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幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(8)

 其 八


 人は各々(おのおの)、自分の娯楽(たのしみ)は大切にするものである。中でも碁好きは(ひじり)に近く()に近く、かりそめの与奪(やりとり)の白黒の石に気を(つか)い、心を苦しめて、一切を忘れ果て、一寸の暇を(ぬす)んで始めた争戦(あらそい)にも、思わず半日尻を腐らせても悔やまないのが常である。であれば、ほとんど一日の(せわ)しない業務(つとめ)を終えた末、心蘇生(よみが)える晩餐の小酌の後に、憎くも可愛くもあるその碁敵を得て、罪のない楽しみを覚える一手々々の、興の極めて(さかん)なところへ、馴染みもない病家の、しかも(なみ)外れて遠い所から、夜になって呼び迎えようとするのは、人の往き来もなく、蜘蛛の巣の張った薬局とか、客に飢えきった雇い医者等ならいざ知らず、いやしくも名が通ったほどの人なら応じないのは、思えば無理もないことだと、鈍くはない水野は早くも分かっていた。しかし、粘り強い性格で、なおも思いを棄てず、何か考えついたのか、今度は気軽く、

「ヤ、たびたびご面倒を願いまして、有り難うございました」

 と、言いながら多少銭(いくらか)を手早く白紙包(かみづつみ)にして、

「煙草でもお持ちすべき所ですが」

 と、言葉を飾って取り繕い、流石(さすが)に手を出して取りにくそうにしているのを無理矢理握らせれば、まさか投げ返すこともせず、

「どうもお気の毒で」

 と、自分の師が迎えに応じないのが気の毒なやら、銭を使わせたのが気の毒なやら、どちらつかない返事をして、うじうじと受け取った。

 印を結び、(じゅ)(じゅ)することは今時(いまどき)流行(はや)らないが、世にはただ銭術というものがあって、それが神に通じるくらいの効果があることを知っている水野は、書生が自分の人情銭(こころづけ)を収めたのを見て、

「どうでございましょう、病人が思い込んでいるのでございますから、一度だけでも診ていただく訳には参りませんか。こちらの先生のことでございますから、沢山のご病家のご都合もあって、お暇の少ないのは承知しておりますので、ずっと来ていただきたいとは申しません。たった一度お出でくださるだけなら、それほどお暇の取れない話でもありますまい。一度でもご診察下さって、そしてお指揮(さしず)をしていただいたら、後は村医者にでも間に合おうかと存じます。病人も信じていない村医者だけでは、本当に傍観(わきめ)にも案じられまして、治るものも治らないのではと心配いたします。貴君(あなた)にはご無理を申して済みませんが、折り入って一つこの訳を仰って、も一度どうかお願いなすってみてはいただけないでしょうか」

 と、泣かんばかりに掻き口説けば、書生の面には難色が見えたが、既に『毒』を盛られているので争いがたく、無下に邪険には(しりぞ)けかねて、

「では、ずっと病人を診て欲しいというのではなくって、診断だけでも()いからと言うのじゃネ」

「ハイ、それで満足だと申しておるのでございますから、どうかお聞き入れ下さるようにお願いしていただいて」

 と、一問一答がようやく終わった後、渋々弱ったという顔をしながら奥へ行った。

 水野は病める我が五十子が物憂げに、この広い世の中、ただ一人の誠意ある介抱者をも持たず、頼りない村医者の怪しい薬だけを力としながら、心淋しくも秋の夜の悲しい田舎家(いなかや)一室(ひとま)(うち)に横たわっている光景を胸の中に描きながら、今度の返事はどうだろうと、聞く耳をそばだてていれば、

「うるさい! しつこい!」

 と、叱る声に次いで、囲碁に負けかかったのに怒りを込めたのか、パチリと強く石を(くだ)す音がして、やがて書生は膨れかえって出て来た。

 返事は聞かなくても既に知れている。しかし、この状況においても水野は屈せず、書生が何を言うか分からないけれど、どうやって自分の(おもい)を遂げようかと考え沈んだ。と、何をか思いついたのか、頭を上げたが、その(おもて)何時(いつ)か少し色差して、その眼からは今まで(ひそ)んでいた鋭さを含んだ光りが(ひらめ)き出て、見る見るどんな任務(つとめ)にも堪えるべく、如何(いか)なる人とでも争っても勝つという烈しい気性を現し出した。

 折から、一つの例の小さい蛾は、力尽き、翼傷ついたのか、ひらひらと、落花が枝を離れたようにして、哀れにも水野の膝の前に墜ちた。


つづく

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