しを頂きたいと思います」
緊迫したムードが再来すると、もう沙希はその場から逃げてしまいたくなるのだった。それを肌で察した様に、母が
「うちは・・・」
と声を漏らすと、重々しい声が父の口から顔を出した。
「木村さんは・・・娘を幸せにする自信がありますか?」
暫く父と大地の真っ直ぐな視線がぶつかり合う。そしてその隣では、耐え切れなくなった沙希が どんどん肩をすくめていくのだった。
「僕は・・・」
大地は微動だにしないまま、ゆっくりと一回瞬きをした。
「沙希さんを幸せにする自信は・・・・ありません・・・」
沙希が耳を疑ったのは言うまでもなく、母も思わず大地を見たまま動けなくなった。隣で今にも泣き出しそうな沙希に 一度視線を移してから、大地は言った。
「本当ならここで『僕の力で沙希さんを幸せにしてみせます』と豪語できればいいんでしょうけど、ご存知の通り、まだまだ僕は未熟です。もちろん、彼女を幸せにしたい気持ちは人一倍です。でも・・・一生彼女に苦労を掛けない約束も・・・正直できません。ですから・・・一緒に、力を合わせて幸せを築いていきたいと思っています。どんな時も僕の精一杯で彼女を支えて、守っていきます という 今の僕には、そこまでのお約束しか出来ません。すみません・・・」
この答えが吉と出るか凶と出るか 不安で堪らない沙希は、心の中で 馬鹿正直な大地を少々恨んでいた。嘘でもいいから『幸せにします』と即答して欲しかった。そんな女心は儚く沙希の中で散り、とうとう小さなため息が漏れた。そんな様子の沙希に ゆっくりと顔を向け、大地が小さく声を掛けた。
「ごめんな・・・。でも俺、今日は飾らずに正直にいくって、自分と約束したから・・・」
返す元気もなくうなだれていると、父がソファに深く座った。
「木村さんは馬鹿正直な方だ・・・」
それは少し笑っている様でもあった。そして・・・
「こんな弱々しい頼りない娘でいいんですか?」
再び沙希は耳を疑った。そしてすかさず大地が返す。
「弱い部分を持っててくれないと、僕の出番も無いですから。それに・・・沙希さんは芯のしっかりしたところを持ってますから。僕は彼女のそういう所を尊敬してるんです」
まるで嘘の様な展開に、まだ状況を飲み込めずにいると、母が黙って沙希の膝に手を伸ばした。
「今日はありがとう・・・」
沙希の家を出て、二人は臨港パークを歩いていた。
「お父さんもお母さんも、良い人達で本当に良かったよ」
すっかり真っ黒な海の向こうにゆらゆらと揺れる明かりが、二人を5年前へとタイムスリップさせた。メキシコに発つ直前の沙希の22回目の誕生日を祝った晩、同じ様にここを歩いた光景を 二人はそれぞれに思い出していた。ゆっくりと歩く足並みと同時に揺れた手が、一瞬軽くぶつかる。
「ごめん・・・」
とっさに沙希が手を引っ込める。沙希が昔の不貞を告白してから、二人が体を近付けたのは、小樽のホテルに朝帰りした沙希を見付けた時だけで、あとは手が触れ合う事もなかった。無意識の内に大地が引いてきた結界に触れない様、沙希は距離を保つ事に神経質になってきた。しかし今日はそれが少し緩んでしまっていて、沙希ははっとして慌てて手を後ろに隠した。大地が立ち止まって振り返ると、硬直した沙希がいた。沙希の後ろに隠された手をそっと大地の手が迎えに行く。まるで中学生が 好きな子と初めて手を繋ぐ時の様に、胸をドキドキさせた。互いに一本ずつだが、絡まった指に久し振りの安心感を覚えた沙希が、恐る恐る大地の顔を見上げる。すると すぐに絡まった手の平を広げて、大地はすっぽりと沙希の手を受け入れた。
「今日の大地、カッコ良かったよ」
ふっと大地が鼻で笑った。
「隣で頭抱えてたくせに?」
照れ臭そうに笑う沙希の手を、ぎゅっと握りしめる大地。
「俺達、これから頑張ろうな」
返事のない沙希を見ると、頭をこくりと何度も何度も頷かせながら、腕に顔を埋めている。
「ま~た泣いてんのか?結婚式にとっとけよ。そんなに今の内から泣いてたら、あとで足りなくなるぞ」
5年前に大地が沙希に星のプレゼントをした場所と同じ芝生の上に腰を下ろし、何やら上着のポケットから小さな木の箱を取り出す大地。
「開けてみて」
その手彫りの模様の入った木の箱を開けると、そこには七色に輝くオパールが鎮座していた。
「メキシコで・・・俺が作って来たんだ」
「メキシコで・・・?」
「うん。全部・・・手作り。俺、頑張ったろ?」
照れた様に笑う大地の顔は、5年前と全く同じに温かかった。しかし意味を把握できずにキョトンとしている沙希に、一つずつ大地が説明をした。
「メキシコに居た時、俺 朝連絡取れなかっただろ?あれ、この指輪作る為に 工場で働いてたんだ」
初めて聞かされた事実に、沙希は言葉を失った。
「メキシコって、オパールが特産なんだ。それ知った時、真っ先に『婚約指輪にしよう』って。これで沙希にプロポーズしようって決めたんだ。それでさ、知り合いに工場紹介してもらって、訳を話したら『特別に』って働かせてくれたんだ。原石を削って 磨き上げる作業とか、リングの部分の細工とか、本当は何年も修業しないといけないんだけど、一通り見せてもらって、手取り足取り教えてもらってさ。よく言う“給料の三か月分”って訳にはいかないけど、あの時の俺の精一杯の気持ちで作ったんだ」
澄んだ空気に浮かび上がる三日月が、二人を後ろから優しく照らしていた。
「あの時から・・・私と結婚しようって・・・思っててくれたの?」
大地の瞳には、遠くの千葉の方の明かりがゆらゆらと映っていた。
