タイトル未定2026/03/05 00:00
夜は、記憶のかたちをしている。
私にとって夜とは、暗闇ではない。
彼女が生きていた時間の残骸であり、
彼女を失った瞬間から、何一つ更新されていない世界だ。
私は吸血鬼だ。
名はもう持たない。
かつて何度も呼ばれ、何度も捨ててきたが、
彼女が最後に呼んだ声だけが、今も耳の奥に残っている。
それだけで、十分だった。
永遠を生きるというのは、
終わらない祝福ではない。
終わることを許されない、という刑罰に近い。
季節は巡るが、私は進まない。
人々は老い、忘れ、次の愛へと移ろうが、
私の時間は、彼女が微笑んだその瞬間で凍りついたままだ。
彼女と出会った夜、私は血に飢えていた。
飢えは常にある。
それは渇きであり、衝動であり、
生きているという事実そのものだった。
だが彼女を見たとき、
その渇きは別の名前に変わった。
教会の裏庭。
崩れかけた石像と、夜に咲く白い花。
彼女は膝をつき、
迷い込んだ猫に話しかけていた。
まるで、人間以外のものにも心があると信じているような声だった。
「こんな時間に、どうしたの?」
私に向けられたその言葉は、
恐怖も警戒も含んでいなかった。
ただの問いだった。
世界に対する、優しい問い。
私は嘘をついた。
旅人だと。
夜しか歩けない理由も、
この身体の冷たさも、
すべて月のせいにした。
彼女はそれを信じた。
あるいは、信じるふりをしたのかもしれない。
人間は時に、真実よりも穏やかな嘘を選ぶ。
彼女は、そういう人だった。
それから、幾つもの夜を共にした。
夜の市場、誰もいない橋、
閉店後の小さな書店。
彼女はよく話し、よく笑い、
世界の些細な出来事を宝物のように抱えていた。
私は聞き役に徹した。
語れば、正体が滲み出る気がしたから。
だが彼女は言った。
「あなたは、話さなくても寂しそうね」と。
見透かされていると思った。
同時に、救われているとも感じた。
この永遠の孤独を、
一瞬でも共有できる存在がいるという奇跡に。
彼女は朝が好きだった。
私は夜しか生きられない。
それでも彼女は、
「違う時間を生きているからこそ、一緒にいられるのかも」と言った。
愚かな希望だった。
だが、美しい幻想でもあった。
私は彼女を吸血鬼にしなかった。
何度も、その選択肢は喉元までせり上がった。
彼女の血は甘く、
心臓の音は、私を呼んでいた。
だが彼女の有限さこそが、
彼女を彼女たらしめていた。
永遠に閉じ込めることは、
愛ではない。
少なくとも、私はそう信じたかった。
彼女は弱っていった。
最初は、少し疲れやすくなっただけだった。
次に、朝の光を眩しがるようになり、
最後には、息をするたび胸を押さえるようになった。
私は気づいていた。
この人間の身体が、静かに終わりへ向かっていることを。
それでも、何もできなかった。
不死であることは、万能ではない。
ただ、失わない代わりに、救えないだけだ。
彼女が倒れたのは、
彼女の好きだった季節の変わり目だった。
窓から差し込む朝の光が、
彼女の肌を透かしていた。
私は彼女を抱いた。
この腕で、何百人もの命を奪ってきたというのに、
たった一人の命を繋ぎ止めることはできなかった。
「怖くないわ」
彼女はそう言った。
それが嘘であることくらい、私にはわかった。
だが、嘘でもいいと思った。
彼女が最後に選んだ言葉なら。
その後、彼女の血の音は呆気なく止まり、
体温が、世界から離れていった。
私は叫ばなかった。
涙も流れなかった。
ただ、世界から遠のいた。
彼女を失ったあと、
私は長い間、夜を彷徨った。
血を飲むことも、眠ることも忘れた。
不死の身体は、それでも壊れなかった。
墓の前に立つたび、
私は彼女に話しかけた。
今日見た月のこと、
変わってしまった街のこと、
彼女がいない世界のこと。
返事はない。
だが、夜風が答えるように吹いた。
時代は進んだ。
服装が変わり、
言葉が変わり、
人々の祈り方も変わった。
それでも、彼女は私の中で変わらなかった。
若く、脆く、
朝を愛したまま。
私は何度も、忘れようとした。
忘れることが、彼女への供養だと思ったこともある。
だが、忘れるという行為は、
彼女をもう一度殺すことのように感じられた。
だから私は、覚えている。
彼女の声、歩き方、
笑ったときにできる小さな息。
夜明け前、私はいつも同じ屋根に立つ。
太陽が昇る直前、
世界が一瞬だけ静止する、その刹那。
その瞬間、
彼女が隣にいる気がする。
何も言わず、ただ同じ空を見ている気が。
太陽が昇れば、私は消える。
影に逃げ、
また次の夜を待つ。
それでいい。
彼女のいない永遠でも、
彼女を想える限り、私は生きている。
不死とは、祝福ではない。
愛を失っても、終われないこと。
それでも、
彼女を愛した記憶がある限り、
この永遠は、完全な闇ではない。
今日も夜が来る。
私は彼女の名前を、
誰にも聞こえない声で呼ぶ。
それが、
永遠を生きる吸血鬼の、
終わらない懺悔だ。




