25.名家・富士宮旅館
「いや、ここは温泉っていうよりも……」灯火はあんぐりと口を開けて、「旅館じゃねーかっ!」
そうなのである。
槐が連れてきたのは、古きより代々の伝統を語り継ぐ名家、富士宮家が営む旅館だったのだ。
立派な屋根によって覆われた玄関口には、予約者の名前が書かれた門松が飾られており、和の趣が感じられた。さらには送迎用の黒塗りのタクシーが専用の駐車場に控えており、ときどきその高級車を滑らせては、人目をさらっていた。
そんな富士宮家は、羽柴家の中でもとくに東家との結びつきが強く。
槐はもちろんのこと、灯火の両親とも深い親交があったのだ。
「久方ぶりじゃな、富士宮正一」
槐は旧友との再会にいくらか頬をほころばせていたが、フロント越しの丸眼鏡をかけた年配者は、じーっと無遠慮に値踏みするような目線を投げかけて、口元を固く引き結んだかと思うと、「はて、誰じゃったかの?」と失礼千万なことを言った。
「ついにボケおったか、この老いぼれが!」
槐は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、それはすぐに驚愕の表情に変わってしまった。
——というのも。
「竹馬の友を見間違えるとは、遺憾千万じゃよ。全く老いとは恐ろしいの。えーっと名前はなんじゃったか、ハイビスカスだったかの?」
奥から出て来た老年男性が、まさしく尋ね人その者だったからだ。
富士宮正一は半身を二つに折り曲げ、杖をついて登場した。髪の毛はないが、その養分がアゴに流れたと見えて、立派なアゴひげを蓄えている。彼の両目は白く濁っており、白内障患者であることが予想された。
ジョークとも言い難いやり取りを交わしたあと、槐はようやく本題に入った。
一方の灯火は、離れたところにある一人用のソファに腰を落ち着けていた。
「正一。お前さんの孫は元気かの?」
「言わずもがなじゃ、ハイビスカス」
「灯火の修行に付き合ってもらえんかの?」
「この儂、自らがか?」
「いいや、違うわい。文脈を考えなさい」
「儂の孫——正二がか?」
「そうじゃよ、相手になってほしい」
「ふん、あいにくじゃな」富士宮正一は鼻を鳴らし、「正二は青二才に会わせる顔など持ち合わせておらんよ」
「それは、うちの灯火も同じじゃよ——」槐は息を詰めて、身を乗り出した。「これから南家との抗争が始まる。近いうちに北家ともやりあうかもしれん」
「なんだって? 全盛期のアンタやアンタの息子じゃあるまいし。
そんなことをしたら結果は火を見るよりも明らかじゃよ」
「そう思うか?」
「当たり前じゃよ。東家は前線を退いた。だからこそ扇の存在も、孫に秘匿し続けたんじゃろ?」
「しかしここで折れれば、痛い目を見るのは灯火なんじゃ。本当は家督争いなぞ、ワシもさせたくはないわい」
白い目で——比喩ではない白い目で。
富士宮正一は羽柴槐を凝視し続けたが。
やがて錆び付いたブリキ人形のように首を縦に振った。
「支度をして待っとれ、ハイビスカス! 東家には儂も恩があるからの」