ありがとう
幼い頃、“ありがとう”を言えないと叱られ続けたトラウマで、蘭は今も感謝を口にすると恐怖が走る。
社会人になった今は、仕事だけを淡々とこなす日々。
隣部署の後輩・海斗は自然に優しく接してくれるが、蘭はうまく返せない。
会社の飲み会で同じ卓になり、先輩に料理を取ってもらった瞬間、蘭は恐怖で声が出ず、思わず拒むような反応をしてしまう。
海斗はその異常な反応に、蘭が何か抱えていると察し始める──。
午前六時のアラームが鳴った。
蘭は布団の中で目を開けるより前に、まず胸のあたりが重くなるのを感じる。
夢を見ていた。
嫌な夢だった。
けれど詳細は思い出せない。
思い出せなくても、朝の憂鬱はその夢の余韻に確かに染まっていた。
ゆっくり起き上がり、何度も深呼吸する。
呼吸が浅い。心臓が早い。
でも、起きなければいけない。会社がある。
顔を洗い、髪を手早く整え、薄い化粧をした。
鏡には、眠ったような眠っていないような、曖昧な表情の蘭が映っている。
「……また一日が始まる」
独り言は小さく、誰にも拾われない。
言えない言葉。
胸を刺す記憶。
説明できない苦しさ。
“ありがとう”。
そのたった五文字が、蘭にとって世界で一番重たい。
(言わなくても仕事はできる。私の人生はもうこれでいい)
そう思ってしまいたかった。
でも、そう思うたび胸の奥がひどく痛んだ。
□
広告会社の庶務課。
無難な仕事、無難な人間関係。
蘭は人と大きく関わらず、問題を起こさないように息を潜めている。
「蘭ちゃん、この資料ありがとうね! ほんと助かった!」
明るい先輩の声。
(来た……)
蘭は喉の奥に冷たいものが張り付くのを感じる。
「……いえ、大したことしてません」
笑顔はきれいに作れる。
でも喉は固まって、どうしても“ありがとう”に関連する言葉が出ない。
本当なら
「こちらこそありがとうございます」
と返すべきなのに。
(無理……無理)
胸の奥がざわつき、呼吸が少し早くなる。
先輩は気づかず去っていき、蘭はそっと机に手を置いた。
(また、逃げた)
その瞬間、背後から声がした。
「蘭さん、お疲れさまです」
朝倉海斗。
隣の部署の後輩で、爽やかで仕事が早く、誰からも好かれている。
「あ……お疲れさま」
蘭は自然と声が柔らかくなる。
「今の資料、蘭さんが仕上げたんですか? すごく綺麗でした」
「えっ……そう?」
「はい。文字の位置とか見やすくて。僕、勉強になりました」
海斗の言葉には、社交辞令ぽさがない。
感謝してくれているのが分かる。
なのに──
「……どういたしまして」
本心では“ありがとう”と言ってくれて嬉しいのに、
自分からは絶対に言えない。
(本当、私って……)
蘭は胸の奥に、黒い染みのような自己嫌悪を感じながら微笑んだ。
□
数週間後、繁忙期が一区切りついたことを祝い、部署合同の飲み会が開かれた。
蘭はできれば行きたくなかったが、断る理由も思いつかず参加した。
居酒屋の宴会場は人が多く、空気も熱気も重たい。
蘭は端の席に座ろうとしたが、席替えで海斗と同じ卓に回される。
(……緊張する)
周囲の人々がワイワイ騒ぎ、注文が飛び交い、笑い声が響く。
蘭は笑顔を作るのに必死だった。
「蘭さん、飲めます?」
海斗が気遣うように声をかける。
「あ……大丈夫。少しだけ飲む」
「よかった。水も置いておきますね」
さりげなく優しい。
けれどそれが蘭には時々つらかった。
(優しくされるのが……怖い)
乾杯が始まり、テーブルの料理が次々と運ばれてくる。
その時。
「蘭ちゃん、取ってあげるよ。これ好きでしょ?」
