19.彼女の騎士
暗い闇は怖い。
でも暗い闇は、自分にとって有益な事もある。
全てを隠してくれるから。嫌な事、自分、そしてこの胸の内にある思いすらも。
現場から離れた林、深淵のその闇の中、息を吸い込んで冷たさの緩んできた夜気を取り入れると、ルナはポケットからそっと携帯を取り出した。
今までの現場からも、そして先程の現場からもさして手掛かりを得られていない今、最後のツールとして彼を呼びだそうと思っていた。パカリ、と開き、電話番号をプッシュする。コール音が5回なった所で、低いバリトンが耳朶を緩やかに染めていく。
『そろそろ来る頃だと思っていた』
開口一番そう言った顔の見えない相手に思わずニッコリと笑ってルナはクスクスと声を上げた。
「貴方には叶わないわ」
『で、ルナ。今度の事件についてか?』
何とまあ、何もかもお見通しの様だ。一旦目を丸く見開き、そしてまたしても口元に笑みが浮かんだ。
「ええ。それが分かれば、一歩進めると思うの」
『分かってる、愛らしいルナ。お前の為にならなんでも調べてやるぜ、俺のプリンセス。さあそれを教えろよ』
誘う様なその声音はその耳朶をどろりと甘く浸食していく。ルナは笑みを消し冷静に告げた。
「被害者たちの共通点。一点何のかかわりもない被害者の、唯一の一致を見つけたい」
ほう、と電話口で深いため息をつく音が聞こえた。
『そうか、普通の方法では調べ尽くした。なら、普通ではないものだ。それが一致点に違いねえ。お前はそう思っているんだな?』
さらさらとこちらの思う事を離してくれる彼に、ルナは笑みが止まらなかった。
「そうよ、フォリ・ア・ドゥ。私の騎士さま」
機嫌を良くしたのか、電話口の相手はククク、という笑い声と共にその低音をやんわりと響かせるのだった。
『嗚呼分かったぜ、ルナ。三日貰えるか? そしたらあの人狼の喫茶店で会おう。俺の狂気で必ずお前を喜ばせてやるよ』
言い終えた瞬間に電話が切れ、ぱちりと携帯を閉じる。見上げた深淵の闇を見上げると、上空にはいつのまにか青白い月が姿を現していた。
月を見ると皆狂いだすというが、それは人間にも言えるのかもしれない。頭の中の意識がぼうとしてしまうような感覚。
「……私も…」
狂い始めている、と言う言葉までは口に出せず、自分の中で溶けて消えた。ふと現れた気配にルナはふと顔をそちらに向けた。
「誰?」
ザザザザザザザッ!
林の奥の方から木々の葉を裂く音が聞こえてくる音。誰か来る!
身構えて身体の全身の細胞を震わせて感覚を鋭く尖らせる。全身の皮膚がビリビリと震えだす。圧倒的な、負のオーラ。そしてプレッシャーが皮膚に当たり、飛び散っていく。
「覚悟しナ!」
ザアアア!!! と木々の間からまるで槍の様に鋭い爪を携えた影が三つ一斉に飛び出してきた。
「お前たちは!」
次の瞬間ルナがいた地面は大きな刃物で抉られた跡が残っている。息を堪えて次に来る攻撃を間一発で避け、腰に下げていた拳銃を取り出して構えた。幸いとこちらは常に異種の相手をしているお陰で銀の銃弾には事欠かない。確認の間もなく指が動くと、拳銃が激しい轟音を立てて銃弾を放つ。
「ガッ…!」
呻き声の後、質量のあるものがドサリと草むらに落ちた。何匹か居たようだから、おそらく一匹に当たったのだろう。クソッ! という悪態、その物陰からさらなる黒い物体が風を切って飛びかかってくる。細胞がフルに活動してもこれでは間に合わない!
「そのまま動かないで」
耳元に凛とした声が聞こえたのはそう感じた時だった。
―刹那。
林の木の陰から姿を現した影が相手にガキン! と音を立ててぶつかっていく。暗がりではその姿ははっきりしないとはいえ、残像のようなものはかろうじて見えている。
ガキイイイイイン!!!!
月夜の森林の中、二つの影がぶつかりあい、そして地面に着地した。木々の間から零れる月光は一つの姿を映し出す―
まず見えたのは、その昔ニホンが作りだした長身の細い刃だ。日本刀と呼ばれるもの。美しい切っ先が夜闇の中にキラリと一線の光を放った。そして映し出されたのは、オリーブ色の瞳だ。その瞳の色を捉え、思わずルナは目を丸くして見つめ返した。
「セイル…?」
ベージュのVネックカットソーの上から黒のジップパーカー、黒のシューカットカーゴパンツ、ダークブラウンのレースアップブーツ。襟足の短めなエアリーウルフカットの髪は風になびいている。セイルはルナをちらりとも見ず、ただ切っ先を向けた相手を冷たく見下ろすと氷の様な声で彼らに告げた。
「この方に牙を向けようとはお前たち、我が王の管理下には置かれぬ者たちだな」
ふと違和感に前を見上げると息苦しい血の匂いが流れ込んできていた。先程自分の撃った弾のせいだろう。人間とも異種ともいえぬどろりと生臭く、鼻をつく匂い。
「我が同胞を穢す愚かな人間をなぜあの爺は護る!? ましてこの女は能力者…異種からも人間からも離れた、穢れた化け物だ!」
「口を慎むがいい。愚かなのは貴様らだ。これ以上この方に牙を向けると言うならば、我が王、ヴィネに代わりこのセイル・ヴォルディが粛清する。死ぬ覚悟あらば、その首さっさと差し出せ」
「ぐっ!!」
首筋に向けられた切っ先はついとそこをなぞり、血の筋を作らせた。見た事のない彼の表情にルナは声が出せなかった。しばしの間の後吐き出す様につかれた悪態が響き渡り、襲撃者の影は空気を凪いで消え去っていった。それを見届けた後ようやく口が回るようになり、ゆっくりとセイルを見つめ、口を開く。
「どうして貴方が…」
その瞳が反らす事もなくこちらを見つめて歩み寄ってくる。足元もさせぬその様は正に草原を歩んでくる獣の雰囲気を漂わせていた。やがて自分の近くまでやってきて歩みを止めた彼は、すっと自分の事を見下ろした。
「……本当は止められていたけれど……貴女がどうしても心配だったから」
「何故…」
月明かりを背後に、セイルの瞳が一層に輝きを増す。その眉を緩く歪め、苦しそうにこちらを見つめてくるそのオリーブの瞳に思わず取り込まれそうになる。
「深淵の闇に取り込まれそうだった……」
そしてセイルはそっと顔を反らし、先程の自分と同じように上空を見上げた。その上にある月を見つめる。
「月に狂わされるのはどの異種も同じ。俺達もそうです。狂い狂わされる……」
見下ろしてきたオリーブの瞳がじっとこちらを覗き込む。思わず近づいた距離に驚きが隠せず、身体を引いてしまった。途端に背中に手が当たる。セイルの手だった。
「俺を恐れないで」
染み透るような切なさにあふれた声が、夜の夜気に溶けていく。
「何が起こっても自我を失ってはダメですよ、ルナ。俺は貴女をいつも護っている。何があっても、貴女を支えます」
「セイル……?」
言っている事が分からずに彼の名を反芻する。瞬きをした次の瞬間には、セイルの姿はまるで自分の幻のように跡形もなく消え去っていた。
セイルの髪型はソフトなウルフカットって感じて。別に狼だからそう決めたわけではないです。決めてから気がつきました。