41.七つの大罪:憤怒
沈黙がその場所を支配した。冷たい風が肌を撫ぜ、通り過ぎていく。長く続いたその沈黙を破ったのは、他ならぬルナだった。
「…確かに、私は貴方が残していた証拠に気がつかなかった。気がつかせたのは、貴方が脅し、共犯者にしていたルナルド=シオンだった。彼は部屋に結界を施して証拠を隠していた。…ラテン語の辞書、そして―貴方の部屋にあったものと同じ女性の複製画。彼は全て隠し持っていた」
「…ふ、やはりな。ヤツめ、複製していたか。小物だと思って見逃していれば、許されない事を……」
「だがヤツが死に際に残した『Reprio Bice』という言葉で、お前に辿りつけた。ヤツの魔女の力はどうやら本物だったようだ」
「Reprio Bice…」
「そうだ」
カインがルナの隣に立ち、見つめてくるジョンをまたギロリとした眼差しで以て返す。
「Biceはベアトリーチェの略称。そしてこの事件の中で被害者、その親族を調べてベアトリーチェの名を持つ者はいない。だけど、私の犬がもうこの世にはない情報を持ってきてくれてね。15年前に転落死した貴方の前妻…そしてその死を待たずして貴方は結婚した。当時貴方の務めるバーに来ていた彼女…マルガリータ・ブラントと。…ごめんなさいマルガリータ、今降ろしてあげる。カイン」
「承知した」
カインがそう頷くと次の瞬間にカインは十字架に磔にされたマルガリータの元に辿りつき、ヴァンパイア本来の力―跳躍力を使いこなし彼女の手首と足に巻かれた縄を上手く断ち切って落下する彼女を抱きとめ、その場に降ろした。それを見届けて、ルナは再び目の前のジョンに向き直るとそっと唇を開き話を再開した。
「…最初私は前妻を失った悲しみを癒そうと早めの結婚に踏み切ったと思った。でも違うわね。貴方の前妻は自分から飛び降りた。その前に彼女は貴方に隠れてマルガリータになんども会っている。隠れて、は語弊があるかもしれないけれど」
「それを聞いて俺達は考えた。マルガリータに別れを迫られた彼女は貴方を疑ったのではないか。そしてもともと身体の弱かった彼女はマルガリータに責められる苦悩と実際のジレンマに苦しんだのではないか」
「…そうだ。彼女はマルガリータに、この私が本当に愛しているのは自分だと言ったらしい。故に別れろと。そして身動きの取れない彼女は追い詰められー飛び降りた」
そう言ってジョンは思いだした様に瞳を閉じ、考えにふける仕草を取った。ルナはある程度の沈黙の後、再びゆっくりと口を開く。
「そう、その前妻の名が、ウィアトリークス=チェンチ。ベアトリーチェという人名の由来となったものね。ベアトリーチェは『神に祝福されし者』の意を持つ。貴方が持つあの女性の画は魔女ではない、あれは貴方が描いたウィアトリークスね。貰ったなんて言って」
「…誰にも知られない様にする良い言い訳だと思った」
「聞かせて。唯一殺されたオンディーヌ。彼女は一体何故殺したの…あの悪質な魔術…そしてあの香水の香りは」
ルナが問うと、ジョンは少し考える様な間を取った後に口を開く。
「…彼女には殺しを見られた。だから殺した。ベルナールを殺したのは私、ああ、学校のプールに沈んでいたアレはシオンがやった。あの塔の事件にせよ、2人いればとるに足らぬ事だ、プールでシオンが殺した後、元よりアイツのエデンは殺す予定だったからな。奴はそれはそれは激昂したさ、でも私の方が魔力が強かった為に彼は口を開く事が出来なかった。まあでもいずれはシオンも邪魔になる」
「だから殺した」
カインが静かにそれだけを言うと、ジョンが黙って首を縦に降ろす。
「先の彼女に罪はないが、そう言う訳で死んでもらった。私の力はどうも先祖返り並みらしい。彼女にはその時の記憶が残っているから魔術で消した。君が居たのは知っていたから、少々質の悪い物を植え付けたが。香水の匂いは。あれは、少々特殊なものだよ」
「……?」
「マルガリータの母親も魔術で殺した?」
ヴィオがすぐさま横からその事を聞いてきた。その事実にマルガリータが目を剥いて青ざめる。ジョンは頷くが、まるで興味がない、と言った感じでどこかうわの空で呟く様に言った。
