34.気になる匂い
モガリのオフィスにまで戻ると、最初に抱えていたアンナを傍らの簡易ベッドにそっと寝かせ、ルナにソファを進めてから彼はドサリと自分のイスに腰を降ろした。
「さてと、何から考えようかしら。あの黒いものの事?」
「いや…それはアンナが起きてから聞いた方が早いでしょう。私が気になるのは香り…あの香りよ」
「ああ…あれね。確かに気になるけれど。…でも関連性がある様には見えないんだけれど。アンタも言ってたでしょ。化け物が高尚さを持つかって」
モガリはそう言いながらブツブツと呟き、くるりとイスを回してあさっての方向に視線を向け、ふーんと考えを巡らせている。ルナは少し考えて自分の携帯PCをとりだして調べ物を始めた。それをモガリが不思議そうに見やってなにやってんの、と口を挟む。
「モガリ、香水について知っている事をあらかた喋ってくれないかしら」
「え? なんで」
真剣な眼差しでPCに向かいキーを叩くルナに、モガリは頬づえをついたままそれを聞いた。
「関係はないかもしれないけれど、おさえてはおきたいのよ」
「えー…まあいいけれど。えーとそもそも香水っていうのはむかーしむかし、花、野草、樹脂をそのまま使っていたのを、樹脂を加熱すると芳しい香りが増す事を知った人がいたの。古代エジプト人は芳香性の樹脂を焚き、香りを神々に捧げ、煙が天と地を繋ぐ道になるように願ったとされるわ。故に、香水―perfumeの語源はラテン語のper-(通して)とfumum(煙)に由来するの」
「つまりもともとは神と繋がるツール、だったって事?」
画面から顔を上げ、モガリの方を見返す。そうね、と彼は苦笑しながらイスをキイ、と鳴らしながら揺らした。
「古来エジプトでは香りは蘇り=再生につながると考えられていた。王…ファラオの亡骸はパイン(松)、香辛料、ミルラ、シダーなどの香油に浸した布で包んだ。香料は身分の高い人には欠かせないものだった。中東からヨーロッパへと運ばれてくる香辛料や樹脂は黄金以上の貴重品として扱われていた。…歴史的な所といっても貴女が興味あるのはここらへんでしょ」
PCを動かすのに疲れるとルナはふん、と息を荒くもらし、腕を伸ばして伸びをするとぽきぽきと音が鳴った。全くデスクワークも慣れない所だとしんどい。
「今見てみたけれど、今の香水、と呼ばれるものになったのは19世紀…ちょっと昔ってところなのね。まあ、燃やして煙として…ってやつで、かぐや姫を思い出したのは私だけかしら」
「その通りね。月の都に帰ってしまったかぐや姫が帝に残した不死の薬―それを帝は天に近い場所で燃やしてってヤツ。『逢ふことも涙に浮かふ我身には死なぬ薬も何にかはせむ』って詠んだ事でも有名ね。故に不死=富士とついたとも言われているわね」
「死、再生、香り…」
とんとん、とデスクを叩きながら思案にくれる。そうだ、これからしても三点は繋がりがある。人が昔から狂わされてきたモノの内の一つ。ある女王は賢王を虜にしようとして逆に惑わされた。稀代の女王はその纏った匂いで凶王を惑わした。神話でのセイレーンはその美声の次に芳香で船乗りを魅了し死に追いやった。香りは人を惑わす。
「人の祖先は繁殖のパートナーを見つける為に海中で特殊な化学物質を放ち相手を見つけたのよ。地上に出てきた時に水がない環境でもその化学物質を検知する為に『嗅覚』という感覚は生まれた。受け取る器官はほぼ変わっていないにせよ、その間に人間の脳はめまぐるしい発展を遂げたから、自分たちの好きな匂い、嫌いな匂いを認識出来るようになったわ。香りは人間に様々な影響を及ぼしてきた…」
「さっすがお医者さま、言う事が違うわね」
「あら、今更? それとも今俺自身でルナに証明してやろうか」
「結構、お医者さんごっこはやらないわよ。あ…」
ふと脇のベッドに視線をやると丁度アンナが軽く身じろぎをしていた。どうやら目覚めそうだ。モガリ、と軽く声をかけると、彼はすぐに立ちあがって彼女の元に歩いて、ベッド脇に立って声をかける。
「可愛いお嬢さん、目覚められる? ミス・アンナ?」
その声に反応するようにうう、とうめき声をあげてから、アンナの双眸がゆっくりと持ち上がった。慌てて起き上がろうとしたその身体をモガリが片手で制す。従う様にそのまま崩れ落ちると彼女は右腕で顔を覆い、ごめんなさいと小さな声で謝った。
「何も…できなかった…あれは」
「あれ…一体なんなの?」
ルナがそっと問うと、アンナは少し考える様な間の後にあれは、と消え入りそうな声で切り出す。
「魔術…それもとても強い魔術師がかけた魔法。記憶を探ろうとすると発生するようになっていた…私みたいに付け焼刃では到底叶わないわ…やっぱり呪医をちゃんと選べば良かったのに」
睨む様な目つきが腕の間から覗いて、やはりこちらの思惑は少なからず図られて居た事を知る。仕方ない、どんなに恨まれても死体が積み上がっていくよりはずっとマシな事だ。ルナはその視線を振り切る様に彼女にたたみかけた。
「記憶を探ろうとする、って言う事は私のような記憶を探る能力者が居る事を相手方は知っていると見ていいのね」
「…あるいは貴女が関わっている事が。まあ貴女能力者では有名な方なんでしょ。知っていてもおかしくはないんじゃなくて?」
「まあ、そうね。ルナは異色だから…」
唇に女性の自分ですら嫉妬するそのほっそりした指を当ててアンナの言葉に同意するモガリに、ルナはキッとねめつける様な視線を向けた。
「それ以上言わないって約束よね、モガリ。本当に私泣くわよ」
「やぁねぇ泣く様に出来てないクセに。アンタはその前にアタシを締め上げてこの美しい顔をぶん殴って血で染め上げるでしょ。そんな事されるのはヤダから言わないわよ。さて」
両手を脇に当て、一つため息をついたモガリはアンナをずいっと見下ろして、彼女の右腕を取って脈を測る。一通りの医者の手順を終えた後に、もういいわよ、とアンナの方に声をかけた。
「まあ、あれが魔術師のモノだって分かっただけでも得だわ。他にも分かった事はある、可愛いお嬢さん?」
アンナは少し考えを巡らせる様に視線を上に下に彷徨わせ、そして一つ思いついたかのようにあ、と声を上げた。
「におい…良い香りがしたわ。あれ、香水かしら、アレ…」
「そう、貴女も分かったのね。じゃあそっちの線も濃厚ってとこか。呪の一部として使われたか、術者が付けていたか、両方で探ってみよう。あるいはそれそのものに意味があるのかも。…ありがとうアンナ。今日は無理を言ってごめんなさい。結局こんな目にあわせてしまって」
「良いわそんなの。結局の所貴女に助けて貰ったみたいだし」
そう言って彼女はふい、と不貞腐れた様に顔をそむけた。わお、やっぱり嫌われたかしらね。まあそうは言ってもカインと一緒にいる自分なんぞ彼女にとっては不満の塊の何でもないだろうし。こっちだって気にしない…とまではいかない。
考えを振り払って、ルナは視線をそむけたままのアンナにそっと言った。
「もう少し休んでいて、それでちゃんと動けるようになったら車を出すわ。モガリが運転して行くから」
「アタシなのぉ!? この暴力モノ!」
「さっき私を泣かそうとした罰よこのクソ美人」
「理不尽じゃないの!」