9.I BENANDANTI(アイ・ベナンダンディ)
入口まで戻ってくると、なんだか外が騒がしい。夜だから人通りも少ないし、犯人もそう遠くまで逃げていないと思ったけれど妖しい人物は発見されなかったとのちの報告で知らされた。すぐに殺して逃げた? どうやって? あの悲鳴の後すぐに封鎖命令を出したはずだ。どうやって? 魔女の様にそれこそ空を飛んで行ったとでもいうのか?
考えながら下りていくと、出口のkeep outのテープ越しに警官と誰かが言い争いをしている。
もう! これだから厄介なのは嫌いなのに!
「何をしているの?」
少々とげのある言い方になってしまったが、ややあってその仲裁に割って入ると、どうやら警官と女性が言い争っているようだった。途端女性の方が警官に向けていた視線をばっとこちらに向ける。ハッとするようなアクアマリンの瞳だった。すらりとした立ち姿、黒髪のミディアムロングを揺らし、綺麗な顔は怒りの為か上気している。
「ねえ、貴女偉い人? ちょっとこの石頭どけて話を聞いてくれない?」
「いしあ…アンタねえ!」
カッとなった制服警官が慌てて彼女を入れまいとガードすると、ちょっと! と彼女が対抗するようにテープと警官越しに身を乗り出してくる。ルナはその眼の前に立ち、訝しげに彼女に問いを投げた。
「貴女は?」
「…そっちの大学群の非常勤の先生よ。気になる事があったのでこちらに来てみたの。ねえ、人が死んでいるんでしょ?」
「…貴女。名前は?」
「アンナ・ロッサ。ねえ変な気配がするの。ヘクセの匂い…」
「ルナ?」
ルナの後から続けて出てきたカインとヴィオがこちらを見て、カインが彼女を視界に入れると同時に驚愕に目を見開いた。その先を追ったアンナがぱあ、と顔を輝かせる。どういう事?
「カイン!」
「お前は…ロッサか?」
「!?」
カインが眉を潜め、確かめるように彼女に問いかける。そうよ、と返して言う彼女の顔が更に綻ぶと、途端に胸の中に黒々としたものが立ち込めてくるのが分かった。もやもやする。二人の間に立ちふさがるようにして、彼らを精一杯の殺意を込めてギロリと睨みあげた。
「色々と話を聞かせてもらいましょうか、アンナ。カインもよ。とりあえず私のオフィスでクソ不味いコーヒーでもいかがかしら?」
◇ ◇ ◇
いろいろと不愉快だ。そう、色々と。ルナはオフィスのチェアに腰掛け、コーヒーかすから絞りとった案の定クソ不味いコーヒーを一口すすった。そして向かいのローソファで自分とはうって変わって美味しそうにコーヒーを飲み込むアンナを、そして自分の隣側でガシガシと頭を掻くカインを見つめた。窓辺できまずい空気を察したか、自分は知らぬ存ぜぬを決め込んでいるヴィオは事件ファイルの同じページを丹念に見返していた。
まあいいわ。
コーヒーをデスクに置いて、自覚はしていたが、ルナはぶすっとした態度で口を開いた。
「貴女は何者なの?」
アンナは上品にソファの前のローデスクにマグカップを置き、歌う様に答えて言った。
「私? 私はただの講師よ?」
「とぼけないでハニー。ただの非常勤講師がどうしてオフレコの情報を、たったいま起こったばかりの事件をかぎつけたの? そして何故機密扱いのカインの名前を知っているの?」
「カン、カンよ。ダーリン。そんな嫉妬しなくていいじゃない。かわいいわねぇ…」
「ロッサ!」
やがて堪えられなくなったとでもいう様にカインがイスから音を立てて立ち上がった。ちらりと視線をやれば珍しく動揺しているのが見える。そんな様子にさらに嫉妬心をかき立てられて、拍子に壁がピシリ! と音を立てて裂けた。それを至極おもしろそうに見ながらアンナはコーヒーをまた一つ口にした。冷静になれ、何回も繰り返して冷静さを取り戻すとコーヒーを含んで飲み込む。
「……カイン。彼女は何者なの」
カインがふう、と疲れたようなため息をこぼすと、イスに座りなおし、足を投げ出してから口を開いた。
「彼女は…」
「ベナンダンディよ」
割って入る様にアンナがさらっと己の正体を口にしてカインがおい、と不機嫌そうに彼女を睨み付けた。アンナはそんなカインの視線も気にせず面白そうに受け流しているだけだ。
「そうだろうと思った」
