2.母のお叱りと突然の訪問
「お母様、ティアナです」
すっかり泣き顔になってしまったカーラは母に心配させるといけないからと遠慮して、私は一人で母の部屋をノックした。
「………」
返事がない。まさか、と思って慌てて扉を開くと
「許可していないのに勝手に入室するとは、不躾な子ね。いい歳して情けない」
ベッドの上でクッションに背を預けて、随分としかめ面の母がこちらを見ていた。
「申し訳、ございません…」
こんな歳になっても母に叱られると緊張してしまう。咄嗟に“お母様が倒れているのではと心配になったの“と、子どもみたいに言い訳したくなった。
でもそんな事を言ったら余計に叱られそうなのでもちろん言わない。こんな姿息子に見せられないわと思いながら、おずおずと母の近くに歩を進める。
「本当に帰ってきたのね、あなた」
「…はい。お母様の期待を裏切る様な結果となってしまい、申し訳ございません」
母がしかめ面な理由はただ一つ、私が彼と離縁してのこのこ帰ってきたからだ。母だけは最後の最後まで反対していたし、家の敷居を跨がせないとまで言われていた。カーラとマルクが間に入って渋々というか、この通り今も納得はしていないが、とりあえず帰って来れた。
「この家はもう、マルクとカーラの家です。お前の居場所はもうないと言ったはずでしょう?」
「承知しております。いつかはこの家を出て、修道女になろうと思っております」
「いつかって、私が死んだらという事かしら?誰もあなたに看取れと頼んでないわ」
母の言い分は当たり前に正しい。簡単な話、いつまで経っても彼に相手にされないから不貞腐れて帰ってきたといっても過言ではないからだ。
でも残りの人生をこんな不遇な気持ちのまま終える事よりも、周りに出戻り女と揶揄される方がよっぽどましだった。母には悪いが、こうやって私を叱る事で発散してもらえばいい。
「お父様とお母様がどんな思いで私を送り出して下さったのか、子を持つ事が出来た私にもよく分かります。お叱りの言葉も全て受け止めます。
…ただ、どうか今はお母様の側にいさせて」
「………」
母は静かに私を見つめていた。私も真っ直ぐ見つめ返す。しばし見つめ合って、母は大きくため息をついた。
「あなたは本当にあの人にそっくりね。その頑固な所。一度決めたら曲げないんだから」
それに振り回される周りの迷惑も考えて欲しい、などぶつぶつ文句を言いながら、母は横のチェストに手を伸ばす。
「お母様、お水ですか?」
「…そうよ」
私はチェストの上にあった水差しからコップに水を注いで母に渡す。
「ありがとう」
「………」
そのコップを受け取った母の手が細く、骨張っている事に気付いて咄嗟に切なくなる。それに顔の白さが増して頬もこけている。カーラが言っていた様に随分食べられていないらしい。
「お母様、何か食べたい物はありますか?」
底知れない悲しさを悟られない様、質問を投げかける。
「最近食欲がないの。
…そうね、強いて言うならネクタリンが食べたいわ」
私は母の言葉を聞いて言葉に詰まる。ネクタリンはリディア領の名産品だ。瑞々しく甘い果物で、確かに母は気に入っていたのでよくこの家に送っていた。
「どこぞの誰かさんのせいでもう食べられないのかしら」
「…お母様」
思わず目を細めてしまった。
「何ですかその目は。いい歳した娘がのこのこ出戻ってきたのですよ。悲しいやら情けないやら…文句の一つでも言いたくなります」
いけない、母には言わせるだけ言わせてあげる事にしていたんだった。私はネクタリンの件については曖昧に濁すと、母をベッドに寝かせた。
「ティアナ」
「はい」
退室しようとした瞬間母に呼び止められる。
