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ありがとう

作者: 稲神蘭
掲載日:2025/11/16

幼い頃、“ありがとう”を言えないと叱られ続けたトラウマで、蘭は今も感謝を口にすると恐怖が走る。

社会人になった今は、仕事だけを淡々とこなす日々。


隣部署の後輩・海斗は自然に優しく接してくれるが、蘭はうまく返せない。


会社の飲み会で同じ卓になり、先輩に料理を取ってもらった瞬間、蘭は恐怖で声が出ず、思わず拒むような反応をしてしまう。

海斗はその異常な反応に、蘭が何か抱えていると察し始める──。

午前六時のアラームが鳴った。


蘭は布団の中で目を開けるより前に、まず胸のあたりが重くなるのを感じる。

夢を見ていた。

嫌な夢だった。

けれど詳細は思い出せない。


思い出せなくても、朝の憂鬱はその夢の余韻に確かに染まっていた。


ゆっくり起き上がり、何度も深呼吸する。

呼吸が浅い。心臓が早い。

でも、起きなければいけない。会社がある。


顔を洗い、髪を手早く整え、薄い化粧をした。

鏡には、眠ったような眠っていないような、曖昧な表情の蘭が映っている。


「……また一日が始まる」


独り言は小さく、誰にも拾われない。


言えない言葉。

胸を刺す記憶。

説明できない苦しさ。


“ありがとう”。


そのたった五文字が、蘭にとって世界で一番重たい。


(言わなくても仕事はできる。私の人生はもうこれでいい)


そう思ってしまいたかった。

でも、そう思うたび胸の奥がひどく痛んだ。



広告会社の庶務課。

無難な仕事、無難な人間関係。

蘭は人と大きく関わらず、問題を起こさないように息を潜めている。


「蘭ちゃん、この資料ありがとうね! ほんと助かった!」


明るい先輩の声。


(来た……)


蘭は喉の奥に冷たいものが張り付くのを感じる。


「……いえ、大したことしてません」


笑顔はきれいに作れる。

でも喉は固まって、どうしても“ありがとう”に関連する言葉が出ない。


本当なら

「こちらこそありがとうございます」

と返すべきなのに。


(無理……無理)


胸の奥がざわつき、呼吸が少し早くなる。


先輩は気づかず去っていき、蘭はそっと机に手を置いた。


(また、逃げた)


その瞬間、背後から声がした。


「蘭さん、お疲れさまです」


朝倉海斗。

隣の部署の後輩で、爽やかで仕事が早く、誰からも好かれている。


「あ……お疲れさま」


蘭は自然と声が柔らかくなる。


「今の資料、蘭さんが仕上げたんですか? すごく綺麗でした」


「えっ……そう?」


「はい。文字の位置とか見やすくて。僕、勉強になりました」


海斗の言葉には、社交辞令ぽさがない。

感謝してくれているのが分かる。


なのに──


「……どういたしまして」


本心では“ありがとう”と言ってくれて嬉しいのに、

自分からは絶対に言えない。


(本当、私って……)


蘭は胸の奥に、黒い染みのような自己嫌悪を感じながら微笑んだ。



数週間後、繁忙期が一区切りついたことを祝い、部署合同の飲み会が開かれた。

蘭はできれば行きたくなかったが、断る理由も思いつかず参加した。


居酒屋の宴会場は人が多く、空気も熱気も重たい。

蘭は端の席に座ろうとしたが、席替えで海斗と同じ卓に回される。


(……緊張する)


周囲の人々がワイワイ騒ぎ、注文が飛び交い、笑い声が響く。

蘭は笑顔を作るのに必死だった。


「蘭さん、飲めます?」


海斗が気遣うように声をかける。


「あ……大丈夫。少しだけ飲む」


「よかった。水も置いておきますね」


さりげなく優しい。

けれどそれが蘭には時々つらかった。


(優しくされるのが……怖い)


