鏡面のナルキッソス
その女は、幸せだった。
理由は、実に単純だ。
恋い焦がれる相手が、常に傍にいるからだ。
場所は関係ない。
家でも、仕事場でも、その煌めく蜂蜜色の髪は女の傍らになった。
時間も関係ない。
寝床から起き上がり、一日を終えて静かに眠る時まで、サファイアのような蒼い瞳は女の傍らにあった。
ある時は、ガラス戸の中に――
ある時は、静かな水面に――
ある時は、鏡の中に――
蜂蜜色の細やかな髪に、サファイアのような輝きをたたえる瞳――女と瓜二つの姿があった。
そう――女は、鏡面にうつる自分自身に恋をしていた。
「ねえ……私のことを愛していますか?」
水仙模様の手鏡に映る、自分自身に問いかける。
問いかけた先に答えはなく、ただ言葉は跳ね返るだけ。
それでも、女は愛することを止めなかった。
◇◇◇
はじまりは、たいしたことではない。
幼い日、水たまりに浮かぶ少女を見た。
じっと、自分を見つめる瞳に、幾重にも重なる自分が映る。
「あなた、きれい……」
うっとりする声で、呪いの言葉を吐いた。
その日から、彼女の心は自分自身に囚われた。
「貴女に相応しい自分にならないと」
届かない恋人に褒められるために、容姿を磨く。
その度に、鏡の中の恋人は美しくなる。
蛇のように、呪いが女を縛っていく。
「ごめんなさい、好きな人が居るの」
そう言って、何度も他人からの好意を断った。
その度に、女は心の内で謝罪をする。
「私が好きなのは、貴女だけなのだから」
呪いは、幾重にも重なっていく。湿った雪のように降り積もるソレは、いつしか女の世界を白く塗りつぶしていた。
虚空の先には何もなく、覆い尽くす呪いはドレスのように女を包む。
けれど、凍えず立ち続ける。内にのみ向かう呪い≪あい≫は、尚も女を突き動かす。
◇◇◇
ある人は言った。
「好きな人は居ないのかい?」
好きな人は居る、とだけ答えた。
ある人は言った。
「美しいアナタが独り身で居るのはおかしい」
あの人も独りなのよ、と答えた。
ある人は言った。
「何故、アナタは私を愛さない? 私は貴方を愛している」
ごめんなさい。打ちひしがれる男を残して、女は去った。
ある人は言った。
「アナタは愛されている――けれど、アナタの愛は私たちに向けられているの?」
どう答えていいか、分からなかった。
隣人を愛することを美徳とするなら、己のみを愛する女は罪人であろう。
応えることのない蜃気楼に恋い焦がれるのは、道ならぬ恋であろう。
「ええ、そうでしょう」
頭の中に浮かんだ言葉に、諦観を込めて答える。
その愛は、呪いだ。
降り積もる呪いは罪であり、それを重ねながら女は歩いていく。
恋人として愛する人は居なかった。
いつか、家族も友人も諦めて、彼女が独り身で在ることに何も言わなくなった。
「蜂蜜色の髪に、サファイアの瞳。貴方はどうしてそう魅力的なの?」
何度目かも分からない、愛の言葉を紡ぐ。
「触れようとしても冷たい鏡面の感触だけ。自分の髪を触っても、貴方の髪は触れない」
手に伝わるのは氷のような感触だけ。
「でも、愛することはいいでしょう?」
それでも、女は自分を愛し続けた。
女は愛を知っている。愛することを知っている。けれど、その愛は、けっして届かない存在にのみ向けられている。
そうであっても、女は孤独ではなかった。
恋い焦がれるような愛はないかもしれない。けれど、共に生きる存在に向ける愛は在る。
隣人の隣に立ち、共に楽しい時を過ごした。
「ありがとう、助かったわ」
隣人に優しくした。弱っている人に寄り添った。
独り身でこそあったが、女は人を拒むことはなかった。
隣人の不幸に、涙を流した。
「アナタ……私のために泣いてくれるの?」
それは、愛ではないかもしれない。けれど、女の世界は閉じていなかった。
「だって、私が愛する貴女は、孤独な人間を愛さないでしょう?」
その問いに答えは返ってこない。音は虚空に消えていくだけだ。
けれど、問いに込めた想いはいつまでも消えなかった。
たとえこの愛の形が間違っていようとも、そこに込められた感情だけは間違っていない。
「だって、私はこんなに幸せですもの」
水たまりに浮かぶ恋い焦がれる人を見た時から、世界は鮮やかな色彩に包まれている。とっても素敵で――とっても優しくて――そして、けっして届かない貴女がこの世界に居る。
貴女がこの世界に居ると言うのなら、それだけで私は幸福だから。
貴女を想い、着飾る日々は楽しかった。
貴女を想い、一喜一憂する日々は楽しかった。
貴女を想い、この道が間違いではないかと自問した日も楽しかった。
「愛に形はないのでしょう」
水仙の手鏡にうつった恋人に問いかける。
鏡面にうつる姿には、もう若々しさはない。頬には皺が重なり、蜂蜜色の髪は色あせている。
幼い日から、数十年が過ぎた。けれど、女が向ける愛は変わらなかった。
誰かを、好きになった。
誰かを、好きでいられた。
たとえそれが自分自身でも、誰かを愛せた。
「ふふ、今日はお食事に誘われているの。一緒に、楽しみましょう」
鏡面に阻まれて手が届かなくても。
心は触れることが出来るのだから。
◇◇◇
今際の際、女は自分の気持ちを白状した。
――隣人を愛することが美徳であるのならば、私は不徳な人間でしょう。
――私が愛したのは、結局自分自身だけ。貴方たちは、愛していない。
――私が愛したのは、私が愛する自分自身を賞賛する、貴方たちの声だけです。
けれど、彼女の友人たちは言った。
たとえ自分を愛していなくても、貴方を愛せたことが幸福であると。
最後の時、女は笑っていた。
その女は、幸せであった。
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