幸田露伴「天うつ浪」(前篇)現代語勝手訳(5)
其 五
老父の談話を聞いてみりゃぁ水野は実に憫然だ。もちろん、その老父の言ったことが一から十まで真実とも限るまいが、他人の評判と言い、老父の言葉と言い、おおよそは違っていることはあるまい。そもそもは今年の春の初め、水野の勤めている学校の女教師が一人故郷へ帰ったので欠員が出来た。その補欠として新たに来たのが、まだ教員になりたての、歳の若い岩崎五十子という女だった。老父も度々見て知ってるそうだが、極可愛らしい惚れ惚れするというような顔立ちではないけれど、眼の清しい鼻の高い端然とした女で、まあ当世の下司根性から言えば、あれだけの容貌を持っていながら、何だって教師になんかになっているのだろう、と陰口も言われかねないくらいの女ぶりだそうさ。しかも容貌の佳い奴は十人が八人まで、とかく他人に甘ったれるような調子があって、学問などは得てして出来ないが、なかなかその女は能く出来る上、それこそ日方の言い草じゃないが、いつでも現状に満足せず、止まることなく進んでいくのを理想としているようで、感心にも本人は自分自身のためにも勉強しているそうだ。してみりゃぁ容貌も佳いし、心がけも可いし、別に難はない女なんだ。そういう女が現れたので、学校の内でも外でも珍しがって、あれこれ評判が立っていたが、その中に水野が迷い出した。どういう機会から水野の心がその女に傾いたかは解らないが、乃公が思うにゃぁ特別なことはない。浄瑠璃の文句にある通り、琥珀が塵を吸い寄せ、磁石が針を引き寄せるのと同じで、眼に見えてどこがどうと言うことはないが、ただ訳もなく引き寄せられて、心がそこへ行くのが恋の習いだ。こりゃ俗物でも仙人のような者でも同じこと。いくら水野が俊才だって、生血を包んだ五尺の身体を抱えているのだもの、無理はない。やっぱり年齢が年齢だから迷ったんだろう。しかし、相手も商売人じゃなし、水野も独身でいなけりゃぁならんというのではないから、それほど深く思い込んだものなら、縁をまとめりゃぁそれで可いのだが、さあ、水野の不幸せというのはそこのことで、俗に言う虫が嫌うと言うものなのか、その女が水野の真心を受け入れないので、それで水野は懊悩しているというのだ。もっとも水野があからさまにその女に何事かを言ったのでもあるまいから、その女も水野にあからさまに何事を言ったのでもないだろうが、これは一日の長で、老いた山路の老父が水野の様子を見て察しての話だ。さて、それにしたところで、それ限りのことなら、藻屑が燃えるようにぷすりぷすりと、水野がものを思っているだけで済むのだが、ここに五十子の親でお関という、可憎な強欲な悪婆がいる。もちろん、生みの母ではなくって、五十子とは別々に住んでいるほどで、気性も合わなければ仲も悪いのだが、時々五十子の所へやって来ては無理を言ってなけなしの金を絞って行く。そいつが水野の腹を見て取って、その初心なところに付け込んで、色々、様々なことを言い散らしちゃぁ、つまり幾らかずつ巻き上げるそうだ。金は些少のことだから問題はないが、金を取ろうとするためにその婆めが、好い加減なことを言って煽り立てて燃え立たせる。ところが一方じゃぁまた、肝心の人にはよそよそしく、冷淡に待遇われる。火に遭い、水に遭うのだから敵わない。水野の心は今は一時でも静穏ではいられない訳だ。そこで、今までの生活とは打って変わって、家に居る時は鬱々として、ただ沈みきってものも言わず、机に向かっても書は読まずに、長太息を吐く時ばかりが多く、朝は気持ちよく起きる日もなく、夜も寝苦しく過ごすそうだ。これは乃公が老父から聞いた話なのだが、もちろん山路の老父としては乃公に意見してやってくれと言うのだった。しかし、乃公は乃公の考えがあり、水野のためにはいくらでも尽力したいとは思っているが、意見をして利益になりそうな筋ではないと、見切ってついにそのままに過ごしてきたのだ」
辛うじてここまで堪えてきた日方は再び叫び出した。
「何故意見をしても利益にならん? 意見をしないでどうするんだ? どうやって水野のために尽力す?」
「乃公ぁ出来ることなら水野の思いが通るようにしてやろうと思っているのだ」
「何だと、馬鹿野郎ッ! 馬鹿げた話だ! そんな下らんことがあるものか。貴様はまったく腐敗している!」
「また馬鹿呼ばわりをするナ! 貴様こそ馬鹿だ。意見して役に立つくらいなら乃公がするわ。人には銘々考えがある。乃公は乃公、貴様は貴様で可いじゃねぇか。意見がしたけりゃぁ貴様がしろ」
「もちろんだ。諫めてやらないでどうする。女が美くっても悪くっても、何だ! 女が! いやしくも男子たるものがたかが一婦人に、志を喪うとは何たるこった。実に怪しからん、歯がゆい奴だ。是非とも訪ねて行って大いに諫める」
二人の問答が一旦ここで終わった時、山瀬が爽やかに口を開いた。
「僕は他人の意志感情の自由を尊重するから、立ち入っては敢えてとやかくは言わない。しかし、これは水野君のために不利益と思うから、一応は忠告を試みるつもりだ」
皆は語るが、羽勝一人は語らず。ただ僅かにホッと息をつけば、手にした
巻煙草の灰の長いのが、ぽたりと膝の上に落ちて脆く散った。
夜の色は外に沈んで、澄み渡る天にかかった星斗は鮮やかに輝き、明日は風が強くなるのか、その大いなる星々は、いずれも煌々と瞬いて、光りの尖は揺らぎに揺らいでいた。
つづく