64.羽柴舳艫の交渉
仏間には線香の匂いが充満していた。
ひどく儚げなロウソクが、汗を垂らしながらぬらぬらと燃えている。
太陽光は障子紙を透過して畳に降り注いでいるが、それでも部屋は暗い。
豆電球がうっすらと室内を照らしているだけだ。
羽柴虚空は遺影の写真と、棺桶の中にいる故人とを見比べた。
遺体の顔には白い布が被さっており、表情はうかがえない。
「羽柴虚空だな。久し振りだ」
突然、声がした。
「えっ……?」
虚空は棺桶から距離を取った。
遺体がしゃべり出したのかと思ったのだ。
「なにを驚いているんだ。騒々しいぞ」
今度は背後から、先程の声がした。
振り向くと葬儀参列者とは思えないラフな格好をした若者が、軽蔑するような眼差しを向けていた。
「あなたは、北家の長男、羽柴舳艫、よね?」
流し台から聞こえる軽快な包丁捌きの音。
それが遠くの国の出来事のように思えた。
北家と東家は、それこそ蛇蝎のごとく忌み嫌い合っているのだ。ここに彼がいることは不気味ですらあった。
「氷漬けにされたときに記憶まで凍結しちまったのか? 単純明快なことをいちいち聞くな」
優しさの欠片もないこの返答。
羽柴舳艫に間違いない。
「ねえ、いったいなにが目的なの? ここはあなたのような人が来る場所ではないでしょう?」
「親戚の葬儀だぞ。参列しないほうがどうかしている」
そう言って舳艫はあたりをきょろきょろと見回す。
「羽柴灯火の姿が見えないな。なにか知っているか?」
「さ、さあ?」
虚空はぎこちなく首をかしげて見せた。
東家とは違って、北家とは敵対しているのだ。
むざむざ情報を引き渡す気にはなれなかった。
「そうか。知らないならそれで構わない」
台所から炒め物をする音が聞こえてきた。
「その代わり東家との同盟を破棄しろ! 東西不可侵条約は羽柴槐が死んだことによって履行する理由がなくなった。べつに問題はないはずだろう?」
「な……なにを言ってるの?」
「東西不可侵条約を結んだのはあくまでも羽柴槐であって羽柴灯火ではない。つまり老害が死した現在においてはその条約は形骸化されただけの無効な決め事に過ぎなくなった。西家の実力を羽柴家全体に見せ付けたければ反逆の徒となって東家を討つのがもっとも打算的に思われて仕方がないのだがな」
「そんな恩知らずなこと出来るわけないじゃない。西風扇だって、その気になれば東家は奪うことができたのよ。でもそれをしなかった。私がこの地位に甘んじていられるのは東家のお陰ってこともあるし。それに相手は共闘の意思だって示してくれている。今だって、南家の羽柴土竜を倒すために修行している最中だし……」
「ずいぶんと東家の肩を持つんだな。しかし本当にそれで良いのか?」
「えっ?」
「母親の期待に答えなくて良いのかと聞いているんだ」
羽柴舳艫は腕を組んで。
問いかけるように続けた。
「ホラ、思い出してみろよ。お前の存在意義を。母親の本懐を」