母はまたじっと私を見つめ何度目かのため息を吐いた。
「もう帰ってきてしまったのだからしょうがない。私も腹を括ります。
その代わり、カーラがやっていた事は全部あなたがして頂戴。あの子私以上に意気消沈しているみたいで見てられないの。どうか休ませてあげて」
「もちろんです。お母様、ありがとうございます」
「…何の感謝ですか。相変わらずおかしな子ね。たくさん話して疲れました。少し寝かせて」
母が薄く笑った気がして心が和らぐ。私はそっと扉を閉めて退室した。
それから1ヶ月。母の身の回りの世話や色々な事に追われ、思っていたよりも目まぐるしく毎日が過ぎていった。何十年間とリディア領で過ごしていた自分が既に懐かしく感じ始めている。
息子とお嫁さんから手紙が一通届いた。休みが取れたら遊びに行くという内容と、愛孫のかわいい成長日記。さすがに胸に詰まるものがあった。それでも自分で選んだ道だ。快く送り出してくれたあの子達に感謝だ。もう彼らの人生なんだから、私は見守るだけでいい。
ちなみに彼からの連絡は特にない。あんな事務的な終わり方だったし当たり前なのだが、私は本当に愛されていなかったのだなと再認識した。ただ、思っていたよりもライトに受け入れる事が出来ている。それくらい毎日が忙しくて、充実しているからだと思う。
「ティアナ伯母さま!」
「あら、マリー。お帰りなさい」
弟夫婦の次女マリーが学園から帰ってきた。
「今日はもうお祖母様のお世話はよろしいのですか?」
「ええ、母が眠ってしまったから。私の部屋にいらっしゃい。この間の続き、教えてあげるわ」
「嬉しい!着替えてきます!」
そう言ってマリーは嬉しそうに自室へ向かう。マリーは前々から私に懐いてくれていたが、今回の帰省で余計に甘えてくれる様になった。
カーラとマルクの子どもは3人。長男は首都の学院に通っており、長女も一年前に結婚して二人とも家を出ている。
それぞれ年は離れているが仲の良い兄妹で、まだどこにも行けない14歳のマリーは寂しかった様だ。
私の部屋で言葉遣いやおもてなしの仕方、作法など女性として必要なマナーを教えてあげている。
私は出戻りなんだからそんな教えられる様な立場じゃないと最初は断った。しかし、私の立ち居振る舞いをずっと尊敬していたとマリーに言われ、更に本来教えるはずのカーラまで私にお願いしたいと懇願するものだから断れなかった。
更にマリーの友人達も参加したいとたまにお茶会を開き、まるでマナー講師の様な事までしている。
そんな感じで日々が目まぐるしく過ぎていた。
「伯母様、これでいいのかしら」
「そう。後は茶葉を蒸らすために、3分くらい待つの」
今日はお茶の淹れ方を教えてあげている。私達の様な立場の者は普通は使用人にやってもらうため、特に覚えなくても良い。しかし私の母はそれを良しとせず、お茶すら淹れられない木偶の坊になるなと淹れ方を教えてくれた。
だから私もマリーに伝える。娘がいたら、こんな感じなのかしらと思いながら。
「あら、美味しいじゃない。よく出来ているわよ、マリー」
「…そうでしょうか。何だか伯母様のお紅茶よりも香りが薄い気がします」
「注ぐお湯の勢いが足りなかったのかもしれないわね。一気に注いで、すぐに蒸らしに入る事がコツよ」
「分かりました!…ん?」
「どうしたの?」
突然、マリーが窓の外を見て何かに気付いた。私の部屋は正面に面しているため、誰かが来た時などすぐに把握できる。気になる訪問者でもいたのだろうか。
「あれって…クリス伯父様?」
「…〜〜っ!!」
私は思わず紅茶を吹き出しそうになり慌ててナフキンで口元を拭う。今、何と言った?クリス?なぜ?
