68.羽柴虚空の過去④
夕焼けが西に沈んでいく頃――。
村はずれにあるこの公民館は。
すでに廃墟のように薄暗くなっていた。
路上を照らす蛍光灯は。
チカチカッと明滅を繰り返しており。
細長く伸びた電線には。
黒い鳥の群れが目を光らせて止まっていた。
「待っててね、虚空……」
ギュッと2つの扇を握りしめて。
公民館のガラス戸に手をかける。
太陽の描き出すコントラストの影響で。
透明なはずのそれが、まるで血塗れに見えた。
「すぐ行くからッーー」
ガラガラッと。
羽柴風香は勢いよく戸を開けた。
玄関に明かりは点いていない。
視界はほとんどが真っ黒だ。
「えっ!?」
代わりに嗅覚が鋭敏に反応した。
「なに、この臭気……」
魚介類を彷彿とさせる、変なにおいだった。
キッチンで魚料理でもしているのだろうか。
そう思った。
いや、そう思い込もうとした。
同時に嫌な予感が脳裏をよぎったからだ。
していると、ようやく目が慣れてきた。
ぼんやりと物の輪郭が見えてくる。
風香は暗闇の中で靴を脱ぐと、おっとり刀で娘の捜索に移った。
寂れた床板を踏むたびに。
ギシギシと軋む音が鳴る。
生暖かい風が、足元を舐めた。
背中がぞわりと波打つ。
さらにゴムの焦げるようなにおいがして。
背筋を凍らせた。
「こ……虚空、虚空ーッ!!!!」
しゃがれた声を壁面に反響させて。
風香は娘の名前を呼び続けた。
「ずいぶんお早いご到着じゃないか……」
ふすま越しに男性の低音が応じる。
風香は反射的に障子戸を横に滑らせていた。
生臭さやゴムのにおいが。
容赦なく、鼻孔に襲いかかった。
広い和室にはロウソクが1本立っているだけで。
ほかに光源はない。
それなのに――羽柴虚空。羽柴冠水。
この両名の存在感は太陽のごとく大きい。
目視せずともわかる。
ナニが行われたのかも――大体。
「西風扇と東炎扇は持って来たわよ。さあ、早く虚空を返してよッ!!!!」
「そんなに喚くな。気ちがい女」
「はあっ!?」
風香は殺意の矛先を冠水に向けたが。
今は人質を取られている状況。
うかつな言動は危険すぎる。
そう判断し――やむなくその矛を鞘に納めた。
「わかったわよ」
そう肩を落とす風香。
声音に落胆の色がにじんでいる。
「どうすれば返してもらえるの?」
「扇と引き換えだ。俺に投げて寄越せ」
冠水は自らが動こうとはせずに。
そんな指示を出した。
「えいッ!」
怒りを込めて。
風香は力いっぱい投げつけてやった。
しかし彼は――扇を難なくキャッチすると。
うつろな眼差しで値踏みをし始めた。
贋作ではないことを確認してから――
気のない様子でせせら笑う。
「そんなにこの娘が大事か?」
「当たり前でしょう!」
「本当に良いのか? これにより俺は事実上の『扇狩り』が成立するんだぞ」
「そんなことより――」
焦燥を押し殺し。
母親は言葉を紡いだ。
「娘が大事に決まっているじゃない」
虚空の肩がビクッと跳ねた。
続いて――しゃっくりに似た声が漏れる。
「当たり前でしょう?」
風香は興奮気味にまくしたてた。
「自分の娘を守れるんだったら、政権だろうが、西風扇だろうが、なんだってくれてやるわよッ!」
「ふん、子ども可愛さに目下の損得計算すら怠るとはな」
冠水は声を荒げた。
「同じ羽柴家の血筋とは思えぬ愚行ッ!!!!」
「知らないわよ。あなたの価値基準を私達に当てはめないでよ」
「話してもわからぬか。馬鹿がッ!!!!」
「ねえ、それよりも早く取引を済ませましょう?」
「そうだな。わかった」
冠水はロウソクの火に対して。
息をぶつけた。
瞬間――小さな明かりが消える。
「ほら行けよ」
彼は若い女の尻を揉みながら。
「最愛の母親がお待ちだぜ?」
そう言って口角を吊り上げた。




