74.大鏡の秘密(後編)
「なあ、美沙ちゃん」
小さいカップからは、濃密な香りとともに湯気が立ち上っていた。
正二はキャラメル色をした液体をゆっくり流し込む。
凝縮された苦みが、鼻から抜けた。
「馬鹿な俺にもわかるように教えてくれよ。大鏡の能力は、他人の認識を体現する“だけ”なのか?」
「理解が早くて助かります」
美紗は品のある笑いをした。
「もちろんそれ“だけ”じゃありません。有機物には意思があるから、対象者がそのように認識しなければ効果があらわれないけど……」
ホットココアを口に運んで。
呼吸を整える。
「無機物に対してはその限りではない。つまり」
嬉しそうに指を立てて。
「大鏡の前では、炎熱系の技も、通用しないんです」
「なっ!」
口を開いたら舌がピリピリした。
正二は忌々し気にしかめ面をすると、
「それじゃあ、灯火は」
「羽柴灯火は、たしか、炎を出したりするんですよね」
髪の毛を手櫛でとかしてから。
「でも、大丈夫だと思います」
女子小学生は目を細めた。
「炎熱系だってバレなければ、ここぞという場面で不意を突けるかもしれませんし」
「あいつはそんなに頭が良くねーよ」
自嘲気味に笑って下唇を噛むと。
「ごめん、じいちゃん。義弟がピンチなんだ」
そう富士宮正二は駆け出した。
入口のベルが無機質な音を立てて、客を見送る。
「義弟?」
虚空は不意の単語に耳を疑ったが。
そんなことを気にしていられる余裕はない。
一刻も早く追わなければ、灯火はやられてしまうのだ。
南家との決戦を前にして、余計な戦力の損耗は避けたい。
「その話はあとで聞かせてもらえますか? 今は彼らを追いかけたいので」
白内障の最年長者に断りを入れて。
西家の彼女は喫茶店を飛び出していった。
「なにを言うか。ワシも行くわい」
よっこらせと、杖をついて立ち上がる老人。
「陣頭指揮を取れる人がおらんと、貴様らだけじゃ作戦の1つも練れやせんじゃろうが!」
悪態を垂れながらも、足早に出口へと進んで行く。
「すごいんだね。羽柴灯火って」
しばらく経ってから美沙は口を開いた。
窓の外には正一の姿すらなくなっている。
「敵役みたいな発言ばかりしてたのに、みんな彼のことを心配してるんだね」
「なあ、美沙」
すっかりぬるくなったホットコーヒーを片手に。
「お前が羽柴灯火を嫌いな理由は、彼が典嗣を氷漬けにした犯人だと思っているからだろう?」
保険屋は時間をかけてまばたきをした。
まっすぐに回答者の顔を見据える。
「わかってるよ。犯人じゃないことくらい」
気持ちの整理はまだ出来ていないが、とりあえずしゃべる。
スカートの裾を長くつまんでいたせいで、しわになっていた。
「でもたとえ彼が被害者であっても、典嗣を危険な目に遭わせたことに変わりはないよ」
藤原道草はうんうん頷いた。
「美沙にとって典嗣がかけがえのない存在であるように」
ウエイターが空になったカップを下げる。
「灯火くんにとってみたら羽柴槐さんは、同じくらい大切な存在だったはずだよ」
頭を掻きながら、叔父は続けた。
「その大事な人を、彼は失ってしまったんだ。彼は美沙よりもずっと辛い立場にいる」




