7.囲われた水辺
*エグイ表現があります。苦手な方はこの話を飛ばして下さい。
近世に入った頃はこの世界の空気もまだ吸えたものだったそうだ。
だが今は違う。温暖化による地球の高温化、環境汚染で空気が酷く淀んだ。だから今はそれを避けるべく、教育機関の施設はすべて室内であるという。
夜の闇の中、室内光に照らされた水面がぼうとそれを浮かび上がらせている。全裸の男が右手の親指を左足の親指へ、左手の親指を右足の親指へ結ばれ、塩素の効いた水の中に沈んでいた。その顔は苦痛に歪んでいた。ごくりと息を飲む。それはどんな水死体よりもおぞましかった。
やがて仲間たちが黙々と作業を終え、死体が上げられる。それにゆっくりと近づき、しゃがみ込んだ。通常よりたっぷりと水分を含んだその身体は膨れ上がっている。
防水性の手袋をはめ、意識を集中させてそっと手を水に付けた。
『―ジジジ…あああああなんだこれはいきなり目覚めたらなぜ俺はこんな所に居る!? …俺はBarによった…帰ろうとした…そこから意識がない…痛いいたいなぜこんな格好で?…目隠しをした…お前は誰だ…そのフードを取れ! …ああ!何を…やめろ沈むあああああ!!!』
『殺せ。その判断はあの世で神がしたもう』
…ハッ……。
「く…」
思わずその場で両手をつくと、身体の体重を少し手に預けた。楽になってきた所で折っていた膝を元に戻し、立ち上がろうとすると、カインが横から手を差し伸べてくれた。気持ちに甘えてそのまま手を貸してもらい立ち上がると、今度はプールを見下ろす。
波が立ってチャプン、と水音を立てている。室内光に照らされた青白い水の色が今は何故か不気味に見えた。先程の映像を一旦振りほどき、状況を把握しようと努める事にした。
「発見者は…状況を…把握させて…」
かすれた声で呟くと近くに居た捜査官の一人がは、はい、と慌てたようにこちらにやってきて手に持った薄いメモ帳をめくった。
「どうやら学校関係者側の自宅に無名の電話があったようなんです。時間は夜11:30頃。ディスケード・フォンだったようで履歴などは残っておらず、フォンは路上のごみ箱から発見されました。最初は冗談だと思った様なんですが、念の為警備員と一緒に行ったところ、このありさまだったようで…さっきまで彼らは吐いてましたよ。今は学校の事務室で休んでいます」
「被害者の身元は?」
「アルノー・グランディリ35才、独身。なんとまあこの向かいの高校の先生でした。ここのプールは隣の大学の施設らしくて、高校もたまに使わせてもらっていたそうです」
「でした?」
「問題があったそうです。教え子とデキちゃって最近首をこう、やられたらしくて」
そう言って捜査官が自分の手で首を切る真似をしてみせる。辞めさせられた、という事だろう。
「アルノーの両親は」
「本人とは最近めっきり会っていないとか。これ以上の不祥事をまねく馬鹿息子などおらんと父親に門前払い喰わされちゃいました」
苦虫を噛みつぶしたような顔で捜査官が呟く。
「そう…」
やっと戻ってきた感覚を確かめるように両手をぐーぱーと動かして、ルナはカインを仰ぎ見た。彼は死体を結ぶ縄や、沈められていた近辺を手を触れたりかざしてみたりしてモノの記憶を探っている。彼は死者の感情をあまり読めない。モノの記憶をたぐり、生きている者の感情を読む。死人が死者の感情を読めないというのも変な話だが。カインは伏せていたアメシストの瞳を静かに持ち上げ、こちらを見下ろしてくる。
「…何か…モノの記憶から、フードをかぶった人間の姿が見えた。仮面…マスカレードの仮面の様なモノもかぶっていたな…後は、静かな殺意。ただ静かな殺気だ。まるで朝焼けの森の中の、泉の静けさのような…」
「一人目と同じね…フードの人物」