「あっち行く前から・・・。俺が向こうでひと回り大きくなって 無事帰って来られたら、沙希にきちんとプロポーズしようと思ってた」
その言葉で、沙希は胸が絞めつけられた。そんな大地の想いをまるで知らずに、安易に淋しさに惑わされ 自分に負けた事を、沙希は悔やんでも悔やみきれなかった。
「そんな事も知らないで、私ってば・・・。ごめん・・・」
大地の右手が沙希の頭を撫でた。
「お互い様だよ。俺だって、その気持ちを伝えなかったんだ。それに沙希は、今回の千梨の事で もう充分辛い思いしたじゃないか。もう充分過ぎる程苦しんだんだから。もういいんだよ・・・」
鼻をすすり上げる沙希の肩を、大地がポンと叩いた。
「ほら、泣いてる暇ないぞ。俺達、まだまだやる事いっぱい残ってんだから」
沙希は『俺達』の響きに、喜びを噛みしめていた。しんみりとしたムードの抜けないところへ、大地が先程の木の箱を指さした。
「そうだ!俺さ、お前の指のサイズ知らなくってさ・・・。今まで俺、そういう洒落たもんプレゼントした事なかったろ?だから全然分かんなくって、困ったよ」
「それでどうしたの?何号・・・?」
「・・・いいからつけてみろって」
言われるままに沙希はそれを 壊れ物でも扱うかの様に手にして、そっと左手の薬指へと滑り込ませた。そして第一声を発した。
「ピッタリ」
「本当?!」
パアっと晴れ渡る大地の顔を確認するや否や、沙希はその指輪をぐるぐると回して見せた。
「・・・って言いたいところなんだけどさ・・・」
「デカかった?」
「ちょっとだけね」
大地は指を鳴らして悔しがる。
「ここでサイズまでビンゴだったら、ドラマみたいだったんだけどなぁ・・・。やっぱ現実はこんなもんだな。そう全て上手い事いかないか」
あっけらかんと笑う大地につられ、沙希までもが いつの間にかすっかりにこやかになっていた。
「ねえ、どうやってサイズ決めたの?これ・・・10・・・号?」
「何号だったか・・・数字は良く俺分かんないんだけどさ・・・」
含み笑いをする大地に 怪しさを感じ、沙希が肩で大地をつついた。
「ねぇ、どうやってサイズ決めたのよぉ。・・・教えてよ」
「いいんだって・・・」
何故か隠そうとする大地をせっつく沙希。
「教えなさいよぉ。どうして隠すの?これから一緒にやってこうっていうのに、隠し事するなんて・・・酷いよね・・・」
芝居がかった沙希に、とうとう大地が折れた。
「そこの工場で働いてたおばちゃん達の手見せてもらってさ、『もう少し細かった』とかさ、『これ位かな』とか言って実際触ってみたりしてさ、『いや、やっぱり違う』とかさ。でも結局、そこのおばちゃん達の中にいなくて、夜働いてた店の女のお客さんの手見せてもらったりしてさ。総勢何十人の指 見たり触ったりしたのかな。そのうち段々分かんなくなってきてさ、一生懸命沙希の手の感触思い出したりして・・・」
わざと沙希は指輪を掲げて、膨れっ面をしてみせた。
「じゃ、これは別の若い女の人の・・・指輪のサイズなんだ?」
また大地は吹き出した。
「そんな事までしたのにさ、結局その店の奥さんの指が一番近いって事になってさ。サイズが確定するまでに、一か月近くかかったんだぜ。しかも、そのサイズが違ってたんだからな・・・。世話ないな」
「でもその分、色んな女の人の手触れたじゃない。良かったね」
冗談めかしてそう大地をからかうと、突然大地は沙希の手をギュッと握って持ち上げた。
「俺は、この手を探してたんだよ」
今年初めの雪の今にも降りそうな寒い日に会って以来の 京子との再会だった。すっかりお姉さんになった長女のノーナちゃんと、お喋りが上手になった弟のジューン君とひとしきり山下公園の芝生の上で駆けずり回って遊んだ後、パパが二人を連れて昼食を買いに行った。
「ノーナちゃんもジューン君も、随分大きくなったねぇ。二人共いい顔してるよ。やっぱ のびのびとした環境にいると違うのかな・・・」
「やけに沙希になついてたね。ノーナなんてさ、何回かしか会ってないのにね。ジューンなんか きっと、前に会った事すら覚えてないよ。それなのに、あのなつきよう・・・凄いね。沙希も大したもんだよ」
ベンチに腰を下ろして、二人はそれぞれコートの襟を立てた。
「二人共人見知りしないでしょ?だからだよ」
「ジューンは無いけど、ノーナの方は時々未だに人によってはあるんだ。だから沙希には・・・何かあるんだね」
そんな子供の話題もいつしか終わり、矛先はやはり いつも通り沙希の事へ向いた。ただひたすらに『うん、うん』と聞いていた京子が、最後に隣を振り向いて沙希に笑い掛けた。
「良かった良かった。前ん時と違って、沙希 いい顔してるもん。そうでなくっちゃぁ。じゃ あとは、むこうの親を説得するだけって事?」
急に沙希の顔が曇り始める。
「そう簡単に行きそうもないよ。お父さんは一言も口利いてくれないし、お母さんなんて はなっから私の事反対してるんだしさ」
溜め息を両手に漏らすと、京子が空を仰ぎ見た。
「お姑さんってね、自分の魂の母親なんだって」
まるで『どういう事?』と言わんばかりに首を傾げながら、京子の方を向く。
「嫁ぎ先の母親っていうのは、魂にとっては本来のお母さんであって、元々の所に帰るっていう話、聞いた事あるんだ。だからよ~く見てみると、そのお母さんと自分って似てる所があったり・・・自分が学ばなくちゃいけない部分を鏡みたいに見せてくれてる人なんだって。そう思って・・・見た事ないでしょ?私ね、結婚した時に むこうでのお友達に言われた言葉なの。それから、そう思って彼のママと付き合ってみたら、すっごく楽しかったし、自分もね 楽になったの。どうしても私達日本人って、昔っから どっかしら頭の隅で“嫁姑”ってこびり付いてたりするじゃない?」
