90.緊褌一番
診療時間はとうに過ぎているが、N総合病院は騒然としていた。
エントランスホールに響く高い靴音。
乱れた服装で右往左往する医師が、この状況を雄弁に物語っていた。
「や、親族の方ですか?」
灯火たちが茫然自失していると、制服警官が駆け寄ってきた。
病院の夜間駐車場には、パトカーが数台とまっている。
「ああ、そうじゃ。早く病室へ案内してくれ」
白内障の老爺が詰め寄ると、その警官は一瞬いぶかしむ表情を浮かべたが。
結局は黙って足先を事件発生現場へと向けた。
その一室では現場検証が進められていた。
フラッシュが焚かれ、リノリウムの床をハタキでなでて。
筆跡鑑定やら指紋の採取やらが行われていた。
「この文字に見覚えはありませんか?」
そう目の前でかがんでいた刑事が。
チャック付きポリ袋に入った紙片を灯火たちにかざして見せた。
そこに入れられたのは市販の赤紙であり、以下のように記されていた。
『羽柴とは旅館で、藤原とは学校で、それぞれ相対したい/二条良基』
二条良基は南北朝時代の、とある歴史物語の作者である。おそらくは偽名だろう。
そしてその歴史物語というのが、四鏡のうち最後の作品と称される『増鏡』であり、それが藤原家を暗示していることは間違いなさそうだった。
さらに南北朝時代とは、南朝と北朝が対立していた時代だから、南家(羽柴土竜)と北家(羽柴舳艫)は共闘こそしないだろうが、それぞれの地域で戦うのだろうことが予想された。
「これは……」
「最悪の事態だな」
「まさか、南家と北家が絡んでいるの?」
「そう考えるしかあるまい」
彼らは二言三言だけ視線を交錯させると。
だっと現場を立ち去ってしまった。
「先に来ていたビジネスマン風の男たちもそうだったが、なにか心当たりでもあるんだろうか」
警官らは暑苦しい顔を並べて、眉毛をハの字に寄せていた。
藤原孔雀(大鏡)、藤原道草(今鏡)、藤原美沙(水鏡)は。
地盤沈下のあった、例の学校へ。
羽柴灯火(東炎扇)、羽柴風香(西風扇)、富士宮正一、富士宮正二は。
名家・富士宮旅館へ。
それぞれが、それぞれの思惑で、それぞれに、目的地へと向かった。
ただ、夜明け前の月だけが、その様子を見守っていた。




