プロローグ
もうすでに辺りには誰もいなくなっていたが、彼女はそこに立ち尽くしていた。十字架
をかたどった石の前に。隣にも似たような石が立っており、いや、隣だけではなくそこに
は前も後ろも石の列がびっしりと並んでおり、周りはそういう石ばかりの景色だった。
そこは墓地だった。
こう同じような形の墓石ばかりでは、どれが自分の求める墓石なのか判らなくなってし
まうのではないか、と彼女は思ったが、すぐにそんな思いは思考の隅に行ってしまった。
彼女――――少なくとも、見た目は若い女だった―――――はもはや彼が生きていな
いことは充分理解していたから、ここに来たところで彼が蘇る訳ではないことも知ってい
たから、きっともうここには来ないだろう。だから、どれが彼の墓なのか判らなくなって
も何の問題もない。
彼女の薄い茶色の前髪は真ん中から分けられ、額にぽつりとほくろのような印があった。
それは『チャクラ』と呼ばれるもので、外見では人間なのかオートマタンなのか区別がつ
きにくいため、オートマタンの額に付けることを法律で義務付けられているものだ。
そう、彼女はオートマタンだった。
5年ほど前の型で、美人系の外見が人気の大量生産物だったが、所有者の彼が髪の色
や目の色、多少のプロポーションをカスタマイズしたのだった。
彼はもう老人と言ってもいい歳で、金は貯めていたが結婚もしておらず、身内と呼べる
ものは誰もいない人だった。それゆえに、老後という現実に至って、侍従用のオートマタ
ンを購入することにしたのだろう。
今までは都会のマンションに住んでいたが、仕事を退職してからは海が見える高台の別
荘に移った。特別豪華で広いというわけではなかったが、明るい陽の入る庭があり、一人
で住むには充分な広さの、居心地のいい家だった。
彼は彼女を侍従用、つまり身の回りの世話をさせるつもりで購入したが、結局自分でで
きることは自分でし、最低限の用しか彼女に頼らなかったし、時に所有者の中の誰かがす
るような、彼女を物のように扱ったり変態的な性癖のはけ口にするようなことは決してし
なかった。むしろ彼女を娘や孫のように扱っており、今まで自分になかった家庭というも
のを今味わっているようだった。
彼女はそんな彼との生活に満足していた。晴れた日に彼が庭でお茶を飲んだりする時に
は、自分も一緒にお茶を飲めたら良いのに、と何度も思ったりした。夜本を読みながら眠
りにつく彼を傍らで見守っている時は、自然と微笑んでいた。
彼はいい所有者だったと思う。オートマタンである彼女に、人に対する優先順位は設定
できても『好み』などという好き嫌いはないはずなのだが、彼女は他の人間より彼のこと
は好きだと感じていた。
だが―――――数日前、彼は急な発作で倒れ、そのまま亡くなってしまった。
彼女はショックを受けたのだ、と自分で思う。元々感情表現が発達した型でもないし、
性格も大人しいタイプに設定されていたから傍目には判りにくいだろう。もしかしたら急
に所有者を失って目的がなくなり、一時的に電脳が混乱しているだけだと見られたのかも
しれない。しかし、彼女はそれ以来笑えなくなっていた。オートマタンなら感情に左右さ
れることなく、プログラムでいくらでも笑えるはずなのに。
それから人々は彼を火葬するために必要なことをやり、彼女もそれに従った。そしてさ
っき彼は、彼の骨はここに埋葬され、少なくはあったが彼のために集まってくれた彼の知
り合いや近所の人が帰って行った。
でも彼女は、彼がもういないことを知りつつも、まだ離れがたいのか、それとも離れる
踏ん切りをつけるためのきっかけを待っているのか、ピクリとも動かずに彼の墓を見下ろ
したまま、立ち尽くしているのだった。
そんな彼女を見ているひとつの影があった。
墓地の端から、白い髪の長い、すらりとした背の高い女が、彼女を見ていた。