沙希の中で、何かしらの考えを巡らしてから、
「彼をここまで育ててきてくれた両親なんだから、きっと素敵な人達なんだろう・・・とか、感謝の気持ちで・・・とかさ、彼を愛してるんだったら その大切な家族も・・・とか、色々頭では考えて 分かろうとするんだけどさ、実際はなかなか・・・。目も合わせてくれないお父さんとか、お母さんの私を見た目つきとかがグワーっと思い出されちゃって・・・」
「彼のご両親って・・・そんな悪い人じゃない様な気するけどな、私」
その一言が 後々 沙希の大きな力となり、尻込みする沙希の背中を押してくれるのであった。
新千歳空港から札幌へ行くまでの間にあるノーザンホースパークに、沙希は来ていた。昨晩からの吹雪で、地面はすっかり白く雪化粧されていた。しかし沙希が着いたお昼前には 雪は止んでいたが、分厚い雲が割れて 青空を見せる事はなかった。空港に迎えに来てくれた大地の車には、二人の子供が乗っていた。大地を友達の様に慕っている甥っ子達だった。今日は 友人の引越しの手伝いがあると言って、姉が子供を二人預けていったのだった。三歳半になる翔太と もうすぐ二歳を迎える健太は、最初少々緊張した面持ちで後部座席に収まっていた。しかしノーザンホースパークで馬を見た途端、はしゃいで走り寄っていった。初めは沙希の方もどう接していいものか 手探りでいたが、翔太のこの一言が 皆を一つにまとめた。
「お姉ちゃん、馬乗った事ある?」
「ないの。翔太君は?ある?」
「あるよ。でも健太はないの。まだ赤ちゃんだったから」
「へぇ凄いねぇ。怖くなかった?」
翔太は急に誇らしげな顔になる。
「簡単だよ。こうしてお馬さんの首んとこ いい子いい子すると、言う事聞いてくれるんだよ」
すると大地が馬屋の方を指さした。
「翔太、馬乗らせてもらうか?あっちでやっとるって」
「うん!」
そう言って一目散に駆けだしたと思ったところで、沙希の方を振り返った。
「お姉ちゃんも乗ろうよ。僕教えてあげるよ。怖くないよ」
思わず大地が吹き出す。
翔太は子供用の小さな白い馬に、そして沙希は茶色い毛並の良い馬にまたがるのを見ると、途端に健太も叫び声を上げる。
「健太も乗るのー!」
何でもお兄ちゃんの翔太の真似をしたがる健太の欲求は ごまかせる程軟なものではなく、大地が係員のお姉さんに声を掛ける。
「まだ二歳にもなってないんですけど・・・乗れますか?」
「どなたか大人の方とご一緒でしたら・・・」
にこやかな係員の顔をじっと見ている健太に、大地が言った。
「健太。兄ちゃんとでもいいか?」
こくりと頭を縦に振るのを見てから、係員はまた大地に視線を合わせた。
「馬に乗られた事ありますか?」
「僕はあります。大丈夫です」
結局三頭の馬に乗り出発した四人が、三十分程の園内の散策をして帰ってくると、どうも翔太だけご機嫌斜めだった。
「楽しかったねぇ」
と交わす会話の横で すねた顔をしている。
「どうした?翔太」
しゃがみ込んで、大地が目線を合わせる。どうやら、自分だけ子供用の馬だったのが気に入らなかったらしい。
「僕だって、もっと大っきな馬乗れるんだ。あんな子供用の馬なんてさ」
「大きい馬は、翔太がもっと大きくなってからじゃないと乗れないんだよ」
しかしそんな大地の諭しも、今の翔太には全く効き目がなかった。またどうせ子供のわがままだからと、大地が適当に切り上げ 歩いて行こうとする。
「お前も男らしくないな。いつまでもグチグチ言って。だったら、ずっとそうやって言ってろ」
悔しそうな表情で 必死に涙を堪えている翔太の頭を、沙希が撫でて言った。
「翔太君の馬乗ってるとこ、格好良かったよ。お姉ちゃん、初めすっごく怖かったけど、翔太君がお姉ちゃんの前で堂々と乗ってるから、頑張れたんだよ。ありがとう」
翔太のすねている本当の理由を、沙希は何となく気が付いていた。初めて会った沙希に、子供なりに男として格好良いところを見せたかったのである。そして翔太は沙希の目を見ると、もう一度 訴える様に言った。
「本当に僕、大っきな馬乗れるんだよ」
それはきっと以前、今日の健太の様に 大人に連れられて一緒に乗ったんであろう事を察していたが、沙希は思いっきり微笑みかけた。
「そうだよね。今日だってあんなに上手に乗れてたんだもんね。きっと大っきな馬だって へっちゃらだね、翔太君は。今度は大きな馬乗るとこ、見せてね」
「うん」
「また乗り方教えてね」
二人は指切りを交わすと、さっきとは打って変わって嘘の様に元気を復活し、大地の方へ駆け寄った。安心した沙希がゆっくり立ち上がると、翔太は振り返って手招きをした。
「お姉ちゃん、早く早く!」
夕方四人は 札幌にあるサッポロビールのレストランで、姉と合流した。夫婦揃って現れると思っていた大地が、姉に問いかける
「あれ?勇二さんは?」
「勇ちゃんね、まだ引っ越しの片付けが終わんないべ、もう少し手伝ってくって。そんで夕飯も一緒に済ませてきてしまうって」
大人三人は、生ビールのジョッキで乾杯をした。
「今日は子供達二人共、お世話になりました」
「いえ、こちらこそ」
飾りっ気のない ざっくばらんな姉を前に、沙希の緊張の糸も少しほぐれだす。
ソーセージの盛り合わせが来るなり、子供達が素早く手を伸ばす。そんなパクつく二人の我が子に、姉が聞いた。
「今日楽しかった?お馬さん、いっぱいいた?」