乾杯が始まり、テーブルの料理が次々と運ばれてくる。

その時。


「蘭ちゃん、取ってあげるよ。これ好きでしょ?」


先輩が皿を差し出す。

優しい言葉。好意。

普通なら嬉しい。


けれど──


(来ないで)


笑顔の裏で、蘭は急激な恐怖に襲われた。


「……ぁ……だ……」


「え? 蘭ちゃん?」


喉が詰まる。

声が空気に貼りついて出ない。


蘭は反射で首を横に振った。


「け、結構です……自分で取ります……」


震える声。

テーブルの空気が一瞬だけ固まる。


「え……あ、うん? ごめんね」


先輩は気まずそうに笑って戻る。


蘭の胸は痛みで裂けそうだった。


(違う……拒絶したかったわけじゃないのに……“ありがとう”って言わなきゃいけないと思った瞬間、体が……)


蘭は自分の両手が震えているのを見て、さらに深い自己嫌悪に沈んだ。


(最低……)


海斗だけがテーブルの隅で蘭を見つめていた。

心配と、違和感と


──少しの痛みを含んだ目で。



飲み会が終わり、駅までの道。

蘭は一人で帰ろうとしていたが、海斗に声をかけられた。


「蘭さん、一緒に帰りませんか」


「……ううん。大丈夫だから」


「でも」


「ほんとに、大丈夫」


蘭は笑って見せる。

疲れていたし、誰にも見られたくなかった。


海斗はそれ以上何も言わず、


「……気をつけて帰ってください」


そうだけ言って蘭の背中を見送った。


蘭は胸が痛くなった。


(なんで……私、あんな態度取っちゃうんだろう)


夜道。

風が冷たいはずなのに、体は熱くて震える。


(ありがとうって……言えない。言おうとするだけで、過去が頭に押し寄せて……身体が止まる)


「……やだ。思い出したくない」


それでも、記憶は勝手に蘭を引きずり始める。



【ありがとうを強制された日々】


蘭の母は教育熱心だった。

良い学校、良い習慣、良い躾──すべてを子どもに求めた。


「蘭、ありがとうは?人に何かしてもらったら必ずお礼を言いなさい」


「…………」


「なんで言わないの?言えるよね?」


「っ……」


幼い蘭は、言葉が出なかった。

理由は分からない。ただ喉が震えて、声が掠れて、何度も何度も“言おうとしても言えない”瞬間が続いた。


「また言えないの?!蘭!どうして?!恥ずかしいよ!」


母の声は怒りというより焦燥。

そして、期待を裏切られた痛みに満ちていた。


蘭は、泣きながら口を開けるだけ。


「……ごめんな、さい……」


「謝ればいいって問題じゃないでしょ!!」


床に響く母のヒールの音。

母の息が荒くなる。


「蘭、言ってよ。ありがとうって言ってよ。どうして産んだ子にこんな苦労させられるの」


その言葉は幼い心に深すぎる傷を残した。


(私が悪いんだ。私はダメな子なんだ。感謝もできない嫌な子なんだ)


蘭はそれ以降、“ありがとう”を言おうとすると震えるようになった。



ある日の夜。

母は食卓で蘭に向かって穏やかに聞いた。


「今日、先生に褒められたんでしょ? なんでありがとうって言わなかったの?」


「……こえ、が……」


「声が出ないのは理由にならないでしょ!!」


突然机が叩かれ、皿が震える。


母は泣きそうな顔で叫んだ。


「蘭、お願いだから……私を困らせないで……」


その言葉の後の沈黙が一番怖かった。


(また怒らせちゃった……私が悪いんだ……)


そうして蘭の“ありがとう”は完全に封じられた。



翌日、海斗は蘭と顔を合わせた。

彼女は普段通りに振る舞っている。

けれど、飲み会の時の表情が忘れられなかった。


海斗は思う。


(あの反応は……普通じゃなかった)


拒絶ではない。

嫌悪でもない。

もっと深くて、もっと痛そうな“恐怖”のような表情。


(聞いていいのかな……でも……)