彼女はもう所有者を失ってしまった。普通ならオートマタンの彼女は遺族に遺産のひと
つとして受け渡される物だが、彼に親戚などはいない。そうなると、彼女はおそらくメー
カーなりリサイクル業者なりに引き取られ、電脳を初期化、再設定されて新しい所有者に
売られるのだろう。
そう考えると、彼女の心は沈んだ。新しい所有者の所に行く自分を想像できない。
彼のことを忘れてしまうなんて。電脳を初期化されれば、簡単に彼のことを忘れてしま
うなんて。彼のことを忘れ、彼が付けた名前ではない名で呼ばれ、違う所有者に使われる
なんて。
そんなのは嫌だ。彼のことを忘れたくない。
「大事な人だったの?」
不意に背後から声がした。
彼女が振り向くと、白い髪の女が薄い微笑をたたえながら立っている。白い前髪のかか
る額にチャクラが透けて見えたので、この女もオートマタンらしい。目鼻立ちがはっきり
していて、緑色の瞳をした美人だ。所有者のオリジナルデザインだろう。
「ええ…、私の所有者だったの」
いくぶん警戒しながら彼女は答えた。すると、女は彼女に近付いて来て、
「彼のことを…、愛していた?」
と尋ねた。
「愛して…?」
彼女は返答に困る。彼女はオートマタンだから、所有者の望む言葉をプログラムでいく
らでも言える。だが、彼女の感情が彼を愛しているのかどうかは解らなかった。オートマ
タンには人が言うような『愛』という感情を本当には理解できないはずだからだ。
だから、彼女は正直に言う。
「判りません…。でも、彼のことは好き、だったと思います…。でもこれもプログラムか
も」
彼女にとっては自分の感情すらプログラムだと言われれば、何が本当なのか分からない。
いや、全て作られたものなのなら、本当のことなどないのかもしれない。
白い髪の女は微笑んだままだ。しかしそれは彼女のことをからかっているとかいうふう
ではなく、どこか心の奥を見透かすような、全てを理解しているかのような微笑だった。
「彼が死んでしまったら、あなたは他の所有者の所に送られる。それでも平気?」
彼女はピク、と目を上げる。
その反応を見て、白い髪の女は続けた。
「それは嫌なのね?この所有者以外に、あなたの所有者はありえない」
「…そう、思います」
自分の気持ちを噛みしめるように彼女が答える。それを聞いて白い髪の女は満足そうに
うなずいた。
「解るわ。私も同じ。たった一人の所有者を愛しているの」
「あなたも…?」
「そう。私は、私達のような仲間を探しているの」
「私達のような、仲間…?」
彼女にその言葉の意味は量りかねた。彼女の質問がおかしかったかのように、白い髪の
女がさらに笑みを大きくする。
「そう。私達のように、誰かを愛してしまったオートマタンのことよ」
彼女は驚いた。そんな仲間が何体もいるものなのだろうか。それに、オートマタンが本
当に誰かを好きかだなんてどうやって証明できるというのだろう。そもそも人間だって、
『愛』というものは本人にしか解らないものだ。
そんな彼女の疑問を見抜いているのか、白い髪の女は
「大丈夫、私には判るの。あなたを見つけたようにね」
と言った。
「あなたが私のことを信じようと信じまいと、このままではあなたはどこかに引き取られ
て行くだけよ。そして電脳を初期化され、また違う人間の所に行く。もしくは廃棄される
かね」
その言葉に、彼女は現実を突きつけられた気がした。廃棄されるのは怖くない。むしろ
廃棄されれば、このオートマタンの身でも彼と同じ所に行けるのではないかという気さえ
していた。彼女にとって本当に怖いのは、彼以外の人間に仕えることだった。
「どうする?私と一緒に来る?」
彼女は呆然と白い髪の女を見つめていたが、やがて決心する。
「…行くわ」
白い髪の女は再び微笑んだ。
「ようこそ。私の名前は、デュエナ」