すると翔太が ウィンナーを口いっぱいに頬張ったまんま喋る。
「馬乗ったよ。僕一人で乗れたよ」
「本当―?凄いね。怖くなかった?」
「怖くなんかないべ。全然平気。でもね、お姉ちゃんは怖かったって」
姉が沙希の方を見ると、少し照れた様に笑う姿があった。
「お姉ちゃん、初めてだったんだって。だから僕『大丈夫だよ』って教えてあげたんだぁ。したらお姉ちゃんも、僕見て頑張っとったよ」
少々吹き出しながら子供の話を聞く姉が、顔を皆の方へ向けた。
「皆で乗ったの?」
沙希が頷き、大地が説明しようと口を開こうとした瞬間、翔太が一歩早く返事をする。
「僕とお姉ちゃんは一人ずつ。兄ちゃんと健太が一緒に乗ったよ」
「健太もお馬さん、乗ったんだぁ?楽しかった?」
黙って頷く健太の横から、また翔太が言葉を加える。
「健太は兄ちゃんと一緒だったべ、あんまし見とらんかった。僕は、お姉ちゃんをちゃんと見とってあげたんだよ。一人で怖いって言っとったし、初めてだったから」
実際には 翔太は、一人での乗馬は初めてで、自分の事で精一杯だった。馬の上でも緊張した顔をしていたのを、大地も沙希も知っていた。そしてそれは母親である姉にも 充分想像が出来ていた。翔太の意気揚々とした話しぶりは続いた。
「お姉ちゃんと約束したんだ。また馬乗るの教えてあげるって」
帰りの車に乗るなり、二人はすぐに眠りについてしまった。子供二人に挟まれる様に座る後部座席から、姉が沙希に声を掛けた。
「今日は本当にありがとうございました。こったら小っちゃいの二人と一日中一緒に居て、疲れたっしょ?」
助手席の沙希が、少々体を後ろに向けて返事を返した。
「いえ、私の方こそ 楽しませてもらいました。翔太君も健太君も本当にいい子達で、私の方が遊んでもらっちゃったみたい・・・」
すると、運転席の大地も会話に参入してくる。
「翔太、相当沙希の事気に入ってたな」
静かに吹き出す姉。
「ごめんなさいね。こいつ偉そうな事言っちゃって・・・。『教えてあげる』なんて言っとったね」
眠っている子供達に気遣い、三人は静かに笑った。
「でも私、今日凄く勉強になりました。男の子って、小さい内から男の子なんですね」
「大地に対抗しとるんでないかい?大人ぶりたいっていうか・・・お兄ちゃんぶりたいっていうか・・・」
少しの間、車内にエアコンの稼動音だけが響いて、またそれに滑り込む様に 姉が声を発する。
「河野さん、子供欲しくなった?それとも・・・今日一日でもううんざりしちゃった?」
「いえ、とんでもない。元々子供は好きなんですけど、身近にそんなに子供がいないので 扱いにはまだまだ慣れてませんけど・・・」
「なんも なんも、大丈夫よ。自分に子供が出来たら、否が応でも慣れるから」
そんな一言で、車内も和やかムードが漂う。そして姉が核心を突いた。
「私がこったら事聞くのも何なんだけど・・・、河野さんは大地のどこさ気に入ったの?」
「え?」
突然の質問に、照れや戸惑いを隠し切れずにいると、姉が前の二人を交互に見ながら言った。
「いや今日ね、河野さんに会って、大地があなたを選んだ理由が分かった様な気がしたの。したっけ、河野さんはなして大地を選んだのかなぁと思って・・・。本人前にしては、言いにくいか」
沙希は両手を膝の上に揃えて、言った。
「私にとって彼は・・・これからも、後ろ姿を見てついて行きたいって思える人なんです。今まで頑張って来られたのも彼のお陰ですし・・・」
「それって・・・尊敬って・・・事?」
沙希がそれを肯定すると、すぐさま落ち着いた声で姉が言った。
「でも結婚するとね、今まで見えてこなかった相手の色んな部分が 次々と見えてくるんだぁ。それが河野さんの望んでいない大地かもしれねぇ。それにこっから先 長い間一緒に生きるとなると、人って色んな節目に出会うっしょ?そんな時、河野さんのなまら尊敬できる様な大地でなくなっちまう事もあるんだ?そんでもいいの?」
沙希は一度 ハンドルを握る大地の横顔に視線を投げた。
「今まで彼は、私の良い部分よりも遥かに多い欠点を見てきたと思います。その上で私を必要としてくれました。だから私も・・・そうでありたいと思います」
車が姉の家の前に停まると、最後に一言沙希に言った。
「今度、この子達の行ってる保育園で 学芸会があるんだ。まだ小っちゃいからんな大した事出来ないんだけど、良かったら見に来てやって。子供達も喜ぶと思う」
そして姉はにっこりほほ笑むと、子供達を順番に抱きかかえ、家へと帰って行った。
二人っきりになった車の中で、大地が聞いた。
「暫くこっちに居られるの?」
「ごめん。明日帰るの。お父さん達今カナダ行っちゃってるから、あんまり家空けてられないし。それにね、教習所の予約も入れてあるから」
暫く保留になっていた教習所も、最近復活していたのだった。
「それに・・・」
沙希の声は明るかった。
「仕事もそろそろ ちゃんと探さなきゃと思って。いつまでもフラフラしてられる程いいご身分でもないしね。結婚資金も貯めなくちゃ」
「沙希・・・」
二人っきりになって 何気なくつけたカーラジオのスイッチを切った。
「こっちで仕事探したら?」
沙希が思わず運転席の大地を見る。
「だって今向こうで仕事見つけたって、来年には結婚して・・・こっちに来なくちゃいけなくなるんだ。だったら こっちで・・・。そうすれば結婚したって、暫くは仕事続けていられるだろ?」
それは暗に『傍に居よう』というメッセージで、一度距離に負けた沙希には とても嬉しく心強い言葉だった。しかし沙希は、返事を濁した。
