75.暗雲低迷Ⅱ
三十面鏡峠は驚くほど閑散としていた。
それが“立ち入り禁止”のロープのおかげか、はたまた怪事件の影響かはわからないが、人の気配がまったくと言っていいほど、なかった。
「本当にここで合っているのかよ」
場所を間違えた。
その可能性も検討したが、ロープには“三十面鏡峠管理委員会”との印字が施してある。
残念ながらここで間違いなさそうだ。
そう松明を片手に考察する、羽柴灯火。
暗く不安な深淵の中を、木枯らしが泣きながら通り過ぎた。
それは、ひゅーひゅーと空気の漏れるへたくそな口笛のようでもあったし、死を直前に控えたものの喘鳴のようでもあった。
ぞわり、と。
冷たいものが背中をなぞった。
頭の芯から爪先までもが、一瞬にして総毛立つ。
重々しい緊張。限界まで張り詰めた空気。
灯火は俊敏にその体躯を捻転させた。松明の炎が揺れる。
最短で半円を描くように、素早く回転し。
その視野に捉えたものは――
「……いない」
人影でも、猛獣でも、なかった。
どころか、なんでも、なかった。
いわゆる、気のせい、だった。
高密度に圧縮された空気が。
風船がしぼむようにして、たちまちに立ち消える。
「……汗、かよ。紛らわしい」
背中に感じた怖気の正体は、汗、だった。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花ってやつだな」
自嘲気味に笑って。
灯火は再び、らせん状に広がる山道を歩き始めた。
星がきれいな夜だ。
澄み切った空気によどみなどない。
一呼吸しただけで、肺いっぱいに満ちる、充足感。
自然とはこうあるべきだと思い知らされる。
「ぷっはあー」
そう太い息を吐きつつ、藤原孔雀は殊勝なことを考える。
アルコール分を含んだ呼気が、白く濁っていた。
「今夜は冷えるなー」
ウイスキーボトルを傾けて、口の中に入れる。
しびれるような痛みが、舌を焼いた。
「そういえば、この自然にも手を焼いたっけ――懐かしいな」
青年は度数の高い酒を一気に呑む。
咽せた。さすがにストレートはきつい。ロックか水割りにすべきだったと後悔した。
「ぐへぇ……やっぱし甘くねえや。あの日を思い出すぜ」
胸を叩きながら、青年は“あの日”を回想する。
初めて人を殺した“あの日”を。




