幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(7)
其 七
「応」と答えて出て来たのは、盤面のような四角い顔で、鼻の下に薄髭がしょぼしょぼと煙のように生えた、二十七、八のもったいぶった男である。水野が紺飛白の単衣に、着皺も見える薄羽織という身の周りを見て、突っ立ったまま尊大に、
「もう診察の時間は済んだが」
と言いかけたが、またその顔色が好くないのを見て、
「お前さんかネ」
と僅かに愛想を示した。
水野は丁寧に会釈して、
「イヤ、私ではございません。お書き留め置き下すったということですが、昨日使いを遣って願いました四木村の平井という者の所に身を寄せている病人で、岩崎五十というものをご来診願いたいのでやって参りました」
と言えば、
「アア、その四ツ木とかいう所は、非常に遠いところじゃそうだナ。知らんものだから仕方がない、小梅か請地の近傍かと思って、ムムよし、頼んでおいてやると僕が請け合ったが、後で先生に酷く叱られた! 重病人や長患いをしている人を沢山抱えられておられるから、なかなかそんな遠いところへ御往診にはなりかねるということだ。どうか他家へ行って頼んでみてくれ」
と、本当に酷く叱られたようで、その時の不平が今の顔に膨れだして、追っ払ってしまうつもりの物言いは仁慈もない。
『二三度四五度呼びに遣りける』という前句に『引く息の絶ゆるに医者の驚かず』と付けたのを西鶴が撰んだその昔から、世に勢威のある医者を、富も無く、名も無い身分の低いものが、地面に伏せたような小さな家に招き入れようとするくらい、思うようにならず口惜しいものはない。相良の書生の冷ややかな言葉も、今更珍しいことでもないこの世の中であれば、腹は立てなくても、差し当たっては恨めしく悲しく、水野は、
「そう仰ってはどうしていいのやら途方に暮れます。実は昨日から、今御来臨か、今御来臨かとお待ち申しておりましたような訳でございますから、……」
と言いかけるのを、書生は面倒だと言わんばかりに、
「だから、うっかり請け合った件は僕が謝罪る。しかし、先生はお忙しくって、御往診になられんというのだから仕方ないじゃないか」
と後を言わせないように圧し被せて言う。それをこっちは押し返して、
「ではございましょうが、そこを何卒、もう一度お願い下すってみていただきたいのです。先生より他の方にお願いしようという気はなくって、こうしてわざわざ四ツ木から、お願いに出たのでございますから」
と、低い声に顫動さえ帯びて、思い入って頭を下げて、しみじみと頼み込んだ。見ればその顔は深く深く憂愁の陰雲に生気を鎖されて、不安に潤んだ眼の中には、限りない悲痛の色を浮かべていた。その至誠に動かされて、争いかねた書生はやむなく立ち上がって、
「それじゃあ、まあ、伺ってみてあげるから、そこへ上がって待っていなさい」
と、なおも水野を田舎漢扱いにして奥へ行った。
ちょうど人が途絶えた夜食の頃、人もいない玄関にただ一人、することもなく坐っていると、自分の影が古畳に浸みて、偶然見れば、低く吊り下げられた電燈の笠裏に、弱々とした白い蛾の、蝶というほどもないくらい小さいのが、やがて力尽き果てた身をも忘れて、飛んでは止まり、止まっては飛び狂っていた。
待つこと少時、間の仕切りの唐紙をがらりと開けて、書生が復び入ってきた。
「どうも他の病家の都合もあって出られないと仰る。気の毒だけれども他へ行ってください」
言葉が柔しくなっただけに、拒絶の意はいよいよ堅い。と言って、病める五十子がかねてから信じて、苦悶の床の上での独り言で、頼みたいと言ったのは、ただこの家の主人であるのに、何処かに行ってどうして他人を頼めよう。水野はほとほと行き詰まって、言葉も無く、首を垂れたが、はたたきを止めないあの白い蛾が、電燈の周りを飛び廻るその陰翳が眼の前にちらちらと落ちれば、ああ、自分も取りかねる燈の近傍を、なお去らない虫と同じで、愚かの上にも愚かだと思うれども、甲斐もなく飛び直し飛び直しするように、言葉を換えて頼んでみようと、その場を立とうともしないでいるその時、奥の方から『パチッ』という石子の響き、確かに人が碁を打っていると思われる音が幽かにこちらに聞こえた。
つづく