「まずは・・・大地のご両親に結婚許してもらってからだね」
口元だけが笑っている沙希は、いつの間にか俯いてしまっていた。
「そうなったらさ、俺ちゃんと又、沙希の両親に会いに行くから」
「ありがと」
しかしそれは、まるで現実味のない『ありがと』で、まるで上の空か 他人事の様にさえ聞こえた。
一日も早くと 運転免許の取得を願い、連日の教習所通いが続いていた。ある夕方、もう5時を過ぎ どっぷりと日も暮れ 真っ暗になった頃、教習所の帰りに沙希は一枚の履歴書をバッグにしのばせ、東横線に揺られていた。そして見慣れた新丸子駅の表札を目印に、ホームに降り立つ。街並みも所々小奇麗に変わり、懐かしい筈の景色も 少し新鮮に映っていた。商店街を背にして駅を出、『急募』という貼り紙の付いたドアをくぐった。カランコロンとぶら下がった鐘が沙希を迎える。以前と同じ様に『いらっしゃいませ』とカウンター越しの コーヒーサイフォンとにらめっこするマスターに迎えられ、沙希はそちらへ向かった。
「昨日電話で面接のお願いをしてあります河野と申します」
「私、バイト決まったんだ」
電話の向こうで、大地は一拍 息を詰まらせた。
「そっちで見つけちゃったの?」
「うん。ブラブラしてても もったいないし。丁度いい募集もあったから」
少々肩を落とした様子の大地だったが、気を取り直して 会話を続けた。
「エステ見つかったの?横浜?」
沙希は含み笑いをしながら、それを否定した。それを大地が不可解に思っていると、更に面白がって沙希がじらした。
「大地の良く知ってる所だよ」
「俺の?」
「・・・ヒントは・・・ピラフ・・・かな?」
受話器を通して、大地が仰天しているのが目に浮かぶ。
「新丸子の・・・駅向こうの喫茶店?」
沙希の『うん』という弾んだ返事に、大地は再び息を呑んだ。
「何で?」
「・・・まずかった?」
大地のリアクションに 不安になる沙希。
「まずい事ないけど・・・俺てっきり、エステの仕事探すんだと思ってたから・・・」
沙希は意外とカラッとしていた。
「エステもいいんだけどさぁ・・・やっぱり長く勤められないとなると難しいのよね。その店で何年と続ける気の無い人に、技術仕込むの無駄じゃない?だからね」
しかし、大地の方が慎重だった。
「それで・・・本当にいいのか?」
「もちろん!だってあそこは、私達にとっては すっごく思い出深い所だもん。求人誌でたまたま見付けた時は、運命感じちゃったね。『これだ!』って。私以外に適任はいないって位意気込んで面接行ったらね、マスターも何となく覚えててくれたの。感激しちゃった」
そう弾んだ声は まるで止まる事を知らず、そしてやっと大地も安心したのだった。
「仕事、いつから?」
「来週の月曜から早速来て下さいって。週5日だし、これから そうちょくちょくは そっちに行けなくなりそう」
「そうか・・・」
大地の声が少し淀む。
「この間帰り際に姉貴が言ってた 翔太達の学芸会、誘おうと思ってたのになぁ・・・」
沙希のミルクティーの入ったマグカップを持つ手が止まる。
「・・・ごめんね。残念だけど・・・宜しく言って」
そして 無意味にスプーンでぐるぐるとカップをかき混ぜた。
「・・・お父さんやお母さんもいらっしゃるんでしょう?だったら子供達も淋しくないね」
明るい声が、やけに大地の胸に引っかかる。
「本当はさ、その後 家で皆で夕飯でもって・・・思ってたんだ」
沙希のぐるぐるは止まらない。
「そう・・・。じゃ、賑やかになりそうね。お父さん達も楽しみでしょうね。・・・良かったね・・・」
沙希のこの声の明るさが かえって心の中の頑なに固まった物を感じさせた。
「いい機会だし・・・沙希も一緒に・・・来られないかなぁ?・・・前とは・・・随分状況も違ってるしさ」
すぐに諦めて引き下がってくれると思っていた大地の押しの言葉に、沙希は声を詰まらせた。
「・・・私もせっかくだから行きたいんだけど・・・来週じゃ、ちょっと・・・ね」
すると大地は、黙り込んでしまった。沙希が気を揉んで、もう一度言い訳を口から滑り出させようとしていると、タッチの差で 受話器から反応がある。
「水臭いな・・・沙希・・・」
ドキッとして慌ててそれを否定するかの様に また言い訳を考えていると、大地の声が そんな沙希を食い止めた。
「誰と話してると思ってんだ?・・・俺だぞ」
そのたった一言で 大地の深い思いを知ると同時に、沙希は自らの心の中に築き上げた殻に気が付いた。
「やっぱりまだ、うちの両親に もう一度会う気にはなれない?」
「・・・・・・」
何とか説得をしてくるかと思っていたが、大地の次の言葉は 沙希の想像と反していた。
「・・・ごめんな・・・」
沙希の中に、急に切なさの波が押し寄せた。
「俺の力不足だな・・・」
自分を責める様な大地の言い方が、暫く沙希の頭から消える事はなかった。バイト中、ふと一息ついた時、また教習所での待ち時間、大地の淋しげな声が 沙希の耳の奥で繰り返し響いているのだった。
北海道 小樽の街や 周りの山々はもうすっかり雪化粧され、氷点下に達する気温が 人々の気持ちを引き締めた。と同時に、道路脇に並ぶ木立は 殆どが裸木になっていたが、ちらほらと終わりかけの紅葉が残っているものも見受けられた。それでも今年は例年よりも暖かい方だそうで、横浜から離れた事のない沙希には、真冬の生活など まるで想像がつかなかった。
