36.氷の海に沈むもの
くっそ寒い日に、とんでもない朗報が迷い込んだ。強いて言うならばそんな気分だ。この時代のこの地域は雪こそは振らないだろうが、それでもこれには耐えられない。通報によって知らされたこの現実にルナは震えが止まらないままだった。
小さな川のほとりに荒々しく作られた木の十字架に括りつけられたその死体は、氷漬けだった。その胸元には一輪の薔薇が差され、おまけに自分にはその氷の粒子にまみれた端正な美貌に大変見覚えがあった。
「ルナルド=シオン…しまった、ホントに…」
自分の楽園が殺された事に静かな涙を流していたあの青年。今頃は楽園に出会えていれば良いのだけれど。見よう見まねで十字を切って、冥福を祈る。
氷漬けにされた瞬間死んでいれば良いけれど、そうでなければ死亡時間の特定には困難を極めるだろう。殺された本人の苦痛を思うなら、氷漬けであっては欲しくないが。でもそんな時間はない。目の前に立ち、肌に張り付きそうな程冷たい木の棒に手を滑らせた。同時に意識を今は亡き死者の記憶にもぐりこませていく…
―…とぷん。
『……ジジジジジ……意識の奥で誰かが…ジジ…「…ああどうか」あの顔…あの美貌…シオン…自分の部屋で縛られて? …「どうか…この結界が…効いていてくれ…そしてあの子が…聞いていてくれ…」…何回も暗転する…繋がって…シオン「…どうか聞いていてくれ…月…」…シオン…? 霞がかった瞳…それがクローズアップされる…蒼い瞳「Reprio…〝Reprio Bice〟(リぺーリオ ビーチェ)」シオン貴方…私が読む事を知っていて…「Interrogavi…(インテロガ-ヴィ…)」消えゆく瞳の光…』
―ハッ…
意識を元に戻して、必死にその記憶を留めて手帳を取り出す。彼は何を言っていた? 恐らくは聞きとられない様に、敢えてあの言葉にしたのだ。自分にも分からぬ、犯人にも分からぬと信じた言語で。書き取って見て見直すが、どうも不安だ。
「ルナルド=シオンは確か魔女の家系だったな。少し力があった様だ。何か術がかかっていて、魔術系に疎い俺には読めん。しかし、魔女殺しとは」
傍らのカインが苦々しく見上げて呟いた。そしてルナの方を見返すと、どうだった? という表情で見つめてくる。瞳を閉じて、先程のシオンの瞳から光が消えていく様を思い出す。
「そうね、少し力があったみたい。結界がどうの言っていたから。それと何かメッセージを残していた。聞き取れたけれど私には何だか分からなくて…音を聞き取ったのを書き出して見たんだけれども」
「貸してもらえるか」
そのまま手帳を渡すと、カインはそれをしばらくじぃ、と見つめた後に更に何かブツブツと呟いてから書き足して此方に返してきた。おそらく、そんな感じだろう。言われて書き足された部分を見直す。
Reprio Bice〟(リぺーリオ ビーチェ)
Interrogavi…(インテロガ-ヴィ…)
「訳すとだ」
それを見つめているルナに応じる様に、カインが間を割って解説を加えてくれる。
「探せ…ビーチェを探せ。頼んだよ…」
「ビーチェを探せ…ビーチェ?」
何回も呟いて、首を傾げる。恐らく人名だろう、とカインが横から言った。
「BiceはBeatrice…ベアトリーチェの愛称だ。しかし関係者にベアトリーチェなんていたか?」
「いえ今の所…改名している人間が居る?」
「かもな。それか、また抽象的な表現かも」
しかしシオンの残したダイイング・メッセージですら曖昧で抽象的過ぎる。また詰まってしまった感がでて、思わずため息が出た。しかし、しばらくその場で現場を眺めていた時カインが何かに気がついた様にハッと顔を上げた。
