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鏡面のナルキッソス

作者: 狼二世
掲載日:2025/10/14

 その女は、幸せだった。

 理由は、実に単純だ。


 恋い焦がれる相手が、常に傍にいるからだ。


 場所は関係ない。

 家でも、仕事場でも、その煌めく蜂蜜色の髪は女の傍らになった。

 時間も関係ない。

 寝床から起き上がり、一日を終えて静かに眠る時まで、サファイアのような蒼い瞳は女の傍らにあった。


 ある時は、ガラス戸の中に――

 ある時は、静かな水面に――

 ある時は、鏡の中に――


 蜂蜜色の細やかな髪に、サファイアのような輝きをたたえる瞳――女と瓜二つの姿があった。

 そう――女は、鏡面にうつる自分自身に恋をしていた。


「ねえ……私のことを愛していますか?」


 水仙模様の手鏡に映る、自分自身に問いかける。

 問いかけた先に答えはなく、ただ言葉は跳ね返るだけ。


 それでも、女は愛することを止めなかった。


◇◇◇


 はじまりは、たいしたことではない。


 幼い日、水たまりに浮かぶ少女を見た。

 じっと、自分を見つめる瞳に、幾重にも重なる自分が映る。


「あなた、きれい……」


 うっとりする声で、呪いの言葉を吐いた。


 その日から、彼女の心は自分自身に囚われた。


「貴女に相応しい自分にならないと」


 届かない恋人に褒められるために、容姿を磨く。

 その度に、鏡の中の恋人は美しくなる。

 蛇のように、呪いが女を縛っていく。


「ごめんなさい、好きな人が居るの」


 そう言って、何度も他人からの好意を断った。

 その度に、女は心の内で謝罪をする。


「私が好きなのは、貴女だけなのだから」


 呪いは、幾重にも重なっていく。湿った雪のように降り積もるソレは、いつしか女の世界を白く塗りつぶしていた。

 虚空の先には何もなく、覆い尽くす呪いはドレスのように女を包む。

 けれど、凍えず立ち続ける。内にのみ向かう呪い≪あい≫は、尚も女を突き動かす。


◇◇◇


 ある人は言った。


「好きな人は居ないのかい?」


 好きな人は居る、とだけ答えた。



 ある人は言った。


「美しいアナタが独り身で居るのはおかしい」


 あの人も独りなのよ、と答えた。



 ある人は言った。


「何故、アナタは私を愛さない? 私は貴方を愛している」


 ごめんなさい。打ちひしがれる男を残して、女は去った。




 ある人は言った。


「アナタは愛されている――けれど、アナタの愛は私たちに向けられているの?」


 どう答えていいか、分からなかった。



 隣人を愛することを美徳とするなら、己のみを愛する女は罪人であろう。

 応えることのない蜃気楼に恋い焦がれるのは、道ならぬ恋であろう。


「ええ、そうでしょう」


 頭の中に浮かんだ言葉に、諦観を込めて答える。


 その愛は、呪いだ。

 降り積もる呪いは罪であり、それを重ねながら女は歩いていく。

 恋人として愛する人は居なかった。

 いつか、家族も友人も諦めて、彼女が独り身で在ることに何も言わなくなった。


「蜂蜜色の髪に、サファイアの瞳。貴方はどうしてそう魅力的なの?」


 何度目かも分からない、愛の言葉を紡ぐ。


「触れようとしても冷たい鏡面の感触だけ。自分の髪を触っても、貴方の髪は触れない」


 手に伝わるのは氷のような感触だけ。


「でも、愛することはいいでしょう?」


 それでも、女は自分を愛し続けた。


 女は愛を知っている。愛することを知っている。けれど、その愛は、けっして届かない存在にのみ向けられている。

 そうであっても、女は孤独ではなかった。

 恋い焦がれるような愛はないかもしれない。けれど、共に生きる存在に向ける愛は在る。


 隣人の隣に立ち、共に楽しい時を過ごした。


「ありがとう、助かったわ」


 隣人に優しくした。弱っている人に寄り添った。

 独り身でこそあったが、女は人を拒むことはなかった。


 隣人の不幸に、涙を流した。


「アナタ……私のために泣いてくれるの?」


 それは、愛ではないかもしれない。けれど、女の世界は閉じていなかった。


「だって、私が愛する貴女は、孤独な人間を愛さないでしょう?」


 その問いに答えは返ってこない。音は虚空に消えていくだけだ。

 けれど、問いに込めた想いはいつまでも消えなかった。


 たとえこの愛の形が間違っていようとも、そこに込められた感情だけは間違っていない。


「だって、私はこんなに幸せですもの」


 水たまりに浮かぶ恋い焦がれる人を見た時から、世界は鮮やかな色彩に包まれている。とっても素敵で――とっても優しくて――そして、けっして届かない貴女がこの世界に居る。

 貴女がこの世界に居ると言うのなら、それだけで私は幸福だから。



 貴女を想い、着飾る日々は楽しかった。

 貴女を想い、一喜一憂する日々は楽しかった。

 貴女を想い、この道が間違いではないかと自問した日も楽しかった。


「愛に形はないのでしょう」


 水仙の手鏡にうつった恋人に問いかける。

 鏡面にうつる姿には、もう若々しさはない。頬には皺が重なり、蜂蜜色の髪は色あせている。

 幼い日から、数十年が過ぎた。けれど、女が向ける愛は変わらなかった。


 誰かを、好きになった。

 誰かを、好きでいられた。

 たとえそれが自分自身でも、誰かを愛せた。


「ふふ、今日はお食事に誘われているの。一緒に、楽しみましょう」


 鏡面に阻まれて手が届かなくても。

 心は触れることが出来るのだから。


◇◇◇


今際の際、女は自分の気持ちを白状した。


――隣人を愛することが美徳であるのならば、私は不徳な人間でしょう。

――私が愛したのは、結局自分自身だけ。貴方たちは、愛していない。

――私が愛したのは、私が愛する自分自身を賞賛する、貴方たちの声だけです。


けれど、彼女の友人たちは言った。

たとえ自分を愛していなくても、貴方を愛せたことが幸福であると。


最後の時、女は笑っていた。


その女は、幸せであった。


読んでいただき、ありがとうございます。

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