次にそう言ったのは、窓辺でファイルを見ていたヴィオだった。手にしたそれをパタンと閉じ、眉を潜めて嫌悪感…もとい殺意丸出しの視線でアンナを見やる。そんなヴィオをあら、と見て、アンナは人差し指を唇に当ててクスリと声をあげた。
「そうね、貴方は分かるわよね。ベナンダンディは貴方の片親、魔女の宿敵ですもんね」
「……気分悪いな、ベナンダンディ」
じりじりと二人がいがみあい始めかけたところでルナは慌ててやめて、と言葉で遮って止めに入った。こんな所で他人同時がいがみあってもらっても困る。まずこの場で聞きたい事があるのは自分なのに。
「ねえ、貴方達で分かりあっていても困るわ。ベナンダンディって一体何者なの?」
あら、とアンナが意外そうな顔をしてこちらを見ると、ちょっと苦笑してごめんなさいね、と謝ってからコーヒーカップを置いた。少しバカにされた気がしないでもないが、まあ気にしないでおく。勿論今・は・だ。
「ベナンダンディというのは、信仰を持ち、夜中に身体から魂を飛ばし、動物に乗って草原の集会に集い、トウモロコシの枝やウイキョウの枝で魔女たちと戦う者の事なの。魔女に勝ったらその年は豊作になったともいわれているわ。まあ、ざっくり言うと魔女退治の専門家ね」
「その割には魔女と似た様な事をするのね。その…夜中に抜け出て集会に行ったりとか…」
その言葉にアンナはむう、と頬を膨らませて不貞腐れた。
「皆そう言うのよね。何度も言うのはホントに面倒なんだけれど…良い? ベナンダンディはあくまで信仰者よ。人を術で殺したりしない。それだけは知っておいて」
そう言って彼女は自分の首元に手を差し入れると、細いチェーンに付けられた信仰の証のネックレスを取り出して見せてくれた。なるほど、純銀製のものだ。だがそれだけでは信頼に値するものでもない。純銀は付けようと思えは付けられる。すると傍らのヴィオが吐き捨てるように突っかかった。
「しかしそれで異端審問では魔女と混同され、ベナンダンディも多く処刑されたよな。今回の事件もすぐに現場に来た事といい、関係あるんじゃないのかベナンダンディ」
「ちょっと! 酷い言いがかりよ魔女!」
「アンナ、黙れ」
言い争いになりかけていたその時、カインの低い声が響き渡りピリリと鼓膜を震わせた。その声音にさすがに二人も委縮して身体を固めたようだった。カインは投げ出していた足を今度はゆっくり組み、閉じていた瞳を持ち上げる。
「アンナ。会うのは久しぶりだな」
「…ええ、そうね。吸血鬼狩りがさかんだった頃に会った位?」
「あの時お前は診療所の医師だった」
「……そうね。人間に追われて大けがをした貴方を手当てしたのが始めかしら」
「……?」
驚愕に目を見開いていると、アンナはそのすらっとした足をゆっくりと組んでこちらを見つめた。そのほっそりとした唇を弓状に吊り上げて笑う。
「そう。私は意外と年よりなの。ちょっとイケない魔法を使ったら死ねなくなっちゃってね。そんな時、人間に襲われて瀕死の重傷を負っていた彼を拾って治療したのが彼との出会い。ヴァンパイアが瀕死ってあんまないわよね? ま、私はベナンダンディ。魔術をかけられた者を癒し、死者を垣間見る。ヴァンパイアを治療したのは初めてだったわね」
「……言うなよ」
カインが腿に肘をつき、顎に手を置いたまま苦笑してアンナを見やる。それにしては随分と親しそうだ。そう思うのは自分だけなのだろうか。
「それから半年ほど、私たちはその診療所で一緒に暮らしていた。半年ほどでまた吸血鬼狩りが酷くなったせいか貴方は消えてしまったわね」
「ああ……」
「あ、貴女の姿はじゃあ…ずっとそのままということ?」
引っ掛かりながら彼女に問いかけると、アンナは人さし指をすっと唇の前に立てて涼しげに微笑んだ。
「そうよ。今幾つかと聞かれても覚えていないの。若気の至りだったわね。でもそうじゃない?若い頃ってやたらとヤンチャしたがるの」
フフフ、とアンナは楽しそうに笑うばかりだ。なんか調子狂う。あいかわらず心の中はもやもやしっぱなしだし。底に残るのはもはやコーヒーの残骸だったけれど、勢いよくあおってみる。その苦さが舌をピリピリと痛めつけた。
