25.己の業を思うから、何故か許してしまう
「つまり、最初の事件の被害者の母マルガリータ・ブラントには被害者を憎む理由はあり、そして殺す理由もあったということか。まあでもそれだけでは捕まえられないが」
オフィスのソファに座り、ルナが渡されていたデータを見つめながらカインがおもむろに口を開いた。ルナは手にしたマグをデスクに置くと彼を見、無言のままに首を縦に降ろした。
「それから二件目の被害者アルノー=グランデェリの密通相手のハイスクールガールは実は魔女の家系。相容れない者の苦しみは耐えがたいものだったでしょう。ウブで可愛くてセクシーな女の子に言葉で好き好き言っても彼自身はその奥底で何かが叫んでいたはず。
でも本人たちはそんな事知らないし、要らなかった。彼を愛するセクシーな少女はただ一心に彼を愛していただけだし、彼はその愛に堪えられず組織から首を切られた」
「アルノーを殺したのはそのウブでセクシーなハイスクールガールだっていうの? 相容れない家系だったから? バカバカしい」
ヴィオがやれやれと呆れた顔で首をすくめる。こればっかりは当然の反応だろう。ルナはさして気にもせずに次へ進めた。
「3人目、ベルナール=トゥールーズは異端審問官の家系、でもルナルド=シオンは魔女の家系、4人目は同じく異端審問官の家系、その発見者のジャンキーはびっくり、ハーフ人狼じゃない。皆何かしら異端審問官に関わっていた。でも確証的なものじゃない、これだけは頭に入れておかなければ」
「それにしてもするする埃が出てくるものだな。まるで吐きだす為に溜めこんでいたみたいだ。…おかしくはないか」
カインが足を組んだまま背筋を伸ばし、腿に肘をついて身を乗り出す。確かにそれはその通りだ。その違和感は少なからず感じていた。
「そうね。こうなる事が分かっていたから前もって用意していたみたいに。だからまだ確信していないわ」
目を閉じて心を無にし、手を胸に当てる。自分の中でざわり、と何かが音を立てて蠢く。この感覚がまだ、と叫んでいる。まだ、あるわ。深く深く、入り組んだ所にー
「探してみましょう、その日の彼らのアリバイの裏の裏まで。能力者だからって舐められてばかりじゃいられないの」
そう言ってルナが立ちあがった瞬間、突然にして彼女の意識がグラリと傾いた。保っていられない、そう思った時には、もう遅かった。
「ルナ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一生懸命気を張り過ぎていたのか、いつの間にか眠っていたらしい。気が付いて身体を起こすとそこはソファの上だった。寝ぼけた目をパチパチと瞬かせて視界をはっきりとさせると、自分の体から水色のブランケットが滑り落ちた。誰だろう。きょろきょろと辺りを見渡しても誰も居ない。皆もう出払っているのだろうか。
否。
「カイン…」
夜の闇の中、室内光のブルーの色が淡く照らして、外の景色を見ていたカインの横顔を照らし出していた。起き上がった自分に気がついたのか、くるりとこちらを向いて微笑んだ。
「目が覚めたか、良かった」
「ずっと…」
起きていたの? と聞くうちに彼は手元にあったペリエを黙って差し出してきた。冷たいそれは先程ボックスから出してきたモノと知れる。そのまま受け取りキャップを開けて一口口を付けた。炭酸の泡が乾いた喉に程良い快感を与えて通り過ぎていく。
はあ、と息をつき彼を再び見やると、カインは夜の帳の中に映える街の灯りを物欲しそうに見下ろしていた。あの白い檻を出てから、彼は街の灯りを酷く気に入っている気がする。望んでも手に入らぬ物だからなのか、それともただ単に新鮮なだけなのか、それは己のはかり知る所ではない。そればかりは彼の意志だ。
見つめていた自分に気が付いたのか、は、としたようにこちらを向き、く、と今度は自嘲するように口角を上げた。こちらの考えていた事が読まれていたものらしい。
「おかしいだろう? 近くで見ると眩しくて壊してやりたくなるんだが、遠くからこうして見下ろしている時は死にそうなほど欲しくて堪らなくなる」
「…そう」
思いのほか、口に出たのはそっけないそんな返事だった。自分には到底分からないのだ。カインがカツ、とブーツのヒールを一度響かせると、次の瞬間には目の前に立ち、こちらを見下ろした。