「違う……これも作品だ、ルナ」
その紫電の瞳には確かな確信が宿っている。カイン? と聞き返せば、彼はその節くれだった指をす、と川に向けて言った。
「現場の川……そしてシオンの死因は凍死。…これは、ダンテの『神曲』に出てくる場面だ。地獄の最下層コキュートスで、最大の罪、裏切りを犯した者が『氷漬け』になっているその場面だ。尤もこれは十字に掛けられているが、実際は地面に氷漬けになっている」
「しん、きょく…」
またか。また、戯曲なのか。頭の中はそれだけだった。ファウストが悪魔の戯曲ならば、こちらは神聖喜劇。地獄から回っていった主人公が最後に天界に辿りつく。神と、悪魔。頭がおかしくなりそうだ。
「と言う事は…シオンは犯人を知っていた…犯人に加担していたのね。でも裏切った。そう言う事かな…そうね、魔術を扱う者が犯人で、魔女の家系を探していたのなら、シオンが魔女だって知っていたし、力を持っていた事を知っていたのなら…この事件は一人では出来ない。脅して加担をさせて、ってことか」
「彼のエデン…ベルナールを殺した事件は、もしかしたら犯人に彼を人質として取られていたのかもしれないな。ベルナールを殺されて激情して、裏切ろうとしたとか。…彼の部屋に手掛かりが残っていれば…」
「神曲のベアトリーチェは作者の幼少期に出逢った女性を崇拝化したモノ。犯人に取ってのベアトリーチェを探せばいいのか…」
ビーチェを探せ。ビーチェ…ベアトリーチェ。もしかしたら意外と近くに答えがあるのかもしれない。
闇の中に浮かぶ街を街下から見下ろしている自分は、いつかこの柵を飛び越えてしまうのではないだろうか、と言う気さえ覚えてくる。
この街は異界だ。誰もが気が付いていないだけで、実際は酷く異界だ。
その異界の主―自分の仕えるあの人は、そんな自分の考えすらも軽くあしらうのだろう。
「…アベル様は、所詮私には眼もくれないのだ…」
分かっていた事実を口にしても、それは事実以外の他ならない。
皺を刻んだ両手を見つめる。人間として確実に歩んできた道のりを示すそれを、今は何故か苦痛にしか思わなかった。
「何故私は人なのか…何故…アベル様は私を変えては下さらぬのか…」
その答えを彼は幼い声でただ一つ、寂しいからだよ、と言っていた。悲しい顔で、そう言っていた。その真意を今でも図る事は、難しい。
あの幼子の様な身体にして、今この警視庁をひそかに見守っている吸血鬼。アベル=ブラン。カインと対の存在でありながら、全く異なった存在。
『そもそもね、僕はカインの後に生まれた。そして僕は、ただひたすらにカインを訴え続ける存在として此処に在るんだ。だから―僕はカインをいたぶってきた』
『ならいっそ己自身で手を下せばよろしいのでは? わざわざこの私を介さずとも貴方にはその力が在る。そうでしょう』
『馬鹿だねぇ、オギ。僕は、書物の因縁になんか縛られていたくないのさ。考えてご覧よ、僕はずっと、ずぅ―と―カインを訴え、その喉を枯らしてきたんだ。自分自身にも分からない、この胸の内から湧き上がる訳のわからない憎悪を、ずーぅっと抱えて生きている。自分でも分からないんだよ。そんな身のならない行為の、何の得があろうさ。でもね、逃れない。逃さないんだ。神とやらは。……僕はカインを残して先に死ぬ。それが運命。それが本望。そうなる事を僕は知らず望んでいるんだ………』
思い出しては胸が痛む。
「アベル様…貴方は結局聖書の通りになろうとしている…」
ぎゅ、と握りしめた拳を胸元に押さえつける様に当てる。切ない。あの人が唯、切ない。そう思った。
やっと後半へ。色々自信ないなあ。展開はわさーっと動きますです。