表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/69

幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(9)

 其 九


 頭を下げ、言葉を丁重にして、頼めるだけ頼み尽くしたが、にべもなく冷たくあしらわれ断られてしまった今、もう物言う余地もないのを、水野は一体どうするのか。

 水でもって解けないものは火でもって溶かすことである。刀で切り難いものは(つち)でもって砕くことである。求めるものを手に入れるまでは諦めないという気持ちがあれば、自ずと働く智恵の(まなこ)。自分が望む地に至ろうとするためには、平和(おだやか)(みち)を選んでいても無駄である。そう悟った今、どうして望む地に通じるもう一つの別の嶮しい一筋の(こみち)を見いだせないことがあろうか。水野は今その険しい路を見いだして、()じ登ろうとする。火の力、槌の力を試みようとするのである。

 その顔付きが変わると同時に、言葉の調子も急に変わり、声も遠慮のない大きなものになった。

「確かに先生は御来臨(おいで)下さらないと(おっしゃ)るのですか。イヤ、それは失礼ながらそうではございますまい。お取り次ぎのお言葉が足らんので、先生に御理解(おわかり)がないのでしょう。遠方だから行ってやらないと、そんなことを(おっしゃ)る先生ではない。そんな無慈悲な先生ではない。……」

 と、今までは頭の低かった男が居丈高になって、思いの外の強言(しいごと)を言い出せば、書生はその意外なのに度を失って、狼狽(うろた)えながらもムッとして、急に(さえぎ)り止めようと、

「バ、バ、馬鹿なことを」

 と、真っ赤になって、(あらが)おうとするが、眼光鋭い(ひらめ)くような水野の恐ろしい眼に眼を合わせれば、睨み殺さんとばかりに自分を見据えたその(あや)しい力に、いわれもなく気圧(けお)され、言い甲斐もなく、対面(むかい)難く感じて、思わず顔を背向(そむ)けて、言葉を呑んだ。

 水野は相手がたじろいだところに(ゆる)みを入れず、往来にも鳴り渡り、奥にも響けとばかり、ますます声を高め、言葉を荒くして、

「こちらの先生は情け深い先生だ。取り次ぎの君がまだ新米で、こちらの習わしを知らんので、中途で間違った忠義立てを計って、そんな好い加減なことをお言いなのだ。お慈悲深いこちらの先生だもの、遠方だって来て下さるのだ。世間にありふれた薬売りの坊主と、こちらの先生とは訳が違う。商売づくだけで病人をいじる、そんな卑劣(けち)くさい先生ではないのだ。先生のご性分の美しくてお慈悲深いのは誰でも知っている。他人(ひと)も知っている、自分も知っている。先生でなくちゃぁならんと言って、お願い申すのに来て下さらん、そんな情けのない先生ではない。先生のご気性も知らないで、何を寝惚(ねとぼ)けた返事をするのだ」

 と、口も開かせず畳み掛けて、なおも止めどなく罵ろうとする。この時、薬局の内でことことと音がして、物騒がしいこの様子を、何事かと他の書生が(うかが)いに来たようで、また、その間に来ていた二、三人の薬取りは、こそこそと隅の方に潜んで、成り行きを見、早くも門の外にはちらりほらりと、人さえ立ち始めている様子であった。

 書生は気が気ではなく、

「マア、そんな大きな声を立てては困るじゃないか」

 と、制するけれども、それを耳に入れれば余計に、

「つまり、君のような取り次ぎをしては先生の利益(ため)にはならん。先生の評判を悪くする。技術(わざ)だけが良い先生ではない。お優しいので人徳のある先生をそれじゃあ台無しにしてしまうではないか。さっさとも一度奥へ行って頼んで来てくれ。頼み直してくれなければここは動かん。病人が先生でなければと、首を伸ばして待っているのだ。先生のお供をして帰らなけりゃぁここは動かん。書生の癖にあるまじきことだ。碁などに凝っているようだから取り次ぎが間違うのだ。さあ、確乎(しっかり)として、先生に頼んでみてくれ。うるさい、しつこい、とはどう言うことだ。しつこい人間に恨まれたら、先生に飛んだご迷惑が掛かろう。先生の足を引っ張りかねないではないか」

 と、次第々々に声高に言えば、門の外には人がますます集まって、奥の方は人の気配もせず、静謐(しずか)になった。

 この時、此室(ここ)と奥との仕切りがするりと()いて、現れたの若いこの家の主人は、福々しく肥ったその顔に、莞爾(にこやか)()みをつくって、

「ヤ、取り次ぎの者をお叱りでは恐れ入る。直ぐに今から出ますから、さあ一ト足お先へ。相田(あいだ)! 場所は分かっているだろうな、ムム、そうか、直ぐに車の支度をさせろ」

 と、そのまま水野に満足を与えた。

 水野は、己の欲望に打ち克ち、碁を中途で()めて出て来た良医の前に、心からの感謝の礼を深々と施して、(よろこ)び勇んで室外(おもて)に出た。

 悪い兆候かと忌まわしく思えた例の蛾が(もてあそ)んでいた電燈の下を去れば、(あい)(いろ)(したた)るような澄んだ(そら)に、星は梨子地(なしじ)を描いたように光り輝くのを、振り仰いで眺めた純真な水野は、自分の意中のその人のために、思うことを遂げた嬉しさに、自分でも『よくやった』という思いであった。そして、水色に光る特に目立った一つの星に眼を(とど)めて、少時(しばらく)は自分にしか分からない胸の涼しさを味わっていた。


つづく

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