「ねえ、ルナ―ルナと呼んでもいいかしら。へクセー魔女の事ね。魔女たちの事ならなんでも聞いて頂戴。もしかしたら事件の助けになるかもしれないから」
「……そうね。考えておく。今日はありがとう、ミス・ロッサ」
「アンナでいいわ、ルナ。よろしくね。そろそろおいとましましょう」
彼女はそのまま立ち上がり、戸口であ、そうだと思いついたようにこちらを振り返る。
「じゃあね…またお会いしましょ?月の女神」
「…俺が送って来よう」
「……お願い」
そしてそのままシュン、という電子音と共に戸口が閉じられる。彼女の姿が見えなくなった瞬間、身体に溜めこんでいた息が肺の中から残らず零れた。先程の彼女の凛とした涼やかな視線は最後までカインに向いていた事を気がつかない訳がなかった。二人はきっと廊下で話しているのだろう。その詳細を、カインは教えてと言えば教えてくれるかもしれない。でも聞きたくはなかった。先ほどから頭痛が酷い。話を終わらせたのも半分この頭痛のせいだった。能力は使っていないのに、なんでだろう。あまりの痛みに目尻に涙が溜まっていく。
「……ルナ? 大丈夫?」
「……うん」
ヴィオが不安そうにこちらを覗き込んでいる。ヴィオ。思わず手を伸ばしてしまいそうな衝動をかろうじて堪え、指を手の平に握りしめて身体に抑え込む。するとそっと背に左手が添えられて、ゆっくりと上下に撫でられた。その優しい手つきに固まっていた筋肉が緩んでくる。頭痛も少し和らいだ気がする。思わず彼を見上げてしまった。頭の中で誰かが言う。ダメだ。彼に寄りかかってはダメだ。優しい声が風の様にそっとたしなめた。
「……異種研に行って、ないんだね」
「…なんの…こと? …」
「とぼけないで。頭痛、酷いんでしょ。頻繁なんじゃないの」
ヴィオはそう言ってぐい、と肩を抱いた。彼の胸の中で抱きしめられている状態にどきん、と心臓が一つ大きく跳ねる。
「ソファに座ろう」
その状態でそこまで連れていかれると、そっと慈しむようにソファに降ろされた。そしてヴィオ自身は自分の前に膝をつくと、両腕を掴んで上目づかいにこちらを見上げた。その灰色にラピスラズリを混ぜ合わせた様な色は今深く濁って、哀しげだった。そのまま数十秒見つめた後、ヴィオは再度ゆっくりと唇を開いた。
「…俺じゃ…頼りにならない?」
「ヴィオ…」
スル、と手が伸びて、手首をそっと撫であげていく。生ぬるい温度が皮膚を通してじん、と伝わってきて、身体の中に入ってくる。優しく、優しく。腕を持ち上げられ、指先にヴィオの唇の柔らかな感触が当たった、と思った。ぐら…意識がだんだんと薄れて、霞がかっていく。
視界までも霞んで、最後にぼやけた姿のヴィオが哀しげに呟くのが遠くで聞こえた。
「ヴィ…オ…」
そう言ってゆっくりと目を閉じた彼女をヴィオはそのままそっとソファに横たえた。あまりの鎮痛な姿に耐え切れず思わず術を使ってしまった。弱っている人間に少しだけ自分の精気を吹き込むと眠らせる事の出来る自分流の催眠術。あまり使う事はなかったけれど。
彼女のゆるやかに波打った髪をそっと撫ぜる。涙の痕が残る頬をそっと拭って、唇に押し付けた。口の中に彼女の涙の味が緩やかに広がる。
何故自分を頼らない。何故自分に寄りかからない。そうすれば楽になるのに、そうすればいくらでも愛して慈しんでいくらでも優しくしてやれる。何故彼女は、こうも自分が傷つく方へ進んで行くのだろう。切なさとどうにもならないむなしさで胸がいっぱいになる。
「…俺にとっては誰が死のうがどうでもいい。…君が生きて笑ってくれさえすれば俺にとっては祖先の因果すら関係ない。ルナ…君が傍に居て、俺だけを見てくれればいいのに…」
眠る彼女の手を取って、まるで祈る様に彼女の身体に触れぬ様ソファの縁に額をつける。切ない、むなしい。悲しい。愛おしいのに、振り向いてくれない事が悔しい。今の自分には、そうしてうなだれる事しか出来なかった。
ベナンダンディは魔術師の類だと思って頂ければいいです。ここに出てくるのは史実と自分のオリジナル要素を加えた彼女ですので、全てが史実通りとは限りません。ご了承ください。
ヴィオ=クエイルードのクエイルードには「睡眠薬」という意味があるので彼にそんな役割をさせてみました。