先輩が皿を差し出す。
優しい言葉。好意。
普通なら嬉しい。
けれど──
(来ないで)
笑顔の裏で、蘭は急激な恐怖に襲われた。
「……ぁ……だ……」
「え? 蘭ちゃん?」
喉が詰まる。
声が空気に貼りついて出ない。
蘭は反射で首を横に振った。
「け、結構です……自分で取ります……」
震える声。
テーブルの空気が一瞬だけ固まる。
「え……あ、うん? ごめんね」
先輩は気まずそうに笑って戻る。
蘭の胸は痛みで裂けそうだった。
(違う……拒絶したかったわけじゃないのに……“ありがとう”って言わなきゃいけないと思った瞬間、体が……)
蘭は自分の両手が震えているのを見て、さらに深い自己嫌悪に沈んだ。
(最低……)
海斗だけがテーブルの隅で蘭を見つめていた。
心配と、違和感と
──少しの痛みを含んだ目で。
□
飲み会が終わり、駅までの道。
蘭は一人で帰ろうとしていたが、海斗に声をかけられた。
「蘭さん、一緒に帰りませんか」
「……ううん。大丈夫だから」
「でも」
「ほんとに、大丈夫」
蘭は笑って見せる。
疲れていたし、誰にも見られたくなかった。
海斗はそれ以上何も言わず、
「……気をつけて帰ってください」
そうだけ言って蘭の背中を見送った。
蘭は胸が痛くなった。
(なんで……私、あんな態度取っちゃうんだろう)
夜道。
風が冷たいはずなのに、体は熱くて震える。
(ありがとうって……言えない。言おうとするだけで、過去が頭に押し寄せて……身体が止まる)
「……やだ。思い出したくない」
それでも、記憶は勝手に蘭を引きずり始める。
□
【ありがとうを強制された日々】
蘭の母は教育熱心だった。
良い学校、良い習慣、良い躾──すべてを子どもに求めた。
「蘭、ありがとうは?人に何かしてもらったら必ずお礼を言いなさい」
「…………」
「なんで言わないの?言えるよね?」
「っ……」
幼い蘭は、言葉が出なかった。
理由は分からない。ただ喉が震えて、声が掠れて、何度も何度も“言おうとしても言えない”瞬間が続いた。
「また言えないの?!蘭!どうして?!恥ずかしいよ!」
母の声は怒りというより焦燥。
そして、期待を裏切られた痛みに満ちていた。
蘭は、泣きながら口を開けるだけ。
「……ごめんな、さい……」
「謝ればいいって問題じゃないでしょ!!」
床に響く母のヒールの音。
母の息が荒くなる。
「蘭、言ってよ。ありがとうって言ってよ。どうして産んだ子にこんな苦労させられるの」
その言葉は幼い心に深すぎる傷を残した。
(私が悪いんだ。私はダメな子なんだ。感謝もできない嫌な子なんだ)
蘭はそれ以降、“ありがとう”を言おうとすると震えるようになった。
□
ある日の夜。
母は食卓で蘭に向かって穏やかに聞いた。
「今日、先生に褒められたんでしょ? なんでありがとうって言わなかったの?」
「……こえ、が……」
「声が出ないのは理由にならないでしょ!!」
突然机が叩かれ、皿が震える。
母は泣きそうな顔で叫んだ。
「蘭、お願いだから……私を困らせないで……」
その言葉の後の沈黙が一番怖かった。
(また怒らせちゃった……私が悪いんだ……)
そうして蘭の“ありがとう”は完全に封じられた。
□
翌日、海斗は蘭と顔を合わせた。
彼女は普段通りに振る舞っている。
けれど、飲み会の時の表情が忘れられなかった。
海斗は思う。
(あの反応は……普通じゃなかった)
拒絶ではない。
嫌悪でもない。
もっと深くて、もっと痛そうな“恐怖”のような表情。
(聞いていいのかな……でも……)
海斗はずっと気になっていた。
□
数日後、仕事が終わった夕方。