そんな筈ない。そんな訳がない。そう思いながら慌てて外を確かめると、見覚えのある馬車から降りてくる一人の男性の姿が目に入った。
「クリス…!?」
色々な感情がぐちゃくちゃになってせめぎ合う。ドッドッドッと今まで感じた事のない激しい動悸に思わず胸を抑えた。
私は慌ててエントランスの方へと向かう。一体どうしたのだろう。リディア領で何かあったのだろうか。様々な考えが巡る。そしてジルに帽子と外套を預ける1ヶ月ぶりの彼の姿を見た瞬間、胸が苦しくなった。
(驚き?怒り?それとも…)
「ティアナ」
彼が私に気付いて、私の名を呼ぶ。ドクン、と胸を打った。
(…ああ嫌だ。どうして)
「お久しぶりです。クリス」
一瞬よぎった気持ちをかき消して、まずは挨拶をする。それに早足で来てしまった自分を誤魔化したかった。
「驚きました。なぜこちらに?」
「聞いていないのか。義母上から手紙を貰い、こちらに来る様にと仰せつかった」
「母が!?」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて口を塞ぐ。
ジルがはしたないですよ、とでも言いたげな目でこちらを見ている。
「なぜ教えてくれなかったんだ。義母上がお倒れになっている事を」
「まあ、ティアナ様!ベラ様のご容体の事をクリス様におっしゃっていなかったのですか!?」
今度はジルが慌てて口を塞ぐ。口を挟まざるを得なかったのだろう。
「…あなたはお忙しい方だし、もう関係のなくなる話だと思ったから言う必要はないだろうと判断しました」
「シアンと口裏を合わせてまで?」
「…はい」
半分本当で、半分嘘。言った所でいつもの通り“そうか“で終わりそうな気がして怖くて言えなかっただけ。シアンにも絶対に言わないでくれと頼んだ事までばれている。
「…全く関係がなくなる訳ではないだろ。義母上が手紙を寄越してくれて良かった」
そう、彼はこう見えて義理堅い人なのだ。…私以外には。
「義母上に挨拶したい」
「でも今は眠っていて」
「僭越ながらティアナ様。ベラ様は先程起きられた様です」
平常心を取り戻したジルがすっと教えてくれる。後でこっぴどく叱られそうだ。
「分かったわ。私が案内します。こちらへどうぞ」
1ヶ月ぶり、いや、もっと久方ぶりに彼と並んで歩く。
彼は背が高くて私の頭は彼の胸の辺り。彼から懐かしい匂いがして、一気にリディア領で過ごした日々が蘇った。
「ライアンは上手くやれていますか」
「ああ。最初は本当に務まるのかと思ったが、こうして私が屋敷を離れられるくらいには成長した」
「そうですか」
父に認められる様あんなに頑張っていたんだもの。良かった、と胸を撫で下ろす。
「…君は…元気そうで、良かった」
「…え?は、はい。お陰様で充実した日々を過ごしております」
一瞬、本当に彼から出た言葉だろうかと疑ってしまった。まさか私を気にかけるなんて。そんな彼をちらりと盗み見る。何だか少し痩せた気がした。
「ここです。お母様、クリスが来てくれました。入室してもよろしいでしょうか」
いつもの様に返事はすぐに返ってこない。
「ごめんなさいね、母の返事を待つまで入室できないの」
「構わない。ほぼ寝たきりの状態だと書いてあった。起き上がるまでに時間がかかるのだろう」
ああ、そうか、と腑に落ちた。母は私と話す時必ず起き上がっている。別に私は寝たきりでも構わないのに、昔から気品を重んじる母のプライドだったのだろう。だから初日にあんなに叱られたのかと彼に言われてやっと気付いた。
(私は母の言う様に本当に不躾な女だわ。彼は昔からそういう事に気付く人だったのよね…)
そんな事を考えていたら母から返事が聞こえ、私達は入室した。
「クリス、お久しぶりね」
「お久しぶりでございます。義母上」
「この度はごめんなさいね。私の娘が我が儘を言って」
「そんな事はありません。私が不甲斐ないばかりにこの様な事になってしまい、大変申し訳ございませんでした」
そう言って彼が深々と頭を下げる。何だか気まずくて、私は彼の後ろで俯いていた。
「…不甲斐ない、ですか。あなたがここに来たという事は、それなりの覚悟を持って来たという事ですね?」
「…はい」
彼がそう返事をして母の方へ近づく。そしてあっと思った時には、母が手元に持っていた水を彼の顔に目掛けて力強くかけた。
「きゃあっ!?お、お母様!?」
「ティアナ、部屋から出なさい。私はこの男に話があるのです」
物凄い気迫に動けなくなる。彼も驚く事なく怒る事もなく、かかった水をしたたらせたまま、母の言葉を待っている。
私は衝撃から立ち直れず一人おろおろしていると母から再び退室を強く促され、後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。凄まじい剣幕だった。そして彼もそうされる事を分かっている様だった。何も理解できていないのは私だけ。
私は震える手を抑えながら、彼が出てきたら何か拭く物を渡そうとジルを探した。