76.あの日①
“あの日”と言っても、それはほんの数週間前のことだが――
藤原孔雀は三十面鏡峠の頂上付近に、柿の木がなることを知った。
日もとっぷりと傾いた夕暮れの時分である。
山の中腹――あばら家の辺りで、近隣住民がこう教えてくれたのだ。
「この季節になると柿の木を狙ってクマが出始めるから気を付けなさい。――え、柿の木がどこにあるかって? ――あんたなに言ってんの、他所の者かい。道理で見ない顔だと思ったわ。――え、家出してきたの? 実家は京都にあるって? ちょっと待って、ここは関東よ? ――ああ、そうなの。親の都合で一時的に引っ越して来たのね。それはご苦労様。柿の木は頂上にあるけど、もう暗くなってきたからあしたにしなさい」
柿の木は頂上にある。
それを聞いて、孔雀の食指が動いた。
「柿かぁ……」そう想像してしまう。
みずみずしく艶のあるオレンジ色に、鮮やかさを引き立てる芳醇な香り。
歯ごたえのある濃厚な果肉と、とめどなく溢れ出る新鮮な果汁。
「食いてぇ!」
気付くと、叫んでいた。
食いてぇ! 食いてぇ! 食いてぇ!
やまびこが遠く聞こえる。
藤原孔雀は、パブロフの犬よろしくよだれを垂らし、頂上まで走っていった。
「いっただきまーす」
手にしたものは、黄金色に輝く禁断の果実。
その実をもいで口に運ぼうとした。――まさにそのとき。
パァーン!
と。草の茂みが一瞬、明滅した。
乾いた破裂音が空気を切り裂く。
「――ッ!?」
直後、孔雀の身体が、硬直した。
神経が、一瞬にして張り詰める。
なんだッ! 今の音は!
そう木の幹に姿勢を預けたまま、こっそりと様子をうかがう。
「この界隈にはクマが出るそうじゃねえか。だったらクマと見間違えたってことにしてはもらえねーか」
男性の声が、茂みの中から聞こえてきた。
さきほどの発砲音が耳鳴りみたいに頭にこびりついて離れない。
孔雀はぶんぶんと頭を振って、意識を集中させた。
「ふん、やってみるが良い! そんなことをすれば、猟師免許のはく奪は免れないがな」
落ち着いた感じの声が、そう応じる。
「ふんッ!」
猟師と思しき男は、そう鼻を鳴らし。
「必要ねえよ。こんな免許」
パァーン! パァーン! パァーン!
断続的に響く、断末魔の悲鳴が、大気を震わせた。
ぞわり。脇の下を冷たいしずくが伝う。
本能が早く逃げろと命令する。
だが、孔雀の身体はそれに反して委縮してしまい。
木の幹に背をもたせながらへなへなと崩れ落ちた。
「おいッ!」
そう男が声を荒げる。
銃を持っているほうの男だ。
「そこにいるのはわかってんだよ! 悪いことは言わない、出て来いよッ!」
草を踏みしめながら、大股で歩く男性の影。
彼はクマのように大柄で、茶色のトレンチコートを着ていた。




