2.予感
誰かの姿が見える。髪の長い女の人。泣いている。慟哭している。
そこは質素な邸宅だ。小さな暖炉、小さなテーブル、ロッキングチェア。ゆらゆら揺れて、うとうとしている。彼女は貧しいながらも幸せだった。
嗚呼、誰かが入ってくる。大勢の人、そして真ん中には大柄な男の人。その顔は険しく、まるで悪鬼のそれだった。
止めて! 彼女は何もしていない! 無理やり連れていかれる彼女は恐ろしい眼差しで男を睨む。男は何も感じていない。罵詈雑言を吐く彼女を氷のまなざしで見つめている。
ああああああその先は見たくない見たくない見たくない見たくない見たくない!!! 彼女は…彼女は…
―苦悶の果てに、死ぬ。―
ハ……ッ…
静かな朝に自分の吐息が一つ響いて、ぎょっとした。
手元のグラスはいつの間にか床に落ちて破片と化している。しまった、落としていたなんて。
慌ててその場にしゃがみ込み、大きな破片だけをつまみあげていく。後で細かい物は掃き取らないと。カシャ…とキッチンテーブルに積み上げた破片に、ため息をつく。ブラシはどこに閉まっていたっけ。考えていると、脇からスッとブラシとチリトリを持った白い手が出てきて床を掃き出した。その人物―同居人の一人を見上げて、ルナはゴメンなさい、と謝った。
「カイン」
長いまつ毛がゆっくりと持ち上げられて、大きな紫電の瞳がこちらを見下ろした。耳までの、ウェーブのかかった黒の髪の毛がさあん、と揺れ、白い顔を縁取る。唇がゆるやかなカーブを描くと、カインは謝らなくていい、と一言呟いた。
「怪我など、しなかっただろうな」
「ええ」
うなずいたこちらを見つめた瞳がキッチンテーブルに積み上がっている透明な破片を横目で映すと、彼は少し顔をゆがめてから言った。
「気をつけなくては。この家にはヴァンパイアが二人もいるからな。俺はいいが、もう一匹は厄介だ」
「誰が厄介だって?」
タイミングを計ったように、カインの声とは違う、澄んだアルトが別の方から聞こえた。ルナが振り向くと、ダイニングの戸口に身体を預けるようにして立っている。出逢った頃はボブに近かったバーントアンバーの髪の毛は今、ショートくらいに伸びている。アーモンド形の瞳からのぞく灰青色―ホークスアイはじれったそうにこちらを見つめていた。リネンのYシャツ、リラックスパンツは最近の彼のルームウェアになっている。ルナ、と呼びかけてやってきたもう一人の同居人―ヴィオ=クエイルードは、キッチンテーブルに積み上がっていたグラスの破片を持っていた古紙に包み、ゴミ箱に捨てた。
「厄介なのはそっちだろ、カイン=ノアール。俺は少なくとも半分は人間なんだから、見境なく襲ったりしねえ」
「どうだかな。半分そうなら大して変わらぬよ」
ジロリ、ギロリ、睨みあう事はもう日常茶飯事になっていた。まあ、仲良しね。ふ、と息をつけば、二人がそろってそんなんじゃない! とこちらを睨みかえしてくる。まあまあ、と彼らをなだめて、ルナはもう一度自分の手のひらを見つめた。
一体何を見たのだったけ。眠っていないのに誰かのヴィジョンを見るなんてごくごく稀だっだから、記憶をとどめておく暇もない。というか今の自分にはそんな能力はなかったから出来ないのだけれど。でも凄く嫌な感じがした。ぞくりとするおぞましさ。
何事もなければいい…もう一つのグラスを取り出しながら、冷蔵庫からジュースを取りだしていると、カインが電話が来ている、と呼びに来てくれた。その場にグラスとジュースを置き、ダイニングの電話のボタンを押すと、3Dビューアーが立ち上がり、端正な中年の顔が浮かび上がった。ルナは眉をひそめ、画面を見つめた。
「おはようございます、オギ。このような時間にお電話なんてお珍しいですね」
「社交辞令はいいルナ。事件だ」
にっこりと品よく笑った後、落ちてきたグレイの髪の毛をそっと後ろに撫でつけて、セピア色の瞳をじっとこちらに向けた後、上司―オギは口を開いた。
「…厄介な物ですか」
「そうだ、場所はそちらの携帯データに送る。すまないね、一人前に行かせたんだが、発狂してしまってね。どうも若い者には厳しすぎたようだ。ああ、カイン、お前もまた捜査に加わればいい」
「……一応、どのようなものか伺っても?」
しばらく口を閉じていたオギはゆっくりと瞳を上げると、唇から細い息を漏らす。そしてただ一言、口にした。
「火あぶりだ」