海斗はずっと気になっていた。



数日後、仕事が終わった夕方。

蘭がコピー機の前で作業していると、静かに声がした。


「蘭さん、少し……お話いいですか?」


「え……海斗くん?」


「はい。あの……聞きたいことがあって」


蘭は胸がざわついた。


「この前の飲み会の時……蘭さん、すごくつらそうに見えたんです。嫌だったり、怖かったり……そんな表情でした」


「っ……」


蘭は視線を落とす。


「もし、言いたくなかったら言わなくて大丈夫です。でも……僕は、心配だったんです」


優しい声だった。

押し付けない。

でも、放っておけないという気持ちが滲んでいる。


蘭の心が大きく揺れた。


「……海斗くんには……関係ないよ……」


「関係あります。あなたが苦しそうなのに、何も気にしない人間にはなりたくない」


その言葉は、胸の奥の痛みに触れた。


「蘭さん……“ありがとう”を言うのが……怖いんですか?」


世界が一瞬、止まった。


蘭の心臓は激しく脈打ち、呼吸が乱れる。


「ち、違う……そんなんじゃ……」


「じゃあ……なんで泣きそうな顔したんですか?」


「……言えない……言えないの……言おうとすると、苦しくなる……」


蘭の声は震え、涙が落ちる。


「……言えないの……小さい頃から……言おうとするたびに怒られて……怖くて……今でも……言うのが……」


言葉が途切れた瞬間、海斗は一歩近づき、静かに言った。


「蘭さん」


優しく、でもまっすぐに──


「あなたのせいじゃないですよ」


たった一言で、蘭の膝が折れた。


ずっと言われたかった言葉だった。



「……私は……ダメな人間だから……」


「違います」


海斗の否定は早かった。


「幼い蘭さんが傷ついたから、今のあなたが言えなくなってるだけです」


蘭は泣きながら、首を振った。


「でも……言えないと……変って思われるし……社会人なのに……」


「変じゃないです。誰でもトラウマはあるし、言えない日もある」


海斗は続けた。


「僕はね……蘭さんが無理に言う“ありがとう”は、別に聞きたくありません。

自然に笑ったり、時々困った顔をしたり──

そういうあなたがいるだけで十分なんです」


蘭の目から涙が溢れた。


「……どうして……そこまで……」


「あなたが……大切だから」


心臓が跳ねた。

でも、それは恋のときめきよりももっと深い救いのように響いた。



外は夕暮れで、オレンジ色の光が差し込んでいた。


海斗は微笑む。


「言えなくてもいいですよ。でも……もし少しでも言いたいと思ったら、僕に向けてじゃなくていい。

空にでも、机にでも、心にでも」


蘭は胸に手を置いた。

鼓動が震えている。


(怖い……でも、言いたい、今なら……言えるかもしれない)


蘭は唇を震わせながら、海斗を見上げた。


「……かい、とくん」


「はい」


「……あの……ずっと……聞いてくれて……私の話、ちゃんと……受け止めてくれて……」


涙がぽろぽろ溢れた。


そして──


「……ありが、とう……」


喉が痛くて、胸が焼けるようだった。

でも、声は確かに出た。


海斗は穏やかに微笑んだ。


「どういたしまして」


その瞬間、蘭の中で固まっていた長い長い冬が、初めて溶けた気がした。



その日から、蘭は少しずつ変わった。

“ありがとう”をまだ自然に言えない。

言おうとすると苦しい日もある。


けれど──


海斗はいつも側で、急かさず、責めず、ただ見守ってくれている。


「今日も頑張ってましたね、蘭さん」


「……うん。

 海斗くんも、お疲れさま」


「はは、ありがとうございます」


彼が自分に“ありがとう”と言うたび、胸が温かくなる。


(いつか……自然に言える日が来たらいいな)


そんな、未来に少し希望を持てる自分になっていた。

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