61.玉からじ
いつもより、病室の扉に重みを感じた。
まるでそこが冥府の入り口であるかのようだ。
羽柴槐は逡巡する。だが時間は――ない。
状況は逼迫しているのだ。
最悪の場合を想定しなければならない。
もし、灯火の病状が回復していなければ――彼は死ぬ!
覚悟を決めなければならない。
どちらに転ぶにせよ。
力を込めて扉を横に滑らせた。
不機嫌そうに唇を尖らせた、たくましいアゴひげの老人と。
意気消沈した様子の青年が同時に振り向く。
室内は薄暗い。
窓に映る景色は陰湿だった。
重苦しい沈黙が煙のように充満している。
「灯火は無事かのう?」
それでも槐は。
明るい声音を心掛けた。
「退院祝いはステーキが良いじゃろうか?」
現実から目を背けるために。
「残念じゃがな、ハイビスカス」
富士宮正一は杖を突きながら。
患者を隠すように引かれたレースのカーテンを開け放つ。
「哀惜の念に堪えないが、すでに炎熱病は末期状態。孫は助からないぞ」
そうにごった白い目を向ける。
眉間には深い亀裂が生じていた。
「なんじゃとッ!?」
祖父は骨折していることすら忘れて、孫に駆け寄った。
灯火の身体は――腐ったリンゴのような色をしていた。
黒ずんでしまった手足に水分はなく、肌の弾力も皆無だ。
爪の隙間からは、赤い液体がにじみ出ていて。
生きているのかどうかも怪しい。
これは――
人間の範疇を完全に逸脱していた。
銅像と見間違えてもおかしくはない。
「残念じゃったのう……」
言葉とは裏腹に淡々とした口調だった。
その軽薄さ加減が、祖父の心を妙に落ち着かせた。
彼は正一の言葉を無視して。
ふう、と一息吐くと。
「のう、お主ら」
迷いなく口を動かした。
凄惨な光景を目の当たりにして、ようやく吹っ切れることが出来たのだ。
「相談があるんじゃが……よろしいか?」
「ふん、言うてみぃ!」
老人は面倒くさそうに目を細めた。
「正二くんも大丈夫かのう?」
「ええ、遠慮なさらずに……」
青年は愛想よく答える。
「では、聴いてくれ。これがワシの一生のお願いじゃ――」
槐は立て板に水で饒舌に話しを始めた。「――――」
室内にピリピリした緊張が走る。
富士宮正一の眼光が険しさを増した。
それでも歴戦の猛将は、構わず唇を動かす。
富士宮正二の表情が大きく歪んだ。
「これで全てじゃ。正二くん、無責任なことを言ってすまないが――」
羽柴槐は歯を見せて笑顔を作った。
「これからのこと、よろしく頼むぞ」
そう自分の胸や腹、股やももを、片手で叩き始める老人。
その表情はどこかサッパリとしていた。
「緞帳を下ろすには最高の舞台じゃったよ」
老戦士は羽柴灯火の手を握った。
「責任点火」
彼は炎熱病を己に取り込むことで。
灯火の生命を救うことにしたのだ。
その代償はあまりにも大きいものであったが。