「…もう、殺す為に殺すと決めた。……神聖喜劇『神曲』でダンテを導く、ダンテにとって彼女が神聖化された存在であったように、私にとっても彼女は神聖なものだった。だから、許す事は出来なかった。出来ない」
がくり、と顔を落としたジョンの方をルナは見つめた。その気持ちを分かる事は出来ない。彼女を神聖化していたあまりにその喪失があまりに大きかった。
「貴方は、…マルガリータを「殺す」為に他人を「殺した」? …」
ルナが問いかけ直すと、ジョンは少しずつその思いを言葉にして吐露していった。
「…彼女が魔女の家系ではある事は結婚して分かった。だからあえて魔女を殺していた異端審問官の末裔を最初に選んだ。魔女を狙っている事を真っ先に知られてはいけないと」
「でも…なぜ息子まで殺したの」
「…自殺だ。あの子は、私が行った時にはもう、死んでいたのだよ。世を嘆いてなのか、それは分からない。ただ、疲れたとメモがあった…」
その時の事を思い出したのか、ジョンはまた苦しそうな声を上げた。その事実に一番驚いたのは問いを投げたルナ自身だ。
「何ですって! じゃああの記憶は何なの!」
「魔術で作った。それくらいは私にも出来る。それ以降の記憶は私とシオン。その頃の君はよもや魔術が絡もうなんて思ってもみなかったろう」
そう言って感情のない瞳でこちらを見上げた。その言葉にぐうの音も出ない。そのとおりだったから、確かに魔術の気配すら探っていなかった。
「…だから火あぶりにしたのは、せめてもの浄化のつもりだ。この世の穢れ、悲しみ、全てを過度なまでに背負ってしまったあの子を浄化する為」
「…ふざけるなよ。何が浄化だ。肉体より精神の方が尊い宗派か」
「言うがいい。もう私はこの世で彼女に会えない。彼女も、私には会えない」
ぎり、と歯を噛みしめたカインが殺意をもって睨みつける。ルナはジョンの瞳をじっと見る。迷いのない瞳だった。穢れないその眼差しはそれが正義だと信じている。睨み付けるカインの視線も意にも介さず、やがてジョンはカインからルナに視線を移した。その瞳がかち合った瞬間、ジョンの眼差しは諦めにも似た表情をしていた。
「…鎮まれ呪われた狼。お前は自分の怒りで自分を内から焼きつくすがいい…お嬢さん、最後に良い事をおしえてあげよう。先程の香水の話だがね…七つの大罪を模した香水、なのだ」
「七つの大罪…?」
そう言えば何処かで聞いた。あれはどこでだっけ。彷徨う思考を追いかけていると、ヴィオが世にも恐ろしい物を見たという様な顔で叫んだ。
「あの七つの大罪の香水! じゃあアンタは…所有者だってのか!」
それを聞くとジョンが満足そうに笑う。
「私は七つの大罪…ira…神に対して怒る、「憤怒」だ…その役目を果たせぬなら…こうして死ぬ」
ぼぅ!!
その途端猛烈な朱の炎がジョンの身体中を包みこんだ。しまった! 思わずそう心の中で叫んで近づこうしたが、しかしもう炎の熱で彼に近付くことすらできない。直ぐにその場から離れ、距離を取った。炎に包まれながらも彼はその顔を歪める事なく微笑んでいる。じくじくと肉の焦げる匂いがする。その臭気にくらくらと眩暈がしてくる。何故、何故。たまった思いが叫びとなって口から飛び出す。
「どうして…! どうしてなのよ!!」
炎の煙が目に染みて生理的に涙がボロボロと零れ出す。頬を伝う涙の感触を感じながら、ルナは叫ぶ事を止められなかった。ジョンがバチバチと音を立てる炎に顔を少ししかめた。
「ジョン!!」
とうとう痛みに耐えかねたその身体が崩れ落ちた。炎が静かにその肌を舐めつくし、熱き腕で包み込んでいく。
「…どっちにしても私は死ぬしかない…嗚呼、女神が…君が忘れたと言うのでないならば、僕の魂を、どうか少しでも良い、その…歌で、慰めてくれ…僕の魂は僕の…肉体と…ともに…ここへき…た……それだけに…疲れ…が…いっそ…こた…える…」
その囁きが、彼の最期の言葉だった。
彼の最後のセリフは、神曲の中のフレーズです。