33.再びカタコンベへ
その日の午後12:58、ルナは入口の前に立って彼女を待っていた。
約束の時刻きっかりになると向こうの方からほっそりとした彼女の姿が現れる。襟元がフリルになった白シャツにブルーのギンガムチェックのフレアスカートの彼女の姿はこの錆ついたゾーンでは異質だ。まあ、当然なんだけど。
「ハイ、アンナ。今日は来てくれてありがとう。助かったわ」
ニコ、と微笑めば彼女はその細面の顔の筋肉をそっと使って同じように口元に笑みを浮かべた
「かまわないわ。早速行きましょう」
カタコンベの前では、金髪を一括りにした長身の影がこちらを待っていた。ハイ、と大きな手を上げて彼が微笑むと、その手を指一本だけ伸ばして口元に近づける。
「準備は既に出来てるわ、でも入る前に言っておく。ルナはまあ信用しているけれど、貴女は所詮一般人だから、問題の妖精さんにたどり着くまでは目隠しをしてもらう。分かるわね」
「…ええ」
「オッケ。じゃあ、ちょっと後ろを向いてもらえる」
そのまま彼女が後ろを向くと、長い髪がさら、と舞いあがって墜ちる。それを見てからモガリが手ぬぐいを取り出してからアンナの瞳に被せ、後頭部で縛った。前に回って彼女の手を取ると、さ、と声をかけた。
「アタシが手を引いてあげるわ。ゆっくりでいいからついてきてね。さ、ルナも行くわよ」
普段明るいモガリも今日ばかりは真剣だ。そのせいかコツ、コツ、という靴音やそれぞれの息遣いまで分かる。処置室までなんて大して距離が知れたものじゃないが、それでも用心に越した事はないのだろう。アンナと言えば終始無言で、モガリに手を引かれるままゆっくり歩いているが時折鼻をひくひくと動かす仕草をしている。これから向かう所は死体ばかりの所だ、死の気配でもするのだろうか。流石に侮れないと思ってしまった。横目で彼女を見やり、やがて見えた入口に先を譲ってやろうと一歩に下がった。モガリ、と声をかける。
「さ、可憐なお嬢さん着いたわ。ようこそ、とは言い難いから、何も言わないわ。そのまま進めば自動スライドドアだから開いてくれる。部屋の中に入ったら目隠しを取るわね」
そのまま一歩踏み出せばシュン、と空気を抜いた様な音を立ててドアが開く。一歩遅れてルナも中に入れば、全身に布をかけた彼女が横たわっている。水の中に命を落としたオンディーヌ。モガリが少し困った様に声を上げた。
「もうね、イロイロ手を施したんだけど、この子に此処に居て貰うのはもう限度なの。分かるでしょ、もう…」
「そう、ね。ごめんなさい、無理言っちゃって」
「いいの、とは言えないわね。早く埋葬してあげたいから」
そう言ってまたモガリは困った様に笑い、お待たせ、とアンナの耳元に囁いて目隠しを取った。閉じていた瞳をゆっくり持ち上げ、パチパチと瞬きをして視覚を取り戻させて横たわる彼女を見つめた。
「じゃあ…時間も無さそうだし、早速始めるわ」
ぼんやりとそう呟きモガリを見つめて視線で了解を得ると、ゆっくりと近づいていく。オンディーヌの遺体の前に立って小さくブツブツと呟き始める。しばらくそのままの状態で彼女が呟いていると、フワ、と彼女の髪の毛が舞いあがり、じわりじわりと遺体から何か黒くドロリとしたものが這い出てきた。
「なに…アレ」
思わず出た言葉に動揺が混じる。その感じる狂気にも似たおぞましいそれの空気がずっと自分の背中をぞわぞわとさせていた。これは、マズイ。これは此処にあってはいけない。そう己の本能に告げている。ズルリと音を立ててそれはだんだん這いだしてきた後、一番近くに居たアンナの脚に絡み付こうと触手を伸ばした。彼女は集中していてそれを視界に入れる暇もない。アンナの額から汗が散った。
「アンナ!」
「大丈夫…私…は…キャア!」
「アンナ!?」
言葉が切れたと思った瞬間にアンナの脚にズルリとそれが絡み付いている。思い切り舌打ちをして拳銃を取り出しながらアンナの元に駆け寄ると、遺体から出ているそれに向かって銃弾を放った。途端に甲高い悲鳴の様なものを上げ、それは徐々に灰になりやがて消えていった。残された人間達の整わない荒い息遣いと、煙を噴き上げた自分の銃、そして部屋中に充満する硝煙の匂い。
「…とりあえず、は助かった…?」
尻もちをついたまま息を荒げていたルナは、途端に我に返ってアンナの方を見やった。既にモガリが倒れて意識のない彼女の元に駆け寄って脈を見ている。そのまま安堵の息をつく。
「モガリ…彼女は」
「大丈夫。意識を失っただけだわ。それでも少し安静が必要だけれど。でも分かった事もあるわね。あれは邪悪よ…アタシは一歩も動けなかった」
おびえた顔でモガリはそれが居た場所に視線を向けた。灰はどこかに消え、硝煙の匂いが鼻につく。そのまま匂いに鼻をひくつかせていると、硝煙の中にも何か匂いを感じ取る。ルナは眉を潜め、それがいた場所に近づくと、匂いが先程よりも多少鮮明になる。
「何かしら…この匂い」
「ルナ? どうしたの」
モガリがアンナを抱いたまま不思議そうに近寄ってくる。そこに来た瞬間、彼も僅かな匂いに気が付いたのだろう、鼻をひくつかせて訝しがった。
「何か良い匂いがするわね…これは…」
その途端モガリの表情が酷く青ざめる。その変化に気付いたルナは咄嗟にモガリの袖を掴んで見上げると、彼は我に返ったようにこちらを見下ろしてくる。
「モガリ…何か知ってるの」
「あ…いえ。これは香水よね、と」
「香水? 何それ」
「また…ルナ。貴女それでも一回のレディでしょう…それくらい分かりなさい。ちょっと前の世紀に流行っていた水よ。色んなエキスを混ぜ合わせて作るんだけれど、それを肌につける事はちょっとした紳士淑女のたしなみ、だった訳。おしゃれにも使うわ。まあ今は気軽に人工水っていうのが主流かな」
「は…冗談きついわ。あの化け物、たしなみなんて高尚なもの持ち合せてたって訳?」
つう、とこめかみに汗が流れ落ちる。それは暑いからではない、ひたすらに感じていたあのおぞましさのせいだ。能力者である自分がこんなに激しく感じ取った『悪』はあまりないに等しい。それを今、たった今この場で感じ取ってしまった。互いに沈黙が続いた後、アンナを抱えたままのモガリがそれを破る様にして口を開いた。
「…取りあえずは彼女が目を覚まして、それからかも。この子の方が一番詳しく語れそうだものね。少ししたら目を覚ますと思うから、休憩てがらアタシのオフィスまで行きましょう」
「…そう、ね」