ようやくまともになってきた思考を動かして先ほどの映像を思い出す。フードの人物。さすがに仮面までは見えなかった。そして被害者の最期の意識に残る、あの声。
『殺せ。その判断はあの世で神がしたもう』
なんだろうこの言葉。とりあえず殺せ、ということなのだろうか。被害者の意識がもう絶叫状態だったから、男か女かまでは分からなかった。
「その人物が一人目の時もそうだったんだけれど、最後に呟いていた」
それを聞いたカインが訝しげに眉をひそめ、こちらの言葉に耳を傾ける。
「何を」
「殺せ。その判断はあの世で神がしたもう」
「ハッ!……神、神、神!」
腹ただしいと嘆く様に吐き捨てながら、カインは両手を自分の前で広げた。
「神が一体今まで何をしてくれたんだろうな! それでも人間は救ってもくれない神に固執するんだ! 全ては試練といい苦難を与えつつ、救われた人間がどれだけ居ただろう。それこそ、選ばれた人間、ってヤツだ」
「それが人間なのよ。仕方ないわ。ほんの少しでも希望があれば、それにすがりつく」
落ち着いて、と心でなだめながら、カインの背中をぽん、と優しくたたく。むう、とふてくされたような顔をしながら、しぶしぶカインは怒りを納めて現場に向き直った。こういうところはまだまだ感情を制御しきれていない、と苦笑しながら思う。カインがふん、と鼻を鳴らしながら、後ろの壁にもたれかかっているヴィオに一瞬視線を流して突っかかるような口調でおい、と問いかける。
「これは水責めだな?」
それを聞き届けて、ヴィオが眉を潜め、組んでいた腕を解きながら体を持ち上げた。
アクアマリンの水の光がヴィオの白い顔を浮かびあがらせる。その表情は硬く、どこか不機嫌そうだ。
「……そうだね。旧古世紀に公会議でこの方法が禁止されてからほとんど用いられなくなったけれど、魔女を区別するもっとも有効な方法として一部ではその後も使用されていた。水検査ともいう。右手を左足に、左手を右足に結びつけロープで川や―水の中に降ろす。被告が沈まなかった場合は有罪、沈んだら無罪とされた。…まあでも沈んでもなんだかんだいちゃもんつけられて絞首刑、なんだけれどね」
「拷問の一種なの」
そうだね、とため息をついたヴィオは再び壁際に戻り、腕を組みなおして身体を持たせかけた。そして辺りに沈黙が漂う。何だか空気が淀んでいる気がする。仕方がない、こんな現場だもの。学生は当分使いたがらないだろう。かわいそうだが、忘れていくしかないのだ。俯いたまま終焉の言葉を口に乗せる。
「これ以上の収穫は望めそうにない…後は現場班に任せて撤収するわ」
「了解」
ため息を吐き切ってから彼らに向き直ると、二人は口を揃えて返した。そして現場を後にしようとしたその時だった。
ぎゃあああああああ!!!
現場から身をひるがえそうとしたまさにその瞬間、激しい悲鳴がどこからか響き渡った。瞬時に反応し、悲鳴のした方向を探るべく耳、能力全ての神経を研ぎ澄ます。そして近くでうろたえていた現場の捜査官に怒鳴りつける。
「そこ! ただちにこの周辺を封鎖! 夜だから通常より楽勝でしょう!」
「捜査官!今の悲鳴は…」
泡をくらったような顔で彼がこちらに叫ぶ。キッ、と眼差しをきつく投げて、ルナは先程より大きな声で叫び返した。
「取りあえず言う事聞きなさい! 尋常じゃないのが分からないの!?」
その声にようやく我に返ったか、彼ははい! と大きく返事をして駆けていった。それを見届ける前にカインたちはすでに走り出している。
「何処!?」
走りながら叫ぶため、空気が強制的に口腔内に入ってきて呼吸の邪魔をする。ついてくればいい、とカインかヴィオが言った気がして、必死に喘ぐように呼吸を整え、兎に角今は彼らの後ろ姿を追いかける事にした。