89.三十面鏡峠にて
「今回はどうされますか?」
黒いスーツに、白の手袋をつけた彼は、アクリル板越しに行き先を尋ねてきた。
車内のバックミラーからのぞく顔は、人好きのする赤ら顔である。
「N総合病院までお願いします」
虚空はそう乗車する前に行き先を告げた。
そのあとを灯火、正二が続いた。
最年長の正一は運転手の隣に腰を下ろした。
タクシードライバーは無線でなにやら報告を済ませてから、自動車を駆動させた。
暗い夜道だけあって、人通りはほとんどなかった。
「しかし、お客さんも物好きですねえ」
すこし走らせたところで、運転手はぽっちゃりとした肥満顔をよろこばせた。
「ここの峠道は猟奇的な殺人鬼が出没するらしくって、警察以外はほとんど立ち寄らないんだよ。もしかすると君たちも餌食にされるところだったかもね。言うならボクは救世主だ」
彼はけらけらと笑ってステアリングを操作する。
当事者である藤原孔雀はべつのタクシーに分乗していたが。
それでも客たちは笑えないジョークに肝を冷やした。
「なあ、ひとつ訊いてもいいか」
灯火はデリカシーのない運転手に気付かれないように、小さく言った。
「俺のじいちゃんを殺したのは、藤原孔雀なのか?」
静かなエンジン音に、無線の雑音がまじる。
「じいちゃんとは一度だけ手合わせをしただけなんだけどさ」
料金メーターがこそこそ数字を増やしていく。
「あの程度のやつに殺されたとは、どうしても考えにくいんだ」
虚空があてどもなく視線を泳がせた。遠回しな表現を探っているのだろう。
だからそれに答えるのは。
いつか灯火に『理不尽野郎』とののしられた、彼の役目であった。
「槐さんが死んだのはお前のせいだよ、灯火」
ぽつり、と。
抑揚のない声で富士宮正二は言った。
「槐さんはお前の病気を肩代わりしたせいで、亡くなったんだ」
まるで朝ごはんのメニューを告げるような。
なんでもない調子で話すのだから、灯火は思わず聞き逃すところだった。
「え」
「わかるか。お前が内的エネルギーの習得を怠ったせいで、槐さんはご逝去されたんだ」
内的エネルギーうんぬんはともかく、正二が語気を強めたのを察して、虚空はフォローを入れた。
「まあまあ。灯火だって死中に活を求める状況だったわけだし……」
「俺の、せい……」
だが灯火の耳には届かなかった。
彼はうわごとのようにつぶやく。
「俺の、せいで……」
運転手は敏感に異変を感じ取ったのか、バックミラーでこちらに目を向けた。
「そうだ」
正二はダメ押しのように肯定する。
「だが忘れるなよ」
そう打ち沈んだ不遇者に語りかける。
「お前はひとりぼっちじゃない。俺はお前の実兄だ」




