幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(9)
其 九
頭を下げ、言葉を丁重にして、頼めるだけ頼み尽くしたが、にべもなく冷たくあしらわれ断られてしまった今、もう物言う余地もないのを、水野は一体どうするのか。
水でもって解けないものは火でもって溶かすことである。刀で切り難いものは槌でもって砕くことである。求めるものを手に入れるまでは諦めないという気持ちがあれば、自ずと働く智恵の眼。自分が望む地に至ろうとするためには、平和な路を選んでいても無駄である。そう悟った今、どうして望む地に通じるもう一つの別の嶮しい一筋の径を見いだせないことがあろうか。水野は今その険しい路を見いだして、攀じ登ろうとする。火の力、槌の力を試みようとするのである。
その顔付きが変わると同時に、言葉の調子も急に変わり、声も遠慮のない大きなものになった。
「確かに先生は御来臨下さらないと仰るのですか。イヤ、それは失礼ながらそうではございますまい。お取り次ぎのお言葉が足らんので、先生に御理解がないのでしょう。遠方だから行ってやらないと、そんなことを仰る先生ではない。そんな無慈悲な先生ではない。……」
と、今までは頭の低かった男が居丈高になって、思いの外の強言を言い出せば、書生はその意外なのに度を失って、狼狽えながらもムッとして、急に遮り止めようと、
「バ、バ、馬鹿なことを」
と、真っ赤になって、抗おうとするが、眼光鋭い閃くような水野の恐ろしい眼に眼を合わせれば、睨み殺さんとばかりに自分を見据えたその異しい力に、いわれもなく気圧され、言い甲斐もなく、対面難く感じて、思わず顔を背向けて、言葉を呑んだ。
水野は相手がたじろいだところに緩みを入れず、往来にも鳴り渡り、奥にも響けとばかり、ますます声を高め、言葉を荒くして、
「こちらの先生は情け深い先生だ。取り次ぎの君がまだ新米で、こちらの習わしを知らんので、中途で間違った忠義立てを計って、そんな好い加減なことをお言いなのだ。お慈悲深いこちらの先生だもの、遠方だって来て下さるのだ。世間にありふれた薬売りの坊主と、こちらの先生とは訳が違う。商売づくだけで病人をいじる、そんな卑劣くさい先生ではないのだ。先生のご性分の美しくてお慈悲深いのは誰でも知っている。他人も知っている、自分も知っている。先生でなくちゃぁならんと言って、お願い申すのに来て下さらん、そんな情けのない先生ではない。先生のご気性も知らないで、何を寝惚けた返事をするのだ」
と、口も開かせず畳み掛けて、なおも止めどなく罵ろうとする。この時、薬局の内でことことと音がして、物騒がしいこの様子を、何事かと他の書生が覗いに来たようで、また、その間に来ていた二、三人の薬取りは、こそこそと隅の方に潜んで、成り行きを見、早くも門の外にはちらりほらりと、人さえ立ち始めている様子であった。
書生は気が気ではなく、
「マア、そんな大きな声を立てては困るじゃないか」
と、制するけれども、それを耳に入れれば余計に、
「つまり、君のような取り次ぎをしては先生の利益にはならん。先生の評判を悪くする。技術だけが良い先生ではない。お優しいので人徳のある先生をそれじゃあ台無しにしてしまうではないか。さっさとも一度奥へ行って頼んで来てくれ。頼み直してくれなければここは動かん。病人が先生でなければと、首を伸ばして待っているのだ。先生のお供をして帰らなけりゃぁここは動かん。書生の癖にあるまじきことだ。碁などに凝っているようだから取り次ぎが間違うのだ。さあ、確乎として、先生に頼んでみてくれ。うるさい、しつこい、とはどう言うことだ。しつこい人間に恨まれたら、先生に飛んだご迷惑が掛かろう。先生の足を引っ張りかねないではないか」
と、次第々々に声高に言えば、門の外には人がますます集まって、奥の方は人の気配もせず、静謐になった。
この時、此室と奥との仕切りがするりと開いて、現れたの若いこの家の主人は、福々しく肥ったその顔に、莞爾な笑みをつくって、
「ヤ、取り次ぎの者をお叱りでは恐れ入る。直ぐに今から出ますから、さあ一ト足お先へ。相田! 場所は分かっているだろうな、ムム、そうか、直ぐに車の支度をさせろ」
と、そのまま水野に満足を与えた。
水野は、己の欲望に打ち克ち、碁を中途で止めて出て来た良医の前に、心からの感謝の礼を深々と施して、欣び勇んで室外に出た。
悪い兆候かと忌まわしく思えた例の蛾が弄んでいた電燈の下を去れば、藍色が滴るような澄んだ天に、星は梨子地を描いたように光り輝くのを、振り仰いで眺めた純真な水野は、自分の意中のその人のために、思うことを遂げた嬉しさに、自分でも『よくやった』という思いであった。そして、水色に光る特に目立った一つの星に眼を止めて、少時は自分にしか分からない胸の涼しさを味わっていた。
つづく