70.羽柴虚空の過去⑥
さわやかで冷涼な風が心地よい。
ふわりとカーテンが揺れた。ベッドに陽光が降り注ぐ。
「なんで……かな」
窓枠に肘を置いて。
青く澄み渡った空を眺め。
答えを求めてみる。
「なんで私だけ、こんな目に遭うのかな?」
精神科医はベッドに腰を下ろした。
虚空の長髪が風になびいている。
シャンプーの香りはしない。むしろ汗臭かった。
傷んだ毛先がさらさらと宙を泳いでいる。
「そんな風に考えないでもらえるかい。もっと自分を尊重してみたらどうだろう?」
精神科医は穏やかに。
幼子をあやすような口調で言った。
「じゃあさ」
羽柴虚空は、精神科医に向き直る。
「どうすればこのもやもやは晴れるの?」
訊いた声が震えた。
眼球にたまった水滴が溢れ出る。
鼻の穴が膨らみ。
顔がひくつく。
鼻梁を涙の筋が通過した。
「やだ、恥ずかしい。鼻水みたいじゃん」
虚空は目元をティッシュでふいた。
鼻をかむと、本当に泣いているような気がして。
他人の前で涙を見せるのが恥ずかしくて。
また外を向いた。
そんな彼女を。
微風が優しく包み込む。
「君はまだ若い」
そよ風に声を乗せて。
精神科医は言う。
「見識だって浅い」
彼はおもむろに立ち上がった。
ぎぃっと、ベッドの軋む音。
虚空が振り返ると男性は。
柔和な笑みをこぼして待っていた。
「あなたの心は、あなただけのものだ」
暗い雰囲気に似合わぬ明るい笑顔。
心の暗幕に、一条の光線が差し込んだ。
「ただ生きてくれるだけで良い。それだけで家族は喜ぶから」
そう彼は黙って抱きしめる。
顔が厚い胸板に沈んだ。
腕が絡みついてくる。
ゴツゴツしていて岩のように固い。
なのにあたたかい。
自然と心が休まるのを感じた。
「また来るよ。心のリハビリ、いっしょにがんばろう!」
「ちょっと待って。今のセクハラ……」
「やっぱり私は」
虚空は深く息を吸い込んだ。
香ばしい炒め物の香りが、鼻に抜ける。
「北家が嫌い」
「なにを言っている? まだ回想の途中なんじゃないのか?」
羽柴舳艫は不快そうに顔を歪めた。
そして、怜悧な視線を投げかける。
「まさかあのクソ親父に犯されたことを思い出していたんじゃないだろーな」
廊下が騒がしくなってきた。
ご飯の支度が終わったのだろう。
「ええ、その通りよ。私は北家を許さない」
「まあ良い。それでも――」
舳艫は仏壇の前で正座をした。
線香を手にとって、ロウソクの火にあてがう。
「故人は悼むべきだ。いたたまれないじゃないか」
「茶化さないで!」
虚空は怒鳴った。
「私は炎暑さんに感謝しているわ。あのクソ野郎を殺してくれて」
「それは同感だ」
舳艫は線香を香炉灰に突き立てた。
「性犯罪は魂の殺人とまで呼ばれる卑劣な行為だ。お前ら西家が不問にしてくれたから良かったもののこれが世間に公表されていたらと思うと背筋が凍るぜ。あんなやつの息子だと思われて白眼視される生活には耐えられないからな」
湯飲み茶碗の水を捨てて。
そこにやかんの水を注ぐ。
「たしかにあのクソ親父は人間のクズだよ」
両手を合わせて黙祷してから。
舳艫は言った。
感情の読めない無表情で。
「それでも親父は親父だ。炎暑が死のうと関係ない。オレは東家を許さない!」




