30.医者と犬の報告
何かを感じて振り返ったけれど、そこにある空には何もない。
一体何をしているんだろう。寒くもないのに両腕を抱え、その二の腕をさすった。こんな事をしている場合じゃない。薄暗い廊下の窓から見上げた空は酷く曇っていて、まるで見えない先を暗示しているようだった。ふう、とため息をつく。帰って来て今までのデータをひっくり返してどんなことも逃すまいと洗い直している最中だと言うのに弱気になっている。
「何を迷っているの。こんな場合ではないのに」
自問自答するように口にするも、心に翳っている闇が晴れそうにない。
「戻ろう…」
くるり、足を自分のスペースに向けて歩き出した瞬間、ポケットにつっ込んでいた携帯がけたたましい悲鳴を上げた。慌ててとると直ぐに画面が出てきて電話主の姿をぼう、と浮かび上がらせた。金糸の長い髪を今日は珍しく降ろしている。嗚呼。静かにため息をつきたい衝動を必死に抑え込み、―きっと向こうにもこちらの姿はあますことなく見えているだろうから―ルナは精一杯の笑顔を作った。
『はぁい、私の可愛い可愛いエンジェルルナちゃ―ん。アタシからの電話を首を長くして待ってたでしょダーリン?』
「ハニー、私の素敵なお医者様、モガリ=サラフィア。待ってたわ。さあ、私に良い報告を聞かせてね」
笑顔のままにそう言うと、彼はーもう自分の中では彼でいい―イヤだなんかイヤらしい!と頬を染めてかぶりを振ってからあのね、と切り出した。もうそこら辺の所作には突っ込むまい。
『呪医の件だけれど、やはりアタシのツテで適任者は見つからなかったわ』
「モガリ? 私は良い報告を聞かせて、と押したはずよ」
何だと、と言う事とやはり、という思いが交錯して、若干切れ気味な口調でそう言うと、モガリはだからゴメンって言ってるでしょ、と申し訳なさそうに呟いた。
『でもね、貴女、聞けばベナンダンディを傍に置いているらしいじゃない。ベナンダンディも魔術にかけられた人間を診たり癒したりしていたのだから、呪医に近い行為は出来る訳よ。アタシがあたらずともそうした方が早くなくて?』
それを聞いてルナは一瞬動揺したが、次の瞬間には視線をあさっての方向に向けて考え込んだ。しまった。確かにそうだ。どうしてそれが回らなかったんだろう。動揺か、それとも。
『嫉妬、ってか』
くすり、と画面の向こうで低い笑い声が聞こえて、ばっと見下ろした。女を魅了する端正な顔が面白そうにこちらを見つめている。
「貴方、実はテレパシーでも使えるんじゃないの」
『そんな事できるもんか。恋する乙女の顔を見れば分かるって』
「次そんな悪臭漂う溝につっ込みたくなるセリフ吐いたら殺すわよ」
『やっだールナちゃんツンデレー。面白いけれど、私情は挟んじゃ駄目よ』
急に真面目になるモガリの表情に反抗する様に、ルナは分かってる、と吐き捨てるように画面に言った。分かってる、そんな事。
『じゃあ、本人とは話を付けられたらいつでも来ていいわ。ただ、遺体になにかあってもコトだから、アタシは管理人としても見張りとしていさせてもらうわよ』
「一般人に遺体を見せる気?」
『そんな事も言ってらんないでしょ、おバカさん。アドバイザーとして付けているコトくらいコッチだって知ってんのよ。オギがそう言う風に貴女に与えたのは、いずれベナンダンディの力が必要になる、と感じたからじゃない。あの方は使えるものは何でも使う方なのよ。…いざとなれば記憶消しなり何なりできるわ。まあベナンダンディにそれが効けばいいけれど』
「…分かった。この後連絡をつける」
不貞腐れるように俯くルナに、画面越しのモガリは顔をしかめて彼女を諌めるように優しく鋭い言葉を放つ。
『すぐになさい。貴女のその迷いが、余計な死者また一つ生みだす要因にもなるのよ』
―分かっていた。
オフィスに向かっている途中、またしても別の番号からの電話が入った。まったく今日は仕事をさせてくれない日らしい。
―客人の多い事。
ため息をついて再びコールを取ると今度もまた画面が現れ、フォリ・ア・ドゥの顔が浮かびあがる。ヒラヒラと手を振っている彼をじと、っと見ながら、ルナは低い声で画面のドゥに悪態をつく。
「…今日は金髪野郎ディなの?」
『は? 何の事だよルナ。イキナリ訳分かんねえな。ま、そんなミステリアスな我が女王様、俺は涎が垂れるくらい好きだぜぇ』
「ありがとう。それで、この電話は前に連絡した赤子の流通経路の変化についての報告だと願いたいんだけれど」
ドゥは口元を手で隠しながらククク、と声を殺して笑うと、笑みを刻んだ口元で長い人差し指を左右に振りながら答えた。
『ハッ! 俺らが命令を怠る訳ねぇじゃんか。女王様は1日で出来ると踏んでただろ? 忠犬はそれなりにご機嫌伺いが得意だからな。調べたさ』
「報告なさい、犬」
『yes. sir。結果から申し上げますと、此処数カ月の赤子の流通はなかったよ。今年入ってからあんた等サツが頑張って縄張り守っていたせいか奴らも表立った事はしなかった…してないらしい。赤子は貴重だからな。慎重にもなる』
「そう、じゃあ最初の事件発生時からない、と見ていいかしら」
『嗚呼。…ちょ、テメェまた良いトコでこの野郎! …やあ僕らのご主人様。そう、僕らに二言はないよ』
電話口でもがもがと何かを揉めるような口調の後に、先程とはまったく異なった声音と口調で彼は話し始め、綺麗な笑みを浮かべた。
「また…突然変わるのは止めてと、何回言っても聞かないのね」
口調、そして色を変えた彼の瞳からもう一人のトロアが出てきた事を知ったルナの表情は途端に重くなった。くるりと組んだ足を入れ替えたトロアが挑戦的な眼差しで画面の向こうからこちらを見据える。
「…まあ、いいわ。貴方方が言うのならそうでしょう。これで選択肢のルートは一つ消せた訳だし。御苦労様」
『今回は報酬なしかい?』
「ちょっとくらい負けてくれたっていいじゃない」
『僕らはいつだって口寂しいのさ。分かるだろ? おこぼれだって残さず拾って食べる。君の精気を奪えるならどんなチャンスだって』
「キス魔」
『全く冗談のキツイご主人様だな。そのうち飢えた僕らは鎖を咬み千切って襲っちゃうよ?』
「また繋ぎ直すわ。その悪いお口も縫い付けてあげる」
ニヤリと意地悪く、それでいてさも楽しそうに微笑むトロアに対抗するようにこちらも意地悪く笑って答えてみせた。ちえ、と唇を尖らせたトロアは、次にやれやれと首をすくめた後に、そうだ、と思いついた様に目を大きくした。
『最後にご忠告だルナ。また情報を捉えた、程度だけれど』
「何よ?」
眉根を寄せたこちらに向かって、フォリ・ア・トロアは悪魔の様な囁きで画面越しにその唇を開いたのだった。
『…アイツが来ているらしい』
気を付けなよ、とその言葉と同時に切られた電話を、ルナはしばらく地面から拾う事が出来なかった。
女王様と犬と医者。フォリは見たとおりドゥよりトロアの方が正確悪い。