保育園の園庭も雪で覆われ、子供達が走り回った跡や雪だるまが 日頃の園生活の楽しさを物語っていた。しかし園舎に入ると、教室から漏れる温もりで だいぶ暖かく、気持ちも同時にほぐれ出す。教室の中では ストーブがせっせと焚かれ、学芸会を見に来た父母や その家族は、外の景色からは信じられない程身軽な服装をしていた。
教室の半分から後ろに並べられた椅子はいっぱいで、その更に後ろで立ち見の人達に混じって入る大地に 黙って沙希はついて行った。子供の数も少なく、皆合わせて10名にも足りない程の人数だったが、とても和気あいあいとした雰囲気が立ち込めていた。年齢も様々な子供達が、鈴やカスタネットやタンバリンを思い思いに鳴らし、可愛い衣装を身にまとった子達がのびのびと踊り、中でも少し年齢の上の子達が 先生のオルガンを先頭に歌を歌った。その中に翔太が入っていた。少々緊張した面持ちで 気を付けの姿勢で大きく口を開けて思いっきり歌う姿が 何とも健気で可愛く、沙希の目に映っていた。そしてそのリズムに合っているかは別にして、おぼつかない手つきでカスタネットを叩く健太の姿も印象的だった。我が子の成長の記録をしっかりビデオやカメラに残そうと、親達も必死であった。
大きな大きな拍手喝采をもって学芸会は幕を閉じたが、その後教室では 先生方によって 温かい鮭の粕汁が配られた。そこで沙希は、大地の両親と二度目の再会を果たした。
「こんにちは」
笑う事も出来ず、頬を強張らせたまま深く一礼すると、それに翔太と健太が気付く。
「お姉ちゃん!」
翔太が沙希の元へ駆け寄ると、健太もその後を追う。
「僕上手く歌ってたっしょ?見えた?」
沙希もしゃがみ込んで二人の手を取った。
「ちゃぁんと見てたよ。二人共上手に出来てたねぇ。カッコ良かったよ」
二人の大好物の台詞『格好良い』を思い出し 口にすると、二人は途端に満足気な顔をしてみせる。するとそこへ、大地の姉が声を掛ける。
「来てくれたの?わざわざ遠くから・・・大変だったっしょ?どうもありがとう。あ、うちの主人です」
隣に並ぶ背の高い男 勇二が会釈する。
「こちら、大地の彼女。東京の方から・・・あ、横浜だったかな・・・」
すると、勇二も笑顔で頭を下げた。その一瞬の間に見えた 勇二の背後に立つ60半ば程の老夫婦を、続けて姉が紹介した。
「主人の両親」
そしてまた両親にも、沙希を紹介する姉。
「こちらね、弟の婚約者です。今日わざわざ遠くから来て下さって」
『婚約者』という紹介に戸惑いながら頭を下げると、姉の義理の母に当たる女性が、ふくよかな笑顔で言った。
「おめでとうございます。良かったべなぁ、大地君。こったらべっぴんさん捕まえて」
照れ笑いをする大地の横で緊張と戦っていると、今度は義理の父に当たる黒縁の眼鏡をかけた男性が、沙希に話し掛けた。
「遠くとは・・・どっちだべ?旭川かい?・・・釧路かい?」
「いえ・・・」
『横浜です』とつい口走りそうになって、思い留まる。以前 大地の両親に会った時に、東京や都会に対する偏見があった事を思い出したのだ。しかし次の瞬間、姉があっけらかんと返事をした。
「横浜から」
「横浜?そったらまぁ本当に随分遠くから・・・。どうりで洗練されとると思ったべな・・・」
大きな口を開けてざっくばらんに笑う義母に 沙希がほっと胸をなで下ろしていると、義父が言った。
「横浜はいいとこだべさ。わしは昔船に乗っとったから、よう知っとるべさ」
更に安心して、思わず沙希の顔から笑みがこぼれたのも束の間、義母が大地の母に声を掛けた。
「おめでとうございます。ご長男のお嫁さんも決まって、一安心だべな」
その場を取り繕う様な作り笑顔の母が、再び沙希の肩身をぐっと狭くした。
木村家へ向かう車の中、セダンに四人が乗り込み 気まずいムードが漂っていた事は言うまでもない。運転席に大地が、そして助手席に沙希。後部座席に両親を乗せた車は、ろくな会話もないまま タイヤをすり減らした。時折大地の作る話題のきっかけも いつも花開く事なく散っていった。途中何度『私、これで失礼します』という台詞が、沙希の喉元まで出てきたか知れない。それ程沙希にとっては、居心地の悪い空間であった。たかだか30分余りの道のりが、気の遠くなる様な茨の道に思えた。そんな沙希の精神状態をじりじりと肌で感じながら、大地もまた何も出来ない自分に 無性に腹を立てていた。
家に着いてからも、会話のない居間は まるで手持無沙汰で、買い出しをしてから来ると言っていた姉家族を ただひたすらに待つだけの時間は、苦痛以外の何ものでもなかった。その場から逃げる様に台所に姿を消した母に、沙希が思い切って後を追う。
「何か・・・お手伝いする事ありますか?」
「なんも・・・むこうで座っとって下さい」
にこりとも 振り返りもせずに そう答える母に、沙希はぐっと奥歯を噛みしめながら、元居た座布団に力なく腰を下ろした。無言でこたつの上からリモコンを引き寄せ、テレビのスイッチを入れる父。使い慣れた湯呑茶碗に注がれた熱いお茶をすすると、ようやく父が声を出した。
「大地、お前向こうの部屋から 座布団持ってきとけ」
沙希に心を残しながら 腰を上げると、大地が言った。
「沙希も・・・来て手伝ってくれる?」
沙希がほっとしたのも束の間、父が一喝した。
「4枚位、一人で持って来れるべ?」
席を外させ、沙希と話でもするつもりかと 期待を胸に大地は居間を出て行った。しかしその期待は肩透かしに合い、戻ってきた大地を再びがっくりとさせた。そして台所から出てきた母が、何も言わず 又どこかへ姿を消そうとした時、大地の中で煮えたぎったマグマは とうとう噴火してしまった。
「一体何なんだよ、親父もお袋も。沙希のどこが気に入らないって言うんだよ」