「…分かっているくせに」
「何がよ」
右肩を掴まれ、力任せにソファに押し倒されると、カインはゲームの悪者の様に低く掠れ婀娜めいた声で一つ、くくと笑った。
「お前の事だよ、ルナ」
そうして長い長身をそのまま折り曲げ、アメシストの瞳をジリ、と近づけた。唇と唇が触れそうなほど近い。だが彼はそこから先に進もうとはしない。
「近づくほどに眩しくて、怖い。お前のココが時々読めなくなるから。怖いから、いっその事壊してしまいたくなる。だが、壊せなくて離れると、死にそうに欲しくなる」
こんなふうに、という言葉の後に、触れそうだった唇がゆっくりと合わさってきた。ひんやりとほとんど温度を感じない唇は背筋にぞくぞくとした感覚を呼び起こす。ほとんど吸い尽くされた酸素を取り込みながら、喘ぐように答える。
「…私は…ただの人間だわ」
「俺を壊す、唯一の人間だよ」
ニヤリと笑うその顔は悪魔的な嘲笑を含んでいた。その笑顔が反則だ。先程から冷静を装っていた心臓が余計に跳ね上がる。なあ、といつのまにかカインが耳元に息を吹きかける様にそっと囁いた。
「…まだ、俺を好きか?」
「…な」
「俺は、あの日以来血を飲んでない。ルナ、お前の血が欲しい。血だけじゃないお前のその唇も、心も、何もかもが俺は欲しくて堪らないんだ。お前のその白い喉元に喰らいついて、何もかも奪ってしまいたい」
「貴方に全部あげられる程、私はないわ」
「お前がそう言っても、奪ってやる」
相変わらずこちらが恥ずかしくなる事をさらりと言ってのける。赤くなった顔をおもわず隠し、顔をそむけた。隠すなよ、という声で顎を掴まれ、軽く元に戻された。カインの顔が近くになる。その病的なまでの白い肌に、その声に瞳に淡く性欲すら煽られる。アンナとのキスのシーンを思い出しても尚、彼に支配されかかる自分に軽く絶望を覚えたくなった。他の女が貪った唇、自分を染め上げた唇。真っ赤な月の様に弓になると、残念そうに囁いた。
「今はしない…しかし」
無防備になっていた唇に再び冷たく柔らかな感触が当たったかと思うと、今度はとろりとした液体が唇の間から入りこんで飲みこまざるを得なかった。それが喉に絡みつきながら通り過ぎていくと、唇を離された時に身体を折り曲げて激しくむせ込んだ。
「けほ…今の…」
「俺の血だ。今のルナは精気が足りていない」
「そんなのほっとけば治る…!」
「嘘をつけ、思えばさっきも結局倒れたんだぞ。気が付いてなかったのか? 今も軽くふらふらしているくせに」
「人間にとって血なんて慣れないんだから!」
「俺の物なら慣れているだろう。文句は言わせない」
前髪をくしゃりとかき乱され、近づいたそのアメシストの瞳がギラリと輝く。真面目な表情で見つめてくるその瞳、その輝きに魅入られ、冷静さを欠かれてしまって困る。自分は化物ならなんでもいいんだろうか。そうじゃない、彼を、彼だけを今は欲している。どんな女も魅了するその唇、その声、その美貌の化物に、自分は喰われたがっている。まるで突き放した様な視線が横目でこちらを見据えた。
「…どこでその精気を失くしてきたまでは聞かないが、な」
―時期がくれば、分かるだろう。
その刺さらんばかりの言葉にぐっ、と喉まで出かかった言葉が詰まる。互いの間にしばらく沈黙が続いた後、仕方ない、と言う風にため息をついたのはカインの方だった。
「帰るんだろう」
いつの間にか彼を許してしまっている自分に、自分自身が呆れている。でもこっちだってそんな怒れる立場じゃない。血にまみれた世界で、血を浴びて生き続けた己の業。それを思うと彼をどうしても許してしまう。そんな彼はこうして最後まで突き詰めて聞かず甘やかしてくれる、それにいつも甘えてしまっている。その温かさを、その思いを、いつでも人の思いを踏みにじって汚れた血の上を歩いてきた。ただ呆れて、罪悪感を抱えて、それでもまだこれからもそれに甘えていくんだろう。
いつかこの気持ちにけりはつくんだろうか。
分からなかった。
頭では拒んでいても身体は欲してしまう程の感情は、果たして愛と呼べるのか。人間は欲の塊だから、それ故に悩んでしまうのではないか。そんな感じで書きました。