蘭がコピー機の前で作業していると、静かに声がした。
「蘭さん、少し……お話いいですか?」
「え……海斗くん?」
「はい。あの……聞きたいことがあって」
蘭は胸がざわついた。
「この前の飲み会の時……蘭さん、すごくつらそうに見えたんです。嫌だったり、怖かったり……そんな表情でした」
「っ……」
蘭は視線を落とす。
「もし、言いたくなかったら言わなくて大丈夫です。でも……僕は、心配だったんです」
優しい声だった。
押し付けない。
でも、放っておけないという気持ちが滲んでいる。
蘭の心が大きく揺れた。
「……海斗くんには……関係ないよ……」
「関係あります。あなたが苦しそうなのに、何も気にしない人間にはなりたくない」
その言葉は、胸の奥の痛みに触れた。
「蘭さん……“ありがとう”を言うのが……怖いんですか?」
世界が一瞬、止まった。
蘭の心臓は激しく脈打ち、呼吸が乱れる。
「ち、違う……そんなんじゃ……」
「じゃあ……なんで泣きそうな顔したんですか?」
「……言えない……言えないの……言おうとすると、苦しくなる……」
蘭の声は震え、涙が落ちる。
「……言えないの……小さい頃から……言おうとするたびに怒られて……怖くて……今でも……言うのが……」
言葉が途切れた瞬間、海斗は一歩近づき、静かに言った。
「蘭さん」
優しく、でもまっすぐに──
「あなたのせいじゃないですよ」
たった一言で、蘭の膝が折れた。
ずっと言われたかった言葉だった。
□
「……私は……ダメな人間だから……」
「違います」
海斗の否定は早かった。
「幼い蘭さんが傷ついたから、今のあなたが言えなくなってるだけです」
蘭は泣きながら、首を振った。
「でも……言えないと……変って思われるし……社会人なのに……」
「変じゃないです。誰でもトラウマはあるし、言えない日もある」
海斗は続けた。
「僕はね……蘭さんが無理に言う“ありがとう”は、別に聞きたくありません。
自然に笑ったり、時々困った顔をしたり──
そういうあなたがいるだけで十分なんです」
蘭の目から涙が溢れた。
「……どうして……そこまで……」
「あなたが……大切だから」
心臓が跳ねた。
でも、それは恋のときめきよりももっと深い救いのように響いた。
□
外は夕暮れで、オレンジ色の光が差し込んでいた。
海斗は微笑む。
「言えなくてもいいですよ。でも……もし少しでも言いたいと思ったら、僕に向けてじゃなくていい。
空にでも、机にでも、心にでも」
蘭は胸に手を置いた。
鼓動が震えている。
(怖い……でも、言いたい、今なら……言えるかもしれない)
蘭は唇を震わせながら、海斗を見上げた。
「……かい、とくん」
「はい」
「……あの……ずっと……聞いてくれて……私の話、ちゃんと……受け止めてくれて……」
涙がぽろぽろ溢れた。
そして──
「……ありが、とう……」
喉が痛くて、胸が焼けるようだった。
でも、声は確かに出た。
海斗は穏やかに微笑んだ。
「どういたしまして」
その瞬間、蘭の中で固まっていた長い長い冬が、初めて溶けた気がした。
□
その日から、蘭は少しずつ変わった。
“ありがとう”をまだ自然に言えない。
言おうとすると苦しい日もある。
けれど──
海斗はいつも側で、急かさず、責めず、ただ見守ってくれている。
「今日も頑張ってましたね、蘭さん」
「……うん。
海斗くんも、お疲れさま」
「はは、ありがとうございます」
彼が自分に“ありがとう”と言うたび、胸が温かくなる。
(いつか……自然に言える日が来たらいいな)
そんな、未来に少し希望を持てる自分になっていた。