突然の大声に、皆が凍りつく。そして中でも一番ハラハラしているのは、沙希だった。その怒鳴り声は続いた。
「お袋も一旦ここ座ってくれよ。親父も、どうせろくに見てもいないなら、テレビ消してくれよ」
そして強引に、また乱暴にスイッチを切る大地。その頃沙希は 俯いたまま、石の様に硬く 動けなくなっていた。
「沙希と話もしないくせに、こいつの何が分かるって言うんだよ。こっちの人間じゃないのが気に食わないのか?それとも、千梨と結婚しないから機嫌が悪いのか?え?お袋!」
バツの悪そうな母が、背中を丸める。しかし父も母も『親に向かって、なんて口利いてるんだ』とは言い返さなかった。見かねた沙希が、こわごわ大地の肘を引っぱった。
「そんな言い方しなくても・・・。もう・・・いいよ・・・」
蚊の鳴く様な弱々しい沙希の声を聞くや否や、また大地の厳しい声が空間を切り裂いた。
「親父達が何と言おうと、俺はこいつと結婚するからな!」
「もういいって・・・」
首を左右に振る沙希は 力なく見え、まるでほころびた布の様だった。いつしか膝の上で握りしめていた手の甲には、後から後から雫が落ちて止まらなかった。決して頭を上げない沙希と、突然息子に啖呵を切られ 話し掛けるきっかけを失っている両親が背中を丸め、とても小さく小さく見えた。しかし大地が腹をくくってそこまで言った以上、沙希も現実から逃げてばかりはいられなかった。
「私のどこがいけないのか・・・おっしゃって下さい・・・。直せる所は・・・精一杯努力させてもらいますから・・・」
震えた声とは裏腹に、積極的な言葉だった。すると、ゆっくりと体を動かしながら、初めて父が口を開いた。
「結婚したら・・・ここさ一緒に住んで欲しい」
大地が目を丸くした。
「一緒に?!別に、すぐ一緒に住まなくたっていいだろ?近くに部屋借りればさ・・・」
しかし父は同じ口調で続けた。
「俺が心臓やってから、母ちゃんに負担さ掛けてきた。だから大地が結婚したら、その嫁さんには ここさ一緒に住んで 母ちゃんを助けてやって欲しいって思っとった。俺は・・・それだけだ」
そう言い終えると、ぬるくなったお茶をすすった。予想外の提案に、大地がチラチラと沙希の様子を気にしながら言葉を選んだ。
「俺は・・・いずれはって考えてたけど・・・今は二人共とりあえず元気だしさ、暫くは俺ら二人で・・・」
そこで沙希が、大地の声にかぶせた。
「私で良かったら・・・足らない所も沢山あると思いますけど・・・精一杯させて頂きます」
三つ指ついて ひれ伏す様に頭を下げる沙希は、必死そのものだった。しかしまだ母が何も言っていないのを気に掛け、心を倒す沙希。
「お袋は?何か言いたい事があるんなら、今のうちに全部言ってくれよ」
その時、玄関の戸がガラガラッと勢いよく開く音がすると、続いて張り裂けんばかりの翔太の声が響いた。
「じいちゃーん!ばあちゃーん!」
慌てて沙希が 渇きかけた涙の跡を拭い、その話題は一旦保留となってしまった。
父、大地、勇二・・・と男性陣がこたつを囲み、その周りを子供達二人が駆けずり回っていた。そして母と姉が台所で夕食の支度をし始めたところへ、もう一度沙希は勇気を持って 一歩片足を踏み入れた。
「何か・・・お手伝い出来る事ありますか?」
即座に振り向いた姉が、
「えーっと・・・」
と食材を見回しながら考えていると、母が先程と同じ様に背を向けたまま言った。
「お客さんは、向こうで座っとって下さい」
そのぶっきらぼうな言い方に、家族でない自分がつまはじきされた様な悲しさをぐっと堪えると、姉が近寄ってきた。
「母ちゃんも、そったら事こくでねぇ・・・。ごめんね。悪気はないのよ。ただ田舎もんだべ、言い方がぶっきらぼうで・・・。慣れないときつく感じるっしょ?」
しかし沙希は、それが真実でない事を知っていた。それは以前 この家に電話をした時の事。母が『河野』と『大野』と間違えた時、口調はもっと柔らかく温かいものだった。
すると居間の方から翔太の声がする。
「お姉ちゃ~ん。そっち行っちゃダメ。こっちで一緒に遊ぼうよぉ」
振り向くと、新聞をぐるぐる巻きにして作った刀を振りかざして、手招きをしていた。
「したらねぇ・・・悪いけんど、子供達の相手 お願いしていいかなぁ?こっちも手伝ってもらう時、声掛けるから」
姉にそう言われ 居間に戻ると、真っ先に健太が膝に乗っかり 抱っこをせがんでくる。
「そろそろコイツ眠いかな。眠くなるとベタベタしてくるんでね」
勇二の台詞を受け、大地が言った。
「手、温かい?」
「手?」
沙希が聞き返す。
「子供って、眠くなると手が温かくなるんだって」
健太のもみじの様に小さくぷくぷくとした手を触る沙希。
「あったかい・・・」
「今日は疲れてるだろうからな・・・。でももう今日は興奮しちゃって昼寝しないだろうな」
何のわだかまりもなく自然と接してくれる姉の旦那勇二に、沙希は心が救われていた。そして更に、
「大地君以上にこいつら、沙希ちゃんになついちゃってるね」
目尻を下げて、優しいしわを寄せながら勇二が言った。
そしてひとしきり子供達の食事を済ませ、テレビやおもちゃで遊び始めた頃、姉がきっかけを作った。
「こっちには、もういつでも越して来られるの?」
ドキッとした沙希が 様々な思いの狭間で 答えに苦しんでいると、大地が代わりに箸を休めた。
「むこうで始めた仕事があるから、そうすぐには無理だけど・・・な?」
遠慮がちに頷く沙希。
「河野さんのご両親は、大地との結婚・・・許して下さっとるの?」
