96.羽柴家vs北家(起)
エレベーターの厚い扉がゆっくりと開く。
目の前に広がる壮大な座敷空間。
そこに、人影が見えた。
「なにやってんだ。こんなところで」
上がり框で靴を脱ぎながら、灯火はあきれた声を出した。
「え。いや、だって……」
虚空は手をバタバタさせて、なにかを訴えているようだった。
うつむいた顔が赤くなっている。
その視線の先には、青いのれんがあった。
「私はこっちじゃなくて」
虚空はすうっと人差し指を反対方向に向けた。
「あっちかなーと思うんだ」
そこには女湯と印字された赤いのれんがかかっている。
「おいおい、湯浴みにきたわけじゃねーぞ」
「だからそうじゃなくて!」
「もしかしてジュースが飲みたいのか? 緊張感がねーな」
灯火はそう自動販売機を一瞥する。
「だから違うって!」
「まあまあ、虚空さん。ここは穏便に」
このままではらちが明かないと思ったのか。
正二は彼女の背中を押して、男湯に連れ込んだ。
「脱衣する必要はありませんから」
そう脱衣所に入る。
と――全身が身震いした。
とてつもなく、寒かったのだ。
「くっそ。まさか!」
正二は浴場へとつながるガラス戸を、横に引いた。
しかし、びくともしない。
彼は両手に持ち替えて、無理矢理にこじ開けた。
扉の溝に氷がたまっていたのか、バリバリ音が鳴った。
その瞬間。
凍てつく冷気が、身体中を刺激した。
「遅かったな」
低い声で、その男は言った。
虚空はぞっと身の毛がよだつのを感じた。
「今ちょうど老いぼれを始末したところだ」
シャワーの流水音が聞こえる。
男はそれに負けぬくらいの声量であった。
「ところで運がいいなお前たち」
男は冷淡な口調で続ける。
「今夜は船が多く出る。それこそ舳艫相銜むようにしてな」
灯火と虚空もすぐに駆け付けた。
正二は肩をわなわなさせていた。
それは寒さのせいばかりではないだろう。
「今宵は白河夜船が冥途まで運んでくれるぞ」
タイルからは、氷の刃が円錐状に突き出ていた。
それが、富士宮正一の肉体を刺し貫いている。
彼は吐血しており、氷の棘を抱きしめるようにして、死んでいた。
「まさに渡りに船だ」
「おい、テメェ!」
正二は室内に大きく反響する声で、叫んだ。
「どうかしたか"羽柴正二"」
感情のない声で、舳艫は静かに応じた。
「ぶっ殺す!」