「はい。とても正直で誠実な青年だって。私には・・・もったいないって・・・言ってました。私も・・・そう思ってます」
最初は頭を上げて堂々としていた筈なのに、次第に卑屈になり、母の顔を見る事が出来ずに また下を向いてしまう沙希。しかしそれを姉は、見事に笑い飛ばした。
「勿体ないなんて、と~んでもない。逆に私は河野さんに言いたいわ。『本当にこいつでいいんですか?』って。そりゃ正直な奴かもしれないけどもさ、結構融通が利かなかったり・・・苦労すると思うべ」
「おいおい、随分ひどいな」
「当たり前っしょ。あんたの事こったら風に言えんの、私くらいなんだから。父ちゃんも母ちゃんも、あんまりひどい事言っちまったら 大地に嫁さん来なくなっちまうんでないかって心配して どうせ何も言えんのだろうし。その点さ、河野さんは こったら遠くまで大地の甥っ子の学芸会だからって快く飛んできてくれるべさ、実家で親と一緒にご飯なんか食べてくれてさ。今の子、親なんか面倒臭いから、二人っきりで楽しくやりたいって子が殆どだべ。有り難いと思わなくっちゃぁ。しかも結婚したら、自分の生まれ育った街を離れて、何も知らないこったら冬の厳しい北海道に来てくれる決心までしてくれとるんだべ?凄い事よ、女にとったら。大地は失う物な~んにも無いべ。女が結婚して遠くに嫁いでいくっていうのはね、仕事も家族も友達も 慣れ親しんだ街もぜ~んぶ捨てるって事なんだよ。苗字が変わるって簡単に思っとるかもしれないけんど、産んで育ててくれた親じゃなくて、嫁いだ先の墓に入るって事だべな。大地、河野さんはそんだけのリスクを背負って 今ここに座ってくれてんだ。分かってやんなさいよ」
つい熱くなって語った姉の言葉に、大地も素直に頭を下げた。
「はい。ありがとうございます」
そんなしおらしさを姉が茶化す。
「随分素直でない?今日は。いっつもなら『はいはい、また姉貴の説教かよ』みたいな顔するくせに」
いつもの姉弟のやり取りに、沙希が少々呆気に取られていると、母がコーンの入った肉じゃがの器を少々差し出した。
「遠慮せんで、沢山食べれ」
初めての母からの優しい語りかけに驚いていると、母は少し照れ臭いのか、目をそらしながら言った。
「さっきから見とったら、全然食ってないんだべ?それとも・・・口に合わんかい?」
「いえ・・・美味しいです・・・」
そう話すのがやっとで、嬉し涙が込み上げてくるのを、無理矢理じゃが芋を一口放り込んで堪えた。
何とか一すじの希望の光を見出した沙希は、食事の後片付けの手伝いに 再び台所を訪ねてみた。
「後片付けくらいお手伝いします。何もしないで座ってるだけじゃ、申し訳なくて・・・」
残った器にラップをかけながら姉が、流し台に立つ母を振り返ると、再び背中越しだが返事が返る。
「したっけ、こっちで洗った物拭いてくれんかねぇ」
初めてちゃんとした会話が成り立ち、また初めて台所に入る事を許された嬉しさに、思わず沙希は『ありがとうございます』と深々とお辞儀をしていた。しかしまだ二人の間には、緊張感が漂っていた。無言のまま黙々と皿を洗う母。そして姉が健太のおむつを替えに その場から立ち去った後、母は小さく口を開いた。
「お家でもお台所なんかやるのかい?」
「はい。高校の頃から母が外で働いてましたから、夕飯の支度は私の役目でした。でも、私も仕事を始めてからは 忙しくてあまり手伝えませんでしたけど」
母が初めて自分に対して質問を投げかけてきてくれた事に、沙希は内心感激をしていた。だからと言って、そうすぐに打ち解ける訳でもないが、今日来た事も無駄ではなかったと胸をなで下ろしていた。
子供達を連れ 姉夫婦が車で帰って行った後、沙希も時計にちらりと目をやると、コートを手に持った。
「私もそろそろ・・・」
そう大地に言うと、父がそれを聞きつけた。
「河野さん。今日はこっちに泊まっていくんかい?したら・・・芽衣子の使っとった部屋が空いとるべ、家に泊まってったらいい」
そして父は二階を指さした。大地も沙希の顔を見る。
「いつまで居られるの?どうせ今日もどっかホテル泊まるんなら、上の・・・昔姉ちゃんが使ってた部屋空いてるからさ」
大地の言葉が終わらない内に、みるみる沙希の目には涙が溢れて滲んでくる。
「おいおい、そんな泣く事じゃないだろ・・・」
大地が慰める様に、沙希の頭に手を乗せる。
「ごめんなさい。でも、嬉しくって・・・」
すると今度は母が言った。
「したら、今お布団用意してくっから・・・」
そう言って 居間を出ようとする母の背中に向かって、沙希が申し訳なさそうに言った。
「でも私・・・今日の最終便で帰るつもりにしてて・・・」
上目使いで大地を見る目は、まるで助けを求めるかの様だったが、その返事に大地は目を丸くする。
「今晩?!」
慌てて誰もが時計を見やる。
「チケットもう買ったの?」
「まだだけど・・・明日バイトも教習所も入ってるの。泊まる準備もして来なかったし・・・」
大地と沙希のやり取りに、母も加わる。
「最終便って、何時なんだい?」
「いや・・・今出ればまだ間に合うけど・・・チケット取れるかな。ま、とりあえず車で向かおう。空席があるかどうか、俺も携帯で調べてやるから」
そんな具合にしてバタバタと玄関を出ようとした時、最後に母がこう言った。
「もし間に合わなかったら、家に戻ってらっしゃい。なんも遠慮なんかせんでいいべさ」
そして笑顔で手を振ってくれた。
その晩沙希は、夜の北海道を上空から眺め、もう一度目頭を熱くした。そして“我が町”となる日が そう遠くない事を感じて、眠りに就いた。